6月21日説教「主イエスの宣教活動」

2020年6月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章6~11節

    ルカによる福音書4章14~15節

説教題:「主イエスの宣教活動」

 新約聖書には四つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネですが、前の三つを「共観福音書」と言います。というのは、この三つは福音書の構造や記述内容などが非常によく似ていて、一字一句全く同じという個所も少なくなく、互いに観察しあって書いた、あるいは編集したと考えられるからです。今日の研究では、マルコ福音書が最も早くに書かれ、おそらく紀元60年代、すなわち主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活され、50日後のペンテコステに最初のエルサレム教会が誕生してからおよそ30年後に書かれ、マタイとルカ福音書はそれから10~20年後に、おそらくはマルコ福音書を参考にしながら書いたと推測されています。ヨハネ福音書は共観福音書とはだいぶ趣が違っていますので、これを第四福音書と呼んだりします。これは、紀元80~90年代に書かれたと考えられています。

 共観福音書と言われる三つの福音書、それに第四福音書と言われるヨハネ福音書、これら四つの福音書に書かれている中心的な内容、それが主イエス・キリストであるということは言うまでもありません。四つの福音書は、それぞれの特徴を持ち、強調点の違いがあり、言葉遣いの違いなどもありますが、それがわたしたちに語りかけているのは、神が全人類のための救い主としてこの世にお遣わしになった主イエス・キリストであり、主イエス・キリストが宣べ伝えられた神の国の福音であり、神の永遠の救いのみわざです。

 わたしたちはルカ福音書を続けて読んでいますが、共観福音書と言われる他の二つの福音書を参考にしながら読むと、理解が深まります。きょうの礼拝で取り上げるのは、ルカ福音書4章14~15節の短い箇所ですから、これを他の二つの福音書を読み比べながら、丁寧に、詳しく学んでいくことにしたいと思います。

「新共同訳聖書」では読む人の参考のために、その個所の表題と、共観福音書の並行個所を記しています。マタイ4章12~17節、マコ(マルコ)1章14~15節と書いてありますので、聖書を開ける人はその個所を開いてください。【マタイ4章12~17節】(5ページ)。【マルコ1章14~15節】(61ページ)。表題の「ガリラヤで伝道を始める」はみな同じです。記述内容は、三つに共通している点があり、マタイとマルコに共通している点、またそれぞれの特徴も読み取れます。ここには、それぞれの福音書全体の特徴もよく表れています。それらの研究課題の一つ一つをすべて取り上げていくと、神学校の1週間分の講義になりますので、きょうはその中のいくつかに触れながら、主イエスの福音宣教の初めについて学んでいくことにしましょう。

第一に取り上げる点は、ルカ福音書14節の「イエスは〝霊〟の力に満ちて」というみ言葉です。これは、マタイにもマルコにもありません。ルカ福音書の大きな特徴の一つだということが分かります。前回にも触れたことですが、ルカ福音書は特に、霊、神の霊、聖霊を強調します。これは、同じ著者によると思われる使徒言行録にまで受け継がれていきます。

主イエスの誕生予告の個所で聖霊について語られています。1章35節の天使がマリアに語ったみ言葉【35節】(100ページ)。わたしたちが「使徒信条」の中で「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と告白しているとおりです。次に、主イエスの受洗の個所、【3章21~22節】(106ページ)。そして、荒れ野での誘惑の場面、【4章1節】(107ページ)。

主イエスは誕生の時から、公のご生涯が始められる受洗の時、荒れ野での悪魔の誘惑との戦いと勝利、そして福音宣教の開始、そのすべてが聖霊なる神のみ力とお導きによるということを、ルカ福音書は強調しているのです。主イエスはご自身の願いや計画や意志によって公のご生涯を始められるのではありません。父なる神の永遠の救いのご計画に従い、聖霊なる神の力とお導きによって、すべてのみわざをなさるのです。この福音書に描かれている主イエスのすべての活動、神の国の福音の説教、奇跡のみわざ、そしてご受難と十字架の死、復活、それらすべてのことが父なる神のみ心に従い、聖霊なる神のお導きによってなされるのです。また、そうであるからこそ、主イエスはそれらすべてのみわざを喜びをもってなすことができたのであるし、そのみわざによってわたしたちのための救いを完成されるのです。

同じことは、わたしたち一人一人の信仰の歩みにもあてはまります。わたしが初めて教会に招かれた時、わたし自身はまだそのことに気づいてはいませんでしたが、そこには聖霊なる神のお導きがありました。わたしが信仰を告白して洗礼を受ける決意を与えられた時、信仰者として教会に仕え、キリスト者としての証しの生活をする時、そのすべてにも聖霊なる神のみ力とお導きがあったのだということ、父なる神の永遠のご計画があったのだということ、そう信じる時にこそ、わたしは喜びと希望をもって信仰の歩みを続けることができるのです。もし、それらを自分の願いや計画でしたのであれば、わたしたちはある時には自分を誇って傲慢になったり、ある時には失敗して失望しなければなりません。わたしの信仰の歩みのすべてが聖霊なる神に導かれたものであるようにと祈り求めることが大切です。そうである時にこそ、わたしの信仰の歩みが確かに終わりの日の完成に向かっているということを信じることができるからです。

「霊の力に満ちて」はルカ福音書全体に貫かれているだけでなく、ルカが続編として書き著した使徒言行録にまで続いています。使徒言行録1章8節にこのように書かれています。【8節】(213ページ)。そして次の2章では、五旬祭(ペンテコステ)の日に弟子たちに約束の聖霊が注がれて、エルサレムに最初の教会が誕生した次第について書かれています。全世界の教会は聖霊なる神がお与えになった実りであり、聖霊なる神の活動そのものです。

14節に続けて「ガリラヤに帰られた」とあります。どこから帰られたのかというと、4章1節に書かれていたように、洗礼者ヨハネが活動していたヨルダン川沿いの地域、おそらくはイスラエルの南のユダヤ地方から、さらに悪魔の誘惑の場面である同じユダヤ地方の荒れ野から、北の方角のガリラヤ地方へと、距離にして約100キロほど移動されたと推測されます。ユダヤの荒れ野からガリラヤへ、主イエスのこの移動は何を意味するでしょうか。一つには、主イエスはユダヤの荒れ野にとどまってはおられなかったということです。荒れ野で修業したり、一人で瞑想し、悟りを開くということが主イエスの目的ではありません。人々が住んでいる町々村々で、その人々の生活の中で、特にも、困窮したり、重荷を背負ったり、苦しみや痛みの中にある人々と共に歩み、彼らに神の国の福音を語り、罪のゆるしと救いの恵みを語り伝えることが主イエスの活動の目的です。主イエスはわたしたちの生活のただ中に入って来られます。

もう一つは、ガリラヤのナザレが主イエスの故郷だったからです。2章39節にも、主イエスがご両親のヨセフとマリアと一緒にエルサレムからガリラヤのナザレに帰ったと書かれていました。しかし、4章14節で「ガリラヤに帰られた」とあるのは2章39節とは意味が違います。主イエスはご両親が住むナザレの町でご両親とまた一緒に住むために帰られたのではありません。おそらく主イエスは、公のご生涯が始まって以後は、実家に立ち寄るとか、実家で少しの間休養を取るとか、そのようなことは一度もなされなかったのではないかと思われます。主イエスがガリラヤ地方へ帰られたのは、この地方の人々に神の国の福音を宣べ伝えるために他なりません。彼等に罪のゆるしの福音を語り、悔い改めて神に立ち帰ることを勧めるためでした。

さらに積極的な意味を、マタイ福音書から知らされます。マタイ福音書4章15、16節では、イザヤ書8章23節と9章1節の預言を引用して、その意味を語っています。神が主イエスを最初にガリラヤ地方へと遣わされたのは、辱められ、見捨てられ、暗闇に閉ざされていた異邦人の地であるガリラヤに大きな光を輝かせるという預言者イザヤのみ言葉が成就するためだとマタイ福音書は語っています。

これには、旧約聖書時代からの歴史的背景があります。イスラエルはソロモン王の死後、紀元前922年に南北に分裂しました。南王国ユダがソロモン、ダビデと受け継がれる正統的な王国でしたが、北王国は200年後の紀元前721年にアッシリヤ帝国によって滅ぼされました。アッシリヤは占領政策として外国人を北王国に移住させたために、北王国のユダヤ人は外国人と混ざり合い、異教的な信仰がはびこるようになっていきました。そのために、北のサマリアやガリラヤ地方は、純粋な民族的宗教を重んじるユダヤ人からは異邦人に呼ばわりされ、軽蔑されていました。イザヤ書の預言はそのような北王国の歴史を背景にしています。

神はその異邦人の地、暗黒の地と呼ばれていたガリラヤを、主イエスの福音が語られる最初の地として選ばれたのです。ここには、聖書の中で繰り返されている神の選びの不思議があります。神はあえて小さなもの、貧しいもの、見捨てられている者、暗黒の地に住む人たちを選ばれ、救いの恵みをお与えくださいます。それはだれも神のみ前で誇ることがないためです。だれもが、神に選ばれる資格も可能性も全くないにもかかわらず、神の一方的な恵みの選びによって、救われ、神の民とされたことを感謝するためです。

次に、14節と15節で二度にわたって強調されている点は、主イエスがガリラヤ地方の人々に歓迎され、尊敬をお受けになられたということです。民衆が主イエスを喜び迎えたということは、当時のユダヤ人、また特にガリラヤの人たちが、神の救いの時の到来を待ち望んでいたことを示していると理解することもできますが、しかしまたその期待もすぐに、あえなく崩れ去るという失望感を強調してもいるのだということにすぐ気づきます。16節以下のナザレで主イエスがお受けになった最初の迫害、拒絶によって、そのことがすぐに明らかになります。そのことについては次回に詳しく学ぶことになります。

最後に、「イエスは会堂で教えられた」というみ言葉を学びましょう。会堂とは、ユダヤ教の地方にある礼拝所のことです。動物を犠牲としてささげる礼拝は、エルサレムにある神殿以外では認められていませんでした。地方の会堂では、安息日ごとに(ユダヤ教では土曜日ですが)礼拝がささげられていました。その会堂での礼拝についても次回学びますが、主イエスはしばしばその会堂で説教されました。主イエスの説教、教え、福音は旧約聖書の教えとユダヤ教の会堂を母体にしています。しかし、その内容は会堂でのユダヤ教の教えとは全く違っていました。主イエスの説教、主イエスの福音は、旧約聖書の預言の続きではありません。預言の成就です。ユダヤ教の律法ではありません。神の国の福音です。主イエスはユダヤ教の会堂で、ユダヤ教の教えではなく、新しいキリスト教の教えを説教されました。神にはじめに選ばれたユダヤ人、イスラエルの民だけでなく、選びから落ちたガリラヤの人たちも、選ばれなかった異邦人たちも、全世界のすべての人たちが救いへと招かれている。ユダヤ教が教えるように律法を守ることによってではなく、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、すべての人が罪ゆるされ、救われる。その福音を主イエスはガリラヤで説教され、今もわたしたちにその福音を語っておられます。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちを主イエス・キリストの福音へと招いてください。全

世界のすべての人々を、主イエス・キリストの福音へと招いてください。

○主なる神よ、あなたが創造され、あなたが全能のみ手をもってご支配しておら

れるこの世界が、あなたのみ手を離れて滅び行くことがありませんように。全地のすべての国・民をあなたがあわれみ、この地にあなたのみ心を行ってください。

○神よ、特にも、小さな人たち、弱い人たち、見失われている人たちをあなたが

助け、励まし、導いてください。病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、試練の中にある人たち、孤独な人たちの歩みにあなたが伴ってくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月14日説教「アダムからノアまでの系図」

2020年6月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記5章1~32節

    ヘブライ人への手紙11章1~7節

説教題:「アダムからのノアまでの系図」

 創世記5章にはアダムから始まるノアの大洪水以前の最初の人間たちの10世代にわたる系図が書かれています。旧約聖書にはこのほかにも多くの系図があります。歴代誌はそのほとんどが系図で占められています。マタイ福音書1章とルカ福音書3章には主イエスに至るまでの系図があります。聖書の民であるイスラエルにとっては、系図が非常に重んじられていました。なぜ系図が重要な意味を持つのかを考えることが、きょうの創世記5章を理解する基礎になります。

 1節で「系図」と訳されているヘブライ語は2章4節で「由来」と訳されている語と同じです。本来この言葉は「出産」を意味します。そこから、誕生の由来や歴史、成立史という意味を持つようになったと考えられます。ここからわたしたちは「系図」が持つ重要な意味の一つを教えられます。それは、神が始められ、神が導かれる世界と人間の歴史を意味しているということす。神が全世界を創造され、神が最初の人間アダムとエバを創造され、その命を誕生させてくださった、その人間の誕生と命のつながり、連続、それが系図です。系図、由来の原点、出発点には主なる神がおられるのです。ルカ福音書3章38節には、「エノシュ、セト、アダム、そして神に至る」と書かれているとおりです。神が始められた世界と人間の歴史、神の救いの歴史は、決して中断されることなく、その完成に向かって継続されていくのです。これが、系図、由来の第一の意味です。

 創世記12章からの族長アブラハムの時代からは、系図に新たな意味が加わりました。それは、系図が神の選びの歴史の確かなしるしであるということです。神は地の表からまずアブラハムを選び、彼をご自身の民として召され、彼と契約を結ばれました。神の選びと契約はアブラハムの子イサク、ヤコブ、そしてヤコブ(すなわちイスラエル)の12人の子どもたちによって形成されるイスラエルの民の選びと契約によって具体化されていきました。神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出され、シナイ山でこの民と契約を結ばれ、ご自身の民とされました。その契約はダビデ王からソロモン王と南王国ユダの子孫へと受け継がれました。その神の選びと契約の歴史、これが系図の第二の意味です。

 系図のもう一つの、最も重要な意味は、神が開始された創造と救いのみわざは、神の選びと契約の歴史を通して、その完成であるメシア・キリスト・救い主の到来を待ち望み、主イエス・キリストを目指し、主イエス・キリストによって完成されるということです。旧約聖書の書かれているすべての系図は、そして新約聖書マタイ福音書とルカ福音書の系図ももちろんそうですが、そのすべてが主イエス・キリストにつながっている、主イエス・キリストを目指している、主イエス・キリストによって完結している、その最終目的に達しているということ、つまり、その系図によってわたしたちを主イエス・キリストへと導くということ、それが系図の最も重要な意味、役割なのです。

 以上のことを念頭に置きながら、創世記5章を読んでいきたいと思います。【1~2節】。ここでは、創世記1章26~28節で書かれていた内容をまとめています。復習になりますが、4つの点を再確認しておきましょう。第一点は、「創造する」という言葉です。ヘブライ語で「バーラー」、これは、神が主語になる文章でしか用いられません。ただ神だけがなさる、特別な創造のみわざを言い表す言葉です。神は何の材料も道具をも用いず、神がお語りになる言葉ですべてのものを創造されました。無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして、神は天地万物と人間を創造されました。したがって、わたしたち人間の命と存在のすべてが神から与えられている、神によって支えられ、養われ、導かれているということがこの言葉では強調されているのです。

 第二点は、「神に似せて」ということです。神は人間を、ただ人間だけを、ご自身のお姿に似せて、ご自身に近い存在として、ご自身と深く交わる者として創造されました。わたしたち人間は神がお語りになるみ言葉を聞き、それを理解し、それを信じ、神を礼拝することによって、わたしもまた神のお姿に似せて創造されているということを知らされるのです。

 第三は、神は人間を「男と女に」創造されたということです。一人だけで生きるのではなく、男と女として、互いに違った者でありながら、共に生きる連帯的人間として、隣人を愛し、隣人に仕え、共に主なる神にお仕えする共同体として人間を創造されました。

 第四は神の「祝福」です。人間は神の祝福を受けてこの世に誕生し、神の祝福を次の世代へと受け継いでいきます。神に選ばれた信仰者の家には神の祝福が途絶えることはありません。以上の4つのことが、アダムから始まるすべての人間に引き継がれ、受け継がれていきます。

 【3~5節】。3節の「自分に似た、自分にかたどった」とはどういうことを意味するでしょうか。神が最初に人間アダムを創造された時の、26、27節の「神に似せて、神にかたどって」と同じ言葉が用いられてはいますが、内容は必ずしも同一というわけではありません。なぜならば、創世記3章に書かれているように、アダムは神のお姿に似せて創造されたという「神のかたち」を自らの罪によって破壊し、失ってしまったように思えるからです。だとすれば、5章3節は二重の意味を持つことになります。一つは、神のかたちに似せて創造されたという、人間に対する神の大きな愛と恵み、今一つは、その神の恵みを失ってしまったという人間の罪。アダムの子どもセトはその二つを父から受け継ぐのです。また、それ以後のすべての人間も、わたしたちもまたその二つを父と母から受け継ぎ、また子へと受け継ぐのです。

いや、それだけではありません。さらにもう一つのことを付け加えなければなりません。5章3節で、あえてここにもう一度「似ている、かたどった」という1章26、27節の言葉が繰り返されているのは、ここでも、最初に神がアダムを創造された時の神の大きな恵みと愛とが、アダムの罪にもかかわらず、それが決して失われてはいないということが暗示されているということであり、さらに言うならば、やがて神はメシア・キリスト・救い主を世にお遣わしになる時には、あの失われた「神のかたち」を再び取り戻されるということを預言しているのだということです。神はご自身のかたちそのものであられるみ子・主イエス・キリストによって、罪によって失われた「神のかたち」をわたしたちのために再創造してくださったのです。

さて、イスラエルの系図においては、長男がその家を受け継ぐのが一般的でした。しかし、セトはアダムの長男ではありません。長男は4章1節に書いてあるように、カインでした。ところが、カインは弟アベルを殺したために、神に呪われた人として、地をさまよわなければならなくなったと4章に書かれていました。そして、4章25、26節にはこのように説明されています。【25~26節】。この説明によれば、アダムの長男カインは弟殺しの罪のゆえに、神に捨てられ、神は代わって別の男の子セトをアダムに授けられたということになります。そして、カインではなくセトがアダムの家を受け継ぐようになったのです。イスラエルの系図は、機械的に長男に受け継がれるのではなく、そこには神のみ心、神の救いのご計画が含まれているということを、ここでも確認できます。

次に、ここに挙げられている10世代のすべてが、今日では考えられないような高齢であることに、だれでも気づかれるでしょう。最も高齢は8世代目、27節のメトシェラは969歳、最も短くてもその前の23節、エノクの365歳、10世代を平均すると858歳になります。これについて、さまざまな解釈が試みられています。

これを神話的な表現ととらえて、その数字をまともに取り上げる必要はないという考えがあります。古代バビロニアやエジプト、インドなどにも、原始時代の神々たちや神格化された王たちの長寿の記録が残っています。日本の神話でも神々は何万年も生きたと書かれています。しかし、創世記もそれと同じだと理解することは適当ではありません。創世記の系図は神々の系図ではなく、神によって創造された人間ダアムとその子孫の系図です。地上に生まれ、地上に住み、そして地上で死んでいった人間たちの系図です。アダム、族長アブラハム、イスラエルの民、ダビデ、そしてヨセフの子としてこの世においでになられた主イエスへと至る人間の系図です。

古代の一年の長さは、月の満ち欠けで数えていたのではないかと推測する考えもあります。そうすれば、最高齢の969歳は実際には80歳ということになり、あり得ない寿命ではありませんが、しかしそうすると、子どもを産んだ年が10歳にも満たなくなり、この数え方も納得いくものではありません。

あるいはまた、ここに挙げられている名前は個人名ではなく、部族とかの世襲の名前ではないかという考えもあります。しかし、その場合にも、「子どもを産んだ」、「息子と娘を生んだ」が何を意味するのかがはっきりしなくなります。

結局、ここに書かれている寿命の長さについての、聖書的、信仰的な説明はまだ見いだせないというほかありません。そのことを認めたうえで、わたしたちは別の側面からのアプローチによって、ここの書かれている系図とその寿命の信仰的な意味を探っていく必要があります。

そこで注目したいことは、これら10人の父祖たちの寿命は驚くほど長いのは事実ですが、みな同様に最後には「そして死んだ」と書かれている点です。【5節】。【8節】。このあと、11節にも、14節にも、みな同じように「そして死んだ」と書かれています。彼らはみな死すべき人間であったということにおいては、みな同じ運命にありました。みな同じように、その罪ゆえに神の裁きを受けて死すべきものとなったアダムの罪と神の裁きとを受け継いでいるのです。この点において、前に紹介した古代社会に伝わっている神話的な物語と聖書の系図とは根本的に違っています。

聖書が伝える系図は、人間の罪と神の裁きの歴史であるのだということを、わたしたちは正しく理解し、恐れをもって受け止めなければなりません。そのうえで、その系図の終わりへと目を向けるべきことがより一層強く求められていることに気づかされるのです。神はその系図の最後に、人間の罪と神の裁きを、人間の救いと神の愛に変えてくださるメシア・キリストであられる、ヨセフの子、主イエスを置かれました。主イエス・キリストによって、アダムから始まった人間の系図は締めくくられ、完成され、それによって神の救いの歴史は最終目的に達したのです。

きょうのみ言葉の中で、そのことをあらかじめ暗示している箇所を読んでみましょう。【21~24節】。エノクは10人の中でも最も短命です。そうであるのに「神と共に歩んだ」と二度繰り返されています。そしてさらに、「神が取られた」とも書かれています。エノクは死を見ないで、直接に神のみ手によって天に引き上げられました。地上での限りある、死すべき生涯を、神と共に歩む者を、神はこのようにして天に引き上げてくださり、神のみ国へと招き入れてくださり、永遠の命を与えてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、朽ち果てるしかないわたしたちの命を、あなたのみ手によって支え、

導いてください。

6月7日説教「すべての必要を満たしてくださる神に感謝して」

2020年6月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編23編1~6節

    フィリピの信徒への手紙4章10~23節

説教題:「すべての必要を満たしてくださる神に感謝して」

 フィリピの信徒への手紙を続けて読んできました。きょうは最後の個所です。ここでパウロは、この手紙を書くに至った直接的な理由について書いています。それは、すでに2章25節で簡単に触れたことですが、フィリピ教会が獄中のパウロにエパフロディトという人を派遣して、贈り物を届けてくれたことに対する感謝を述べることです。きょう朗読された10~20節では、確かにフィリピ教会に対するパウロの感謝が語られていますが、ここには感謝という言葉そのものは一度も用いられていません。そこで、この個所を「感謝なき感謝」と呼ぶことがあります。パウロがここで語っている感謝とは、どのような感謝なのか。おそらくは、感謝という言葉では言い尽くせなかったのではないかと思われる、特別に大きな感謝と喜びとは、どのようなものであるのかを、ここから読み取っていきたいと思います。

 では、10節から読んでいきましょう。【10節】。「あなたがたがわたしへの心遣いを表してくれた」とパウロは言います。フィリピ教会からの贈り物が何であったのかについては何も書かれていません。18節では「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取った」とあり、その中身が何であったのか、お金か、食料か、衣類か、その他のものか、あるいはその量はどれほどだったのかも、ここでは全く触れられてはいません。パウロにとっては贈り物が何であったかということよりも、その贈り物を届けてくれたフィリピ教会の心遣い、パウロへの愛と祈りこそが重要だったのです。

 10節後半の「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかった」とは具体的にどのような理由があったのかについても、わたしたちには知られていません。フィリピ教会が経済的に貧しくてパウロを援助する余裕がこれまではなかったということなのか、教会の内外で迫害や信仰的な戦いに時間と労力を取られていたからか、あるいは何か他の理由があったからか、いずれにしても、フィリピ教会にはパウロを支援することを妨げるような事態が長く続いていたが、今、彼らのパウロに対する愛と祈りが再び実を結んで、このような具体的な支援となってパウロに届けられた、パウロはそのことを喜び、感謝しているのです。

 したがって、この個所から、フィリピ教会に対するパウロの何らかの不満を読み取ろうとすることは当を得ていないと思われます。「もっと早くに援助してくれればよかったのに」というような思いは、パウロには全くなかったと言うべきで、反対に、長く困難な状況が続いてきたのに、今ようやくにパウロとフィリピ教会との間に主にある豊かな交わりの道が開かれた、そのことをパウロは心から喜び感謝していると理解すべきでしょう。その理解をさらに深めるために、パウロが伝道者に対する報酬や支援をどう考えていたかということ、またパウロとフィリピ教会とのこれまでの関係についてみておくのがよいと思われます。

 パウロは基本的には、神のみ言葉を宣べ伝える務めにある伝道者や使徒は、その働きの報酬を得るのは神から与えられている当然の権利であり、彼らの生活は教会によって支えられるべきである。神のみ言葉に仕える伝道者から霊の賜物を受ける教会が、彼らに肉の賜物を惜しみなく差し出すことは、神がお喜びになることだと、パウロは繰り返して述べています。実際に、当時のユダヤ教でも、また初代教会でも、教会で神のみ言葉の宣教に仕える教師や巡回伝道者は非常に重んじられていました。しかしまた、そのような良い待遇を期待して、本来の神のみ言葉のための奉仕者であるという務めをおろそかにする偽りの伝道者もまた少なからずいたようでした。

 そこで、パウロ自身は、自らそのような誤解を招かないためにも、伝道者として当然に受け取るべき報酬を受け取らないと決め、自分の生活費は天幕づくりの収入などによってまかなっていました。15、16節で彼はこのように言っています。【15~16節】。パウロは第二回世界伝道旅行の後半で、小アジアからエーゲ海を渡ってマケドニア州のフィリピに行き、教会の基礎を築ました。フィリピ教会はヨーロッパでの福音の初穂でした。それからテサロニケ、コリントへと伝道旅行を続けました。その際に、パウロは伝道者としての報酬は受け取らないという彼の基本姿勢は貫きながらも、ただしフィリピ教会からの支援は喜んで受け取りました。この教会との深い信頼関係の中では、偽りの伝道者であると誤解される心配は全くなかったからです。

14節ではこのように言います。【14節】。パウロはフィリピ教会を福音宣教のための戦いの同志、戦友とみています。あらゆる地でパウロを襲ってくるユダヤ教やローマ帝国からの迫害、投獄、あるいは異端的な教え、教会を混乱させる偽りの伝道者たち、それらとの日々の戦いの中で、フィリピ教会はパウロのために経済的な支援と祈りと愛をささげることによって、共に福音のために、信仰の戦いを共にしてくれたのだ、そのようにしてわたしと共に戦ってくれた教会はただあなたがただけだとパウロは言っています。

パウロとフィリピ教会とのこのような関係の中で、10節をもう一度読み返してみると、フィリピ教会が今再び獄中のパウロに使者を派遣し、贈り物を届け、彼らの愛と祈りがこのようにして実りを結ぶことができたということを、パウロがどれほどに喜び、感謝しているかが理解できるように思います。まさにそれは、「主にある大きな喜び」なのです。主キリストがこの喜びを与えてくださったのです。「喜びの書簡」と言われるこの手紙の最後の個所でわたしたちは今一度「喜び」「主にある喜び」を聞きます。これは、主イエス・キリストが作り出してくださった喜び。です。贈り物の質や量からくる喜びではありません。パウロの必要が満たされたということからくる喜びでもありません。あえて言うならば、フィリピ教会のパウロに対するあつい祈りと深い愛からくる喜びでもなく、それらのすべてをパウロとフィリピ教会のために作り出したくださった主イエス・キリストからくる大きな喜びなのです。

このような主イエス・キリストから与えられる大きな喜びの前で、パウロは自分の必要性とか欲求とか、あるいは不満とかのすべてが、小さなものに、取るに足りないものになるということを続けて語ります。【11~13節】。ここで重要なポイントは、パウロにこのような生き方を可能にしているのが何であるかということです。11節では「習い覚えた」とあり、12節では「授かっています」とあり、13節でははっきりと「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と書かれています。パウロにこのような生き方を可能にしているのは、ほかでもない主イエス・キリストなのです。わたしたちを罪から救い出すために、ご自身が罪びとの一人となって十字架で死んでくださった主イエス・キリスト。わたしたちをすべての苦難や試練の中から救い出すために、ご自身があらゆる試練を経験され、ご受難への道を進み行かれた主イエス・キリスト。わたしたちを信仰にあって豊かにするために、ご自身はすべてを投げ捨てて貧しくなられ、父なる神に全き服従をささげられた主イエス・キリスト。わたしたちの弱さの中でこそ、その恵みを豊かに注いでくださり、「わたしの恵み、汝に足れり」(コリントの信徒への手紙二Ⅰ2章9節参照)と言ってくださる主イエス・キリスト。パウロはこの主イエス・キリストから、このような生き方を学び、このような生き方へと導かれたのです。

わたしたちはここで主イエスのみ言葉を思い起こします。「何を着ようか、何を食べようかと、着物や食べ物のことで思い煩うな。天におられる父なる神はあなたのすべての必要を知っていてくださり、それを備えてくださる。だから、思い煩うな。ただ、神のみ国と神の義とを求めなさい」(マタイ福音書6章25節以下参照)。またこのように言われました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。義に餓え乾く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」(同5章3節以下参照)。主イエス・キリストを信じて歩む道に、真実の喜び、平安、希望があるのです。

フィリピ教会からのパウロへの贈り物が、彼にとっての大きな喜び、感謝であった理由のもう一つのことが17節以下に書かれています。【17~19節】。パウロはここで、彼のために届けられた贈り物を「神へのささげもの」とみています。その贈り物がパウロを喜ばすとか、パウロの必要性を満たすとか、もちろんそのようなことも当然の結果として生じるとしても、それ以上に重要なことは、その贈り物が神へのささげものであり、神がそれを喜んで受け入れ、神がそれをご自身のご栄光のために尊く用いてくださり、福音の前進のために役立ててくださる、そのことをパウロは最も大きく、深く、喜び、感謝しているのだということです。

2章16、17節で、パウロは彼自身の伝道者としての生涯を顧みてこのように言いました。【16節b~17節】。パウロは彼の伝道者としての労苦に満ちた生涯のすべてを神へのささげものとして差し出しています。彼を待っている殉教の死をも、神にささげられるいけにえの血だと言うのです。今フィリピ教会が困難を乗り越えて獄中のパウロへの贈り物を届けてくれたこと、それもまた神への喜ばしいささげものだとパウロはここで強調しているのです。そのようにして、共に神の福音宣教のみ業に仕え、神の栄光の富に共にあずかることをゆるされているパウロとフィリピ教会の豊かな、祝福された交わりをわたしたちはここに見ることができます。

21節からは手紙を締めくくる神への頌栄と教会へのあいさつが書かれています。【21~23節】。パウロは手紙の冒頭の1章2節で「わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように」と祈り、手紙の終わりでも「主イエス・キリストの恵みが、あながたがの霊と共にあるように」と祈っています。主イエス・キリストの恵みがこの手紙全体に満ちています。また、主イエス・キリストの恵みが、パウロとフィリピ教会とを包み、そして今その手紙を礼拝で読んでいるわたしたちにも満ちています。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしとわたしのすべてを喜んであなたにおささげするも

のとされますように。それによって、わたしとわたしたちの教会とこの世界とを、主キリストの恵みで満たしてください。

○主なる神よ、あなたが創造され、あなたが全能のみ手をもってご支配しておら

れるこの世界が、あなたのみ手を離れて滅び行くことがありませんように。全地のすべての国・民をあなたがあわれみ、この地にあなたのみ心を行ってください。

○神よ、特にも、小さな人たち、弱い人たち、見失われている人たちをあなたが

助け、励まし、導いてください。病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、試練の中にある人たち、孤独な人たちの歩みにあなたが伴ってくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月31日説教「聖霊の賜物を受ける」

2020年5月31日(日) 秋田教会主日礼拝(聖霊降臨日)説教

聖 書:イザヤ書44章1~8節

    使徒言行録2章37~42節

説教題:「聖霊の賜物を受ける」

 使徒言行録2章には、ユダヤ人の祭りである五旬祭・ペンテコステの日に、エルサレムに世界最初の教会が誕生した時のことが詳しく描かれています。主イエスが十字架につけられた過ぎ越しの祭りから50日目のペンテコステの日に、弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊に満たされた弟子のペトロが立ち上がり、説教をしました。2章14節以下にその説教が記録されています。神は主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、全人類のための救いのみわざを成し遂げてくださり、今このペンテコステの日に約束の聖霊を注いでくださった。その聖霊のみ力によって、主キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられるようになったと、ペトロは説教しました。

 きょうの礼拝で朗読された37節からは、そのペトロの説教を聞いた人々の反応とペトロの洗礼への招き、そして信じて洗礼を受けた人が三千人であったことが書かれています。これがエルサレムに誕生した世界最初の教会です。これ以来、キリスト教会は聖霊なる神のみ力とお導きによって、二千年の間、全世界で主キリストの福音を宣べ伝えてきました。今、世界の教会が、世界の人々と共に、感染症の拡大によって大きな試練の中にありますが、このような時にこそ、わたしたちは教会誕生の原点から、教会とは何か、またその教会に集められているわたしたちの信仰とは何か、聖書のみ言葉から学んでいきたいと願います。

 【37節】。ペトロの説教を聞いた人々は「大いに心を打たれた」と書かれています。「打たれた」と訳されている言葉は、「突き刺す」とか「えぐる」という意味を持っています。心や魂が深くえぐられ、突き刺され、わたしの全身が激しく揺さぶられるような経験のことです。わたしの存在全体が、わたしの生き方の根本がそこでは問われているということです。そこで「わたしはどうしたらいいのか」という切羽詰まった問いが出てきます。人が神のみ言葉の説教を聞き、主キリストの十字架の福音を聞き、そしてそこに聖霊なる神が働かれる時、わたしたちはそのような激しく心を刺し貫かれるような経験をするのです。

 では、それは具体的にどのような体験なのでしょうか。すぐ前の36節でペトロはこう説教しました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。この説教を聞いた人々は主イエスを十字架につけて殺したその責任を今、鋭く問われていると感じたのです。50日前にエルサレムで過ぎ越しの祭りが祝われていたそのさ中に、罪なき神のみ子であられた主イエス・キリストが偽りの裁判によって十字架刑に処せられ、殺された。聴衆の中には、その場面に居合わせた人もいたでしょうし、そうでない人もいたでしょうが、あるいは多くの人々は直接にその裁判には携わってはおらず、傍観者であっただけかもしれませんが、けれども、ペトロの説教を聞いた多くの人が今その責任を問われている、罪なき神のみ子を十字架に引き渡したことにあなたの責任があるのだと告発され、激しく心を刺し貫かれたのです。神から遣わされた世の救い主・メシア・キリストを受け入れず、拒絶し、あざ笑って投げ捨てた自分の罪を、今告発されていることを知らされたのです。神のみ言葉の説教を聞くとき、そしてそこに聖霊なる神が働かれる時、そのような魂を刺し貫くような、わたしの全存在を根底から揺さぶられるような体験を、わたしたちもまたするのです。そして、「それでは、わたしはどうすべきなのか」と神に問わざるを得なくされるのです。

 36節のペトロの説教が聴衆に強い衝撃を与えたもう一つのことは、「このイエスを神は主とされた」という点にあったと思われます。多くのユダヤ人が、この人は偽りの預言者、神を冒涜する者と断定して捨て去ったナザレ人イエス、「十字架につけろ、十字架につけろ」という群衆の叫びの中で、黙して十字架への道を進み行かれた主イエスを、神は三日目に墓から復活させ、罪と死と滅びからの勝利者として天のご自身の右に引き上げられました。このこともまた聴衆の魂を激しく揺さぶるものでした。そこには、人間の罪にはるかに勝った神の限りない憐れみとゆるしがあったからです。

 「あなた方が十字架につけて殺したイエスを」という言葉は聴衆の罪を告発していますが、「このイエスを神は主とし、またメシアとなさった」という言葉は、彼らの罪をゆるし、救いの希望を与えるものでした。ここには、人間の罪の行為にはるかに勝る神の救いのみわざがあります。多くの人間がその知恵を結集して、裁き、捨て、罪なき神のみ子を十字架に引き渡したという人間の罪が勝利するのではなく、そのような人間の罪をもお用いになってご自身の救いのみわざを成就される神の愛とゆるしが、最終的に勝利するのです。人間たちのどのような罪の力も神の救いのご計画を変更させることも中止させることもできません。神の救いの恵みは人間の罪の力よりもはるかに大きいのです。ここにわたしたちの希望があります。罪と死とに勝利する神からの希望を差し出された時、聴衆はその魂を刺し貫かれたのでした。

 そこで、ペトロの説教を聞いた聴衆は、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問いかけました。この問いには二つの思いが交錯しているように思われます。一つには、今までは気づかなかった自分たちの罪を指摘された人の絶望的な思い、もう一つには、今新たに自分の目の前に差し出されている救いの希望、その二つのどちらを選ぶべきかという選択を迫られた人の問いかけであるように思われます。神のみ言葉の説教を聞いた人、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞いた人、そしてそこに聖霊なる神が働き、わたしの魂が刺し貫かれ、わたしの全存在が揺り動かされる、そのような体験をした人は、自分が今神のみ前に立たされていることを知らされ、神のみ言葉の前で新しい救いへの道へ招かれていることを知らされるのです。

 ペトロはこう答えます。【38~39節】。ペトロは聴衆を罪のゆるしへの道、救いへの道を選び取るようにと招いています。その道を選び取るために、彼はまず悔い改めを勧めています。悔い改めとは心を変えること、方向転換をすることです。聖書で心という場合、わたしたちが考える内容とは多少というか、根本的にと言うべきか、違っています。聖書で心とは、人間の感情だけでなく、考え、言葉そして行動のすべての源泉となっている、その人の中心、また全体を意味しています。悔い改める、心を変えるとは、その人全体の考え方、生き方、在り方全体が、全く方向転換することを言います。つまり、今までは神から遠ざかる罪の道を進んでいたけれども、それを180度方向転換をして、神の方に向かうということ、これが聖書の悔い改めです。何かの悪い行為とか、間違った行為とかを反省して、再び同じ過ちをしないようにするというのではなく、このわたしの全存在が、わたしの考えや行為のすべてが、神から離れ、神のみ心に背いていたことを知り、その罪を神のみ前で告白し、これからは、神の方に向きを変え、神と共に生きていくことを決断する。その時、聖霊なる神が働き、神ご自身が救いの恵みをもってわたしのところにおいでくださることを知らされる。わたしの罪のすべてをおゆるしくださり、わたしを神に愛されている神の子どもたちとして迎え入れてくださる。わたしはその救いの恵みを、感謝をもって受け入れ、神の導きに喜んで従っていく信仰の道を歩みだす。これが、悔い改めであり、罪のゆるしであり、信仰です。

そして、その罪のゆるしと救いの恵みを信じる信仰の証しとして、洗礼・バプテスマを受けるのです。洗礼によって、罪のわたしが主イエスの十字架と共に死んで、葬られ、また、主イエスの復活の命にわたしも共にあずかり、わたしが新しい罪ゆるされたわたしとして再創造されるのです。

 ペトロはさらに付け加えて、「賜物として聖霊を受けます」と約束します。「聖霊の賜物」には二つの意味が含まれます。一つは、神から賜る贈り物としての聖霊を受けるという意味、つまり、聖霊そのものが神の賜物であるということ。もう一つは、聖霊からもたらされる種々の賜物という意味です。使徒言行録ではほとんどの場合前者の意味で用いられていますので、『新共同訳聖書』ではその意味に限定して「賜物として聖霊を受けます」と翻訳しています。それに対して、使徒パウロの書簡では、聖霊なる神が与えてくださるさまざまな賜物のことが語られています。たとえば、神のみ言葉を説教する賜物、教えたり導いたりする賜物、あるいは、病気の人をいやしたり励ましたりする賜物、それらのすべては人間の力や知恵によるのではなく、聖霊なる神から賜った恵みの賜物なのです。コリントの信徒への手紙一12章にはそれらの賜物が挙げられており、続く13章では、それらの賜物の中で最大、最高の賜物は愛であると語られています。ローマの信徒への手紙12章6節以下で語られている聖霊の賜物について読んでみましょう。【6~8節】(292ページ)。ここでも、パウロは続けて9節以下で愛について詳しく語っています。パウロはこのように、主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、キリスト者となった人は、そのすべての新しい信仰生活が聖霊なる神に導かれ、聖霊なる神から与えられた霊の賜物を生かし、用いて、神と隣人を愛し、神と隣人とに仕える道を進んでいくのだと教えています。

 使徒言行録のきょうの個所でも、そのことは当然前提にされています。弟子のペトロが主イエス・キリストの救いのみわざを説教したのは、聖霊を注がれ、聖霊の力を受けて語ったのであり、聴衆がその説教を聞いて心を激しく刺し貫かれ、罪を知らされ、神の救いの恵みを喜んで受け取る決意へと導かれたこと、そのすべてにも聖霊なる神が働いておられ、聖霊の賜物によることであったのであり、そして何よりも、三千人余りの人が主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、ここに世界最初の教会が誕生したことこそが、聖霊なる神のみわざであったのです。

 そのうえで、使徒言行録が賜物としての聖霊ということを強調している点にも注意を払いたいと思います。聖霊は、いかなる意味においても、人間の感情とか、心や意志とかではなく、聖霊は神であり、人間の外から、上から、神によって与えられた聖霊なる神のお働きであり、時として人間の心や意志に反して、あるいは人間的な常識に反して、神ご自身が尊く深く、不思議なご計画のもとに働いておられる、それが聖霊なる神であるということです。使徒言行録はその聖霊なる神のお働きを記した聖書です。そこで、「聖霊行伝」とも呼ばれます。弟子たちや使徒たちに働かれた聖霊なる神の驚くべき、偉大なるお働きを記しているのが使徒言行録なのです。エルサレムから始まって、パレスチナ全域、地中海、さらにヨーロッパへと教会が発展していくのは、まさに聖霊なる神のお働きなのです。

今日においてもなお、聖霊なる神は全世界の教会を通して働いておられ、わたしたちのこの小さな教会でも、またわたしたち貧しい一人ひとりにも働いておられ、多くの賜物を与えてくださり、教会を豊かにしてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちの教会にも聖霊を注いでください。わたしたち一

人ひとりにも、聖霊の賜物をお与えください。わたしたちがそれを心から感謝して受け取り、神のご栄光のために用いることができますように、お導きください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

5月24日説教「荒れ野で悪魔からの誘惑と戦われた主イエス」

2020年5月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記8章1~10節

    ルカによる福音書4章1~15節

説教題:「荒れ野で悪魔からの誘惑と戦われた主イエス」

 主イエスは公のご生涯のはじめに、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったあとに、荒れ野で悪魔からの誘惑にあわれました。この二つのことは、時間的に続いているだけでなく、内容から言っても密接な関連があります。きょうはまずその関連について考えてみましょう。

 主イエスの洗礼の場面と荒れ野での誘惑の場面に共通している第一のことは、聖霊です。ルカ福音書3章21節には、主イエスが洗礼を受けられた時、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」と書かれていましたが、4章1節でも、「イエスは聖霊に満ちて」とあります。主イエスは洗礼をお受けになった時から、聖霊に満たされ、聖霊なる神のご支配とお導きによって、その公のご生涯をお始めになりました。荒野でも聖霊は主イエスから離れることはありません。いや、荒れ野で悪魔の誘惑と戦われたその時にこそ、主イエスは聖霊に満たされ、聖霊のご支配とお導きによって、その戦いに勝利されたのです。このことについては、あとでもう少し詳しく学ぶことにします。

 主イエスの受洗と誘惑の本質的な関連を考えてみましょう。主イエスは、すでに学んだように、罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち罪びとたちの中に入ってきてくださり、罪びとの一人となられて、悔い改めの洗礼をお受けになりました。それによって、わたしたちが主イエスを救い主と信じ、自らの罪を悔い改めて洗礼を受け、キリスト者となる、その最初の道を主イエスはわたしたちのために開いてくださったのです。

 荒れ野で悪魔の誘惑を受けられたことも同様の意味を持っています。天におられる全能の父なる神のみ子・主イエスが、ご自身を低くされ、貧しくされて、人間のお姿でこの世に下って来られ、わたしたち人間が経験しなければならないすべての誘惑や試練をご自身もまたお受けになられたのです。そして、悪魔の誘惑に勝利なさったのです。それは、わたしたち人間をあらゆる誘惑や試練の中で守るため、救うためにほかなりません。主イエスが経験された試練や苦難の意味について、ヘブライ人への手紙2章17、18節にはこのように書かれています。【17~18節】(403ページ)。また、【4章15~16節】(405ページ)、さらに、【5章8~10節】(406ページ)。わたしたちの弱さをすべて知っておられる主イエス、ご自身がそのすべてを引き受けてくださった主イエスこそが、わたしたちを本当に救うことができる唯一の救い主なのです。

 主イエスの受洗と荒れ野での誘惑との密接なつながりから教えられるもう一つの重要なことは、まさにその二つは本質的に切り離すことができないものだということです。主イエスの洗礼のあとにすぐに悪魔の誘惑が続いています。洗礼を受けるということは、悪魔の誘惑から逃げたり、それを避けたりすることではなく、あるいはそれらとの戦いをしなくても済むという保証でもなく、それらと積極的に戦って、それに勝利することへとつながっていくことなのです。

 ある人は誤解して、洗礼を受けてクリスチャンになれば、人生の悩みや迷い、苦しみがなくなって、災いや試練にもあわなくて済む、平穏な生活が送れるようになると考えます。また、わたしたちの周囲にはそのような幸運と繁栄を約束する宗教がたくさんあります。それらの宗教は人間の願いや計画をいかにして実現するかを主たる目的にしています。けれども、キリスト教信仰はそうではありません。人間の願いや計画ではなく、神のみ心、神の救いのご計画が実現することこそが重要なのです。そもそも、人間の願いや好みのままに働く神は、人間が勝手に造りあげた偶像に過ぎません。人間が造ったものは人間以上ではあり得ず、したがって本当に人間を救うことはできません。

 主イエス・キリストを救い主と信じるキリスト教信仰は、試練や苦難にあわない道を上手に選んで通るというのではなく、むしろどのような試練や苦難にあっても、それを恐れず、その中にあっても決して失望せず、主キリストが与えくださる勝利を信じて耐え忍び、戦い抜いていく勇気と力を与えるのです。それだけではありません。主キリストのため、信仰のため、福音宣教のためには、苦難や労苦をも喜んでわが身に引き受けるのです。信仰者として生きる時、それ以前には試練だとは思わなかったことが新たな試練となったり、それ以前には安易な妥協の道を選んでいたことが、新たな戦いを迫られたり、洗礼を受けたあとの方が苦しく辛い道になったりすることもあるでしょう。しかし、信仰者はそれらをも喜んで耐え忍び、その中にあってもなお、主キリストにある勝利を信じ続けるのです。主キリストご自身が、わたしに先立って、その道を進み行かれ、わたしのために罪と死と滅びに勝利しておられることを知っているからです。

 では、1~2節を読みましょう。【1~2節】。「イエスは聖霊に満ちて」の「聖霊」と、次の「霊」とは、同じ聖霊なる神のことです。14節の「霊」も同じです。きょうの悪魔の誘惑の場面では、悪魔が主人公であるように見えるかもしれませんが、実際はそうではありません。主イエスを満たしているのは聖霊なる神であり、聖霊なる神が主イエスを荒れ野の中へと導いておられるのです。きょうの場面だけではありません。14節から始まる福音宣教の活動と主イエスのご生涯全体が、聖霊なる神に導かれています。聖霊なる神のみ力によって、主イエスは悪魔の誘惑と戦われ、それに勝利されるのです。

 そのことを強調しているのが40日間の断食です。主イエスは肉体的には空腹であっても、聖霊に満たされていました。主イエスが悪魔の誘惑と戦う力は、栄養ある食物をたくさん食べて得られる体力ではなく、どこかの学校で学んだ学力でもなく、この世での経験を積んだ人生の知恵でもありません。むしろ、それらのすべてが貧しくなり、むなしくなり、無力になった時にこそ働かれる聖霊なる神によって、主イエスは悪魔の誘惑と戦われ、それに勝利されるのです。主イエスが40日間断食されたのは、ご自分の弱さに徹するためであったのです。聖霊なる神にご自身を明け渡すためであったのです。

 もし、キリスト者の断食に信仰的な意味を見いだすとすれば、それはここにあると言えるのではないでしょうか。自分の意志や要求を実現するためとか、自分の意見や立場を表明したり、あるいはだれかにそれをアッピールしたりする手段のためと言うよりは、自らを神のみ前にあって貧しくし、無力にして、神に自分を明け渡して、神ご自身がわたしの中でお働きくださることを願う、そして神のみ心がなるように祈る、そこにキリスト教的断食の意味を見いだすことができるのではないでしょうか。

 ところで、ルカ福音書では、主イエスを誘惑するのは「悪魔」と呼ばれていますが、マタイ福音書4章3節では「誘惑する者」、マルコ福音書1章13節では「サタン」と呼ばれています。これらはみな同じものを指しています。悪魔とかサタンとか言われると、何か恐ろしい、恐怖を与える悪い存在を予想するかもしれませんが、ここに登場する悪魔は必ずしもそうではありません。このあとで展開される三つの誘惑の場面を見ても、悪魔はむしろ優しく、人間思いで、英雄のような存在です。人間の必要性や、願望や欲望、好奇心や信仰心までをも刺激して、人間に近づいてくるのが悪魔です。

 悪魔、サタン、誘惑者に共通しているのは、主イエスを、そしてわたしたち人間を、父なる神から引き離そうとすることにあります。神に従わなくても、神なしでも生きていくことができる、むしろ自分が神のような存在になれると思い込ませることに、悪魔の誘惑があります。それは、聖書が言う罪と共通点を持っています。悪魔とかサタンと言われるものと罪とが、聖書の中では全く同じであると考えられているのかどうかについては議論の余地があるところですが、両者が同じ働きをするということは確かです。

 では次に、第一の誘惑についてみていきましょう。【3~4節】。ここでは、主イエスにとって二重の誘惑があります。一つには、ご自身が空腹を覚えられ、ご自身の肉体の必要を満たしたいという誘惑です。もう一つは、こちらの方が主イエスにとってはより大きな誘惑ですが、人々のパンの必要を満たすために神の子としての使命を果たしたいという誘惑です。当時の困難な状況の中で苦しんでいた貧しい民衆のために、あるいは、いつの時代にも深刻な課題としてある食糧難、パンの問題を、一気に解決できる魔法の力があれば、それで世界を救えるのではないか、そのための力を神から授かったらどんなにか幸いなことか。

 けれども、主イエスはその誘惑を退けられました。パンの奇跡によっては、本当に人間を救うことはできない、パンの問題を解決することによっては、本当に世界を救うことはできないと、主イエスは言われます。また、それが神の子・メシア・救い主であるわたしの使命ではないと、主イエスは言われます。人間と世界の本当の救いは、神がお語りくださる命のみ言葉を聞き、信じることによってであると主イエスは言われます。

 ルカ福音書では、「人はパンだけで生きるものではない」の後半は省略されていますが、マタイ福音書4章では申命記8章3節の全体が引用されています。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と主イエスはお答えになりました。パンは人間の朽ちる肉体を一時的に養うことしかできません。しかし、神のみ言葉は永遠に変わることなく、絶えず新しい命を注いでイスラエルの民を導き、全人類を神の国が完成されるまで導きます。主イエスはその神の国の福音を宣べ伝えるために、十字架への道を進み行かれたのです。

 第二、第三の誘惑に対しても、主イエスは神のみ言葉によってそれらを退けられます。【8節】。これは申命記6章13節のみ言葉です。【12節】。これは申命記6章16節からの引用です。主イエスは徹底して神のみ言葉によって誘惑と戦われます。そして、それに勝利されます。主イエスは神のみ言葉の前で、ご自身の権力と繁栄のすべてをお捨てになりました。主イエスは神のみ言葉に徹底して服従されました。フィリピの信徒への手紙2章8節にあるように、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順に」、父なる神に服従されました。それによって、わたしたちを罪と死と滅びから救ってくださったのです。荒れ野で悪魔の誘惑と戦われ、それに勝利された主イエスのご生涯とその歩みは、十字架と復活へと向かって進んでいきます。

 3節と9節で、悪魔は「お前が神の子なら」という言葉で主イエスを誘惑します。同じような言葉をわたしたちは主イエスの十字架の場面でもう一度聞くことになります。十字架につけられた主イエスに向かって、「お前が神の子・メシアなら、自分を救ってみろ」(ルカ福音書23章36節、マタイ福音書27章40節を参照)、と人々は叫びました。悪魔の誘惑は、まさに主イエスを十字架から引き下ろし、主イエスの十字架を否定することにあったのです。

 けれども、主イエスはご自分を救うことはなさいませんでした。十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従され、わたしたちの救いを全うされたのです。それゆえに、十字架の主イエス・キリストを信じる信仰によってこそ、わたしたちもすべての悪の誘惑やサタンの試みに勝利することができるのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちを罪と悪魔の誘惑から守り、お救いください。わたし

たちがただあなたの命のみ言葉にのみ聞き従って、備えられたみ国への道を進み行くことができますように、お導きください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

5月17日説教「カインの末裔-裁きではなくゆるしを」

マタイによる福音書18章21~35節

2020年5月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記4章13~26節

    マタイによる福音書18章21~35節

説教題:「カインの末裔―裁きではなくゆるしを」

 「カインの末裔」というきょうの説教題は、作家の有島武郎が1917年(大正6年)に発表した小説の題からつけたものです。創世記4章のカインとアベルの物語は、嫉妬や憎悪の思いに支配されて罪と復讐を繰り返していくというテーマで、多くの小説や映画の題材になりました。また、少し違った視点からカインとアベル物語を取り上げたドイツの作家ヘルマン・ヘッセは『デミアン』という小説を書いています。わたくしは青年時代に、この二つの小説を同じ時期に読み、人生や信仰について真剣に考えるきっかけとなったことを思い起こします。

創世記に描かれている神によって最初に創造された人間とその子孫たち、アダムとエバ、カインとアベル、そしてノア、またアブラハム、これらの人物はまさにその末裔である今日のわたしたち人間一人一人の原型であるのだと言ってよいのではないでしょうか。そしてさらに、旧約聖書全体に描かれているすべての人間たちの罪の歴史と、その中での神の救いの歴史が、新約聖書に至って、主イエス・キリストに合流していると言ってよいでしょう。

 きょうは前回の説教の最後で触れた10節のみ言葉をもう一度取り上げてみます。【10節】。カインは弟アベルに対する連帯責任、共に生きるという責任を果たすことができなかっただけでなく、嫉妬と憎悪によって殺害した弟のことを神に問われた時に、9節では「わたしは弟の番人でしょうか」とまで言っていました。カインは弟の血の責任を負うことはもちろんできません。その上に、彼は自分が犯した罪を神のみ前に隠そうとさえしています。ここに、人間の罪の最も悲惨で恐ろしい姿が現れています。また、人間の罪によって破壊された隣人関係のあわれで、またおぞましくもある姿が現れています。

 しかし、神はカインによって見捨てられ、土の下に覆い隠されたアベルの血の叫びを確かに聞いておられます。ヘブライ人の手紙12章24節のみ言葉を前回紹介しました。そこには「アベルの血よりも力強く語るイエスの血」と書かれています。主イエス・キリストが十字架で流された神のみ子の清く尊い血の叫びを、神は聞いてくださり、それによってわたしたちの罪をすべて、永遠に洗い流し、罪から清めてくださったのです。

 もう一つ、ヨハネの黙示録では、殉教者たちが流した血の報いを神が終わりの日に必ず果たしてくださるであろうと約束されています。死に至るまで忠実に主なる神に仕えた信仰者たちを、神は終わりの日の神の国が完成されるときに、輝く清い衣を着せられた花嫁として花婿なる主キリストのもとへと連れていかれると約束されています(ヨハネの黙示録19章、他参照)。神は信じる者たちの血の一滴をも、あるいはまた福音のための戦いで流された汗と涙の一滴をもすべて覚えてくださいます。そして、それに報いてくださいます。

 では、きょうの個所を読んでいきましょう。【13~15節】。神との正しい関係が壊れ、隣人との関係も壊れ、しかも悔い改めることをしなかったカインは神に呪われた者となりました。神の裁きが11~12節に書かれていました。神の裁きは二重にカインを苦しめました。彼が土を耕してももはや彼のために作物を生み出さず、彼自身も定住の地を持たず、地上をあてもなくさまよう放浪の身となりました。ここに至って、カインは初めて自らの罪の大きさに気づき始めたように見えます。彼は自分の罪の重さに耐えきれないことを告白しなければなりません。彼は神の憐れみを乞い求めざるを得ません。

 ここでわたしたちは重要なことに気づきます。あれほどに傲慢で、神をも恐れず、神に逆らっていたカインが、ここでは神から見捨てられることの重大さに気づき始めているということを。地上の放浪者となり、しかも神なき世界で生きていかなければならなくなったカインには、自分の身を守るすべが何一つないのだということを。それゆえに、神が恐るべき呪いによって厳しい裁きを彼にお与えになったのは、実は、彼にこのことを気づかせるためであったのだということを。そして、神はなおも罪と死と滅びの中にあるカインをお見捨てにはならず、ご自身へとお招きなっておられるということを、わたしたちは気づかされるのです。カインは恐れおののきながら、神の憐れみを願い求めます。

 そこで、神はカインに言われます。【15節】。神は殺されたアベルの血の叫びを聞かれただけでなく、殺人者カインの願いをも聞かれます。神はカインを復讐者の手から守ると約束されました。そのために、カインに一つのしるしをつけられました。それがどのようなしるしであったのかについては書かれていません。入れ墨とか大きなほくろとか、そのようものであったと推測されます。だれであれ、カインが意図的殺人によって流した血の復讐をすることは許されず、カインは神によって守られることになったのです。カインが犯した大きな罪によっても、神の憐れみと救いのみ手は決して消えることはありません。

 カインはエデンの東、ノドの地に住んだと16節に書かれています。「ノド」とは「さすらい」「動揺」という意味を持ちます。カインはまことの救い主に出会うまでは、帰るべき故郷を持たずに放浪とさすらい、動揺と不安の中で生きていかなければなりません。4世紀の偉大な神学者アウグスチヌスは彼自身の長い放浪生活の後でこのように言いました。「人は、まことの創り主なる神を見いだすまでは、その魂に真の安らぎを得ることはできない」と。神を見失い、神から離れたカインの末裔である人間は、真の故郷をも見失い、確固とした足場を持たず、あてもなく地をさまよい、さすらいと動揺と不安の中で生きるほかにありません。

 次に、17節からは、カインの子孫について書かれています。放浪を続けるカインはやがて結婚をし、子どもを産み、家庭を築き、その地に定住して町を建て、多くの子孫が住み着くようになりましから。20節からはいくつかの職業が挙げられています。家畜を飼い天幕に住む民族、竪琴や笛を奏でる民族、青銅や鉄で道具を作る民族など、農業や芸術、工業、文化と言われるものが発達し、大きな都市計画が進められていきました。そのようにして、カインの末裔たちはさすらいと動揺から何とかして抜け出そうと、今日まで歩みを続けてきたのでした。

 けれども、カインの末裔たちは町を作り、都市計画を進めることによって、神から追放されて放浪の身となったことを、ほんとうに忘れることができるのでしょうか。自分たちが造り上げた近代的な都市の中で、ほんとうの魂の安らぎを見いだすことができるのでしょうか。あるいは、神から与えられた厳しい刑罰を忘れ、いつかは神なしでも自分たちだけで立派にやっていけることを証明し、神を見返してやることができると考えているのでしょうか。町々に多くの人間を寄せ集めて、肩を寄せ合って生きることによって、失われた人間の交わりを取り戻すことができると考えているのでしょうか。都市の快適な生活が心の痛みや罪の意識やさすらいの孤独、動揺、不安のすべてを解決してくれると考えているのでしょうか。カインとカインの末裔たちのこの試みは果たして成功するのでしょうか。

 その答えは、23節、24節に、恐るべき結末になることが、カインの子孫レメクの歌として書かれています。【23~24節】。レメクは復讐の歌を歌っています。自分が受けた傷のために77倍もの復讐をしてやるぞと歌うのです。いや、ここで言われていることは、人間への復讐だけではありません。むしろそれは、神への反逆の歌と言うべきです。15節で、神はカインを殺す者には7倍の復讐をすると言われ、殺人者カインをも神は守ってくださるという神の憐れみが示されていましたが、しかしレメクはその憐れみ深い神に反逆するかのように、神の憐れみを投げ捨てるかのように、自分が神に代わって、神以上の復讐者になるのだというのです。レメクの復讐の歌は、神への反逆の歌であり、自らが神以上のものになろうとする、人間の傲慢で不遜で、限りない残忍さを歌った歌なのです。これが、神に背き、神なしで生きるカインの末裔たちの行き着く姿なのだということを、聖書はここであらかじめ予告しているのです。

 アダムとエバから始まった人間の罪、カインの兄弟殺しへと発展していく人間の罪は、やがて人々が集団を形成し、町を建設し、文化や芸術、産業が発展し、人間が高度な文化的生活、社会的生活を営むようになっても、その罪は小さくなることも、消え去ることもなく、いやむしる、人間の罪はいよいよ悲惨さを増していくしかないのです。

 だれがこの罪の世からわたしたちを救ってくれるのでしょうか。だれが人間のこの罪の歯車を、復讐の連鎖を止めることができるのでしょうか。

 主イエスはマタイ福音書18章21節以下で、ゆるしの回数を聞いた弟子のペトロにこのようにお答えになりました。【21~22節】(35ページ)。

レメクの歌は徹底的な復讐の歌でしたが、主イエスの教えは徹底的なゆるしの福音です。主イエスのゆるしには限界がありません。主イエスのゆるしは完全であり、永遠です。主イエスこそが、人間の罪の歴史を、復讐の連鎖を、ゆるしの福音によって終わらせるのです。わたしたち人間の罪のために、ご自身が苦しみを受けられ、十字架への道を進み行かれ、わたしたちの罪の贖いのためにご自身の尊く清い血を流してくださった主イエス、それによってわたしたちのすべての罪を永遠にゆるしてくださった主イエスこそが、わたしたちを再び神に愛されている神の民とし、神にある平安と慰め、喜びと希望へと招き入れてくださったのです。主イエスによって与えられたこの罪のゆるしから、わたしたちもまた互いにゆるし合い、愛し合い、共に一つの神の民とされていることを感謝しつつ、ゆるしの共同体、愛の共同体として生きる道が備えられているのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、わたしたちは造り主なるあなたを離れては、牧者を失った羊のよう

に、地をさまようほかにありません。神よ、どうかわたしたちをあなたのもとへと連れ戻してください。わたしたちのために命を捨ててくださった真実の牧者であられる主イエス・キリストによって、わたしたちを見いだしてください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

5月10日説教「主にあって常に喜びなさい」

2020年5月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書57章14~21節

    フィリピの信徒への手紙4章1~9節

説教題:「主にあって常に喜びなさい」

 「喜びの書簡」と呼ばれるフィリピの信徒への手紙の中には「喜び」という言葉が二十数回用いられています。もう一つ、この手紙の中で頻繁に繰り返される言葉があります。それは「主において」あるいは「主イエス・キリストにおいて(これは「主イエス・キリストに結ばれて」と訳されたりします)という言葉です。フィリピの信徒への手紙では21回用いられています。パウロの他の手紙でも、「主にあって」あるいは、それに似た表現は数多く用いられており、パウロの神学、パウロの信仰の大きな特徴を表す言葉です。きょうはまず初めに「主にあって」という言葉について学んでいきたいと思います。

 きょう朗読された箇所からそれを抜き出してみましょう。1節、「主によってしっかりと立ちなさい」、2節「主において同じ思いを抱きなさい」、4節「主において常に喜びなさい」、7節「キリスト・イエスによって守るでしょう」。この個所だけでも4回繰り返されています。ギリシャ語では「エン」(英語の「イン」にあたる)は「~の中で」という意味を持っており、聖書では「~にあって、~によって、~において、~に結ばれて」などと、それぞれの文脈で違った訳が付けられています。

 では、具体的にどのような意味を持つのでしょうか。「主キリストにあって」とは、最も広い意味で理解するならば、主キリストとの交わりの中でということになるでしょう。主キリストを信じる信仰によって、主キリストにつながれて、主キリストの十字架と復活の福音を聞き、主キリストの救いの恵みを受け取り、主キリストに支えられ、導かれながら、主キリストが先立ち行かれた天のみ国、神の国への旅路を続ける、そのような信仰者の生き方全体を規定する言葉が「主キリストにあって」であると言ってよいでしょう。つまり、わたしたち信仰者の存在と命と生活の起源、出発点が主キリストにあるということ、また、わたしたちの今、現在が主キリストにあり、さらには、わたしたちの将来、目的地もまた主キリストにある、そのすべてを含んで、パウロは「主キリストにあって」と表現していると理解できます。

 1節では「だから……このように主によってしっかりと立ちなさい」とパウロは勧めています。フィリピの教会が、教会の内と外からの攻撃や誘惑の中でも、決して動揺することなく、恐れることなく、固く立ち続けることができるために、前の個所、3章21、22節で書いたように、今は天の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストとの聖霊による豊かな交わりの中にあって、主キリストの十字架の福音を信じつつ、主キリストの再臨を待ち望みつつ、天に国籍を持つ者として生きるようにとパウロは勧めています。これが、「主にあって」という短い言葉の中に含まれている大きな、そして豊かな内容なのです。主こそが、主イエス・キリストこそが、フィリピ教会の、そしてわたしたち一人一人の、生きる根拠、土台、基礎であり、また、今の時を生きる支え、導きであり、そしてまた、生きる目標、目的、完成なのです。たとえ、今の時がどれほどに厳しい時代であれ、混乱と不安に覆われた時代であるとしても、「主キリストにあって」堅く立ち続けることができるのです。

 2節では、フィリピ教会の二人の婦人の名前が挙げられています。【2節】。この二人の婦人は教会でよき働きをし、パウロと共に福音宣教のための戦いをしてきたと3節に書かれていますので、パウロ自身もよく知っている婦人だったと思われます。二人の婦人たちの間に何かトラブルがあったのでしょう。パウロはこの二人に「主にある」和解と一致を勧めています。「主において同じ思いを抱く」とは、主キリストにあって一つの同じことに思いを集中するという意味です。人はそれぞれ考え方や意見の違いがあり、行動の仕方も違うでしょう。そのような個性を認めないような一致は、悪しき全体主義です。主キリストにある真実の一致とは、人間やこの世界にあるさまざまな違いを認めつつ、そのすべて超えた所にある一致です。共に主キリストによって罪をゆるされ、共に主キリストの体なる教会の交わりの中に招き入れられ、共に主キリストの福音宣教のための証し人、働き人として召されているという一致です。ここから、真実の和解が与えられます。

 4節の「主において」については最後に取り上げることにして、7節を先に読んでみましょう。【6~7節】。「キリスト・イエスにおいて」という言葉は、原文のギリシャ語では7節の文章の最後に置かれ、強調されています。そこから理解すると、この言葉は7節全体、あるいは6節にも関連していると思われます。すなわち、「人知を超える神の平和」と、「感謝を込めて祈りと願いをささげる」ことと、「思いわずらわない」ことのすべてが、主イエス・キリストにあってこそ与えられるのであり、可能になる、可能にされているということです。

 まず、「神の平和」は人知を超えたものと言われています。人間がこの地上で実現したり築き上げたりできるような平和とは全く違った、主イエス・キリストによって与えられた神の平和ということです。人間が考えたり実現したりできる平和がいかにもろく、頼りない平和であるかということは、だれもが気づいています。しかし、それでもなおも人間は真実の平和を願い求め続けます。それができるのは、神がお与えくださる永遠の平和があると聖書に証しされ、約束されているからです。人間が持つすべての武器を農具に変え、人間たちの貪欲や怒り、背きや争いをすべて終わらせ、神が全世界とすべての国民の唯一の主として崇められる、神の国の平和を神ご自身が創造してくださると言われているからです。そして、神はそのような永遠の平和を主キリストの十字架と復活の福音によって、今すでに現実にお始めになっておられるということを、わたしたちは信じるからです。神がわたしたち人間の罪をゆるされ、神と人間との間の完全な和解をお与えくださった。そして、わたしたちを一つの神の民としてお招きくださり、み国の民として下さった。この神の平和によって、わたしたちは守られているのです。

 それゆえに、わたしたちは思い煩う必要はありませんし、思い煩うべきではありません。思い煩いは神の平和に対する不信仰であり、神の平和を否定し、破壊することでもあります。主イエスはマタイ福音書6章の山上の説教でこう言われました。「何を食べようか、何を着ようかと、思い煩うな。空の鳥を見よ、野の花を見よ。神は彼らの命をも養い、育てておられる。ましてや、あなたがた人間のためにはなおさらではないか」と。わたしたち一人一人の罪のゆるしのために、ご自身の独り子さえも惜しまずに十字架の死に引き渡された神が、その大きな愛によってわたしたちを愛していてくださるのであるならば、何ものであれ、だれであれ、わたしたちをこの神の愛から引き離すことはできません(ローマの信徒への手紙8章31節以下参照)。

 そうであるからこそ、わたしたちは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明ける」ことができます。神はわたしたちが求めない先から、わたしたちに必要なものを知っておられます。否それのみか、神はわたしたちが求めるよりもはるかに勝った大きな恵みをもって、わたしたちの祈りに応えてくださいます。このことについてもまた、主イエスはマタイ福音書6章で繰り返して教え、約束しておられます。

 最後に4節の「主において」を学びましょう。【4~5節】。この4節には、フィリピの信徒への手紙で特徴的な二つの言葉である「喜び」と「主にあって」とが結びつき、さらには「常に」という言葉が付け加えられています。この手紙でパウロが強調して語っている「喜び」とはどのようなものであるのかということが、ここには最も的確に言い表されていると言ってよいでしょう。主イエス・キリストにある喜びこそが本当の喜びであり、いつでも、どのような時にでも、どのような状況の中でも喜ぶことができる、永遠の喜びであるということです。なぜならば、主キリストにある喜びとは、主キリストが与えてくださる喜びであり、主キリストと共にあることによって与えられる喜びであり、主キリストが絶えずいつもわたしと共におられ、わたしのために新しく作り出してくださる喜びであるからです。

 当時のフィリピ教会とパウロの状況を考えてみましょう。紀元50年代、フィリピ教会は誕生してまだ10年足らずの若く弱い群れでした。外からはユダヤ人とローマ帝国からの迫害があり、内からは異端的な教えの誘惑がありました。パウロはと言えば、今牢獄に捕らえられ、最終的な判決を待っています。死刑も予想されます。そのような状況の中で、パウロはそれにもかかわらず、「わたしは喜んでいる。あなたがたも喜びなさい。いつも喜びなさい」と繰り返して言うのです。主キリストを信じる信仰者にとっては、いつでも、どのような時にでも、主キリストにある喜びに生きることができる。いや、そうであるだけでなく、迫害や試練の中にある時にこそ、主キリストにある喜びがその真価を発揮するのだ。この世の人々が恐れや不安に襲われ、悲しみや嘆きに心が閉ざされる時にこそ、主キリストを信じる信仰者に与えられる主にある喜びは、その輝きを増し加え、信じる者たちに力と勇気とを与え、この世界がどのように揺れ動くとも、信仰によって固く立たせてくれる、そのような喜びなのだということです。

 次の5節で「主はすぐ近くにおられる」ということが、その喜びをより確かなもの、より力強いものにします。「主が近くにおられる」とは、主イエス・キリストが信仰によってわたしの近くいてくださるという意味だけではなく、その意味をも含みますが、主キリストの再臨の時が近いという意味です。主キリストが再臨する時、信仰者は天に引き上げられ、神の国へと招き入れられます。神の国においては、もはや悲しみも痛みも死もなく、永遠に神と共にあり、消えることがない最高の喜びに満たされます。主イエスは福音書の終わりの個所で、神の国が完成されるときの盛大な晩餐会、結婚式の喜びについて何度も語っておられます。今信仰者に与えられている「主にある喜び」は、終わりの日の主キリストの再臨の時に与えられる大きな喜びの先取りと言ってよいでしょう。

 「主は近い」。だから「主において常に喜びなさい」。これがフィリピ教会に与えられている喜びであり、またわたしたちの群れにも与えられている喜びなのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、あなたがみ子によってわたしたちにお与えくださった平和と喜

びをわたしたちの中に満たしてください。また、全世界とすべての人々をも、あなたの真実の平和と喜びで満たしたください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

4月26日説教「カインとアベル」

2020年4月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記4章1~12節

    ヨハネの手紙一3章11~18節

説教題:「カインとアベル」

 創世記3章では、人間の罪について、いわゆる「原罪」について語っていますが、それに続く4章では、人間の罪の具体的な現れ、あるいは罪の発展について描いていると言えます。「カインとアベルの物語」と一般に呼ばれるこの4章は、人間の罪、「原罪」がこの人間社会においてどのようにして具体化されていくか、現実化されていくかという、その過程について語っており、それはまさに、今わたしたちが住んでいるこの人間社会で、今もなお繰り広げられている人間の罪の現実の、その原点なのだと、言ってよいでしょう。わたしたちはこの個所に、わたしの中に潜んでいる罪の原点を見るのだと言ってよいでしょう。だれもが非常に重苦しい思いを持ちながら、人類史上最初の殺人、しかも兄弟殺しという、恐ろしい殺人事件を扱ったこの個所を読まざるを得ないのですが、しかし、そうであっても、この個所もまた天地万物と人間を、無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして創造された主なる神のみ言葉であるということを、わたしたちは忘れることはありません。

 わたしたちはここでまず、人間の罪の本質について基本的なことを教えられます。しれは、人間の罪が、その根源は神と人間との関係が壊れることなのですが、それが直ちに人間と人間の関係が壊れることへと進展していくということです。すでに3章12節以下で、神の戒めを破って罪を犯したアダムとエバが互いに責任を押し付け合っていたことにそれは表れていましたが、ここではよりはっきりと、より刺激的に最初の兄弟殺しへと発展していくのです。神と人間との関係が正しくなければ、人間と人間の関係をも正しく築いていくことはできません。

 それゆえに、主イエスは旧約聖書の律法のすべてを、神を愛することと隣人を愛することという、愛の二重の戒めにまとめられました。【マタイ福音書22章36~40節】(44ページ)。神から人間へと広がっていく罪の連鎖を食い止めるために、主イエスがわたしたちのために開いてくださった新しい道、すなわち神から隣人へと広がっていく愛の戒めに生きる道を、わたしたちは進まなければなりません。進むように招かれているのです。

 では、4章1節から読んでいきましょう。【1節】。エデン(喜び)の園を追い出されたアダムとエバの夫婦にも、なお喜びの時が残されていました。子どもの誕生です。「わたしは主によって男児を得た」と、エバは歓喜の声を挙げています。エバという名前は、3章20節で説明されているように「命」という意味です。罪に対する神の厳しい裁きを受けなければならなかった女エバは母となることをゆるされたのです。罪と死に支配されるようになったアダムとエバ、けれども、彼らは新しい命の誕生を見ることをゆるされ、その子の親となることがゆるされたのです。1章27節で、人間が創造された際に与えられた神の祝福、「産めよ、増えよ。地に満ちよ」という神の祝福は、なおも彼らから取り去られてはいませんでした。彼らはエデンの東に追い出されても、なおもそこで神の祝福を受けた、喜びに満ちた何かを始めることをゆるされていたのです。人間に対する神の恵みと憐れみは、罪の世界にあっても、なおも消えることはありません。

 「主によって」という言葉がキー・ワードです。罪の人間にゆるされているそれらのことはすべて「主によって」与えられているのです。エバの喜びは、男の子が誕生したということによるだけではなく、神が「母となる」という約束を彼女に果たしてくださったからにほかなりません。エデンの東の罪の世界でも、神はなおも彼らと共におられ、彼らのために新しい命を創造され、彼らのために喜びの時をお与えになられ、彼らのために新しいみわざをお始めくださったのです。エデンの東の世界にあっても、わたしたち人間は「主によって」何かをなすことがゆるされているのであり、「主によって」すべての事をなすべきなのです。主なる神と共に歩み、主なる神に聞きつつ、すべてのわざをなすべきなのです。そうすれば、果てしなく続くかのような人間の罪の歴史に、光が差し込んでくるに違いないのです。

 【2節】。兄カインの名前は「やり、弓矢、鍛冶屋」という意味を持つと考えられています。弟アベルは「息、蒸気、はかなさ」という意味を持っています。アベルの不運な、短くはかない生涯を暗示しているように思われます。カインは農夫になり、アベルは羊飼いになりました。そして、二人はそれぞれの働きで得たものを神にささげました。自分たちの働きで得たものはすべて主なる神から賜ったものであり、それを感謝して、その最初の収穫や最も良いものを神にささげるということは人間の義務と考えられていました。

 ところが、その時に全く理解に苦しむ事態が生じました。【3~5節】。なぜ神がそうされたのかについては、ここには全く書かれていません。わたしたちには正確には分かりません。聖書研究家たちはさまざまな推測を試みています。神は地の産物よりも羊を好まれたから、あるいは神は血があるささげものを喜ばれたから、イスラエルが遊牧民であったからなど……。しかし、そもそも神の好みは人間には分かりませんし、イスラエルは初期には遊牧民でしたが、後には定着してからは農耕にも携わっていますから、それも決定的な理由にはなりません。また、カインは地の産物を無造作に選んだが、アベルは群れの中の肥えた羊を選んだからという説明も、聖書の記述からだけでは確かであるとは言えません。

 結局は、その理由は人間にはわからない、それは神の自由によるのだとしか言えないように思われます。神はあるものを受け入れ、あるものを受け入れないという自由をお持ちです。出エジプト記33章19節で神はこのように言われます。「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。これが神の自由です。創世記25章に書かれているように、神は兄のエサウではなく、弟のヤコブを選ばれました。神は世界の多くの民の中から最も小さく弱い民、奴隷の民であったイスラエルをお選びになりました。それはみな神の自由な選びです。

 使徒パウロはこのような神の自由な選びについて、ローマの信徒への手紙9章11節以下でこのように書いています。【11~16節】(286ページ)。神の自由な選びとは、神のわがままで思いつきの選びなのではなく、神の恵みと憐れみに満ちた選びなのです。神はその自由な選びによって、わたしたち罪びとを選ばれたのです。取るに足りない、小さな欠けの多いこのわたしを選ばれたのです。

 「主はカインとその献げ物に目を留められた」。これは神の恵みと憐れみによる選びです。人間の側には、カインとアベルの側には、選ばれる理由、選ばれなかった理由は一切ありません。わたしたちは神の恵みと憐れみによる選びを、信仰をもって受け入れ、喜びと感謝とをもって、神に選ばれていることを選び取るのです。

 しかし、カインは神に選ばれなかったことを不満の思い、激しく怒って顔を伏せたました。カインは弟アベルのささげ物が神に顧みられたことを妬んで、怒りました。神が弟アベルを選ばれたことに憤りました。神の恵みと憐れみによる自由な選びを拒み、それを怒り、神の決定に逆らいました。ここに、カインの罪があります。カインは弟アベルが神に顧みられ、神に選ばれたことを、共に喜ぶことができませんでした。ここに、カインの罪があります。

神はカインに語りかけられます。【6~7節】。ここで、カインの罪が明らかにされます。神の選びに対する不満、神の決定に対する反逆、これがカインの罪です。彼は神のみ顔を見ることができません。今や、罪がカインを支配しています。

 そして、その罪は兄弟の命の破壊へと進みます。【8節】。神から離れ、神に背き、神なき者となって罪に支配された人間は、自分の感情や欲望のままに暴走するほかありません。そしてついには命の破壊、殺人へと至ります。ヨハネの手紙一3章5節に、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」と書かれているとおりです。

 野のだれもいない場所で、カインは弟アベルを殺しました。しかし、神はすべてを見ておられます。【9~12節】。神はカインに「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と問われます。前に、3章9節で、最初に罪を犯して神のみ前から姿を隠そうとしていたアダムに対して、神は「あなたはどこにいるのか」と問われました。そこでは、人間アダムが神のみ前での責任を問われていました。ここでは、カインは兄弟に対する責任を問われています。人間は、このように、神に対して責任ある者であり、同時に兄弟に対して、隣人に対しても責任ある者なのだということを教えられます。

 けれども、カインは「知らない」と答えました。神に対しての責任を自覚しない人間は、隣人に対する責任を負うこともできません。これが罪によって神と分断され、隣人と分断されてしまった人間の姿です。

 ただお一人、神だけがそのすべての責任を負ってくださいます。神は「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」と言われます。神は殺されたアベルの血の叫び声を聞かれます。神はアベルの血の責任を負ってくださるのです。ヘブライ人への手紙12章24節にこのように書かれています。「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血」。神は主イエス・キリストの十字架の死によって注がれた汚れのない、尊い血の大いなる叫びを聞いてくださり、主イエス・キリストの血によってわたしたちの罪を贖い、清め、ゆるしてくださったのです。

(執り成しの祈り)

○神よ、み子の尊い血潮によって、わたしたちのすべての罪を洗い清めてくださ

い。罪ゆるされているわたしたちが神と隣人とに仕えて生きる者としてください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よ、どうか憐れんでください。全世界

の民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月19日説教「わたしたちの本国は天にある」

2020年4月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章1~9節

    フィリピの信徒への手紙3章17~21節

説教題:「わたしたちの本国は天にある」

 フィリピの信徒への手紙3章17節で、この手紙の著者である使徒パウロは次のように勧めています。【17節】。「自分に倣う者になりなさい」というこの勧めは、いかにも傲慢で、大胆であるように思われます。わたしたちの多くは、「わたしのようになってください」とか「わたしを模範にしてください」と、だれかに勧めるにはあまりにも多くの欠点や未熟さを持っていることを知っています。むしろ、「この点はわたしの真似をしないでください、わたしのようにはならないでください」と言わなければならないことを知っています。でも、パウロはよっぽど自信家で、あるいは立派な人間だと自負して、「みな、わたしに倣え」と言っているのでしょうか。いや、おそらくそうではないと思います。では、どのような意味でパウロはこのように言うのでしょうか。

 また、17節後半では、わたし・パウロに倣えと言うだけでなく、パウロや他の多くの使徒たちをも模範として、彼らに目を向けなさいとも勧めています。おそらくは、彼らのだれもが多かれ少なかれ欠点を持ち、時には失敗をする人間であるには違いないのに、そのような指導者たちをも尊敬し、彼らに倣う者になりなさいと勧めているのです。なぜ、パウロは誤解される恐れがあるような大胆な言い方でそのことを強調するのでしょうか。

 パウロは他の手紙でも、「わたしに倣え」「わたしたちに倣え」と何度か書いていますが、それと並んで、エフェソの信徒への手紙5章1節では「神に倣え」、テサロニケの信徒への手紙一1章6節では「主に倣う」「主キリストに倣う」と言っています。そして、コリントの信徒への手紙一11章1節では、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と、二つを一緒にしています。ここから分かるように、「わたしに倣え」とは、究極的には、「わたしが倣っている主キリストに倣え」ということなのです。主キリストと出会ってから、主キリストに倣って生きているわたし、もはや以前のわたしではなくなったわたし、主キリストによって新しくされているわたし、そのようなわたしに倣え、わたしをそのように変えてくださった主キリストに倣えとパウロは言っているのです。

 わたし・パウロが、十字架につけられた主イエス・キリストに倣って、それまでユダヤ人としてのわたしが誇っていた肉にある特権や誉れや業績のすべてを塵あくたとみなして投げ捨てたわたし、そのわたしに倣え。また、それまで自分の義のわざによって救われようとした道からひるがえって、ただ信仰によって神から義と認められる道へと方向転換をするようにされたわたし。わたし自身の中には救いの可能性が全くなく、ただ主キリストの十字架と復活の福音にこそわたしの救いのすべてがあることを信じているわたし。そのようにして、罪に死んでいたこの体が主キリストの復活の命によって生かされているこのわたし。そのわたしに倣うようになってほしいとパウロは言っているのです。

 パウロがそのことを強調する理由が、次の18節に書かれています。【18節】。3章1節でも、これまで何度も同じことを言ってきたが今また繰り返して言うと書いていましたが、ここでもそれを繰り返します。しかも、ここでは「涙を流しながら」、激しい感情と精いっぱいの思いを込めて、今の時代の不信仰と不従順を嘆き悲しみ、それに必死になって抵抗し、戦っています。

 この世は、いつの時代も、主キリストの十字架に敵対して歩む者が多く、キリスト者はそのような人たちに取り囲まれており、彼らからの様々な攻撃や誘惑やあざけりの対象にされています。パウロの時代には、教会の身近には二つの大きな敵対勢力があったと考えられています。一つは、ユダヤ教の律法主義です。教会の中にもその勢力がはびこっていました。主キリストの十字架の福音を信じる信仰だけでは救いは不十分である、律法を重んじ、イスラエルの古くからの伝統をも守るべきであるとするユダヤ主義的キリスト者が教会を分断させていました。また、霊的グノーシス主義者と言われる人たちは、自分たちには特別な神の知識、グノーシスが与えられ、すでに救いは完成し、完全な人間となった。だから、もうキリストの十字架は必要ないと彼らは考えたのでした。いずれも、主キリストの十字架の福音を軽んじ、否定していました。

 もう一つ、教会の外からの敵対勢力を挙げるとすれば、偶像の神々を礼拝している異教徒たちや、この世の過ぎゆくものを追い求め、肉のパンだけで生きることができると考える神なき人たちも多くおりました。

 しかし、19節で続けてパウロはこう言います。【19節】。パウロは彼らの滅びを悲しんでいます。彼が「今また涙を流しながら」言うのは、教会が受けている彼らからの攻撃と教会の戦いの厳しさを嘆いたり、憂いたりしているからであるよりも、パウロの涙は彼ら神なき者たちの滅びを悲しみ、悼んでいる涙なのです。滅び行かんとするこの世への切なる愛のゆえの涙なのです。この涙をもって、パウロは懸命に、福音宣教の務めにわが身をささげているのです。

 彼ら主キリストの十字架に敵対している歩んでいる人たちが、神なき世界で、罪の中で死と滅びに向かって進むことがないために、パウロは彼らに主キリストの福音を語らずにはおれません。彼らに罪のゆるしと主キリストにある新しい命のみ言葉を語らざるを得ません。彼らこの世のパンだけを追い求め、朽ち果てるに過ぎないもののために生き、死んでいくしかない、神を知らない人たちのために、天から与えられる命のパンと命の水を指し示そうとしているのです。彼らの一人も滅びることがないために、パウロは祈りと涙とをもって、主キリストの十字架の福音を語り続けるのです。それはまた、今の時代に召されているわたしたち一人一人の務めでもあります。

 そこでパウロは、わたしたちの目と心とを、今主キリストがいます天へと向けるのです。天にこそ、わたしたちの本国、国籍があるからです。【20~21節】。主イエスは地上の王国を打ち立てるためのメシアではありません。そうであれば、主イエスは地上にとどまっておられたはずでしょう。使徒言行録1章によれば、十字架につけられ、三日目に復活された主イエスは、40日間にわたって復活のお姿を弟子たちに現わされ、福音を宣べ伝えるようにと命令され、40日目に弟子たちが見ている前で天に昇って行かれました。雲が主イエスのお姿を隠しました。主イエスは雲の向こう側に、父なる神の側におられます。そして、終わりの日に再び地に下って来られ、信じる人々を天に引き上げてくださいます。それが神の国の完成です。わたしたちの信仰の歩みはその神の国の完成を目指しているのです。したがって、この地上のどこかにわたしたちの生きる目標があるのではありません。この地上の何かを追い求め、それを目標にして生きているのでもありません。地上にあるものすべては、時と共に流れ去り、消えゆき、朽ち果てるしかありません。

 天には、罪と死とに勝利され、全地と万物とを支配しておられる勝利者なる主イエス・キリストがおられます。それに対して、わたしたちは今なお地上に住んでいます。けれども、わたしたちの本国、国籍、その市民権は天にあります。主イエス・キリストがご自身の十字架と復活、そして昇天によって、わたしたちにその国籍、市民権をお与えくださったからです。それゆえに、わたしたちキリスト者はこの世では寄留者であり、旅人であると告白するのです。そして、どのような困難な時代にも、どのような試練の時にも、幸いの時にも災いの時にも、地上の事柄に心を奪われるのではなく、かしらを上にあげ、目を天に向け、天に備えられている永遠の命と輝くばかりの栄光を待ち望むのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたのご栄光を仰ぎ見ることができるように、わたしたち

の信仰の目を開いてください。打ちひしがれているわたしたちの心を、あなたに向けて引き上げてください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よ、どうか憐れんでください。全世界

の民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月12日説教「主キリストの復活を信じる」

020年4月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(復活日・イースター)

聖 書:ヨブ記19章23~27節

    コリントの信徒への手紙一15章1~11節

説教題:「主キリストの復活を信じる」

 きょうの復活日礼拝で朗読されたコリントの信徒への手紙一15章は「復活の章」と呼ばれています。この長い1章には、主イエス・キリストの復活の出来事と、それを信じるわたしたち信仰者に約束されている終わりの日の体の復活について語られています。この章はこの手紙全体の頂点、または中心であると言えます。それはまた、使徒パウロの信仰と神学、キリスト教の神学と教理の頂点、または中心でもあり、さらにはわたしたちキリスト者の信仰と信仰告白の頂点、中心でもあります。

きょうは1~11節のみ言葉を学びますが、その終わりの部分の10節で、パウロの次のように言います。【10節】。「わたしがきょうあるのは、神の恵みによる。すなわち、神が主キリストの十字架と復活によって人類の罪をゆるしてくださった。そして、この取るに足りない、いと小さなものに過ぎないわたしにも、復活の主キリストが現れてくださった。それによって、以前は教会の迫害者であったこのわたしを、今は主キリストの福音を宣べ伝える使徒として働く者に造り変えてくださった。この大きな神の恵みによって、わたしは今あるを得ている」。そのようにパウロは言うのです。

わたしたちがここから知らされる重要なことは、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を信じ、復活の主キリストとの出会いを経験することによって、わたしのすべてが変えられ、わたしが神から託された新しい務めに生きるようにされるのだということです。主キリストの十字架と復活を信じる信仰は、古いわたしの死と、新しいわたしの創造という、驚くべき出来事を信じる人の中に、わたしの中に生み出していくのだということです。

したがって、主キリストの十字架と復活の出来事それ自体を、どれほど深く学び、探求していっても、それを信じるということなしには、そして復活の主キリストとの生ける出会いの経験なしでは、だれもその恵みを十分に受け取ることができないということでもあります。復活日の礼拝に招かれているわたしたち一人一人が、神の命のみ言葉を聞き、聖霊によって復活の主キリストとの真実の出会いを経験し、神から差し出されている大きな恵みを共に受け取りたいと願います。

パウロは彼が受けた恵みについて語るに当たって、3節でこのように言います。【3節a】。神から与えられた恵みのもととなっている主キリストの福音はパウロ自身が初めに考え出したものではなく、彼はそれを「自分も受け取ったもの」であると言います。つまり、パウロはその福音を彼が宣教を始める前に初代教会の中で受け継がれてきた福音であると言っています。パウロがコリントの町で福音宣教を開始したのは、第二回世界伝道旅行の後半の紀元51年ころと推測されています。そして、この手紙を書いているのは紀元55年ころと考えられますが、それ以前にすでに初代教会の伝承によって受け継がれてきた福音の内容を、パウロはここで引用しています。

その内容が3節後半からです。【3節b~5節】。この個所を読んですぐに気づくことは、この内容はわたしたちが今日礼拝で告白している「使徒信条」に非常によく似ているということです。「使徒信条」ではこうです。「主はポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って……」。これと同じように、ここに引用されている初代教会の信仰告白では、主イエス・キリストの死、葬り、復活、そして顕現(復活された主イエス・キリストがご自身のお姿を弟子たちに現わされたこと)という4つの内容が言い表されています。これが初代教会で最初に作成された信仰告白と考えられ、それがもととなって紀元4世紀ころになって、今日わたしたちが告白している「使徒信条」にまとめられたのであろうと考えられています。

そこできょうは、ここで告白されている4つの内容を、主イエスの死と葬り、復活と顕現の二組に分けて、それぞれの関係を見ながら学んでいきたいと思います。

まず、主イエスの死と葬りは彼がまさにわたしたち人間と全く同じ人間となられたことを語っています。わたしたちのだれもがこの生涯の終わりに死んで墓に葬られるのと同じ道を主イエスが歩まれたことを言い表しています。主イエスは十字架につけられ、十字架の上で息を引き取られ、確かに死なれ、そしてその死がわたしたち人間の死と全く同じであることの確かなしるしとして、墓に葬られました。主イエスの死と葬りは、彼がまさにわたしたち罪びとたちと同じ人間の一人となられ、わたしたち罪びとたちと同じ道を歩まれ、死に至るまでわたしたちと共にいてくださったことの確かなしるしなのです。

それとともに、3節に「聖書に書いてあるとおり」とあるように、主イエスの死と葬りは旧約聖書に預言されていたメシア・救い主の死と葬りであったことがここでは告白されています。彼の死と葬りは旧約聖書の預言の成就だったのです。主なる神の永遠の救いのご計画の成就だったのです。

では、その預言は旧約聖書のどの個所を指しているのかは、ここには書かれていませんが、わたしたちは先週の受難週礼拝で聞いたイザヤ書53章の「苦難の主の僕(しもべ)」の歌」を直ちに思い起こします。【イザヤ書53章7~8節】(1150ページ)。続けて9節では僕の死について預言されています。【9節】。主イエスの死と葬りとは、旧約聖書の預言者たちをとおして神が預言されたメシア・キリスト・全世界の救い主の死と葬りだったのです。それゆえに彼の死と葬りとは、死すべきわたしたち人間の救いの出来事だったのです。

それが、「わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」という告白の中に、「わたしたちの罪のために」という言葉が挿入されていることの意味です。主イエスのご生涯のすべて、特にそのご受難と十字架の死、そして葬りは、すべてがわたしたちの罪のためであったのです。わたしたちを罪の奴隷から救い出し、神との和解と交わりへと導き入れる救いのためだったのです。

次の復活についても、それが旧約聖書の成就であったと4節で告白されています。では、メシアの復活について預言されている旧約聖書はどこを指しているのか、それもここには書かれていません。いくつかの個所を挙げることができます。きょうの礼拝で朗読されたヨブ記19章が挙げられます。25節には「わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」と書かれています。詩編16編10~11節にはこう書かれています。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます」。また、ホセア書6章1~2節ではこう預言されています。わたしたちが礼拝の最初に聞いた「招きの言葉」です。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々はみ前に生きる」。

主イエスの復活は、主イエスが罪と死とに勝利されたことの確かなしるしです。主イエスは死の墓をふさいでいた大きな石を取り除き、墓から出て、墓を空にされました。墓はもはや人間が最後に行きつく終わりの場所なのではなく、そこから復活の命が始まる場所となったのです。

「復活した」と訳されている箇所は正確には「復活させられている」であり、文法的には受動態の現在完了形です。受動態は全能の父なる神が主イエスを復活させてくださったことを言い表し、現在完了形はそのことがずっと続いていることを言い表しています。主イエスは罪と死の勝利者として、今も生きておられ、主イエスを信じる者たちをご自身の体なる教会に呼び集め、その体の頭として、わたしたち信じる者たちの救い主として、君臨しておられることが告白されているのです。教会の歩みとわたしたち一人一人の信仰の歩みは主イエス・キリストの復活から始まっています。その歩みは、すべて命あるものの歩みがそうであるのと同じに、生まれてから死へと向かっていく歩みであるのではなく、死から命へと向かっていく歩みであり、死に勝利されて復活された主イエス・キリストが新しくお始めくださった歩みであり、終わりの日の永遠の命の完成へと向かっていく歩みです。

主イエスの復活に続いて、復活された主イエスがご自身の姿を弟子たちに現わされた顕現のことが告白されています。ケファは12弟子の一人、また初代教会のリーダーとなったペトロのこと、それから12弟子、また6節からは五百人以上の人たち、それから主イエスの兄弟であるヤコブ、その他の使徒たちが復活の主イエスの顕現を経験した人としてあげられています。これらの顕現の一部については福音書の最後の部分と使徒言行録の初めの個所に描かれていますが、これらの人たちが最初の教会、初代教会の基礎を形成していったことが分かります。教会は主イエス・キリストの復活の証人たちを土台として形成されています。

そして、パウロは8節で復活の顕現を経験した人たちの最後に、自分自身を挙げています。パウロの場合は、厳密な意味での復活の顕現とは違っていると理解しなければなりません。使徒言行録によれば、復活された主イエスは40日間にわたって弟子たちに復活のお姿を現され、そののち天に昇って行かれたからです。そのあとでは、直接に主イエスの姿を目で見ることはだれにもできません。パウロの場合には、主イエスの復活から数か月後、あるいは数年後に経験したことを言っているのですが、パウロはそれをあえてここでは他の弟子たちと同じ復活の顕現に加えています。彼にとって、主イエスとの出会いの経験は、それほどに強烈で、現実的で、鮮明で、あたかも復活の主イエス・キリストご自身がそのお姿を彼に現わされたように思われたのでした。

そして、復活の主イエス・キリストとの出会いが、教会の迫害者であったパウロを、主キリストの福音を宣べ伝えるための教会の働き人として造り変え、ユダヤ教の律法によって生きていたパウロを、主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって生きるパウロに造り変えたのです。主イエス・キリストの復活の命と恵みが、きょうの礼拝に集められたわたしたち一人ひとりにも豊かに与えられるようにと祈り求めましょう。

(執り成しの祈り)

○命の主なる神よ、わたしたちの朽ちいく体に復活の命を注いでください。主イ

エス・キリストの復活の命に満たされて、あなたのご栄光のために仕える者としてください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よ、どうか憐れんでください。全世界

の民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。