11月29日説教「神を礼拝する旅人アブラハム」

2020年11月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記11章1~9節

    ヘブライ人への手紙11章13~16節

説教題:「神を礼拝する旅人アブラハム」

 アブラハムは、旧約聖書においても新約聖書においても、すべて信じる人の信仰の父と呼ばれています(創世記17章4~6節、ローマの信徒への手紙4章参照)。アブラハムはわたしたち信仰者の信仰による父であり、信仰の模範であり、信仰の原型です。創世記12~23章に描かれているアブラハムの信仰の歩み、人生の歩みは、そのすべてが信仰とは何かをわたしたちに教え、わたしたちが信仰をもって生きるとはどういうことなのかを示しています。

 彼は「あなたは故郷を出て、父の家を離れ、わたしが示す地へと旅立ちなさい」との神のみ言葉を聞いた時、まだその地がどこであるのか、その地での生活がどうなるのかを全く知らされてはいませんでしたが、神がすべてを導き、備えてくださることを信じて、行先を知らずして、ただ信仰だけによって、いでたちました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブライ人への手紙11章1節に書かれているとおりです。

それは、信仰を持たない人にとっては、無謀な冒険とか将来設計のない行き当たりばったりの生き方と思われるかもしれません。しかし、アブラハムにとってはそうではありませんでした。彼の信仰の歩み、彼の人生の旅路を満たしてくださるのは神だからです。「生まれ故郷と父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」とお命じになる神の命令には、約束が伴っているからです。

【1~3節】を読んでみましょう。神がアブラハムを選び、彼に特別な約束をお与えになること、これを契約と言います。創世記12章と同じような内容の約束が15章、17章にも繰り返し語られます。これを神がアブラハムと結んでくださった契約、「アブラハム契約」と呼びます。すでに創世記9章で神がノアと結んでくださって契約を「ノア契約」と呼ぶことを確認してきました。旧約聖書の中には、このほかにも神が指導者モーセによってイスラエルの民と結ばれた「シナイ契約」や「ダビデ契約」、預言者エレミヤの「新しい契約」などがあります。神はご自身が選ばれた人、選ばれた民とこれらの契約を結ばれ、その契約を継続されて、救いのみわざをなし続けられました。たとえ、契約の相手が不忠実であっても、それを忘れるようなことがあっても、神は絶えずその契約を覚え、その契約を実行されました。そして、旧約聖書のそれらのすべての契約は、新約聖書に至って、主イエス・キリストによって完全に、そして最終的に成就されたのです。

では、ここで語られている「アブラハム契約」、神がアブラハムに与えられた約束の内容を整理してみましょう。第一には、神が示し、神が導かれる地のことです。ここではまだその内容は確かではありませんが、7節に「あなたの子孫にこの地を与える」と語られています。アブラハムが神の約束の地カナンに導かれる、そしてその地が彼の子孫に与えられるという約束です。神の約束の地についてはあとでまた触れます。

第二は、神がアブラハムを大いなる国民とするという約束です。大いなる国民とは、大きな民、大きな国とするということです。15章5節では、天の星のように数えることができないほどに多くの子孫がアブラハムから出ると言われています。この神の約束が、アブラハムと妻サラにとっていかに実現困難な約束であるかということを、【11章30節】のみ言葉があらかじめ暗示しており、しかしまた神の偉大な奇跡によってその約束が実現へと向かうようになるということを、わたしたちは創世記21章以下から知らされます。アブラハムがこの約束を聞いたのは75歳の時でした。しかし、彼が百歳になるまで、彼には一人の子どももいませんでした。そのような時に、「あなたの子孫は星の数ほどになる」と言われた神のみ言葉を、アブラハムは信じたのでした。これがアブラハムの信仰です。

第三は、アブラハムを祝福するという約束です。「祝福する」という言葉は、旧約聖書では、新約聖書でもそうですが、非常に重要な意味を持っています。「祝福」という言葉が2節、3節で5回も用いられています。祝福するのはもちろん神です。神から与えられる祝福のことです。それは、人間が地上で得られる祝福とか幸いとは全く質が違った祝福であり、天からくる祝福です。詩編では、「いかに幸いなことか、主の教を愛する人は」(詩編1編1~3節)と歌われています。主イエスは「山上の説教」、の中で、「心の貧しい人々は、幸いである。天国はその人たちのものである」と教えられました。天から与えられる神の祝福は、祝福がないところに、いや、むしろ禍や苦難や試練のあるところにも、天からの祝福を与え、天からの幸いを創り出していくような祝福なのです。

祝福の具体的な内容は、旧約聖書においては、長寿やたくさんの子ども子孫、また財産が与えられること、そして何よりも神を信じ、神に喜んで従っていく信仰が与えられること、信仰による救いの恵み、平安です。イスラエルの社会では、その家の長男が特別な神の祝福を受け継ぐと考えられていました。それを長子の特権と言います。新約聖書では、主イエスの説教から教えられているように、天国、神の国の約束が与えられていることこそが最も大きな神の祝福です。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって罪ゆるされ、神の子どもたち、神の家族とされ、神の国の民として招かれている幸い、神の国で朽ちることのない永遠の命の約束を与えられている幸い、これこそが最も大きな神の祝福です。

アブラハム契約の4つ目の内容は、アブラハムの名を高めるという約束です。名を高めるとは、名誉が増し加わるとか有名になる、偉い人間になるというような意味を持ちますが、ここでは神がお与えくださる名誉のことで、彼の名が全世界に広まり、全世界の人々が彼を信仰の父として尊敬するようになるということを含んでいます。事実、アブラハムはユダヤ教でもキリスト教でも、すべて信じる人の信仰の父としてその名が高められています。彼の名が高められるとは、結局は彼が信じている神のみ名が崇められることに他なりません。

第5は、アブラハムに与えられた祝福が彼を基にして地上のすべての人々に広められていくという約束です。アブラハムと同じ信仰に生きる、彼ののちの時代のすべての信仰者にも彼と同じ神の祝福が約束されています。アブラハムの祝福は彼の子イサクへと、さらにイサクの子ヤコブへと、そしてヤコブがイスラエルと名を変えて、イスラエルの12人の子どもたちへ、その長男のユダへと受け継がれていきました。そしてついに、ユダの部族のダビデの子孫としてお生まれになったヨセフの子イエスへと神の祝福は受け継がれ、この主イエスによって、彼を救い主と信じるすべてのキリスト者へと受け継がれていくのです。そのようにして、アブラハムに与えられた神の契約、すなわちアブラハム契約は主イ

エス・キリストによって完全に成就されました。

4節に、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と書かれています。アブラハムがこの神の契約に生きるためになすべきことは、何よりもまず第一に、神の約束のみ言葉を聞いて、それを信じ、それに従うことです。彼にどんな能力あるかとか知恵や力があるかというようなことは、全く問題ではありません。神のみ言葉を聞き、信じ、従うこと、ただ信仰のみ、ただ信仰一筋、その人にアブラハムと同じ神の祝福が与えられます。

次に【5~9節】。1節で神が示す地と言われていたのがカナンであったということがここになって初めて明かされます。カナンとは今のパレスチナ地方のことです。ここが神の約束の地でした。でも、アブラハムはまだこの地の一角をも所有してはいませんし、彼の子イサク、その子ヤコブもこの地を所有してはいませんでした。彼らはこの地では他国の人、寄留者、旅人でした。イスラエルが実際にカナンの地に定着したのは、エジプトで400年余りを過ごし、その後エジプトを脱出してからのことで、紀元前13世紀ころになってからです。

「あなたの子孫にこの土地を与える」との神の約束は、実に600年以上もの年月を経てから、実現されることになりました。それほどの長い年月を、イスラエルの民はエジプトで寄留生活している期間にも決して神との契約を忘れなかったのでした。いや、そう言うべきか、それとも、神がそれほどの長い期間にもご自身が与えた契約をお忘れにならなかったと言うべきか、いずれにせよ、それは実に驚くべきことです。神の約束、神の契約は、アブラハムの生涯と死を超えて、幾世代にもわたる彼の子孫の歴史を超えて、実現されたのです。アブラハムはその神の約束を信じました。

では、なぜ神はアブラハムをこのカナンの地へと導かれたのでしょうか。7節の後半に「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」と書かれてあり、また8節にも「そこに主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」とあります。彼がこの地への導かれたのは、主なる神を礼拝するためでした。彼が生まれ故郷を出て、父母の家に別れを告げて、行先を知らずして旅立ったのは、主なる神を礼拝するためだったのだということがここで明らかにされます。信仰の父アブラハムの信仰の旅路は神礼拝の旅路だったのでした。まだその地を所有しておらず、その地では旅人であり、寄留の他国人ではあったけれど、彼の信仰の歩みは常に神と共にあり、彼がどこにいても、彼は神を礼拝する旅人であったのです。というよりは、アブラハムが故郷カルデアのウルにいた時に彼と共におられた神はハランに移った時にも彼と共におられ、彼にみ言葉をお語りになり、今カナンの地に着き、中部のシケムからさらに南部のベテルへと移動した時にもそこにも主なる神が彼と共におられ、彼がどこにいてもいつも主なる神が彼と共におられ、彼の歩みを導いておられたのだと言うべきでしょう。神を礼拝する旅人アブラハムには常に主なる神が共におられ、彼の歩みのすべてを導いておられたのです。それゆえに、神の祝福も彼を離れませんでした。

アブラハムから600年ほどあとのイスラエルの出エジプトを思い起こしてみましょう。400年以上の寄留の地から脱出したイスラエルの民が、荒れ野を40年間旅をしてカナンの地へと導きいれられたのは何のためだったでしょうか。それは、彼らが神を礼拝し、神のみ言葉に聞き従い、神の民として生き、神の証し人として、神の救いを全世界に告げ知らせるためだったのでした。わたしたちが教会に招かれ、神と出会い、主イエス・キリストの福音を聞き、それを信じたのもまた神を礼拝する者となるためでした。わたしたちは主イエス・キリストの救いを信じつつ、来るべき神の国を待ち望みつつ、神を礼拝し、地上の信仰の旅路を続けるのです。そして、そのような私たちの信仰の歩みに、神の祝福が与えられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ。救い主をこの世界にお迎えするご降誕の日を待ち望む待降節に入りました。主よ、どうぞ、悩めるこの世界においでください。病んでいるこの世界を速やかにお救いください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、苦難や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月22日説教「ペンテコステのペトロの説教」

2020年11月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヨエル書2章1~11節

    使徒言行録2章14~21節

説教題:「ペンテコステのペトロの説教」

 使徒言行録2章14節から、ペンテコステ(聖霊降臨日)のペトロの説教が始まります。この説教は、11節に書かれていた「神の偉大な業」の具体的な展開の一つと考えてよいと思います。聖霊を注がれた弟子たちは、多くの国の言葉で神の偉大なみわざについて、すなわち主イエス・キリストの救いのみわざについて語り、エルサレムに集まっていたディアスポラ(離散のユダヤ人)は自分の生まれ故郷の国の言葉でそれを聞き、理解したという、いわゆる「多国語奇跡」が起こりました。聖霊なる神がガリラヤ出身の無学な弟子たちに、彼らがこれまで学んだことなく、語ったこともなかった新しい言葉をお授けになったのです。彼らはこれまでは主イエスがお語りになる神の国の福音の説教を聞く者たちでした。主イエスの奇跡のみわざを目撃し、十字架の死と復活の証人となりました。今からは、聖霊を受けた彼らは、新しい言葉を授けられ、神の偉大なみわざを語る者たちへと変えられていくのです。

 12弟子のリーダーであったペトロも、今、聖霊なる神によって新しい言葉を授けられ、神の偉大なみわざ、すなわち主イエス・キリストの十字架と復活の福音を語る宣教者、説教者に変えられたました。福音書の中には、ペトロが説教をした記録はありません。12弟子たちは主イエスによって神の国の福音宣教のために町々村々に派遣されたということは書かれていますので、彼らが説教をしていたことは確かですが、その内容については全く書かれていませんでした。使徒言行録のこの個所がペトロの説教の最初の記録です。彼の説教はこのあと3章12節以下と10章34節以下に、合計3回記録されています。これらのペトロの説教は、時間的に言えば、聖書の中に記録されている最も早い時代の説教です。パウルの宣教活動は紀元40年代の終わり、パウロの手紙が書かれたのは紀元50年代ですが、ペトロの説教はそれより20年も前、紀元30年代初め、主イエスの十字架と復活があった年のペンテコステに最初に誕生した教会、初代教会とか古代教会とか呼ばれますが、その生まれたばかりの教会での説教であり、初代教会がどのような説教をしたのか、どのように宣教活動と教会形成をしていったのかの貴重な記録でもあります。

 では、【14~16節】を読みましょう。聖霊を注がれて多くの国の言葉で語りだした弟子たちの様子を見ていたエルサレムの人々が、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざ笑っていたことが13節に書かれていましたが、ペトロは真っ先にその誤りを訂正します。朝9時は、敬虔なユダヤ人にとっては祈りの時でした。また、朝の祈り前には食事をしないのが習わしでしたので、この時間帯に酒に酔うことはあり得ないとペトロは言います。聖霊なる神が弟子たちを普通の人たちとは違った異常とも見える行動、不思議な言葉を語る行動へと駆り立てているのです。そして、今ここで起こっていることは旧約聖書の預言者ヨエルが預言していたことにほかならないと、ペトロは説教を続けます。

 17~21節はヨエル書3章1~5節のみ言葉です。ヨエル書は全4章全体が、キリスト教教理で言う終末論を取り扱っています。終わりの日の神の最後の裁きと救いの完成について預言されています。ペトロが引用している箇所では、前半の17~18節で、終わりの日にすべての人に聖霊が注がれ、すべての人が預言をするようになることが語られ、後半では終末の時に起こるであろう宇宙的規模での異常現象と救いの完成について預言されています。

 前半のみ言葉を読んでみましょう。【17~18節】。ここには、神の霊を注がれ、神の霊によって預言し、神の霊によって生きる新しい神の民の誕生について預言されています。その新しい神の民が今このペンテコステの日に、聖霊を注がれた主イエスの弟子たちと共に誕生したのだとペトロは語るのです。古い神の民イスラエルは一つの民族のよって形成されていましたが、今新しく誕生した神の民は、血筋によってではなく、聖霊によって一つに結ばれた民です。全世界に広がっています。神の霊・聖霊は民族の違いや男女の違い、社会的地位や貧富の違い、奴隷か自由人かの違いをも超えて、すべての人に注がれるからです。そして、神の霊を注がれた新しい神の民は、律法を守り行うことによって生きるのではなく、神の霊・聖霊によって生きるのであり、主イエス・キリストによって成就された救いを信じ、また語ることによって生きるのです。

 「預言する」とは、未来のことを予知して語るという意味ではなく、神がお語りくださるみ言葉を聞き、それを預かり、人々に宣べ伝えることを言います。古い神の民であったイスラエルでは、預言者と言われた一部の特別な賜物を授かった人たちだけが預言の務めを担っていましたが、神の霊を注がれた新しい神の民は、すべての人がその預言の務めを果たすのです。息子も娘も、男も女も、若者も老人も、奴隷も自由人も、すべての人が聖霊を注がれ、神のみ言葉の奉仕者とされるのです。16世紀の宗教改革者たちはこれを「万人祭司」と名づけました。

 「幻を見る」「夢を見る」とは、神がお示しくださった事柄、それを啓示と言いますが、それを信仰の目をもって見るということです。人間の肉の目が見ている現実や世界ではなく、そこに隠されている神のみ心を信仰の目をもって見る時、そこに現実を超えた、あるいは現実を変革していく希望と力が与えられるのです。聖霊なる神がお与えくださる幻や夢は困難な現実の壁を打ち破り、暗黒の世界に光を照らします。

 18節に、「わたしの僕やはしためにも」と書かれていますが、ヨエル書3章2節では、「その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」となっていて、ペトロの引用と少し違っていることが分かります。ヨエル書の預言は、奴隷である人にも女奴隷である人にも神の霊が注がれるという内容ですが、ペトロの説教では、奴隷と女奴隷はもとの所有者から解放されて、すでに神の僕(しもべ)、神の所有となっています。神の霊が注がれる時、それまで地上でその人を縛りつけていた鎖がすべて解き放たれて、彼を自由にし、すべての奴隷状態から彼を解放するということがここには暗示されているように思います。神の霊を注がれた人は神のもの、神の所有となり、他のすべての支配から解放されるということです。だれかがわたしの主人であるのではなく、この世の何かがわたしを支配するのでもない、また罪がわたしを支配するのでもない、聖霊はそれらすべてからわたしを解放し、わたしが真の自由と喜びとをもって、わたしの新しい主となられた神のために仕えるようにするのです。

 後半の【19~21節】を読みましょう。ここに描かれている全宇宙的な異常現象は一般に「メシアの陣痛」と言われています。終末の時、メシア・救い主、主キリストが再臨される直前には、地上には世界規模の恐るべき戦争や流血があり、天体はその光を失って天から落ち、この世界にあるすべてのものが消え去っていく。そのような大きな動揺と痛みの後でメシアが再臨され、神の最後の裁きが行われる。そして新しい神の国が完成する。旧約聖書の中にはそのような終末論がたびたび描かれています。主イエスはマタイ福音書24章29節以下でこのように説教されました。【29~31節】(48ページ)。

 終末の時のメシアの陣痛で強調されている二つの点をまとめてみましょう。一つは、終末の時、終わりの日には、神の恐るべき最後の審判が全地、全宇宙に対して、またすべての人に対して行われる。だれも、その神の裁きから逃れることができる人はいない。この世にあるすべてのものは神の裁きによって崩れ去り、滅びいくということ。もう一つには、その時に主キリストが再臨され、全世界から神の民を呼び集め、新しい神の国を完成されるということです。ペンテコステの日のペトロの説教では、そのメシアの陣痛の時、神の国の完成の時が、今弟子たちに聖霊が注がれ、神の大いなる救いのみわざである主イエス・キリストの十字架と復活の福音が語られるこの時に、成就したと語っているのです。

 最後に、【21節】。神の恐るべき最後の審判には、だれ一人として耐えうる者はいない、みな滅びなければならない。しかし、「主の名を呼び求める者は皆、救われるのだと約束されています。「主の名を呼び求める」とは、主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主を信じ、告白し、わたしの人生の歩みのすべてを主イエス・キリストを信じる信仰によって生きることです。主イエス・キリストがわたしのためにすべての救いのみわざをなしてくださった、主イエス・キリストによってわたしは罪から救われ、神の国の民とされ、朽ちることのない永遠の命を約束されている、そのことを信じ、告白して生きることです。

 「主の名を呼び求める者」はクリスチャンと並んで初代教会でキリスト者を指す名称となりました。使徒言行録9章14節、21節にこのように書かれています。【14節、21節】(230ページ)。また、クリスチャン(キリスト者)と言われたことについては11章26節に書かれています。【26節b】(236ぺーじ)。キリスト者とは主キリストに属する者、主キリストの所有となった者という意味です。

 「主の名を呼び求める者は皆、救われる」、このみ言葉は、宗教改革者たちが強調した「主キリストのみ、神の恵みのみ、信仰のみ」を言い表していると言えます。わたしの救いのすべては主イエス・キリストのみにかかっている。それ以外の何かは全く必要ない。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じることによって、神の側からの一方的な恵みによって、わたしには何の功績もなく、神に喜ばれるものが何一つなく、いやむしろ、神の裁きを受けて滅びなければならない罪びとであるにもかかわらず、神がこのわたしを愛してくださり、わたしの救いのためにみ子を十字架に差し出してくださった、その一方的な恵みによってわたしを救ってくださった。そのことをわたしは信仰をもって受け入れ、感謝と喜びとをもって神に恵みに応答して生きる。これがわたしの信仰生活です。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神様、滅びにしか値しないわたしを、み子の十字架の尊い血によって贖い、救ってくださった大きな恵みを感謝いたします。どうか、わたしがこの生涯の終わりまで、あなたの恵みに感謝して、喜んであなたにお仕えすることができますようにお導きください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、苦難や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月15日説教「清くなれと命じられた主イエス」

2020年11月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:レビ記14章1~9節

    ルカによる福音書5章12~16節

説教題:「清くなれと命じられた主イエス」

 1996年(平成8年)4月に「らい予防法」が廃止されました。この法律は1953年(昭和28年)8月に公布され、ハンセン病患者を社会から隔離して伝染を防ぎ、治療するという主旨で制定されましたが、その後特効薬プロミンが発見され、ハンセン病は不治の病ではなくなり、伝染力も極めて低いということが分かり、この法律の主旨そのものが意味を失ったのですが、それでもなお日本政府はその後も数十年にわたって、この法律によってハンセン病患者を社会から隔離し、またこの病気に対する社会的偏見を助長させてきたとして、元患者たちが国を相手に損害賠償訴訟を起こし、政府はこの法律による国の政策が間違っていたことを正式に認めて元患者たちに謝罪をしたというニュースをわたしたちは記憶しています。

 そのような事情から、今日、いわゆる「らい病」という言葉は社会的偏見と差別を生み出してきたという反省から、キリスト教会でも、旧約聖書と新約聖書の翻訳では、いわゆる「らい病」という言葉は「重い皮膚病」に読み替えられました。しかし、単に言葉を読みかえれば、それで彼ら元患者たちの苦痛がなくなるわけではなく、失われた人権が回復されるのでもありませんが、わたしたちはこれを契機にして、ハンセン病に対して正しい認識を持つとともに、かつて教会もまた国や社会と一体となって偏見や差別に加担していたという歴史を反省しなければなりません。

 わたくしは沖縄伝道所牧師であったころに、沖縄中部の屋我地という島にある「沖縄愛楽園」という施設を何度か訪問した経験がありますが、そこを訪れるたびごとに、ハンセン病患者たちが長い間にわたって受けてきた偏見や差別、人権侵害がいかに大きな苦痛を彼らに与えてきたかを教えられ、また自らの中にもある偏見や差別に気づかされました。わたしたちはきょう与えられたルカ福音書5章12節以下のみ言葉から、主イエスの福音の光の中でこの問題を捕え、ハンセン病に対する正しい理解を深めるとともに、主イエスの救いの豊かさをここから読み取っていきたいと思います。

【12節】。聖書で重い皮膚病と訳されている言葉は(ギリシャ語ではレプラ)は今日のハンセン病だけでなく、もっと広い範囲の皮膚病全般を指していたのではないかと考えられています。この病気は治療法がなく、またよく効く薬もなく、患部が全身に広がっていくのを待つほかになく、難病として非常に恐れられていました。特に、イスラエルではこの病気には宗教的な意味がありました。レビ記13、14章に重い皮膚病に関する細かな規定が記されています。それによれば、その皮膚病が単なる腫物なのか、やけどの傷跡か、それとも重い皮膚病かを判断するのは祭司の務めであり、祭司によって重い皮膚病と判断されれば、その人は宗教的に汚れた人とされ、町の外で、住民から離れて住まなければならないと定められていました。もちろん、神殿や会堂で神を礼拝する群れからも遠ざけられました。もし、健康な人がその人の体に触れれば、その人もまた一定期間宗教的に汚れた状態になるので、だれかが間違って触らないように、重い皮膚病の人は自ら「汚れた者、汚れた者」と叫んで注意を促すことが義務づけられました。重い皮膚病がいやされることは、死んだ人が生き返るよりも困難な奇跡だと考えられていました。

しかし、決して不治の病であるとも考えられてはいませんでした。レビ記14章では、重い皮膚病がいやされ、清められた時のことが定められています。その人は祭司に体を見せ、清められたことが証明されれば、神への感謝のささげものをし、社会復帰することができました。レビ記に書かれている重い皮膚病に関する規定は、その病の人を永久に社会や礼拝共同体から締め出し、社会から隔離することを目指しているのではなく、やがて神の大いなる奇跡によっていやされ、清められ、そして神に感謝のささげものをして、真実の礼拝者となることを最終的には目指していたのだということが分かります。そして、まさに今こそ、主イエスによってその道が開かれ、旧約聖書のみ言葉が成就されることになるのです。

「この人はイエスを見て」と書かれています。全身重い皮膚病にかかったこの人は主イエスを見、主イエスと出会う機会を与えられています。彼は社会生活礼拝共同体から引き離され、人権や宗教の自由も奪われ、大きな苦痛と孤独を味わってきました。でも、たとえそれらすべての権利が奪われているとしても、彼は主イエスのお姿を見、主イエスとの出会いをする権利、そして主イエスのみ前にひれ伏し、いやしを願う権利は、奪われてはいませんでした。彼は自分に残された最後の、わずかな権利、機会を、しかし最も大きな権利、機会を用いたのです。

レビ記の規定によれば、彼は人前に出る際には、「わたしは汚れた者」を叫んで、人が近寄らないようにしなければいけなかったのですが、彼はその規定を守らず、主イエスに近づいています。彼をそうさせたのは何でしょうか。普通の通りすがりの人ならば、彼はそうしたでしょう。けれども、主イエスを見た時に彼はそうしませんでした。おそらく、彼はその時に直感したのでしょう。この方は自分をいやすことができる特別な人であるのだということを。ほかのだれもが彼を避けて、彼に軽蔑の目を向けるしかないのに、主イエスはそうではありませんでした。だから彼は主イエスに対して「わたしから離れてください」とは言わずに、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったのです。

「主よ、御心ならば」と彼は言います。「主よ」という呼びかけは、主イエスにわたしのすべてを委ね、主イエスにすべてを期待する呼びかけです。彼は今主イエスだけを見ています。彼の周囲の人々、彼を忌み嫌ったり、彼を多少は憐れに思ったりする人々からは目を離して、また不幸でみじめな自分自身からも目を離して、ただひたすら主イエスだけに目を向けています。ここに彼の信仰が芽生えています。彼がいつどこでどのようにして主イエスを知ったのか、主イエスを救い主と信じたのかについては、何も書かれてはいませんが、彼は重い皮膚病という肉体的にも宗教的にも大きな重荷であり、試練であり、患難であった彼の歩みの中にあっても、主イエスと出会い、主イエスを信じる道が備えられていたのです。信仰の道はすべての人に対してこのようにして開かれているのです。

「主よ、御心ならば」というこの願いには、彼自身の長い間の切なる願いが込められていることは確かですが、しかし彼はその切なる願いを主イエスに押しつけるのでななく、主イエスのみ心が行われることだけを願っています。「主よ、御心ならば」、これが信仰者の祈りの原則、基本です。主イエスは受難週木曜日夜のオリーブ山での祈りでこのように祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままにしてください」(ルカ福音書22章42節)。わたしたちもまた主イエスによって教えられた『主の祈り』で「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。自分の願望や計画の実現を願い求めることが信仰者の祈りなのではありません。神のみ心が行われること、主イエスの救いのみわざが現わされること、そして主イエスのみ心に徹底して服従していくことがわたしたちの祈りであり、信仰です。このような信仰による祈りが、困難な現実を打ち破って、わたしたちを主イエスへと、主イエスの救いへと近づけるのです。

そのような信仰があるところに、主イエスの奇跡がおこります。【13節】。12節の「御心ならば」と訳されている言葉と13節の「よろしい」と訳されている言葉は、もとのギリシャ語では同じ言葉です。直訳するとこうなります。「あなたの意志であれば」という願いに対して」、「わたしの意志だ」と主イエスは答えておられます。主イエスの意志がなければ、何事も起こりません。主イエスの意志があるところには、奇跡が起こります。主イエスはご自分の意志をお告げになります。「清くなれ」と。すると、彼の全身を覆っていた重い皮膚病は直ちに消え去ってしまいました。

主イエスのみ心、主イエスの意志は、全能の父なる神の意志です。神がかつて天地創造の際に「光あれ」と命じられると光があったように(創世記1章参照)、神のみ言葉は無から有を呼び出だし、死から命を生み出す力と命とに満ちています。主イエスは神のみ言葉が肉体を取ってこの世においでくださった神の言葉そのものです。主イエスは地上で神の意志を行われ、神のみ言葉を成就され、神の救いのみわざをなしたもう神のみ子です。

「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」と書かれています。レビ記に規定されていたように、重い皮膚病は宗教的に汚れているとされ、その人に触れたなら、触れた人もまた宗教的汚れを身に負います。そのために、人々は重い皮膚病の人からはできるだけ距離を取ろうとします。決して近づきません。ところが、主イエスはどうでしょうか。主イエスは彼に近づき、しかも手を触れられました。彼の汚れの中へと、彼の痛みと重荷の中へと入って来られたのです。文字通りに、主イエスは汚れている罪びとの汚れをご自身の身に負われるために、この世へ、この罪の世へ、わたしたち罪びとたちのもとにおいでになられたのです。そして、ご自身は罪なき聖なる神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたちの罪の汚れをすべて引き受けられ、十字架で裁かれ、死なれたのです。それは、ご自身が流される清い血によって、わたしたちの汚れを洗い清めるためです。

【14~16節】。レビ記14章に定められているように、いやされた体を祭司に見せて、清められたことを証明してもらい、神に感謝のささげものをしなさいと主イエスはお命じになります。清められた彼の新しい歩みは、神へ感謝をささげる神礼拝と、神から与えられた救いの恵みを証しする証人として生きることです。主イエスが彼のために開いてくださったこの新しい信仰の道へと彼は歩みだしました。

ここに至って、旧約聖書が重い皮膚病に関して定めていたすべての規定が主イエスによってその最終目的へと導かれ、成就されました。重い皮膚病を患っていたこの人が主イエスと出会い、主イエスによって清められ、主イエスによって新しい信仰の歩みへと導かれたことによって、旧約聖書の律法は主イエスの福音によって成就されました。主イエスはこの道を完成されるために、ひたすらに十字架へと進み行かれます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、重い病に苦しむ人たちを顧みてください。彼ら一人一人に救いの道をお示しください。あなたこそがわたしたちの心と体のすべてを治め、支え、導いておられることを信じさせてください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、苦難や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月8日説教「信仰によって、天にある故郷を望み見る」

2020年11月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(逝去者記念礼拝)

聖 書:詩編90編1~17節

    ヘブライ人への手紙11章13~16節

説教題:「信仰によって、天にある故郷を望み見る」

 ヘブライ人への手紙11章では、1節で信仰とは何かについてこのように教えています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。わたしたちが神を信じるとか、主イエス・キリストを救い主と信じるというわたしたちの信仰とは、このようなものであるというのです。ここでは、二つのことが強調されています。一つは、信仰とは過去や今、現在のことではなく、将来のことに関連しているということ、わたしたちの目を将来へと向け、その将来を目指して今を生きるということ、それが信仰だということです。もう一つは、信仰とは目に見える現実のことではなく、目には見えていない真理に関連しているということ、わたしたちの目を今見ている現実から引き離して、目には見えていないが、確かに神が備えていてくださる真理へと、信仰の目を向けて生きるということ、それが信仰だということです。

 この手紙は、そのあとでそのような信仰に生きた旧約聖書の信仰者たちの名前を数多く挙げ、また彼らの信仰による具体的な生きざまについて、この章の終わりまで語っています。そして、12章1節で、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか」と勧めています。地上での信仰生活を終えて天の父なる神のみもとへと召された彼らを証人たちと呼んでいます。今現在地上での信仰の戦いを続け、信仰の馳せ場を走り続けている信仰者たちを天から見守り、いわば応援、支援している観衆のようにみなしているのです。彼ら天にいる証人たちは、地上にあって今なお労苦の多い困難な信仰の旅路を続けている信仰者たちに、実際に信仰の勝利を保証している証人たちであると言ってよいでしょう。

 16世紀の宗教改革者たちは、地上にある信仰者たちの群れを「戦闘(戦い)の教会」と呼び、すでに地上の歩みを終えて天の神のみもとへと召された信仰者たちの群れを「勝利の教会」と呼びました。わたしたちがきょうの逝去者記念礼拝で覚えている彼らは、すでに主キリストによって与えられた罪と死に対する勝利を受け取ることをゆるされている勝利者たちなのです。そして、彼らは今なお信仰の戦いを続けているわたしたちにとっての勝利の証人なのです。それゆえに、ヘブライ人への手紙が教えるように、現在の信仰の戦いがいかに困難であろうとも、労苦に満ちた戦いであろうとも、確かな勝利を信じて、信仰の馳せ場を走り続けることができるのです。

 きょうお渡ししてある「秋田教会逝去者名簿」には、信仰をもって天に召された教会員のお名前が90人余り登録されています。このほかにも、教会員の家族やその他の関係者で、教会で葬儀を行った人たちも数人おられ、また1915年以前にも数十人おられることが分かりました。今、秋田教会の歴史書の編纂をしておりますが、秋田教会の伝道開始以来130年近くの間に、分かっているだけで、この名簿と合わせて全部で150人ほどの教会員、教会関係者がこの教会で地上の信仰の歩みを終えられたことが新たな調査から明らかになりました。ちなみに、この間にこの教会で洗礼を受けられた人は520人にものぼります。わたしたちは秋田教会というわたしの身近で、これほどの多くの信仰の証人たちに取り囲まれ、見守られているのであり、これほどに多くの信仰の勝利の保証人たちを与えられているのだということに、大きな驚きと感謝を覚えざるを得ません。

 そこできょうは、ヘブライ人への手紙11章13節以下のみ言葉から、その前後のみ言葉をも参考にしつつ、信仰とは何か、また信仰によって生きるとはどういうことなのかを、旧約聖書の信仰者たちの具体的な生きざまから学んでいきたいと思います。

 11章7節にはノアの信仰について書かれています。ノアは神のみ言葉に聞き従い、人々が飲んだり食べたり、めとったりとついだりして日常の生活に忙しくしている時に、ただ一人で黙々と、乾いた大地で大きな箱舟の制作を続けました。神がこの罪の地をお裁きになるために、やがて地に大雨を降らせ、地のすべてを大洪水が飲み尽くすであろうとの神のみ言葉を信じたからです。彼はまだだれも見ていない将来の神のご計画を信じ、それに備えて生きたのでした。彼は人々の生活ぶりだとか、きょう何を食べ、あすは何を着ようかとか、社会や経済状況を見ていたのではなく、目には見えない神の真理をあたかも見ているかのようにして、神が計画しておられる尊いみわざを恐れつつ、生きていました。これがノアの信仰でした。神はこのノアの信仰によって、罪の世界をお裁きになり、信じて箱舟に乗ったノアと彼の家族とを大洪水から救い出されたのでした。

 8節からはアブラハムの信仰について書かれています。彼は神の呼びかけを聞いた時、神が示される土地が最終的にどこであるのかを知らずに、またその土地での生活がどのようなものになるのかも知らずに、行き先を知らずして、故郷を旅立ちました。彼もまた、神が約束された将来に向かって、まだ見ぬ神の真理をすでに見ているかのようにして、地上の旅を続けました。アブラハムの信仰による旅路について9節、10節ではこのように説明されています。【9~10節】。アブラハムは神が約束された土地カナンに住みながらも、他国に宿るように、そこがまだ最終目的地ではないかのように生きていたのでした。そして、そこに定住するための家を建てるのではなく、いつでも移動できるように天幕に住んでいたのでした。なぜならば、彼は地上のどこかに安住の地を持っているのではなく、神が建設された天の都を目指していたからだと言うのです。

 そのような旧約聖書の信仰者たちの信仰の歩みを振り返ったあとで、13節以下でこの手紙は次のような結論を導き出すのです。【13~16節】。信仰者はこの地上ではどこに住んでいてもよそ者であり、仮住まいの者である、旅人であり寄留者であると結論づけます。どんなに環境がよく、快適に過ごせる土地であったとしても、どんなに立派な施設が整っている豪華な家であっても、信仰者にとっては、そこに最後の目的地があるのではありません。そこに永遠の安住の場所があるのではありません。あるいはまた、どんなにこの世で成功をおさめ、人々の称賛を浴び、自分の願いをすべてかなえることができたとしても、そこに信仰者の最高の幸いと祝福があるのでもありません。

 なぜならば、1節で教えられていたように、信仰者は「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」という信仰が与えられているからです。今ある現実や今生きている世界が信仰者のすべてなのではなく、いやむしろそれらはやがて移ろい行き、過ぎ去り、滅びに向かっているものでしかないことを知らされながら、それらよりもはるかに堅固な土台を持ち、はるかに勝った故郷である天の故郷へと招かれていることを知らされている、そこを目指して信仰の旅路を続けている、それが信仰者の歩みです。神が信仰者たちのためにその天の都を建設してくださり、その天の故郷を備えていてくださるのです。

 それでは、天の故郷を目指して生きる信仰者と地上の国を目指して生きるこの世の人との決定的な違いはどこに現れるのでしょうか。そのヒントは13節にあります。【13節】。人はみな地上の命を終えて死ななければなりません。信仰者にとっても、それは例外ではありません。ただし、ここで重要なことは、「信仰を抱いて」という言葉です。この言葉が信仰者とそうでない人との決定的な違いを生み出しているのです。

信仰を持たない人は、望んでいる事柄を確信することはありません。過去と今現在とに生きています。今見ている世界、今生きている現実が彼のすべてです。彼はいずれにしても自分の可能性の限界内に生きています。神が将来に何を備えておられるか、神が何をなし給うかを知ろうとはしません。その人は、彼の地上の歩みの終わりの時には、彼がそれまでに得たもの、築き上げたもののすべてと別れなければなりません。彼が見ていた現実の世界は彼の死とともに彼の人生から消え去っていきます。彼は死の世界に何ひとつ携えていくことはできません。

けれども、信仰者は神が備えてくださる将来へと目と心とを向けます。神ご自身が建設された、堅固な土台を持った天の都を待ち望んでいます。来るべき神の国の民として招きいれられていることを信じています。神は確かに彼らのために天の都を準備しておられます。この神の約束は信仰者の死によっても、変更されることも取り去られることもありません。いやむしろ、信仰者にとって死とは、神の約束へと近づくことであり、神のみ言葉が確かに成就される時です。地上に生きている間は、神のみ言葉を疑わせたり迷ったりする多くの罪や誘惑がありました。彼を神から引き離そうとする多くの敵の攻撃がありました。けれども、死ののちには彼はそれらのすべてから解き放たれて、天に引き上げられ、永遠に神と共にあり、神との豊かで堅い交わりの中へ招きいれられています。もはや何ものも彼から信仰を奪い取るものは存在しません。信仰者は今は天にあって、何ものにも妨げられることなく、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」がゆるされているのです。神が天に備えてくださる堅固な都、天の故郷の永遠の住民とされているのです。

終わりに、もう一度12章1節のみ言葉を読みましょう。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか」。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、あなたがこの秋田教会の130年近くの歩みをお導きくださり、ここに多くの信仰者たちをお集めくださったことを覚えて、心から感謝をささげます。どうぞ、今ここに招かれ、集められているわたしたち一人一人をも、豊かに祝福してください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、病や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月1日説教「信仰による旅人アブラハム」

2020年11月1日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章1~9節

    ヘブライ人への手紙11章8~12節

説教題:「信仰による旅人アブラハム」

 創世記12章からアブラハムの生涯の物語が始まります。アブラハムからその子イサク、その子ヤコブ、そしてヤコブ(彼はのちにイスラエルと改名しますが)、その12人の子どもたちへと続く物語を、族長物語、族長時代と言います。紀元前2000年ころから1700年ころの時代と考えられます。ヤコブ=イスラエルの12人の子ともたちはやがてエジプトに移住し、そこで400年あまりを過ごし、紀元前1200年代にエジプトから脱出して、神の約束の地カナン(今のパレスチナ地方)に移り住みます。そして、カナンの地でのイスラエルの歴史へと受け継がれていきます。

 創世記12章のアブラハムから始まる族長物語の大きな特徴の一つは、神の選びの歴史であるということです。また、それが神の救いの歴史であるということです。アブラハムから神の救いの歴史はより具体的になっていきます。神は一人の人、アブラハムを選ばれ、彼と契約を結ばれ、彼と彼の子孫によって救いの歴史を継続されます。これを神の救いの歴史、「救済史」と言います。アブラハムの選びから始まった救済史は、イスラエルの選びへと継続され、ついにはイスラエルの民の中から出た一人のメシア・救済者であられる主イエス・キリストによって神の救いの歴史はその頂点に達し、完成されます。わたしたちはアブラハムから始まった神の選びの歴史、神の救いの歴史に連なっているのであり、その中に招き入れられているのです。

 では、【1節】。11章から12章へのつながりには違和感がないように思われます。11章では、10節からノアの息子の一人セムの系図、また27節からはその続きのテラの系図が書かれてあり、テラの子どもアブラムとその妻サライが生まれ故郷であるカルデアのウルから旅立ってハランに移住したころまでが書かれてあり、そのハランの地でアブラム・アブラハムが神のみ言葉を聞いたという12章1節に続いていくので、一連の物語としては連続性があるように思われます。

 しかし、その内容から見れば、11章までと12章からは明らかな違いがあります。ある旧約聖書学者は11章までを「原初史」と名づけました。そこでは世界と人間の歴史の根源が描かれており、つまり世界がどのようにして神によって創造されたのか、人間はどのようにして神のパートナーとなったのかについて描かれており、そこでは神の救いのご計画と神の恵みは、どちらかと言えば人間全体、世界全体を対象にしています。それに対して、12章からは、アブラハムという一人の人間に神が語りかけられ、この一人の人アブラハム、あるいはアブラハムを代表とする一つの部族によって神の救いの歴史が繰り広げられていくようになります。先ほど触れた神の選びの歴史、神の救済史がここから具体的に展開されていくようになるのです。

 そのようにとらえれば、11章までと12章からは明らかな違いがあると言えます。しかしながら、そこに継続性がないわけではもちろんありません。12章1節の冒頭に「主はアブラムに言われた」と書かれているように、創世記第二部の族長の歴史の始まりも主なる神が主語であることには変わりはありません。1章1節の創世記の第一部である原初史の始まりにおいても「神は天地を創造された」とあり、神が世界と人間のすべての歴史を始められたように、神の救いの歴史、神の恵みの歴史は、原初史から族長の歴史、イスラエルの歴史、そして教会の歴史に至るまで、一貫してそれは主なる神が主語として働かれる一連の歴史であるということは言うまでもありません。

 「主はアブラムに言われた」。どうしてアブラハムが選ばれ、神が彼に語りかけられたのか、その理由については書かれていません。アブラハムの選びにおいては、選ばれたアブラハムの側には全くその理由はありません。神の選びは神の自由なご意志による一方的な恵みと愛による選びです。それゆえにまた、神の救いも徹底して神の側からの一方的な恵みと愛による救いです。アブラハムから始まる神の選びの歴史は、その後イスラエルの選び、教会の選び、わたしの選びに至るまで、その性格は全く変わりません。神は全く選ばれる理由がないわたしを、選ばれるに値しないわたしを一方的に選び、恵みと愛とをもって、この取るに足りないわたしを主キリストから与えられる救いへと招き入れてくださったのです。この教会へと招き入れ、きょうの礼拝へと呼び集めてくださったのです。そこには、神の自由な選びと、神の大きな恵みと愛とがあるのだということを、わたしたちは覚えるのです。

 「主はアブラムに言われた」。ここでもう一つ確認しておくべきことは、主なる神はみ言葉をお語りになることによって、アブラハムを信仰の道へと招き入れられ、彼の生涯の歩みを導かれるということです。聖書の神、アブラハムの神、イスラエルと教会の神は、み言葉をお語りになる神です。創世記第一部の原初史においても、1章3節に「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」と書かれていました。神はみ言葉をお語りになることによって、天地万物と人間とを創造されました。第二部のアブラハムから始まる族長の歴史においても、み言葉をお語りになることによって、その選びと救いの歴史を開始されます。神はこののちにも、アブラハムの全生涯の中で繰り返し繰り返しみ言葉をお語りになります。アブラハムが失敗しつまずいた時に、神の約束を疑い、不安になった時に、彼が大きな試練に直面し、恐れおののいた時に、神はその時々にアブラハムに対してみ言葉をお語りになり、彼の生涯と信仰の歩みを導かれました。

 神は今も、わたしたち一人一人に対して必要なみ言葉をお語りくださいます。聖書のみ言葉を通して、わたしに語りかけてくださいます。わたしたちは繰り返し繰り返しその神のみ言葉を聞きつつ、それに聞き従うことによって、信仰の道を全うすることができるのです。

 「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地へ行きなさい」。アブラハムを選ばれ、彼を信仰の道へとお招きになる神は、まず彼がこれまでに慣れ親しんできた愛すべきすべての世界と生活から離れなさいとお命じになります。彼はこれまで、故郷の自然や環境、社会から多くのことを学んだでしょう。父の家には愛すべき多くの家族もいたし、親しい友人、頼りがいのある年配もいたでしょう。けれども、神はそれらに別れを告げよとお命じになります。なぜなら、これからは神のみ言葉が彼の道を導くからです。神が彼に必要なすべてを備えられるからです。それが、彼がこれから歩みだす信仰の道なのです。それが、わたしたちの信仰の道です。

 近年、アブラハムの生まれ故郷であるカルデアのウル付近、ユーフラテス川の。南端、ペルシャ湾の近くですが、その地域の発掘調査で、そこでは古代に天体崇拝が行われていた、特に月神礼拝が盛んであったことが明らかになりました。アブラハムが別れを告げたものの中には、その古い信仰からの別離も含まれていたのは当然です。

 アブラハムは神に選ばれ、神の呼びかけを聞き、新しい信仰の道へと旅立った際に、それまで住んでいた土地、家族やその他の人間関係、生活、そして宗教のすべてを捨て、神が備えられる新しい土地を目指しました。彼のその決断がいかに大きいものであったか、いかに厳しい別離を伴うものであったか、それゆえにまたいかに困難な決断であったことか、わたしたちは推測することができます。けれども、聖書はそのようなことについては全く記していません。4節に、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とだけ書かれています。彼は神のみ言葉に服従します。多くの迷いや不安、恐れ、痛みがあったと思われますが、彼は黙々と神のみ言葉に服従します。主なる神にすべてをお委ねし、主なる神のみ言葉にすべての信頼を置いて服従します。

ヘブライ人への手紙11章8節では、このアブラハムの信仰についてこのように言っています。【8節】(新約415ページ)。アブラハムはこの時点ではまだ、神がお示しになる土地がどのような場所であるのか、そこでどのような生活が待っているのかを全く何も知らされず、「行先も知らずに出発」しました。彼が旅を続けてカナンの地に来た時になって初めて神は、7節で「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われました。それでもまだ、カナンの地がカルデアのウルよりも良い地であるのかどうかは何も知らされませんし、かつての生まれ故郷での生活よりもカナンの地での生活が幸いであるのかも、全く分かりません。そうであるのに、アブラハムは行き先を知らずして、何の保証もない新しい地へと旅立って行きました。神のみ言葉に服従して。

わたしたちは同じような信仰を新約聖書の中にも多く見いだします。ガリラヤ湖の漁師であったペトロとその兄弟アンデレ、ヤコブのその兄弟ヨハネは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた主イエスのみ言葉に従い、すぐに一切を捨てて主イエスに従っていきました(マルコ福音書1章16節以下参照)。徴税人レビも「わたしに従いなさい」と言われた主イエスのみ言葉を聞き、立ち上がって主イエスに従いました(同2章13節以下参照)。彼らも主イエスのあとに従っていくことがどのような人生の歩みになるのか全く分からずに、主イエスのみ言葉に聞き従ったのでした。

ヘブライ人への手紙11章1節にはこのように書かれています。【1節】(414ページ)。そして、先ほど読んだように8節でアブラハムの信仰による旅立ちがあり、そして13節以下ではこのように言います。【13~16節】。アブラハムはこの地上では「よそ者、仮住まいの者」であり、旅人、寄留者であって、彼が最終的に目指していたのは、実に、天の故郷であったのだと結論づけています。これがアブラハムの信仰なのです。この信仰のゆえに、アブラハムは「すべて信じる者たちの信仰の父」と言われるようになりました。

アブラハムの信仰による旅立ちは神の約束の地を目指しての出発でしたが、神の約束の地はこの地上のどこかにあるのではなく、天にある、神が備えておられる天の故郷、神の国にあるというヘブライ人への手紙のみ言葉は、わたしたちすべての信仰者にも当てはまります。わたしたちはみな地上には永遠の安息の場所を持っていません。最後の目的地を持っていません。でも、あてもなく旅をしているのではもちろんありません。地上にあるどんな地よりもはるかに堅固な土台を持つ都、神が設計され、神が建設された永遠の都(ヘブライ手紙11章10節参照)、神の国を目指しているのです。神が永遠にわたしと共にいてくださる家、もはや死もなく、悲しみも痛みもない世界、新しい天と地と(ヨハネ黙示録21章1節以下参照)を目指しているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちをあなたの民としてお選びくださり、主キリストの救いにあずからせてくださった大きな恵みを感謝いたします。どうか、わたしたちがこの恵みのうちにあって信仰の道を全うできますように、お導きください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、病や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月25日説教「聖霊によって神の偉大な業を語る」

2020年10月25日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    使徒言行録2章5~13節

説教題:「聖霊によって神の偉大な業を語る」

 ペンテコステの日に、聖霊を注がれた弟子たちは、聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で語りだしたと、使徒言行録2章4節に書かれています。そして、5節以下には、その時の出来事が具体的に描かれています。弟子たちは多くの国、民族、地域で語られているさまざまな言語で神の偉大なみわざについて語りだしたというこの出来事は、一般に「多国語奇跡」と言われています。この多国語奇跡がどのようにして行われたのか、またそれはどのようなことを意味するのかについて、学んでいきたいと思います。

 【5~8節】。この当時、1世紀前半のイスラエルの首都エルサレムの状況についてまず確認しておきましょう。イスラエルは紀元前6世紀にバビロン帝国によってダビデ王国が滅ぼされて以降は外国の支配下に置かれていました。この当時はローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国は皇帝に対する絶対服従を強制しながら、比較的自由な自治権を許し、宗教活動も帝国の主権と法の範囲内での自由を認めていました。福音書の最後の個所に描かれている主イエスの裁判と十字架刑の場面では、イスラエルの宗教活動とローマ帝国の法規制の衝突を見ることができます。

 また、この時代のイスラエルのもう一つの特徴として、多くのユダヤ人はまだ熱心な信仰を持ち続けており、自分たちが神に選ばれた民であり、神がかつて預言者たちによって約束されたメシア・キリスト・救い主の到来を固く信じていました。一部には、今この時こそがメシア到来の時だと、ローマ帝国からの解放を叫ぶグループもあり、メシアの到来を待ち望むユダヤ人が多くいました。

 5節に、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」とあるのは、そのような状況を背景にしています。北王国イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされた紀元前8世に後半ころから、ユダヤ人は諸外国に散らされていきました。この人たちはいわゆるディアスポラ・離散のユダヤ人と呼ばれていましたが、この時代になって、メシア待望の機運が高まって来たエルサレムに、それぞれの離散の地から戻って来た人たちでした。と言うのも、メシアはエルサレムに来臨されるという旧約聖書の預言があったからです(ゼカリヤ所4章4節参照)。ルカ福音書2章に書かれているシメオンや女預言者アンナのようにイスラエルの救いが完成される日が近いことを信じて、彼らはエルサレムに移り住んで、この都でメシア到来を待ち望んでいたのです。その人たちが、かつて自分たちが生まれ育った国の言葉で今弟子たちが話しているのを聞き、大きな驚きを覚えました。彼らの驚きの大きさが強調されています。6節には「あっけに取られて」、7節には「驚き怪しんで」、さらに12節でも「皆驚き、とまどい」とあります。それは、人間の理解のはるかに及ばない、聖霊なる神のみわざ、まさに奇跡としか言えない不思議な出来事でした。

 ある人は、現実的にこのようなことが起こるはずがなく、これは創作だと言います。12人の弟子たちが、しかもガリラヤ地方出身の彼らが、世界各地の言語をどのようにして話すことができたのか、また多くの民衆がそれをどのようにして聞き分けることができたのか、それは不可能なことだと考えます。しかし、それは人間の理解できる範囲を超えているということであって、だからそれが非現実であると直ちに結論づけることはできません。聖霊なる神は人間の理性や常識や能力をはるかに超えて、驚くべきみわざをなさるのですから。

 少し順を追って考えてみましょう。この日に、エルサレムのある家に、その家に弟子たちが集まっていたのですが、天から激しい風が吹いて来て、大きな音が町中に響き、また炎のような舌が天から弟子たちの上に現れ、町全体を明るく照らしたので、その音と光に気づいた多くの市民が外に出て、神殿の大庭に集まって来た。その人たちに向かって弟子たちが、さまざまな国の言語で語りだした。多くの人たちにとっては、その声は聞き取れず、何を話しているのかも理解できなかったけれど、ディアスポラのユダヤ人にとっては、かつて自分たちが国で話していた言語であることがはっきりとわかり、そのようにして多くのディアスポラのユダヤ人たちがそれぞれの国の言葉を聞き、その内容が神の偉大な救いのみわざであることが理解できた。それは全くあり得ない出来事ではありません。

 そこに、聖霊なる神が働いておられたということが何よりも重要です。弟子たちが外国の言葉をどこかで学んだのではありませんし、彼らの能力によるのでもありません。多くの人々の騒々しい騒ぎの中で、自分の国の言葉を聞き分けることができたディアスポラのユダヤ人にも聖霊なる神のお導きがなければそれは不可能なことです。多くの人々の、驚き、当惑、混乱の中で、聖霊なる神が確かな救いのみわざをなさっておられるということを、使徒言行録は記録しているのです。

 7節に人々の驚きの声が記されています。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」。この言葉には、ガリラヤ地方の出身者に対する軽蔑が含まれているように思われます。ガリラヤは「異邦人の地」と呼ばれ、「ガリラヤからは預言者が出るはずはない」(ヨハネ福音書7章52節参照)とも言われていました。しかし、福音書の記述によれば、主イエスはそのガリラヤに最初に神の国の福音を宣べ伝えられたのです。また今、そのガリラヤ出身の弟子たちに聖霊が注がれ、世界各国の言葉で主キリストの福音を語っているのです。彼らが世界の諸教会の礎として選ばれ、聖霊なる神に仕える福音の説教者とされているのです。

 9~11節には、ディアスポラのユダヤ人たちが散らされていた国や地域が挙げられています。ここには7つの民族名と9つの地方・地域の名が挙げられています。これらは当時のローマ帝国のほとんど全地域にまたがっています。彼らはそれぞれの国・地域でそれぞれの言語を話していました。ギリシャ語があり、アラム語、ラテン語、アラビア語、エジプト語など、それらの言語で今弟子たちが一つの神の大なる救いのみわざについて語っているのです。ディアスポラのユダヤ人たちが今エルサレムでその神のみ言葉を聞いているのです。これが、ペンテコステの日に起こった「多国語奇跡」と言われる出来事です。

 この奇跡を体験したディアスポラのユダヤ人たちは、ペンテコステの日にエルサレムで起こったこの不思議な出来事の証人となり、また実際に、このあとペトロの説教を聞き、それを信じて洗礼を受け、世界最初の教会として誕生したエルサレム教会のメンバーとなり、そののち全世界に広がっていく教会の礎となりました。聖霊に満たされて神のみ言葉を語った弟子たちと、それを聞いて聖霊なる神のみわざの証人となった彼らと、共に聖霊なる神の救いのみわざに仕えたのです。

 11節の「神の偉大な業」とは、具体的には1章22節の「主イエスの洗礼のときから始まって、天に昇られた日まで」の主イエス・キリストの救いのみわざのことであり、その展開としての14節以下で語られているペトロの説教のことを指しています。聖霊によって弟子たちが語るべき言葉はこれ以外にはありませんし、聖霊によってエルサレムの住民が聞くべき言葉もこれ以外にはありません。主イエスはヨハネ福音書15章26節で弟子たちにこのように約束されました。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方はわたしについて証しをなさるはずである」。聖霊は主イエス・キリストを証し、主イエス・キリストを信じる信仰をわたしたちに与えます。

 このペンテコステの日に弟子たちが体験した「多国語奇跡」を旧約聖書時代からの神の救いの歴史全体の中で捕らえるならば、これは創世記11章に書かれている「バベルの塔」の出来事と深い関連があることに気づかされます。創世記11章には、人々が一つの言葉で協力し合い、文化や技術を向上させることによって、天にまで届く高い塔を建て、自ら神よりも偉大な者になろうと企てたのに対して、神はその人間の罪をお裁きになるために天から下って来られ、彼らの言葉を乱し、彼らを全地に散らされたと書かれています。人間たちが罪によって結束することがないように、神は言葉を乱されました。

 ところが今、神は散らされていたディアスポラのユダヤ人をエルサレムにお集めになり、彼らのそれぞれの国の言語によって神の一つの救いのみわざを語った弟子たちの宣教によって、彼らを新しい一つの神の民として結集してくださったのです。主イエス・キリストの福音を共に聞き、信じる教会の群れを形成してくださったのです。このペンテコステの日に注がれた聖霊によって、一つの神の救いのみわざのもとに、一つの福音を宣教する言葉によって、全世界の国民が一つに結集されるということが、この「多国語奇跡」によって暗示されているのです。

 聖霊なる神は人間の間にあるあらゆる違いや壁を打ち破り、国や民族、言語、思想や、また一人一人の性格などの違いから生じるすべての溝や壁を打ち破り、全世界のすべての国民が主イエス・キリストの福音を語り、聞くことによって、彼らを一つの神の民、教会の民としてくださるのです。聖霊なる神は今もなおわたしたちの教会を通して働いておられ、わたしたちを主イエス・キリストを救い主と信じ、告白する信仰を与えてくださいます。その信仰によって、わたしたちを神と主キリストに固く結びつけ、わたしたち一人一人をも一つの神の民、礼拝する民として固く結び合わせてくださいます。

 【12~13節】。聖霊を注がれた弟子たちの多国語奇跡を見たエルサレムの人たちの二つの反応がここに書かれています。12節では、今何か不思議な驚くべき新しいことが起こり始めていると感じ、ペンテコステの日に起こったこの新しい出来事に対して心を開き始めている人たちのことが、13節では、いまだ人間的な限界の中で理性や常識に縛られているために、神の新しいみわざを見ることができず、あざけっている人たちのことが描かれています。

 「いったい、、これはどういうことなのか」。この驚きの言葉は、新しい聖霊の時が始まったことに対する期待が、今はまだそれがどのような時代になるのかは不確実ではあるが、確かに何か新しい時代が始まったという予感と期待が含まれているように思われます。このペンテコステの日から、聖霊の時が、教会の時が確かに始まったのだと、使徒言行録は語っているのです。わたしたちはその聖霊の時、教会の時に生きています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの教会にも、そしてわたしたち一人ひとりにも、聖霊を注ぎ、主イエス・キリストの証し人としてお用いください。

〇父なる神よ、あなたが独り子を賜るほどにわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもあなたの愛に満たされて、隣人を真実の愛で愛することができますように導いてください。

〇そして、主なる神よ、全世界の人々があなたの限りない愛を知り、互いに愛し合うことができますように、この地球上をあなたの愛で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月18日説教「主イエスのもてなし」

2020年10月18日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編33編1~7節

ヨハネによる福音書21章1~14節 

説教題:「主イエスのもてなし」

説教者:長老 小泉典彦

先ほど読んでいただいた、ヨハネによる福音書21章1節~14節は、復活の主イエスが弟子たちに姿を現された三度目の記録です。このことを確認するため、聖書を2カ所読みたいと思います。ヨハネによる福音書21章1節「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身をあらわされた」、同じく21章14節「イエスが、死者の中から復活したのち、弟子たち現れたのは、これでもう三度目である」という書き出しと結びによって明記されています。

 ヨハネによる福音書21章は、復活のイエスが弟子たちにその姿を現わされた三度目です。「三度目である」とありますので、一度目・二度目を振り返りたいと思います。一度目は、復活された日の夕方です。ヨハネによる福音書20章19節・20節(新約p210)ユダヤ人を恐れて鍵をかけて家の中にこもっていた弟子たちの間にすっと現れました。20章20節の後半「弟子たちは主を見て喜んだ」とありますが、残念ながら弟子の一人のトマスがいませんでした。トマスは、「自分の目で十字架の傷跡を見て、触ってみなければ決して信じない」と言い張りました。そして、二度目はその翌週、イエスはトマスのために現れてくださいました。20章27節のイエスの言葉を注意深く読みますと、一週間前のトマスの言葉を、イエスはちゃんと聞いておられたことが分かります。27節・それからトマスに言われた「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい。」トマスは、自分の疑い深さをくいたことでしょう。弟子たちは20章29節「見ないのに信じる人は、幸いである」との偉大な真理のみ言葉を聞くことになります。私たち信仰者にとって、主イエスについて情報や知識として知ること、体験として知ること、いずれも大切ですが、「見ないのに信じる」大切さは強調してもしすぎることはありません。

 主イエスの復活に出会った後も、弟子たちの信仰の歩みは、いつも高められ、満たされていたわけではありませんでした。高められた時があり、またダウンして意気消沈した時もあり、それらが交錯してくり返されていったと考えられます。復活の信仰が本当に弟子たちの現実となるためには、相当の時間を要したのです。いやむしろ、神の国の実現の時に至るまで、地上を生きる弟子たちの歩みは、常に一進一退を繰り返しながら、目当てをさして進んでいくのが現実ではないかと思うのです。イエスが繰りかえして弟子たちに現れて、彼らを力ずけ、励ましているのもそのためではないでしょうか。迷い、疑い、時には後戻りしながら、しかしそれらを乗り越えていくのが信仰の歩みであります。

 私たちは物事に失敗し、耐えがたい悲しみに陥ると、たいてい自分の故郷に帰ることがあります。そこは、傷ついた者を温かく迎えてくれるところだからです。主イエスの数人の弟子たちも、自分たちの主が、十字架につけられて死なれたのち、復活されて二度までも彼らの前に現れてくださったにもかかわらず、不安や恐れに負けてしまって、いろいろな出来事があったエルサレムから離れて、静かな生まれが故郷ガリラヤへと戻ってきました。このような失意の弟子たちに主がなさったのは、一度体験したことをもう一度体験させること、すなわち追体験を通して記憶をよみがえらせることでした。そうです、3年半前やはりガリラヤ湖畔(ティベリアス湖畔)での体験です。~ ルカ5章4節以下(新約p.109の下の段中ほど)を読む。この箇所は、先週・駒井牧師が「人間をとる漁師になる」という説教で取り上げたところです。 ~

 3節「わたしは、漁に行く」というぺトロ。漁にでるペトロ。一度は捨てたはずの網をもう一度取り上げるペトロ。「昔とった杵ずか」ということわざもあります。何といっても直接にたよりになるのは、長年経験し、鍛えてきた、それによって生計を立ててきた、人間の熟練と経験の力でしょう。過去はなかなか捨てきれないのが、ペトロだけでなく、私たちの偽らない生の現実であります。

 3節後半「しかしその夜は何もとれなかった」、ペトロはここでも空しい失敗を繰り返します。しかし、このことは、大切なことを私たちに聖書は告げています。主の復活に出会って、キリストに従う者としての歩みを始めた後にも、やはり失敗と挫折はあるのだということです。ヨハネ15章5節・有名な「イエスはまことのぶどうの木」の箇所から、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ペトロは、イエスから聞いて学びとった、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」というみ言葉の深い意味を味わい、思い返したのではないでしょうか。失敗を通しての想起ということです。

 福音書は、イエス・キリストに対する弟子たちのつまずきと失敗の記録でもありますが、しかし単なる失敗談、暴露する記事ではありません。それらを通してもう一度、主とそのみ言葉に帰って行った人たちの記録として、大きな意味と価値を持つ書物です。

今日の箇所21章4節~6節「すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか。」と言われると、彼らは「ありません」と答えた。イエスは言われた、「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」そこで網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」

一人ガリラヤの湖畔に静かに立たれたイエス。しかし弟子たちには、それがイエスであるとは分かりません。「食べる物がありますか」と話しかけられれば、「ありません」と素直に答えることしかない弟子たち。それは、うつろで、疲労した人間の絶望の、率直でうそのない告白です。「ありません」・すなわち「ない」ものは「ない」とはっきり言うところに人間の真実があります。とかく私たちは、ないものをあるかのように見せかけて、外面をとりつくろうことはないでしょうか。しかし、ないものはないとはっきり言うことが大切です。

 使徒言行録3章では、エルサレム神殿の「美しの門」の前で、生まれながらの足の不自由な人に対して、ペトロは次のようにはっきりと言いました、使徒3:6(p217):ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」と率直に語りました。無いものは無い、知らないものは知らないと言うべきです。復活の主の前で、弟子たちは、何をも持たず、何も出来ない人間であったということが、ここでもう一度はっきりとえがきだされます。そのことをはっきりと認めるところに、弟子たちの真実があるのではないでしょうか。すると主イエスは弟子たちに言われました。21章6節「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」「そうすれば。とれます」この明確な言葉。自分の願望も将来の方向性も見失っている弟子たちに、はっきりと結果をお示しになるイエス。この断定はいつもの主イエスの語り口でした。「お言葉どおり、そうしてみましょう」これが弟子たちの常でした。主が語られたとおりにするならば、必ずそうなる。これが神の言葉でした。「そうすればとれるはずだ」「こうすれば、こうなります」との主イエスの言葉は、私たちの今の混沌とした社会情勢の中で、いかに力強いことでしょうか。主イエスのみ言葉は、弟子たち・私たちが、新しい一歩を踏み出すようにかえてくださいます。

 ヨハネ15章5節「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」キリストから離れた弟子たちは無力です。しかしキリストにあって、その御言葉に従ってなすときに、私たちの思いを超えて、できない者ができる者とされるのです。

 さて、復活の主イエスが三度目にその姿を弟子たちの前に現された時、ただ単に、弟子たちの記憶をよみがえらせたばかりでなく、食事の用意をされたというのは注目すべきことです。大漁の魚を引き揚げたあとで、弟子たちは体も大分濡れていたでしょう。ペトロに至っては、水に飛び込むのに普通はきているものを脱ぐのに、「主だ」との弟子ヨハネの声に、上着をまとって飛び込んだというのですから、特別な思いでこの瞬間を迎えたことでしょう。早朝の湖畔ですから、からだが濡れれば寒くもなります。9節「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」主イエスは、陸地で炭をおこし、魚とパンを用意してくださっていました。からだが暖まれば、心も温まるものです。弟子たちはだれ言うとなく火の周りに集まってきました。

 しかし、ある場面に胸が痛むこともあります。9節の「炭火がおこしてあった」という言葉で、イエスが連れて行かれた大祭司の中庭で、ペトロが役人たちと一緒になって暖をとった「炭火」を思い出します。あの中庭には、この福音書の著者であるヨハネもいましたので、この炭火にあの場面を思い出したかもしれません。ペトロにとっては痛みを思い出す「炭火」でした。イエスの言葉に感動した時には「あなたのためには命も捨てます」と豪語したけれど、苦境に立たされ、「あなたもあの男の弟子だ」と言われれば、三度も「知らない」と答えてしまう。否みながらも、炭火に手をかざして暖まっていた自分。心の冷たさと手のぬくもり。 もしも、私たち人間が悔いるとしたらこうした傷ではないでしょうか。自分だけが、難を逃れた、そのかたわらに、愛する者が苦しんでいた。知りながら自分は何もできなかった。どんなに社会的に認められても、この傷だけは癒されない。その傷が癒えないかぎり、ちょっとしたことで心は乱れる。それが人間ではないでしょうか。

 そうした中で、主イエスは弟子たちを朝食に招かれます。かつてガリラヤ湖畔で、5千人を養われたあの場面と同じように、パンをとり、魚をとって彼らにお渡しになりました。あのときのイエスのしぐさが、思い起こされたのではないでしょうか。

 こうして三度目にご自身を現されたイエスは、この記事を読むかぎりごく普通の人として描かれています。ルカによる福音書の記事もそうですが、弟子たちは復活の主イエスが共に歩まれても、初めはそれがイエスであるとは分からなかったとあります。福音書の著者は、外見ではなく、もっと肌で触れるような主イエスとの交わりを伝えたいのです。そこに生身の主イエスがいてくださる。12節後半、「弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」とあります。主イエスのごく自然な振る舞いに、弟子たちは主との交わりを楽しんだのです。ペトロは、使徒言行録のなかで、「わたしたちは、主イエスが死者の中から復活したあと、一緒に食事をしました」と語っています。

 私たちは、主の招きがまずなければ、主を知ることはできませんし、主に従うこともできません。信仰とは、まず私たちが努力して、主を喜ばせ、主のために食卓を用意することではありません。それに先だって主イエスが私たちのためにパンと魚を用意して招いてくださる。もてなしてくださる。その招き・もてなしに応じることからはじまります。

 食卓 それは主イエスが私たちのために備えてくださった、生きるために必要な糧が与えられる場です。

聖書が、私たちに語っているイエスは、仲間はずれにされている人、独りぼっちの人、悲しんでいる人、病人、嫌われている人、問題を抱えている人をほっておかれない方として描かれています。

復活されてからも、疑い深いトマスに対して「トマス、私はあなたをほっておかないよ」と言っておられます。これは大きな恵みです。

 私たちが生きていけるのは、誰かから愛されているからです。主イエスが、私たち一人一人を覚えていてくださるから生かされているのであります。信仰者として私たちは、主イエスのこのまなざしによって生きているのであります。

 説教前に、共に賛美した讃美歌413番「キリストの腕は」の歌詞を読みたいと思います。特に5節「キリストにならい、私たちも 違いを喜び 受け入れ合おう」

 私たちも小さな群れですが、日曜日ごとに教会に集められ主を讃美し、聖書の御言葉に日々養われているこの喜びを、自分たちで味わうにとどまらず、伝える群れ、伝えたい群れへと、主のみ言葉によって変えられるよう願いたいと思います。

 主のもてなしによって、私たちは 心に愛を、豊かに満たされて、この一週間の歩みに遣わされたいと思います。

○執り成しの祈り

 主イエス・キリストの父なる神様。あなたの御名を心よりほめ讃えます。どうか私たちを、キリストにならい、誰をもへだてず、たがいに励まし、たがいに仕える者へと変えてください。

 今日、福島伝道所で礼拝奉仕をされている駒井牧師を祝福してください。どうか秋田への帰りの道のりをお守りください。

10月11日説教「人間をとる漁師になる」

2020年10月11日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教
聖 書:詩編98編1~9節
    ルカによる福音書5章1~11節
説教題:「人間をとる漁師になる」

 ルカ福音書5章1節からは、主イエスの12弟子の一人ペトロが湖で魚をとる漁師から、主イエスの弟子となって人間をとる漁師に変えられることが語られています。キリスト教の専門用語ではこれを「召命」と言います。召命とは、英語ではcalling、名を呼ばれることですが、キリスト教では特に神、または主イエス・キリストから名を呼ばれこと、そして神、または主イエスから特別の使命、務めを託されることを「召命」と言います。広い意味と狭い意味の二つの用法があります。広い意味では、この世に属していた人が主イエスによって呼び出され、主イエスを信じて洗礼を受け、キリスト者となること、主キリストに属する人となって、主キリストの証し人となることです。狭い意味では、キリスト者として召命を受けた人がさらに神の特別な召命を受け、神のみ言葉を説教する務めを与えられ、主キリストの教会に専ら仕える牧師、あるいは聖職者、教職者となることです。わたしたちはだれもみな、この二つの意味での召命を聞いています。そしてまた、召命、つまり神と主キリストからの呼びかけは、一度聞くだけでなく、絶えず、新たに聞き続けることが大切です。絶えず、新たに、神と主キリストからの呼びかけを聞き、その呼びかけに答えて生きること、これがわたしたちキリスト者の生涯です。地上の歩みを終えるまで、それは続きます。
 きょう学ぶペトロの召命のか所では、広い意味での召命と狭い意味での召命と、二つの意味を考えて読む必要があります。わたしたちはこの個所から、きょうこのわたしに呼びかけておられる主イエスのcalling、召命を聞き取りたいと思います。
 ゲネサレト湖、すなわちガリラヤ湖の4人の漁師が召命を受けて主イエスの弟子となったという記録は、ルカ福音書とマタイ・マルコ福音書では少し違ったかたちで描かれています。マタイ福音書4章とマルコ福音書1章では、この二か所はほとんど同じですが、初めにペトロとその兄弟アンデレの二人が海に網を打っていた時に、それをご覧になった主イエスが「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう」と言われると、二人はすぐに網を捨てて主イエスに従ったと書かれています。次に、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、船の中で網の手入れをしているのをご覧になった主イエスが、彼らをお呼びになると、この二人もまた父や雇人たちを残して主イエスの後についていったと書かれています。
 それに対して、ルカ福音書ではシモン・ペトロを中心に描かれています。主イエスがペトロに語りかけられ、ペトロが主イエスのみ言葉に服従するという形になっていて、ヤコブとヨハネはシモンの漁師仲間であったので、その時に大量の魚がとれたという奇跡を見て驚いて、ペトロと一緒に主イエスに従ったと書かれています。ペトロの兄弟アンデレの名前はここには出ていませんが、6章14節で12弟子の名前が紹介されている箇所では「ペトロとその兄弟アンデレ」とあるので、大漁の奇跡の時にはペトロとアンデレは一緒だったと推測されます。
 では、1節から読んでいきましょう。【1~3節】。主イエスはここでも神のみ言葉を語っておられます。主イエスこそが神の国の福音を宣べ伝える最初の方です。このことをあらかじめ確認しておくことが重要です。主イエスはこのあとでシモン・ペトロを召してご自分の弟子とされ、神の国の福音を宣べ伝えて人間をとる漁師とされるのですが、またわたしたち一人一人をも召して神の国の福音の証人とされるのですが、それに先立って、まず最初に主イエスご自身が父なる神からこの世に遣わされて神の国が到来したことを、神の救いの恵みが主イエスと共にこの世界を支配していることをお語りくださったのです。弟子のペトロやそののちの教会に招かれているわたしたちは、主イエスが始められ、成就された救いのみわざを引き継ぐかたちで、主イエスの救いのみわざに仕えるかたちで、神の国の福音の証人とされるのです。
 2節に「御覧になった」と書かれています。同じ言葉が福音書の中でたびたび用いられています。同じ章の20節では、「イエスはその人たちの信仰を見て」、27節では、「レビという徴税人が収税所に座っているのを見て」、これも同じ言葉です。このほかにもいくつかあります。主イエスが何かをご覧になる、主イエスの目が何かを見られる、その時、主イエスはその人のすべてを、そのことの本質を見ておられ、その人のすべてを、そのことの本質を知っておられ、そのすべてを受け入れてくださいます。そこに不思議な出来事が、救いの出来事が起こされるのです。
 主イエスはペトロや他の漁師たちの生活のただ中に入って来られ、彼らの生活、彼らの労苦、彼らの汗と涙をご覧になります。主イエスはわたしたち一人一人の生活のただ中にも入って来られ、わたしの生活の現実をもご覧になっておられます。主イエスは安息日のユダヤ人会堂で神のみ言葉を説教され、安息日の主として救いのみわざをなさったということが4章に書かれていましたが、会堂の外でも、わたしたちの生活の場でも、主イエスはわたしたち一人一人を見ておられます。田んぼや畑で収穫に忙しい農家の生活の場にも、通勤途中の会社員や家事にいそしむ主婦や学校で学ぶ学生の生活の場にも、主イエスの目は注がれています。主イエスはわたしたちの生活の現実のすべてをご覧になり、知っておられ、その中に入って来られ、そこで神のみ言葉をお語りになります。
 「二そうの舟を御覧になった」と書かれています。主イエスはガリラヤ湖の漁師たちの生活の現実をご覧になったことを意味します。この二そうの舟は、後で5節のペトロの言葉から分かるように、中は空でした。一晩じゅう網を降したけれど一匹もとれなかったという、彼らの貧しく、厳しい生活の現実を主イエスは見ておられるのです。その現実の中に入って来られるのです。彼らの生活の現実を根本から変えるためです。彼らを魚を取る漁師から人間をとる漁師に変えるためです。舟の中で網を洗う漁師ではなく、主キリストの教会で神の国のために仕える奉仕者、福音のための働き人とするためです。
 もう一つここから読み取れることは、一匹の魚も取れなかった空の舟を主イエスが御覧になる時、それが主イエスのお働きのために、神の国の福音の説教のために用いられるということです。それまでは魚をとるために用いられていた舟が、主イエスをお乗せするために用いられるのです。この世では目覚ましい働きができず、役に立たなかったようなものが、主イエスによって用いられ、神の国の福音を語る舞台となるのです。その時、7節に語られているように、ペトロが主イエスの命令に従って沖に漕ぎ出してもう一度網を降したところ、今度は大量の魚で舟が沈みそうになるほどに変えられるのです。
 【4~5節】。一晩中何度も網を下ろしても一匹も取れず、疲れ果てていたペトロは主イエスの説教を聞いたあとで、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた主イエスの命令に従いました。しかし、それは彼の漁師としての経験や知識に反する行動でした。ガリラヤ湖では夜の気温が低くなったころに魚が表面に集まってきますが、昼には底で休んでいますから、昼間は漁には適しません。一晩中網を降ろしても徒労に終わったのに、またも徒労を重ねよと命じられて、ペトロは「しかし、お言葉ですから」と言ってイエスの命令に従うのです。主イエスのみ言葉を聞いたペトロは、この世の経験や価値基準で行動するのではなく、主のみ言葉に従って行動するようになっています。ペトロはすでにここで変えられています。主イエスのみ言葉の説教と命令によって、彼は困難な現実に立ち向かっていく勇気と希望とを与えられます。主イエスのみ言葉は人間の可能性やこの世の経験や知識、この世の価値基準のすべてを打ち破るのです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。わたしたちもまた主イエスにみ言葉によって、新しい一歩を踏み出すことができるようにされます。
 【6~7節】。神はシモン・ペトロの服従に応えて、大きな収穫と祝福をお与えくださいました。ペトロが全く期待していなかった、いやペトロの期待を裏切って、豊かな恵みをお与えくださいました。主イエスのみ言葉に聞き従う時、その働きは一つとして徒労に終わることはありません。漁の条件が改善したから、大漁になったのではありません。ペトロの技術が向上したからでもありません。むしろ、条件が悪くなり、ペトロの肉体も限界を迎えていたでしょう。この大漁は、主のみ言葉に服従したことによって与えられた恵みであり、奇跡です。主イエスのみ言葉が困難な現実を打ち破ったのです。み言葉に従って歩む教会の働きは、何一つとして徒労に終わることはありません。主ご自身が豊かな実りを約束してくださいます。今日の困難な伝道のわざにおいても、主のみ言葉に聞き従いながら、わたしたちは困難な現実に挑戦していく勇気と希望とを与えられます。
 【8~10節a】。ペトロはここで突然に自らの罪の告白をします。他の仲間たちも漁が余りにも多かったことに驚きました。神の恵みは人間の思いも及ばないほどに大きく、だれもが驚くほかにありません。そして、人間はだれも自分がその恵みを受けるに値しない者であることに気づかされるのです。神の圧倒的な恵みを受けて、人間は自らの貧しさや、弱さ、そして罪に気づかされるのです。これが、主イエスの自由な選びによって召命を受けて主イエスの弟子として召された信仰者の正しい応答です。教会はそのようにして、取るに足りないいと小さな者たちが主イエスの召命を受け、神の大きな恵みをいただいて、自ら受けるに値しない者たちであることを告白しつつ生きる群なのです。教会は罪を告白する者たちの共同体であり、それゆえに、主の救いの恵みの大きさに驚きつつ、その恵みによってのみ生きる者たちの共同体です。
 【10節b~11節】。主イエスは罪びとから離れることはなさいません。むしろ、罪びとをみ前にお招きになります。罪びとを人間をとる漁師としてお用いくださいます。神のみ言葉の証人として、説教者としてお用いになります。有能なこの世の成功者をではなく、むしろ生活に疲れ、挫折を経験し、失敗を繰り返すしかないような、欠けの多い人をお用いになります。そのような人たちが、神の国のために人間の失われた魂を勝ち取るという、尊く、重く、光栄ある務めへと召されているのです。

(執り成しの祈り)
〇主なる神よ、あなたから与えられている大きな恵みを覚え、心からの感謝をささげます。わたしたちがあなたからの恵みに応え、あなたのご栄光を現すためにお仕えすることができますように。
〇父なる神よ、あなたが独り子を賜るほどにわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもあなたの愛に満たされて、隣人を真実の愛で愛することができますように導いてください。
〇そして、主なる神よ、全世界の人々があなたの限りない愛を知り、互いに愛し合うことができますように、この地球上をあなたの愛で満たしてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月4日説教「バベルの塔」

2020年10月4日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記11章1~9節

    使徒言行録2章5~13節

説教題:「バベルの塔」

 きょうは創世記11章の「バベルの塔」と言われる個所を学びますが、その前の10章について少し触れておきたいと思います。10章には大洪水以後のノアの3人の息子たちの系図か書かれています。これまでにも創世記の中にいくつかの系図がありました。その所でお話ししましたように、旧約聖書の民イスラエルにとって系図は非常に大きな意味を持っていました。つまり、アダムから始まる全人類は神が創造された一人一人であり、民族、国民であるという信仰、そしてその系図は最終的には、神が全人類を救うために世に遣わされるメシア・キリスト・救い主へと至る系図であるということ、イスラエルの民はこの信仰を抱き続け、神に選ばれた民の系図を大切に保存してきたのです。

 10章の系図にも同じ意味があります。10章1節と32節を読んでみましょう。【1節、32節】。アダムから始まった系図は、洪水以後、ノアの子どもたちとその子孫から再び全世界に増え広がりましたが、すべての民族は神のもとにあって一つの共同体であるという信仰がここからも読み取れます。神はのちになってから、これらの諸民族の中からイスラエルの民をお選びになり、この民によって具体的な救いのみわざをなさり、ついにダビデ王家に連なるヨセフの子としてお生まれになった主イエスによって全人類のための救いを成就してくださったのです。旧約聖書のすべての系図は主イエスの誕生へと連なっているのです。

 では、11章1節を読みましょう。【1節】。ここから始まる「バベルの塔」と言われる出来事は「言葉」が重要なテーマになっているということがこの1節からも推測できます。言葉が人間にとっていかに大切なものであるかは言うまでもありません。言葉には、音に発せられる言葉、書かれた言葉、手話などがありますが、それらの言葉はわたしたちが互いに意志を伝えあうための大切な道具です。わたしたちは言葉によって互いに心を通わせ合うことができ、理解し合うことができ、交わりの生活をすることができます。もし、言葉が失われたら、人間の生活はたちまちにして混乱し、不便になり、喜び、楽しみも失われてしまうでしょう。言葉は、神が人間にお与えくださった多くの恵みの賜物の中で、おそらく最も素晴らしいものと言えるでしょう。他の生き物は人間ほどには厳密で複雑な言葉を持ってはいません。人間は言葉によって考え、互いに情報を交換し合い、知識や技術を言葉によって保存し、後世に伝え、そのようにして社会、文化、科学などをより高度なものに作り上げてきました。

 言葉が神から与えられた最も素晴らしい賜物であるということは、何よりも神が言葉によってわたしたちに語りかけ、わたしたちがそれを聞き、理解し、信じ、さらには言葉によって神を賛美し、神に感謝し、神に祈り、信仰を告白し、また神の言葉を宣べ伝える務めを託されている、そのことのために神がわたしたちに言葉を賜ったということにあります。パウロがローマの信徒への手紙10章で教えているように、わたしたちに宣べ伝えられている言葉によってわたしたちの信仰が生まれるのであり、信仰は聞くことにより、聞くことは主キリストの言葉からくるのです。

 わたしたちがきょうここに集まり、共に礼拝をささげているところで、突然に言葉が乱され、互いに理解し合うことができなくなったとしたら、どうでしょうか。わたしたちはみなあわてて、動揺し、不安になり、だれが何を考えているのかも、なぜここに集まっているのかもわからなくなり、ばらばらに散っていくしかないでしょう。わたしたちが同じ発音の同じ言葉を与えられ、同じ一つの主キリストの言葉を聞くためにここで一つに集められているということは何と大きな神の恵みであることでしょう。わたしたちはまずそのことを感謝してきょうのみ言葉を読んでいきましょう。

 【1~4節】。ところがここでは、神から同じ発音、同じ言葉を与えられていた人間たちから神に背く罪が芽生えてきたということが語られているのです。

 人々はシンアルの地の平野に住み着いたと書かれています。シンアルとはバビロニア地方のことで、バビロンとかバベルとも言います。世界四大文明の発祥の地とも言われるチグリス川とユーフラテス川が流れる肥沃な地が舞台です。人々は砂漠地帯をさまよいながらより豊かな地を探し求めてこの地に移ってきました。シンアルには石材がなかったために早くからレンガを造る技術が発達していました。太陽で粘土を乾かすだけでなく、火で焼いてより固いレンガを作る技術を生み出し、レンガを積み上げるためにアスファルトで塗り固める技術も発達していました。そして、彼らはそれらの技術と彼らの共同作業とによって、大きな高い塔を建てようと企てるのです。

 彼らに与えられていた同じ発音、同じ言葉がこの事業を推進させ、全員一致でこの事業に参加するために重要な役割を果たしています。4節に「さあ、こうしよう」というかけ声が書かれていますが、実は3節にも同じ「さあ、こうしよう」という言葉があります。新共同訳では省略されていますが、同じかけ声が二度も繰り返されているという点に、言葉によって人間の意思を統一し、人間が考え出したこの新しい事業によって人間社会をより豊かにしようとする欲望が表現されているように思われます。けれども、そこには神は存在しません。むしろ、神を追い出そうとしています。人間だけで固く結集し、天にまで届く塔の町を建設し、自分たちの名誉と名声を天の神にまで届かせ、ついには自ら神のごとくになって全地を支配しようとする人間の欲望がここにはあるのです。

 「さあ,われらはみなでこうしよう」「さあ、われらは一致協力してこの事を成し遂げよう」とのかけ声によって、神なき世界の建設に取り組もうとする人間。みんなが一つになることによって、神をも恐れず、罪の道を突き進もうとしている人間。だれもその勢いを止めることができず、異議を唱えることができず、共に罪の道へと落ちていくしかない人間。大洪水以後の人間たちも、最初に罪に落ちたアダムとエヴァと同じように、共に罪の道を進むことで一致しました。

 【5~7節】。神はこのような人間たちの現実のすべてを、天の高さから見ておられます。そして、人間はだれ一人として、自らの意志や知恵によってはこの罪の道をとどめることも、引き返すこともできないということをも神は知っておられます。ただ、神だけが人間のこの罪の道を、大いなる破滅へと向かうしかない罪の道を止めることがおできになります。

 5節に「主は下って来て」と書かれています。天の神よりも高くに登ろうとしていた彼らでしたが、人間は神に到達することはできません。人間が神にまで高く登ろうとしていた罪への道を終わらせるために、神は天から下って来られます。

 7節には、3節と4節で繰り返されていた「さあ、われらはこうしよう」と言う人間のかけ声と同じ言葉があります。人間たちの「さあ、こうしよう」というかけ声を打ち消すかのように、神は「さあ、われらは降って行こう」と言われるのです。

 ここで神はご自身のことを「我々」と言っておられます。同じ例が1章26節にもありました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。この「我々」は一般に尊厳の複数形といって、神はお一人であるのですが、ご自身の権威や力や存在を強調するために、あるいは人間に対する特別のご配慮を言い表すために、複数形で表現されていると考えられています。神はご自身の全人格を傾け、ご自身の全存在をもって、このことを強く決断され、人間を罪と破滅から救おうとなさったのです。

 【8~9節】。人間が自分たちを一致団結させるために役立った言葉を、そしてそれによって自分たちの偉大な事業を完成させることを可能にすることができると考えた言葉を、神は混乱させ、彼らを全地に散らされました。神は人間の神なしで企てられた事業を中途でやめさせられました。わたしたちはここではっきりと知らされます。人間が神から賜った大きな恵みである言葉を、彼らは神のみ心にそって用いていなかったのだということを。むしろ神に反逆するために、人間の欲望を満たすためだけに用いていたのだということを。それゆえに、人間が企てた大事業、堅固な街を建て、天に届く高い塔を建てようとした彼らの企ては神のみ心に背くものであったのだということを。それが人間の罪の結果であったのだということを。それゆえに、神の裁きを受けなければならなかったのだということを、わたしたちはここではっきりと知らされます。神なしで行われる人間の一致は、ついには失敗するほかにありません。

 神は、神なしで企てられる人間の事業はついには人間自身を破滅へと導く以外にないということを知っておられます。バベルの塔が高ければ高いだけ、崩れ落ちた塔の下敷きになって死ぬ人間も増えるのです。人間の高ぶりと自己主張、人間の傲慢と欲望が、やがて国と世界を破滅へと導くようになるということを、神は知っておられます。そこで神は、人間が最終的な破滅に至ることがないように、人間を最終的には救うために、人間の言葉を混乱させ、人々を全地に散らされ、人間がそれ以上罪のために協力し合うことができないようにされたのです。神は人間の罪と滅びへの道に「待った」をかけられます。それは最終的に人間を救うためなのです。

 神の裁きは神の愛です。人間の計画が挫折した時、自分の願いがかなえられなかった時、思わぬ困難が押し迫り、もう一歩も前進できなくなった時、その時が神の隠れたみ心の時であるのかもしれません。そこで、わたしたちは神のみ前にへりくだるべきです。新たに神のみ心をたずね求めるべきです。

 バベルの塔の出来事で神が人間の言葉を乱され、人々を全地に散らされたということは、使徒言行録2章のペンテコステの出来事と深く関連しています。聖霊を注がれた弟子たちがいろいろな他国の言葉で一つの神の偉大なみわざ、すなわち主イエス・キリストの十字架の福音を語った時、いろいろな国からエルサレムに集まっていたユダヤ人が、自分たちの国の言葉でその福音を聞き、理解した、そして主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、ここに世界最初の教会が誕生しました。ここで、バベルの塔以来全地に散らされていた人々が、聖霊によって一つの主キリストを信じる群となって集めらたのです。今や、聖霊なる神が、全世界の国民を、一つの主キリストの福音の言葉によって結ばれるのです。教会の民は共に神のみ言葉を語り、聞くということによって一つとされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、聖霊によってわたしたちを一つに結び合わせてください。人々が分断され、孤立し、真実の交わりが失われつつあるこの時代にあって、あなたが聖霊によってわたしたちを一つに結び合わせてください。

〇父なる神よ、あなたが独り子を賜るほどにわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもあなたの愛に満たされて、隣人を真実の愛で愛することができますように導いてください。

〇そして、主なる神よ、全世界の人々があなたの限りない愛を知り、互いに愛し合うことができますように、この地球上をあなたの愛で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月27日説教「聖霊降臨の日」

2020年9月27日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記16章9~12節

    使徒言行録2章1~4節

説教題:「聖霊降臨の日」

 使徒言行録2章には、五旬祭の日に、弟子たちの群れに聖霊が注がれて、エルサレムに世界最初の教会が誕生した時のことが描かれています。ここから、新しい神の救いの歴史が始まります。ある人はそれを「教会の時、聖霊の時、また福音宣教の時」と名づけています。わたしたちは今、その教会の時、聖霊の時、福音宣教の時に生きているのです。

神が天地万物の創造によってお始めになった世界と人間の救いの歴史は、イスラエルの民の選びと契約によって具体化されました。旧約聖書はその救いの歴史を語っています。そして今や、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神の救いの歴史はいわば最終段階に入り、最後の完成に向かって前進していくということを新約聖書は語っています。それが、ペンテコステの日の聖霊降臨と教会の誕生と教会の民による福音宣教として展開されていくことになったのです。

 ここに至る道のりを簡単に振り返ってみましょう。主イエスはユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時、金曜日に十字架につけられ死なれました。しかし、三日後の日曜日の朝に死の墓から復活されました。復活された主イエスは、40日間にわたって復活されたお姿を弟子たちに現わされました。これを復活の顕現と言います。40日目に、主イエスは弟子たちが見ている前で天に引き上げられました。これが昇天です。そして、それから10日間、弟子たちは主イエスが約束された聖霊降臨の時を祈りつつ待ちました。そのお約束どおり、ユダヤ人の五旬祭の日に、すなわち過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目の祭りである、小麦の初穂を神にささげる初穂の祭り・七週の祭りとも言われるペンテコステに、祈りつつ待っていた弟子たちの群れの上に聖霊が注がれ、エルサレム教会が誕生したということになります。

 この道のりを確認して分かる重要ないくつかの点を挙げてみましょう。一つには、主イエスの十字架の死と復活によって成就された神の救いのみわざは、主イエスの地上でのお働きの終わりである昇天の後にもなおも継続される、しかも、一つの民族だけでなく、全世界的な広がりで、全人類のための救いのみわざとして、継続されるということです。主イエスは1章8節で、弟子たちにこうお命じになりました。【8節】。イスラエルだけでなく、全人類のすべての人が、エルサレムから遠く離れている東の果てに住むわたしたち一人一人もまた、神の救いへと招きいれられているということです。

 第二点は、主イエスは天に昇られ、父なる神の右に座しておられますが、その天から、父なる神と共に聖霊なる神を派遣され、聖霊なる神によってご自身の救いのみわざを継続されるということです。主イエスはヨハネ福音書14章16節、また25節以下でこのように約束されました。【16~17節a,25~26節】。聖霊は主イエスとは別の弁護者・助け主、いわば第二の弁護者・助け主として、常に弟子たちと共にいてくださり、またすべての人と共にいてくださり、主イエスの救いのみわざを継続される神です。そのようにして、今こそ、父なる神と、み子なる神・主イエス・キリストと、聖霊なる神との三位一体なる神が、わたしたちの救いのためにお働きくださる時が到来したのです。

 そして第三に、主イエスの十字架の死と聖霊降臨が、ユダヤ人の祭りである過ぎ越しの祭りと五旬祭・初穂をささげる祭りと関連づけられているという点です。過ぎ越しの祭りはイスラエルの民が奴隷の家エジプトから救い出されたことを祝う祭りです。それが、わたしたちすべての人間を罪の奴隷から救い出す主イエスの十字架と密接に関連しています。それとともに、五旬祭・ペンテコステはイスラエルの民が約束の地カナンに入って最初に収穫する小麦の初穂を神にささげる祭りであったように、ペンテコステのこの日には弟子たちが聖霊に満たされて語った説教によって、主イエスを救い主と信じた人たちが洗礼を授けられ、聖霊の賜物を授けられ、神の新しい救いの民である教会へと招きいれられ、その救われた人間の魂の初穂を神におささげする日となったのです。今や、全世界の教会において、主イエス・キリストの十字架の血によって贖われ、救われた人の魂が神の国の収穫の初穂として神にささげられるようになったのです。

 では次に、ペンテコステの日の出来事はわたしたちに何を教えているのかを使徒言行録2章1~4節のみ言葉から聞き取っていきましょう。1節で「五旬祭の日が来て」と訳されている箇所は、本来は「満ちて」という言葉です。月日が巡ってその日がやってきたということではなく、神の救いのご計画の時が満ちて、主イエスが弟子たちに約束された時が満ちて、今や神が教会の時、聖霊の時、福音宣教の時を開始されるその時が満ちてという意味が込められています。主イエスの約束のみ言葉を信じて、祈りつつ待ち望む信仰者は決して空しい時を過ごすのはありません。神がその時を満たしてくださいます。

 1節の続きで、「一同が一つになって集まっていると」と書かれていますが、ここでは一つの群れとしてのつながりが三つの言葉で強調されています。「一同」「一つになって」「集まって」、4節でも「一同は」とあるように、ここにはすでに聖霊なる神のお働きが語られているのです。聖霊は人々を一つの群れ、共同体として結びつけます。この日、エルサレムで一つになって集まっていた人たちとは、1章15節に書かれていた120人ほどの兄弟姉妹たちで、その人たちの名前の一部が13節から紹介されていました。ペトロを始めとした主イエスの弟子たちは十字架の時にはみな逃げ去って散り散りになりました。主イエスの母マリアと家族はだれもが主イエスの宣教活動には批判的でしたし、参加もしませんでした。そのような人たちが今一つに集められているのです。ここにはすでに聖霊のお働きがあります。罪ゆえに神から離れていた人間、また罪ゆえに互いに分断され、地に散らされていた人間たちが、今聖霊によって一つに集められ、固く結ばれ、一つの群れとされるのです。

 中世始めの偉大な神学者アウグスチヌスは聖霊を愛のきずなと名づけました。聖霊は父なる神とみ子なる神・主イエス・キリストを結びくけるきずなであり、神と罪びとであるわたしたちを結びつけるきずなであり、また罪ゆえに互いに分断され、孤立化されている人間同士を結びつけるきずなです。

今の時、感染症の蔓延のためにお互いが社会的距離を保つことが求められていますが、このような時にこそ、わたしたち信仰者は聖霊によって固く結ばれ、一つとされている、聖霊による愛の交わりを与えられているということを強く覚えたいと思います。

 3節には、別の聖霊のお働きが語られています。まず、「一人一人の上にとどまった」という言葉から、聖霊は互いを固く結びつける働きをしますが、それと同時に、一人一人にふさわしい賜物をお与えくださるということが暗示されています。みんなを一つに結びつけて、個性も違いもなくするというのではなく、聖霊は一人一人の上に注がれ、その人その人にふさわしく、それぞれに違った賜物を分け与えつつ、その全体が調和を保ち、一つの群れとして成長していくようになる、それが教会で働かれる聖霊の特徴です。

 使徒パウロは手紙の中でそのことをしばしば語っています。コリントの信徒への手紙一12章4節以下を読んでみましょう。【4~11節】(315ページ)。教会員一人一人に与えられている種々の賜物はみな聖霊なる神から与えられた霊の賜物です。その賜物はそれぞれ違いますが、みな一つの主キリストの体なる教会を建てていくために用いられ、ささげられます。そのようにして、教会は一つの群れとして成長していくのです。

 パウロの書簡からも明らかなように、聖霊の賜物は特に言葉に関連していることが分かります。使徒言行録では、聖霊が「炎のような舌が別れ別れに現れ」と表現されているのはそのことです。神を賛美する言葉、主イエス・キリストの福音を語る言葉、祈りの言葉、悲しんでいる人を励ます言葉、孤独な人に優しく語りかける言葉、わたしたち一人一人にそのような言葉の賜物が与えられているのです。

 続けて4節には、ペンテコステの日に弟子たちに与えられた舌の賜物、言葉の賜物について語られています。【4節】。弟子たちに与えられた言葉の賜物は、具体的には5節以下に記されている奇跡、すなわち、多くの国々の言葉によって弟子たちが神の偉大なみわざを語るという奇跡となって現れ、また14節以下に記されているペトロの説教となって語られました。弟子たちに与えられたこのような言葉の賜物によって、この日エルサレムで3千人ほどの人が洗礼を受け、世界最初の教会がここに誕生したのです。そしてそれ以来、聖霊なる神はいつの時代にも、世界中至る所で、言葉の賜物を始めとして多くの賜物を信仰者にお与えくださり、主キリストの体なる教会を建てるために働いておられます。今日もそのお働きは続けられています。

 最後に、少し戻って2節の「天から」という言葉に注目したいと思います。聖霊は、天におられる父なる神と、天に昇られ父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストから派遣される霊であるということを前にお話ししました。聖霊は天から与えられます。天から与えられる恵み、力、賜物です。それは本来人間に備わっている能力とか、人間が努力して勝ち得た技術とかでは全くありませんし、あるいはまた人間の感情とか熱意とかでもありません。それは徹頭徹尾、天から、神から、主イエス・キリストから与えられる霊であり、霊の賜物です。

 したがって、だれもそれを誇ることはできませんし、それを自分だけのものにすることもゆるされません。主なる神の栄光と、主キリストの福音宣教と、教会の群れの成長のために用いられ、ささげられるべきものです。そうである時に、わたしたちの教会とわたしたち一人一人の信仰生活が豊かな実りを結ぶことになるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちに聖霊の賜物をお与えください。わたしたちの教会を聖霊の賜物で満たしてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。