1月31日説教「初代教会の信者たちの生活」

2021年1月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教 聖 書:申命記6章4~15節     使徒言行録2章43~47節 説教題:「初代教会の信者たちの生活」  ペンテコステの日にエルサレムで世界最初の教会が誕生しました。この日に、ペトロの説教を聞き、罪を悔い改めて、主イエス・キリストのみ名によって洗礼を受けた人は三千人ほどであったと、使徒言行録2章41節に書かれています。主イエスの12弟子たちと主イエスの母マリアと兄弟たちを含めて、主にユダヤ人からなるこの教会を、一般にエルサレム教会と呼んでいます。もっとも、まだ教会堂も定まった集会場所もありませんが、彼らは主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって一つの教会の群れを形成しています。 42節からは、彼らエルサレム教会の信仰生活、教会生活について、まとめて報告されています。わたしたちはここから、最初に誕生した教会の様子を知ることができると同時に、今日のわたしたちの教会の在り方にとっても重要ないくつかのことを教えられます。この個所を2回に分けて学んでいくことにします。 【42節】。この42節を初めとして43節以下にも、信じる人たちが群を形成することを言い表す言葉が数多く用いられています。42節の「交わり」、44節の「皆一つになって」「共有にし」、45節の「分け合った」、46節の「心を一つにして」「集まって」「一緒に」、そして47節の「仲間に加え一つにされた」。彼らは信仰的に、精神的に、また実際的にも、一つの群れとなり、一つの共同体を形成しているということが強調されています。主イエス・キリストを信じて洗礼を受けた人たちは、一つの群れを形成するのです。それは、彼ら自身の何かの共通点とか共通の利害関係とかによるのでは全くなく、彼らが信じている主がただお一人、彼らの群れの頭(かしら)、教会の頭がただお一人、主イエス・キリストであるからです。 わたしたちはここから、信じる人たちは群れを形成するということを第一に教えられます。わたしが主イエス・キリストをわたしの救い主と信じ、告白し、洗礼を受けるということはわたしの個人的な決断であり個人的な体験であるかのように考えがちですが、しかしそれは一つの主にある交わりの中にわたしが招き入れられること、わたしが群を形成する一人とされるということなのです。41節に「仲間に加わった」とあり、また47節にも「仲間に加え一つにされた」とあるように、わたしが信じてキリスト者になるということは主イエス・キリストの体なる教会の群れの中にわたしが加えられるということなのです。わたしが主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされ、神の民とされ、神と結び合わされ、主キリストの体なる教会と結び合わされる時、わたしたちは一つの群れとなって互いに結び合わされ、信仰共同体として結合されるのです。 日本キリスト教会では信仰告白がより具体的に教会を一つに結びつけると考えています。わたしが主イエス・キリストを信じるということは、より具体的にはわたしが『日本キリスト教会信仰の告白』を信じ、告白し、わたしがこの信仰告白の共同体の中に招きいれられるということであり、わたしたちはこの『日本キリスト教会信仰の告白』を共に告白することによって、共に一つの教会として結集するのです。 ここで、信仰共同体としての教会について少し違った視点から考えてみましょう。ドイツ語では教会の信仰共同体と、この世の社会共同体とを区別して別々の言葉で言い表します。信仰共同体はGemeinshaftと言い、社会共同体をGesellshaftと言います。信仰共同体・Gemeinshaftによって形成されている教会をGemeindeと言います。また、社会共同体・Gesellshaftを信仰共同体との違いを強調して、利益共同体と呼ぶこともあります。Gesellshaft社会共同体・利益共同体もGemeinshaft・信仰共同体も同じように一致や連帯を強調しますが、その目的とか内容は、両者は全く違います。Gesellshaftは社会の利益や幸福を追求するために一致します。しかし、Gemeinshaftの一致の目的は共同体内部にはありません。共同体の上におられる主イエス・キリストだけが一致の基礎であり土台であり、また目的です。さらに、両者の大きな違いは、Gesellshaft・利益共同体では共通の利益や幸福のために、時に個人の違いや個性が無視されたり、時にはまた人間の尊厳性が犠牲にされたりすることがあります。しかし、Gemeinshaft・信仰共同体ではその反対に、罪の中に見失われていた人間の存在や尊厳性が見いだされ、尊重されるようになります。というのも、わたしたちはみなかつては罪の奴隷であり、この世の何らかの束縛の中に生きており、神のみ前では見失われていた罪びとであったのに、主イエス・キリストの十字架の福音によって罪の暗闇から救い出され、神のみ子の尊い血潮によって買い取られ、贖われた価の高い一人一人であるということを知らされているからです。それによってわたしたちはすべての束縛から解放され、個としての存在意義を取り戻し、神のみ前でかけがえのない尊いわたしとされます。教会とはそのような神に見いだされた個と個とが主キリストによって一つに結び合わされている群なのです。 次に、42節には初代教会の4つの特徴が挙げられています。一つは使徒の教え、第二は相互の交わり、第三はパンを裂くこと、そして第4は祈り、これらのことを熱心にしていたとあり、43節からはその具体的な内容が書かれています。これらは今日のわたしたちの教会にも共通していることです。 まず、使徒の教えですが、使徒とはここでは主イエスの12弟子を指しています。主イエスを裏切ったイスカリオテのユダに代わってマティアが選ばれたことが1章の終わりに書かれていましたが、彼らは主イエスと地上の歩みを共にし、直接に主イエスが語られた神の国の福音の説教を聞き、また主イエスの十字架と復活を目撃した証人たちでした。彼らはペンテコステの日に天から聖霊を注がれ、自らが主イエスの福音を語る人に変えられました。彼らの代表者ペトロの説教を聞いて信じた人たちによって最初の教会が建てられました。使徒たちは初代教会とのちの全世界のすべての教会の源であり基礎であり出発点です。 使徒の教えとは、その内容の具体的な例として14節以下のペトロの説教、またこの後に書かれているペトロの説教などによって知ることができます。その中心は、わたしたちがすでに学んだように、主イエス・キリストの十字架の死と復活です。教会が誕生した紀元30年ころはまだ福音書は書かれていません。福音書が書かれたのは紀元60年以後と考えられ、パウロの書簡が書かれたのは50年代ですから、それ以前にはペトロを始め12弟子たちが語った説教が使徒の教えとして書きとどめられていったのではないかと推測されます。やがて使徒の教えは4、5世紀ころになって、今日わたしたちが告白している『使徒信条』にまとめられました。 使徒の教えに熱心であるとは使徒の教えに生きること、また使徒の教えを語り伝えることの両方を含んでいると思われます。初代教会は使徒の教え、すなわち主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって生きる群であり、またそれを語り、宣教することによって生きる群でした。このことこそが、Gesellshaft ・社会共同体とGemeinshaft・信仰共同体とを明確に区別している最も大きな特徴と言ってよいでしょう。この世の共同体は自らの利益と幸福を求め、この世のパンを食べて生きている群れですが、教会は主イエス・キリストの福音を聞き、そのみ言葉が自分たちの罪をゆるし、新しい霊の命を与えることを信じ、またそのみ言葉を宣べ伝えることによって生きている群れ、信仰共同体です。  次の相互の交わりとパンを裂くことについては次回学ぶことにして、きょうは最後に、祈ることについて取り上げます。主イエスご自身が祈りの人であったということを、使徒言行録と同じ著者になるルカ福音書が強調しているということをわたしたちは学んでいます。ヨハネから洗礼をお受けになった時、荒れ野での誘惑と戦われた時、12弟子をお選びになった時、また一日のお働きの終わりに、主イエスは民衆を避け、弟子たちからも離れて、お一人になられ、父なる神に祈られました。また、弟子たちに祈りについてたびたび教えられ、祈りの手本として「主の祈り」を教えられました。 使徒言行録1章14節には、弟子たちが聖霊を受ける前に心を合わせて熱心に祈っていたと書かれていました。この日に誕生した教会は祈る群れ、祈りの共同体でした。そのことはこのあとの使徒言行録でも繰り返して強調されています。3章1節には、【1節】と書かれていますので、初代教会では当時のユダヤ教の伝統を受け継いで、日に3度、朝9時と昼と午後3時に祈りをささげていたことが推測できます。信者たちはエルサレムの神殿や信者の家に集まり、共同で祈りをささげていました。 教会が祈る群れであるということは、わたしたちの日本キリスト教会にも伝統的に受け継がれています。1872年(明治5年)3月10日に誕生した日本最初のプロテスタント教会である横浜海岸教会は、宣教師たちが始めた新年初週祈祷会がそのきっかけでした。今でも、全国の諸教会では新年の最初の週に連日の祈祷会を行う習慣が残っています。また、毎週日時を定めて教会員が集い祈るという公同の祈祷会はほとんどの教会で行っています。 教会が祈りの群れであるとはどういうことを意味するでしょうか。祈りはまず第一に神への服従の行為です。教会は教会に集まっている信者たちの考えとか計画とかによって生きているのではありません。主なる神のみ心に聞き従い、その導きによって生きていきます。したがって、教会は絶えず神のみ心を伺わなければなりません。聖書のみ言葉に導かれつつ、神のみ旨を尋ね求め、神がお与えくださる恵みを感謝して受け取り、神が備えられる道を自由と喜びをもって進んでいくために、教会は絶えず祈り続けるのです。 祈りはまた神への願い求めです。信仰の歩みの中で経験するであろう試練や困難の中で神の守りと導きとを祈り求め、重い病や大きな禍の中で、他の何ものにも助けと救いを期待できないような時でも、全能の神が必ずや道を備えてくださることを信じて祈り求める、あるいはまた、悩める他者のために執り成しの祈りをする、日本、アジア、全世界の平和と救いのために祈る、祈りはわたしたちの信仰に無限の広がり、無限の豊かさ、無限の力を与えるのです。 (執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたは天におられて、わたしたちの必要のすべてをご存じであられます。また、わたしたちに今なくてならないものが何であるのかを知っておられ、それを備えていてくださいます。わたしたちがどのような時にも、あなたのみ心を信じて、祈り続ける信仰者としてください。 〇神よ、あなたが永遠の救いのご計画によってお建てくださったこの秋田教会を、どうぞ顧みてください。小さな、欠けの多い群れですが、あなたのご栄光を現し、この地で主キリストの福音を高く掲げて歩む群れとして成長させてください。群れに連なる一人一人の信仰をあなたが日々に養ってくださいますように。 〇礼拝後に行われる秋田教会定期総会の上に、主のお導きがありますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月24日説教「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」

2021年1月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書58章3~10章

    ルカによる福音書5章33~39節

説教題:「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」

 主イエスは徴税人レビに目をおとめになり、彼を弟子としてお招きになりました。人々から罪びととか守銭奴、売国奴と呼ばれ、だれからも相手にされなかった徴税人レビは、主イエスによって、信仰者レビに変えられました。弟子のレビに変えられました。自分の欲望のために生きていたレビ、この世の権力者に仕えていたレビは、今や神の国の王であられる主イエスにお仕えし、主イエスのために生きる人へと変えられました。レビは主イエスの救いに招かれた恵みに対する感謝のしるしとして、主イエスと弟子たち、また徴税人仲間や罪びとと呼ばれていた人たちをも招いて盛大な宴会を催しました。主イエスを中心にして、罪ゆるされた罪びとたちが共に祝いの食卓を囲んでいる、これは来るべき神の国での盛大な晩餐会を先取りするものです。

前回学んだルカ福音書5章30節では、それを見ていたファリサイ派や律法学者たちが主イエスの弟子たちに向かって、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と非難しましたが、きょう朗読された33節では、その周りにいた人々が今度は主イエスに向かって、「ヨハネの弟子たちは……食べたりしています」(33節)と非難しています。主イエスが罪びとと呼ばれていたレビを弟子としてお招きになり、また多くの罪びとたちと共に食事をしておられるということは、ユダヤ教指導者たちにとっても、またすべてのユダヤ人たちにとっても、理解しがたいことであり、宗教的指導者としてはふさわしくない行動だと思われました。

主イエスの福音はユダヤ人にとっても、またすべての人間にとっても、受け入れがたい教えであり、つまずきとなりました。なぜならば、人はみな自分の罪に気づくこと遅く、自らの罪を認めることはしたくないからです。自分はあの罪びとたちよりはよりまともな人間であり、まじめで正直であり、努力家であり、自分で自分を救うことができると考えるからです。主イエスから一方的な恵みとして与えられる救いよりは、自分で勝ち取った救いの方がより値が高いと考えるからです。

しかし、わたしたちはきょうの聖書のみ言葉から、主イエスから与えられる救いの恵みこそが、人間の救いにとって最も力があり命があり喜びがあり、他の何ものにも替えがたい尊いものであるということを教えられるのです。主イエスの救いを信じる信仰によって与えられる義は、ファリサイ派や律法学者の義よりもはるかに勝った義であるということを学び取っていきましょう。

33節にヨハネの弟子たちが断食していることが取り上げられています。ヨハネは来るべきメシア・救い主である主イエスのために道を整える先駆者として、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。ヨハネと彼の弟子たちは、当時のユダヤ教で定められていたよりも頻繁に断食していたようです。旧約聖書では、大贖罪日と言われる日にすべてのユダヤ人は断食するように定められていました。レビ記23章27節以下にそのことが書かれています。大贖罪日にはイスラエルの全国民が主なる神のみ前に自分たちの罪を告白し、その罪を悲しみ、罪を悔い改めるしるしとして断食をし、神との交わりの回復を願い求めるのです。断食は食欲等の肉体的な欲望を捨てることによって、心と思いとをを神に集中させ、神との霊的な交わりを与えられるための信仰的な行為と考えられ、イスラエルでは重んじられていました。

ユダヤ人に定められていた年一回の断食日は、紀元前6世紀のバビロン捕囚以後には年数回に増やされ、主イエスの時代にはファリサイ派の間では一日3回の祈りとともに週に2回、月曜日と木曜日に断食するようになりました。ヨハネの弟子たちもそれと同じように断食していたと推測されます。しかしながら、ファリサイ派の断食には偽善的な要素が少なからずありました。彼らは自分たちの信仰深さを誇るために、多くの人々が見ている大通りで、顔を見苦しく装い、いかにも自分たちが深く罪を悔い改めているかのように見せて断食していました。それに対して、ヨハネの弟子たちは、近づきつつある神の最後の審判と神の国の完成の時に備えて、真実な罪の悔い改めのしるしとして断食をしていたと推測されます。

けれども、主イエスは偽善的なファリサイ派の断食も信仰的なヨハネグループの断食をも拒否され、定期的な断食は行っていませんでした。弟子たちにもそれを勧めませんでした。むしろ主イエスは徴税人や罪びとのようなユダヤ社会から見捨てられていた人たちと食事を共にされました。それはなぜでしょうか。主イエスは34節以下でその理由について婚礼のたとえと、服に布切れを継ぎ当てするたとえと、新しいぶどう酒を入れる新しい革袋のたとえで説明されました。この三つのたとえで主イエスが強調しておられること、主イエスが語っておられる神の国の福音の大きな特徴について読み取っていきましょう。

まず、婚礼のたとえですが、イスラエルでは結婚は非常に重んじられていました。結婚は神の創造の秩序の具体化です。神が人間を男と女とに創造され、人間が共に生きる交わりの関係であるべきことの具体的な姿が結婚です。それゆえに、結婚は神とイスラエルの契約の関係の比喩として用いられます。旧約聖書ではしばしば神とイスラエルとの関係が夫婦の関係にたとえられています。また、イスラエルの家庭では結婚の祝いは一週間も続きます。

新約聖書では、結婚は終わりの日に完成される神の国での盛大な祝宴にたとえられています。主イエスの説教でも、使徒パウロの書簡でもそうです。終末の時、花婿である主イエス・キリストと花嫁である教会の民とが永遠に固く結ばれ、神の国において絶えることのない共同生活を続ける。そこには永遠の祝福と救いと喜びがある。主イエスは34節で、その永遠の喜びの祝宴が今すでに始まっているのだと言っておられます。【34節】。神の国の花婿であられる主イエスがこの世においでになりました。神の国での結婚の祝宴がすでに始まっているのです。神が与えてくださる救いの恵みがすでに目の前に差し出されているのです。もはやだれも、自分の罪を悔いて、心や体を悩ます必要はありません。自分の力や努力で救いを手に入れる必要もありません。主イエスを信じる信仰によってすべての人に罪にゆるしと永遠の命が与えられているからです。

主イエスはさらに二つのたとえでこのことを強調されます。この二つのたとえに共通している点は、新しいものと古いものとの決定的な違いです。新しいものと古いものとは共存できません。一緒にすることはできません。新しい服から取った新しい布切れには弾力性があり、伸びちぢみしますが、古い着物には弾力性がありませんから、その両者を一緒に縫い合わせれば、伸び縮みの違いによって、継ぎ当てをした部分は破れてしまいます。そうすれが両方ともに使い物にならなくなってしまうでしょう。また、新しいぶどう酒は盛んに発酵し、空気が膨張します。しかし、古い革袋は伸縮性がありませんから、新しいぶどう酒をいれればやがて古い革袋を破って、ぶどう酒は無駄になってしまうでしょう。

主イエスがこの二つのたとえで強調しておられることを三つの点にまとめてみましょう。一つには、古いものと新しいものとは共存できない、一緒にすることはできないということです。新しい服から布を取って古い服に継ぎ当てをすることができないように、新しいぶどう酒を古い革袋に入れることができないように、花婿が共にいる婚礼の席には断食はふさわしくありません。主イエスが共におられる席では断食は必要ありません。

ここで、新しい、古いと言われているのは、単に時間的・時代的違いを指しているのではありません。時が経過して古くなったというのではなく、新しいものが、先の古いものとは全く異質な新しいものがやってきたゆえに、これまであったものがすべて古くなったという意味です。神の国の花婿であられる主イエスがこの世においでになられた今はそれまでにあったものはすべて古くなったのです。主イエスが罪びとたちと共におられ、罪びとたちを神の国へとお招きになっておられるゆえに、律法によって救われようとするユダヤ教の教えは古くなり、この世の何かによって救いを得ようとするすべての試みも古くなり、それのすべての道は閉ざされてしまったのです。主イエスが始められた神の国での祝宴の喜びにはそれらのすべてはふさわしくありません。それゆえに、ファリサイ派の断食もヨハネの断食も、主イエスが共にいてくださる祝福と喜びの前ではふさわしくはありません。

第二には、新しいものが持っている力、エネルギーの大きさです。それは古いものを破壊せざるを得ないということです。新しい布、新しいぶどう酒が、古い着物、古い革袋を引き裂くように、主イエスの福音は、主イエスが罪びとたちと共にいてくださるという喜びは、断食の苦しみや嘆きを消し去り、否定し、人間の罪の縄目を解き放つ大きな力を発揮するのです。主イエスが語られた神の国の福音は古い世界の、古い秩序を破壊し、罪と死と滅びとに支配されていた古い世界と人間をそこから解放するのです。

第三に強調されている点は、主イエスが語られた神の国の福音は圧倒的な力で新しい人間を創造するということです。【38節】。この主イエスのみ言葉は、単に一つの真理を語っているのではありません。新しいぶどう酒は新しい革袋を必要としています。新しいぶどう酒はそれを入れる新しい革袋を創造していくのです。主イエスの福音は主イエスの福音に生きる新しい人を創造するのです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙二5章17節でこのように書いています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と。主イエス・キリストによって和解の福音を聞かされ、罪ゆるされたわたしたちは、主キリストの福音によって新しく創造された信仰者として、和解の福音を持ち運ぶ任務を託され、和解の言葉を託されているのです(同18~21節参照)。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪と死の世界をさまよっていたわたしたちを、あなたがみ子主イエス・キリストの福音によって見いだしてくださり、み前にお招きくださいます幸いを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちに新しい命を注ぎこみ、わたしたちをあなたのみ心にかなって造り変えてください。あなたのみ心を行う人としてください。

○天の神よ、さまざまな試練や苦悩の中にあるこの世界と諸国の人々を憐れみ、顧みてください。重荷を負っている人たちを力づけ、励ましてください。悲しみ痛みの中にある人たちに、慰めと平安をお与えください。孤独な人や迷っている人には、あなたが共にいてくださり、希望の光をお与えください。

〇この世界は今、あなたの天からの助けとお導きとを必要としています。どうか、この世界を憐れんでください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月17日説教「アブラハムの選択」

2021年1月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記13章1~18節

    ローマの信徒への手紙4章1~12節

説教題:「アブラハムの選択」

 アブラハムは神が約束された地、カナンに到着しましたが、その地を襲った厳しい飢饉のために、エジプトに避難しました。自分と家族の命を養うためとはいえ、彼が神のみ言葉を聞かずに、神が約束されたカナンの地を離れて、エジプト行きを決断したことは、大きな失敗でした。さらに、彼は自分の妻を妹と偽って、妻サライをエジプト王ファラオの宮廷に売り飛ばすという失敗を重ねました。このようにしてアブラハムは神の約束のすべてを失ってしまいました。「この地をあなたの子孫に与える」という約束を、「あなたの子孫を大きな国民とする」という約束をも、そして「あなたはすべての信仰者の父となり、すべての国民の祝福の源となる」という約束をも、彼は投げ捨ててしまったのでした。

もしここで、主なる神が現れなかったならば、いわゆる「アブラハム契約」は効力を失い、彼ののちに続くすべての信仰者たち、今日のわたしたちをも含めてですが、その人たちに約束されていた神の祝福も受け継がれなかったであろうということを考えると、今学んでいる創世記のみ言葉が、また信仰の父アブラハムの生涯とその信仰の歩みが、今のわたしたちと実質的に関連しているということを思わざるを得ません。わたしたちは創世記に描かれているアブラハムの信仰の歩みを、わたし自身の信仰の歩みと重ね合わせながら、きょうの創世記13章のみ言葉を読んでいくことにしましょう。

【1節】。この1節で、アブラハムの信仰の歩みがなおも継続されていくということを、わたしたちは知らされます。アブラハム(この時はまだアブラムという名前でしたが)は、数々の失敗を繰り返しても、なおもアブラハムとして、神の契約を担う信仰の父として、その名が記録されています。それには、神の憐れみとゆるしがありました。というよりは、神の憐れみとゆるしなしには、アブラハムはアブラハムであり続けることはできないし、信仰の父として神の祝福の源となることはできないと言うべきでしょう。アブラハムは失敗します。つまずきます。疑います。迷い、倒れます。けれども、神は彼をお見捨てにはなりません。神は彼の罪をおゆるしになられます。神がなおも彼の信仰の道をお導きになるのです。そのようにして、アブラハムはすべて信じる人たちの信仰の父とされます。そのようにして、すべての信仰者は、わたしたちも含めて、罪の中にあってもなおも信仰の道を、終わりの日の完成を目指して進み行くことが許されるのです。

「妻と共に」とあります。何と幸いなことでしょうか。自分を身の危険から守るために、妻サライの人権とか尊厳性とかを捨て、また神の約束を共に担っていくべき夫婦の関係を捨てて、妻を妹と偽ったアブラハムと、ひとたび夫に裏切られ、異教徒の王に身売りされたかのようにされた妻サライとが、ここで再び神のゆるしのもとで、共に生き、共に神の約束を担って信仰の道を歩み続けることを許されているということは、何と幸いなことでしょうか。

「エジプトを出て」とあります。この言葉も象徴的です。大飢饉のために、パンを求めて行ったエジプト、神の約束のみ言葉を忘れ、大きな失敗を繰り返して罪を犯したエジプト、この世的な誉と富とを得たけれど、神への信仰と正しい人間関係とが壊されていたエジプト、しかしそこから出て、いわゆる出エジプト、再び神の約束の地へと戻る、この出エジプトというテーマは、聖書の中で何度も繰り返されていきます。アブラハム時代から600年ほどあとの紀元前1200年代、モーセの時代の出エジプト、それからさらに800年ほど後の紀元前530年代、バビロン捕囚からの帰還、そしてまたその600年ほどあとの紀元1世紀、主イエスの時代、マタイによる福音書2章14節以下にはこのように書かれています。【14~15節】。(3ページ)。

このような出エジプトのテーマは、神がわたしたち人間の罪をゆるし、わたしたちをすべてのこの世の奴隷状態から解放し、罪と死と滅びの縄目から解き放って、自由と喜びと感謝に満たされた信仰の歩みへと導いてくださる神の救いのみわざを語っているのです。

「ネゲブ地方へ上った」とあります。ネゲブは12章9節でアブラハムが滞在していた神の約束の地カナンの南端の地です。彼は再び神の約束の地へと戻ってきました。いわゆる「アブラハム契約」はなおも継続されていくことになりました。アブラハムがパンを得るために捨てた約束の地を、神は再び彼にお与えくださいました。彼はこれから、再び与えられた約束の地で、神の憐れみ受け、罪ゆるされた信仰者として生きていくのですが、彼はその道を迷わずに進んでいくことができるでしょうか。罪ゆるされている信仰者にふさわしく、信仰の父としての名に恥じないように生きることができるでしょうか。それとも、彼は再び失敗を繰り返すのでしょうか。

それについては、少し気がかりなことがあります。1節の終わりに「ロトも一緒であった」とあります。また、2節には【2節】と書かれています。このことが、この章で展開される新しい事態を引き起こします。先に12章5節に、アブラハムがハランを出て神の約束の地へと旅立った時に甥のロトも連れていたことが書かれていました。アブラハムはこれまでロトと一緒に旅を続けてきました。二人は良き協力者であり、同労者でした。何よりも、同じ信仰の道を歩み、同じ神を礼拝する信仰にある兄弟でした。ところが、その二人の交わりを引き裂く事態が起こったのです。

その原因となったのは、アブラハムが持っていた多くの財産でした。5節では一緒に旅を続けてきたロトにもたくさんの財産があったと書かれています。多くの財産が与えられることは神の祝福だと考えられていました。そのことを神に感謝し、神と隣人のためにそれを用い、ささげるならば、地上の富は神の祝福となり、神の栄光を現すことにもなるでしょう。しかし、多くの場合、人は地上の富に心を奪われ、神から離れていきます。それによって、人間の交わりも壊されていきます。主イエスはマタイ福音書6章24節で、「だれも神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われました。アブラハムとロトにもそのことが当てはまります。地上の財産を多く持つに至った二人の関係はどうなるでしょうか。

アブラハム一族は家畜を連れて牧草地を旅する遊牧民でした。カナンの地では彼はまだその地を所有してはいません。天幕を移動しながら牧草を求めて旅する寄留者です。他にも多くの遊牧民がいます。カナンの原住民もいます。アブラハムもロトもあまりにも多くの財産を持つようになったために、二人は一緒に住むことができなくなりました。6節では2度もそのことが強調されています。【6節】。人間が余りにも多くのものを所有するがゆえに一緒に住むにはこの世界は狭すぎる、この言葉は現代のわたしたちの地球にも当てはまるのでしょうか。人間があまりにも豊かになり、偉大になり、あまりにも多くを所有するようになったがゆえに、人間はこの地球上から神をも追い出すのでしょうか。神が創造されたこの世界に、人間はついには神と共に住むことができなくなり、隣人と共に住むことができなくなってしまうのでしょう。全世界の人間が共に住むには、この地球はあまりにも小さいのでしょうか。主イエスが言われたように、わたしたちはだれも神と富とに兼ね仕えることは決してできないとのだいうことを忘れてはなりません。

7節に書かれているように、アブラハムとロトの家族の間に当然の結果として争いと分断が起こりました。そこで、年上のアブラハムがロトに提案をします。【8~9節】。アブラハムはロトとの争いを避けようとしています。アブラハムはロトよりも年上であり、家の主人ですから、自分に有利な提案をすることもできたし、ロトを追い出すこともできたでしょうし、あるいは力づくでロトをねじ伏せて彼の財産を奪うこともできたかもしれません。けれども、アブラハムは争いではなく和解の道を選びます。自分の権利を主張するのではなく。むしろロトの方に選択権を譲っています。

わたしたちはここで先にアブラハムに対して抱いていた不安が、取り越し苦労であったことを知らされます。エジプトで失敗を重ねたアブラハムでしたが、今回は失敗を繰り返しません。地上の富に心を奪われ、それによって行動することはありません。むしろ、自分の権利を放棄して、富を追い求める道を放棄します。アブラハムは甥のロトの方に選択権を譲りました。今回は、アブラハムは神と富との両方に仕えることはしません。富への道を放棄し、結果的に彼は神への道、信仰への道を選び取ることになりました。わたしたちは何かほっとする思いになり、アブラハムに心の中で拍手を送りたい気持ちになるのは、わたしだけでしょうか。

ロトはカナンの東の方、ヨルダン川流域の低地の豊かに潤っているように見えた地を選びました。その地はソドム、ゴモラの町がある、邪悪と罪とに満ちた地でしたが、ロトにはまだそれは見えてはいませんでした。12節に、「アブラムはカナン地方に住んだ」と書かれています。彼は神の約束の地に留まりました。彼は地上にある豊かさや富を放棄することによって、結果的には本当に選ぶべき道を選んだのでした。そこに、隠れた神のみ心が働いていた、神の導きがあったと聖書ははっきりとは語っていませんが、14節以下を読めばそこのことが確かであることを知らされます。

【14~18節】。アブラハムはこの神の約束のみ言葉を聞くために、豊かに潤ったヨルダンの低地を選んだロトと別れ、この地に留まったのでした。アブラハムは確かに自分の選択権を捨てたことによって、選ぶべき道を選んだのでした。それは、彼自身が選んだというよりは、神がそのように選ばせてくださった、神ご自身の選びであったと言うべきでしょう。

神はアブラハムに「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と言われます。見渡すという言葉は10節でロトについても用いられていました。ロトはこの世の豊かさや地上の幸いを見ていました。しかし、アブラハムは信仰の目を挙げて、神の約束を見るようにと促されています。彼はまだこの地の一角をも所有してはいません。この地では寄留者であり、旅人です。けれども、彼は神の約束によってすべてを所有しています。「わたしは永久にあなたとあなたの子孫にこの地を与える」。この神の約束によって、彼はすでにこの地を所有しています。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」。この神の約束によって、彼はすでにのちの時代のすべて信じる人々の信仰の父とされています。

これは、アブラハムの選択というよりは、神の選択、神の選びです。アブラハムがカナンの約束の地を選び取ったのではありません。神がアブラハムをお選びになり、生まれ故郷のカルデヤのウルから彼を呼び出され、約束の地へと導かれたのであり、神がエジプトでのアブラハムの失敗から彼をお選びになり、また今神がロトとの争いの中から彼をお選びになり、約束を更新されたのです。それゆえに、アブラハムはすべて信じる人たちの信仰の父となり、祝福の基となったのです。そして、アブラハムの選びは、主イエス・キリストによってわたしたち一人一人の選びとなったのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、あなたの選びと救いの恵みはとこしえからとこしえまで、決して変わることはありません。あなたは罪と失敗を繰り返すしかない、弱く貧しいわたしたちをも、あなたのみ国の民の一人としてお選びくださいました。どうか、わたしたちを永遠にあなたの契約の民の中に置いてくださいますように。あなたの選びを信じて、生涯あなたの僕(しもべ)として仕えさせてください。

〇世界と日本が今、大きな試練と苦しみの中でもがいています。あなたは天から一人一人の痛みや悲しみ、労苦や戦いを見ておられます。どうか、あなたからの顧みがありますように、あなたのみ心が行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月10日説教「エルサレム教会の誕生」

2021年1月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:出エジプト記13章3~10節

    使徒言行録2章37~42節

説教題:「エルサレレム教会の誕生」

 五旬祭(ペンテコステ)の日にイスラエルの首都エルサレムに世界最初の教会が誕生した次第について、使徒言行録2章が記録しています。これは、紀元30年ころ、主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活されたのがユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時期でしたが、それからおよそ50日後、太陽暦では5月から6月にかけてのころでした。主イエスの神の国の福音を宣教するお働きは、主イエスの死後も、ペンテコステの日に誕生した教会によって継続されていきました。神の救いのみわざは天地創造の初めから、終わりの日の神の国が完成される時まで絶え間なく続けられます。今からおよそ2千年前の世界最初の教会誕生の時から、その後に全世界に誕生した教会の働きをとおして、またこの日本の地に、秋田の地に立てられた教会の働きをとおして、神の救いのみわざは絶え間なく継続されていくのです。わたしたちのこの小さな群れもまたその神の救いのみわざに仕えています。

 きょうは、使徒言行録2章37節以下のみ言葉から、教会誕生に関する重要なポイントを三つにまとめて学んでいきたいと思います。そのことは、今日のわたしたちの教会がどのようにして生きた教会として建てられていくのか、またその教会に集められているわたしたちはどのようにして教会の主なるイエス・キリストにお仕えし、神の救いのみわざにお仕えしていくべきなのかを知ることでもあります。

 その三つのポイントとは、一つは、聖霊なる神のお働きを信じること、二つには、神のみ言葉を聞くこと、そして三つには、主キリストのお体なる教会に召し集められているわたしたち信者一人一人の悔い改めと結集(一つの群れとして集められること)、この三つについて学んでいくことにします。

 では、最初の聖霊なる神のお働きについてですが、ペンテコステは聖霊降臨日という呼び方もあるように、この日に主イエスの弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊に満たされた弟子たちが神の偉大な救いのみわざについて語りだしたことから、教会誕生へと進展していきました。聖霊降臨と教会誕生とは密接につながっています。聖霊は教会の命と存在の源です。聖霊はいまもなおわたしたちの教会が真実の教会であり続けるための恵みと力の源です。

聖霊降臨はまた主イエスのお約束の成就でもありました。使徒言行録1章8節で主イエスはこのように約束されました。【8節】。(213ページ)。同じようなことを主イエスはヨハネ福音書14~16章でも繰り返して約束しておられます。主イエスは天に昇られたあと、父なる神と共に弟子たちに聖霊を注いでくださり、聖霊は主イエスがお語りになったみ言葉を弟子たちに思いおこさせ、彼らを主イエスの証し人としてお立てくださるであろうと約束されました。聖霊は主イエスの約束のみ言葉と固く結びついて、信じ従うわたしたちの力となり、導きとなってくださいます。そして、わたしたち一人一人をも主イエス・キリストの証人として固くお立てくださいます。弟子のペトロの説教では、38節で「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と語られています。主イエスを救い主と信じて洗礼を受けた一人一人には、それぞれにふさわしい聖霊の賜物が与えられます。わたしたちはその賜物を生かして主イエス・キリストの証人となって仕えていくのです。教会のすべての活動とわたしたち信仰者のすべての歩みは聖霊によって導かれているのです。

第二に重要なポイントは、神のみ言葉を聞くということです。聖霊降臨と教会誕生には神のみ言葉を聞くということが伴っています。37節にこのように書かれています。【37節】。ペンテコステの日に、聖霊によって神の救いのみ言葉を語ったペトロの説教が36節まで書かれていますが、その説教を聞いた人々にも聖霊が働きました。その時、ペトロの説教によって彼らは「大いに心を打たれ」ました。大いに心を打たれるとは、何か感動的な話を聞いたというようなことではなく、心が突き刺され、抉り出されるという強い意味を持っています。聖霊によって神のみ言葉を聞くということは、そのように激しく心が揺さぶられ、わたしの存在全体が根本から神によって問われるということなのです。なぜならば、ヘブライ人への手紙4章12節にはこのように書かれているからです。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」。神のみ言葉を語る時、また神のみ言葉を聞く時、そこに聖霊が働き、驚くべき力が発揮され、人間を根本から造り変えるのです。

ペンテコステの日にペトロが語った説教を、神の救いのみ言葉として聞く時に、そこに聖霊が働き、神の救いの出来事が起こされます。そのようにして教会が誕生します。教会は神の救いのみ言葉を聞き続けることによって、真実の教会として生き続けるのです。

では、ペンテコステの日に聖霊によって神のみ言葉を聞いた人々にどのようなことが起こったのでしょうか。ペトロは36節でこう説教しました。【36節】。この説教を聞いたユダヤ人たちは、ここで自分たちの罪が告発されていることを気づかされました。彼らは神がメシア・救い主としてイスラエルにお送りくださった主イエスを神を冒涜する者として十字架で処刑しました。その偽りの裁判に直接携わっていなかったユダヤ人もみながその罪にいわば連帯責任を負っているいるのです。彼らは神がお遣わしになったメシア・救い主を拒絶し、葬り去ったのです。ペトロの説教を聞いたユダヤ人たちに聖霊が働き、彼らにそのような罪の自覚を与えました。

しかし、ペトロの説教が語っているもう一つのことは、そのようなユダヤ人たちの罪にもかかわらず、その罪を超えて、神は主イエスを死からよみがえらせ、全世界のすべての人のメシア・救い主としてお立てになったということです。神はユダヤ人たちの罪に勝利されます。すべての人間の罪に勝利されます。人間の罪と死を罪のゆるしと復活の命に変えてくださったのです。ペトロの説教を聞いた彼らは、聖霊によって、自分たちが神の救いへと招かれていることを知らされたのです。そこで、彼らは「わたしたちはどうしたらよいのですか」とペトロに問いかけます。

神のみ言葉の説教は、それを聖霊の導きによって聞く人たちにそのような二つのことを悟らせます。第一には罪の自覚です。人間は自分の知識や能力によってはだれも自分の罪に気づくことはありません。なぜならば、人間は生まれながらにして罪に傾いているからです。神を知らず、神に背いているからです。聖霊によって神のみ言葉を聞く時、主イエス・キリストの福音を聞く時に、わたしたちは神のみ心に背き、神の恵みを受けるにふさわしくない自らの罪に気づかされます。

と同時に、神のみ言葉は人間の罪をゆるし、罪と死と滅びとに支配されていた人間を罪の奴隷から救い出す恵みと命のみ言葉であるということを、聖霊はわたしたちに信じさせてくださいます。人間の罪が最後に勝利するのではなく、神の救いの恵みが人間のあらゆる罪や悪や無知や反逆をも乗り越えて前進していくのです。聖霊によって神のみ言葉を聞く時に、わたしたちはそのような二つのことに気づかされ、この罪多き貧しいわたしもまた神の救いへと招かれていることを知らされるのです。そして、「わたしたちはどうしたらよいのか」という問いが生まれます。

ペトロは答えました。【38~39節】。ペトロの説教を聞いた人たちに聖霊が働き、彼らの心を刺し貫き、ヘブライ人への手紙のみ言葉で言えば「どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して」、彼らに罪の自覚を与え、また神の救いを願い求める信仰を与えました。次に彼らがなすべきことは、悔い改めです。悔い改めとは、生きる方向を変えることです。これまでは、神なき世界で、神から離れて生きていた罪を認め、方向転換をして神の方に向かって進んでいくこと、これまでは、自分を中心に生きていた罪を告白し、神を中心とした生き方へと変わっていくこと、これまでは、この世が与えるパンだけによって生きてきた罪を知らされ、神のみ言葉にこそまことの命があることを信じること、それが悔い改めです。そして、神から差し出されている救いの恵みを感謝して受け取ること、それが救いです。

これが、ペンテコステの日に起こった出来事の重要なポイントの三つ目です。この日に誕生した教会は、神のみ言葉を聞きつつ、悔い改めつつ、そして神から与えられる恵みに感謝しつつ生きる信仰者の群れです。

ペトロは、悔い改め、信じた人たちに洗礼を受けることを勧めています。洗礼は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪ゆるされ、新しい命に生かされていることの目に見えるしるしとして、また体で体験するしるしとして行われます。洗礼はその救いの出来事がわたし個人のことであるだけでなく、教会全体にかかわる出来事であり、教会の誕生と教会の存続にかかわる出来事であるということを、教会の群れ全体で確認する儀式でもあります。

洗礼は主イエス・キリストのみ名による洗礼です。主キリストのみ名による洗礼とは、洗礼が主キリストのみ名のもとで行われる儀式・聖礼典であるという意味と、主キリストのみ名の中へと洗礼される、沈められるという意味をも持っています。すなわち、主キリストのみ名の中へと招きいれられる、主キリストのみ名と一体されるということです。使徒パウロはローマの信徒への手紙6章3~4節でこのように書いています。【3~4節】(281ページ)。また、コリントの信徒への手紙12章13節ではこう言っています。【13節】(316ページ)。つまり、主キリストのみ名による洗礼によって、わたしたちは主キリストと一つにされ、また同じように一人の主キリストのみ名による洗礼によって、わたしたちは一つの聖霊に結ばれ、一つの主キリストの体とされているということです。聖霊は教会を一つの、召された群れとして結集させてくださいます。

ペンテコステの日に起こった聖霊の注ぎと教会の誕生は二千年後の今日も絶え間なく継続されています。わたしたちは主の日ごとの礼拝に集められ、神のみ言葉を聞き、悔い改めと信仰とをもって、主キリストの体なる教会にお仕えしていきましょう。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたが永遠の救いのご計画によって、全世界に主イエス・キリストの教会をお建てくださり、教会の民をお集めくださいますことを感謝いたします。あなたはこの日本にも、この秋田の地にも、信じ救われた者たちをお集めくださり、きょうの主の日の礼拝をささげさせてくださいました。どうか、わたしたちがあなたのみ言葉に聞き従い、主キリストの福音の証し人としてあなたにお仕えしていく者としてください。

〇感染症の拡大によって大きな困難の中にある世界と日本を顧みてください。あなたの癒しと慰めとが苦しみと痛みの中にある一人一人の上にありますように。あなたのみ心が行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月3日説教「罪人をお招きになる主イエス」

2021年1月3日(日)秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書55章6~13節

    ルカによる福音書5章27~32節

説教題:「罪人をお招きになる主イエス」

 ルカによる福音書5章27節以下に書かれている徴税人レビが主イエスの弟子として召されたという記事は、共観福音書にほとんど同じ内容で報告されています。ただ、その名前は、ルカ福音書ではレビですが、マタイ福音書9章ではマタイとなっており、マルコ福音書2章ではアルファイの子レビとなっています。レビとマタイは同一人物で、主イエスの12弟子の一人だったと推測されています。ただし、マタイ福音書を書いたと考えられているマタイと徴税人マタイあるいはレビとは同じ人物ではありません。

 きょうは、徴税人レビの召命について記したみ言葉から、わたしたちが信仰者として、キリスト者として召されるとはどういうことなのか、またわたしたちは新しいこの一年を信仰者としてどのように生きていくべきなのかを、ご一緒に聞いていきたいと思います。

 では27節を読みましょう。【27節】。ここでまず「見て」という言葉に注目しましょう。前回学んだ20節にも同じ言葉がありました。【20節】。2節にもありました。【2節】。主イエスはガリラヤ湖の漁師が一晩中網を降ろしても一匹もとれずに、疲労困憊している様子をご覧になりました。長く寝たきりの友人をベッドのまま運んできて、屋根をはいでまで、何とかしてその人を主イエスのみもとへと連れていこうとした人たちの愛と奉仕を見ておられました。あるいはまた、徴税人レビが法外な税金を取り立てて私腹を肥やし、それゆえに人々から罪びと呼ばわりされていた様子をもご覧になっておられます。主イエスは一人一人のさまざまな様子をすべてをご覧になっておられます。主イエスはまた、わたしたちの日々の歩みのすべてをご覧になっておられます。そして、それぞれの状況ふさわしい救いの道を備え、それぞれの人にふさわしい救いの恵みをお与えくださいます。そのことを信じて、わたしたちは感謝と喜びと希望とをもって新しい年の歩みを始めることをゆるされています。

 以前にも確認しましたように、主イエスが何かをご覧になる時、そこに救いの出来事が起こります。主イエスの目が徴税人レビに注がれる時、彼の身に救いの奇跡が引き起こされます。彼が「収税所に座っているのを見て」と書かれています。「座る」とは、ある意味でその権力や特権にしがみついていることを意味します。収税所での仕事は彼にとって大変好ましく、捨てがたい椅子でした。この時代の徴税人について少し説明を加えておきます。税金はイスラエルを支配していたローマ帝国に払う住民税ですが、彼はその地域の徴税総額を入札によって競り落とし、実際にはその金額よりも多くを住民から徴収して、その差額を自分の懐に入れます。これは不正ということではなく、徴税人に認められていた権利のようなもので、人々はそのことをよく知っていました。それで、徴税人は神の民であるイスラエルを神なき異邦人に売り渡している不信仰のゆえに、また自らの権力によってお金をもうけている悪徳商人として、人々に嫌われ、罪びとと呼ばれていました。30節で、ファリサイ派や律法学者たちが「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と非難していることからもそのことが分かります。

 そのような徴税人を、多くのユダヤ人は、時に憎しみや、あるいは妬みの目で見ることがあっても、愛の目で彼を見る人はだれもいません。ところが、主イエスはそのような徴税人レビに目をおとめになります。主イエスの目は彼のすべてを捕えます。彼がこれまでに主イエスと会ったことがあるのか、主イエスの説教を聞いたことがあったのかということに関しては聖書は何も語りません。彼がどれほどにこの職業に固執していたか、あるいは、みんなから嫌われて孤独であったのか、何かに迷い道を求めていたのか、というようなことに関しても、何も語られてはいません。

 聖書はただこのように語ります。「『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)と。レビを見られた主イエスの目と彼に語りかけられた主イエスの招きのみ言葉が、すべてです。このような主イエスの招きが、全く何もないところで、全く何の条件とか理由とか保証とかもないところで、しかも、全く選ばれる可能性も資格もないレビに対して語られた主イエスの招きのみ言葉が、新しい出来事を生み出すのです。レビの信仰を生み出すのです。レビの服従を生み出すのです。

 ここでだれかは次のような疑問を投げかけるかもしれません。レビは彼が持っていたすべてのものを投げ捨てて主イエスに従ったと書かれているけれども、それは冷静な判断だったのか、彼はだれかにそのことについて相談しなかったのか、家族や友人たちには何も相談もなく、彼一人で直ちに判断したのは、あまりにも大胆で危険ではないか、と言うかもしれません。聖書がそのことについて何も語らないのは不親切ではないのか、と。

しかし、実は聖書は何も語っていないのではなく、十分語っているのです。主イエスの目が徴税人レビに注がれた時、そして主イエスの招きのみ言葉が彼に語られた時、そこにすべての答えがあります。主イエスは彼のすべてを見ておられ、知っておられるのです。彼の過去も現在も未来をも。レビが主イエスのことを十分に知らないとしても、主イエスは彼のことをすべて知っておられます。そして、主イエスは彼のすべてを受け入れ、引き受けておられるのです。それゆえに主イエスの招きのみ言葉は彼を強く捕らえ、彼に信仰の決断を可能にしているのです。彼が主イエスのみ言葉に聞き従う時、主イエスが彼に必要なすべてのものを備え、彼が歩むすべての道を導かれるからです。

レビはこのような主イエスの目と招きのみ言葉に捕らえられました。その時、彼が主イエスを信じて、主イエスに従うという信仰の奇跡が起こるのです。信仰とはいつの場合でも主イエスが引き越してくださる奇跡です。わたしが長い間熱心に求め続けてついに到達したと思っている信仰であれ、父や母から受け継いできた自然な道のりであれ、迷いと戦いの末に見いだした道であれ、信仰とはだれにとっても、主イエスが起こしてくださった奇跡であり、選ばれるに値しない罪多きわたしに主イエスの一方的な愛と選びによって与えられた奇跡としての信仰なのです。レビの場合がそうであったように。

29節から第二の場面が展開されます。第一の場面との密接な関連の中で展開されていきます。主イエスの一方的な愛と選びによって弟子として招かれたレビは、主イエスのためにすべてをささげてお仕えする信仰の道を歩みだしました。主イエスの恵みに感謝し、主イエスと隣人に奉仕する生活が始まります。彼は自分の家に主イエスをお招きし、食事のもてなしをします。徴税人仲間やユダヤ人社会から罪びとたちとして排除されていた人たちもこの食卓に招かれています。けれども、本来の食卓の主はレビではなく、主イエスです。その証拠に、30節のファリサイ派や律法学者の非難に対して答えておられるのは主イエスだからです。【30~32節】。罪びとたちをみ前にお招きになり、その罪をおゆるしになる主イエスこそがこの食卓の主なのです。この食卓は教会の聖餐式を暗示しています。終わりの日の神の国での大宴会を象徴しています。レビはこの食卓のために主イエスと隣人たちのために仕えています。それゆえに、持っているものすべてを捨てて主イエスに従った彼は何と幸いなことでしょう。彼には神の国が約束されているからです。

ところが、主イエスの招きと救いの出来事が起こる時、それを拒絶する人間の罪もまた明らかにされます。これは聖書全体に共通している原理のようなものです。神の救いのみわざが行われる時、その救いを拒み、それを喜ばない人間の罪もまたそこで明らかにされていくということが、聖書の中ではしばしば起こります。特に、福音書の主イエスの救いのみわざの際に、そのことが浮かび上がってきます。主イエスから与えられる救いの恵みが差し出される時、それを受け入れて喜び感謝する信仰者と、なおもかたくなに自分自身の罪の中に留まり続けようとし、それだけでなく、主イエスに反逆し、主イエスをこの世から取り除こうとさえする人間の罪があらわになってくるのです。

ファリサイ派と律法学者たちは主イエスと弟子たちが罪びとたちと一緒に食卓を囲んでいることが不思議であり、それはユダヤ人の宗教指導者にはふさわしくないと考えました。というのは、神の国の教えを説く教師たるものは、注意深く罪や汚れからその身を遠ざけるべきだと彼らは考えていたからです。ファリサイという彼らの名称は「分離された者たち」という意味を持っています。自分たちは神の国に最も近く、神の救いを得るのに最もふさわしい。だから、罪びとたちから分離されたグループであり、神を知らない異邦人のために働く徴税人や、律法を守らない罪びとたちとの交わりを避けるべきだと彼らは主張していたのです。

けれども、主イエスが語られた神の国の福音は彼らが考えていた律法による救いとは全く違っていました。主イエスは言われます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためであり、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。これこそが主イエスの福音です。だれ一人神の律法の前で完全な人はいません。神の律法を守り行って救われる人はだれもいないのです。のちに使徒パウロが言うように、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマの信徒への手紙3章20節)。

主イエスはそのような罪人をお招きくださいました。そのような罪人に救いの道を備えてくださいました。「罪びとを招いて悔い改めさせるためである」と主イエスは言われます。まず、主イエスの招きがあります。主イエスの救いへの招きがすべての人に備えられています。その救いの道へと招かれた人は、自らの罪を知らされ、悔い改めて神に立ち返る信仰が与えられるのです。したがって、悔い改めとは、わたしが神に立ち返るよりも先に、主イエスがわたしを神のみ前にお招きくださっておられるということを知ること、主イエスがわたしのためにすべての救いのみわざをなしてくださったということを信じ、受け入れ、それに感謝することです。

宗教改革者たちが言ったように、「わたしたちはみな常に罪びとです。しかしまた、常に罪ゆるされている罪びとです」。それゆえに、わたしたちは日々悔い改めつつ、また日々主のお招きに感謝をもって応えつつ、この一年も主が備えたもう信仰の道を歩み続けていきたいと願います。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを新しい年の最初の主の日の礼拝にお招きくださったことを心から感謝を致します。あなたの恵みと慈しみとは、とこしえからとこしえまで変わることはありません。どうか、あなたが創造された天地万物を豊かに祝福してください。大きな苦難と試練の中にあるこの世界のすべての人々にまことの救いをお与えください。また、特にあなたがお選びくださった教会の民を強めてください。勇気と希望とをもって、主キリストの福音を宣べ伝えていくことができるように、聖霊なる神のお導きを祈り求めます。どうか、あなたのみ心が全地に行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月27日説教「エジプトでのアブラハム」

2020年12月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章10~20節

    マタイによる福音書2章13~23節

説教題:「エジプトでのアブラハム」

 アブラハムは神のみ言葉に導かれて、生まれ故郷カルデアのウルを出発し、ユーフラテス川を北上してハランに移り、そこから南下して神が約束された地カナンに移っていきました。カナンに入ってからの彼の足跡は彼が築いた祭壇によってたどることができます。創世記12章7節には、最初の地シケムで、「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」と書かれており、また8節には、ベテルに移ってからは、「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」とあります。アブラハムは生涯、定住の場所を持たず、地上では旅人、寄留者として歩みました。けれども、何の目的も持たずにさまよう旅人ではなく、気まぐれに旅を楽しむ旅行者でもありませんでした。彼の歩みは祭壇から祭壇へ、礼拝から礼拝への歩みだったのです。彼は信仰の旅人でした。彼は神を礼拝し、神のみ言葉を聞き、神に導かれた旅人でした。

 アブラハムを信仰の父とするわたしたちキリスト者もまた、祭壇から祭壇へ、神礼拝から神礼拝へ、主の日から主の日へと続く歩みを続けます。わたしたちもまた礼拝で語られる神のみ言葉を聞きながら、そのみ言葉に導かれながら、この一年を歩みました。また、来る年もそのようにして歩みます。そして、神の約束の地を目指して、神が終わりの日に完成される神の国を目指して、地上では旅人、寄留者として生きるのです。

 9節に、「アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った」と書かれています。ネゲブは神の約束の地カナンの最南端にあります。その南は砂漠が広がる乾燥地です。アブラハムがなぜネゲブという、住むには適しない乾燥した高地へと移動したのか、その理由は書かれていません。それが神の導きだったのか、あるいはそこに住んでいたカナン人に追われたので、草原地帯の北部から砂漠に近い南部のネゲブへと追われてきたのかもしれません。いずれにしても、アブラハムにとって重要なことは、神の約束の地に留まることでした。神が7節で、「あなたの子孫にこの地を与える」と約束された神のみ言葉に留まり続けることでした。

 ところが、次の10節を読むと、アブラハムは約束の地の南端に当たるネゲブからさらに南下しようとしたことを知らされます。【10節】。これまでは神の導きに従って生きてきたアブラハムでしたが、ここで彼自身が、自分の判断で、新しい道を歩もうとしています。神の約束の地カナンを捨てて、はるかに遠い異国の地エジプトに移ろうとしています。これは、信仰の父アブラハムにとって、神の約束の地に生きるアブラハムにとって、大きな誘惑であり、試練なのではないでしょうか。彼の前に今、パンの問題が、生活の問題が大きく立ちふさがっているのです。彼はそれをどのように解決し、乗り越えていくべきでしょうか。

 わたしたちがこれまで見てきたように、アブラハムの歩みは神のみ言葉に導かれていました。それが今、飢饉という生活の問題のために、彼自身と家族を飢えから救うためという、パンの問題が彼の歩みを変えようとしているのです。このアブラハムの選択は、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである」という神のみ言葉に背く罪になるのではないか。それとともに、神が約束された地から去ることは、神の約束を捨てることになるのではないか。この選択は信仰の父アブラハムにとっては失敗になるのではないか。

 多くの信仰者はそのような疑問や不安を抱くでしょう。確かに、カナンの地での飢饉はひどかったと強調されていますが、またナイル川流域のエジプトにはたくさんの食糧があるというニュースがアブラハムの耳にも届いていたでしょうし、家族を飢饉から救うためにはこの選択以外には考えられないと言えるでしょう。しかしながら、わたしたちの信仰の父であるアブラハムはここで神の約束のみ言葉を捨てることはしてほしくないと、多くの人は願うに違いありません。でも、アブラハムは失敗します。エジプト行きを決断します。

聖書はアブラハムのエジプト行きの決断を失敗であるとか、神に背く罪であると、あからさまに語ってはいません。それが人間の当然の選択であるかのように、冷静に、淡々と語っています。しかし、そのあとに続く彼の失敗をわたしたちは見逃すことはできません。

【11~13節】。最初の失敗が、すぐに次の失敗を生みます。神のみ言葉から離れ、神の約束の地から離れたアブラハムの心に不安が襲ってきました。彼は自分の妻が美しいことが気がかりです。そのことが自分の命取りになることを恐れています。彼はエジプトで起こることを予想しています。エジプト人は彼の妻の美しさに注目するでしょう。そして、妻を自分のものにしようとし、邪魔になる夫である彼を殺すでしょう。美しいものを手に入れるために、古代から現代に至るまで、人間は多くの血を流してきました。アブラハムはそのことをよく知っています。

そこで、彼は一つの策を考えました。妻の美しさを自分の命と利益のために利用することです。そのためにうそをつくことを考えます。妻を自分の妹だと偽ることです。そうすれば、美しい妹のためにエジプト人から自分も優遇されるに違いないと考えたのです。このアブラハムの考えは賢いように思えました。そのことを提案された妻サライも同意したようです。

そして、エジプトでは事実アブラハムが考えた通りに事が運びました。サライはエジプトの王ファラオの宮廷に召し入れられました。アブラハムは王から厚くもてなされ、多くの財産を手に入れることができました。彼の計画は見事に成功したように見えます。彼自身の目にも、エジプト人の目にも。そしてわたしたちの目にもそのように見えます。アブラハムのエジプト行きは決して失敗などではなく、むしろ成功だったのではないでしょうか。大飢饉から逃れてやってきたこのエジプトで、彼はあり余るほどのパンを手に入れただけでなく、幸いを得て、裕福になり、大成功をおさめたかのように思えます。だれの目にもそのように映ります。人生の成功者アブラハム、知恵あるアブラハム、幸運なアブラハム。彼はもう信仰の父アブラハムと呼ばれなくてもよいほどの多くの恵みを手に入れたのでしょうか。しかし、ここに突然に神がお姿を現されるまでは、だれにもそのように思われました。

【17節】。ここで突然に主なる神の激しい怒りと裁きが下されました。そして、神なしで進められてきたアブラハムの計画が神によって中止させられることになったのです。12章10節以下のエジプトでのアブラハムの生涯の中でただ一度、この17節で「主」という言葉が出てきます。そして、この主なる神が、エジプトでのアブラハムの計画とその成功談に突然に「ストップ」をかけるのです。いや、それだけでなく、アブラハムのエジプト行きとその時に彼が考えた計画のすべてが、実は大きな失敗であったのだということが、ここで明らかにされるのです。

わたしたちはアブラハムのこの失敗からいくつかのことを学ぶことができます。その一つは、彼が飢饉と飢えから逃れるためにエジプト行きを選択したことはやはり大きな失敗だったということです。彼はそこのことを神なしで決断しました。たとえ家族を飢えから救うためだったとしても、だから神のみ言葉に聞き従わなくてもよいということにはなりません。飢えの問題、パンの問題もまた神に聞き従うことで解決すべきであり、また神は解決の道を備えてくださいます。 

 また、アブラハムが神なしで選択した道は、結果的に神の約束の地を失うことにもなりました。それに加え、彼は妻のサライをも失ったのです。彼は自分の命を救うために、妻を犠牲にしました。妻の人格と尊厳性を投げ捨てました。妻との夫婦の関係を破棄しました。それだけではありません。神がアブラハムにお与えくださったもう一つの約束、「あなたの子孫は大きな民となる」という約束は、妻サライなしには果たされません。アブラハムはその約束をも投げ捨てたのです。多くの民の母となるべく神に選ばれていた妻サライをアブラハムはエジプト王に売り渡したのです。それは妻への愛に背く行為であるだけではなく、のち時代のアブラハムを信仰の父と仰ぐすべての信仰者たちに対する背きであり、それ以上に神ご自身に対する背きであり、罪であったのです。

 実に、ここでは神の約束そのものが、神がお立てくださったアブラハム契約そのものが、危機に瀕しているのです。神が永遠の初めから計画しておられた救いのみわざが中断されるという危機にあるのです。神がアブラハムをお選びになり、すべての国民の信仰の父とされたこと、神がアブラハムの子孫を増やし、大きな民とすること、また神がアブラハムの子孫にカナンの地を受け継がせるということ、その神の約束と契約のすべてが、今危機にさらされているのです。それゆえに、ここで神が登場されます。神がアブラハムの失敗の道に終止符を打たれます。それによって、神はご自身の救いのご計画を前進させられます。

 その時、事態が大きく動きました。【18~20節】。ファラオがこのとき神のご計画を理解していたのか、神の裁きを恐れて、信仰的な判断をしてこのような行動をとったのかについては、分かりません。はっきりしていることは、ここでも確かに神が働いておられるということです。神がファラオにこのような行動をとらせておられるということです。そして、神はアブラハムとサライを取り戻されました。彼らを約束の地へと、神の約束の中へと、連れ戻されました。13章1節に書かれているように、二人は約束のカナンへと戻っていきました。

 わたしたちはここでもう一つのことを確認しておきましょう。アブラハムの神、イスラエルの神は、ここエジプトの地でも神であられ、この地にもアブラハムと共におられたということです。アブラハムは神を捨てました。アブラハムは神の約束の地を捨てました。けれども、神はアブラハムを決してお見捨てにはなりませんでした。神がアブラハムとの契約をお忘れにはなりませんでした。アブラハムが失敗とつまずきを繰り返し、神の道からそれていった時にも、それによって神の約束を失い、また共に神の約束を担っていくべき二人が引き裂かれた時にも、神は彼らをお見捨てにはならず、ご自身がお立てくださった契約をお忘れにはなりませんでした。

 信仰の父アブラハムもまた失敗します。つまずきます。神に背くことがあります。けれども、それによって彼がのちの時代のすべて信じる者たちの信仰の父であることをやめるのではありません。なぜなら、神がそのようなアブラハムと共にいてくださり、彼の罪をおゆるしくださるからです。神はアブラハムの失敗の時にも彼と共におられ、彼の罪をゆるされ、彼との約束をお守りになりました。それゆに、アブラハムは確かにわたしたちすべての信仰者たちの信仰の父であり続けるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちのつまずきや不忠実や不信仰をもあなたはおゆるしくださり、この一年の一人一人の歩みをお恵みをもってお導きくださったことを、心から感謝いたします。どうぞ、わたしたちを終わりの日まであなたの契約の民としてお導きくださいますように。わたしたちに真実な悔い改めの心を与え、あなたへの信頼と服従を増し加え、あなたへの信仰を貫いていくことができますように。

〇天の神よ、あなたが天からまことの光を照らし、暗いこの世界と悩める人間の魂とを明るく照らしてください。見捨てられている小さな命を、傷つき病んでいる弱い命を、あなたは決してお見捨てにはなりません。どうか、この国の至る所に、この世界の至る所に、主キリストの福音が届けられますように。すべての人に天からの大きな恵みと祝福とが与えられますように。

み子、主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月20日説教「インマヌエル、神は我々と共におられる」

2020年12月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(クリスマス礼拝)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    マタイによる福音書1章18~25節

説教題:「インマヌエル、神は我々と共におられる」

 マタイによる福音書はクリスマスの出来事をイザヤ書7章14節の預言の成就として伝えています。【21~23節】。

クリスマスの日に誕生された主イエスによって、旧約聖書に預言されていた神の救いのみわざが成就したとマタイ福音書は伝えています。「インマヌエル、神は我々と共におられる」。これがクリスマスの出来事の意味です。これが主イエス誕生の意味です。この日に、おとめマリアから聖霊によってお生まれになった神のみ子・主イエス・キリストによって、天におられる神が地に住むわたしたち人間と共にいてくださるということが現実となったのです。天にいます神が地に下って来られ、わたしたち人間と同じお姿となって、わたしたちの所を訪れてくださり、わたしたち人間と共に歩まれました。ここにわたしたちの救いがあります。旧約聖書の預言の成就があります。

これは、人類史上、あるいは神々の歴史の中で、驚くべきことです。人類は神を求めて、さまざまな努力を続けてきました。時に天に昇ろうとし、時に宇宙へと思いを馳せ、時には山々や自然をめぐり、あるいは生き物たちや地にある神々しいものに魂の安らぎを求めてきました。そのために、修行を積み、瞑想を重ねてきました。けれども、クリスマスの出来事はそのような人間が神を求める道に終止符を打ったのです。神ご自身の方から、人間を尋ね求めて、わたしたちの近くに来てくださったのです。「わたしだ。わたしはここにいる。あなたと共にいる」と呼びかけていてくださるのです。わたしたちが神を見いだすよりも前に、神がわたしを見いだしてくださったのです。わたしたちが神を愛すより前に、神がわたしたちを愛してくださったのです。そして、わたしたちを罪から救うためにみ子・主イエス・キリストをお遣わしになったのです。これがクリスマスの意味です。

きょうのクリスマス礼拝では、「インマヌエル、神は我々と共におられる」というみ言葉の深い意味をさぐりながら、クリスマスの大きな恵みを共に分かち合いたいと願います。これを、「神」「我々」「共にいます」の三つに分けて学んでいきましょう。

まず、「神」という言葉が冒頭にあります。神がこの文章の主語です。つまりそれは、神がクリスマスの出来事の主語であり、そこでは神がすべてのイニシャチブ・主導権をとっておられるということを意味します。神が全く登場しないクリスマス、神がイニシャチブを握っておられないクリスマスの祝い事は、本当のクリスマスではありませんし、そこにはクリスマスの恵みと祝福はありません。

きょうの聖書の個所でも、18節で母マリアと夫ヨセフが登場してきますが、彼らがクリスマスの出来事の主人公ではありません。彼らがまだ正式に結婚をするよりも前に、マリアは聖霊なる神によって新しい命を宿したと書かれています。また、20節、21節でも、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。その子をイエスと名付けなさい」という神の使いの言葉が書かれています。さらに、念押しをするように25節では、「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」と書かれています。クリスマスの日に誕生された主イエスの命は直接に父なる神から与えられた聖なる命であり、その誕生に人間は全く関与しておらず、人間の働きなしに、神の奇跡による誕生であったということが強調されています。

クリスマスの出来事の主語であり、そのイニシャチブをとられた神は、クリスマスから始まった人間の救いと罪のゆるしのみわざにおいても、主語であり続けます。神はご自身のみ子であられる主イエスを、わたしたち人間を罪の奴隷から贖い出すために、わたしたちを罪と死と滅びから救い出すために、十字架の死に引き渡されました。神はみ子・主イエス・キリストの十字架と復活によって、わたしたちのための救いのみわざを完全に成し遂げてくださったのです。わたしたちがまだ罪びとであり、神のみ心に背き、神なき世界に住んでいた時に、神がまずわたしたちを愛してくださり、暗闇の中に住んでいたわたしたちを見いだしてくださったのです。

わたしたちがクリスマスの福音を聞くということは、神こそがこの世界の歴史とわたしの人生の歩みにおいても、唯一の主であるということをわたしが知り、信じるということなのです。わたしの人生の主はわたしではありません。得体のしれない運命とか、他のだれかとか、他の何かとかが、わたしの人生を導く主なのではありません。わたしを愛し、わたしの罪のゆるしのためにご自身のみ子をすら十字架の死に引き渡された神が、わたしの生きるべき道を示してくださり、またわたしが生きるに必要なすべてのものを備えてくださるのです。そのことを信じて神の導きに従っていく、それがクリスマスの福音を聞くということです。神はわたしたちの人生、信仰生活のすべてにおいても、常に主語です。

神の次に「我々」という言葉が続きます。神が主語であり、神が第一である時に、我々が、すなわち人間が続きます。この順序が重要です。この順序を逆転させれば、神も人間も正しく存在することはできません。もし人間が主語になり、第一になれば、神は神であることをやめてしまうことになるでしょう。人間の次の位置に置かれた神は、人間の思いのままになる偶像に過ぎません。それは本当の意味で人間を救うことはできません。神を失い、神から離れた人間は、罪の奴隷となって罪に支配され、互いに奪い合い、憎しみ合い、破壊し合うほかにありません。

「神我らと共にいます」というクリスマスの出来事は、人間を第一にして生きてきた人類に大きな逆転が起こったということを告げています。そして、神が第一になり、神が主語になる時にこそ、人間が本当の意味で人間となり、生きた人間となるのだということを教えられるのです。その時、わたした次のことを教えられます。わたしは神に愛されている人間であり、神に見いだされている人間、神によって罪ゆるされている人間であるということ、一人一人が神のみ前では他の何ものによっても取り変えられない尊い存在であることを気づかされた人間、この弱く小さな一人の兄弟のためにも主キリストが死んでくださったのだということを知らされた人間。わたしもまたそのような人間なのだということを知らされるのです。

ここでもう一つ注目したいことは、「我々」という複数であるということです。わたし一人ではありません。わたしたちという交わりの中に生きる人間のことです。クリスマスの福音を聞かされる時、だれも孤独ではありません。わたしは神によって罪ゆるされた人たちの交わりの中に、群れの中に招きいれられているのです。共に神の恵みをいただき、共に罪ゆるされ、共に主キリストから与えられる一つの命に生かされている神の家族とされているのです。

三つ目の「共にいます」とは何を語っているのでしょうか。神が人間と共にいるためには両者が同じ地平に立っていなければなりません。しかし、神は天におられ、人間は地に住んでいます。神は聖なる清い方であり、永遠なる存在ですが、人間は罪に汚れ、滅ぶべきものです。神と人間とは住む場所もその本質も全く違っており、両者が一緒になったり、共に並んでいるということは本来はあり得ません。そうであるのに、クリスマスの日に神が我々人間と共にいてくださるという奇跡が起こったのです。

その奇跡を起こしてくださったのが、この日に誕生された主イエスです。その奇跡はこのようにして起こされます。21節にこう書かれています。【21節】。イエスとは旧約聖書のヘブライ語ではヨシアとかヨシュアと発音します。そのギリシャ語読みがイエスです。ヨシア、ヨシュアとは、「神は救いである、神はお救いくださる」という意味です。この名前はイスラエルでは一般的な名前であり、旧約聖書には何人もでてきます。

ところが、ここで違う点は、その名前は通常は親が名づけるのですが、ここでは天の使いが「その子をイエスと名づけなさい」と命じています。すなわちそれは神ご自身が名づけ親だということです。神はご自身が「イエス、神は救いである」と名づけられたご自身のみ子によって、イスラエルの民と全人類の罪をおゆるしになると、この時決意なさったということです。それによって、神はわたしたち罪びとたちと共におられることを決意なさったのです。

共にいるとは、いつも共にいることです。共にいないときはないということです。神はわたしたちと、わたしと永遠に共にいてくださいます。喜びの時にも、悲しみの時も、幸いな時にも、試練の時にも、健康な時にも、病む時にも、わたしが孤独である時にも、暗闇を歩む時にも、そしてわたしの死の時にも、いや、わたしの死の後にも、神は永遠にわたしと共にいてくださいます。神は終わりの日に神の国が完成される時まで、永遠にわたしと共にいてくださいます。そして、その時にはわたしたちはみ国の民として、共に一つの群れ、一つの教会、一つの民とされるのです。

(執り成しの祈り)

ご一緒に「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

「聖フランシスコの平和の祈り」から

2020年12月20日

日本キリスト教会秋田教会 クリスマス礼拝

12月13日説教「主イエスの十字架と復活の証人」

2020年12月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編16編1~11節

    使徒言行録2章22~36節

説教題:「主イエスの十字架と復活の証人」

 使徒言行録2章22節にこのように書かれています。【22節】。ペトロはペンテコステの日の説教の途中で改めてエルサレムの住民に呼びかけています。しかも、エルサレム市民に対してだけでなく、イスラエルの国民全体に呼びかけています。神に選ばれて、神との契約の民とされ、神の救いの恵みを受け取ってきたイスラエルの民、預言者の預言のみ言葉を聞き、終わりの日の神の霊の注ぎと救いの完成の時を待ち望んできたイスラエルの民に対して、ペトロはここで一人の人物の名前を挙げています。それが「ナザレ人イエス」です。この主イエスこそが、実は、ペトロのペンテコステの説教の中心人物であり、主題であり、またイスラエルの民が長く待ち望んできた預言の成就なのです。この主イエスの十字架の死と復活こそが、彼の説教のテーマそのものであり、神の救いのみわざの頂点、完結なのであるということを彼はこれから語るのです。それはまた、聖霊を受けて多くの外国の言葉で語りだした他の弟子たちが語った内容でもあります。11節で「神の偉大な業」と言われていた内容なのです。

 ペトロはこのあと23節以下で、主イエスの十字架の死と復活について語りますが、わたしたちはここから、教会の最初の説教の内容は主イエスの十字架の死と復活であったということを確認することができます。使徒言行録に記されているペトロのこの説教と4つの福音書とパウロ書簡の3つを時間軸に並べてみるとこうなります。ペトロの説教なされたのは主イエスの死と復活から50日後、五旬節の祭りの時、紀元30年ころの5、6月です。パウロの書簡が書かれたのがその20年後の紀元50年代。最初の福音書が書かれたのがさらにその10年後の紀元60年代ということになります。そしてこの3つ、ペトロの説教とパウロ書簡と福音書の中心的なテーマはみな同じ、主イエスの十字架の死と復活であるということをわたしたちは確認できるのです。教会はその誕生の時から、今に至るまで、そしてこののちも終わりの日の神の国が完成される時まで、いつの時代にも、どこの国や地域にあっても、だれに対しても、教会が語るべき説教の内容は主イエス・キリストの十字架と復活の福音であり、それ以外ではないということをもわたしたちはきょうのみ言葉から確認するのです。

 教会とわたしたちキリスト者の信仰と救いの始まり、土台は主イエス・キリストの十字架の死と復活にあります。この世界の何か他の真理とか哲学とか教とかにあるのではなく、またわたし自身をも含めてだれかほかの人物とかにわたしの救いがあるのではない。わたしのために、また全人類のために十字架で死なれ、三日目に死の墓から復活され、罪と死とに勝利された主イエス・キリストにこそ、わたしの救いの源、根拠、土台があるということです。

 それゆえに、教会とわたしたちの信仰の歩みのすべては主イエス・キリストの十字架の死と復活から始まっています。そしてそれは、終わりの日の神の国の完成と永遠の命へと向かっています。この世にあるすべてのものは死と滅びへと向かっていくしかありません。しかし、主キリストの十字架の死と復活から始まっているわたしたちは、死から命へと向かっており、罪のゆるしと復活の命へと向かって進んでいます。

 では、22節以下のみ言葉から学んでいきましょう。22節から36節まで、ペトロはこの個所で主イエスのご生涯、十字架の死と復活について、特に復活については旧約聖書の預言の成就としての死に対する勝利を語り、さらに33節では主イエスの昇天と聖霊の注ぎについて語っていますが、ここで繰り返して強調されていることは、主イエスのそれらのすべての歩みにおいて、父なる神のお導きがあったということです。22節では、主イエスが「神から遣わされた方」であることと、主イエスのご生涯全体が神のお導きであったということが語られています。23節では、神がご自身のご計画によって主イエスを十字架の死に引き渡されたことが、24節では、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられた」と語られ、32節でも、「神はこのイエスを復活させられた」、33節では、「それで、イエスは神の右に挙げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださった」、ここでも文章の主語は神です。36節後半では、「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった」。このように、主イエスのご生涯全体と十字架の死、復活、召天、聖霊の注ぎ、そのすべてが父なる神のご計画に基づいた神のお導きであるということが強調されています。それゆえに、主イエスこそが神から遣わされたメシア・キリスト・救い主であられ、わたしたちを罪と死と滅びから完全に救い出してくださるのだということをペトロは説教しています。これがキリスト教会の最初の説教であり、そののちの時代のすべての教会の説教の基本、模範です。

 この中から、いくつかの点についてさらに深く学んでいきましょう。23節をもう一度読んでみましょう。【23節】。ここで「引き渡す」という言葉が用いられていますが、この言葉は福音書の中で主イエスのご受難の場面で繰り返して用いられています。主イエスはまず12弟子の一人であるイスカリオテのユダによって祭司長たちに引き渡されました。【マタイ福音書26章14~16節】(52ページ)。次に、25節で「イエスを裏切ろうとしていたユダ」の「裏切る」と訳されている元の言葉は「引き渡す」という言葉と同じです。また、【27章1節】(56ページ)。ここの「渡す」も同じ言葉です。そして、【27章26節】。ここも同じです。

 このように見てくると、まずイスカリオテのユダが主イエスをユダヤ人指導者たちに引き渡し、次に彼らは異邦人であるローマの総督ピラトに引き渡し、ピラトは十字架刑を言い渡して主イエスをユダヤ人に引き渡し、彼らが十字架につけるというように、主イエスは罪びとたちの手から手へと引き渡されていったことが分かります。

しかし、ペトロはその中に、罪びとたちの引き渡しよりもはるかに大きな、神ご自身の引き渡しがあったのだと語っているのです。神ご自身が、罪なきご自身のみ子を罪びとたちの救いのために、彼ら罪びとたちの手から手へと引き渡されることを、いわばおゆるしになったのです。いや、神は彼ら罪びとたちが、それが救いになるとは全く気づかずに行っていた引き渡しという罪の行為をお用いになって、彼らの引き渡しを神ご自身の救いのための引き渡しに変えてくださったと言うべきでしょう。人間たちの罪による引き渡しが最後に勝利するのではなく、神ご自身による神の引き渡しが勝利し、罪の救いを成し遂げるのです。

 同じ意味で、パウロはローマの信徒への手紙で、主イエスご自身と神の引き渡しについて書いています。【4章25節】(279ページ)。これは主イエスご自身の引き渡しです。次に、【8章32節】(285ページ)。この神ご自身の大いなる引き渡しによって、わたしたち罪びとたちに対する神の偉大な愛が示されました。そして、【39節】(286ページ)。神と主イエスご自身による引き渡しに示された神の偉大な愛が、人間の罪と死とに勝利するのです。

 ペトロのペンテコステの説教に戻りましょう。もう一つここで注目すべきは、主イエスの復活についてです。ペトロは主イエスの復活が旧約聖書・詩編16編に預言されていることの成就であると説教しています。【24~28節】。詩編16編はダビデが歌った詩編と考えられています。ダビデはいつどのような時でも、主なる神と共に歩みました。試練の時、苦しみや悲しみの時にも主なる神に救いと助けを求め、暗闇を行くときも、絶望の淵に立たされる時にも神に希望の光を見いだし、ただ神だけに従って歩みました。神はそのようにしてひたすらに神だけに服従する信仰者を決してお見捨てにはならないとダビデは確信しています。ダビデが地上の歩みを終える死の時にも、神は彼をお見捨てにはならず、必ずや死から命へと引き上げてくださるであろうと彼は信じていました。これがダビデの復活信仰でした。

 そして今、主イエスによってダビデが抱いていた復活信仰は、現実となりました。神は死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従された主イエスを、三日目に復活させ、死の墓から引き上げてくださいました。主イエスは罪と死と滅びに勝利され、天の父なる神の右に座しておられます。そして、天から父なる神と共に約束の聖霊を信じる人たちに注いでくださいます。主イエスは終わりの日の神の国が完成される時まで、天におられ、全地をご支配しておられ、特に、信仰者たちに神の国での復活と永遠の命を約束してくださいます。わたしたち信仰者は天に勝利者主イエス・キリストを持っています。それゆえに、ヘブライ人への手紙12章2節に書かれているように、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」、どのような暗い時代にも、かしらを天に上げつつ、信仰の馳せ場を走り抜くことができるのです。

 最後に、32節の「わたしたちは皆、そのことの証人です」というみ言葉に注目したいと思います。証人という言葉はこれまでにも何度か出てきました。【1章8節】(213ページ)。また、21、22節では、ユダに代わる弟子を選ぶ際には、「だれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」と書かれていました。彼ら初代教会の弟子たち、使徒たちは実際に彼らの目で見、耳で聞き、体で体験した主イエスの十字架と復活の証人たちです。のちの教会は、そして今日の私たちは、彼ら目撃証人たちの証言を聞き、それを信じて信仰者とされました。彼らは見て信じた人たちでしたが、わたしたちは見ないで信じる人たちとされました。主イエスはヨハネ福音書20章29節で、「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。わたしたちはこの幸いな信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子・主イエス・キリストをこの世界にお遣わしになり、み子の十字架と復活によって全人類の罪を贖い、救ってくださったことを感謝いたします。この福音が全世界のすべての人に届けられますように祈ります。

〇天の神よ、あなたが天からまことの光を照らし、暗いこの世界と悩める人間の魂とを明るく照らしてください。見捨てられている小さな命を、傷つき病んでいる弱い命を、あなたは決してお見捨てにはなりません。どうか、この国の至る所に、この世界の至る所に、クリスマスの明るい光が届けられますように。すべてのひとにクリスマスの大きな恵みと祝福とが与えられますように。

み子、主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月6日説教「人よ、あなたの罪はゆるされた」

2020年12月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編32編1~11節

    ルカによる福音書5章17~26節

説教題:「人よ、あなたの罪はゆるされた」

 ルカによる福音書は医者であるルカが書いたと考えられています。ルカ福音書の中には著者が医者であることを推測させる特徴的な表現がいくつかあります。きょう学ぶ5章17節以下の中風の人がいやされたという奇跡は他の共観福音書(マルコとマタイ)にもほとんど同じ内容で描かれていますが、一か所だけ大きく違います。それは、17節後半の「主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた」という言葉がマルコとマタイ福音書にはなく、ルカ福音書だけに書かれています。ルカは主イエスが病気をいやされたのは主なる神の力によるということを強調しているのです。主イエスが病気をいやされたということは、医者やその他の人がいやすのとは根本的に違う意味を持っていることをルカははっきりと語っているのです。医者は治療や薬によって病気をいやします。古代社会ではまじないや魔術、祈祷などによって病気をいやす人たちも多くいました。それを商売にして、時には詐欺まがいのことをしている人たちも少なからずいたようです。しかし、医者であるルカは、医者としての専門的な目と信仰の目とをもって、主イエスのいやしの奇跡が、人間や科学の働きによるのではなく、それらのすべてをはるかに超えた神の力による、神の奇跡のみわざであることを見ていました。ルカは主イエスこそが神から遣わされたまことのメシアであって、人間の体と魂の全体を神の力と命によって健康にされる救い主であるということをこの個所で語っているのです。

 きょうは主イエスが中風の人をいやされたというこの個所から、ここに登場してくる人物たちに焦点を当て、彼らが主イエスとどのようなかかわりを持ち、この奇跡をどのようにとらえたかということを考えながら、わたしたちが主イエスによって救われるとはどういうことなのかを学んでいきたいと思います。

 最初に登場してくるのが17節の「ファリサイ派の人々と律法の教師たち」、次に18節の「男たち」と、彼らによってはこばれてきた「中風で寝たきりの人」、それに主イエスを取り巻いている「群衆」、これらの人たちを取り上げてみましょう。

 まずファリサイ派の人々と律法の教師たちですが、彼らは主イエスの説教を聞くためにこの家に集まって来たのではありませんでした。彼らはガリラヤ地方とユダヤ地方の町々の代表者として、当時のユダヤ教の代表者として、主イエスを監視し、調査するためにそこにいたということが17節に書かれています。【17節ab】。主イエスが自分たちの考えや習慣に反した行動を行うことがないかどうか、あるいはもしかしたら、主イエスによって自分たちの宗教家としての権威が失われることになりはしないかという恐れをもって、彼らは主イエスの教や行動を調査するために来たのでした。彼らは自分たちの立場や権威、利益を守るためにこの場に来ていました。

 その時、彼らは主イエスと同じ場所に座り、主イエスの話を聞いてはいましたが、そこでは主イエスとの真実な出会いは起こらず、主イエスのみ言葉によって養われるということもありません。逆に彼らは、21節に書かれているように、主イエスの罪のゆるしと救いのみわざを見ても、それを批判し、主イエスを神を冒涜した罪で告発しようとさえしています。そして、やがて彼らは数年後には実際に主イエスを捕え、偽りの裁判で裁き、死の判決を下すようになるのです。ここにはすでに、主イエスの十字架の影が差し込んでいます。

 わたしたちはファリサイ派の人々や律法の教師たちのようであっては救われることはできません。自分の立場を弁護したり、自らを義とするのではなく、神のみ前にへりくだり、自我が打ち砕かれて、ひたすらに主イエスの救いを願い求めるという謙遜な態度がなければ、主イエスとの真実な出会いは起こりません。

 次に群衆を取り上げてみましょう。彼らは主イエスを取り囲んでいます。家の中いっぱいに群がっています。熱心に主イエスの説教を聞いているように見えます。けれども、今のところ彼らには何事も起こりません。かえって、彼らは中風の人が主イエスのみ前に近づくの妨げているように思われます。19節の前半に「しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかった」と書かれているからです。福音書の中では、群衆はいつの場合にも、どちら側にもつく存在として描かれたいます。ある時には、主イエスの奇跡を見て、説教を聞いて、喜んで主イエスの周りに群がってくるけれども、ある時には、「十字架につけよ、十字架につけよ」と狂い叫ぶ群衆。ある時には主イエスに味方し、ある時には敵対する。どちらにも転びえる存在としての群衆。まだ自分の立場をはっきりと選択できておらず、信仰の決断をしていない、自分を完全に捨てきれていない、すべてをかけて主イエスに従っていくことをためらっている群衆。このような群衆も、主イエスと真実な出会いをすることはできません。本当の救いを与えられることはありません。

 わたしたちは群衆の一人であってはなりません。教会において、礼拝において、観衆や見物人であってはなりません。群衆の中に身を隠しておくのではなく、そこから一人飛び出して、主イエスのみ前に進み出なければなりません。主イエスのみ前に自分自身をさらけ出し、ありのままの自分を差し出さなければなりません。その時、主イエスは貧しいわたしをも受け入れてくださり、罪のゆるしの恵みをお与えくださいます。

 第三に、中風の人を運んできた人たち、彼らは寝たきりの病人を担架に乗せて主イエスの所へ連れてきました。病人の家族か、友人たちでしょう。長く寝たきりであった病人にとって、彼らは良き隣人たちでした。この病人は辛い病気との戦いの中でも、そのような良き隣人たちを持っていて、幸いでした。そして今、この病人は、最も幸いなことに、彼ら良き隣人たちに運ばれて、主イエスの所に連れられてきました。自分の足では主イエスのもとへ行くことができない病める人を、主イエスのもとへと運んでいく、これこそが良き隣人として彼らがなした最も良きわざであると言えるのではないでしょうか。

 ところが、彼らが主イエスがおられる家に着いた時には、すでに群衆がいっぱいで病人を主イエスの近くに連れていくことができませんでした。でも彼らは諦めませんでした。なんとかして、病人を主イエスのもとに連れて行こうとしました。病人に対する彼らの深い愛があったと思われます。それ以上に、主イエスがこの人をいやしてくださるに違いないという強い信頼がありました。

 それから彼らは思いがけない大胆な行動に出ました。その家の屋根に上り、屋根の瓦をはぎ取って、天上から担架と病人とを主イエスのみ前に釣り降ろそうと考えたのです。当時の家は、屋根に上る外階段があり、屋根は木やしゅろの枝などを組んで土で固め、その上に瓦を敷くという簡単なものであったので、数人の男たちで容易に屋根に大きな穴をあけることができました。

 それにしても、何と強引なやり方でしょうか。主イエスに近づくために、彼らは常識では考えられないようなことをしました。もしもこの行為が主イエスに会うためでなかったなら、この家の人からも周囲の人たちからも非難されたに違いありません。しかし、主イエスがこの病人をいやされ、彼の罪をゆるされた時、だれもそのことを非難することはできませんでした。すべての人が主イエスの救いのみわざを見て驚き、神をあがめたと26節に書かれています。【26節】。一人の病める人がいやされ救われるという大きな救いの恵みの前では、瓦をはいで屋根に穴が開けられたという損害は問題にはならなかったということでしょう。

 20節に「イエスはその人たちの信仰を見て」と書かれていますが、その人たちとは、病人のことではなく、彼を連れてきた人たちのことです。彼らは主イエスに神の力が働いて、不治の病と考えられていた重い病気をもいやすことができると信じて、熱心で大胆な行動によって、病人を主イエスのみ前に連れてきました。主イエスはその彼らの信仰をご覧になります。そして、驚くことに、彼らの信仰のゆえに、病人の罪をおゆるしになりました。

 わたしたちはここで、信仰者の執り成しの祈りについて教えられます。主イエスはわたしたちの執り成しの祈りと奉仕をご覧になっておられます。わたしの愛する家族や隣人のために、わたしが熱心に祈り、その人を主イエスのみもとへと連れていくための奉仕をする時、その人自身が信じるか信じないかにかかわらず、主イエスは信仰者の執り成しの祈りと奉仕とをご覧になり、その人を救いへとお招きくださるということを、わたしたちは信じてよいのです。

 第四に、中風の人を見ていきましょう。彼はきょうの個所では少しも積極的な行動はしていません。すべて受け身です。もっとも、彼は寝たきりですから、自分では何もなしえなかったのですから、当然と言えるのかもしれません。けれども、自分では何一つなしえないこの病める人が、ここで主イエスによって罪ゆるされ、その病がいやされるという大きな救いの恵みを受け取ることがゆるされているのです。

 彼がきょうの場面で始めに登場した時には、担架に乗せられ、男たちの手に担がれていました。けれども、終わりの場面では、25節にこのように書かれています。【25節】。何という大きな変化が彼の身に起こったことでしょうか。彼は主イエスによって全く別人のように変えられたのです。わたしたちが主の日ごとの礼拝で主イエス・キリストと出会い、主イエスのみ言葉を聞き、罪ゆるされる時にも、このように変えられていくのです。

 最後に、主イエスご自身に目を注ぎましょう。【20節】。そして【22~24節】。主イエスは神の権威によってわたしたちの罪をゆるされます。ファリサイ派や律法の教師たちが言うように、罪をゆるす権威を持つのは神以外にはいません。罪とは神に対する違反だからです。主イエスは人となられた神のみ子として、神から与えられた権威によってわたしたちのすべての罪をゆるされます。そして、その罪をゆるす権威を持っていることが分かるために、寝たきりの病人をみ言葉によって立ち上がらせます。「人よ、あなたの罪はゆるされた」。だから「起きて歩け」と主イエスが言われる時、そこに神の奇跡が起こり、救いといやしが起こります。

主イエスは神から与えられた権威をご自分を救うためには少しもお用いになりませんでした。ご自身を貧しく低くされ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されることによって、わたしたちのために、わたしたちに代わって裁きを受けられ、苦しまれ、死んでくださり、そのようにしてわたしたちの罪を贖い、ゆるしてくださいました。ここにこそ真実の救いがあるのです。主イエスはわたしたち一人ひとりにも、「子よ、あなたの罪はゆるされた。信仰によって歩きなさい」と言ってくださいます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ。わたしたちの罪のゆるしはみ子主イエス・キリストにあります。主キリストを信じる信仰によって、わたしたちは救いとまことの命と平安を与えられます。どうか、生涯この信仰によって歩ませてください。

〇天の神よ、あなたが天からまことの光を照らし、暗いこの世界と悩める人間の魂とを明るく照らしてください。見捨てられている小さな命を、傷つき病んでいる弱い命を、あなたは決してお見捨てにはなりません。どうか、この国の至る所に、この世界の至る所に、クリスマスの明るい光が届けられますように。すべてのひとにクリスマスの大きな恵みと祝福とが与えられますように。

み子、主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月29日説教「神を礼拝する旅人アブラハム」

2020年11月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記11章1~9節

    ヘブライ人への手紙11章13~16節

説教題:「神を礼拝する旅人アブラハム」

 アブラハムは、旧約聖書においても新約聖書においても、すべて信じる人の信仰の父と呼ばれています(創世記17章4~6節、ローマの信徒への手紙4章参照)。アブラハムはわたしたち信仰者の信仰による父であり、信仰の模範であり、信仰の原型です。創世記12~23章に描かれているアブラハムの信仰の歩み、人生の歩みは、そのすべてが信仰とは何かをわたしたちに教え、わたしたちが信仰をもって生きるとはどういうことなのかを示しています。

 彼は「あなたは故郷を出て、父の家を離れ、わたしが示す地へと旅立ちなさい」との神のみ言葉を聞いた時、まだその地がどこであるのか、その地での生活がどうなるのかを全く知らされてはいませんでしたが、神がすべてを導き、備えてくださることを信じて、行先を知らずして、ただ信仰だけによって、いでたちました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブライ人への手紙11章1節に書かれているとおりです。

それは、信仰を持たない人にとっては、無謀な冒険とか将来設計のない行き当たりばったりの生き方と思われるかもしれません。しかし、アブラハムにとってはそうではありませんでした。彼の信仰の歩み、彼の人生の旅路を満たしてくださるのは神だからです。「生まれ故郷と父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」とお命じになる神の命令には、約束が伴っているからです。

【1~3節】を読んでみましょう。神がアブラハムを選び、彼に特別な約束をお与えになること、これを契約と言います。創世記12章と同じような内容の約束が15章、17章にも繰り返し語られます。これを神がアブラハムと結んでくださった契約、「アブラハム契約」と呼びます。すでに創世記9章で神がノアと結んでくださって契約を「ノア契約」と呼ぶことを確認してきました。旧約聖書の中には、このほかにも神が指導者モーセによってイスラエルの民と結ばれた「シナイ契約」や「ダビデ契約」、預言者エレミヤの「新しい契約」などがあります。神はご自身が選ばれた人、選ばれた民とこれらの契約を結ばれ、その契約を継続されて、救いのみわざをなし続けられました。たとえ、契約の相手が不忠実であっても、それを忘れるようなことがあっても、神は絶えずその契約を覚え、その契約を実行されました。そして、旧約聖書のそれらのすべての契約は、新約聖書に至って、主イエス・キリストによって完全に、そして最終的に成就されたのです。

では、ここで語られている「アブラハム契約」、神がアブラハムに与えられた約束の内容を整理してみましょう。第一には、神が示し、神が導かれる地のことです。ここではまだその内容は確かではありませんが、7節に「あなたの子孫にこの地を与える」と語られています。アブラハムが神の約束の地カナンに導かれる、そしてその地が彼の子孫に与えられるという約束です。神の約束の地についてはあとでまた触れます。

第二は、神がアブラハムを大いなる国民とするという約束です。大いなる国民とは、大きな民、大きな国とするということです。15章5節では、天の星のように数えることができないほどに多くの子孫がアブラハムから出ると言われています。この神の約束が、アブラハムと妻サラにとっていかに実現困難な約束であるかということを、【11章30節】のみ言葉があらかじめ暗示しており、しかしまた神の偉大な奇跡によってその約束が実現へと向かうようになるということを、わたしたちは創世記21章以下から知らされます。アブラハムがこの約束を聞いたのは75歳の時でした。しかし、彼が百歳になるまで、彼には一人の子どももいませんでした。そのような時に、「あなたの子孫は星の数ほどになる」と言われた神のみ言葉を、アブラハムは信じたのでした。これがアブラハムの信仰です。

第三は、アブラハムを祝福するという約束です。「祝福する」という言葉は、旧約聖書では、新約聖書でもそうですが、非常に重要な意味を持っています。「祝福」という言葉が2節、3節で5回も用いられています。祝福するのはもちろん神です。神から与えられる祝福のことです。それは、人間が地上で得られる祝福とか幸いとは全く質が違った祝福であり、天からくる祝福です。詩編では、「いかに幸いなことか、主の教を愛する人は」(詩編1編1~3節)と歌われています。主イエスは「山上の説教」、の中で、「心の貧しい人々は、幸いである。天国はその人たちのものである」と教えられました。天から与えられる神の祝福は、祝福がないところに、いや、むしろ禍や苦難や試練のあるところにも、天からの祝福を与え、天からの幸いを創り出していくような祝福なのです。

祝福の具体的な内容は、旧約聖書においては、長寿やたくさんの子ども子孫、また財産が与えられること、そして何よりも神を信じ、神に喜んで従っていく信仰が与えられること、信仰による救いの恵み、平安です。イスラエルの社会では、その家の長男が特別な神の祝福を受け継ぐと考えられていました。それを長子の特権と言います。新約聖書では、主イエスの説教から教えられているように、天国、神の国の約束が与えられていることこそが最も大きな神の祝福です。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって罪ゆるされ、神の子どもたち、神の家族とされ、神の国の民として招かれている幸い、神の国で朽ちることのない永遠の命の約束を与えられている幸い、これこそが最も大きな神の祝福です。

アブラハム契約の4つ目の内容は、アブラハムの名を高めるという約束です。名を高めるとは、名誉が増し加わるとか有名になる、偉い人間になるというような意味を持ちますが、ここでは神がお与えくださる名誉のことで、彼の名が全世界に広まり、全世界の人々が彼を信仰の父として尊敬するようになるということを含んでいます。事実、アブラハムはユダヤ教でもキリスト教でも、すべて信じる人の信仰の父としてその名が高められています。彼の名が高められるとは、結局は彼が信じている神のみ名が崇められることに他なりません。

第5は、アブラハムに与えられた祝福が彼を基にして地上のすべての人々に広められていくという約束です。アブラハムと同じ信仰に生きる、彼ののちの時代のすべての信仰者にも彼と同じ神の祝福が約束されています。アブラハムの祝福は彼の子イサクへと、さらにイサクの子ヤコブへと、そしてヤコブがイスラエルと名を変えて、イスラエルの12人の子どもたちへ、その長男のユダへと受け継がれていきました。そしてついに、ユダの部族のダビデの子孫としてお生まれになったヨセフの子イエスへと神の祝福は受け継がれ、この主イエスによって、彼を救い主と信じるすべてのキリスト者へと受け継がれていくのです。そのようにして、アブラハムに与えられた神の契約、すなわちアブラハム契約は主イ

エス・キリストによって完全に成就されました。

4節に、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と書かれています。アブラハムがこの神の契約に生きるためになすべきことは、何よりもまず第一に、神の約束のみ言葉を聞いて、それを信じ、それに従うことです。彼にどんな能力あるかとか知恵や力があるかというようなことは、全く問題ではありません。神のみ言葉を聞き、信じ、従うこと、ただ信仰のみ、ただ信仰一筋、その人にアブラハムと同じ神の祝福が与えられます。

次に【5~9節】。1節で神が示す地と言われていたのがカナンであったということがここになって初めて明かされます。カナンとは今のパレスチナ地方のことです。ここが神の約束の地でした。でも、アブラハムはまだこの地の一角をも所有してはいませんし、彼の子イサク、その子ヤコブもこの地を所有してはいませんでした。彼らはこの地では他国の人、寄留者、旅人でした。イスラエルが実際にカナンの地に定着したのは、エジプトで400年余りを過ごし、その後エジプトを脱出してからのことで、紀元前13世紀ころになってからです。

「あなたの子孫にこの土地を与える」との神の約束は、実に600年以上もの年月を経てから、実現されることになりました。それほどの長い年月を、イスラエルの民はエジプトで寄留生活している期間にも決して神との契約を忘れなかったのでした。いや、そう言うべきか、それとも、神がそれほどの長い期間にもご自身が与えた契約をお忘れにならなかったと言うべきか、いずれにせよ、それは実に驚くべきことです。神の約束、神の契約は、アブラハムの生涯と死を超えて、幾世代にもわたる彼の子孫の歴史を超えて、実現されたのです。アブラハムはその神の約束を信じました。

では、なぜ神はアブラハムをこのカナンの地へと導かれたのでしょうか。7節の後半に「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」と書かれてあり、また8節にも「そこに主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」とあります。彼がこの地への導かれたのは、主なる神を礼拝するためでした。彼が生まれ故郷を出て、父母の家に別れを告げて、行先を知らずして旅立ったのは、主なる神を礼拝するためだったのだということがここで明らかにされます。信仰の父アブラハムの信仰の旅路は神礼拝の旅路だったのでした。まだその地を所有しておらず、その地では旅人であり、寄留の他国人ではあったけれど、彼の信仰の歩みは常に神と共にあり、彼がどこにいても、彼は神を礼拝する旅人であったのです。というよりは、アブラハムが故郷カルデアのウルにいた時に彼と共におられた神はハランに移った時にも彼と共におられ、彼にみ言葉をお語りになり、今カナンの地に着き、中部のシケムからさらに南部のベテルへと移動した時にもそこにも主なる神が彼と共におられ、彼がどこにいてもいつも主なる神が彼と共におられ、彼の歩みを導いておられたのだと言うべきでしょう。神を礼拝する旅人アブラハムには常に主なる神が共におられ、彼の歩みのすべてを導いておられたのです。それゆえに、神の祝福も彼を離れませんでした。

アブラハムから600年ほどあとのイスラエルの出エジプトを思い起こしてみましょう。400年以上の寄留の地から脱出したイスラエルの民が、荒れ野を40年間旅をしてカナンの地へと導きいれられたのは何のためだったでしょうか。それは、彼らが神を礼拝し、神のみ言葉に聞き従い、神の民として生き、神の証し人として、神の救いを全世界に告げ知らせるためだったのでした。わたしたちが教会に招かれ、神と出会い、主イエス・キリストの福音を聞き、それを信じたのもまた神を礼拝する者となるためでした。わたしたちは主イエス・キリストの救いを信じつつ、来るべき神の国を待ち望みつつ、神を礼拝し、地上の信仰の旅路を続けるのです。そして、そのような私たちの信仰の歩みに、神の祝福が与えられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ。救い主をこの世界にお迎えするご降誕の日を待ち望む待降節に入りました。主よ、どうぞ、悩めるこの世界においでください。病んでいるこの世界を速やかにお救いください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、苦難や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。