11月8日説教「信仰によって、天にある故郷を望み見る」

2020年11月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(逝去者記念礼拝)

聖 書:詩編90編1~17節

    ヘブライ人への手紙11章13~16節

説教題:「信仰によって、天にある故郷を望み見る」

 ヘブライ人への手紙11章では、1節で信仰とは何かについてこのように教えています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。わたしたちが神を信じるとか、主イエス・キリストを救い主と信じるというわたしたちの信仰とは、このようなものであるというのです。ここでは、二つのことが強調されています。一つは、信仰とは過去や今、現在のことではなく、将来のことに関連しているということ、わたしたちの目を将来へと向け、その将来を目指して今を生きるということ、それが信仰だということです。もう一つは、信仰とは目に見える現実のことではなく、目には見えていない真理に関連しているということ、わたしたちの目を今見ている現実から引き離して、目には見えていないが、確かに神が備えていてくださる真理へと、信仰の目を向けて生きるということ、それが信仰だということです。

 この手紙は、そのあとでそのような信仰に生きた旧約聖書の信仰者たちの名前を数多く挙げ、また彼らの信仰による具体的な生きざまについて、この章の終わりまで語っています。そして、12章1節で、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか」と勧めています。地上での信仰生活を終えて天の父なる神のみもとへと召された彼らを証人たちと呼んでいます。今現在地上での信仰の戦いを続け、信仰の馳せ場を走り続けている信仰者たちを天から見守り、いわば応援、支援している観衆のようにみなしているのです。彼ら天にいる証人たちは、地上にあって今なお労苦の多い困難な信仰の旅路を続けている信仰者たちに、実際に信仰の勝利を保証している証人たちであると言ってよいでしょう。

 16世紀の宗教改革者たちは、地上にある信仰者たちの群れを「戦闘(戦い)の教会」と呼び、すでに地上の歩みを終えて天の神のみもとへと召された信仰者たちの群れを「勝利の教会」と呼びました。わたしたちがきょうの逝去者記念礼拝で覚えている彼らは、すでに主キリストによって与えられた罪と死に対する勝利を受け取ることをゆるされている勝利者たちなのです。そして、彼らは今なお信仰の戦いを続けているわたしたちにとっての勝利の証人なのです。それゆえに、ヘブライ人への手紙が教えるように、現在の信仰の戦いがいかに困難であろうとも、労苦に満ちた戦いであろうとも、確かな勝利を信じて、信仰の馳せ場を走り続けることができるのです。

 きょうお渡ししてある「秋田教会逝去者名簿」には、信仰をもって天に召された教会員のお名前が90人余り登録されています。このほかにも、教会員の家族やその他の関係者で、教会で葬儀を行った人たちも数人おられ、また1915年以前にも数十人おられることが分かりました。今、秋田教会の歴史書の編纂をしておりますが、秋田教会の伝道開始以来130年近くの間に、分かっているだけで、この名簿と合わせて全部で150人ほどの教会員、教会関係者がこの教会で地上の信仰の歩みを終えられたことが新たな調査から明らかになりました。ちなみに、この間にこの教会で洗礼を受けられた人は520人にものぼります。わたしたちは秋田教会というわたしの身近で、これほどの多くの信仰の証人たちに取り囲まれ、見守られているのであり、これほどに多くの信仰の勝利の保証人たちを与えられているのだということに、大きな驚きと感謝を覚えざるを得ません。

 そこできょうは、ヘブライ人への手紙11章13節以下のみ言葉から、その前後のみ言葉をも参考にしつつ、信仰とは何か、また信仰によって生きるとはどういうことなのかを、旧約聖書の信仰者たちの具体的な生きざまから学んでいきたいと思います。

 11章7節にはノアの信仰について書かれています。ノアは神のみ言葉に聞き従い、人々が飲んだり食べたり、めとったりとついだりして日常の生活に忙しくしている時に、ただ一人で黙々と、乾いた大地で大きな箱舟の制作を続けました。神がこの罪の地をお裁きになるために、やがて地に大雨を降らせ、地のすべてを大洪水が飲み尽くすであろうとの神のみ言葉を信じたからです。彼はまだだれも見ていない将来の神のご計画を信じ、それに備えて生きたのでした。彼は人々の生活ぶりだとか、きょう何を食べ、あすは何を着ようかとか、社会や経済状況を見ていたのではなく、目には見えない神の真理をあたかも見ているかのようにして、神が計画しておられる尊いみわざを恐れつつ、生きていました。これがノアの信仰でした。神はこのノアの信仰によって、罪の世界をお裁きになり、信じて箱舟に乗ったノアと彼の家族とを大洪水から救い出されたのでした。

 8節からはアブラハムの信仰について書かれています。彼は神の呼びかけを聞いた時、神が示される土地が最終的にどこであるのかを知らずに、またその土地での生活がどのようなものになるのかも知らずに、行き先を知らずして、故郷を旅立ちました。彼もまた、神が約束された将来に向かって、まだ見ぬ神の真理をすでに見ているかのようにして、地上の旅を続けました。アブラハムの信仰による旅路について9節、10節ではこのように説明されています。【9~10節】。アブラハムは神が約束された土地カナンに住みながらも、他国に宿るように、そこがまだ最終目的地ではないかのように生きていたのでした。そして、そこに定住するための家を建てるのではなく、いつでも移動できるように天幕に住んでいたのでした。なぜならば、彼は地上のどこかに安住の地を持っているのではなく、神が建設された天の都を目指していたからだと言うのです。

 そのような旧約聖書の信仰者たちの信仰の歩みを振り返ったあとで、13節以下でこの手紙は次のような結論を導き出すのです。【13~16節】。信仰者はこの地上ではどこに住んでいてもよそ者であり、仮住まいの者である、旅人であり寄留者であると結論づけます。どんなに環境がよく、快適に過ごせる土地であったとしても、どんなに立派な施設が整っている豪華な家であっても、信仰者にとっては、そこに最後の目的地があるのではありません。そこに永遠の安住の場所があるのではありません。あるいはまた、どんなにこの世で成功をおさめ、人々の称賛を浴び、自分の願いをすべてかなえることができたとしても、そこに信仰者の最高の幸いと祝福があるのでもありません。

 なぜならば、1節で教えられていたように、信仰者は「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」という信仰が与えられているからです。今ある現実や今生きている世界が信仰者のすべてなのではなく、いやむしろそれらはやがて移ろい行き、過ぎ去り、滅びに向かっているものでしかないことを知らされながら、それらよりもはるかに堅固な土台を持ち、はるかに勝った故郷である天の故郷へと招かれていることを知らされている、そこを目指して信仰の旅路を続けている、それが信仰者の歩みです。神が信仰者たちのためにその天の都を建設してくださり、その天の故郷を備えていてくださるのです。

 それでは、天の故郷を目指して生きる信仰者と地上の国を目指して生きるこの世の人との決定的な違いはどこに現れるのでしょうか。そのヒントは13節にあります。【13節】。人はみな地上の命を終えて死ななければなりません。信仰者にとっても、それは例外ではありません。ただし、ここで重要なことは、「信仰を抱いて」という言葉です。この言葉が信仰者とそうでない人との決定的な違いを生み出しているのです。

信仰を持たない人は、望んでいる事柄を確信することはありません。過去と今現在とに生きています。今見ている世界、今生きている現実が彼のすべてです。彼はいずれにしても自分の可能性の限界内に生きています。神が将来に何を備えておられるか、神が何をなし給うかを知ろうとはしません。その人は、彼の地上の歩みの終わりの時には、彼がそれまでに得たもの、築き上げたもののすべてと別れなければなりません。彼が見ていた現実の世界は彼の死とともに彼の人生から消え去っていきます。彼は死の世界に何ひとつ携えていくことはできません。

けれども、信仰者は神が備えてくださる将来へと目と心とを向けます。神ご自身が建設された、堅固な土台を持った天の都を待ち望んでいます。来るべき神の国の民として招きいれられていることを信じています。神は確かに彼らのために天の都を準備しておられます。この神の約束は信仰者の死によっても、変更されることも取り去られることもありません。いやむしろ、信仰者にとって死とは、神の約束へと近づくことであり、神のみ言葉が確かに成就される時です。地上に生きている間は、神のみ言葉を疑わせたり迷ったりする多くの罪や誘惑がありました。彼を神から引き離そうとする多くの敵の攻撃がありました。けれども、死ののちには彼はそれらのすべてから解き放たれて、天に引き上げられ、永遠に神と共にあり、神との豊かで堅い交わりの中へ招きいれられています。もはや何ものも彼から信仰を奪い取るものは存在しません。信仰者は今は天にあって、何ものにも妨げられることなく、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」がゆるされているのです。神が天に備えてくださる堅固な都、天の故郷の永遠の住民とされているのです。

終わりに、もう一度12章1節のみ言葉を読みましょう。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか」。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、あなたがこの秋田教会の130年近くの歩みをお導きくださり、ここに多くの信仰者たちをお集めくださったことを覚えて、心から感謝をささげます。どうぞ、今ここに招かれ、集められているわたしたち一人一人をも、豊かに祝福してください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、病や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月1日説教「信仰による旅人アブラハム」

2020年11月1日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章1~9節

    ヘブライ人への手紙11章8~12節

説教題:「信仰による旅人アブラハム」

 創世記12章からアブラハムの生涯の物語が始まります。アブラハムからその子イサク、その子ヤコブ、そしてヤコブ(彼はのちにイスラエルと改名しますが)、その12人の子どもたちへと続く物語を、族長物語、族長時代と言います。紀元前2000年ころから1700年ころの時代と考えられます。ヤコブ=イスラエルの12人の子ともたちはやがてエジプトに移住し、そこで400年あまりを過ごし、紀元前1200年代にエジプトから脱出して、神の約束の地カナン(今のパレスチナ地方)に移り住みます。そして、カナンの地でのイスラエルの歴史へと受け継がれていきます。

 創世記12章のアブラハムから始まる族長物語の大きな特徴の一つは、神の選びの歴史であるということです。また、それが神の救いの歴史であるということです。アブラハムから神の救いの歴史はより具体的になっていきます。神は一人の人、アブラハムを選ばれ、彼と契約を結ばれ、彼と彼の子孫によって救いの歴史を継続されます。これを神の救いの歴史、「救済史」と言います。アブラハムの選びから始まった救済史は、イスラエルの選びへと継続され、ついにはイスラエルの民の中から出た一人のメシア・救済者であられる主イエス・キリストによって神の救いの歴史はその頂点に達し、完成されます。わたしたちはアブラハムから始まった神の選びの歴史、神の救いの歴史に連なっているのであり、その中に招き入れられているのです。

 では、【1節】。11章から12章へのつながりには違和感がないように思われます。11章では、10節からノアの息子の一人セムの系図、また27節からはその続きのテラの系図が書かれてあり、テラの子どもアブラムとその妻サライが生まれ故郷であるカルデアのウルから旅立ってハランに移住したころまでが書かれてあり、そのハランの地でアブラム・アブラハムが神のみ言葉を聞いたという12章1節に続いていくので、一連の物語としては連続性があるように思われます。

 しかし、その内容から見れば、11章までと12章からは明らかな違いがあります。ある旧約聖書学者は11章までを「原初史」と名づけました。そこでは世界と人間の歴史の根源が描かれており、つまり世界がどのようにして神によって創造されたのか、人間はどのようにして神のパートナーとなったのかについて描かれており、そこでは神の救いのご計画と神の恵みは、どちらかと言えば人間全体、世界全体を対象にしています。それに対して、12章からは、アブラハムという一人の人間に神が語りかけられ、この一人の人アブラハム、あるいはアブラハムを代表とする一つの部族によって神の救いの歴史が繰り広げられていくようになります。先ほど触れた神の選びの歴史、神の救済史がここから具体的に展開されていくようになるのです。

 そのようにとらえれば、11章までと12章からは明らかな違いがあると言えます。しかしながら、そこに継続性がないわけではもちろんありません。12章1節の冒頭に「主はアブラムに言われた」と書かれているように、創世記第二部の族長の歴史の始まりも主なる神が主語であることには変わりはありません。1章1節の創世記の第一部である原初史の始まりにおいても「神は天地を創造された」とあり、神が世界と人間のすべての歴史を始められたように、神の救いの歴史、神の恵みの歴史は、原初史から族長の歴史、イスラエルの歴史、そして教会の歴史に至るまで、一貫してそれは主なる神が主語として働かれる一連の歴史であるということは言うまでもありません。

 「主はアブラムに言われた」。どうしてアブラハムが選ばれ、神が彼に語りかけられたのか、その理由については書かれていません。アブラハムの選びにおいては、選ばれたアブラハムの側には全くその理由はありません。神の選びは神の自由なご意志による一方的な恵みと愛による選びです。それゆえにまた、神の救いも徹底して神の側からの一方的な恵みと愛による救いです。アブラハムから始まる神の選びの歴史は、その後イスラエルの選び、教会の選び、わたしの選びに至るまで、その性格は全く変わりません。神は全く選ばれる理由がないわたしを、選ばれるに値しないわたしを一方的に選び、恵みと愛とをもって、この取るに足りないわたしを主キリストから与えられる救いへと招き入れてくださったのです。この教会へと招き入れ、きょうの礼拝へと呼び集めてくださったのです。そこには、神の自由な選びと、神の大きな恵みと愛とがあるのだということを、わたしたちは覚えるのです。

 「主はアブラムに言われた」。ここでもう一つ確認しておくべきことは、主なる神はみ言葉をお語りになることによって、アブラハムを信仰の道へと招き入れられ、彼の生涯の歩みを導かれるということです。聖書の神、アブラハムの神、イスラエルと教会の神は、み言葉をお語りになる神です。創世記第一部の原初史においても、1章3節に「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」と書かれていました。神はみ言葉をお語りになることによって、天地万物と人間とを創造されました。第二部のアブラハムから始まる族長の歴史においても、み言葉をお語りになることによって、その選びと救いの歴史を開始されます。神はこののちにも、アブラハムの全生涯の中で繰り返し繰り返しみ言葉をお語りになります。アブラハムが失敗しつまずいた時に、神の約束を疑い、不安になった時に、彼が大きな試練に直面し、恐れおののいた時に、神はその時々にアブラハムに対してみ言葉をお語りになり、彼の生涯と信仰の歩みを導かれました。

 神は今も、わたしたち一人一人に対して必要なみ言葉をお語りくださいます。聖書のみ言葉を通して、わたしに語りかけてくださいます。わたしたちは繰り返し繰り返しその神のみ言葉を聞きつつ、それに聞き従うことによって、信仰の道を全うすることができるのです。

 「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地へ行きなさい」。アブラハムを選ばれ、彼を信仰の道へとお招きになる神は、まず彼がこれまでに慣れ親しんできた愛すべきすべての世界と生活から離れなさいとお命じになります。彼はこれまで、故郷の自然や環境、社会から多くのことを学んだでしょう。父の家には愛すべき多くの家族もいたし、親しい友人、頼りがいのある年配もいたでしょう。けれども、神はそれらに別れを告げよとお命じになります。なぜなら、これからは神のみ言葉が彼の道を導くからです。神が彼に必要なすべてを備えられるからです。それが、彼がこれから歩みだす信仰の道なのです。それが、わたしたちの信仰の道です。

 近年、アブラハムの生まれ故郷であるカルデアのウル付近、ユーフラテス川の。南端、ペルシャ湾の近くですが、その地域の発掘調査で、そこでは古代に天体崇拝が行われていた、特に月神礼拝が盛んであったことが明らかになりました。アブラハムが別れを告げたものの中には、その古い信仰からの別離も含まれていたのは当然です。

 アブラハムは神に選ばれ、神の呼びかけを聞き、新しい信仰の道へと旅立った際に、それまで住んでいた土地、家族やその他の人間関係、生活、そして宗教のすべてを捨て、神が備えられる新しい土地を目指しました。彼のその決断がいかに大きいものであったか、いかに厳しい別離を伴うものであったか、それゆえにまたいかに困難な決断であったことか、わたしたちは推測することができます。けれども、聖書はそのようなことについては全く記していません。4節に、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とだけ書かれています。彼は神のみ言葉に服従します。多くの迷いや不安、恐れ、痛みがあったと思われますが、彼は黙々と神のみ言葉に服従します。主なる神にすべてをお委ねし、主なる神のみ言葉にすべての信頼を置いて服従します。

ヘブライ人への手紙11章8節では、このアブラハムの信仰についてこのように言っています。【8節】(新約415ページ)。アブラハムはこの時点ではまだ、神がお示しになる土地がどのような場所であるのか、そこでどのような生活が待っているのかを全く何も知らされず、「行先も知らずに出発」しました。彼が旅を続けてカナンの地に来た時になって初めて神は、7節で「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われました。それでもまだ、カナンの地がカルデアのウルよりも良い地であるのかどうかは何も知らされませんし、かつての生まれ故郷での生活よりもカナンの地での生活が幸いであるのかも、全く分かりません。そうであるのに、アブラハムは行き先を知らずして、何の保証もない新しい地へと旅立って行きました。神のみ言葉に服従して。

わたしたちは同じような信仰を新約聖書の中にも多く見いだします。ガリラヤ湖の漁師であったペトロとその兄弟アンデレ、ヤコブのその兄弟ヨハネは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた主イエスのみ言葉に従い、すぐに一切を捨てて主イエスに従っていきました(マルコ福音書1章16節以下参照)。徴税人レビも「わたしに従いなさい」と言われた主イエスのみ言葉を聞き、立ち上がって主イエスに従いました(同2章13節以下参照)。彼らも主イエスのあとに従っていくことがどのような人生の歩みになるのか全く分からずに、主イエスのみ言葉に聞き従ったのでした。

ヘブライ人への手紙11章1節にはこのように書かれています。【1節】(414ページ)。そして、先ほど読んだように8節でアブラハムの信仰による旅立ちがあり、そして13節以下ではこのように言います。【13~16節】。アブラハムはこの地上では「よそ者、仮住まいの者」であり、旅人、寄留者であって、彼が最終的に目指していたのは、実に、天の故郷であったのだと結論づけています。これがアブラハムの信仰なのです。この信仰のゆえに、アブラハムは「すべて信じる者たちの信仰の父」と言われるようになりました。

アブラハムの信仰による旅立ちは神の約束の地を目指しての出発でしたが、神の約束の地はこの地上のどこかにあるのではなく、天にある、神が備えておられる天の故郷、神の国にあるというヘブライ人への手紙のみ言葉は、わたしたちすべての信仰者にも当てはまります。わたしたちはみな地上には永遠の安息の場所を持っていません。最後の目的地を持っていません。でも、あてもなく旅をしているのではもちろんありません。地上にあるどんな地よりもはるかに堅固な土台を持つ都、神が設計され、神が建設された永遠の都(ヘブライ手紙11章10節参照)、神の国を目指しているのです。神が永遠にわたしと共にいてくださる家、もはや死もなく、悲しみも痛みもない世界、新しい天と地と(ヨハネ黙示録21章1節以下参照)を目指しているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちをあなたの民としてお選びくださり、主キリストの救いにあずからせてくださった大きな恵みを感謝いたします。どうか、わたしたちがこの恵みのうちにあって信仰の道を全うできますように、お導きください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、病や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月25日説教「聖霊によって神の偉大な業を語る」

2020年10月25日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    使徒言行録2章5~13節

説教題:「聖霊によって神の偉大な業を語る」

 ペンテコステの日に、聖霊を注がれた弟子たちは、聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で語りだしたと、使徒言行録2章4節に書かれています。そして、5節以下には、その時の出来事が具体的に描かれています。弟子たちは多くの国、民族、地域で語られているさまざまな言語で神の偉大なみわざについて語りだしたというこの出来事は、一般に「多国語奇跡」と言われています。この多国語奇跡がどのようにして行われたのか、またそれはどのようなことを意味するのかについて、学んでいきたいと思います。

 【5~8節】。この当時、1世紀前半のイスラエルの首都エルサレムの状況についてまず確認しておきましょう。イスラエルは紀元前6世紀にバビロン帝国によってダビデ王国が滅ぼされて以降は外国の支配下に置かれていました。この当時はローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国は皇帝に対する絶対服従を強制しながら、比較的自由な自治権を許し、宗教活動も帝国の主権と法の範囲内での自由を認めていました。福音書の最後の個所に描かれている主イエスの裁判と十字架刑の場面では、イスラエルの宗教活動とローマ帝国の法規制の衝突を見ることができます。

 また、この時代のイスラエルのもう一つの特徴として、多くのユダヤ人はまだ熱心な信仰を持ち続けており、自分たちが神に選ばれた民であり、神がかつて預言者たちによって約束されたメシア・キリスト・救い主の到来を固く信じていました。一部には、今この時こそがメシア到来の時だと、ローマ帝国からの解放を叫ぶグループもあり、メシアの到来を待ち望むユダヤ人が多くいました。

 5節に、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」とあるのは、そのような状況を背景にしています。北王国イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされた紀元前8世に後半ころから、ユダヤ人は諸外国に散らされていきました。この人たちはいわゆるディアスポラ・離散のユダヤ人と呼ばれていましたが、この時代になって、メシア待望の機運が高まって来たエルサレムに、それぞれの離散の地から戻って来た人たちでした。と言うのも、メシアはエルサレムに来臨されるという旧約聖書の預言があったからです(ゼカリヤ所4章4節参照)。ルカ福音書2章に書かれているシメオンや女預言者アンナのようにイスラエルの救いが完成される日が近いことを信じて、彼らはエルサレムに移り住んで、この都でメシア到来を待ち望んでいたのです。その人たちが、かつて自分たちが生まれ育った国の言葉で今弟子たちが話しているのを聞き、大きな驚きを覚えました。彼らの驚きの大きさが強調されています。6節には「あっけに取られて」、7節には「驚き怪しんで」、さらに12節でも「皆驚き、とまどい」とあります。それは、人間の理解のはるかに及ばない、聖霊なる神のみわざ、まさに奇跡としか言えない不思議な出来事でした。

 ある人は、現実的にこのようなことが起こるはずがなく、これは創作だと言います。12人の弟子たちが、しかもガリラヤ地方出身の彼らが、世界各地の言語をどのようにして話すことができたのか、また多くの民衆がそれをどのようにして聞き分けることができたのか、それは不可能なことだと考えます。しかし、それは人間の理解できる範囲を超えているということであって、だからそれが非現実であると直ちに結論づけることはできません。聖霊なる神は人間の理性や常識や能力をはるかに超えて、驚くべきみわざをなさるのですから。

 少し順を追って考えてみましょう。この日に、エルサレムのある家に、その家に弟子たちが集まっていたのですが、天から激しい風が吹いて来て、大きな音が町中に響き、また炎のような舌が天から弟子たちの上に現れ、町全体を明るく照らしたので、その音と光に気づいた多くの市民が外に出て、神殿の大庭に集まって来た。その人たちに向かって弟子たちが、さまざまな国の言語で語りだした。多くの人たちにとっては、その声は聞き取れず、何を話しているのかも理解できなかったけれど、ディアスポラのユダヤ人にとっては、かつて自分たちが国で話していた言語であることがはっきりとわかり、そのようにして多くのディアスポラのユダヤ人たちがそれぞれの国の言葉を聞き、その内容が神の偉大な救いのみわざであることが理解できた。それは全くあり得ない出来事ではありません。

 そこに、聖霊なる神が働いておられたということが何よりも重要です。弟子たちが外国の言葉をどこかで学んだのではありませんし、彼らの能力によるのでもありません。多くの人々の騒々しい騒ぎの中で、自分の国の言葉を聞き分けることができたディアスポラのユダヤ人にも聖霊なる神のお導きがなければそれは不可能なことです。多くの人々の、驚き、当惑、混乱の中で、聖霊なる神が確かな救いのみわざをなさっておられるということを、使徒言行録は記録しているのです。

 7節に人々の驚きの声が記されています。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」。この言葉には、ガリラヤ地方の出身者に対する軽蔑が含まれているように思われます。ガリラヤは「異邦人の地」と呼ばれ、「ガリラヤからは預言者が出るはずはない」(ヨハネ福音書7章52節参照)とも言われていました。しかし、福音書の記述によれば、主イエスはそのガリラヤに最初に神の国の福音を宣べ伝えられたのです。また今、そのガリラヤ出身の弟子たちに聖霊が注がれ、世界各国の言葉で主キリストの福音を語っているのです。彼らが世界の諸教会の礎として選ばれ、聖霊なる神に仕える福音の説教者とされているのです。

 9~11節には、ディアスポラのユダヤ人たちが散らされていた国や地域が挙げられています。ここには7つの民族名と9つの地方・地域の名が挙げられています。これらは当時のローマ帝国のほとんど全地域にまたがっています。彼らはそれぞれの国・地域でそれぞれの言語を話していました。ギリシャ語があり、アラム語、ラテン語、アラビア語、エジプト語など、それらの言語で今弟子たちが一つの神の大なる救いのみわざについて語っているのです。ディアスポラのユダヤ人たちが今エルサレムでその神のみ言葉を聞いているのです。これが、ペンテコステの日に起こった「多国語奇跡」と言われる出来事です。

 この奇跡を体験したディアスポラのユダヤ人たちは、ペンテコステの日にエルサレムで起こったこの不思議な出来事の証人となり、また実際に、このあとペトロの説教を聞き、それを信じて洗礼を受け、世界最初の教会として誕生したエルサレム教会のメンバーとなり、そののち全世界に広がっていく教会の礎となりました。聖霊に満たされて神のみ言葉を語った弟子たちと、それを聞いて聖霊なる神のみわざの証人となった彼らと、共に聖霊なる神の救いのみわざに仕えたのです。

 11節の「神の偉大な業」とは、具体的には1章22節の「主イエスの洗礼のときから始まって、天に昇られた日まで」の主イエス・キリストの救いのみわざのことであり、その展開としての14節以下で語られているペトロの説教のことを指しています。聖霊によって弟子たちが語るべき言葉はこれ以外にはありませんし、聖霊によってエルサレムの住民が聞くべき言葉もこれ以外にはありません。主イエスはヨハネ福音書15章26節で弟子たちにこのように約束されました。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方はわたしについて証しをなさるはずである」。聖霊は主イエス・キリストを証し、主イエス・キリストを信じる信仰をわたしたちに与えます。

 このペンテコステの日に弟子たちが体験した「多国語奇跡」を旧約聖書時代からの神の救いの歴史全体の中で捕らえるならば、これは創世記11章に書かれている「バベルの塔」の出来事と深い関連があることに気づかされます。創世記11章には、人々が一つの言葉で協力し合い、文化や技術を向上させることによって、天にまで届く高い塔を建て、自ら神よりも偉大な者になろうと企てたのに対して、神はその人間の罪をお裁きになるために天から下って来られ、彼らの言葉を乱し、彼らを全地に散らされたと書かれています。人間たちが罪によって結束することがないように、神は言葉を乱されました。

 ところが今、神は散らされていたディアスポラのユダヤ人をエルサレムにお集めになり、彼らのそれぞれの国の言語によって神の一つの救いのみわざを語った弟子たちの宣教によって、彼らを新しい一つの神の民として結集してくださったのです。主イエス・キリストの福音を共に聞き、信じる教会の群れを形成してくださったのです。このペンテコステの日に注がれた聖霊によって、一つの神の救いのみわざのもとに、一つの福音を宣教する言葉によって、全世界の国民が一つに結集されるということが、この「多国語奇跡」によって暗示されているのです。

 聖霊なる神は人間の間にあるあらゆる違いや壁を打ち破り、国や民族、言語、思想や、また一人一人の性格などの違いから生じるすべての溝や壁を打ち破り、全世界のすべての国民が主イエス・キリストの福音を語り、聞くことによって、彼らを一つの神の民、教会の民としてくださるのです。聖霊なる神は今もなおわたしたちの教会を通して働いておられ、わたしたちを主イエス・キリストを救い主と信じ、告白する信仰を与えてくださいます。その信仰によって、わたしたちを神と主キリストに固く結びつけ、わたしたち一人一人をも一つの神の民、礼拝する民として固く結び合わせてくださいます。

 【12~13節】。聖霊を注がれた弟子たちの多国語奇跡を見たエルサレムの人たちの二つの反応がここに書かれています。12節では、今何か不思議な驚くべき新しいことが起こり始めていると感じ、ペンテコステの日に起こったこの新しい出来事に対して心を開き始めている人たちのことが、13節では、いまだ人間的な限界の中で理性や常識に縛られているために、神の新しいみわざを見ることができず、あざけっている人たちのことが描かれています。

 「いったい、、これはどういうことなのか」。この驚きの言葉は、新しい聖霊の時が始まったことに対する期待が、今はまだそれがどのような時代になるのかは不確実ではあるが、確かに何か新しい時代が始まったという予感と期待が含まれているように思われます。このペンテコステの日から、聖霊の時が、教会の時が確かに始まったのだと、使徒言行録は語っているのです。わたしたちはその聖霊の時、教会の時に生きています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの教会にも、そしてわたしたち一人ひとりにも、聖霊を注ぎ、主イエス・キリストの証し人としてお用いください。

〇父なる神よ、あなたが独り子を賜るほどにわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもあなたの愛に満たされて、隣人を真実の愛で愛することができますように導いてください。

〇そして、主なる神よ、全世界の人々があなたの限りない愛を知り、互いに愛し合うことができますように、この地球上をあなたの愛で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月18日説教「主イエスのもてなし」

2020年10月18日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編33編1~7節

ヨハネによる福音書21章1~14節 

説教題:「主イエスのもてなし」

説教者:長老 小泉典彦

先ほど読んでいただいた、ヨハネによる福音書21章1節~14節は、復活の主イエスが弟子たちに姿を現された三度目の記録です。このことを確認するため、聖書を2カ所読みたいと思います。ヨハネによる福音書21章1節「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身をあらわされた」、同じく21章14節「イエスが、死者の中から復活したのち、弟子たち現れたのは、これでもう三度目である」という書き出しと結びによって明記されています。

 ヨハネによる福音書21章は、復活のイエスが弟子たちにその姿を現わされた三度目です。「三度目である」とありますので、一度目・二度目を振り返りたいと思います。一度目は、復活された日の夕方です。ヨハネによる福音書20章19節・20節(新約p210)ユダヤ人を恐れて鍵をかけて家の中にこもっていた弟子たちの間にすっと現れました。20章20節の後半「弟子たちは主を見て喜んだ」とありますが、残念ながら弟子の一人のトマスがいませんでした。トマスは、「自分の目で十字架の傷跡を見て、触ってみなければ決して信じない」と言い張りました。そして、二度目はその翌週、イエスはトマスのために現れてくださいました。20章27節のイエスの言葉を注意深く読みますと、一週間前のトマスの言葉を、イエスはちゃんと聞いておられたことが分かります。27節・それからトマスに言われた「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい。」トマスは、自分の疑い深さをくいたことでしょう。弟子たちは20章29節「見ないのに信じる人は、幸いである」との偉大な真理のみ言葉を聞くことになります。私たち信仰者にとって、主イエスについて情報や知識として知ること、体験として知ること、いずれも大切ですが、「見ないのに信じる」大切さは強調してもしすぎることはありません。

 主イエスの復活に出会った後も、弟子たちの信仰の歩みは、いつも高められ、満たされていたわけではありませんでした。高められた時があり、またダウンして意気消沈した時もあり、それらが交錯してくり返されていったと考えられます。復活の信仰が本当に弟子たちの現実となるためには、相当の時間を要したのです。いやむしろ、神の国の実現の時に至るまで、地上を生きる弟子たちの歩みは、常に一進一退を繰り返しながら、目当てをさして進んでいくのが現実ではないかと思うのです。イエスが繰りかえして弟子たちに現れて、彼らを力ずけ、励ましているのもそのためではないでしょうか。迷い、疑い、時には後戻りしながら、しかしそれらを乗り越えていくのが信仰の歩みであります。

 私たちは物事に失敗し、耐えがたい悲しみに陥ると、たいてい自分の故郷に帰ることがあります。そこは、傷ついた者を温かく迎えてくれるところだからです。主イエスの数人の弟子たちも、自分たちの主が、十字架につけられて死なれたのち、復活されて二度までも彼らの前に現れてくださったにもかかわらず、不安や恐れに負けてしまって、いろいろな出来事があったエルサレムから離れて、静かな生まれが故郷ガリラヤへと戻ってきました。このような失意の弟子たちに主がなさったのは、一度体験したことをもう一度体験させること、すなわち追体験を通して記憶をよみがえらせることでした。そうです、3年半前やはりガリラヤ湖畔(ティベリアス湖畔)での体験です。~ ルカ5章4節以下(新約p.109の下の段中ほど)を読む。この箇所は、先週・駒井牧師が「人間をとる漁師になる」という説教で取り上げたところです。 ~

 3節「わたしは、漁に行く」というぺトロ。漁にでるペトロ。一度は捨てたはずの網をもう一度取り上げるペトロ。「昔とった杵ずか」ということわざもあります。何といっても直接にたよりになるのは、長年経験し、鍛えてきた、それによって生計を立ててきた、人間の熟練と経験の力でしょう。過去はなかなか捨てきれないのが、ペトロだけでなく、私たちの偽らない生の現実であります。

 3節後半「しかしその夜は何もとれなかった」、ペトロはここでも空しい失敗を繰り返します。しかし、このことは、大切なことを私たちに聖書は告げています。主の復活に出会って、キリストに従う者としての歩みを始めた後にも、やはり失敗と挫折はあるのだということです。ヨハネ15章5節・有名な「イエスはまことのぶどうの木」の箇所から、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ペトロは、イエスから聞いて学びとった、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」というみ言葉の深い意味を味わい、思い返したのではないでしょうか。失敗を通しての想起ということです。

 福音書は、イエス・キリストに対する弟子たちのつまずきと失敗の記録でもありますが、しかし単なる失敗談、暴露する記事ではありません。それらを通してもう一度、主とそのみ言葉に帰って行った人たちの記録として、大きな意味と価値を持つ書物です。

今日の箇所21章4節~6節「すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか。」と言われると、彼らは「ありません」と答えた。イエスは言われた、「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」そこで網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」

一人ガリラヤの湖畔に静かに立たれたイエス。しかし弟子たちには、それがイエスであるとは分かりません。「食べる物がありますか」と話しかけられれば、「ありません」と素直に答えることしかない弟子たち。それは、うつろで、疲労した人間の絶望の、率直でうそのない告白です。「ありません」・すなわち「ない」ものは「ない」とはっきり言うところに人間の真実があります。とかく私たちは、ないものをあるかのように見せかけて、外面をとりつくろうことはないでしょうか。しかし、ないものはないとはっきり言うことが大切です。

 使徒言行録3章では、エルサレム神殿の「美しの門」の前で、生まれながらの足の不自由な人に対して、ペトロは次のようにはっきりと言いました、使徒3:6(p217):ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」と率直に語りました。無いものは無い、知らないものは知らないと言うべきです。復活の主の前で、弟子たちは、何をも持たず、何も出来ない人間であったということが、ここでもう一度はっきりとえがきだされます。そのことをはっきりと認めるところに、弟子たちの真実があるのではないでしょうか。すると主イエスは弟子たちに言われました。21章6節「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」「そうすれば。とれます」この明確な言葉。自分の願望も将来の方向性も見失っている弟子たちに、はっきりと結果をお示しになるイエス。この断定はいつもの主イエスの語り口でした。「お言葉どおり、そうしてみましょう」これが弟子たちの常でした。主が語られたとおりにするならば、必ずそうなる。これが神の言葉でした。「そうすればとれるはずだ」「こうすれば、こうなります」との主イエスの言葉は、私たちの今の混沌とした社会情勢の中で、いかに力強いことでしょうか。主イエスのみ言葉は、弟子たち・私たちが、新しい一歩を踏み出すようにかえてくださいます。

 ヨハネ15章5節「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」キリストから離れた弟子たちは無力です。しかしキリストにあって、その御言葉に従ってなすときに、私たちの思いを超えて、できない者ができる者とされるのです。

 さて、復活の主イエスが三度目にその姿を弟子たちの前に現された時、ただ単に、弟子たちの記憶をよみがえらせたばかりでなく、食事の用意をされたというのは注目すべきことです。大漁の魚を引き揚げたあとで、弟子たちは体も大分濡れていたでしょう。ペトロに至っては、水に飛び込むのに普通はきているものを脱ぐのに、「主だ」との弟子ヨハネの声に、上着をまとって飛び込んだというのですから、特別な思いでこの瞬間を迎えたことでしょう。早朝の湖畔ですから、からだが濡れれば寒くもなります。9節「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」主イエスは、陸地で炭をおこし、魚とパンを用意してくださっていました。からだが暖まれば、心も温まるものです。弟子たちはだれ言うとなく火の周りに集まってきました。

 しかし、ある場面に胸が痛むこともあります。9節の「炭火がおこしてあった」という言葉で、イエスが連れて行かれた大祭司の中庭で、ペトロが役人たちと一緒になって暖をとった「炭火」を思い出します。あの中庭には、この福音書の著者であるヨハネもいましたので、この炭火にあの場面を思い出したかもしれません。ペトロにとっては痛みを思い出す「炭火」でした。イエスの言葉に感動した時には「あなたのためには命も捨てます」と豪語したけれど、苦境に立たされ、「あなたもあの男の弟子だ」と言われれば、三度も「知らない」と答えてしまう。否みながらも、炭火に手をかざして暖まっていた自分。心の冷たさと手のぬくもり。 もしも、私たち人間が悔いるとしたらこうした傷ではないでしょうか。自分だけが、難を逃れた、そのかたわらに、愛する者が苦しんでいた。知りながら自分は何もできなかった。どんなに社会的に認められても、この傷だけは癒されない。その傷が癒えないかぎり、ちょっとしたことで心は乱れる。それが人間ではないでしょうか。

 そうした中で、主イエスは弟子たちを朝食に招かれます。かつてガリラヤ湖畔で、5千人を養われたあの場面と同じように、パンをとり、魚をとって彼らにお渡しになりました。あのときのイエスのしぐさが、思い起こされたのではないでしょうか。

 こうして三度目にご自身を現されたイエスは、この記事を読むかぎりごく普通の人として描かれています。ルカによる福音書の記事もそうですが、弟子たちは復活の主イエスが共に歩まれても、初めはそれがイエスであるとは分からなかったとあります。福音書の著者は、外見ではなく、もっと肌で触れるような主イエスとの交わりを伝えたいのです。そこに生身の主イエスがいてくださる。12節後半、「弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」とあります。主イエスのごく自然な振る舞いに、弟子たちは主との交わりを楽しんだのです。ペトロは、使徒言行録のなかで、「わたしたちは、主イエスが死者の中から復活したあと、一緒に食事をしました」と語っています。

 私たちは、主の招きがまずなければ、主を知ることはできませんし、主に従うこともできません。信仰とは、まず私たちが努力して、主を喜ばせ、主のために食卓を用意することではありません。それに先だって主イエスが私たちのためにパンと魚を用意して招いてくださる。もてなしてくださる。その招き・もてなしに応じることからはじまります。

 食卓 それは主イエスが私たちのために備えてくださった、生きるために必要な糧が与えられる場です。

聖書が、私たちに語っているイエスは、仲間はずれにされている人、独りぼっちの人、悲しんでいる人、病人、嫌われている人、問題を抱えている人をほっておかれない方として描かれています。

復活されてからも、疑い深いトマスに対して「トマス、私はあなたをほっておかないよ」と言っておられます。これは大きな恵みです。

 私たちが生きていけるのは、誰かから愛されているからです。主イエスが、私たち一人一人を覚えていてくださるから生かされているのであります。信仰者として私たちは、主イエスのこのまなざしによって生きているのであります。

 説教前に、共に賛美した讃美歌413番「キリストの腕は」の歌詞を読みたいと思います。特に5節「キリストにならい、私たちも 違いを喜び 受け入れ合おう」

 私たちも小さな群れですが、日曜日ごとに教会に集められ主を讃美し、聖書の御言葉に日々養われているこの喜びを、自分たちで味わうにとどまらず、伝える群れ、伝えたい群れへと、主のみ言葉によって変えられるよう願いたいと思います。

 主のもてなしによって、私たちは 心に愛を、豊かに満たされて、この一週間の歩みに遣わされたいと思います。

○執り成しの祈り

 主イエス・キリストの父なる神様。あなたの御名を心よりほめ讃えます。どうか私たちを、キリストにならい、誰をもへだてず、たがいに励まし、たがいに仕える者へと変えてください。

 今日、福島伝道所で礼拝奉仕をされている駒井牧師を祝福してください。どうか秋田への帰りの道のりをお守りください。

10月11日説教「人間をとる漁師になる」

2020年10月11日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教
聖 書:詩編98編1~9節
    ルカによる福音書5章1~11節
説教題:「人間をとる漁師になる」

 ルカ福音書5章1節からは、主イエスの12弟子の一人ペトロが湖で魚をとる漁師から、主イエスの弟子となって人間をとる漁師に変えられることが語られています。キリスト教の専門用語ではこれを「召命」と言います。召命とは、英語ではcalling、名を呼ばれることですが、キリスト教では特に神、または主イエス・キリストから名を呼ばれこと、そして神、または主イエスから特別の使命、務めを託されることを「召命」と言います。広い意味と狭い意味の二つの用法があります。広い意味では、この世に属していた人が主イエスによって呼び出され、主イエスを信じて洗礼を受け、キリスト者となること、主キリストに属する人となって、主キリストの証し人となることです。狭い意味では、キリスト者として召命を受けた人がさらに神の特別な召命を受け、神のみ言葉を説教する務めを与えられ、主キリストの教会に専ら仕える牧師、あるいは聖職者、教職者となることです。わたしたちはだれもみな、この二つの意味での召命を聞いています。そしてまた、召命、つまり神と主キリストからの呼びかけは、一度聞くだけでなく、絶えず、新たに聞き続けることが大切です。絶えず、新たに、神と主キリストからの呼びかけを聞き、その呼びかけに答えて生きること、これがわたしたちキリスト者の生涯です。地上の歩みを終えるまで、それは続きます。
 きょう学ぶペトロの召命のか所では、広い意味での召命と狭い意味での召命と、二つの意味を考えて読む必要があります。わたしたちはこの個所から、きょうこのわたしに呼びかけておられる主イエスのcalling、召命を聞き取りたいと思います。
 ゲネサレト湖、すなわちガリラヤ湖の4人の漁師が召命を受けて主イエスの弟子となったという記録は、ルカ福音書とマタイ・マルコ福音書では少し違ったかたちで描かれています。マタイ福音書4章とマルコ福音書1章では、この二か所はほとんど同じですが、初めにペトロとその兄弟アンデレの二人が海に網を打っていた時に、それをご覧になった主イエスが「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう」と言われると、二人はすぐに網を捨てて主イエスに従ったと書かれています。次に、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、船の中で網の手入れをしているのをご覧になった主イエスが、彼らをお呼びになると、この二人もまた父や雇人たちを残して主イエスの後についていったと書かれています。
 それに対して、ルカ福音書ではシモン・ペトロを中心に描かれています。主イエスがペトロに語りかけられ、ペトロが主イエスのみ言葉に服従するという形になっていて、ヤコブとヨハネはシモンの漁師仲間であったので、その時に大量の魚がとれたという奇跡を見て驚いて、ペトロと一緒に主イエスに従ったと書かれています。ペトロの兄弟アンデレの名前はここには出ていませんが、6章14節で12弟子の名前が紹介されている箇所では「ペトロとその兄弟アンデレ」とあるので、大漁の奇跡の時にはペトロとアンデレは一緒だったと推測されます。
 では、1節から読んでいきましょう。【1~3節】。主イエスはここでも神のみ言葉を語っておられます。主イエスこそが神の国の福音を宣べ伝える最初の方です。このことをあらかじめ確認しておくことが重要です。主イエスはこのあとでシモン・ペトロを召してご自分の弟子とされ、神の国の福音を宣べ伝えて人間をとる漁師とされるのですが、またわたしたち一人一人をも召して神の国の福音の証人とされるのですが、それに先立って、まず最初に主イエスご自身が父なる神からこの世に遣わされて神の国が到来したことを、神の救いの恵みが主イエスと共にこの世界を支配していることをお語りくださったのです。弟子のペトロやそののちの教会に招かれているわたしたちは、主イエスが始められ、成就された救いのみわざを引き継ぐかたちで、主イエスの救いのみわざに仕えるかたちで、神の国の福音の証人とされるのです。
 2節に「御覧になった」と書かれています。同じ言葉が福音書の中でたびたび用いられています。同じ章の20節では、「イエスはその人たちの信仰を見て」、27節では、「レビという徴税人が収税所に座っているのを見て」、これも同じ言葉です。このほかにもいくつかあります。主イエスが何かをご覧になる、主イエスの目が何かを見られる、その時、主イエスはその人のすべてを、そのことの本質を見ておられ、その人のすべてを、そのことの本質を知っておられ、そのすべてを受け入れてくださいます。そこに不思議な出来事が、救いの出来事が起こされるのです。
 主イエスはペトロや他の漁師たちの生活のただ中に入って来られ、彼らの生活、彼らの労苦、彼らの汗と涙をご覧になります。主イエスはわたしたち一人一人の生活のただ中にも入って来られ、わたしの生活の現実をもご覧になっておられます。主イエスは安息日のユダヤ人会堂で神のみ言葉を説教され、安息日の主として救いのみわざをなさったということが4章に書かれていましたが、会堂の外でも、わたしたちの生活の場でも、主イエスはわたしたち一人一人を見ておられます。田んぼや畑で収穫に忙しい農家の生活の場にも、通勤途中の会社員や家事にいそしむ主婦や学校で学ぶ学生の生活の場にも、主イエスの目は注がれています。主イエスはわたしたちの生活の現実のすべてをご覧になり、知っておられ、その中に入って来られ、そこで神のみ言葉をお語りになります。
 「二そうの舟を御覧になった」と書かれています。主イエスはガリラヤ湖の漁師たちの生活の現実をご覧になったことを意味します。この二そうの舟は、後で5節のペトロの言葉から分かるように、中は空でした。一晩じゅう網を降したけれど一匹もとれなかったという、彼らの貧しく、厳しい生活の現実を主イエスは見ておられるのです。その現実の中に入って来られるのです。彼らの生活の現実を根本から変えるためです。彼らを魚を取る漁師から人間をとる漁師に変えるためです。舟の中で網を洗う漁師ではなく、主キリストの教会で神の国のために仕える奉仕者、福音のための働き人とするためです。
 もう一つここから読み取れることは、一匹の魚も取れなかった空の舟を主イエスが御覧になる時、それが主イエスのお働きのために、神の国の福音の説教のために用いられるということです。それまでは魚をとるために用いられていた舟が、主イエスをお乗せするために用いられるのです。この世では目覚ましい働きができず、役に立たなかったようなものが、主イエスによって用いられ、神の国の福音を語る舞台となるのです。その時、7節に語られているように、ペトロが主イエスの命令に従って沖に漕ぎ出してもう一度網を降したところ、今度は大量の魚で舟が沈みそうになるほどに変えられるのです。
 【4~5節】。一晩中何度も網を下ろしても一匹も取れず、疲れ果てていたペトロは主イエスの説教を聞いたあとで、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた主イエスの命令に従いました。しかし、それは彼の漁師としての経験や知識に反する行動でした。ガリラヤ湖では夜の気温が低くなったころに魚が表面に集まってきますが、昼には底で休んでいますから、昼間は漁には適しません。一晩中網を降ろしても徒労に終わったのに、またも徒労を重ねよと命じられて、ペトロは「しかし、お言葉ですから」と言ってイエスの命令に従うのです。主イエスのみ言葉を聞いたペトロは、この世の経験や価値基準で行動するのではなく、主のみ言葉に従って行動するようになっています。ペトロはすでにここで変えられています。主イエスのみ言葉の説教と命令によって、彼は困難な現実に立ち向かっていく勇気と希望とを与えられます。主イエスのみ言葉は人間の可能性やこの世の経験や知識、この世の価値基準のすべてを打ち破るのです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。わたしたちもまた主イエスにみ言葉によって、新しい一歩を踏み出すことができるようにされます。
 【6~7節】。神はシモン・ペトロの服従に応えて、大きな収穫と祝福をお与えくださいました。ペトロが全く期待していなかった、いやペトロの期待を裏切って、豊かな恵みをお与えくださいました。主イエスのみ言葉に聞き従う時、その働きは一つとして徒労に終わることはありません。漁の条件が改善したから、大漁になったのではありません。ペトロの技術が向上したからでもありません。むしろ、条件が悪くなり、ペトロの肉体も限界を迎えていたでしょう。この大漁は、主のみ言葉に服従したことによって与えられた恵みであり、奇跡です。主イエスのみ言葉が困難な現実を打ち破ったのです。み言葉に従って歩む教会の働きは、何一つとして徒労に終わることはありません。主ご自身が豊かな実りを約束してくださいます。今日の困難な伝道のわざにおいても、主のみ言葉に聞き従いながら、わたしたちは困難な現実に挑戦していく勇気と希望とを与えられます。
 【8~10節a】。ペトロはここで突然に自らの罪の告白をします。他の仲間たちも漁が余りにも多かったことに驚きました。神の恵みは人間の思いも及ばないほどに大きく、だれもが驚くほかにありません。そして、人間はだれも自分がその恵みを受けるに値しない者であることに気づかされるのです。神の圧倒的な恵みを受けて、人間は自らの貧しさや、弱さ、そして罪に気づかされるのです。これが、主イエスの自由な選びによって召命を受けて主イエスの弟子として召された信仰者の正しい応答です。教会はそのようにして、取るに足りないいと小さな者たちが主イエスの召命を受け、神の大きな恵みをいただいて、自ら受けるに値しない者たちであることを告白しつつ生きる群なのです。教会は罪を告白する者たちの共同体であり、それゆえに、主の救いの恵みの大きさに驚きつつ、その恵みによってのみ生きる者たちの共同体です。
 【10節b~11節】。主イエスは罪びとから離れることはなさいません。むしろ、罪びとをみ前にお招きになります。罪びとを人間をとる漁師としてお用いくださいます。神のみ言葉の証人として、説教者としてお用いになります。有能なこの世の成功者をではなく、むしろ生活に疲れ、挫折を経験し、失敗を繰り返すしかないような、欠けの多い人をお用いになります。そのような人たちが、神の国のために人間の失われた魂を勝ち取るという、尊く、重く、光栄ある務めへと召されているのです。

(執り成しの祈り)
〇主なる神よ、あなたから与えられている大きな恵みを覚え、心からの感謝をささげます。わたしたちがあなたからの恵みに応え、あなたのご栄光を現すためにお仕えすることができますように。
〇父なる神よ、あなたが独り子を賜るほどにわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもあなたの愛に満たされて、隣人を真実の愛で愛することができますように導いてください。
〇そして、主なる神よ、全世界の人々があなたの限りない愛を知り、互いに愛し合うことができますように、この地球上をあなたの愛で満たしてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月4日説教「バベルの塔」

2020年10月4日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記11章1~9節

    使徒言行録2章5~13節

説教題:「バベルの塔」

 きょうは創世記11章の「バベルの塔」と言われる個所を学びますが、その前の10章について少し触れておきたいと思います。10章には大洪水以後のノアの3人の息子たちの系図か書かれています。これまでにも創世記の中にいくつかの系図がありました。その所でお話ししましたように、旧約聖書の民イスラエルにとって系図は非常に大きな意味を持っていました。つまり、アダムから始まる全人類は神が創造された一人一人であり、民族、国民であるという信仰、そしてその系図は最終的には、神が全人類を救うために世に遣わされるメシア・キリスト・救い主へと至る系図であるということ、イスラエルの民はこの信仰を抱き続け、神に選ばれた民の系図を大切に保存してきたのです。

 10章の系図にも同じ意味があります。10章1節と32節を読んでみましょう。【1節、32節】。アダムから始まった系図は、洪水以後、ノアの子どもたちとその子孫から再び全世界に増え広がりましたが、すべての民族は神のもとにあって一つの共同体であるという信仰がここからも読み取れます。神はのちになってから、これらの諸民族の中からイスラエルの民をお選びになり、この民によって具体的な救いのみわざをなさり、ついにダビデ王家に連なるヨセフの子としてお生まれになった主イエスによって全人類のための救いを成就してくださったのです。旧約聖書のすべての系図は主イエスの誕生へと連なっているのです。

 では、11章1節を読みましょう。【1節】。ここから始まる「バベルの塔」と言われる出来事は「言葉」が重要なテーマになっているということがこの1節からも推測できます。言葉が人間にとっていかに大切なものであるかは言うまでもありません。言葉には、音に発せられる言葉、書かれた言葉、手話などがありますが、それらの言葉はわたしたちが互いに意志を伝えあうための大切な道具です。わたしたちは言葉によって互いに心を通わせ合うことができ、理解し合うことができ、交わりの生活をすることができます。もし、言葉が失われたら、人間の生活はたちまちにして混乱し、不便になり、喜び、楽しみも失われてしまうでしょう。言葉は、神が人間にお与えくださった多くの恵みの賜物の中で、おそらく最も素晴らしいものと言えるでしょう。他の生き物は人間ほどには厳密で複雑な言葉を持ってはいません。人間は言葉によって考え、互いに情報を交換し合い、知識や技術を言葉によって保存し、後世に伝え、そのようにして社会、文化、科学などをより高度なものに作り上げてきました。

 言葉が神から与えられた最も素晴らしい賜物であるということは、何よりも神が言葉によってわたしたちに語りかけ、わたしたちがそれを聞き、理解し、信じ、さらには言葉によって神を賛美し、神に感謝し、神に祈り、信仰を告白し、また神の言葉を宣べ伝える務めを託されている、そのことのために神がわたしたちに言葉を賜ったということにあります。パウロがローマの信徒への手紙10章で教えているように、わたしたちに宣べ伝えられている言葉によってわたしたちの信仰が生まれるのであり、信仰は聞くことにより、聞くことは主キリストの言葉からくるのです。

 わたしたちがきょうここに集まり、共に礼拝をささげているところで、突然に言葉が乱され、互いに理解し合うことができなくなったとしたら、どうでしょうか。わたしたちはみなあわてて、動揺し、不安になり、だれが何を考えているのかも、なぜここに集まっているのかもわからなくなり、ばらばらに散っていくしかないでしょう。わたしたちが同じ発音の同じ言葉を与えられ、同じ一つの主キリストの言葉を聞くためにここで一つに集められているということは何と大きな神の恵みであることでしょう。わたしたちはまずそのことを感謝してきょうのみ言葉を読んでいきましょう。

 【1~4節】。ところがここでは、神から同じ発音、同じ言葉を与えられていた人間たちから神に背く罪が芽生えてきたということが語られているのです。

 人々はシンアルの地の平野に住み着いたと書かれています。シンアルとはバビロニア地方のことで、バビロンとかバベルとも言います。世界四大文明の発祥の地とも言われるチグリス川とユーフラテス川が流れる肥沃な地が舞台です。人々は砂漠地帯をさまよいながらより豊かな地を探し求めてこの地に移ってきました。シンアルには石材がなかったために早くからレンガを造る技術が発達していました。太陽で粘土を乾かすだけでなく、火で焼いてより固いレンガを作る技術を生み出し、レンガを積み上げるためにアスファルトで塗り固める技術も発達していました。そして、彼らはそれらの技術と彼らの共同作業とによって、大きな高い塔を建てようと企てるのです。

 彼らに与えられていた同じ発音、同じ言葉がこの事業を推進させ、全員一致でこの事業に参加するために重要な役割を果たしています。4節に「さあ、こうしよう」というかけ声が書かれていますが、実は3節にも同じ「さあ、こうしよう」という言葉があります。新共同訳では省略されていますが、同じかけ声が二度も繰り返されているという点に、言葉によって人間の意思を統一し、人間が考え出したこの新しい事業によって人間社会をより豊かにしようとする欲望が表現されているように思われます。けれども、そこには神は存在しません。むしろ、神を追い出そうとしています。人間だけで固く結集し、天にまで届く塔の町を建設し、自分たちの名誉と名声を天の神にまで届かせ、ついには自ら神のごとくになって全地を支配しようとする人間の欲望がここにはあるのです。

 「さあ,われらはみなでこうしよう」「さあ、われらは一致協力してこの事を成し遂げよう」とのかけ声によって、神なき世界の建設に取り組もうとする人間。みんなが一つになることによって、神をも恐れず、罪の道を突き進もうとしている人間。だれもその勢いを止めることができず、異議を唱えることができず、共に罪の道へと落ちていくしかない人間。大洪水以後の人間たちも、最初に罪に落ちたアダムとエヴァと同じように、共に罪の道を進むことで一致しました。

 【5~7節】。神はこのような人間たちの現実のすべてを、天の高さから見ておられます。そして、人間はだれ一人として、自らの意志や知恵によってはこの罪の道をとどめることも、引き返すこともできないということをも神は知っておられます。ただ、神だけが人間のこの罪の道を、大いなる破滅へと向かうしかない罪の道を止めることがおできになります。

 5節に「主は下って来て」と書かれています。天の神よりも高くに登ろうとしていた彼らでしたが、人間は神に到達することはできません。人間が神にまで高く登ろうとしていた罪への道を終わらせるために、神は天から下って来られます。

 7節には、3節と4節で繰り返されていた「さあ、われらはこうしよう」と言う人間のかけ声と同じ言葉があります。人間たちの「さあ、こうしよう」というかけ声を打ち消すかのように、神は「さあ、われらは降って行こう」と言われるのです。

 ここで神はご自身のことを「我々」と言っておられます。同じ例が1章26節にもありました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。この「我々」は一般に尊厳の複数形といって、神はお一人であるのですが、ご自身の権威や力や存在を強調するために、あるいは人間に対する特別のご配慮を言い表すために、複数形で表現されていると考えられています。神はご自身の全人格を傾け、ご自身の全存在をもって、このことを強く決断され、人間を罪と破滅から救おうとなさったのです。

 【8~9節】。人間が自分たちを一致団結させるために役立った言葉を、そしてそれによって自分たちの偉大な事業を完成させることを可能にすることができると考えた言葉を、神は混乱させ、彼らを全地に散らされました。神は人間の神なしで企てられた事業を中途でやめさせられました。わたしたちはここではっきりと知らされます。人間が神から賜った大きな恵みである言葉を、彼らは神のみ心にそって用いていなかったのだということを。むしろ神に反逆するために、人間の欲望を満たすためだけに用いていたのだということを。それゆえに、人間が企てた大事業、堅固な街を建て、天に届く高い塔を建てようとした彼らの企ては神のみ心に背くものであったのだということを。それが人間の罪の結果であったのだということを。それゆえに、神の裁きを受けなければならなかったのだということを、わたしたちはここではっきりと知らされます。神なしで行われる人間の一致は、ついには失敗するほかにありません。

 神は、神なしで企てられる人間の事業はついには人間自身を破滅へと導く以外にないということを知っておられます。バベルの塔が高ければ高いだけ、崩れ落ちた塔の下敷きになって死ぬ人間も増えるのです。人間の高ぶりと自己主張、人間の傲慢と欲望が、やがて国と世界を破滅へと導くようになるということを、神は知っておられます。そこで神は、人間が最終的な破滅に至ることがないように、人間を最終的には救うために、人間の言葉を混乱させ、人々を全地に散らされ、人間がそれ以上罪のために協力し合うことができないようにされたのです。神は人間の罪と滅びへの道に「待った」をかけられます。それは最終的に人間を救うためなのです。

 神の裁きは神の愛です。人間の計画が挫折した時、自分の願いがかなえられなかった時、思わぬ困難が押し迫り、もう一歩も前進できなくなった時、その時が神の隠れたみ心の時であるのかもしれません。そこで、わたしたちは神のみ前にへりくだるべきです。新たに神のみ心をたずね求めるべきです。

 バベルの塔の出来事で神が人間の言葉を乱され、人々を全地に散らされたということは、使徒言行録2章のペンテコステの出来事と深く関連しています。聖霊を注がれた弟子たちがいろいろな他国の言葉で一つの神の偉大なみわざ、すなわち主イエス・キリストの十字架の福音を語った時、いろいろな国からエルサレムに集まっていたユダヤ人が、自分たちの国の言葉でその福音を聞き、理解した、そして主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、ここに世界最初の教会が誕生しました。ここで、バベルの塔以来全地に散らされていた人々が、聖霊によって一つの主キリストを信じる群となって集めらたのです。今や、聖霊なる神が、全世界の国民を、一つの主キリストの福音の言葉によって結ばれるのです。教会の民は共に神のみ言葉を語り、聞くということによって一つとされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、聖霊によってわたしたちを一つに結び合わせてください。人々が分断され、孤立し、真実の交わりが失われつつあるこの時代にあって、あなたが聖霊によってわたしたちを一つに結び合わせてください。

〇父なる神よ、あなたが独り子を賜るほどにわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもあなたの愛に満たされて、隣人を真実の愛で愛することができますように導いてください。

〇そして、主なる神よ、全世界の人々があなたの限りない愛を知り、互いに愛し合うことができますように、この地球上をあなたの愛で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月27日説教「聖霊降臨の日」

2020年9月27日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記16章9~12節

    使徒言行録2章1~4節

説教題:「聖霊降臨の日」

 使徒言行録2章には、五旬祭の日に、弟子たちの群れに聖霊が注がれて、エルサレムに世界最初の教会が誕生した時のことが描かれています。ここから、新しい神の救いの歴史が始まります。ある人はそれを「教会の時、聖霊の時、また福音宣教の時」と名づけています。わたしたちは今、その教会の時、聖霊の時、福音宣教の時に生きているのです。

神が天地万物の創造によってお始めになった世界と人間の救いの歴史は、イスラエルの民の選びと契約によって具体化されました。旧約聖書はその救いの歴史を語っています。そして今や、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神の救いの歴史はいわば最終段階に入り、最後の完成に向かって前進していくということを新約聖書は語っています。それが、ペンテコステの日の聖霊降臨と教会の誕生と教会の民による福音宣教として展開されていくことになったのです。

 ここに至る道のりを簡単に振り返ってみましょう。主イエスはユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時、金曜日に十字架につけられ死なれました。しかし、三日後の日曜日の朝に死の墓から復活されました。復活された主イエスは、40日間にわたって復活されたお姿を弟子たちに現わされました。これを復活の顕現と言います。40日目に、主イエスは弟子たちが見ている前で天に引き上げられました。これが昇天です。そして、それから10日間、弟子たちは主イエスが約束された聖霊降臨の時を祈りつつ待ちました。そのお約束どおり、ユダヤ人の五旬祭の日に、すなわち過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目の祭りである、小麦の初穂を神にささげる初穂の祭り・七週の祭りとも言われるペンテコステに、祈りつつ待っていた弟子たちの群れの上に聖霊が注がれ、エルサレム教会が誕生したということになります。

 この道のりを確認して分かる重要ないくつかの点を挙げてみましょう。一つには、主イエスの十字架の死と復活によって成就された神の救いのみわざは、主イエスの地上でのお働きの終わりである昇天の後にもなおも継続される、しかも、一つの民族だけでなく、全世界的な広がりで、全人類のための救いのみわざとして、継続されるということです。主イエスは1章8節で、弟子たちにこうお命じになりました。【8節】。イスラエルだけでなく、全人類のすべての人が、エルサレムから遠く離れている東の果てに住むわたしたち一人一人もまた、神の救いへと招きいれられているということです。

 第二点は、主イエスは天に昇られ、父なる神の右に座しておられますが、その天から、父なる神と共に聖霊なる神を派遣され、聖霊なる神によってご自身の救いのみわざを継続されるということです。主イエスはヨハネ福音書14章16節、また25節以下でこのように約束されました。【16~17節a,25~26節】。聖霊は主イエスとは別の弁護者・助け主、いわば第二の弁護者・助け主として、常に弟子たちと共にいてくださり、またすべての人と共にいてくださり、主イエスの救いのみわざを継続される神です。そのようにして、今こそ、父なる神と、み子なる神・主イエス・キリストと、聖霊なる神との三位一体なる神が、わたしたちの救いのためにお働きくださる時が到来したのです。

 そして第三に、主イエスの十字架の死と聖霊降臨が、ユダヤ人の祭りである過ぎ越しの祭りと五旬祭・初穂をささげる祭りと関連づけられているという点です。過ぎ越しの祭りはイスラエルの民が奴隷の家エジプトから救い出されたことを祝う祭りです。それが、わたしたちすべての人間を罪の奴隷から救い出す主イエスの十字架と密接に関連しています。それとともに、五旬祭・ペンテコステはイスラエルの民が約束の地カナンに入って最初に収穫する小麦の初穂を神にささげる祭りであったように、ペンテコステのこの日には弟子たちが聖霊に満たされて語った説教によって、主イエスを救い主と信じた人たちが洗礼を授けられ、聖霊の賜物を授けられ、神の新しい救いの民である教会へと招きいれられ、その救われた人間の魂の初穂を神におささげする日となったのです。今や、全世界の教会において、主イエス・キリストの十字架の血によって贖われ、救われた人の魂が神の国の収穫の初穂として神にささげられるようになったのです。

 では次に、ペンテコステの日の出来事はわたしたちに何を教えているのかを使徒言行録2章1~4節のみ言葉から聞き取っていきましょう。1節で「五旬祭の日が来て」と訳されている箇所は、本来は「満ちて」という言葉です。月日が巡ってその日がやってきたということではなく、神の救いのご計画の時が満ちて、主イエスが弟子たちに約束された時が満ちて、今や神が教会の時、聖霊の時、福音宣教の時を開始されるその時が満ちてという意味が込められています。主イエスの約束のみ言葉を信じて、祈りつつ待ち望む信仰者は決して空しい時を過ごすのはありません。神がその時を満たしてくださいます。

 1節の続きで、「一同が一つになって集まっていると」と書かれていますが、ここでは一つの群れとしてのつながりが三つの言葉で強調されています。「一同」「一つになって」「集まって」、4節でも「一同は」とあるように、ここにはすでに聖霊なる神のお働きが語られているのです。聖霊は人々を一つの群れ、共同体として結びつけます。この日、エルサレムで一つになって集まっていた人たちとは、1章15節に書かれていた120人ほどの兄弟姉妹たちで、その人たちの名前の一部が13節から紹介されていました。ペトロを始めとした主イエスの弟子たちは十字架の時にはみな逃げ去って散り散りになりました。主イエスの母マリアと家族はだれもが主イエスの宣教活動には批判的でしたし、参加もしませんでした。そのような人たちが今一つに集められているのです。ここにはすでに聖霊のお働きがあります。罪ゆえに神から離れていた人間、また罪ゆえに互いに分断され、地に散らされていた人間たちが、今聖霊によって一つに集められ、固く結ばれ、一つの群れとされるのです。

 中世始めの偉大な神学者アウグスチヌスは聖霊を愛のきずなと名づけました。聖霊は父なる神とみ子なる神・主イエス・キリストを結びくけるきずなであり、神と罪びとであるわたしたちを結びつけるきずなであり、また罪ゆえに互いに分断され、孤立化されている人間同士を結びつけるきずなです。

今の時、感染症の蔓延のためにお互いが社会的距離を保つことが求められていますが、このような時にこそ、わたしたち信仰者は聖霊によって固く結ばれ、一つとされている、聖霊による愛の交わりを与えられているということを強く覚えたいと思います。

 3節には、別の聖霊のお働きが語られています。まず、「一人一人の上にとどまった」という言葉から、聖霊は互いを固く結びつける働きをしますが、それと同時に、一人一人にふさわしい賜物をお与えくださるということが暗示されています。みんなを一つに結びつけて、個性も違いもなくするというのではなく、聖霊は一人一人の上に注がれ、その人その人にふさわしく、それぞれに違った賜物を分け与えつつ、その全体が調和を保ち、一つの群れとして成長していくようになる、それが教会で働かれる聖霊の特徴です。

 使徒パウロは手紙の中でそのことをしばしば語っています。コリントの信徒への手紙一12章4節以下を読んでみましょう。【4~11節】(315ページ)。教会員一人一人に与えられている種々の賜物はみな聖霊なる神から与えられた霊の賜物です。その賜物はそれぞれ違いますが、みな一つの主キリストの体なる教会を建てていくために用いられ、ささげられます。そのようにして、教会は一つの群れとして成長していくのです。

 パウロの書簡からも明らかなように、聖霊の賜物は特に言葉に関連していることが分かります。使徒言行録では、聖霊が「炎のような舌が別れ別れに現れ」と表現されているのはそのことです。神を賛美する言葉、主イエス・キリストの福音を語る言葉、祈りの言葉、悲しんでいる人を励ます言葉、孤独な人に優しく語りかける言葉、わたしたち一人一人にそのような言葉の賜物が与えられているのです。

 続けて4節には、ペンテコステの日に弟子たちに与えられた舌の賜物、言葉の賜物について語られています。【4節】。弟子たちに与えられた言葉の賜物は、具体的には5節以下に記されている奇跡、すなわち、多くの国々の言葉によって弟子たちが神の偉大なみわざを語るという奇跡となって現れ、また14節以下に記されているペトロの説教となって語られました。弟子たちに与えられたこのような言葉の賜物によって、この日エルサレムで3千人ほどの人が洗礼を受け、世界最初の教会がここに誕生したのです。そしてそれ以来、聖霊なる神はいつの時代にも、世界中至る所で、言葉の賜物を始めとして多くの賜物を信仰者にお与えくださり、主キリストの体なる教会を建てるために働いておられます。今日もそのお働きは続けられています。

 最後に、少し戻って2節の「天から」という言葉に注目したいと思います。聖霊は、天におられる父なる神と、天に昇られ父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストから派遣される霊であるということを前にお話ししました。聖霊は天から与えられます。天から与えられる恵み、力、賜物です。それは本来人間に備わっている能力とか、人間が努力して勝ち得た技術とかでは全くありませんし、あるいはまた人間の感情とか熱意とかでもありません。それは徹頭徹尾、天から、神から、主イエス・キリストから与えられる霊であり、霊の賜物です。

 したがって、だれもそれを誇ることはできませんし、それを自分だけのものにすることもゆるされません。主なる神の栄光と、主キリストの福音宣教と、教会の群れの成長のために用いられ、ささげられるべきものです。そうである時に、わたしたちの教会とわたしたち一人一人の信仰生活が豊かな実りを結ぶことになるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちに聖霊の賜物をお与えください。わたしたちの教会を聖霊の賜物で満たしてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月27日説教「聖霊降臨の日」

2020年9月27日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記16章9~12節

    使徒言行録2章1~4節

説教題:「聖霊降臨の日」

 使徒言行録2章には、五旬祭の日に、弟子たちの群れに聖霊が注がれて、エルサレムに世界最初の教会が誕生した時のことが描かれています。ここから、新しい神の救いの歴史が始まります。ある人はそれを「教会の時、聖霊の時、また福音宣教の時」と名づけています。わたしたちは今、その教会の時、聖霊の時、福音宣教の時に生きているのです。

神が天地万物の創造によってお始めになった世界と人間の救いの歴史は、イスラエルの民の選びと契約によって具体化されました。旧約聖書はその救いの歴史を語っています。そして今や、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神の救いの歴史はいわば最終段階に入り、最後の完成に向かって前進していくということを新約聖書は語っています。それが、ペンテコステの日の聖霊降臨と教会の誕生と教会の民による福音宣教として展開されていくことになったのです。

 ここに至る道のりを簡単に振り返ってみましょう。主イエスはユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時、金曜日に十字架につけられ死なれました。しかし、三日後の日曜日の朝に死の墓から復活されました。復活された主イエスは、40日間にわたって復活されたお姿を弟子たちに現わされました。これを復活の顕現と言います。40日目に、主イエスは弟子たちが見ている前で天に引き上げられました。これが昇天です。そして、それから10日間、弟子たちは主イエスが約束された聖霊降臨の時を祈りつつ待ちました。そのお約束どおり、ユダヤ人の五旬祭の日に、すなわち過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目の祭りである、小麦の初穂を神にささげる初穂の祭り・七週の祭りとも言われるペンテコステに、祈りつつ待っていた弟子たちの群れの上に聖霊が注がれ、エルサレム教会が誕生したということになります。

 この道のりを確認して分かる重要ないくつかの点を挙げてみましょう。一つには、主イエスの十字架の死と復活によって成就された神の救いのみわざは、主イエスの地上でのお働きの終わりである昇天の後にもなおも継続される、しかも、一つの民族だけでなく、全世界的な広がりで、全人類のための救いのみわざとして、継続されるということです。主イエスは1章8節で、弟子たちにこうお命じになりました。【8節】。イスラエルだけでなく、全人類のすべての人が、エルサレムから遠く離れている東の果てに住むわたしたち一人一人もまた、神の救いへと招きいれられているということです。

 第二点は、主イエスは天に昇られ、父なる神の右に座しておられますが、その天から、父なる神と共に聖霊なる神を派遣され、聖霊なる神によってご自身の救いのみわざを継続されるということです。主イエスはヨハネ福音書14章16節、また25節以下でこのように約束されました。【16~17節a,25~26節】。聖霊は主イエスとは別の弁護者・助け主、いわば第二の弁護者・助け主として、常に弟子たちと共にいてくださり、またすべての人と共にいてくださり、主イエスの救いのみわざを継続される神です。そのようにして、今こそ、父なる神と、み子なる神・主イエス・キリストと、聖霊なる神との三位一体なる神が、わたしたちの救いのためにお働きくださる時が到来したのです。

 そして第三に、主イエスの十字架の死と聖霊降臨が、ユダヤ人の祭りである過ぎ越しの祭りと五旬祭・初穂をささげる祭りと関連づけられているという点です。過ぎ越しの祭りはイスラエルの民が奴隷の家エジプトから救い出されたことを祝う祭りです。それが、わたしたちすべての人間を罪の奴隷から救い出す主イエスの十字架と密接に関連しています。それとともに、五旬祭・ペンテコステはイスラエルの民が約束の地カナンに入って最初に収穫する小麦の初穂を神にささげる祭りであったように、ペンテコステのこの日には弟子たちが聖霊に満たされて語った説教によって、主イエスを救い主と信じた人たちが洗礼を授けられ、聖霊の賜物を授けられ、神の新しい救いの民である教会へと招きいれられ、その救われた人間の魂の初穂を神におささげする日となったのです。今や、全世界の教会において、主イエス・キリストの十字架の血によって贖われ、救われた人の魂が神の国の収穫の初穂として神にささげられるようになったのです。

 では次に、ペンテコステの日の出来事はわたしたちに何を教えているのかを使徒言行録2章1~4節のみ言葉から聞き取っていきましょう。1節で「五旬祭の日が来て」と訳されている箇所は、本来は「満ちて」という言葉です。月日が巡ってその日がやってきたということではなく、神の救いのご計画の時が満ちて、主イエスが弟子たちに約束された時が満ちて、今や神が教会の時、聖霊の時、福音宣教の時を開始されるその時が満ちてという意味が込められています。主イエスの約束のみ言葉を信じて、祈りつつ待ち望む信仰者は決して空しい時を過ごすのはありません。神がその時を満たしてくださいます。

 1節の続きで、「一同が一つになって集まっていると」と書かれていますが、ここでは一つの群れとしてのつながりが三つの言葉で強調されています。「一同」「一つになって」「集まって」、4節でも「一同は」とあるように、ここにはすでに聖霊なる神のお働きが語られているのです。聖霊は人々を一つの群れ、共同体として結びつけます。この日、エルサレムで一つになって集まっていた人たちとは、1章15節に書かれていた120人ほどの兄弟姉妹たちで、その人たちの名前の一部が13節から紹介されていました。ペトロを始めとした主イエスの弟子たちは十字架の時にはみな逃げ去って散り散りになりました。主イエスの母マリアと家族はだれもが主イエスの宣教活動には批判的でしたし、参加もしませんでした。そのような人たちが今一つに集められているのです。ここにはすでに聖霊のお働きがあります。罪ゆえに神から離れていた人間、また罪ゆえに互いに分断され、地に散らされていた人間たちが、今聖霊によって一つに集められ、固く結ばれ、一つの群れとされるのです。

 中世始めの偉大な神学者アウグスチヌスは聖霊を愛のきずなと名づけました。聖霊は父なる神とみ子なる神・主イエス・キリストを結びくけるきずなであり、神と罪びとであるわたしたちを結びつけるきずなであり、また罪ゆえに互いに分断され、孤立化されている人間同士を結びつけるきずなです。

今の時、感染症の蔓延のためにお互いが社会的距離を保つことが求められていますが、このような時にこそ、わたしたち信仰者は聖霊によって固く結ばれ、一つとされている、聖霊による愛の交わりを与えられているということを強く覚えたいと思います。

 3節には、別の聖霊のお働きが語られています。まず、「一人一人の上にとどまった」という言葉から、聖霊は互いを固く結びつける働きをしますが、それと同時に、一人一人にふさわしい賜物をお与えくださるということが暗示されています。みんなを一つに結びつけて、個性も違いもなくするというのではなく、聖霊は一人一人の上に注がれ、その人その人にふさわしく、それぞれに違った賜物を分け与えつつ、その全体が調和を保ち、一つの群れとして成長していくようになる、それが教会で働かれる聖霊の特徴です。

 使徒パウロは手紙の中でそのことをしばしば語っています。コリントの信徒への手紙一12章4節以下を読んでみましょう。【4~11節】(315ページ)。教会員一人一人に与えられている種々の賜物はみな聖霊なる神から与えられた霊の賜物です。その賜物はそれぞれ違いますが、みな一つの主キリストの体なる教会を建てていくために用いられ、ささげられます。そのようにして、教会は一つの群れとして成長していくのです。

 パウロの書簡からも明らかなように、聖霊の賜物は特に言葉に関連していることが分かります。使徒言行録では、聖霊が「炎のような舌が別れ別れに現れ」と表現されているのはそのことです。神を賛美する言葉、主イエス・キリストの福音を語る言葉、祈りの言葉、悲しんでいる人を励ます言葉、孤独な人に優しく語りかける言葉、わたしたち一人一人にそのような言葉の賜物が与えられているのです。

 続けて4節には、ペンテコステの日に弟子たちに与えられた舌の賜物、言葉の賜物について語られています。【4節】。弟子たちに与えられた言葉の賜物は、具体的には5節以下に記されている奇跡、すなわち、多くの国々の言葉によって弟子たちが神の偉大なみわざを語るという奇跡となって現れ、また14節以下に記されているペトロの説教となって語られました。弟子たちに与えられたこのような言葉の賜物によって、この日エルサレムで3千人ほどの人が洗礼を受け、世界最初の教会がここに誕生したのです。そしてそれ以来、聖霊なる神はいつの時代にも、世界中至る所で、言葉の賜物を始めとして多くの賜物を信仰者にお与えくださり、主キリストの体なる教会を建てるために働いておられます。今日もそのお働きは続けられています。

 最後に、少し戻って2節の「天から」という言葉に注目したいと思います。聖霊は、天におられる父なる神と、天に昇られ父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストから派遣される霊であるということを前にお話ししました。聖霊は天から与えられます。天から与えられる恵み、力、賜物です。それは本来人間に備わっている能力とか、人間が努力して勝ち得た技術とかでは全くありませんし、あるいはまた人間の感情とか熱意とかでもありません。それは徹頭徹尾、天から、神から、主イエス・キリストから与えられる霊であり、霊の賜物です。

 したがって、だれもそれを誇ることはできませんし、それを自分だけのものにすることもゆるされません。主なる神の栄光と、主キリストの福音宣教と、教会の群れの成長のために用いられ、ささげられるべきものです。そうである時に、わたしたちの教会とわたしたち一人一人の信仰生活が豊かな実りを結ぶことになるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちに聖霊の賜物をお与えください。わたしたちの教会を聖霊の賜物で満たしてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月20日説教「神の国の福音を告げ知らせる主イエス」

2020年9月20日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章3~11節

    ルカによる福音書4章38~44節

説教題:「神の国の福音を告げ知らせる主イエス」

 主イエスのガリラヤ伝道の拠点は、ガリラヤ湖北西の湖岸の町カファルナウムでした。主イエスは安息日にこの町の会堂で説教され、また悪霊にとりつかれた人から悪霊を追い出し、彼をいやされました。主イエスは安息日の主として、神の権威あるみ言葉を語られ、またそのみ言葉の力で悪霊に勝利されたということがルカ福音書4章31節以下に書かれていました。

 次の38節にはこうに書かれています。【38節】。主イエスは安息日の礼拝を終えて、シモンの家にお入りになりました。シモンとは5章で主イエスの12弟子の一人となるシモン・ペトロのことです。シモンはこの家で奥さんの母と同居していたようです。のちにはこの家が主イエス一行のガリラヤ伝道期間の宿となったのではないかと推測されています。奥さんの母は高熱が長く続く病気で苦しんでいました。たぶんマラリアのような病気だったと思われます。主イエスはこの家でしゅうとめの病気をいやされ、またその日の夕方からは多くの病気の人をいやされたということがここには書かれています。

 ここでまず初めに注目したいことは、主イエスは安息日の礼拝で神の権威あるみ言葉を説教され、またその力あるみ言葉によって悪霊に勝利されましたが、礼拝が終わって会堂を出てからも、シモンの家でもまた安息日の主として働かれたということです。礼拝が終われば、主イエスのお働きが終わり、どこかでくつろがれるというのではありませんでした。主イエスは安息日の会堂でも、礼拝が終わってからの家々でも、安息日の主として、メシア・キリスト・救い主として、神の救いのみわざをなし続けられます。それだけではありません。40節に「日が暮れると」とありますが、安息日の日没から次の日が始まります。新しい一日が始まります。安息日の翌日にも、主イエスはなおもお働きになります。その日にも、またその次の日にも、いつでも、毎日、主イエスはわたしたちの主として、救い主として、家々で、町々で、至る所で、すべての人の救い主として、神の救いのみわざをなし続けられるのです。主イエスは主の日の礼拝で主であるのみならず、礼拝堂を出てからのすべての時にも、家でも、職場でも、すべての場所でも、わたしたちの主であり続けられるのです。

 主イエスはシモンの家に入られました。彼のしゅうとめが高い熱で苦しんでいたと書かれていますが、苦しんでいたのは彼女だけではなく、おそらくシモンも彼の妻も苦しんでいたのだと思います。家族のだれかが重い病気になることはその家族全体にとって大きな痛みです。そのような家庭の中に主イエスが入って来られました。主イエスがその家庭の主となられます。その時、わたしたちは家族の重荷や痛みのすべてを主イエスに委ねることだできます。もし、自分の力で、家族だけの力でその重荷や痛みに耐えねばならないのだとしたら、時としてわたしたちは疲れ、絶望してしまうほかにないでしょう。けれども、わたしたちはそれを主イエスにお委ねすることができます。主イエスがわたしたちに代わってその重荷を負われ、その痛みを引き受けてくださいます。

 「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」とあります。それまでおそらく医者や祈祷師などに頼って病気のいやしを願ったことでしょう。しかし、その願いは果たされませんでした。ところが、今や彼らの願いを聞き入れてくださる救い主がこの家に入って来られました。【39節】。主イエスは病める人の枕もとに立たれます。その病をいやす救い主として。主イエスはすべての病める人の枕もとにも立っておられます。その人の救い主として。

 ここでも、主イエスがお語りになるみ言葉の権威と力が強調されています。悪霊を追い出し支配された主イエスは、すべての病をも支配され、その病から解放されます。わたしたちはこのような主イエスのみ言葉を信じて、自分のすべての重荷やわずらい、病や苦しみを主イエスにお委ねすることができるのです。

 「彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」。彼女がいやされたのは、いやされた健康な体で彼女自身が楽しむためではありませんでした。主イエスにお仕えし、すべての人に仕えるためでした。このことをわたしたちは見逃してはなりません。わたしたちが主イエスと出会い、主イエスの福音を聞いて救われ、あるいは病がいやされるのも、同じ目的を目指しています。また、同じ目的を目指して生きることこそが、本当の意味で救われ、いやされたことになるのです。「一同をもてなした」と書かれています。もしかしたらここには、のちになって主イエスと12人の弟子たちがガリラヤ伝道の期間中にシモンの家としゅうとめが主イエスの一行をもてなすようになったことをあらかじめ予想しているのかもしれません。

 40節からは安息日の翌日のことが書かれています。安息日には歩く距離が制限され、また病人を運ぶことは安息日に禁じられている労働と見なされていましたので、夕方、日没になって安息日が終わってから、いろんな病気に苦しむ多くの人たちが主イエスのもとに、家族や友人に連れられてやって来ました。主イエスはその一人一人に手を置かれ、いやされました。安息日の救い主・主イエスは他のすべての日々にもすべての人にとっての、すべての病める人にとっての救い主であられます。主イエスはいつでも、どこでも、だれでも、病める人、いやされなければならない人、救いを必要としている人がいる所では、昼も夜も、休みなく働かれます。

 【41節】。33節以下で悪霊に取りつかれた人の場合にもそうであったように、悪霊は人間以上の能力を持っていて、主イエスがメシア・キリスト・救い主であることを、この時点ですでに見抜いていました。「主イエスが神のみ子であり、メシア・キリストである」という信仰告白こそがわたしたちの信仰告白の中心であることは言うまでもないことですが、そのことをユダヤ人のだれ一人としてまだ悟っておらず、信じていなかったこの初期のころに、悪霊がすでに知っていたということは、驚くべきことでありまた注目すべきことです。けれども、悪霊は主イエスが自分たちを滅ぼすほどの権威と力とを持っていることを知って恐れているだけです。それは本当の信仰告白ではありません。主イエスは悪霊の真実の信仰を伴わない偽りの信仰告白をおゆるしにはなりませんでした。主イエスは悪霊を支配しておられます。

 次の42節以下は、わたしたちがきょう学んできた38節以下と密接に関連しています。【42節】。主イエスはおそらく一晩中、多くの病気の人たちをいやされ、朝になって「人里離れた所へ行かれた」とあります。人里離れた所とは、荒れ野、砂漠地帯を意味しています。何のためでしょうか。疲れた体を休めるためでしょうか。並行個所のマルコ福音書1章35節には、はっきりと祈るためであったと書かれています。ルカ福音書でもこのあとに、主イエスが人々から離れて山に登られ、一人で祈られるお姿をしばしば見ることができます。主イエスは多くの悩める人たちのために寝る間も惜しんでお働きになりますが、主イエスにとってそれ以上に大切な時間は、お一人で父なる神と対面し、祈ることでした。主イエスは父なる神のみ心なしには、何をもなさいません。父なる神からいただくみ言葉の権威と力によって、また聖霊によって、主イエスはすべての救いのみわざをなさいます。それゆえに、父なる神への祈りこそが主イエスのお働きの源なのです。

 ここにはもう一つの意図があったように思われます。それは人々から一時遠ざかるということです。人々は病気の人たちのいやしを求めて主イエスのもとへとやって来ます。主イエスはその人たちをおいやしになります。けれども、主イエスはその人たちを避けて、その人たちから遠ざかろうとしておられるのです。人々は主イエスを自分たちのそばに引き留めようとしていますが、主イエスは43節でこのようにお答えになりました。【43~44節】。

ここで二つのことが明らかになります。一つには、人々は主イエスのお働き、救いのみわざを誤解する恐れがあったということです。彼らは病気に苦しむ人を連れてきて、主イエスにいやしてもらうことを願っていました。自分たちの願いをかなえてもらうことが彼らの主たる目的でした。もちろん、主イエスは救い主として人々を苦しめていたすべての悪しき霊と病に勝利されます。人々をそれらの支配から解放されます。イザヤ書61章で預言されていたように、「貧しい人が福音を聞かされ、捕らわれている人が解放され、圧迫されている人が自由を与えられる」(4章18節以下参照)ために、主イエスは父なる神から派遣されたのです。しかし、病気のいやしを求めてくる人たちは、主イエスがメシア・キリスト・救い主であるということを十分に信じないまま、ただいやしの奇跡だけを求めてやって来ます。それを見た人たちも、主イエスのいやしの奇跡だけを期待するようになっていきます。主イエスは人々のこのような誤解を解かなければなりません。そのために、主イエスはひとたび人々から遠ざかり、主なる神のもとへと逃れます。父なる神のみ心が何であるのかをはっきりと確かめるためです。

それとともに、主イエスは43節でご自身の主たる目的をはっきりとお語りになりました。それは、神の国の福音を多くの町々村々で告げ知らせることです。このために主イエスはこの世へと派遣されたのです。主イエスのすべての説教、いやしの奇跡、あるいは他の様々な奇跡も、神の国の福音を全世界に宣べ伝えるためなのです。そのために、主イエスは十字架への道を進み行かれました。主イエスの神の国の福音宣教の使命、務めは十字架によってその最終目的に達し、成就するのです。

わたしたちはここで、福音書を読むにあたっての、最も基本的で重要な姿勢を確認しておかなければなりません。それは、福音書に書かれているすべてのことは、福音書だけでなく他の聖書もそうなのですが、主イエスの十字架の光の下で読まなければならないということです。特に、病気のいやしや他の奇跡のみわざは十字架の光なしには正しく理解されません。多くの人は奇跡だけに目を奪われて、十字架を見ようとはしません。奇跡は神の国の福音の目に見えるしるしです。重要なのはしるしではなく、神の国の福音、十字架の福音そのものです。

主イエスは十字架の死によって、すべての悪しき霊や悪や罪を打ち破り、それらに勝利され、神の新しいご支配である神の国を開始されました。そして、信じる人たちの罪をゆるし、神の国の民の一員としてお招きくださるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちをすべての悪と罪から解放してくださり、主キリストに

ある自由へとお招きください。そして、喜んで神と隣人のために仕える人にしてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月13日説教「神の祝福と契約」

2020年9月13日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記9章1~17節

    ローマの信徒への手紙3章21~26節

説教題:「神の祝福と契約」

 創世記8章の終わりに書かれていたように、大洪水のあと地が乾いた時、神はノアに箱舟から出るように命じました。ノアは神に命じられたとおりに、彼の家族、動物たちと一緒に箱舟を出ました。大洪水のあと、新しい世界に住むノアとその子孫との第一歩は、神の言葉によって始められました。創世記6章から9章に描かれている大洪水物語りの中でノアの態度で一貫していること、すなわちノアは一言も言葉を発せず、ただ主なる神だけが語り、ノアは黙々として神の言葉に聞き従う、このノアの姿勢は、当然洪水以後も貫かれます。そのノアが、箱舟から出てまず最初にしたことは、祭壇を築いて神を礼拝することでした。神礼拝こそが、新しい世界で生きるノアとその子孫の生きる基本であると聖書は教えています。きょうの主の日に、わたしたちが教会に集い、神を礼拝することから新しい一週の歩みを開始するということは、この聖書の教えに従うことなのです。

 ではさらに、大洪水以後の新しい世界に住んでいるわたしたちがどのように生きるべきなのかを9章のみ言葉から聞いていきましょう。【1節】。これは創世記1章28節のみ言葉とほとんど同じです。神が最初に人間を創造された時、人間アダムに祝福のみ言葉を語られたように、大洪水以後の新しい世界においても、ノアとその家族に同じように祝福の言葉をお語りになります。人間に対する神の祝福の言葉は、神の厳しい裁きのあとでもなおも失われることありません。神は大洪水以後も、人間が生み、増え、地に広がることを望んでおられます。神は大洪水以後も人間の命の主であられます。ノアの大洪水以後のすべての人間の命には、この神の祝福と恵みがあります。あるいはこう言うこともできるでしょう。人間はこの神の祝福がなければ、その命をながらえることも、増やすこともできないのだと。

 次の2節も1章28節で語られていた内容と一致します。【2節】。人間は大洪水以後も、神が創られたすべての生き物と被造世界全体を造り主なる神のみ心に従って治め、管理する務めを神から託されています。人間はここでもすべての被造物のかしらであり頂点であるという、その立場は失っていません。

 ただ、ここでは新しい内容が付け加えられています。【3節】。大洪水前の人間は1章29節に書かれていたように、穀物や果実が食物として与えられていましたが、洪水後は動物の肉が新たな食物として与えられました。なぜこのような変更がなされたのかについては書かれていませんが、ただはっきりしていることは、これは神の許可であり、神から与えられた恵みだということです。人間は自分の欲望のままに動物の命を奪ってよいということではなく、動物の肉を食べてよいということではありません。それは神から与えられた許可なのであり、賜物なのです。すべての生き物の命の主は神のみであるということを決して忘れてはなりません。

したがって、全く無条件で人間が肉を食べてもよいとされているわけではありません。神は制限を設けられます。【4節】。血には命があると考えられていました。命はすべて神のものであり、神にお返ししなければなりません。それゆえに、人間は肉を血を含んだままで食べてはならないと命じられています。人間は動物の肉を食べることは許されていますが、その場合でもすべての命が本来神に属するものであるということを忘れてはなりません。

そのことは、ことさら人間の命に当てはまります。【5~7節】。神はここで人間の命が特別に神のものであるということを強調しています。すべての生き物の命がそうであるように、いやそれ以上に、人間の命は神の所有であり、神のみ手の中にあるのです。神は人間の命をご自身のみ手をもって守られます。もし人間の命を奪うものがあれば、神ご自身が報復されると言われています。

人間の命の尊厳性とか、不可侵性というのは、人間自身の中にその理由があるのではなく、神にあります。神が人間に命を与え、しかも人間をご自身のかたちに似せて創造されたゆえに、人間の命は限りなく尊く、重く、だれもそれを侵害してはならないのです。

ここでは、人間の命はただ人間の命だけによって賠償され、償われ、支払われるということが強調されています。これは、人間の命は他のいかなるものによっても代用されない、取り変えられないほどに尊く、値が高く、かけがえのないものであるということを強調しているのです。人間の命は、例えば何か経済的な価値観で測られたり、商取引の対象にされたり、他の何かと取り換えることは決してできません。人間の命はそれ自体で人間の命ほどに尊く、他と比べ物にならないほどに値が高いということです。

問題となるのは6節のみ言葉です。【6節a】。これを、殺人者には人間の手によってその人を殺してもよいという神からの委託と理解し、後の死刑制度を容認するものと単純にとらえてよいかどうか議論されています。あるいは、この個所からもっと積極的な意味を読み取って、わたしたち人間が他者の命をかけがえのない尊いものとして守り、保護すべきであり、もし他者の命が奪われるような時には、それに抵抗し、その命を取り戻すために努めるべきことを教えていると理解する人もいます。いずれにせよ、このみ言葉から、人間が人間の命を自由に操作することができるという結論を読み取ることはすべきではありません。ここで言われている中心的なことは、神はすべての人間の命をみ手に握っておられ、見守っておられるということです。

わたしたちはここで、さらにこう付け加えなければなりません。人間の命は神のみ子主イエス・キリストの十字架の血によって贖い取られた命であるゆえに、その命はより一層限りなく尊く、重いものであるのだと。主イエスはご自身の神のみ子としての汚れなき尊き御血をもって、わたしたちを罪の奴隷から買い戻してくださいました。それゆえに、わたしたちは人間の命を、自分の命をも他人の命をも、他の何ものにも勝って尊く、重いものとして、それを守り、助け、支え、養うべきであり、もしそれを軽視したり傷つけたり、奪い取ったりするならば、それは神ご自身に対する重大な罪なのだということを忘れてはなりません。

8節からは、神がノアとのちの子孫、全人類と結ばれた契約のことが語られています。これはノアの契約と呼ばれています。ノアの契約は、聖書の中に書かれている神が人間と結ばれた最初の契約です。このあとの主な契約を挙げてみましょう。創世記12章以下には神が族長アブラハムと結ばれた契約、すなわち、神はアブラハムとその子孫とを祝福され、その子孫を増やすという契約、これをアブラハム契約と言います。次には、出エジプト記20章以下で神がシナイ山でモーセを通してイスラエルの民と結ばれた契約、すなわち、神はイスラエルの民を選ばれ、この民をご自身の民とされるという契約、これをシナイ契約と言います。さらには、サムエル記上7章で神が預言者ナタンを通してダビデと結ばれた契約、すなわち、神はダビデの王位をその子孫に継がせ、ダビデの王座は永遠に続くであろうという契約、これをダビデ契約と言います。これらの旧約聖書のすべての契約は、やがて主イエス・キリストによってすべてが完全に成就され、新しい契約、すなわち新約聖書の名前のもとになった新約となりました。すなわち、神がご自身のみ子なる主イエス・キリストの十字架の血によって全人類と結んでくださった救いの契約です。創世記9章のノアの契約もこの主イエス・キリストの十字架による契約を目指しているのです。

では、ノアの契約の内容を見ていきましょう。まず、神とノアとの契約は神が立てる契約であるということが何度も強調されている点に注目したいと思います。9節「わたしはあなたたちと契約を立てる」、10節も主語は神です。「わたしが地のすべての獣と契約を立てる」。11節「わたしがあなたたちと契約を立てたならば」、12節「わたしが立てる契約のしるしは」、14節、16節、17節でも、すべて神が主語、神が契約を立てると言われています。

一般的に契約とは、AとBとが相互に約束事を決め、相互にその約束を守り、実行することを誓い合うのですが、神の契約の場合には、最初のノアの契約もそうですが、アブラハム契約もダビデ契約もシナイ契約も、そしてまた新しい契約でも、すべて神が立て、神が締結され、神がその約束を守られ、そして実行されるという点に大きな特徴があります。ノアとその家族は、またわたしたちすべての人間はその神の契約に招きいれられていると言うべきでしょう。ここに、神がお立てくださった契約の最も大きな恵みがあるのです。たとえ人間たちがその契約を忘れたり、それに違反したりすることがあっても、神は常にこれをみ心に留められ、思い起こされ、契約を実行するために人間たちを呼び求め続けられるのです。

ノアの契約の中心は11節と15節に繰り返されています。【11節、15節】。神はノアの時代に起こしたような大洪水によっては、地とそこに住む生き物をことごとく滅ぼすようなことは二度と決してなさらないと言われます。それは神の固い決意です。洪水後も、人間は生まれながらにして罪と悪に染まっていると、8章21節に書かれていました。しかしながら、どれほどに人間の罪が地に満ちても、再び大洪水を超すことはなさらないと言われます。神は忍耐をもって罪と悪に満ちたこの世が滅びることがないように支え、見守っていてくださるのです。

ノアの契約のもう一つの特徴は、これが永遠の契約であるということです。12節には「代々とこしえにわたしが立てる契約である」と言われ、16節では「永遠の契約」と言われています。この契約は現代のわたしたちにも有効です。終わりの日に神の国が完成される時まで有効です。

ノアの契約にはしるしが伴っています。【13~15節a】。ノアの契約のしるしは虹です。虹は人間にとっての目に見えるしるしであり、神の契約の保証であるとともに、それはまた神ご自身の決意の固さ、神の決断と神の強い意志のしるしでもあります。神は二度と地を滅ぼすことはなさらないという約束をお忘れにならないためのしるしでもあるのです。大雨はいつまでも降り続くことはありません。雨の後には必ず太陽が昇り、虹が出ます。神は終わりの日に神の国が完成される日まで、この地とこの地に住むすべての生き物たちを、み手をもって守っておられます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神様、あなたがみ子の十字架によってわたしたちと結んでくださった救いの契約に、どうかわたしたちがいつまでもとどまり続けますように。そして、多くの人々がこの契約の中に招きいれられますように。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。