3月1日説教「人間の罪と神の裁き」

2020年3月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章8~19節

    ローマの信徒への手紙8章1~11節

説教題:「人間の罪と神の裁き」

 蛇の誘惑に負けて神に禁じられていた木の実を取って食べ、罪を犯した人間アダムとエバは、神のみ前から身を隠して生きる者となりました。「アダムよ、お前はどこにいるのか」との神の語りかけに対して、アダムは10節でこのように答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」けれども、この答えは神の問いかけに対する正しい応答でないことは明らかです。次の11節のみ言葉がアダムの誤りを二つの点で浮かび上がらせます。【11節】。

一つは、彼が裸であったので、神を恐れて身を隠したという理由が正しくないということです。アダムが裸であることを知ったのは、7節に書いてあったように、善悪の知識の木の実から取って食べ、彼の目が開かれたからであって、もともとアダムもエバも裸であったけれど、二人ともそれを恥ずかしがりなしなかったと2章25節に書いてありましたから、裸であることは神のみ前でも一緒に生活していたエバの前でも決して恥ではなく、恐れでもなかったのです。

そうであったのに、お互いが恥を覚え、また神のみ前で恐れを覚えるようになったのは、神の戒めに背いて罪を犯したからにほかなりません。そこで神は「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と、彼らの背きの罪を直接に指摘されます。彼が神を恐れなければならなくなったのは、彼が神の戒めを破って罪を犯したからにほかなりません。神はアダムにその罪を自覚させるのです。

ここでの、アダムの正しい応答はどうあるべきか、その答えは、これまで創世記を学んできたわたしたちには、また主イエス・キリストによって罪ゆるされていることを知らされているわたしたちには、その答えが分かります。それは、神のみ前にひれ伏し、罪を告白をし、悔い改めることにほかなりません。きょうの礼拝の初めに、交読詩編6編で告白したように、「主よ、怒ってわたしを責めないでください。主よ、憐れんでください。主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。わたしを救ってください」と祈り求めることこそが、神によって罪を知らされたアダムに求められていることなのです。

しかし、続けてわたしたちが12節以下で聞くように、アダムとエバは神のみ前に罪を告白し、悔い改めて神に立ち帰ることができませんでした。ここで、わたしたちはあらかじめ一つのことを確認しておくべきでしょう。神の戒めに背いて罪を犯し、神から離れてしまった人間は、だれも自分の意志や自分の努力で自らの罪を知ることはできないし、罪を悔い改めて神に立ち帰ることもできないのだということです。人間はただ罪の道を進むことしかできず、罪に罪を重ねて、ついには滅びに至ることしかできないのだということでです。

使徒パウロはローマの信徒への手紙7章18節以下でこのように語っています。【18~20節】(283ページ)。そして【24~25節a】。わたしたち人間は主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされていることを信じる時にはじめて、自分の罪に気づかされ、また、神の悔い改めへの招きに応えることができるのです。

では、創世記に戻りましょう。【12節】。神の語りかけによって自らの罪に気づかされたアダムはどうしたでしょうか。わたしたちが内心期待していたように、自分の罪を認め、その責任を取ることができたでしょうか。否、そうではありませんでした。彼は自分で自分の罪の責任を負うことができなかっただけでなく、その責任を妻であり、エデンの園で共に生きるべきパートナーであるエバに負わせようとします。いや、それだけではありません。あたかも自分の罪の責任が神にあるかのように、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」と言うのです。何という言葉でしょうか。「あの女に責任がある。しかも、あの女をわたしの妻としたのはあなたなのだから、最終的にはあなたにわたしの罪の責任がある」と言うのです。何と恐るべき、人間の罪の姿でしょうか。

ここには人間の罪が行き着く究極の姿が表れています。それは、神に罪ありとし、神を裁こうとする人間の傲慢です。自らの罪を覆い隠すために、造り主なる神に罪の全責任を負わせようとするのです。そのような人間の罪の究極的な姿を、わたしたちは神のみ子主イエス・キリストの十字架に見るのです。神がイスラエルと全人類を罪から救うためにこの世にお遣わしになったメシア・キリスト、罪なき聖なる神のみ子を、人々は偽り者、神を冒涜する者、犯罪人として裁き、十字架に引き渡したのです。ここに、人間の罪の頂点があります。けれども、神はこの人間の罪の頂点を救いの中心に変えてくださいました。

アダムはエバを「女」と呼び、彼女に罪の責任を負わせています。エバもまた13節で自分の罪の責任を蛇に負わせようとしています。【13節】。ここで完全にアダムとエバの関係はこわれています。アダムとエバはお互いに向かい合う、差し向かいの関係ではなくなっています。アダムにとってエバは神がお与えくださったふさわしい助け手、パートナー、共に生きるべき連体的人間でした。けれども、今や、罪によって、その関係は崩れ去りました。エデンの園で神のみ言葉を共に聞き、共に神に仕えるように創造された人間アダムとエバは、今や、相対立する関係、敵対する関係となり、分裂してしまいました。罪によって神との関係がこわれると、必然的に人間と人間との関係もこわれてしまいます。彼らは一緒になって罪の底に沈んでいくしかできません。彼らは共に罪に抵抗し、あるいは共に罪を告白し、悔い改めをする信仰の仲間ではありません。自分の罪の責任を自分で負うことをせず、他者にその責任を転嫁し、人間の関係を分断することしかできない、罪の悲惨な姿をわたしたちはここに見るのです。これが、人間の罪の現実です。

14節からは、神の裁きが語られます。【14~15節】。まず、蛇に対する神の裁きが語られます。ここで神は蛇に対しては一方的に裁きと呪いの言葉を語っています。アダムとエバに対しては9~13節で、神は彼らと対話をしておられます。その対話の中で神は、人間が悔い改めて神に立ち帰る機会を与えておられたのだということをわたしたちはすでに聞き取ってきました。ここではまだ神と人間との特別に近い関係がそのまま維持されていることに気づきます。神に創造された被造物の中でただ人間だけが神と対話できます。人間が罪を犯した後でも、神はその神と人間との特別な関係を人間から取り去りはしていません。ここにすでに、罪を犯した人間への神の愛と憐れみがあることを知らされるのです。

それに対して、蛇には何の弁解の余地も与えられずに、裁きと呪いの言葉が直接に語られています。蛇は野の獣の中で呪われたものとなったと言われているのは、地を這いまわるその姿が不気味に思われたという理由からだけでなく、それ以上に、蛇が人間を罪へと誘惑する者となったからです。蛇そのものがサタンと同じだと言われている箇所は聖書にはありませんが、その不気味な姿を隠しながら、甘い言葉で人間を罪に誘惑する得体のしれないサタンや悪魔の姿を蛇は象徴的に表していると言えます。

15節では、そのサタンの象徴である蛇と、アダムの子孫である人間との果てしない戦いについて語られています。アダムとエバの罪以来、人間は常にサタンの誘惑にさらされ、罪との戦いをしなければならなくなりました。時に血を流し、ときには命をかけた罪との果てしない戦いが、人類の歴史の中で繰り返されていくのです。その戦いがいつまで続くのか、その結末がどうなるのか、わたしたちはすでにその答えを知らされています。わたしたちの救い主なる主イエス・キリストが、罪と死とに勝利され、今は天におられ、父なる神の右に座しておられ、この地を支配しておられることを。

16節では女エバに対する裁きが、17~19節では男アダムに対する裁きが語られます。この個所を読むにあたって、わたしたちがあらかじめ心得ておくべきことは、ここから聖書が女性とはこのような者だとか、男性とはこのような者だと言っていると単純に結論づけるべきではないということです。ここに書かれていることは神の裁きとしての男アダムと女エバの姿であって、わたしたちはこの個所を、主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされている者たちとして、主キリストのうちに置かれている男と女を読み取っていくべきだということです。

さらに、それ以上に重要なことは、神が人間の罪をお裁きになるのはなぜかということです。その意味を考えてみましょう。一つには、神は人間の罪を見過ごしにはなさらないということです。神は罪を憎まれます。なぜならば、神はご自身の戒めが人間の罪によって軽んじられ、踏みにじられることをおゆるしにならないからです。神の戒め、神のみ言葉は神の意志であり、神のみ旨であり、それゆえに命と恵みに満ちています。それは、本来は、人間を生きた存在にし、人間を喜びと感謝で満たすものです。神はご自身のみ言葉の真理を守られます。また、神は義なる神であり、ご自身の義をお守りになります。神の義が、人間の罪や邪悪や不正によって傷つけられることをおゆるしになりません。神はご自身が義なる存在であると同時に、人間との間の義なる関係をもお守りになられます。

したがって、神が人間の罪をお裁きになるのは、罪を犯した人間に対する怒りとか復讐心とか、単なる懲らしめとか罰ではありません。神の裁きは、むしろ、罪びとを罪の中に放っておかれず、罪の中で滅びてしまうことをおゆるしにならない、神の義と愛と憐れみによるのだということをわたしたちはあらかじめ確認しておかなければなりません。

そして、そのような神の罪びとに対する裁きと、その中にある神の義と愛と憐れみとが最も鮮やかに現わされたのが、主イエス・キリストの十字架なのです。主イエス・キリストの十字架の死は、人間の罪に対する神の最も厳しい裁きでした。神はその罪びとに対する最も厳しい裁きをご自身のみ子に下したもうたのです。主キリストはわたしたち罪びとが受けるべき神の厳しい裁きを、わたしたちに代わってお受けになられ、それによって、わたしたちを神の怒りと呪いから救い出し、わたしたちを罪の奴隷から贖い出してくださったのです。この主キリストの福音から、きょうのみ言葉で語られているアダムとエバに対する裁きを読んでいかなければなりません。

15節では、女エバに対する神の裁きが二つ語られています。一つは、子どもを出産する時の苦しみ、もう一つは男が女を支配するという関係です。出産の時の苦しみについて、主イエスはヨハネによる福音書16章21節以下で弟子たちにこのように言われました。「女が子どもを産むとき、苦しむけれども、子どもが生まれると、それが大きな喜びに代わる。それと同じように、わたしが十字架で死ぬときにはあなたがたは悲しむ。けれども、復活したわたしに再会するとき、あなたがたは喜びに満たされる」と。出産の苦しみよりも、主キリストにある新しい命の誕生の喜びの方がはるかに大きいと主イエスは言われます。

男と女の支配関係については、主キリストにあっては男も女もない、ただお一人、主キリストだけがすべての人の唯一の主であるということをわたしたちは知らされています。男と女は共に一人の主イエス・キリストにお仕えしていく一つの信仰者の群れとなるのです。

16節以下の男アダムに対する裁きは労働の苦しみが主な内容になっています。男は額に汗して荒れ地を耕し、パンを得るために一生労苦しなければならない。そしてついには、死んで土にかえっていくほかないと語られています。主イエスはマタイによる福音書4章4節で、悪魔の誘惑をお受けになった時にこのように言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と。主イエス・キリストの福音を信じる信仰者には、この世の朽ち果てるしかない食物のために生きるのではなく、永遠の命に至る神のみ言葉によって生きる道が備えられています。

(執り成しの祈り)

〇わたしたちの命と死とをみ手のうちのご支配しておられる全能の父なる神よ、どうぞわたしたちに天からのまことの命のパンをお与えください。わたしたちが、永遠のみ国を待ち望みつつ、あなたのみ言葉に聞き従っていく信仰の道を進むことができますように、お導きください。

〇主なる神よ、いま世界が恐れと不安の中で混乱しています。どうぞ、あなたのいやしと平安をお与えください。特に、弱い立場にある人たちをお守りください。

〇全世界のすべての国民、すべての人々に主キリストにある救いの恵みと平和をお与えくださいますように、切に祈ります。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月23日説教「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

2020年2月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:エレミヤ書1章4~10節

    フィリピの信徒への手紙3章1~11節

説教題:「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

 「喜びの書簡」と言われているフィリピの信徒への手紙3章1節で、わたしたちは何度目かの「喜びなさい」という勧めを聞きます。「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」。すでに、2章18節で、「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と勧められていました。このあとでは、4章4節で、「主において常に喜びなさい」と勧められています。勧められていると言いましたが、文法的には命令形です。喜ぶことが命じられています。

使徒パウロがここで「喜べ」と命じているのは、その人の性格が楽観的で、いつも人生を陽気に楽しんでいれるからとか、その人の状況が喜ばしいからとか、その人が他の人に比べて喜ばしい環境にあるからとか、そのような理由によるのではありません。たとえ今、あなたが悲しみや苦しみのただ中にあろうとも、恐れや不安があなたを覆っていようとも、それでもなおもあなたに命じる、「あなたは喜べ、喜んでよい、喜ぶことがゆるされている」という、喜びへの招きをパウロはここで語っているのです。

 それはどのような喜びでしょうか。「主において」がキーワードです。主イエス・キリストにある喜びです。主イエス・キリストにつながれているとき、主キルストとの交わりの中で、主キリストから与えられる喜びです。わたしたちはその喜びの内容をいくつもの表現で言い表すことができるでしょう。主キリストによって罪から救われている喜び。主キリストによって愛され、見いだされている喜び。主キリストによって神の子たちとされ、神の国の民の一人とされている喜び。主キリストによって生きる目標と希望とを与えられている喜び。主キリストによって、朽ち果てる命ではなく、枯れることもしぼむこともない永遠の命を約束されている喜び。それゆえに、貧しく弱く迷いやすいわたしが、神と隣人とに喜んで仕えていくことがゆるされている喜び。

それは何という、豊かな、大きな、深く、そして高価で尊く、永遠の喜びであることでしょうか。この世でわたしたちが経験するどんな喜びよりもはるかに高い天からくる喜び、この世の憂いや悲しみ、不安や恐れのすべてを追い払い、それらに勝利する喜び、唯一無比なる喜び、そのような喜びへとパウロはわたしたちを招いているのです。彼はこのあとで、彼自身が主キリストによって与えられたこの大きな喜びのゆえに、他のすべてのものを喜んで投げ捨てたということを語るのを、わたしたちは聞くことになります。そこで再びこの喜びについて考えることにしましょう。

2節から急に語調が変化します。【2節】。ここでまず問題となるのは、1節の後半の「同じことをもう一度書きますが……」はどの内容のことを言っているのかということです。「喜びなさい」ということを何度言っても、それは煩わしいことだとは言えないので、その内容は2節以下を指していると考えられます。「同じこと」が2節以下で語られているフィリピ教会の間違った信仰理解に対する警告を指しているとすれば、同じような内容がこの手紙には見当たりませんので、パウロはすぐ前にもフィリピ教会にあてて別の手紙を何度か書いており、その中で間違った信仰理解について注意するようにとすでに警告していたということになります。

パウロの宣教によって建てられ、またパウロと最も良い関係にあって、獄中のパウロのために祈り、支援物資を贈っていたフィリピ教会でしたが、教会の内外からの攻撃にさらされており、試練の中で厳しい信仰の戦いをしていたという現実を、わたしたちはここで知らされるのです。

パウロがここで「あの犬ども。よこしまな働き手たち」という、多少荒々しい言葉を用いて批判しているフィリピ教会の指導者たちはどのような間違った信仰理解をしていたのでしょうか。彼らは「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と言われています。つまり、彼らは割礼の儀式を重んじ、割礼を誇っている人たちでした。割礼はイスラエルの民ユダヤ人が神に選ばれた民であることをしるしづける儀式でした。創世記17章で神はアブラハムにお命じになりました。「イスラエルの家に生まれた男子はみな生後8日目に、男子の性器の皮の一部を切り取りなさい。これがわたしとイスラエルの民との間の永遠の契約のしるしとなる」と。

主イエスご自身も生まれて8日目に割礼を受けられたということを、わたしたちはルカによる福音書2章21節で聞きました。主イエスはイスラエルの律法の下にお生まれになり、契約の民の一人として生きられ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。それによって、律法の支配下にあったイスラエルの民を律法の奴隷から自由にしてくださいました。そして、イスラエルの民と異邦人である全世界のすべての人たちが、律法によらず、ただ主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって救われる道を切り開いてくださったのです。

したがって、主イエス・キリストの福音を信じる信仰者にとっては、もはや律法は救いのためには役立たず、それゆえにまた、割礼も救いのためには何の役にも立ちません。すでに割礼を受けていたユダヤ人にとっては、それは単なる切り傷に過ぎないとパウロが言うのはそのためです。ユダヤ人はもはや割礼によって救われるのではなく、だれも割礼を誇ることはできません。そうであるのに、フィリピ教会の一部の指導者たちは自分たちの割礼を誇り、それだけでなく、ユダヤ人以外の異邦人からキリスト者になった人たちにも割礼を強要し、主キリストの福音を信じるだけでは足りず、割礼を受けなければ完全な救いを得られないと教え、教会に混乱を招いていたのです。彼らをユダヤ主義的・律法主義的キリスト者と名づけることができるでしょう。

しかし、パウロはそのようなユダヤ主義的・律法主義的キリスト者には断固として反対しています。それは、結局は主イエス・キリストによる救いの恵みを半減させる、否それどころか、主キリストの福音を否定し、それと対立するものだからです。それは、人間を誇り、肉を誇ることだからです。人間の肉はみな罪にけがれており、やがて朽ち果てるものに過ぎません。それは決して人間を救うことはできません。そのような教えは主キリストの教会を分裂させ、ついには破壊するほかありません。

そこで、パウロは3節でこのようにいます。【3節】。旧約聖書時代の古い肉による割礼はもはや必要なくなりました。なぜならば、主イエス・キリストによって新しい霊による割礼が与えられたからです。主キリストを信じる信仰によって、ユダヤ人だけでなく、すべての人が神の民とされる新しい契約が結ばれたからです。キリスト者は主キリストによって結ばれた新しい契約に基づいて、エルサレムの神殿でささげられていた肉による礼拝ではなく、主キリストの教会でささげられる霊による礼拝に連なっています。それゆえに、キリスト者はもはや肉に頼ることも肉を誇ることも必要ありません。キリスト者はただ主イエス・キリストだけを頼みとし、主イエス・キリストだけを誇ります。

次に、4節からパウロは彼自身のことを語りだします。【4~6節】。パウロは生まれながらのユダヤ人でした。しかも、高度の宗教教育を受け、旧約聖書の律法を専門に学ぶファリサイ派に属し、律法の一つ一つを忠実に行うように心がけ、それゆえに、信仰によって救われると教えて律法を軽んじているように思われたキリスト者と教会とを激しく迫害していました。この点において、彼は肉にあるユダヤ人として誇るべき多くのものを持っていました。

けれども、パウロは自らの肉を誇るために自分自身について語ったのでは全くありませんでした。そうではなく、反対に、それらのすべてを投げ捨てるために、それらのすべてよりもはるかに勝った大きな恵み、絶大なる価値を見いだしたことを語るのです。【7~11節】。

パウロはここで、彼が主イエス・キリストと出会ったことによって与えられた大きな変化、、大いなる価値の転換、大逆転について、非常に印象的に、彼の全存在をかけて、語っています。ある人はこう言います。「パウロにとって、プラスであったものがゼロになったというのではなく、プラス自体がマイナスに変わったのだ」と。パウロ自身の言葉では、「有利であったもの」が「損失」となったのです。かつては誇りであったものが、今では塵あくたになったのです。主イエス・キリストと出会い、主キリストの福音を信じた信仰者は、それまでの人生観が少し変わったとか、今まで気づかなかったことが気づくようになったとか、少し明るい性格になり、気分が楽になったというだけではなく、それまでの自分とは全く違った新しい人として再創造されるのであり、それまで大事だと思っていたものすべてがもはや悪臭を放つ塵あくたになり、それまでに誇っていたもの、楽しみにしていたもののすべてが、むしろわたしを罪に誘うものであり、忌み嫌うべきものであり、わたしをまことの命へではなく、むしろ滅びへと導くものであったのだということを知らされるのです。8節のみ言葉によれば、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」が、このような大転換をキリスト者に与えるのです。

ここで、「わたしの主キリスト・イエス」という言葉について掘り下げてみましょう。ここには、「イエスはキリスト・救い主であり、わたしの主である」という短い信仰告白があります。この信仰告白はわたしたちの信仰の基本であり、中心です。わたしの罪のために十字架にかかり、死んで、三日目に復活された主イエスこそが、この方のみが、わたしの唯一の主であり、救い主である。この主以外にわたしの主はいない。わたしはわたしの主ではない。ほかのだれかがわたしの主ではない。ほかの何かがわたしの主ではない。わたしが生きる時にも、死ぬ時にも、主イエス・キリストがわたしの唯一の主として、わたしを導き、治め、わたしに必要な一切のものを備えてくださる。ここにこそ、わたしの最高の喜びがあるという信仰告白があるのです。

この喜びこそが、1節でパウロが語っていた「主において喜びなさい」と命じていた喜びです。自分の肉を誇ったり、自分が持っているものを喜んだり、あるいはこの世にあるものに喜びや楽しみを求めたりするのではなく、否むしろ、それらのすべてを投げ捨て、憎み、忌み嫌い、ただ「主にある喜び」だけをわが喜びとする。それほどに、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」をパウロはここで語っているのです。

9節では、「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」と言われています。これが、宗教改革者たちが強調した「信仰義認」の教えです。パウロがローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙で詳しく語るキリスト教信仰の中心です。「律法から生じる自分の義ではなく」という個所は、律法によって自分の義を得ることができるかのように誤解される恐れがありますが、より正確には、「わたしは律法による義を持っていない」と、はっきりと否定されている文章です。だれも、律法を行うことによっては神のみ心を完全に満足させることはできません。なぜなら、人間はみな生まれながらに罪に傾いており、神から離れており、神のみ心に背いているからです。

けれども、「信仰に基づいて神から与えられる義」は、文字どおり、それは神から与えられる義であり、すべて信じる信仰者に無償で神から提供される賜物としての義であり、主キリストを信じる信仰者は一方的な神の恵みによって、神との正しい関係へと導き入れられ、神との霊による豊かな交わりへと招き入れられ、救いと平安を与えられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、何一つあなたのみ心に適うことができない弱い、罪多いわたしをも、主キリストのゆえに義と認めてくださり、救いと平安をお与えくださいます幸いを、心から感謝いたします。わたしが生涯、あなたから与えられている救いの恵みを喜び、あなたのご栄光をほめたたえる者とされますように。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。

2月23日 説教「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

2020年2月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:エレミヤ書1章4~10節

    フィリピの信徒への手紙3章1~11節

説教題:「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

 「喜びの書簡」と言われているフィリピの信徒への手紙3章1節で、わたしたちは何度目かの「喜びなさい」という勧めを聞きます。「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」。すでに、2章18節で、「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と勧められていました。このあとでは、4章4節で、「主において常に喜びなさい」と勧められています。勧められていると言いましたが、文法的には命令形です。喜ぶことが命じられています。

使徒パウロがここで「喜べ」と命じているのは、その人の性格が楽観的で、いつも人生を陽気に楽しんでいれるからとか、その人の状況が喜ばしいからとか、その人が他の人に比べて喜ばしい環境にあるからとか、そのような理由によるのではありません。たとえ今、あなたが悲しみや苦しみのただ中にあろうとも、恐れや不安があなたを覆っていようとも、それでもなおもあなたに命じる、「あなたは喜べ、喜んでよい、喜ぶことがゆるされている」という、喜びへの招きをパウロはここで語っているのです。

 それはどのような喜びでしょうか。「主において」がキーワードです。主イエス・キリストにある喜びです。主イエス・キリストにつながれているとき、主キルストとの交わりの中で、主キリストから与えられる喜びです。わたしたちはその喜びの内容をいくつもの表現で言い表すことができるでしょう。主キリストによって罪から救われている喜び。主キリストによって愛され、見いだされている喜び。主キリストによって神の子たちとされ、神の国の民の一人とされている喜び。主キリストによって生きる目標と希望とを与えられている喜び。主キリストによって、朽ち果てる命ではなく、枯れることもしぼむこともない永遠の命を約束されている喜び。それゆえに、貧しく弱く迷いやすいわたしが、神と隣人とに喜んで仕えていくことがゆるされている喜び。

それは何という、豊かな、大きな、深く、そして高価で尊く、永遠の喜びであることでしょうか。この世でわたしたちが経験するどんな喜びよりもはるかに高い天からくる喜び、この世の憂いや悲しみ、不安や恐れのすべてを追い払い、それらに勝利する喜び、唯一無比なる喜び、そのような喜びへとパウロはわたしたちを招いているのです。彼はこのあとで、彼自身が主キリストによって与えられたこの大きな喜びのゆえに、他のすべてのものを喜んで投げ捨てたということを語るのを、わたしたちは聞くことになります。そこで再びこの喜びについて考えることにしましょう。

2節から急に語調が変化します。【2節】。ここでまず問題となるのは、1節の後半の「同じことをもう一度書きますが……」はどの内容のことを言っているのかということです。「喜びなさい」ということを何度言っても、それは煩わしいことだとは言えないので、その内容は2節以下を指していると考えられます。「同じこと」が2節以下で語られているフィリピ教会の間違った信仰理解に対する警告を指しているとすれば、同じような内容がこの手紙には見当たりませんので、パウロはすぐ前にもフィリピ教会にあてて別の手紙を何度か書いており、その中で間違った信仰理解について注意するようにとすでに警告していたということになります。

パウロの宣教によって建てられ、またパウロと最も良い関係にあって、獄中のパウロのために祈り、支援物資を贈っていたフィリピ教会でしたが、教会の内外からの攻撃にさらされており、試練の中で厳しい信仰の戦いをしていたという現実を、わたしたちはここで知らされるのです。

パウロがここで「あの犬ども。よこしまな働き手たち」という、多少荒々しい言葉を用いて批判しているフィリピ教会の指導者たちはどのような間違った信仰理解をしていたのでしょうか。彼らは「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と言われています。つまり、彼らは割礼の儀式を重んじ、割礼を誇っている人たちでした。割礼はイスラエルの民ユダヤ人が神に選ばれた民であることをしるしづける儀式でした。創世記17章で神はアブラハムにお命じになりました。「イスラエルの家に生まれた男子はみな生後8日目に、男子の性器の皮の一部を切り取りなさい。これがわたしとイスラエルの民との間の永遠の契約のしるしとなる」と。

主イエスご自身も生まれて8日目に割礼を受けられたということを、わたしたちはルカによる福音書2章21節で聞きました。主イエスはイスラエルの律法の下にお生まれになり、契約の民の一人として生きられ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。それによって、律法の支配下にあったイスラエルの民を律法の奴隷から自由にしてくださいました。そして、イスラエルの民と異邦人である全世界のすべての人たちが、律法によらず、ただ主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって救われる道を切り開いてくださったのです。

したがって、主イエス・キリストの福音を信じる信仰者にとっては、もはや律法は救いのためには役立たず、それゆえにまた、割礼も救いのためには何の役にも立ちません。すでに割礼を受けていたユダヤ人にとっては、それは単なる切り傷に過ぎないとパウロが言うのはそのためです。ユダヤ人はもはや割礼によって救われるのではなく、だれも割礼を誇ることはできません。そうであるのに、フィリピ教会の一部の指導者たちは自分たちの割礼を誇り、それだけでなく、ユダヤ人以外の異邦人からキリスト者になった人たちにも割礼を強要し、主キリストの福音を信じるだけでは足りず、割礼を受けなければ完全な救いを得られないと教え、教会に混乱を招いていたのです。彼らをユダヤ主義的・律法主義的キリスト者と名づけることができるでしょう。

しかし、パウロはそのようなユダヤ主義的・律法主義的キリスト者には断固として反対しています。それは、結局は主イエス・キリストによる救いの恵みを半減させる、否それどころか、主キリストの福音を否定し、それと対立するものだからです。それは、人間を誇り、肉を誇ることだからです。人間の肉はみな罪にけがれており、やがて朽ち果てるものに過ぎません。それは決して人間を救うことはできません。そのような教えは主キリストの教会を分裂させ、ついには破壊するほかありません。

そこで、パウロは3節でこのようにいます。【3節】。旧約聖書時代の古い肉による割礼はもはや必要なくなりました。なぜならば、主イエス・キリストによって新しい霊による割礼が与えられたからです。主キリストを信じる信仰によって、ユダヤ人だけでなく、すべての人が神の民とされる新しい契約が結ばれたからです。キリスト者は主キリストによって結ばれた新しい契約に基づいて、エルサレムの神殿でささげられていた肉による礼拝ではなく、主キリストの教会でささげられる霊による礼拝に連なっています。それゆえに、キリスト者はもはや肉に頼ることも肉を誇ることも必要ありません。キリスト者はただ主イエス・キリストだけを頼みとし、主イエス・キリストだけを誇ります。

次に、4節からパウロは彼自身のことを語りだします。【4~6節】。パウロは生まれながらのユダヤ人でした。しかも、高度の宗教教育を受け、旧約聖書の律法を専門に学ぶファリサイ派に属し、律法の一つ一つを忠実に行うように心がけ、それゆえに、信仰によって救われると教えて律法を軽んじているように思われたキリスト者と教会とを激しく迫害していました。この点において、彼は肉にあるユダヤ人として誇るべき多くのものを持っていました。

けれども、パウロは自らの肉を誇るために自分自身について語ったのでは全くありませんでした。そうではなく、反対に、それらのすべてを投げ捨てるために、それらのすべてよりもはるかに勝った大きな恵み、絶大なる価値を見いだしたことを語るのです。【7~11節】。

パウロはここで、彼が主イエス・キリストと出会ったことによって与えられた大きな変化、、大いなる価値の転換、大逆転について、非常に印象的に、彼の全存在をかけて、語っています。ある人はこう言います。「パウロにとって、プラスであったものがゼロになったというのではなく、プラス自体がマイナスに変わったのだ」と。パウロ自身の言葉では、「有利であったもの」が「損失」となったのです。かつては誇りであったものが、今では塵あくたになったのです。主イエス・キリストと出会い、主キリストの福音を信じた信仰者は、それまでの人生観が少し変わったとか、今まで気づかなかったことが気づくようになったとか、少し明るい性格になり、気分が楽になったというだけではなく、それまでの自分とは全く違った新しい人として再創造されるのであり、それまで大事だと思っていたものすべてがもはや悪臭を放つ塵あくたになり、それまでに誇っていたもの、楽しみにしていたもののすべてが、むしろわたしを罪に誘うものであり、忌み嫌うべきものであり、わたしをまことの命へではなく、むしろ滅びへと導くものであったのだということを知らされるのです。8節のみ言葉によれば、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」が、このような大転換をキリスト者に与えるのです。

ここで、「わたしの主キリスト・イエス」という言葉について掘り下げてみましょう。ここには、「イエスはキリスト・救い主であり、わたしの主である」という短い信仰告白があります。この信仰告白はわたしたちの信仰の基本であり、中心です。わたしの罪のために十字架にかかり、死んで、三日目に復活された主イエスこそが、この方のみが、わたしの唯一の主であり、救い主である。この主以外にわたしの主はいない。わたしはわたしの主ではない。ほかのだれかがわたしの主ではない。ほかの何かがわたしの主ではない。わたしが生きる時にも、死ぬ時にも、主イエス・キリストがわたしの唯一の主として、わたしを導き、治め、わたしに必要な一切のものを備えてくださる。ここにこそ、わたしの最高の喜びがあるという信仰告白があるのです。

この喜びこそが、1節でパウロが語っていた「主において喜びなさい」と命じていた喜びです。自分の肉を誇ったり、自分が持っているものを喜んだり、あるいはこの世にあるものに喜びや楽しみを求めたりするのではなく、否むしろ、それらのすべてを投げ捨て、憎み、忌み嫌い、ただ「主にある喜び」だけをわが喜びとする。それほどに、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」をパウロはここで語っているのです。

9節では、「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」と言われています。これが、宗教改革者たちが強調した「信仰義認」の教えです。パウロがローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙で詳しく語るキリスト教信仰の中心です。「律法から生じる自分の義ではなく」という個所は、律法によって自分の義を得ることができるかのように誤解される恐れがありますが、より正確には、「わたしは律法による義を持っていない」と、はっきりと否定されている文章です。だれも、律法を行うことによっては神のみ心を完全に満足させることはできません。なぜなら、人間はみな生まれながらに罪に傾いており、神から離れており、神のみ心に背いているからです。

けれども、「信仰に基づいて神から与えられる義」は、文字どおり、それは神から与えられる義であり、すべて信じる信仰者に無償で神から提供される賜物としての義であり、主キリストを信じる信仰者は一方的な神の恵みによって、神との正しい関係へと導き入れられ、神との霊による豊かな交わりへと招き入れられ、救いと平安を与えられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、何一つあなたのみ心に適うことができない弱い、罪多いわたしをも、主キリストのゆえに義と認めてくださり、救いと平安をお与えくださいます幸いを、心から感謝いたします。わたしが生涯、あなたから与えられている救いの恵みを喜び、あなたのご栄光をほめたたえる者とされますように。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。

2月16日説教「神の家におられた少年イエス」

2020年2月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記上3章1~9節

    ルカによる福音書2章39~52節

説教題:「神の家におられた少年イエス」

 主イエスが公の宣教活動を始められたのは、ルカによる福音書3章23節によれば、およそ30歳の時でした。主イエスが誕生されてから30歳になられるまでのことについては、聖書はほんのわずかしか伝えていません。マタイ福音書2章には、誕生されてすぐにエジプトに逃れ、その後ヘロデ大王が死んだのちにエジプトから戻られ、ガリラヤ地方のナザレという町に住まれたと書かれています。わたしたちが続けて読んでいるルカ福音書では、2章21節に生まれて8日目の割礼と命名の儀式、それから40日過ぎてからのエルサレム神殿での清めの儀式と初子奉献の儀式について書かれ、きょうの41節以下では、12歳の少年イエスが過越祭にエルサレムに上られた時のことがやや詳しく描かれています。実は、これが30歳になられるまでの主イエスの幼年時代、青年時代について語られている唯一の記録であり、もちろんルカ福音書にしか記されていません。聖書は主イエスが子どものころをどんなふうに過ごされたのか、どのような青年時代を送られたのかについては、ほとんど興味を示していないように思われます。

 では、なぜそうなのか、その理由は何か。また、ここに12歳の少年イエスについてだけ書かれているいるのはなぜか、これにはどういう意図があり、聖書はここでわたしたちに何を語ろうとしているのか。このようは問いかけを持ちながら、読んでいきたいと思います。

 まず、一つの疑問ですが、聖書はなぜ30歳になるまでの主イエスについてほとんど語っていないのかということです。その理由はおおよそ見当がつくでしょう。主イエスのご生涯にとって重要なことは神の国の福音を宣べ伝えることであり、神の国が近づいたしるしとして病める人を癒し、弟子たちに教え、神の国の説教をすること、そして最後には、わたしたちの罪を贖い、わたしたちを罪の奴隷から救い出すために十字架で死なれ、三日目によみがえられることであって、福音書はそのことを中心に語っているのですから、その公のご生涯が始まるまでのことについては省略してもよいと考えられます。

 この点において、福音書は主イエスのご生涯を一人の人物の伝記という形態で描かれてはいますが、他の偉大な人物の伝記とは根本的に違っていると言えます。一般の伝記であれば、その人が子どものころから驚くほどの能力を発揮していたとか、苦学して、やがて立派な人物に成長したとか、その人の成長記録が語られますが、主イエスの場合はそうではありません。主イエスは少しずつ成長して神のみ子になられたのではありません。一生懸命に努力してメシア・キリストになられたのでもありません。わたしたちがすでにルカ福音書から学んできたように、主イエスは聖霊によって身ごもられた聖なる神のみ子として誕生され、その誕生の時から、神がこの世にお遣わしになられたメシア・キリスト・全人類の救い主であられました。

 では、主イエスにとって、30歳になって公のご生涯を始められるまでの期間は何の意味もなく、誕生されて一気に30歳になられてもよかったということになるのでしょうか。いや、そうではありません。主イエスは、ある時に突然に天から舞い降りてきた神ではありません。主イエスはわたしたち人間と同じように、母の胎から生まれ、乳児、幼児の時があり、両親の愛に包まれて成長し、少年、青年時代があり、両親に仕え、家のために働くという、すべての人間と同じ道を歩まれました。主イエスはまことの人間であられました。そのようにして、神のみ子はわたしたち人間のただ中においでくださり、わたしたち人間と同じ歩みをされ、わたしたち人間の歩みのすべてに伴ってくださり、わたしたち罪の中にある人間と連帯してくださったのです。

 そのことから、41節以下のきょうのみ言葉の意味を考えていかなければなりません。すなわち、12歳の主イエスはまことの神であられ、また同時に、まことの人間であられるということです。主イエスはまことの神であられ、わたしたちすべての人間のメシア・キリスト・救い主であられると同時に、まことの人間として、わたしたち人間の罪の世界に入って来られ、罪びとの一人となられたという、その両方のお姿を、わたしたちはここで読み取らなければならないということです。そのことをまず確認しておきましょう。12歳の主イエスの道はすでに、ご受難と十字架の死へと向かっているのです。

 そして、ここでもう一つ重要なことは、12歳の主イエスの記録を取り囲むようにして、40節と52節のみ言葉が語られているということです。【40節】。【52節】。この二つの節のみ言葉が、12歳になられるまでの主イエスの幼少年期の歩みと、12歳以後の主イエスの青年期の歩みのすべてを語っていると言ってよいでしょう。

 この二つの節に共通している一つのことは、体の成長と知恵の強調です。体の成長は、主イエスが人の子として、わたしたち人間と全く同じ成長過程をたどったことを言い表しています。知恵とは、聖書においては、神のみ心を尋ね求めることを言います。学問的能力とか知能指数のことではありません。旧約聖書に、「神を恐れることは知恵の初めである」(箴言1章7節他参照)と繰り返して教えられているように、天におられる主なる神の存在を知り、その神のみ前では朽ち果て、滅び去るほかない小さな、弱い存在である自らを悟り、神のみ心を尋ね求め、それに従って生きること、それが人間の本当の知恵です。主イエスのご生涯は、誕生から十字架の死に至るまで、神の知恵に生きる歩みであったと言えます。

 もう一つ強調されていることは、神の恵みと愛です。人間イエスが成長される過程で、神の恵みと愛が最も重要であったということは言うまでもないことです。もちろん、両親であるヨセフとマリアの愛や配慮、家族とか地域社会の協力なども必要です。でも、それらのすべてが備わっていたとしても、神の恵みと愛がなければ、主イエスの歩みは祝福されません。わたしたち一人一人にとっても、またわたしたちの子どもにとってもそれは同じです。主イエスの誕生から十字架の死に至るまで、父なる神の恵みと愛は少しも欠けることはありませんでした。

 では次に、41節以下について学んでいきましょう。過越祭は神の民イスラエル誕生を祝う祭りであり、ユダヤ人最大の祭りでした。紀元前13世紀ころ、エジプトで長い間奴隷の民であったイスラエルが神の強いみ手によって解放されたことを祝い、感謝する祭りです。ユダヤ人の成人男子は過越祭には必ずエルサレムの神殿で礼拝することが旧約聖書の律法で定められていました。過越祭に続いて7日間は種入れぬパンの祭りがあり、ほとんどのユダヤ人は一週間をエルサレムで過ごすのが習慣でした。主イエスの両親は地域の仲間と連れ立って、ガリラヤのナザレからエルサレムまでの100キロ余りの道のりを、おそらくは3、4日かけて、過越祭を祝うために出かけていきました。

 42節に、「イエスが12歳になったとき」とあります。当時のユダヤ人社会では宗教上13歳から成人の仲間入りをし、律法を守る義務が課せられました。12歳は親の監督の下に置かれる最後の年です。ですから、41節では両親が主語になっています。また、この個所全体でも、両親が主イエスの監督者であることが強調されています。ヨセフとマリアは律法に従い、長男である主イエスの信仰の訓練を忠実に果たし、来年からの独り立ちに備えているのです。主イエスは忠実な信仰の家庭で育てられていたことが分かります。ガラテヤの信徒への手紙4章4節以下にこのように書かれています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。このみ言葉こそが、きょうの個所のメッセージを聞き取るための鍵になります。12歳の主イエスはここでイスラエルの律法の下に置かれ、両親の監督の下に置かれ、そのもとで信仰の教育をお受けになっておられるのですが、しかし、主イエスはこの時にすでに神のみ子として、律法からも両親からも自由であられたということが、ここで暗示されているのです。そのことについてさらに理解を深めていきましょう。

 祭りが終わって一行が帰路に着いた時、主イエスが仲間からはぐれ、迷子になっておられることが分かり、両親は心配しながらエルサレムに引き返します。すると、両親は神殿におられた少年イエスを見つけます。【46~49節】。主イエスは両親の心配をよそに、エルサレム神殿の中で、大人の教師たちと対等に神や聖書に関して議論しておられました。主イエスは両親が心配したように、迷子になっておられたのではありません。三日以上の間、両親から引き離された子どものように、寂しさと不安の中で、道をさまよっておられたのでもありません。主イエスはいわば、ご自分の意志で、ご自身が神の契約の民イスラエルの一人として、その契約の民の礼拝の中心であり、神の家である神殿におられたのです。それは主イエスご自身の意志であり、また父なる神のみ心だったのです。

 それにしても、主イエスの賢さはどこから由来しているのでしょうか。当時のイスラエル宗教の指導者である祭司や律法学者は、だれか有名な教師の下で学び、専門的な教育を受けていましたが、12歳の少年イエスがそのような教育を受けておられたということは考えられません。では、どこからその知恵を得たのでしょうか。40節と52節で言われていたように、主イエスは神のみ子として、神の恵みと愛に育てられ、いわば直接に父なる神からその知恵を与えられていたと言うべきでしょう。けれどもより重要なことは、主イエスはその賢さや知恵をご自分のためには少しもお用いにならなかったということです。

 母マリアは「なぜこんなことをしてくれたのか」と主イエスに問い詰めます。親の庇護から離れて勝手な行動をしている子どもを叱っているように思われます。子どもに対して、親に服従する義務を求めるのは、親として当然のことです。しかし、主イエスのお答えは、逆に親を非難しているかのようです。主イエスはご自身が天の父なる神の子どもであり、その父なる神に対して服従の義務を果たす方が、肉にある地上の親に対する服従の義務よりもより大きく、優先すべきであると言われたのです。母マリアは地上の肉にある親と子の関係のことを考えていました。しかし、主イエスは天の父なる神との霊にある親と子の関係を主張しておられます。地上にある親が持つ権威は、天の父なる神の権威の前に服従しなければなりません。

 49節で、「当たり前だということ」と訳されているギリシャ語は、他の個所では「必ず」とか「べきである」と訳されています。この言葉は、神の強い意志、神の永遠のご計画を表しています。この言葉は、福音書の後半で、主イエスの受難予告の中で頻繁に用いられます。12歳の少年イエスが父なる神の家であり、父なる神を礼拝し、神と生ける出会いをする場である神殿におられたことが、神の強い意志であり永遠のご計画でした。そしてまた、主イエスがわたしたち罪びとを救うためにご受難の道を歩まれ、ついには十字架でご自身の命を贖いの供え物としておささげくださることも、神の強い意志であり、神の永遠の救いのご計画であったのです。12歳の少年イエスは、まことの神として、また同時にまことの人間として、その道を進まれました。

(執り成しの祈り)

〇父なる神よ、あなたの永遠の救いのご計画の中に、わたしたち一人一人をもお

招きくださいますことを感謝いたします。この道を従順に歩ませてください。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。

2月9日説教「罪人を探し求める神」

2020年2月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章8~19節

    ローマの信徒への手紙10章5~13節

説教題:「罪びとを探し求める神」

 神によって最初に創造された人間、アダムとエバは、神に禁じられていた善悪の知識の木からその実を取って食べ、神の戒めを破って罪を犯しました。これが、人間の最初の罪、原罪であり、アダム以後のすべての人間はこのアダムの罪に連なっており、人はみな生まれながらにして罪に支配されている罪びとである、これが、聖書が語る人間の罪、キリスト教教理で原罪(オリジナル・シン)と言われる教えです。この原罪について、使徒パウロはローマの信徒への手紙5章12節でこのように言っています。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」。そして、テモテへの手紙一1章15節では、「わたしは、その罪びとの中で最たる者です」と告白しています。この罪の認識と告白から、キリスト教信仰は始まると言ってよいでしょう。わたしたちは創世記3章のみ言葉から、人間の罪とは何かを正しく理解し、またその罪に対して神はどうなさったかを深く聞いて、救いの恵みにあずかる者になりたいと願います。

 蛇の誘惑によって、神に禁じられていた木から取って食べたアダムとエバは、蛇が言ったように、彼らの目が開け、神のように善悪を知るものとなったでしょうか。いや、そうはなりませんでした。彼らは神にはなりませんでした。神になるどころか、後で分かるように、神から遠ざかり、神を失った罪びととなるほかありませんでした。彼らの目が開け、彼らが見たのは自分たちの裸の姿であり、彼らが知ったことは自分たちが裸の恥をさらしていることだったということが7節に書かれています。神の戒めに背き、罪を犯した人間はこのようにならざるを得ません。

 ここで少し寄り道ですが、善悪を知る木とは、具体的に何であったのかについて、キリスト教の伝統ではリンゴの木とされていますが、聖書にはその名は書かれていません。ではなぜ中東地域ではあまりなじみのないリンゴと言われるようになったのかは、おそらくラテン語で悪という言葉はmalusであり、リンゴはmalumで、両者の発音が近いということから、malus悪からmalumリンゴが連想されたのであろうと推測されています。

 本題に戻って、自分たちが裸であることを知ったアダムとエバはいちじくの葉で裸を隠そうとします。人間が自分の罪の姿を何かで覆い隠そうとする、それは人間の本能と言ってよいかもしれません。でも、彼らはそれにとどまりません。裸の一部を隠そうとしただけでなく、自分の姿全体を、自分の存在そのものを神の前から隠そうとしたことが8節に書かれています。

 【8節】。神の戒めを破り、罪を犯したアダムとエバは、神が近づいてこられることを知った時、神の顔を避けて木の間に身を隠しました。神の存在を知った時、罪の人間は神から遠ざかろうとします。ここには、罪の本質が現れているように思われます。つまり、罪は神のみ前であらわになり、意識され、表面化するということです。蛇の誘惑によって禁じられていた木の実を食べた時点では、まだ罪は表に現れてはおらず、彼ら自身も自分の罪に気づいていなかったようです。しかし、神が近づいてこられ、神の存在を知った時に、彼らははっきりと自らの罪に気づかされます。自分たちが神の戒めに背いた罪びとであるということ、それゆえに神から身を隠し、神から遠ざかって生きなければならなくなったこと、もはや神と共に生きることができなくなったこと、そのことに気づかされたのです。罪はそのようにして次の段階に進みます。人間が自ら意識して、神から離れ、神を嫌い、神を拒絶するようになっていくのです。

 アダムとエバはエデンの園で造り主であられる神と共に生き、神から託された園を管理し、耕す務めを果たしながら、共にふさわしい助け手として、共に神に仕える連帯的人間として生きる時に、彼らの生活はエデンの園の名にふさわしく、つまり、喜びの園で喜びに満たされた生活となるはずでした。しかし今や、彼らはもはや神と共に生きる者たちではなくなりました。彼らから喜びは失われ、恥と恐れと不安が彼らを支配するようになりました。そしてまた、園を管理する務めを託されていた彼らは、園の木によって自分たちの身を隠してもらわなければならないという、みじめな立場に転落していることに気づかされます。もっとも、彼ら自身はそのことに気づいてはいないのですが。

 アダムとエバが神の接近を知って、神の存在を身近に感じた時に、自分たちの罪を自覚し、神から身を隠そうとしたということは、わたしたちが自分の罪を認識する際にも同じことが当てはまります。神がわたしの方に近づいてこられ、神のみ顔の前に立たされる時に、つまりわたしが神と出会う時に、本当の意味で自分の罪を知らされるのです。別の側面から言えば、神の存在を知らない人は自らの罪を知ることもありません。罪とは何かをどれほど深く学び研究しても、神との真実の出会いがなければ、本当の意味で罪を知ることも自覚することもできません。わたしが神と真実の出会いをする時に、わたしの罪がどのようなものであるのかを知らされます。しかし、もちろんその時には、わたしに罪を自覚させる神は、同時にわたしの罪をおゆるしになる神であることをも、わたしは知らされるのですが。

 続いて9、10節にはこのように書かれています。【9~10節】。9節の原典ヘブライ語を直訳するとこうなります。「そして、主なる神はアダムに呼びかけた。そして彼は(つまり神は)言った、あなたはどこにいるのか」。ここには「呼びかける」、あるいは「名前を呼ぶ」という言葉と「言う」という言葉とが重ねて用いられています。ここでは、神から身を隠し、神から逃れようとする罪びとアダムを、その罪の暗黒の中から呼び出そうとされる、神の呼びかけの強いみ声が響いているのです。「あなたはどこにいるのか」、これが、罪びとアダムに対して神が語りかけられた最初の言葉であるということを、わたしたちは印象深く心に留めたいと思います。なぜならば、「この木から取って食べたら必ず死ぬ」(2章17節)」と言われた神の戒めを破ったアダムに語られるべき言葉は、「お前は死ぬべきだ、お前に死を宣告する」となるはずだったからです。しかし、神が語られたみ言葉はそうではありませんでした。「アダムよ、お前はどこにいるのか」と呼びかけ、罪の中に身を隠そうとするアダムをご自身のみ前に呼び寄せる、招きのみ言葉だったのです。わたしたちはここに、罪びとに対する神の深いみ心を見るのです。

 その第一は、神は、戒めを破って罪を犯した人間アダムをそのまま見て見ぬふりをなさらないということです。神はいつも人間をみ心にとめておられます。神は人間無しで、ただ神だけであろうとはなさいません。神は人間が何をなそうが、どこへ行こうが、気に留めないような方ではありません。人間に無関心ではおられません。人間のすべての行動、人間の心の中のすべてをも見ておられます。人間が罪を犯すなら、その罪に見過ごしにはなさいません。罪の中にいる人間をも決して見過ごしになさいません。

 第二に、神は人間に自らの罪の姿を自覚させます。「アダムよ、お前はどこにいるのか」という神の呼びかけは、人間が今いる罪の存在を気づかせます。神の戒めに背いて罪を犯したために、神のみ顔をまともに見ることができず、神の前から身を隠さなければならなくなった自分たちの現実の姿を自覚させるのです。かつては、エデンの園で神と共に生きることを喜びとし、共に神に仕えることによって喜びを分かち合っていた連帯的人間であった自分たちが、罪に落ちた今は、神から遠ざかり、神を恐れなければならなくなった、その大きな変化、その大きな転落を自覚させるのです。罪とは神の恵みから落ちることです。神の恵みに気づかず、その恵みを投げ捨て、神の恵みに感謝をしない、神の恵みに応えない、それが罪なのです。

 第三に、「アダムよ、お前はどこにいるのか」という神の呼びかけは、罪を犯したアダムとエバにとっては、神の裁きのみ言葉となります。彼らは神の裁きを恐れなければなりません。だれも神の裁きから逃れうる人はいません。神のみ前で罪を問われない人間は一人もいません。神は人間の罪を裁かれる義なる神であられます。神は人間の罪を裁かれる義なる神であることによって、なおも罪びとである人間と関係を持ち続けられるのです。

 そして、第四に、「アダムよ、お前はどこにいるのか」と言われる神の呼びかけの最も重要な意味をわたしたちは聞き取らなければなりません。「これを食べたら必ずお前は死ぬ」という神の戒めを破った人間アダムに語られるべき言葉は、「死」以外ではないということをわたしたちは前にも確認しましたが、神はその裁きを直ちに実行なさいません。神はなお少しの猶予の時間を人間にお与えになります。「アダムよ、お前はどこにいるのか」という神の呼びかけは、人間に罪を自覚させるみ言葉であり、また神の裁きのみ言葉であると同時に、罪の人間が悔い改めて、神に立ち帰る機会を備えるみ言葉でもあるのです。悔い改めへの神の招きのみ言葉なのです。

 神は罪びとをなおも呼び求めておられます。探し求めておられます。人間が罪の中で滅びていくのを神は望んでおられません。悔い改めと救いへと招いておられるのです。そのような神の救いへの招きのみ言葉、救いへの招きの場面を、わたしたちは旧約聖書と新約聖書のすべてのページに限りなく見いだすことができるでしょう。聖書全編は、罪びとを探し求め、救いへとお招きになる神の招きのみ言葉にあふれています。

 わたしたちはその場面をいくつも挙げることができるでしょう。創世記22章1節で、神はアブラハムの名を呼ばれました。「アブラハムよ」。彼は「はい、ここにおります」と答え、独り子イサクを燔祭の犠牲として神にささげるためにモリヤの地に旅立ちました。彼は神の呼びかけに従順に応答し、服従し、彼の独り子をすら惜しまず神にささげたゆえに、神に祝福された信仰者となりました。出エジプト記3章4節で、神は「モーセよ、モーセよ」と呼ばれました。モーセは「はい、ここにいます」と答え、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出される神の偉大はみわざのために仕えました。サムエル記上3章10節で、神は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれました。サムエルは「僕(しもべ)は聞きます。主よ、お話しください」と答えました。そして、イザヤ書6章では、神は「わたしは誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろう」と問われました。その時イザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と応答しました。

 新約聖書では罪びとを探し求められる神の大きな愛はいよいよ増し加わります。主イエスは、100匹の羊のうちの迷い出た1匹を見つけるまで熱心に探し歩く羊飼いのたとえをお話になりました。家出をし、放蕩に身を持ち崩した息子を長く帰りを待ち望む父親と、その息子が帰ってきたときの父親の大きな喜びお語りになりました。罪びとが一人でも悔い改めて立ち返るなら、天に大きな喜びがあるであろうと言われました。

 罪の中に失われていた人間を見いだすために、神は今もなおみ子主イエス・キリストによって、わたしたち一人一人を呼び出だしてくださいます。わたしたちを罪から救い、新しい神のための働きとして召すために、わたしたちに呼びかけてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、わたしたちを呼び求めるあなたのみ声をさやかに聞き取ることができる信仰の耳をわたしたちにお与えください。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。

2月2日(日)説教「主キリストの福音に仕える同労者」

2020年2月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    フィリピの信徒への手紙2章19~30節

説教題:「主キリストの福音に仕える同労者」

 きょうの礼拝で朗読されたフィリピの信徒への手紙2章19節以下には二人の人物のことが書かれています。一人はテモテ、もう一人はエパフロディト、この二人は獄中のパウロの世話をしていました。当時は、犯罪人として投獄されても、最終の判決が下されるまでは、比較的自由な生活をゆるされていました。食物の差し入れや、その他生活に必要な物を支援してもらうこと、また面会や手紙を書くことだけでなく、投獄されている建物の中にいる他の囚人や兵隊たちに福音を語ることもゆるされていたということがこの手紙の1章12節以下などからも推測できます。使徒言行録28章23節以下には、ローマに護送されたパウロが自分の宿舎で定期的に人を集めて集会をしていたことが書かれています。パウロは主キリストの福音をのべ伝える宣教者として何度も迫害を受け、捕らえられ、鎖につながれましたが、囚人に与えられていた権利を最大限に用い、判決が下されるまでのあらゆる機会を活用して、福音宣教のために仕えました。神のみ言葉は、この世のどのような鎖によっても決してつながれていないということを証ししました。

 パウロはまた、獄中にあっても、福音宣教のための良き同労者である弟子を与えられていました。その二人がテモテとエパフロディトです。テモテについては、22節でパウロは「息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」と言い、エパフロディトについては25節で「わたしの兄弟、協力者、戦友である」と言っています。共に神のみ言葉に仕える同労者の交わりを、この世のどのような鎖も鉄格子も引き裂くことは決してできないということを、ここでも言わなければなりません。

テモテとエパフロディトは獄中にあるパウロと共に神のみ言葉に仕え、主キリストの福音宣教のために働きました。パウロと彼ら2人の関係を友情と呼ぶにしろ、師弟愛、あるいは同労者と呼ぶにしろ、彼らを固く結びつけているのは主キリストの福音以外ではありません。彼らは共に主キリストの福音のために働く同労者として、固く結びあっています。もし、わたしたち人間をこの地上で固く結びつけるものがあるとするならば、それを友情とか愛、あるいは交わりと呼ぶとすれば、それはどこから、どのようにして与えられるのでしょうか。現在社会の中で、人が孤立し、個人主義的になり、だれもが自分のことを考えるのに精いっぱいであるような人間たちを、それでもなお、お互いを認め合い、他の人のために仕えることを喜びとし、他の人の弱さや痛み、重荷を自らに担っていき、使徒パウロと共に「おお、わが愛する兄弟姉妹よ、親愛なるわが同志よ。同労者よ」と呼び合うことができるとすれば、それはどこから、どのようにして与えられるのでしょうか。わたしたちはその答えを、きょうのみ言葉に見いだすことができるのです。それは、わたしたちが共に主キリストの福音ために働き、そのために共に汗を流し、時に労苦や試練をも共にする時にこそ、そこに真実の兄弟愛と言うべきものが、主にある交わりが、この世のどのような鎖や鉄格子によっても決して引き裂かれることがない信仰共同体の交わりが与えられるのです。

では、19節から読んでいきましょう。【19節】。テモテは1章1節で、この手紙の共同発信人としてその名が挙げられていました。使徒言行録16章には、パウロがキリスト者になって間もない若いテモテを連れてマケドニア州のフィリピ伝道に出かけたことが書かれています。それ以来、テモテはパウロの最も強力な同労者として共に福音宣教に仕えました。この時にも、投獄されていたパウロの近くでパウロをサポートしていたようです。そのテモテをフィリピ教会に遣わす予定であるとパウロは言います。テモテ派遣の目的は、「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいから」と彼は言います。この19節は口語訳聖書では「あなたがたの様子を知って、わたしもまた力づけられたいからである」となっていて、この方が正確です。つまり、ここには「あなたがたも、そしてわたしも共に」という意味が込められているのです。フィリピ教会の人々は獄中にいるパウロのことが気がかりです。しかし、テモテが教会に遣わされて、パウロの現況を伝え、獄中にあっても主キリストの福音が力強く証しされていることを彼らが知って、彼らは大いに力づけられるでしょう。それとともに、テモテが再びパウロのもとへと遣わされて、フィリピ教会が迫害の中でも福音の信仰のために心を合わせて戦っていることを伝えられ、パウロもまた力づけられ、励まされることになるでしょう。パウロとフィリピ教会とは、派遣されたテモテによって、互いに固く結ばれ、共に主にある勇気と希望とを分かち合うことができるのです。「主イエスによって希望しています」とパウロが書いているのはそのことを含んでいるのです。主イエスがパウロとフィリピ教会、そして派遣されるテモテの3者を固く結びつけているのです。

ここでもう一つ注目したいことは、「遣わす」と訳されている言葉です。実は、きょうの個所には同じギリシャ語が4回用いられています。翻訳はそれぞれ違っていますが、テモテに関しては、19節「遣わす」のほかに、23節「送る」、エパフロディトに関しては、25節「帰す」、28節「送る」。パウロはテモテに対してもエパフロディトに対しても、意識的に同じ言葉を用いていると推測されます。この言葉には、パウロのいわば教会論的な、あるいは宣教論的な考えが反映されていると考えられます。すなわち、テモテとエパフロディトが遣わされるのは、単にパウロの個人的な使い走りのためとか、パウロとフィリピ教会の便宜を図るためとかではなく、共に主キリストの教会を建てるための、また主キリストの福音を宣教するための、主キリストによって遣わされ、派遣された使徒としての働きをパウロはここで二人の弟子に見ているのです。19節の「主イエスによって希望しています」という言葉の中にはその意味も含まれています。

20~22節にはテモテのことが紹介されています。【20~22節】。これはフィリピ教会へのテモテの推薦状と言ってよいでしょう。ここには4つのことが語られています。第一には、テモテがフィリピ教会のことをだれよりも親身になって心にかけている。だから、あなたがたのところに派遣され、わたしパウロとあなたがたとの思いを一つに結びつけるのに最も適任であるということです。テモテはパウロと共にフィリピ教会を建てるために一緒に働きました。そのことをも彼らは知っています。教会設立当初のころに共に福音宣教のために熱心に仕えたことを思い起こさせるというねらいがパウロにはあったのかもしれません。

第二には、テモテは自分のことを求めず、主キリストのことを第一に考えているということです。どんなに能力があり技術が優れている人であっても、自分を第一に考え、主キリストのこと、教会のことを二の次に考える人は、本当の意味で主キリストに仕えていることにはならず、真実に教会を建てるために働くこともできません。テモテは自分のことは求めず、主キリストのことを第一に考え、それによって自我から解放され、自由と喜びとをもって主と隣人とに仕えていく人とされています。

第三に、テモテが確かな人であることをフィリピ教会の人たちもよく知っているということです。「確かな人」というギリシャ語の意味ははっきりしません。口語訳聖書では「練達した人」と訳されていました。おそらく、多くの試練や迫害を経験し、それでもなお忍耐強く、福音のために戦いぬき、それによっていよいよ信仰を確かにすることを言い表していると考えられます。

第四は、パウロと共に福音に仕えてきた同労者であるということです。パウロとテモテは年齢から言っても、また信仰の経歴から言っても父と子どもの関係でしたが、主キリストの福音に仕えることにおいては共に主キリストの僕(しもべ)であり、福音宣教の同労者です。教会に所属する一人一人も、互いに様々な違いがあり、賜物の違いがあるにしても、みな共に福音のために仕える同労者なのです。

以上のことを挙げて、パウロは弟子のテモテをフィリピ教会に推薦しています。それらは、テモテが何か優れたものを持っていたからとか、彼自身の能力とか知識とかを挙げているのではありません。むしろ、彼が自分が持っているものをすべて捨て去り、彼自身を主キリストに明け渡し、主キリストの福音によってのみ生きることに他なりません。わたしたち信仰者が主キリストから神の国への推薦状をいただくことができるとすれば、それはおそらく同じような内容になるのでしょう。主イエスは福音書の中で、「だれでも幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない。自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従う人こそ神の国にふさわしい」と言われました(マルコによる福音書10章15節、同8章34節以下参照)。

23、24節ではパウロ自身の今後の計画のことが簡単に述べられています。間もなく彼には最終判決が下さるでしょう。その判決結果を携えてテモテがフィリピ教会に派遣されることになるでしょう。その判決が死刑になるか、それとも無罪解放となるかは全く予想が立ちません。2章16、17節では死刑を覚悟していたように感じられましたが、24節では解放されて、フィリピ教会を訪れることができるであろうとの希望が語られています。いずれにせよ、パウロの将来のすべては主によって定められているゆえに、彼はその道を確信をもって進んでいくことができます。

25節からはエパフロディトについて書かれています。彼は獄中のパウロへの援助物資を携えてフィリピ教会から派遣されました(そのことについては4章18節に書かれています)が、途中で重い病気になり、パウロへのサポートが十分にできずに、また望郷の念をつのらせ、重度のホームシックにかかっていたようです。しかも、彼が病気になり、パウロに対する支援の務めを十分に果たすことができなかったことがフィリピ教会に伝わり、非難を受けていたと思われます。このことがさらにエパフロディトを苦しめていました。

けれども、パウロはそのようなエパフロディトを擁護し、否、擁護するだけでなく、彼もまた主キリストの福音のために仕える同労者であることを強調するのです。先にも触れましたが、25節と28節で、「エパフロディトをフィリピ教会に派遣する」という言葉を2度用いています。彼が用済みになり、役に立たなくなったから送り返すというのではありません。彼もまた主キリストの福音に仕える使徒として、主キリストから派遣されているのです。

25節では彼のことを、「わたしの兄弟、協力者、戦友である」と言い、また「あなたがたの使者、わたしの奉仕者」とも言っています。27節では、「実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」と言っています。さらに30節でも、「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」とまで言うのです。エパフロディトは彼の弱さと病気とをもって、彼の死の危険をもってまで、主キリストの福音に仕えたのです。彼はその弱さと無力とによってこそ、最もよく主キリストのために仕えたのです。それゆえに、29節でパウロは「彼のような人こそが敬われなければならないと」と言うのです。主キリストのために仕えることにおいては、どのような弱さも欠けも破れも、すべてが主のみ心にかなって用いられるのです。主キリストの福音のために共に仕える同労者は何と幸いなことでしょう。

(祈り)

1月26日説教 「わたしはこの目であなたの救いを見た」

2020年1月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    ルカによる福音書2章22~38節

説教題:「わたしはこの目であなたの救いを見た」

 ルカによる福音書は主イエスの誕生の記録に続いて2章21節では生まれて8日目の割礼と命名の儀式について、それから22節以下では40日間の清めの期間を経てからの初子の奉献の儀式(23節)と清めの儀式(24節)について記しています。これらは旧約聖書の律法に定められていたいたことであり、イスラエルのどの家でも長男が誕生した際には行われる習わしでした。主イエスはおとめマリアの胎から聖霊なる神によってお生まれになった神のみ子ですが、一人の人間として、人の子として、神がお選びになった神の契約の民イスラエルの一人としてお生まれになりました。主イエスはまことの神であられ、同時にまことの人となられました。ここではまずそのことが確認されます。

 ガラテヤの信徒への手紙4章4~5節で使徒パウロはこのように書いています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。主イエスは神のみ言葉である律法の下にお生まれになり、その律法を完全に成就され、それによって律法の下にあったイスラエルの民と全人類の罪を贖われ、すべての人の罪をゆるす救い主となられました。ルカ福音書2章に記されているこれらの儀式は、ヨセフとマリアという一つの家庭内で行われている小さな儀式ですが、そこにはすべての律法を完全に成就される主イエスの救い主としてのお働きがすでに暗示されていることをわたしたちはきょうのみ言葉から知らされます。

 21節には、生まれて8日目の割礼と命名の儀式について書かれています。【21節】。割礼はイスラエルの家に生まれた男子が神に選ばれた契約の民であることのしるしとして受ける儀式です。主イエスは神の契約の民の一人として誕生されました。しかも、契約の民イスラエルが旧約聖書の中で長く待ち望んできたメシア・キリスト・救い主として誕生されたということが、次の命名の儀式で暗示されています。「イエス」(これはギリシャ語ですが)、ヘブライ語では「ヨシュア」、その名の意味は「神は救いである」という彼のお名前は、本来は父親が付けるのですが、主イエスの場合には、すでにわたしたちが1章31節で聞いたように、彼がお生まれになる以前に神によってあらかじめ決められていたお名前であり、そこには神の永遠の救いのご計画と強い意志が言い表されていました。すなわち、神はご自分がイエス、神は救いであると名づけられるご自身のみ子によって、ご自身の救いのみわざを完全に成就されるという神の強い意志が、この命名によって明らかにされているのです。この日にヨセフとマリアの家で行われた割礼と命名の儀式は、他のイスラエルの家で同じように行われる儀式とは違った、特別の意味を持っていたということをわたしたちは知らされるのです。

 22節の清めの期間についてはレビ記12章に定められています。男の子を出産した婦人は40日間宗教的な汚れの状態にあるとされました。その期間が過ぎてから、エルサレム神殿で1歳の雄羊かあるいは2羽の山鳩ないしは家鳩をささげることで清められると定められていました。ヨセフとマリアは結婚して間もない貧しい家庭でしたので、例外で認められていた2羽の鳩をささげたと24節に書かれています。

けれども、貧しくても、汚れの期間が終わり再び神との交わりが回復されることへの喜びは大きかったと推測されます。二人はガリラヤのナザレからエルサレムまでの100キロ以上もの困難な旅を、清めの期間が終わるや否や、神へ感謝のささげものをするために、幼子を抱いて出かけるのです。2章の初めに書かれていた2か月近く前にエルサレム近郊のベツレヘムに旅した際は、ローマ皇帝の権力に強制されてでしたが、このたびは違います。神から約束されていた男の子が与えられたことに対する感謝と、清めの期間が満たされて再び神との豊かな交わりがゆるされたことの感謝の思いに満たされて、二人は信仰の喜びの中をエルサレムへと向かいました。

23節に書かれていることは「初子の奉献」と言われる儀式です。初子の奉献の起源は出エジプトの出来事にあります。神はエジプトで長い間奴隷としての労役に苦しめられていたイスラエルの民を救い出すために、ある夜エジプト全土に滅ぼす者を遣わし、エジプト人の家庭に生まれた長男の命をすべて奪い取られましたが、滅ぼす者はイスラエルの家の前を過ぎ越して、イスラエルの家は神によって守られたということが出エジプト記12章に書かれています。これがのちの過ぎ越しの祭りの起源となりました。この救いの出来事から、イスラエルの家に生まれた長男の命は神のものであるゆえに神にささげられなければならない。ただし、動物の血を贖いの供え物としてささげることによって、買い戻すことができると定められていました。

主イエスの両親であるヨセフとマリアはこの律法の規定に従って長男を神にささげ、贖いの供え物をささげて神を礼拝したのです。ここで律法の規定を満たしているのは親であるヨセフとマリアですが、しかしわたしたちは知っています。初子の奉献の律法を本当の意味で、完全に成就されるのは主イエスご自身であるということを。

また、ここで行われている清めの儀式と初子奉献の儀式は、ヨセフとマリアというガリラヤ地方の小さな新婚家庭内で起こっている出来事ですが、しかしそれは一つの家庭内にとどまらず、神の契約の民イスラエルとさらには全人類とにかかわっているできごとなのだということを、わたしたちに予感させます。すなわち、清めの儀式は、やがて主イエスがご自身の十字架の死によってわたしたちのためになしてくださる罪の汚れからの清め、罪のゆるしと救いをあらかじめ先取りしていると言ってよいでしょう。また、初子奉献の儀式は、主イエスがご自身のご生涯全体とそのお体とその命そのものを父なる神に完全におささげし、ご自身が聖なる贖いの供え物となられることによって、すべての人を罪と死の奴隷から贖い出し、救ってくださるということを目指していると言ってよいでしょう。

そのことが、さらにこのあとに続くシメオンとアンナという二人の預言者によって、より明らかにされていきます。シメオンについては、【25~26節】。また、アンナについては、【36~38節】。この二人の預言者がエルサレム神殿で幼子主イエスと出会うことによって、この幼子こそが旧約聖書でイスラエルの民が長く待ち望んできたイスラエルと全人類の救い主、メシア・キリストであるということを証しするのです。

この二人の預言者に共通している第一の点は、二人とも神の約束が成就される時を待ち望むことが彼らの生涯の、また彼らの預言者活動の中心であったということです。いや、それがすべてであったと言うべきでしょう。シメオンは、神がイスラエルの民と結ばれた契約が成就され、イスラエルと全人類の救いをもたらすメシア・キリスト・救い主が到来する時を待ち望んでいました。しかも、そのメシア・キリストに出会うまでは死ぬことはないという約束まで与えられていたのでした。彼は彼の全生涯をかけて、文字どおり彼の命をかけて、救い主をひたすらに待ち望んでいたのでした。

女預言者アンナは夜も昼も一日中神殿で神にお仕えし、祈りと断食の日々に明け暮れていたと書かれています。彼らにとっては、待ち望みつつ神に仕えていたというよりは、神の約束の成就の時を待ち望むことこそが最もよく神に仕えることであったのです。それゆえに、待ち望んでいるメシアに会うまでは彼らの生涯は決して満たされることはありません。

待ち望むということは、ある意味では、とてもつらい務めです。いまだに確かな事実を見ることができずに、確実な実りを手にすることなく、いつまでたっても満たされることがない、それゆえにいつも餓えと乾きを覚えながら、ただひたすらに約束を信じて待ち望む以外にないからです。詩編42編の詩人はこのように歌っています。「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」(1節)と。また、詩編130編の詩人も待ち望む信仰とそのつらさを歌っています。「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにも増して」(5~6節)と。

それでも彼ら二人の預言者には、ほかにこの世の楽しみを見いだそうとはしませんでした。家族とくつろいだり、旅行をしたり、おいしい食卓を囲んだりなどということには、全く楽しみも喜びも見いだそうとはせずに、ただひたすらにメシアを待ち望みました。そのことだけに、唯一の楽しみと喜びとを求め、そうすることで彼らは年老いてからも生き生きとした信仰に生きていたのです。

彼らがそうできたのはなぜでしょうか。それは、待ち望む信仰者は、彼自身の可能性とか忍耐力とか、あるいは信仰の強さとかによって生きているのではなく、待ち望まれている神の約束の内容、その対象であるメシア・キリストに引っ張られるようにして、待ち望まれているその方の力と恵みによって生きているからなのです。イザヤ書40章31節に書かれているように、「主の望みを置く人は、新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。そのように、待ち望まれているその方に捕らえられつつ、その方から絶えず新たな力を与えられつつ、常に若々しく、生き生きとと、待ち望む信仰に生きることができるのです。

二人の預言者に共通している第二の点は、彼らは待ち望みながら、何もしないで、暇を持て余して待っていたのでは決してなかったということです。シメオンは常に聖霊なる神に導かれながら、約束のメシアに出会う日を今か今かと希望をもって待ち望み、神殿での礼拝生活を続けていました。アンナは毎日熱心な祈りと断食とに励みながら神にお仕えし、一日一日が決して無駄に終わることがなく、確かな成就の時へと向かっている大切な、かけがえのない日々であることを信じて生きていました。神の約束の成就を待ち望む信仰者の歩みは、決して空しく終わることはありません。

第三に、二人の預言者たちの待望の時は、今や幼子主イエスと出会って、その成就を見たということです。長く、つらい待望の期間がついに終わりました。彼らの待望は確かに空しく終わることはありませんでした。彼らは人生の終わり近くになってようやくその最後の目標に到達しました。と言うよりは、彼らが待ち望んでいたメシアに出会ったことによって、彼らの生涯が満たされ、最後の目標に達したと言うべきでしょう。それゆえにシメオンは29、30節でこのように告白するのです。【29~30節】。

信仰者にとっては、いやすべての人間にとっては、救い主に出会うことによってこそ、その人生が本当の意味で満たされたものとなります。他の何かによっては、この世のいかなるものによっても、真の慰め、本当の平安を得ることはできません。この世にあるものはみな罪と死とに支配されているからです。

しかし、ただお一人、主イエス・キリストこそがわたしたちの罪のために十字架で死んでくださり、三日目に死の墓から復活され、わたしたちを罪と死と滅びから救ってくださったのです。この主イエス・キリストに出会うとき、わたしの人生は本当の意味で満たされます。死によっては終わらない復活の命が約束されているからです。

わたしたちは今その成就の時に生きています。「わたしはこの目であなたの救いを見た」というこのみ言葉から教会の歩みは始まります。わたしたち一人一人のきょうの一日、この1週の歩みが始まります。そのようにしてわたしに与えられている一日一日を希望と喜びをもって歩むことがゆるされるのです。

(祈り)

1月19日 説教「アダムとエバの罪 ― 原罪」 

2020年1月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章1~7節

    ローマの信徒への手紙3章9~20節

説教題:「アダムとエバの罪―原罪」

 創世記3章のみ言葉から、わたしたちはキリスト教教理の重要な柱の一つである人間の罪について教えられます。人間の罪の最初はどうであったか、人間はどのようにして罪に落ちたのか、いわゆる原罪(英語でoriginal sin)について教えられます。原罪というキリスト教教理は、創世記3章に書かれている最初の人間アダムとエバが犯した罪のゆえに、アダム以後のすべての人間がその罪の支配のもとに置かれているという教えです。使徒パウロはこの原罪についてローマの信徒への手紙5章12節でこう言っています。「このようなわけで、一人の人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」。これが原罪です。

 原罪という言葉は聖書の中にはありませんが、すべての人間が生まれながらにして罪に傾いており、その罪の結果としての死に支配されているという考えは聖書全体に貫かれています。また、それが人間の現実の姿であるということを旧約聖書も新約聖書も、赤裸々にというか、冷静に、しかも詳細に描いています。原罪とは、アダム以来の全人類をすっぽり覆っている罪であり、すべての人間を強力な力で、だれも逆らえないほどの力で支配している罪であり、それはまた、わたしたち一人一人を支配している罪のことでもあります。わたしたちは創世記3章から、神によって創造された人間が、神のかたちに似せて、エデンの園で神と共に生きるべきものとして創造された人間が、なぜ、どのようにして、神に背く罪びととなったのかを教えられるのです。

 しかし、その際に重要なことは、使徒パウロがローマの信徒への手紙5章の続きで書いているように、一人の人アダムの不従順によって罪と死とが全人類を支配するようになった、それよりもはるかに大きな神の恵みによって、一人の人主イエス・キリストの従順により、すべての人が正しい者とされ、生きる者とされているという、主キリストの福音から人間の罪を考えるべきであるということです。罪は、すでに主イエス・キリストの十字架の死と復活の福音によって、その毒牙を抜き取られているのであり、罪と死の支配はすでに主イエス・キリストによって無効にされているのであり、わたしたちはすでに主イエス・キリストによって罪ゆるされ、救われている者たちであるということを知りつつ、信じつつ、そのことに感謝しつつ、わたしたちの罪について学ぶのだということです。

 では、1節から読んでいきましょう。【1節】。ここに蛇が登場します。蛇は女に(彼女は20節でエバと名づけられます)語りかけます。この蛇の語りかけによって、アダムとエバは罪へと誘惑されます。ここでの蛇の役割について、さまざまな議論がなされてきました。その議論のポイントは、神のかたちに似せて良き者として創造された人間の中にどうして罪が入り込んできたのかということにあります。もし、人間の中に罪の種とか罪の原因となるものがあったとすれば、それは神の創造のみわざが不完全であったということになるのではないか。それはあり得ない。そうだとすれば、罪は人間の外から入ってきたと考えなければならない。そこで、誘惑者蛇が悪魔の手先になって人間を罪へと引きずり込んだということになる。そこから、ユダヤ教や初期のキリスト教会の伝統では、蛇を悪魔・サタンと同一視するという考えが生まれました。

ところが、それで問題が解決されたわけではありません。むしろ、より大きな問題が生じることになります。蛇に罪の責任があるのだとしたら、人間にはその責任がないということになり、神のみ前で罪の責任を問われなくてもよくなって、人間の罪を真剣に考える必要がなくなるからです。それは、聖書全体が語っている人間の罪の大きさ、重さ、深刻さと符合しませんから、正しい理解とは言えなくなります。神の戒めに背いて罪を犯したのは、まさに人間アダムとエバであり、蛇ではありません。まさに、人間そのものが罪の責任を負わなければならないのであり、まさにその人間の罪のために神のみ子が人間となられたのであり、その人間の罪をゆるすために十字架で死んでくださったのですから、罪の責任を少しでも人間から減らしたり、人間以外の何かに責任を転嫁したりすることはできないということは明確です。ユダヤ教や初期キリスト教会の伝統的な考え方は訂正されなければなりません。

創世記3章の蛇は、何か悪魔的な性格を持つものとしては描かれてはいません。むしろ、人間に対する優しさと理解を示しながら語りかけています。ただ、ここではっきりしていることは、蛇もまた主なる神によって創造された被造物の一つであるということです。蛇は「神が創られた生き物のうちで、最も賢かった」と書かれていますが、何か神と並ぶ力を持った被造物以上のものでは決してありません。その蛇の賢さによって罪に誘惑され、罪を犯したのは、人間にほかなりません。蛇は悪魔の手先と言うよりは、ここではあくまでもわき役を演じており、人間の罪の責任を人間から取り除こうとしないように、むしろ罪の責任が人間にこそあるのだということを浮き上がらせるような役割を果たしているように思われます。

そこで、わたしたちが注目すべきは、蛇が何を語ったのか、そしてエバがそれをどう聞いたのか、どう反応したのかということです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と蛇は問いかけます。ここには蛇の多少悪意に満ちた賢さが表れています。蛇は、本来神から禁じられていた園の中央にある善悪の知識の木については、あえて触れていません。最初の罪の誘惑は本題から少し外れたところから、神のみ言葉を少しだけ中心からそらしたところからやってきます。神の命令は2章16、17節にあるように、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし……」という最大の自由を与えるみ言葉でした。蛇はそのみ言葉を少しだけ言い換えています。しかし、その内容は神から与えられている最大の自由を最大の不自由へと変えてしまう要素を含んでいます。

それだけでなく、「などと神は言われたのか」と疑問を投げかけるような言い方で(この個所は口語訳では「本当に神はそう言われたのか」と訳しており、その方が原語に近い訳ですが)、ここで蛇は、半分は「まさか、神がそんなことをなさるはずはないだろう」と神を弁護しているかのように、しかし半分は「もし、神がそんなことをなさるとすれば、神は何と権威主義的で人間を不自由にする厳格な方であるのか」と、神を非難する思いを誘導しているように思われます。

蛇はここで、神の戒めが女エバにとって好ましいものであるのか、そうでないのか、自分にとって都合がよいものか、そうでないかを、彼女自身に判断させようとしています。神のみ言葉を人間の基準で良し悪しを判断し、自分の好みで選択をする、そこに疑いが生じ、神への不信、罪が生じるのです。それは、人間を創造され、人間を最も深く愛され、人間が生きるに必要な一切のものを備えてくださる神に対する疑いであるからです。

ところで、ここで蛇は女エバと対話していますが、男アダムはこの時一体どこに行っていたのでしょうか。エデンの園で共に喜びつつ神に仕えていくようにと創造された男と女、互いにふさわしい助け手として、差し向かいで生きるべき連帯的人間として創造されたアダムとエバ、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」と呼び、一体となるべき男と女、しかしここでは一緒にいなかったのでした。蛇は女エバが一人でいるところをねらって誘惑したのかもしれません。ここにも蛇の賢さがあるように思われます。

共に生きるべき連帯的人間として創造された人間は、共に神に仕えるとともに、共に罪の誘惑に対して抵抗し、それと戦うのでなければなりません。けれども、共に戦うべき男アダムはそこにいませんでした。アダムは6節になって初めて姿を現します。しかし、そこでも、共に罪に抵抗して戦うアダムではなかったことを、わたしたちはあとで知らされます。

さて、蛇に誘惑された女エバは、蛇の問いに答えます。【2~3節】。女エバはここで初めて自分の方から本題である園の中央にある善悪を知る木について語りだします。そのとき女エバは、誘惑者蛇と同じように、半分は神を弁護しながら、半分は神に対する不満と批判の思いを言い表しています。彼女はまず蛇が言ったことを否定します。食べることを禁じられているのは園の中央にある木の実だけだと言います。ここでは、彼女は神を弁護しているかのように見えます。けれども、彼女はすぐに続けて「触れてもいけない」と、本来神が命じていなかったことまでも付け加えています。神の戒めを誇張しています。誘惑者蛇と同じように、神の戒めを厳しいものと感じ始めています。人間に自由を与えるものであった神の戒めを人間の行動を制限し、人間をしばりつける不自由な戒めに変えようとしています。新約聖書に登場してくる律法学者たちが一つの戒めからたくさんの小さな規定を作り出し、人間に重荷を負わせていたように、彼女は神の戒めを誇張し、自らに律法の重荷を負わせようとしているように思われます。そのようにして、神の戒めに対する疑いや不満、批判が生じてくるのです。

さらに彼女は付け加えます。「死んではいけないから」と。しかし、神はそうは言われませんでした。17節にあるように、「食べると必ず死んでしまう」と断定している神のみ言葉を、彼女は自分に都合の良いように言いかえています。彼女は神のみ言葉を自己流に理解しています。神がわたしを気遣ってくれて、わたしが死なないようにそう言われたのに違いないと、自分の利益になるように神のみ言葉をねじ曲げて理解する時、しかしそこにはいつも逃げ道が用意されています。それを食べてもなおも死なないように神がご配慮くださるに違いないと思い始めています。ここにも、神のみ言葉を自分の都合に合わせて理解しようとする罪が顔をのぞかせています。

次に、突然に誘惑者の最後の、とどめの言葉が発せられます。「あなたは決して死ぬことはない」(4節)と。今や、あからさまに神のみ言葉の真理が否定されます。誘惑者によって、神が偽り者とされます。誘惑者は追い打ちをかけるように言います。【5節】。誘惑者蛇はこのように言います。「神は知っていてそうされたのだ。神は意地の悪い方なのだ。神は本当は人間のことなど少しも考えてはいないのだ。神は嫉妬深い方なのだ。人間が神のようになっては困るから、そのように言われたのだ」と。

誘惑者の言葉は人間を罪に誘うには十分の魅力を持っています。「人間が神のようになる」、人間にとってこれほどに魅力的な言葉があるでしょうか。いったいだれがこのような甘い誘惑を無下に退けることができるでしょうか。アダムとエバの最初の罪から今日に至るまでの人間のあらゆる罪の根源には、この誘惑が潜んでいると言ってよいでしょう。神のみ言葉を疑い、それを勝手にねじ曲げ、さらには神を偽り者とし、ついに自ら神のようになろうとし、一人一人が小さな神々として君臨しようとする、罪とはまさにそのようなものです。

ここまでくればもはや誘惑者の手助けは必要なくなります。【6節】。罪の誘惑は甘く、美しく、好ましく思われます。たちまちにして目の欲望、肉の欲望に支配されていきます。神の戒めを疑い、それを投げ捨てると、人間は直ちにさまざまな欲望のとりこになっていきます。そして罪を犯す者はいつでも同伴者を求めます。罪に誘惑された者は他の人を罪に誘惑する者になっていくのです。

神は人間アダムとエバを、共に生きる連帯的人間として、互いに差し向かいで生きる助け手として、共に神のみ言葉を聞き、喜んで神に仕えるパートナーとして、また共に罪の誘惑に対して抵抗し、戦う同労者として創造されたのですが、しかし今アダムとエバは共に神の戒めを破り、共に罪に落ちる、罪びととしての運命を共にする者たちとなっていきます。その中に、わたしたち一人一人もまた加わっています。

けれども、わたしたちがきょうの説教の初めに確認したように、人となられた神のみ子主イエス・キリストは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従を貫かれることによって神の義を全うされ、罪と死に至る道を救いと永遠の命へと向かう道へと方向転換してくださったのです。そして、わたしたち一人一人もまたその救いと命への道へと招き入れられているのです。一人の人アダムによって入ってきた罪と死の支配よりも、一人の義なる人、主イエス・キリストによる救いの恵みの支配の方がはるかに大きいことをわたしたちは知っています。

(祈り)

1月12日説教 「共に喜び合う礼拝者の群れ」

2020年1月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編126編1~6節

    フィリピの信徒への手紙2章12~18節

説教題:「共に喜び合う礼拝者の群れ」

 フィリピの信徒への手紙には二つの別名が付けられています。一つは「獄中書簡」、もう一つは「喜びの書簡」です。パウロはこの手紙を獄中から書いています。使徒言行録の記録によれば、パウロはローマ、エフェソ、カイサリアの町々で何度も投獄されましたから、そのいずれかの町と思われます。主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたために、ユダヤ人とローマ帝国から迫害を受け、捕らえられましたが、しかし、神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはないという事実を証明するためにも、パウロは獄中から諸教会に何通もの手紙を書きました。他に獄中書簡と言われているのはエフェソの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙です。

もう一つの名前「喜びの書簡」は、この手紙には「喜ぶ、喜び」という言葉が十数回も用いられ、全体としても喜びに満ち溢れた手紙だからです。獄中書簡でありながらも、しかし喜びに満ち溢れているという、不思議ともいえるこの二つのつながりが、この手紙の大きな特徴です。そして、今日の個所でも、その相反する二つが実際に固く結ばれていることをわたしたちは読むことができます。【17~18節】。

獄中のパウロはここで、やがて裁判の判決が下り、自分が死刑になることを予感しているように思われます。「わたしの血が注がれる」とは彼の殉教の死を意味していると推測できます。パウロはフィリピ教会の礼拝の祭壇に自分の血が注がれ、彼らと一緒に礼拝することを喜んでいます。この個所を正しく理解するためには、旧約聖書時代の礼拝の習慣と、その礼拝が主イエス・キリストによって完全に成就されたということを知る必要があります。

旧約聖書時代のイスラエルでは、エルサレムの神殿で毎日動物の血を犠牲としてささげる礼拝が行われていました。それは、動物の血が人間の罪をあがなうと考えられていたからです。人間はみな神に対して罪を犯しており、神から死の判決を受けなればなりません。けれども、憐れみ深い神は人間の命の代わりに動物の血を犠牲としてささげることで、人間の罪をゆるすと言われました。ただし、動物の血は人間の罪をあがなうには不十分で、一時的な効力しかありませんから、エルサレムの神殿では祭司が毎日繰り返して牛や羊の血を犠牲としてささげなければなりませんでした。これが旧約聖書時代のイスラエルの礼拝でした。

ところが、神はご自身のみ子、主イエス・キリストの聖なる、汚れなく、尊い十字架の血によって、全人類の罪を、完全に、永遠にあがなってくださり、すべての人の罪をおゆるしくださいました。そのことが、6節以下で語られていました。まことの神であられ、まことの人間となられ、十字架の死に至るまで父なる神に服従を貫かれた主イエス・キリストによって、神の義の要求が完全に満たされ、また同時に人間の罪をあがなうための完全な犠牲がささげられたのです。したがって、主イエス・キリストを信じるフィリピ教会の礼拝では、もはや動物の犠牲がささげられる必要はありません。罪ゆるされた教会員が救われた感謝のささげものとして自らの体全体を神にささげて礼拝するのです。これが、新約聖書時代に属するわたしたちの礼拝です。ローマの信徒への手紙12章1節にこのように書かれているとおりです。【1節】(291ページ)。

パウロは今日の個所で、主イエスによって完成されたこのような礼拝を背景にして語っています。パウロはここで礼拝を司る祭司の務めを果たしながら、また同時に祭司がささげるささげものという二役を演じているように思われます。

彼は礼拝を司る祭司として、「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に」、わたし自身の血をも一緒にささげると言っています。もちろん、フィリピの教会員がささげるいけにえであれ、パウロがささげる血であれ、それが人間の罪をあがなうのでは全くなく、それらは主イエス・キリストによって完全にあがなわれ、罪をゆるされていることに対する感謝のささげものであるのですが、パウロはここでお互いに遠く離れており、一方は獄につながれている彼とフィリピ教会とが今一つの神礼拝の群れとなって、共に感謝のささげものを携えて神を礼拝しているのです。だから、共に喜んでいるのです。主イエス・キリストの十字架の血によって完成された礼拝に共に参加できる喜びを味わっているのです。これこそが、わたしたちキリスト者に与えられている最高の喜びなのです。詩編126編の詩人は、バビロンの捕囚の地から帰還した民が再建された神殿で礼拝をささげる喜びを歌っています。わたしたちの礼拝にはこのような喜びが満ち溢れているのです。

 パウロが感謝のささげものとして携えているのが殉教の血であるのに対して、フィリピ教会が携えている感謝のいけにえとは何でしょうか。「信仰に基づいてあなたがたがいけにえをささげ」とは、12節から語ってきたフィリピ教会の従順な信仰を指していると考えられます。【12節】。

 パウロはフィリピ教会に変わらない信仰の従順を勧めています。従順とは、パウロに対する従順ではもちろんなく、教会の頭であられる主イエス・キリストに対する従順です。パウロがフィリピの町で主キリストの福音を宣教したとき、彼らは従順な信仰をもってパウロと共に教会建設のために仕えました。その時と同じように、パウロがその地を去って今は獄の中にいるとしても、同じように従順な信仰をもって主キリストに仕え、教会建設のために仕えなさいと勧めています。そして、あなたがたのその従順な信仰を礼拝の際にわたしが祭司となって神にさげましょうとパウロは言っているのです。

 フィリピ教会のそのような従順な信仰は、実は主イエスご自身の従順によって与えられものであるということを、わたしたちは前回学びました。6節以下に書いてあるとおりです。主イエス・キリストが神のみ子であられたにもかかわらず、人の子となられ、しかも罪の人間たちのために僕(しもべ)のようにお仕えになられ、十字架の死に至るまで父なる神に従順であられました。それによって、罪と死とに勝利されて、わたしたちの救いを成し遂げてくださったのです。主イエスの十字架を信じる信仰によって罪ゆるされているキリスト者は、自己中心的で自分だけを喜ばせようとする生き方から解放されて、神に喜んで仕え、従順に神のみ言葉に聞き従っていく新しい人に造り変えられるのです。そして、新しくされたわたし自身とわたしの信仰の従順を、礼拝の際に神におささげすることができるのです。主イエスが従順の道をわたしたちのために開かれ、またその道へとわたしたちを招いておられるのです。

 パウロはさらに従順であるとはどういうことかを語ります。それは、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めること」です。「自分の救いの達成のために努めなさい」と言われると、わたしたち少し違和感を覚えます。と言うのは、救いはただ主イエス・キリストから一方的に与えられるものですから、わたしたち人間の側からの努力は必要ないと考えられるからです。それはそのとおりです。そうであるのに、パウロがここであえて「自分の救いの達成のために務めなさい」と命じているのはなぜかを考えてみなければなりません。その際重要なポイントは、「恐れおののきつつ」という言葉と一緒に考えるということです。神に対する恐れの中で、救いの達成に努め、従順を貫きとおすということが勧められているのです。そこから考えると、「救いの達成に努める」とは、自分がいよいよ救いを必要としている罪びとであることを自覚し、神のみ前に罪を悔い改め、ひたすらに主イエス・キリストの救いを願い求め、主イエスの救いの恵みなしには自分は生きることができないということを知るということにほかならないということが分かります。救いは徹底して神のみわざであり、主イエス・キリストからのみくるということを固く信じて、疑わず、つぶやかず、信仰の道を前進していくことです。13節に、【13節】と書かれてあるとおりです。神は必ずや信じる者たちを終わりの日に神の国へと招き入れてくださり、救いを完成させてくださり、永遠の命を与えてくださるからです。

 14節からは、主なる神への従順を貫きとおし、自分の救いの達成に努めている信仰者の姿が、清く、輝かしい姿として描かれています。【14~16節】。これは何と美しく、力強く、輝きに満ちたみ言葉でしょうか。これがわたしたちキリスト者に約束されている姿なのです。わたしのみすぼらしい、破れだらけで、つまずきの多い歩みがこのような輝かしいものに変えられていくのです。

信仰者には多くの誘惑や試練があります。時に、厳しい信仰の戦いを迫られます。けれども、それらの試練の中で、信仰が鍛えられ、試練から希望と喜びへと変えられます。なぜならば、信仰の道を導かれるのが主なる神であり、信仰の導き手が主イエス・キリストであるからです。

 信仰者が住んでいる現実の世界、この世は、いつの時代も、「よこしまで曲がった時代」です。神なき世界、神に背いている世界です。今なお、罪と悪とがはびこっている世界です。けれども、キリスト者は知っています。主イエス・キリストの十字架によって、罪と悪の牙はすでに折られており、死のとげはすでに抜き取られているということを。罪と死と滅びに勝利された主イエス・キリストがわたしたちのための勝利者として天に座しておられることを。それゆえに、わたしたちはどのような邪悪な時代であろうとも、その時代から逃れるのではなく、しかし決してその時代の一人となるのではなく、その時代の中にあって、「地の塩、世の光」としての使命を果たしつつ、主キリストを指し示す証し人として、それゆえに暗い世界に輝く星として、歩んでいくことができるのです。

 16節に、「命の言葉をしっかり保つでしょう」とあります。わたしたちの本当の命は神のみ言葉の中にあります。信仰者にそのような生き方を可能にするのは神の命のみ言葉です。神のみ言葉はわたしたちが生きるために必要なのはパンだけではなく、朽ちることのない神の命のみ言葉であり、神の導き、神の愛であることを教えます。神のみ言葉は暗闇が支配する世界の中でわたしが歩むべき道を照らす光であり、道しるべです。神のみ言葉は誘惑や迷いが多いわたしの歩みを支え、導く真理であり、力です。神のみ言葉はわたしの傲慢や欲望を打ち砕く鉄槌であり、あるいはわたしが絶望し、嘆き悲しむときの希望の光です。この神のみ言葉に固くしがみつくことによって、わたしたちはどのような時にも、神に対する恐れを持ちつつ、従順を貫きとおし、また共に信仰の従順をささげながら、共に喜びをもって主を礼拝する群れとして成長していくのです。

(祈り)

1月5日説教 「 神に栄光あれ、地に平和あれ 」

2020年1月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ルカによる福音書2章8~21節

説教題:「神に栄光あれ、地に平和あれ」

 ルカによる福音書を続けて読んできました。今年も同じように、ルカ福音書と創世記、フィリピの信徒への手紙を連続して読んでいくことにします。これまで読んできたルカ福音書は二人の人物の誕生について交互に語っていました。まず、洗礼者ヨハネの誕生の予告とそのあとにメシア・救い主、主イエスの誕生の予告があり、それに続いて洗礼者ヨハネの誕生が語られました。神が年老いたザカリアとエリサベトに約束されたみ言葉は人間の不可能や不信仰を超えて、神の奇跡として必ず成就するということをわたしたちは確認しました。

 次に、2章から主イエスの誕生の記録が語られます。ここでも、神がヨセフとマリアに約束されたみ言葉は、この二人はまだ婚約中であり、一緒に住んではいなかったのに、神の聖霊がおとめマリアの胎内に神のみ子を宿らせるという、人間の不可能や罪を超えた神の奇跡によって、成就されていくということをわたしたちは見てきました。ルカ福音書1章から2章へと章をまたいでいますが、また聖書を読んでいるわたしたちの時代は2019年から2020年へと年をまたいでいますが、神の救いのご計画は時や時代の変化に全く左右されずに、着実に進められているのです。洗礼者ヨハネの誕生に続いて、彼の後においでになるメシア・救い主、主イエス・キリストが誕生されます。これによって、旧約聖書の民イスラエルが長く待ち望んでいた救いの時が成就しました。

 そこで、神の約束の成就の時、神の救いの恵みの時が開始された最初のクリスマスの出来事を、きょう与えられたみ言葉からご一緒に聞き取っていきたいと思います。2章8節以下を概観すると、8~12節では、羊飼いたちが最初にクリスマスの福音を聞いたことについて、少しとんで、15~20節では、羊飼いたちがベツレヘムに急いで幼子主イエスを礼拝したことについて描かれており、その中に挟まれるようにして、13、14節には、天使と天の軍勢とが神を賛美したことについて書かれています。ここでは、クリスマスの出来事の二つの相反する特徴が結合されているように思われます。一つは、クリスマスの出来事の貧しさ、目立たないみすぼらしさです。もう一つは、クリスマスの出来事の大きさ、まばゆいほどの輝きです。クリスマスにはこの二つが結合しています。わたしたちはこの二つの特徴を見落とさないようにしなければなりません。この二つの特徴の中にクリスマスの深い意味が現われているからです。

 第一の、クリスマスの貧しさについてですが、それは羊飼いたちに与えられたクリスマスのしるしに象徴されています。【12節】。羊飼いたちに与えられたクリスマスのしるしはこのように貧しく小さくみすぼらしいものでした。神が全人類を罪と死と滅びから救い出すために人となられ、この世においでくださったという偉大なみわざは、全く目立たない小さなしるしとして与えられているのです。このクリスマスのしるしを見るために、わたしたちは心の目を集中させなければなりません。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」に、じっと目を凝らさなければなりません。ここから目を離さないようにしなければなりません。わたしの周囲にある華やかなものや目を奪う価値あると見えるすべてのものから目をそらし、あるいはわたしを覆っている暗黒の雲やわたしに襲いかかってくるあらゆる恐れや不安からも目をそらして、クリスマスのしるしとして与えられているこの目立たない貧しく低い幼子に、わたしの思いと心と信仰とを集中させ、さらにはこの幼子のご生涯とその苦難と十字架へと向かう道から決してそれないようにしなければなりません。

 讃美歌256番で、ドイツの17世紀の詩人パウル・ゲルハルトはこのように歌っています。「きらめく明か星/うまやに照り/わびしき乾草/まぶねに散る。こがねのゆりかご/錦のうぶぎぞ/きみにふさわしきを。この世の栄を/望みまさず/われらに代わりて/悩みたもう/知りえしわが身は/いかにたたえまつらん」。わたしたちの罪のために貧しく低くなられ、十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われた主イエスを仰ぎ見ながら、この方から決して目を離さずに、この一年を歩んでいきたいと願います。

 クリスマスの貧しさは羊飼いたち自身によっても象徴されています。ここに登場する羊飼いたちは、ある期間に主人から羊の群れを預かり、牧草を求めながら、また羊たちを狼などの攻撃から守りながら、群れと一緒に移動するのが仕事でした。その羊飼いの仕事は重労働であり、困難でした。当時の羊飼いたちは「地の民」と呼ばれ、信仰深いユダヤ人からは軽蔑され、罪びとの仲間とされていました。そのような貧しく卑しい務めであった羊飼いたちに、最初のクリスマスの福音が伝えられたと聖書は語っているのです。エルサレムのヘロデ王の宮殿では明るいローソクの光に囲まれた豪華な食卓で夜遅くまでにぎやかな宴が催されていたのかもしれません。当時の宗教的指導者であったファリサイ派の学者たちやサドカイ派の祭司たちは熱心に聖書を研究し、神殿での務めを果たしていたのかもしれません。けれども、彼らはクリスマスの福音を聞くことはできませんでした。そうではなく、神は貧しく卑しい務めの羊飼いたちをお選びになりました。家も財産をも持たず、危険な重労働に明け暮れ、この世では軽蔑されるような彼らこそが、最初のクリスマスの喜ばしい知らせを聞くために神によって選ばれたのです。

 ここには神の選びの不思議があります。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一1章26節以下で、教会の選びの不思議さについて書いています。その個所を読んでみましょう。【26~31節】(300ページ)。人間のすべての知恵や誇り、傲慢な思いや自我が打ち砕かれて、ただお一人、わたしたちの罪のために十字架で死なれた主イエス・キリストだけを誇る者となるために、神は最初のクリスマスの日に羊飼いたちをお選びくださったのです。

 そこで、神によって選ばれた羊飼いたちはそのクリスマスの小さなしるしを見るためにベツレヘムへと急ぎます。15節以下に書かれているとおりです。神に選ばれた羊飼いたちは幼子主イエスに会うために、メシア・救い主を礼拝するために急ぎます。彼らは主イエスの最初の礼拝者となりました。彼らはまた主イエスのことを語り伝える最初の伝道者となりました。彼らが神に選ばれたのは、実に、このためだったのです。神が貧しいこのわたしをお選びになられたのもこのためです。

 クリスマスのもう一つの特徴、クリスマスの出来事の大きさ、輝きについては、13、14節に書かれています。【13~14節】。ここでは、先に羊飼いたちにクリスマスの福音を伝えた主の天使と、天で神のみもとにあって神にお仕えしている兵士たちの群れとが一緒になって歌う神賛美の歌が響いています。わたしたちは地上に与えられたクリスマスの小さなしるしを見るとともに、この天から響き渡る賛美の歌をも聞かなければなりません。

 ここから教えられる第一のことは、クリスマスの喜ばしい福音と神賛美の歌とは天から来るということです。「主の天使」は神がみ言葉をわたしたちに語り、伝える際の一つの手段として、聖書にしばしば登場します。神の啓示の手段の一つです。天使の登場は神の現臨です。天使が語る言葉は神のみ言葉です。天使が伝える神のみ言葉は10、11節に書かれていました。【10~11節】。このクリスマスの喜ばしい知らせ、救いの福音は天におられる主なる神からきました。地上のどこからか、あるいはだれかからではありません。したがって、わたしたちは地上の声を聞くための耳ではなく、天の神からのみ言葉を聞くための耳を持たなければなりません。そのためには、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰を持ち、聖霊なる神の助けと導きとを願い求めなければなりません。それとともに、わたしたちが今見ているわたし自身とこの世界の現実に目を奪われないように、それに縛られないように、目と心を高く天に向ける必要があります。

 14節は「あれ」と願望の形で訳されていますが、オリジナルのギリシャ語では「あれ」「あるように」という言葉はありません。ギリシャ語原典を直訳すると「栄光、いと高いところでは、神に。地の上では、平和、神に喜ばれる人々に」となります。ここで重要なことは、今は天に神の栄光はないけれども、やがていつかあったらいいなあという人間の願望ではないということです。また、今はまだ神に喜ばれる人たちに平和はないが、やがていつかあったらいいのにという人間の願いがここで語られているのでもないということです。このクリスマスの日に、神の栄光が現れているということであり、信仰者たちに平和が訪れているということが語られているのです。すなわち、神のみ子が天から下って、人となっておいでくださったこの日に、天には神の栄光が満ち溢れており、光り輝いている。また、地上では、主イエス・キリストによって、教会の民に平和が与えられているということが、天からの神のみ言葉として語られているのです。

 では、クリスマスの日に主キリストによって実現した神の栄光、地の平和とは具体的にどういうことを意味するのでしょうか。まず最初に、この順序に注目したいと思います。初めに、神に栄光があると言われ、次に地に平和があると言われています。この順序が重要です。この順序が正しくなければ、二つとも実現しません。わたしたちは第一に、神の栄光へと目を向けなければなりません。神の栄光を仰ぎ見ることを第一にしなければなりません。そうすれば、次に地の平和を見ることができます。地上に平和が実現するのを経験することができます。

 けれども、神の栄光が曇らされ、覆い消されている世界では、真の平和は実現することはありません。神が侮られ、無視されている世界にはまことの平和はありません。わたしたちが真の平和を望み、真に平和な世界、平和な国、平和な家庭、そして真の平和に満たされた人生を送るためには、まず神の栄光を仰ぎ見、神に栄光を帰することがなければなりません。

 栄光という言葉は重さや価値あるものを意味しています。神の栄光とは、神の偉大さ、尊厳、この世にあるいかなるものとも比較されえないほどの存在の重さを意味しています。9節ではそのような神の栄光が羊飼いたちをめぐり照らしてので、彼らは非常に恐れたと書かれています。神の栄光を仰ぎ見るわたしたち人間の最も正しい態度は恐れです。神に対する恐れを抱くことです。それはまた、神の尊厳と偉大さを認めることですから、人間の側からいえば自分を小さく、低くするということでもあります。

 地には平和ということについてみていきましょう。前にも言いましたように、神の栄光、次に地の平和というこの順序をここでも確認したいと思います。つまり、平和は天の神から来るということです。神は天におられますが、いつも地を顧みてくださり、地に住む人間たちを愛しておられます。そして、地にまことの平和を与えてくださいます。そのために神はご自身のみ子を地にお遣わしになりました。そして、わたしたちの罪をゆるされ、神とわたしたちとの間の敵対関係を取り除かれ、神とわたしたちとの間に和解と平和を与えてくださいました。平和とは第一には神との平和のことです。エフェソの信徒への手紙2章14節に、「キリストはわたしたちの平和である」と書かれています。主キリストの十字架の死によって神と人間との間にあった敵意という隔ての壁が取り除かれました。神との真実の平和があるところに、人間が住むこの地上の平和が与えられるのです。主キリストを信じる教会の民は平和の福音に告げ知らせる証し人とされるのです。

(祈り)