2月9日説教「罪人を探し求める神」

2020年2月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章8~19節

    ローマの信徒への手紙10章5~13節

説教題:「罪びとを探し求める神」

 神によって最初に創造された人間、アダムとエバは、神に禁じられていた善悪の知識の木からその実を取って食べ、神の戒めを破って罪を犯しました。これが、人間の最初の罪、原罪であり、アダム以後のすべての人間はこのアダムの罪に連なっており、人はみな生まれながらにして罪に支配されている罪びとである、これが、聖書が語る人間の罪、キリスト教教理で原罪(オリジナル・シン)と言われる教えです。この原罪について、使徒パウロはローマの信徒への手紙5章12節でこのように言っています。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」。そして、テモテへの手紙一1章15節では、「わたしは、その罪びとの中で最たる者です」と告白しています。この罪の認識と告白から、キリスト教信仰は始まると言ってよいでしょう。わたしたちは創世記3章のみ言葉から、人間の罪とは何かを正しく理解し、またその罪に対して神はどうなさったかを深く聞いて、救いの恵みにあずかる者になりたいと願います。

 蛇の誘惑によって、神に禁じられていた木から取って食べたアダムとエバは、蛇が言ったように、彼らの目が開け、神のように善悪を知るものとなったでしょうか。いや、そうはなりませんでした。彼らは神にはなりませんでした。神になるどころか、後で分かるように、神から遠ざかり、神を失った罪びととなるほかありませんでした。彼らの目が開け、彼らが見たのは自分たちの裸の姿であり、彼らが知ったことは自分たちが裸の恥をさらしていることだったということが7節に書かれています。神の戒めに背き、罪を犯した人間はこのようにならざるを得ません。

 ここで少し寄り道ですが、善悪を知る木とは、具体的に何であったのかについて、キリスト教の伝統ではリンゴの木とされていますが、聖書にはその名は書かれていません。ではなぜ中東地域ではあまりなじみのないリンゴと言われるようになったのかは、おそらくラテン語で悪という言葉はmalusであり、リンゴはmalumで、両者の発音が近いということから、malus悪からmalumリンゴが連想されたのであろうと推測されています。

 本題に戻って、自分たちが裸であることを知ったアダムとエバはいちじくの葉で裸を隠そうとします。人間が自分の罪の姿を何かで覆い隠そうとする、それは人間の本能と言ってよいかもしれません。でも、彼らはそれにとどまりません。裸の一部を隠そうとしただけでなく、自分の姿全体を、自分の存在そのものを神の前から隠そうとしたことが8節に書かれています。

 【8節】。神の戒めを破り、罪を犯したアダムとエバは、神が近づいてこられることを知った時、神の顔を避けて木の間に身を隠しました。神の存在を知った時、罪の人間は神から遠ざかろうとします。ここには、罪の本質が現れているように思われます。つまり、罪は神のみ前であらわになり、意識され、表面化するということです。蛇の誘惑によって禁じられていた木の実を食べた時点では、まだ罪は表に現れてはおらず、彼ら自身も自分の罪に気づいていなかったようです。しかし、神が近づいてこられ、神の存在を知った時に、彼らははっきりと自らの罪に気づかされます。自分たちが神の戒めに背いた罪びとであるということ、それゆえに神から身を隠し、神から遠ざかって生きなければならなくなったこと、もはや神と共に生きることができなくなったこと、そのことに気づかされたのです。罪はそのようにして次の段階に進みます。人間が自ら意識して、神から離れ、神を嫌い、神を拒絶するようになっていくのです。

 アダムとエバはエデンの園で造り主であられる神と共に生き、神から託された園を管理し、耕す務めを果たしながら、共にふさわしい助け手として、共に神に仕える連帯的人間として生きる時に、彼らの生活はエデンの園の名にふさわしく、つまり、喜びの園で喜びに満たされた生活となるはずでした。しかし今や、彼らはもはや神と共に生きる者たちではなくなりました。彼らから喜びは失われ、恥と恐れと不安が彼らを支配するようになりました。そしてまた、園を管理する務めを託されていた彼らは、園の木によって自分たちの身を隠してもらわなければならないという、みじめな立場に転落していることに気づかされます。もっとも、彼ら自身はそのことに気づいてはいないのですが。

 アダムとエバが神の接近を知って、神の存在を身近に感じた時に、自分たちの罪を自覚し、神から身を隠そうとしたということは、わたしたちが自分の罪を認識する際にも同じことが当てはまります。神がわたしの方に近づいてこられ、神のみ顔の前に立たされる時に、つまりわたしが神と出会う時に、本当の意味で自分の罪を知らされるのです。別の側面から言えば、神の存在を知らない人は自らの罪を知ることもありません。罪とは何かをどれほど深く学び研究しても、神との真実の出会いがなければ、本当の意味で罪を知ることも自覚することもできません。わたしが神と真実の出会いをする時に、わたしの罪がどのようなものであるのかを知らされます。しかし、もちろんその時には、わたしに罪を自覚させる神は、同時にわたしの罪をおゆるしになる神であることをも、わたしは知らされるのですが。

 続いて9、10節にはこのように書かれています。【9~10節】。9節の原典ヘブライ語を直訳するとこうなります。「そして、主なる神はアダムに呼びかけた。そして彼は(つまり神は)言った、あなたはどこにいるのか」。ここには「呼びかける」、あるいは「名前を呼ぶ」という言葉と「言う」という言葉とが重ねて用いられています。ここでは、神から身を隠し、神から逃れようとする罪びとアダムを、その罪の暗黒の中から呼び出そうとされる、神の呼びかけの強いみ声が響いているのです。「あなたはどこにいるのか」、これが、罪びとアダムに対して神が語りかけられた最初の言葉であるということを、わたしたちは印象深く心に留めたいと思います。なぜならば、「この木から取って食べたら必ず死ぬ」(2章17節)」と言われた神の戒めを破ったアダムに語られるべき言葉は、「お前は死ぬべきだ、お前に死を宣告する」となるはずだったからです。しかし、神が語られたみ言葉はそうではありませんでした。「アダムよ、お前はどこにいるのか」と呼びかけ、罪の中に身を隠そうとするアダムをご自身のみ前に呼び寄せる、招きのみ言葉だったのです。わたしたちはここに、罪びとに対する神の深いみ心を見るのです。

 その第一は、神は、戒めを破って罪を犯した人間アダムをそのまま見て見ぬふりをなさらないということです。神はいつも人間をみ心にとめておられます。神は人間無しで、ただ神だけであろうとはなさいません。神は人間が何をなそうが、どこへ行こうが、気に留めないような方ではありません。人間に無関心ではおられません。人間のすべての行動、人間の心の中のすべてをも見ておられます。人間が罪を犯すなら、その罪に見過ごしにはなさいません。罪の中にいる人間をも決して見過ごしになさいません。

 第二に、神は人間に自らの罪の姿を自覚させます。「アダムよ、お前はどこにいるのか」という神の呼びかけは、人間が今いる罪の存在を気づかせます。神の戒めに背いて罪を犯したために、神のみ顔をまともに見ることができず、神の前から身を隠さなければならなくなった自分たちの現実の姿を自覚させるのです。かつては、エデンの園で神と共に生きることを喜びとし、共に神に仕えることによって喜びを分かち合っていた連帯的人間であった自分たちが、罪に落ちた今は、神から遠ざかり、神を恐れなければならなくなった、その大きな変化、その大きな転落を自覚させるのです。罪とは神の恵みから落ちることです。神の恵みに気づかず、その恵みを投げ捨て、神の恵みに感謝をしない、神の恵みに応えない、それが罪なのです。

 第三に、「アダムよ、お前はどこにいるのか」という神の呼びかけは、罪を犯したアダムとエバにとっては、神の裁きのみ言葉となります。彼らは神の裁きを恐れなければなりません。だれも神の裁きから逃れうる人はいません。神のみ前で罪を問われない人間は一人もいません。神は人間の罪を裁かれる義なる神であられます。神は人間の罪を裁かれる義なる神であることによって、なおも罪びとである人間と関係を持ち続けられるのです。

 そして、第四に、「アダムよ、お前はどこにいるのか」と言われる神の呼びかけの最も重要な意味をわたしたちは聞き取らなければなりません。「これを食べたら必ずお前は死ぬ」という神の戒めを破った人間アダムに語られるべき言葉は、「死」以外ではないということをわたしたちは前にも確認しましたが、神はその裁きを直ちに実行なさいません。神はなお少しの猶予の時間を人間にお与えになります。「アダムよ、お前はどこにいるのか」という神の呼びかけは、人間に罪を自覚させるみ言葉であり、また神の裁きのみ言葉であると同時に、罪の人間が悔い改めて、神に立ち帰る機会を備えるみ言葉でもあるのです。悔い改めへの神の招きのみ言葉なのです。

 神は罪びとをなおも呼び求めておられます。探し求めておられます。人間が罪の中で滅びていくのを神は望んでおられません。悔い改めと救いへと招いておられるのです。そのような神の救いへの招きのみ言葉、救いへの招きの場面を、わたしたちは旧約聖書と新約聖書のすべてのページに限りなく見いだすことができるでしょう。聖書全編は、罪びとを探し求め、救いへとお招きになる神の招きのみ言葉にあふれています。

 わたしたちはその場面をいくつも挙げることができるでしょう。創世記22章1節で、神はアブラハムの名を呼ばれました。「アブラハムよ」。彼は「はい、ここにおります」と答え、独り子イサクを燔祭の犠牲として神にささげるためにモリヤの地に旅立ちました。彼は神の呼びかけに従順に応答し、服従し、彼の独り子をすら惜しまず神にささげたゆえに、神に祝福された信仰者となりました。出エジプト記3章4節で、神は「モーセよ、モーセよ」と呼ばれました。モーセは「はい、ここにいます」と答え、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出される神の偉大はみわざのために仕えました。サムエル記上3章10節で、神は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれました。サムエルは「僕(しもべ)は聞きます。主よ、お話しください」と答えました。そして、イザヤ書6章では、神は「わたしは誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろう」と問われました。その時イザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と応答しました。

 新約聖書では罪びとを探し求められる神の大きな愛はいよいよ増し加わります。主イエスは、100匹の羊のうちの迷い出た1匹を見つけるまで熱心に探し歩く羊飼いのたとえをお話になりました。家出をし、放蕩に身を持ち崩した息子を長く帰りを待ち望む父親と、その息子が帰ってきたときの父親の大きな喜びお語りになりました。罪びとが一人でも悔い改めて立ち返るなら、天に大きな喜びがあるであろうと言われました。

 罪の中に失われていた人間を見いだすために、神は今もなおみ子主イエス・キリストによって、わたしたち一人一人を呼び出だしてくださいます。わたしたちを罪から救い、新しい神のための働きとして召すために、わたしたちに呼びかけてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、わたしたちを呼び求めるあなたのみ声をさやかに聞き取ることができる信仰の耳をわたしたちにお与えください。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。

2月2日(日)説教「主キリストの福音に仕える同労者」

2020年2月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    フィリピの信徒への手紙2章19~30節

説教題:「主キリストの福音に仕える同労者」

 きょうの礼拝で朗読されたフィリピの信徒への手紙2章19節以下には二人の人物のことが書かれています。一人はテモテ、もう一人はエパフロディト、この二人は獄中のパウロの世話をしていました。当時は、犯罪人として投獄されても、最終の判決が下されるまでは、比較的自由な生活をゆるされていました。食物の差し入れや、その他生活に必要な物を支援してもらうこと、また面会や手紙を書くことだけでなく、投獄されている建物の中にいる他の囚人や兵隊たちに福音を語ることもゆるされていたということがこの手紙の1章12節以下などからも推測できます。使徒言行録28章23節以下には、ローマに護送されたパウロが自分の宿舎で定期的に人を集めて集会をしていたことが書かれています。パウロは主キリストの福音をのべ伝える宣教者として何度も迫害を受け、捕らえられ、鎖につながれましたが、囚人に与えられていた権利を最大限に用い、判決が下されるまでのあらゆる機会を活用して、福音宣教のために仕えました。神のみ言葉は、この世のどのような鎖によっても決してつながれていないということを証ししました。

 パウロはまた、獄中にあっても、福音宣教のための良き同労者である弟子を与えられていました。その二人がテモテとエパフロディトです。テモテについては、22節でパウロは「息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」と言い、エパフロディトについては25節で「わたしの兄弟、協力者、戦友である」と言っています。共に神のみ言葉に仕える同労者の交わりを、この世のどのような鎖も鉄格子も引き裂くことは決してできないということを、ここでも言わなければなりません。

テモテとエパフロディトは獄中にあるパウロと共に神のみ言葉に仕え、主キリストの福音宣教のために働きました。パウロと彼ら2人の関係を友情と呼ぶにしろ、師弟愛、あるいは同労者と呼ぶにしろ、彼らを固く結びつけているのは主キリストの福音以外ではありません。彼らは共に主キリストの福音のために働く同労者として、固く結びあっています。もし、わたしたち人間をこの地上で固く結びつけるものがあるとするならば、それを友情とか愛、あるいは交わりと呼ぶとすれば、それはどこから、どのようにして与えられるのでしょうか。現在社会の中で、人が孤立し、個人主義的になり、だれもが自分のことを考えるのに精いっぱいであるような人間たちを、それでもなお、お互いを認め合い、他の人のために仕えることを喜びとし、他の人の弱さや痛み、重荷を自らに担っていき、使徒パウロと共に「おお、わが愛する兄弟姉妹よ、親愛なるわが同志よ。同労者よ」と呼び合うことができるとすれば、それはどこから、どのようにして与えられるのでしょうか。わたしたちはその答えを、きょうのみ言葉に見いだすことができるのです。それは、わたしたちが共に主キリストの福音ために働き、そのために共に汗を流し、時に労苦や試練をも共にする時にこそ、そこに真実の兄弟愛と言うべきものが、主にある交わりが、この世のどのような鎖や鉄格子によっても決して引き裂かれることがない信仰共同体の交わりが与えられるのです。

では、19節から読んでいきましょう。【19節】。テモテは1章1節で、この手紙の共同発信人としてその名が挙げられていました。使徒言行録16章には、パウロがキリスト者になって間もない若いテモテを連れてマケドニア州のフィリピ伝道に出かけたことが書かれています。それ以来、テモテはパウロの最も強力な同労者として共に福音宣教に仕えました。この時にも、投獄されていたパウロの近くでパウロをサポートしていたようです。そのテモテをフィリピ教会に遣わす予定であるとパウロは言います。テモテ派遣の目的は、「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいから」と彼は言います。この19節は口語訳聖書では「あなたがたの様子を知って、わたしもまた力づけられたいからである」となっていて、この方が正確です。つまり、ここには「あなたがたも、そしてわたしも共に」という意味が込められているのです。フィリピ教会の人々は獄中にいるパウロのことが気がかりです。しかし、テモテが教会に遣わされて、パウロの現況を伝え、獄中にあっても主キリストの福音が力強く証しされていることを彼らが知って、彼らは大いに力づけられるでしょう。それとともに、テモテが再びパウロのもとへと遣わされて、フィリピ教会が迫害の中でも福音の信仰のために心を合わせて戦っていることを伝えられ、パウロもまた力づけられ、励まされることになるでしょう。パウロとフィリピ教会とは、派遣されたテモテによって、互いに固く結ばれ、共に主にある勇気と希望とを分かち合うことができるのです。「主イエスによって希望しています」とパウロが書いているのはそのことを含んでいるのです。主イエスがパウロとフィリピ教会、そして派遣されるテモテの3者を固く結びつけているのです。

ここでもう一つ注目したいことは、「遣わす」と訳されている言葉です。実は、きょうの個所には同じギリシャ語が4回用いられています。翻訳はそれぞれ違っていますが、テモテに関しては、19節「遣わす」のほかに、23節「送る」、エパフロディトに関しては、25節「帰す」、28節「送る」。パウロはテモテに対してもエパフロディトに対しても、意識的に同じ言葉を用いていると推測されます。この言葉には、パウロのいわば教会論的な、あるいは宣教論的な考えが反映されていると考えられます。すなわち、テモテとエパフロディトが遣わされるのは、単にパウロの個人的な使い走りのためとか、パウロとフィリピ教会の便宜を図るためとかではなく、共に主キリストの教会を建てるための、また主キリストの福音を宣教するための、主キリストによって遣わされ、派遣された使徒としての働きをパウロはここで二人の弟子に見ているのです。19節の「主イエスによって希望しています」という言葉の中にはその意味も含まれています。

20~22節にはテモテのことが紹介されています。【20~22節】。これはフィリピ教会へのテモテの推薦状と言ってよいでしょう。ここには4つのことが語られています。第一には、テモテがフィリピ教会のことをだれよりも親身になって心にかけている。だから、あなたがたのところに派遣され、わたしパウロとあなたがたとの思いを一つに結びつけるのに最も適任であるということです。テモテはパウロと共にフィリピ教会を建てるために一緒に働きました。そのことをも彼らは知っています。教会設立当初のころに共に福音宣教のために熱心に仕えたことを思い起こさせるというねらいがパウロにはあったのかもしれません。

第二には、テモテは自分のことを求めず、主キリストのことを第一に考えているということです。どんなに能力があり技術が優れている人であっても、自分を第一に考え、主キリストのこと、教会のことを二の次に考える人は、本当の意味で主キリストに仕えていることにはならず、真実に教会を建てるために働くこともできません。テモテは自分のことは求めず、主キリストのことを第一に考え、それによって自我から解放され、自由と喜びとをもって主と隣人とに仕えていく人とされています。

第三に、テモテが確かな人であることをフィリピ教会の人たちもよく知っているということです。「確かな人」というギリシャ語の意味ははっきりしません。口語訳聖書では「練達した人」と訳されていました。おそらく、多くの試練や迫害を経験し、それでもなお忍耐強く、福音のために戦いぬき、それによっていよいよ信仰を確かにすることを言い表していると考えられます。

第四は、パウロと共に福音に仕えてきた同労者であるということです。パウロとテモテは年齢から言っても、また信仰の経歴から言っても父と子どもの関係でしたが、主キリストの福音に仕えることにおいては共に主キリストの僕(しもべ)であり、福音宣教の同労者です。教会に所属する一人一人も、互いに様々な違いがあり、賜物の違いがあるにしても、みな共に福音のために仕える同労者なのです。

以上のことを挙げて、パウロは弟子のテモテをフィリピ教会に推薦しています。それらは、テモテが何か優れたものを持っていたからとか、彼自身の能力とか知識とかを挙げているのではありません。むしろ、彼が自分が持っているものをすべて捨て去り、彼自身を主キリストに明け渡し、主キリストの福音によってのみ生きることに他なりません。わたしたち信仰者が主キリストから神の国への推薦状をいただくことができるとすれば、それはおそらく同じような内容になるのでしょう。主イエスは福音書の中で、「だれでも幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない。自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従う人こそ神の国にふさわしい」と言われました(マルコによる福音書10章15節、同8章34節以下参照)。

23、24節ではパウロ自身の今後の計画のことが簡単に述べられています。間もなく彼には最終判決が下さるでしょう。その判決結果を携えてテモテがフィリピ教会に派遣されることになるでしょう。その判決が死刑になるか、それとも無罪解放となるかは全く予想が立ちません。2章16、17節では死刑を覚悟していたように感じられましたが、24節では解放されて、フィリピ教会を訪れることができるであろうとの希望が語られています。いずれにせよ、パウロの将来のすべては主によって定められているゆえに、彼はその道を確信をもって進んでいくことができます。

25節からはエパフロディトについて書かれています。彼は獄中のパウロへの援助物資を携えてフィリピ教会から派遣されました(そのことについては4章18節に書かれています)が、途中で重い病気になり、パウロへのサポートが十分にできずに、また望郷の念をつのらせ、重度のホームシックにかかっていたようです。しかも、彼が病気になり、パウロに対する支援の務めを十分に果たすことができなかったことがフィリピ教会に伝わり、非難を受けていたと思われます。このことがさらにエパフロディトを苦しめていました。

けれども、パウロはそのようなエパフロディトを擁護し、否、擁護するだけでなく、彼もまた主キリストの福音のために仕える同労者であることを強調するのです。先にも触れましたが、25節と28節で、「エパフロディトをフィリピ教会に派遣する」という言葉を2度用いています。彼が用済みになり、役に立たなくなったから送り返すというのではありません。彼もまた主キリストの福音に仕える使徒として、主キリストから派遣されているのです。

25節では彼のことを、「わたしの兄弟、協力者、戦友である」と言い、また「あなたがたの使者、わたしの奉仕者」とも言っています。27節では、「実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」と言っています。さらに30節でも、「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」とまで言うのです。エパフロディトは彼の弱さと病気とをもって、彼の死の危険をもってまで、主キリストの福音に仕えたのです。彼はその弱さと無力とによってこそ、最もよく主キリストのために仕えたのです。それゆえに、29節でパウロは「彼のような人こそが敬われなければならないと」と言うのです。主キリストのために仕えることにおいては、どのような弱さも欠けも破れも、すべてが主のみ心にかなって用いられるのです。主キリストの福音のために共に仕える同労者は何と幸いなことでしょう。

(祈り)

1月26日説教 「わたしはこの目であなたの救いを見た」

2020年1月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    ルカによる福音書2章22~38節

説教題:「わたしはこの目であなたの救いを見た」

 ルカによる福音書は主イエスの誕生の記録に続いて2章21節では生まれて8日目の割礼と命名の儀式について、それから22節以下では40日間の清めの期間を経てからの初子の奉献の儀式(23節)と清めの儀式(24節)について記しています。これらは旧約聖書の律法に定められていたいたことであり、イスラエルのどの家でも長男が誕生した際には行われる習わしでした。主イエスはおとめマリアの胎から聖霊なる神によってお生まれになった神のみ子ですが、一人の人間として、人の子として、神がお選びになった神の契約の民イスラエルの一人としてお生まれになりました。主イエスはまことの神であられ、同時にまことの人となられました。ここではまずそのことが確認されます。

 ガラテヤの信徒への手紙4章4~5節で使徒パウロはこのように書いています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。主イエスは神のみ言葉である律法の下にお生まれになり、その律法を完全に成就され、それによって律法の下にあったイスラエルの民と全人類の罪を贖われ、すべての人の罪をゆるす救い主となられました。ルカ福音書2章に記されているこれらの儀式は、ヨセフとマリアという一つの家庭内で行われている小さな儀式ですが、そこにはすべての律法を完全に成就される主イエスの救い主としてのお働きがすでに暗示されていることをわたしたちはきょうのみ言葉から知らされます。

 21節には、生まれて8日目の割礼と命名の儀式について書かれています。【21節】。割礼はイスラエルの家に生まれた男子が神に選ばれた契約の民であることのしるしとして受ける儀式です。主イエスは神の契約の民の一人として誕生されました。しかも、契約の民イスラエルが旧約聖書の中で長く待ち望んできたメシア・キリスト・救い主として誕生されたということが、次の命名の儀式で暗示されています。「イエス」(これはギリシャ語ですが)、ヘブライ語では「ヨシュア」、その名の意味は「神は救いである」という彼のお名前は、本来は父親が付けるのですが、主イエスの場合には、すでにわたしたちが1章31節で聞いたように、彼がお生まれになる以前に神によってあらかじめ決められていたお名前であり、そこには神の永遠の救いのご計画と強い意志が言い表されていました。すなわち、神はご自分がイエス、神は救いであると名づけられるご自身のみ子によって、ご自身の救いのみわざを完全に成就されるという神の強い意志が、この命名によって明らかにされているのです。この日にヨセフとマリアの家で行われた割礼と命名の儀式は、他のイスラエルの家で同じように行われる儀式とは違った、特別の意味を持っていたということをわたしたちは知らされるのです。

 22節の清めの期間についてはレビ記12章に定められています。男の子を出産した婦人は40日間宗教的な汚れの状態にあるとされました。その期間が過ぎてから、エルサレム神殿で1歳の雄羊かあるいは2羽の山鳩ないしは家鳩をささげることで清められると定められていました。ヨセフとマリアは結婚して間もない貧しい家庭でしたので、例外で認められていた2羽の鳩をささげたと24節に書かれています。

けれども、貧しくても、汚れの期間が終わり再び神との交わりが回復されることへの喜びは大きかったと推測されます。二人はガリラヤのナザレからエルサレムまでの100キロ以上もの困難な旅を、清めの期間が終わるや否や、神へ感謝のささげものをするために、幼子を抱いて出かけるのです。2章の初めに書かれていた2か月近く前にエルサレム近郊のベツレヘムに旅した際は、ローマ皇帝の権力に強制されてでしたが、このたびは違います。神から約束されていた男の子が与えられたことに対する感謝と、清めの期間が満たされて再び神との豊かな交わりがゆるされたことの感謝の思いに満たされて、二人は信仰の喜びの中をエルサレムへと向かいました。

23節に書かれていることは「初子の奉献」と言われる儀式です。初子の奉献の起源は出エジプトの出来事にあります。神はエジプトで長い間奴隷としての労役に苦しめられていたイスラエルの民を救い出すために、ある夜エジプト全土に滅ぼす者を遣わし、エジプト人の家庭に生まれた長男の命をすべて奪い取られましたが、滅ぼす者はイスラエルの家の前を過ぎ越して、イスラエルの家は神によって守られたということが出エジプト記12章に書かれています。これがのちの過ぎ越しの祭りの起源となりました。この救いの出来事から、イスラエルの家に生まれた長男の命は神のものであるゆえに神にささげられなければならない。ただし、動物の血を贖いの供え物としてささげることによって、買い戻すことができると定められていました。

主イエスの両親であるヨセフとマリアはこの律法の規定に従って長男を神にささげ、贖いの供え物をささげて神を礼拝したのです。ここで律法の規定を満たしているのは親であるヨセフとマリアですが、しかしわたしたちは知っています。初子の奉献の律法を本当の意味で、完全に成就されるのは主イエスご自身であるということを。

また、ここで行われている清めの儀式と初子奉献の儀式は、ヨセフとマリアというガリラヤ地方の小さな新婚家庭内で起こっている出来事ですが、しかしそれは一つの家庭内にとどまらず、神の契約の民イスラエルとさらには全人類とにかかわっているできごとなのだということを、わたしたちに予感させます。すなわち、清めの儀式は、やがて主イエスがご自身の十字架の死によってわたしたちのためになしてくださる罪の汚れからの清め、罪のゆるしと救いをあらかじめ先取りしていると言ってよいでしょう。また、初子奉献の儀式は、主イエスがご自身のご生涯全体とそのお体とその命そのものを父なる神に完全におささげし、ご自身が聖なる贖いの供え物となられることによって、すべての人を罪と死の奴隷から贖い出し、救ってくださるということを目指していると言ってよいでしょう。

そのことが、さらにこのあとに続くシメオンとアンナという二人の預言者によって、より明らかにされていきます。シメオンについては、【25~26節】。また、アンナについては、【36~38節】。この二人の預言者がエルサレム神殿で幼子主イエスと出会うことによって、この幼子こそが旧約聖書でイスラエルの民が長く待ち望んできたイスラエルと全人類の救い主、メシア・キリストであるということを証しするのです。

この二人の預言者に共通している第一の点は、二人とも神の約束が成就される時を待ち望むことが彼らの生涯の、また彼らの預言者活動の中心であったということです。いや、それがすべてであったと言うべきでしょう。シメオンは、神がイスラエルの民と結ばれた契約が成就され、イスラエルと全人類の救いをもたらすメシア・キリスト・救い主が到来する時を待ち望んでいました。しかも、そのメシア・キリストに出会うまでは死ぬことはないという約束まで与えられていたのでした。彼は彼の全生涯をかけて、文字どおり彼の命をかけて、救い主をひたすらに待ち望んでいたのでした。

女預言者アンナは夜も昼も一日中神殿で神にお仕えし、祈りと断食の日々に明け暮れていたと書かれています。彼らにとっては、待ち望みつつ神に仕えていたというよりは、神の約束の成就の時を待ち望むことこそが最もよく神に仕えることであったのです。それゆえに、待ち望んでいるメシアに会うまでは彼らの生涯は決して満たされることはありません。

待ち望むということは、ある意味では、とてもつらい務めです。いまだに確かな事実を見ることができずに、確実な実りを手にすることなく、いつまでたっても満たされることがない、それゆえにいつも餓えと乾きを覚えながら、ただひたすらに約束を信じて待ち望む以外にないからです。詩編42編の詩人はこのように歌っています。「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」(1節)と。また、詩編130編の詩人も待ち望む信仰とそのつらさを歌っています。「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにも増して」(5~6節)と。

それでも彼ら二人の預言者には、ほかにこの世の楽しみを見いだそうとはしませんでした。家族とくつろいだり、旅行をしたり、おいしい食卓を囲んだりなどということには、全く楽しみも喜びも見いだそうとはせずに、ただひたすらにメシアを待ち望みました。そのことだけに、唯一の楽しみと喜びとを求め、そうすることで彼らは年老いてからも生き生きとした信仰に生きていたのです。

彼らがそうできたのはなぜでしょうか。それは、待ち望む信仰者は、彼自身の可能性とか忍耐力とか、あるいは信仰の強さとかによって生きているのではなく、待ち望まれている神の約束の内容、その対象であるメシア・キリストに引っ張られるようにして、待ち望まれているその方の力と恵みによって生きているからなのです。イザヤ書40章31節に書かれているように、「主の望みを置く人は、新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。そのように、待ち望まれているその方に捕らえられつつ、その方から絶えず新たな力を与えられつつ、常に若々しく、生き生きとと、待ち望む信仰に生きることができるのです。

二人の預言者に共通している第二の点は、彼らは待ち望みながら、何もしないで、暇を持て余して待っていたのでは決してなかったということです。シメオンは常に聖霊なる神に導かれながら、約束のメシアに出会う日を今か今かと希望をもって待ち望み、神殿での礼拝生活を続けていました。アンナは毎日熱心な祈りと断食とに励みながら神にお仕えし、一日一日が決して無駄に終わることがなく、確かな成就の時へと向かっている大切な、かけがえのない日々であることを信じて生きていました。神の約束の成就を待ち望む信仰者の歩みは、決して空しく終わることはありません。

第三に、二人の預言者たちの待望の時は、今や幼子主イエスと出会って、その成就を見たということです。長く、つらい待望の期間がついに終わりました。彼らの待望は確かに空しく終わることはありませんでした。彼らは人生の終わり近くになってようやくその最後の目標に到達しました。と言うよりは、彼らが待ち望んでいたメシアに出会ったことによって、彼らの生涯が満たされ、最後の目標に達したと言うべきでしょう。それゆえにシメオンは29、30節でこのように告白するのです。【29~30節】。

信仰者にとっては、いやすべての人間にとっては、救い主に出会うことによってこそ、その人生が本当の意味で満たされたものとなります。他の何かによっては、この世のいかなるものによっても、真の慰め、本当の平安を得ることはできません。この世にあるものはみな罪と死とに支配されているからです。

しかし、ただお一人、主イエス・キリストこそがわたしたちの罪のために十字架で死んでくださり、三日目に死の墓から復活され、わたしたちを罪と死と滅びから救ってくださったのです。この主イエス・キリストに出会うとき、わたしの人生は本当の意味で満たされます。死によっては終わらない復活の命が約束されているからです。

わたしたちは今その成就の時に生きています。「わたしはこの目であなたの救いを見た」というこのみ言葉から教会の歩みは始まります。わたしたち一人一人のきょうの一日、この1週の歩みが始まります。そのようにしてわたしに与えられている一日一日を希望と喜びをもって歩むことがゆるされるのです。

(祈り)

1月19日 説教「アダムとエバの罪 ― 原罪」 

2020年1月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章1~7節

    ローマの信徒への手紙3章9~20節

説教題:「アダムとエバの罪―原罪」

 創世記3章のみ言葉から、わたしたちはキリスト教教理の重要な柱の一つである人間の罪について教えられます。人間の罪の最初はどうであったか、人間はどのようにして罪に落ちたのか、いわゆる原罪(英語でoriginal sin)について教えられます。原罪というキリスト教教理は、創世記3章に書かれている最初の人間アダムとエバが犯した罪のゆえに、アダム以後のすべての人間がその罪の支配のもとに置かれているという教えです。使徒パウロはこの原罪についてローマの信徒への手紙5章12節でこう言っています。「このようなわけで、一人の人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」。これが原罪です。

 原罪という言葉は聖書の中にはありませんが、すべての人間が生まれながらにして罪に傾いており、その罪の結果としての死に支配されているという考えは聖書全体に貫かれています。また、それが人間の現実の姿であるということを旧約聖書も新約聖書も、赤裸々にというか、冷静に、しかも詳細に描いています。原罪とは、アダム以来の全人類をすっぽり覆っている罪であり、すべての人間を強力な力で、だれも逆らえないほどの力で支配している罪であり、それはまた、わたしたち一人一人を支配している罪のことでもあります。わたしたちは創世記3章から、神によって創造された人間が、神のかたちに似せて、エデンの園で神と共に生きるべきものとして創造された人間が、なぜ、どのようにして、神に背く罪びととなったのかを教えられるのです。

 しかし、その際に重要なことは、使徒パウロがローマの信徒への手紙5章の続きで書いているように、一人の人アダムの不従順によって罪と死とが全人類を支配するようになった、それよりもはるかに大きな神の恵みによって、一人の人主イエス・キリストの従順により、すべての人が正しい者とされ、生きる者とされているという、主キリストの福音から人間の罪を考えるべきであるということです。罪は、すでに主イエス・キリストの十字架の死と復活の福音によって、その毒牙を抜き取られているのであり、罪と死の支配はすでに主イエス・キリストによって無効にされているのであり、わたしたちはすでに主イエス・キリストによって罪ゆるされ、救われている者たちであるということを知りつつ、信じつつ、そのことに感謝しつつ、わたしたちの罪について学ぶのだということです。

 では、1節から読んでいきましょう。【1節】。ここに蛇が登場します。蛇は女に(彼女は20節でエバと名づけられます)語りかけます。この蛇の語りかけによって、アダムとエバは罪へと誘惑されます。ここでの蛇の役割について、さまざまな議論がなされてきました。その議論のポイントは、神のかたちに似せて良き者として創造された人間の中にどうして罪が入り込んできたのかということにあります。もし、人間の中に罪の種とか罪の原因となるものがあったとすれば、それは神の創造のみわざが不完全であったということになるのではないか。それはあり得ない。そうだとすれば、罪は人間の外から入ってきたと考えなければならない。そこで、誘惑者蛇が悪魔の手先になって人間を罪へと引きずり込んだということになる。そこから、ユダヤ教や初期のキリスト教会の伝統では、蛇を悪魔・サタンと同一視するという考えが生まれました。

ところが、それで問題が解決されたわけではありません。むしろ、より大きな問題が生じることになります。蛇に罪の責任があるのだとしたら、人間にはその責任がないということになり、神のみ前で罪の責任を問われなくてもよくなって、人間の罪を真剣に考える必要がなくなるからです。それは、聖書全体が語っている人間の罪の大きさ、重さ、深刻さと符合しませんから、正しい理解とは言えなくなります。神の戒めに背いて罪を犯したのは、まさに人間アダムとエバであり、蛇ではありません。まさに、人間そのものが罪の責任を負わなければならないのであり、まさにその人間の罪のために神のみ子が人間となられたのであり、その人間の罪をゆるすために十字架で死んでくださったのですから、罪の責任を少しでも人間から減らしたり、人間以外の何かに責任を転嫁したりすることはできないということは明確です。ユダヤ教や初期キリスト教会の伝統的な考え方は訂正されなければなりません。

創世記3章の蛇は、何か悪魔的な性格を持つものとしては描かれてはいません。むしろ、人間に対する優しさと理解を示しながら語りかけています。ただ、ここではっきりしていることは、蛇もまた主なる神によって創造された被造物の一つであるということです。蛇は「神が創られた生き物のうちで、最も賢かった」と書かれていますが、何か神と並ぶ力を持った被造物以上のものでは決してありません。その蛇の賢さによって罪に誘惑され、罪を犯したのは、人間にほかなりません。蛇は悪魔の手先と言うよりは、ここではあくまでもわき役を演じており、人間の罪の責任を人間から取り除こうとしないように、むしろ罪の責任が人間にこそあるのだということを浮き上がらせるような役割を果たしているように思われます。

そこで、わたしたちが注目すべきは、蛇が何を語ったのか、そしてエバがそれをどう聞いたのか、どう反応したのかということです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と蛇は問いかけます。ここには蛇の多少悪意に満ちた賢さが表れています。蛇は、本来神から禁じられていた園の中央にある善悪の知識の木については、あえて触れていません。最初の罪の誘惑は本題から少し外れたところから、神のみ言葉を少しだけ中心からそらしたところからやってきます。神の命令は2章16、17節にあるように、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし……」という最大の自由を与えるみ言葉でした。蛇はそのみ言葉を少しだけ言い換えています。しかし、その内容は神から与えられている最大の自由を最大の不自由へと変えてしまう要素を含んでいます。

それだけでなく、「などと神は言われたのか」と疑問を投げかけるような言い方で(この個所は口語訳では「本当に神はそう言われたのか」と訳しており、その方が原語に近い訳ですが)、ここで蛇は、半分は「まさか、神がそんなことをなさるはずはないだろう」と神を弁護しているかのように、しかし半分は「もし、神がそんなことをなさるとすれば、神は何と権威主義的で人間を不自由にする厳格な方であるのか」と、神を非難する思いを誘導しているように思われます。

蛇はここで、神の戒めが女エバにとって好ましいものであるのか、そうでないのか、自分にとって都合がよいものか、そうでないかを、彼女自身に判断させようとしています。神のみ言葉を人間の基準で良し悪しを判断し、自分の好みで選択をする、そこに疑いが生じ、神への不信、罪が生じるのです。それは、人間を創造され、人間を最も深く愛され、人間が生きるに必要な一切のものを備えてくださる神に対する疑いであるからです。

ところで、ここで蛇は女エバと対話していますが、男アダムはこの時一体どこに行っていたのでしょうか。エデンの園で共に喜びつつ神に仕えていくようにと創造された男と女、互いにふさわしい助け手として、差し向かいで生きるべき連帯的人間として創造されたアダムとエバ、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」と呼び、一体となるべき男と女、しかしここでは一緒にいなかったのでした。蛇は女エバが一人でいるところをねらって誘惑したのかもしれません。ここにも蛇の賢さがあるように思われます。

共に生きるべき連帯的人間として創造された人間は、共に神に仕えるとともに、共に罪の誘惑に対して抵抗し、それと戦うのでなければなりません。けれども、共に戦うべき男アダムはそこにいませんでした。アダムは6節になって初めて姿を現します。しかし、そこでも、共に罪に抵抗して戦うアダムではなかったことを、わたしたちはあとで知らされます。

さて、蛇に誘惑された女エバは、蛇の問いに答えます。【2~3節】。女エバはここで初めて自分の方から本題である園の中央にある善悪を知る木について語りだします。そのとき女エバは、誘惑者蛇と同じように、半分は神を弁護しながら、半分は神に対する不満と批判の思いを言い表しています。彼女はまず蛇が言ったことを否定します。食べることを禁じられているのは園の中央にある木の実だけだと言います。ここでは、彼女は神を弁護しているかのように見えます。けれども、彼女はすぐに続けて「触れてもいけない」と、本来神が命じていなかったことまでも付け加えています。神の戒めを誇張しています。誘惑者蛇と同じように、神の戒めを厳しいものと感じ始めています。人間に自由を与えるものであった神の戒めを人間の行動を制限し、人間をしばりつける不自由な戒めに変えようとしています。新約聖書に登場してくる律法学者たちが一つの戒めからたくさんの小さな規定を作り出し、人間に重荷を負わせていたように、彼女は神の戒めを誇張し、自らに律法の重荷を負わせようとしているように思われます。そのようにして、神の戒めに対する疑いや不満、批判が生じてくるのです。

さらに彼女は付け加えます。「死んではいけないから」と。しかし、神はそうは言われませんでした。17節にあるように、「食べると必ず死んでしまう」と断定している神のみ言葉を、彼女は自分に都合の良いように言いかえています。彼女は神のみ言葉を自己流に理解しています。神がわたしを気遣ってくれて、わたしが死なないようにそう言われたのに違いないと、自分の利益になるように神のみ言葉をねじ曲げて理解する時、しかしそこにはいつも逃げ道が用意されています。それを食べてもなおも死なないように神がご配慮くださるに違いないと思い始めています。ここにも、神のみ言葉を自分の都合に合わせて理解しようとする罪が顔をのぞかせています。

次に、突然に誘惑者の最後の、とどめの言葉が発せられます。「あなたは決して死ぬことはない」(4節)と。今や、あからさまに神のみ言葉の真理が否定されます。誘惑者によって、神が偽り者とされます。誘惑者は追い打ちをかけるように言います。【5節】。誘惑者蛇はこのように言います。「神は知っていてそうされたのだ。神は意地の悪い方なのだ。神は本当は人間のことなど少しも考えてはいないのだ。神は嫉妬深い方なのだ。人間が神のようになっては困るから、そのように言われたのだ」と。

誘惑者の言葉は人間を罪に誘うには十分の魅力を持っています。「人間が神のようになる」、人間にとってこれほどに魅力的な言葉があるでしょうか。いったいだれがこのような甘い誘惑を無下に退けることができるでしょうか。アダムとエバの最初の罪から今日に至るまでの人間のあらゆる罪の根源には、この誘惑が潜んでいると言ってよいでしょう。神のみ言葉を疑い、それを勝手にねじ曲げ、さらには神を偽り者とし、ついに自ら神のようになろうとし、一人一人が小さな神々として君臨しようとする、罪とはまさにそのようなものです。

ここまでくればもはや誘惑者の手助けは必要なくなります。【6節】。罪の誘惑は甘く、美しく、好ましく思われます。たちまちにして目の欲望、肉の欲望に支配されていきます。神の戒めを疑い、それを投げ捨てると、人間は直ちにさまざまな欲望のとりこになっていきます。そして罪を犯す者はいつでも同伴者を求めます。罪に誘惑された者は他の人を罪に誘惑する者になっていくのです。

神は人間アダムとエバを、共に生きる連帯的人間として、互いに差し向かいで生きる助け手として、共に神のみ言葉を聞き、喜んで神に仕えるパートナーとして、また共に罪の誘惑に対して抵抗し、戦う同労者として創造されたのですが、しかし今アダムとエバは共に神の戒めを破り、共に罪に落ちる、罪びととしての運命を共にする者たちとなっていきます。その中に、わたしたち一人一人もまた加わっています。

けれども、わたしたちがきょうの説教の初めに確認したように、人となられた神のみ子主イエス・キリストは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従を貫かれることによって神の義を全うされ、罪と死に至る道を救いと永遠の命へと向かう道へと方向転換してくださったのです。そして、わたしたち一人一人もまたその救いと命への道へと招き入れられているのです。一人の人アダムによって入ってきた罪と死の支配よりも、一人の義なる人、主イエス・キリストによる救いの恵みの支配の方がはるかに大きいことをわたしたちは知っています。

(祈り)

1月12日説教 「共に喜び合う礼拝者の群れ」

2020年1月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編126編1~6節

    フィリピの信徒への手紙2章12~18節

説教題:「共に喜び合う礼拝者の群れ」

 フィリピの信徒への手紙には二つの別名が付けられています。一つは「獄中書簡」、もう一つは「喜びの書簡」です。パウロはこの手紙を獄中から書いています。使徒言行録の記録によれば、パウロはローマ、エフェソ、カイサリアの町々で何度も投獄されましたから、そのいずれかの町と思われます。主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたために、ユダヤ人とローマ帝国から迫害を受け、捕らえられましたが、しかし、神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはないという事実を証明するためにも、パウロは獄中から諸教会に何通もの手紙を書きました。他に獄中書簡と言われているのはエフェソの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙です。

もう一つの名前「喜びの書簡」は、この手紙には「喜ぶ、喜び」という言葉が十数回も用いられ、全体としても喜びに満ち溢れた手紙だからです。獄中書簡でありながらも、しかし喜びに満ち溢れているという、不思議ともいえるこの二つのつながりが、この手紙の大きな特徴です。そして、今日の個所でも、その相反する二つが実際に固く結ばれていることをわたしたちは読むことができます。【17~18節】。

獄中のパウロはここで、やがて裁判の判決が下り、自分が死刑になることを予感しているように思われます。「わたしの血が注がれる」とは彼の殉教の死を意味していると推測できます。パウロはフィリピ教会の礼拝の祭壇に自分の血が注がれ、彼らと一緒に礼拝することを喜んでいます。この個所を正しく理解するためには、旧約聖書時代の礼拝の習慣と、その礼拝が主イエス・キリストによって完全に成就されたということを知る必要があります。

旧約聖書時代のイスラエルでは、エルサレムの神殿で毎日動物の血を犠牲としてささげる礼拝が行われていました。それは、動物の血が人間の罪をあがなうと考えられていたからです。人間はみな神に対して罪を犯しており、神から死の判決を受けなればなりません。けれども、憐れみ深い神は人間の命の代わりに動物の血を犠牲としてささげることで、人間の罪をゆるすと言われました。ただし、動物の血は人間の罪をあがなうには不十分で、一時的な効力しかありませんから、エルサレムの神殿では祭司が毎日繰り返して牛や羊の血を犠牲としてささげなければなりませんでした。これが旧約聖書時代のイスラエルの礼拝でした。

ところが、神はご自身のみ子、主イエス・キリストの聖なる、汚れなく、尊い十字架の血によって、全人類の罪を、完全に、永遠にあがなってくださり、すべての人の罪をおゆるしくださいました。そのことが、6節以下で語られていました。まことの神であられ、まことの人間となられ、十字架の死に至るまで父なる神に服従を貫かれた主イエス・キリストによって、神の義の要求が完全に満たされ、また同時に人間の罪をあがなうための完全な犠牲がささげられたのです。したがって、主イエス・キリストを信じるフィリピ教会の礼拝では、もはや動物の犠牲がささげられる必要はありません。罪ゆるされた教会員が救われた感謝のささげものとして自らの体全体を神にささげて礼拝するのです。これが、新約聖書時代に属するわたしたちの礼拝です。ローマの信徒への手紙12章1節にこのように書かれているとおりです。【1節】(291ページ)。

パウロは今日の個所で、主イエスによって完成されたこのような礼拝を背景にして語っています。パウロはここで礼拝を司る祭司の務めを果たしながら、また同時に祭司がささげるささげものという二役を演じているように思われます。

彼は礼拝を司る祭司として、「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に」、わたし自身の血をも一緒にささげると言っています。もちろん、フィリピの教会員がささげるいけにえであれ、パウロがささげる血であれ、それが人間の罪をあがなうのでは全くなく、それらは主イエス・キリストによって完全にあがなわれ、罪をゆるされていることに対する感謝のささげものであるのですが、パウロはここでお互いに遠く離れており、一方は獄につながれている彼とフィリピ教会とが今一つの神礼拝の群れとなって、共に感謝のささげものを携えて神を礼拝しているのです。だから、共に喜んでいるのです。主イエス・キリストの十字架の血によって完成された礼拝に共に参加できる喜びを味わっているのです。これこそが、わたしたちキリスト者に与えられている最高の喜びなのです。詩編126編の詩人は、バビロンの捕囚の地から帰還した民が再建された神殿で礼拝をささげる喜びを歌っています。わたしたちの礼拝にはこのような喜びが満ち溢れているのです。

 パウロが感謝のささげものとして携えているのが殉教の血であるのに対して、フィリピ教会が携えている感謝のいけにえとは何でしょうか。「信仰に基づいてあなたがたがいけにえをささげ」とは、12節から語ってきたフィリピ教会の従順な信仰を指していると考えられます。【12節】。

 パウロはフィリピ教会に変わらない信仰の従順を勧めています。従順とは、パウロに対する従順ではもちろんなく、教会の頭であられる主イエス・キリストに対する従順です。パウロがフィリピの町で主キリストの福音を宣教したとき、彼らは従順な信仰をもってパウロと共に教会建設のために仕えました。その時と同じように、パウロがその地を去って今は獄の中にいるとしても、同じように従順な信仰をもって主キリストに仕え、教会建設のために仕えなさいと勧めています。そして、あなたがたのその従順な信仰を礼拝の際にわたしが祭司となって神にさげましょうとパウロは言っているのです。

 フィリピ教会のそのような従順な信仰は、実は主イエスご自身の従順によって与えられものであるということを、わたしたちは前回学びました。6節以下に書いてあるとおりです。主イエス・キリストが神のみ子であられたにもかかわらず、人の子となられ、しかも罪の人間たちのために僕(しもべ)のようにお仕えになられ、十字架の死に至るまで父なる神に従順であられました。それによって、罪と死とに勝利されて、わたしたちの救いを成し遂げてくださったのです。主イエスの十字架を信じる信仰によって罪ゆるされているキリスト者は、自己中心的で自分だけを喜ばせようとする生き方から解放されて、神に喜んで仕え、従順に神のみ言葉に聞き従っていく新しい人に造り変えられるのです。そして、新しくされたわたし自身とわたしの信仰の従順を、礼拝の際に神におささげすることができるのです。主イエスが従順の道をわたしたちのために開かれ、またその道へとわたしたちを招いておられるのです。

 パウロはさらに従順であるとはどういうことかを語ります。それは、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めること」です。「自分の救いの達成のために努めなさい」と言われると、わたしたち少し違和感を覚えます。と言うのは、救いはただ主イエス・キリストから一方的に与えられるものですから、わたしたち人間の側からの努力は必要ないと考えられるからです。それはそのとおりです。そうであるのに、パウロがここであえて「自分の救いの達成のために務めなさい」と命じているのはなぜかを考えてみなければなりません。その際重要なポイントは、「恐れおののきつつ」という言葉と一緒に考えるということです。神に対する恐れの中で、救いの達成に努め、従順を貫きとおすということが勧められているのです。そこから考えると、「救いの達成に努める」とは、自分がいよいよ救いを必要としている罪びとであることを自覚し、神のみ前に罪を悔い改め、ひたすらに主イエス・キリストの救いを願い求め、主イエスの救いの恵みなしには自分は生きることができないということを知るということにほかならないということが分かります。救いは徹底して神のみわざであり、主イエス・キリストからのみくるということを固く信じて、疑わず、つぶやかず、信仰の道を前進していくことです。13節に、【13節】と書かれてあるとおりです。神は必ずや信じる者たちを終わりの日に神の国へと招き入れてくださり、救いを完成させてくださり、永遠の命を与えてくださるからです。

 14節からは、主なる神への従順を貫きとおし、自分の救いの達成に努めている信仰者の姿が、清く、輝かしい姿として描かれています。【14~16節】。これは何と美しく、力強く、輝きに満ちたみ言葉でしょうか。これがわたしたちキリスト者に約束されている姿なのです。わたしのみすぼらしい、破れだらけで、つまずきの多い歩みがこのような輝かしいものに変えられていくのです。

信仰者には多くの誘惑や試練があります。時に、厳しい信仰の戦いを迫られます。けれども、それらの試練の中で、信仰が鍛えられ、試練から希望と喜びへと変えられます。なぜならば、信仰の道を導かれるのが主なる神であり、信仰の導き手が主イエス・キリストであるからです。

 信仰者が住んでいる現実の世界、この世は、いつの時代も、「よこしまで曲がった時代」です。神なき世界、神に背いている世界です。今なお、罪と悪とがはびこっている世界です。けれども、キリスト者は知っています。主イエス・キリストの十字架によって、罪と悪の牙はすでに折られており、死のとげはすでに抜き取られているということを。罪と死と滅びに勝利された主イエス・キリストがわたしたちのための勝利者として天に座しておられることを。それゆえに、わたしたちはどのような邪悪な時代であろうとも、その時代から逃れるのではなく、しかし決してその時代の一人となるのではなく、その時代の中にあって、「地の塩、世の光」としての使命を果たしつつ、主キリストを指し示す証し人として、それゆえに暗い世界に輝く星として、歩んでいくことができるのです。

 16節に、「命の言葉をしっかり保つでしょう」とあります。わたしたちの本当の命は神のみ言葉の中にあります。信仰者にそのような生き方を可能にするのは神の命のみ言葉です。神のみ言葉はわたしたちが生きるために必要なのはパンだけではなく、朽ちることのない神の命のみ言葉であり、神の導き、神の愛であることを教えます。神のみ言葉は暗闇が支配する世界の中でわたしが歩むべき道を照らす光であり、道しるべです。神のみ言葉は誘惑や迷いが多いわたしの歩みを支え、導く真理であり、力です。神のみ言葉はわたしの傲慢や欲望を打ち砕く鉄槌であり、あるいはわたしが絶望し、嘆き悲しむときの希望の光です。この神のみ言葉に固くしがみつくことによって、わたしたちはどのような時にも、神に対する恐れを持ちつつ、従順を貫きとおし、また共に信仰の従順をささげながら、共に喜びをもって主を礼拝する群れとして成長していくのです。

(祈り)

1月5日説教 「 神に栄光あれ、地に平和あれ 」

2020年1月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ルカによる福音書2章8~21節

説教題:「神に栄光あれ、地に平和あれ」

 ルカによる福音書を続けて読んできました。今年も同じように、ルカ福音書と創世記、フィリピの信徒への手紙を連続して読んでいくことにします。これまで読んできたルカ福音書は二人の人物の誕生について交互に語っていました。まず、洗礼者ヨハネの誕生の予告とそのあとにメシア・救い主、主イエスの誕生の予告があり、それに続いて洗礼者ヨハネの誕生が語られました。神が年老いたザカリアとエリサベトに約束されたみ言葉は人間の不可能や不信仰を超えて、神の奇跡として必ず成就するということをわたしたちは確認しました。

 次に、2章から主イエスの誕生の記録が語られます。ここでも、神がヨセフとマリアに約束されたみ言葉は、この二人はまだ婚約中であり、一緒に住んではいなかったのに、神の聖霊がおとめマリアの胎内に神のみ子を宿らせるという、人間の不可能や罪を超えた神の奇跡によって、成就されていくということをわたしたちは見てきました。ルカ福音書1章から2章へと章をまたいでいますが、また聖書を読んでいるわたしたちの時代は2019年から2020年へと年をまたいでいますが、神の救いのご計画は時や時代の変化に全く左右されずに、着実に進められているのです。洗礼者ヨハネの誕生に続いて、彼の後においでになるメシア・救い主、主イエス・キリストが誕生されます。これによって、旧約聖書の民イスラエルが長く待ち望んでいた救いの時が成就しました。

 そこで、神の約束の成就の時、神の救いの恵みの時が開始された最初のクリスマスの出来事を、きょう与えられたみ言葉からご一緒に聞き取っていきたいと思います。2章8節以下を概観すると、8~12節では、羊飼いたちが最初にクリスマスの福音を聞いたことについて、少しとんで、15~20節では、羊飼いたちがベツレヘムに急いで幼子主イエスを礼拝したことについて描かれており、その中に挟まれるようにして、13、14節には、天使と天の軍勢とが神を賛美したことについて書かれています。ここでは、クリスマスの出来事の二つの相反する特徴が結合されているように思われます。一つは、クリスマスの出来事の貧しさ、目立たないみすぼらしさです。もう一つは、クリスマスの出来事の大きさ、まばゆいほどの輝きです。クリスマスにはこの二つが結合しています。わたしたちはこの二つの特徴を見落とさないようにしなければなりません。この二つの特徴の中にクリスマスの深い意味が現われているからです。

 第一の、クリスマスの貧しさについてですが、それは羊飼いたちに与えられたクリスマスのしるしに象徴されています。【12節】。羊飼いたちに与えられたクリスマスのしるしはこのように貧しく小さくみすぼらしいものでした。神が全人類を罪と死と滅びから救い出すために人となられ、この世においでくださったという偉大なみわざは、全く目立たない小さなしるしとして与えられているのです。このクリスマスのしるしを見るために、わたしたちは心の目を集中させなければなりません。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」に、じっと目を凝らさなければなりません。ここから目を離さないようにしなければなりません。わたしの周囲にある華やかなものや目を奪う価値あると見えるすべてのものから目をそらし、あるいはわたしを覆っている暗黒の雲やわたしに襲いかかってくるあらゆる恐れや不安からも目をそらして、クリスマスのしるしとして与えられているこの目立たない貧しく低い幼子に、わたしの思いと心と信仰とを集中させ、さらにはこの幼子のご生涯とその苦難と十字架へと向かう道から決してそれないようにしなければなりません。

 讃美歌256番で、ドイツの17世紀の詩人パウル・ゲルハルトはこのように歌っています。「きらめく明か星/うまやに照り/わびしき乾草/まぶねに散る。こがねのゆりかご/錦のうぶぎぞ/きみにふさわしきを。この世の栄を/望みまさず/われらに代わりて/悩みたもう/知りえしわが身は/いかにたたえまつらん」。わたしたちの罪のために貧しく低くなられ、十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われた主イエスを仰ぎ見ながら、この方から決して目を離さずに、この一年を歩んでいきたいと願います。

 クリスマスの貧しさは羊飼いたち自身によっても象徴されています。ここに登場する羊飼いたちは、ある期間に主人から羊の群れを預かり、牧草を求めながら、また羊たちを狼などの攻撃から守りながら、群れと一緒に移動するのが仕事でした。その羊飼いの仕事は重労働であり、困難でした。当時の羊飼いたちは「地の民」と呼ばれ、信仰深いユダヤ人からは軽蔑され、罪びとの仲間とされていました。そのような貧しく卑しい務めであった羊飼いたちに、最初のクリスマスの福音が伝えられたと聖書は語っているのです。エルサレムのヘロデ王の宮殿では明るいローソクの光に囲まれた豪華な食卓で夜遅くまでにぎやかな宴が催されていたのかもしれません。当時の宗教的指導者であったファリサイ派の学者たちやサドカイ派の祭司たちは熱心に聖書を研究し、神殿での務めを果たしていたのかもしれません。けれども、彼らはクリスマスの福音を聞くことはできませんでした。そうではなく、神は貧しく卑しい務めの羊飼いたちをお選びになりました。家も財産をも持たず、危険な重労働に明け暮れ、この世では軽蔑されるような彼らこそが、最初のクリスマスの喜ばしい知らせを聞くために神によって選ばれたのです。

 ここには神の選びの不思議があります。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一1章26節以下で、教会の選びの不思議さについて書いています。その個所を読んでみましょう。【26~31節】(300ページ)。人間のすべての知恵や誇り、傲慢な思いや自我が打ち砕かれて、ただお一人、わたしたちの罪のために十字架で死なれた主イエス・キリストだけを誇る者となるために、神は最初のクリスマスの日に羊飼いたちをお選びくださったのです。

 そこで、神によって選ばれた羊飼いたちはそのクリスマスの小さなしるしを見るためにベツレヘムへと急ぎます。15節以下に書かれているとおりです。神に選ばれた羊飼いたちは幼子主イエスに会うために、メシア・救い主を礼拝するために急ぎます。彼らは主イエスの最初の礼拝者となりました。彼らはまた主イエスのことを語り伝える最初の伝道者となりました。彼らが神に選ばれたのは、実に、このためだったのです。神が貧しいこのわたしをお選びになられたのもこのためです。

 クリスマスのもう一つの特徴、クリスマスの出来事の大きさ、輝きについては、13、14節に書かれています。【13~14節】。ここでは、先に羊飼いたちにクリスマスの福音を伝えた主の天使と、天で神のみもとにあって神にお仕えしている兵士たちの群れとが一緒になって歌う神賛美の歌が響いています。わたしたちは地上に与えられたクリスマスの小さなしるしを見るとともに、この天から響き渡る賛美の歌をも聞かなければなりません。

 ここから教えられる第一のことは、クリスマスの喜ばしい福音と神賛美の歌とは天から来るということです。「主の天使」は神がみ言葉をわたしたちに語り、伝える際の一つの手段として、聖書にしばしば登場します。神の啓示の手段の一つです。天使の登場は神の現臨です。天使が語る言葉は神のみ言葉です。天使が伝える神のみ言葉は10、11節に書かれていました。【10~11節】。このクリスマスの喜ばしい知らせ、救いの福音は天におられる主なる神からきました。地上のどこからか、あるいはだれかからではありません。したがって、わたしたちは地上の声を聞くための耳ではなく、天の神からのみ言葉を聞くための耳を持たなければなりません。そのためには、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰を持ち、聖霊なる神の助けと導きとを願い求めなければなりません。それとともに、わたしたちが今見ているわたし自身とこの世界の現実に目を奪われないように、それに縛られないように、目と心を高く天に向ける必要があります。

 14節は「あれ」と願望の形で訳されていますが、オリジナルのギリシャ語では「あれ」「あるように」という言葉はありません。ギリシャ語原典を直訳すると「栄光、いと高いところでは、神に。地の上では、平和、神に喜ばれる人々に」となります。ここで重要なことは、今は天に神の栄光はないけれども、やがていつかあったらいいなあという人間の願望ではないということです。また、今はまだ神に喜ばれる人たちに平和はないが、やがていつかあったらいいのにという人間の願いがここで語られているのでもないということです。このクリスマスの日に、神の栄光が現れているということであり、信仰者たちに平和が訪れているということが語られているのです。すなわち、神のみ子が天から下って、人となっておいでくださったこの日に、天には神の栄光が満ち溢れており、光り輝いている。また、地上では、主イエス・キリストによって、教会の民に平和が与えられているということが、天からの神のみ言葉として語られているのです。

 では、クリスマスの日に主キリストによって実現した神の栄光、地の平和とは具体的にどういうことを意味するのでしょうか。まず最初に、この順序に注目したいと思います。初めに、神に栄光があると言われ、次に地に平和があると言われています。この順序が重要です。この順序が正しくなければ、二つとも実現しません。わたしたちは第一に、神の栄光へと目を向けなければなりません。神の栄光を仰ぎ見ることを第一にしなければなりません。そうすれば、次に地の平和を見ることができます。地上に平和が実現するのを経験することができます。

 けれども、神の栄光が曇らされ、覆い消されている世界では、真の平和は実現することはありません。神が侮られ、無視されている世界にはまことの平和はありません。わたしたちが真の平和を望み、真に平和な世界、平和な国、平和な家庭、そして真の平和に満たされた人生を送るためには、まず神の栄光を仰ぎ見、神に栄光を帰することがなければなりません。

 栄光という言葉は重さや価値あるものを意味しています。神の栄光とは、神の偉大さ、尊厳、この世にあるいかなるものとも比較されえないほどの存在の重さを意味しています。9節ではそのような神の栄光が羊飼いたちをめぐり照らしてので、彼らは非常に恐れたと書かれています。神の栄光を仰ぎ見るわたしたち人間の最も正しい態度は恐れです。神に対する恐れを抱くことです。それはまた、神の尊厳と偉大さを認めることですから、人間の側からいえば自分を小さく、低くするということでもあります。

 地には平和ということについてみていきましょう。前にも言いましたように、神の栄光、次に地の平和というこの順序をここでも確認したいと思います。つまり、平和は天の神から来るということです。神は天におられますが、いつも地を顧みてくださり、地に住む人間たちを愛しておられます。そして、地にまことの平和を与えてくださいます。そのために神はご自身のみ子を地にお遣わしになりました。そして、わたしたちの罪をゆるされ、神とわたしたちとの間の敵対関係を取り除かれ、神とわたしたちとの間に和解と平和を与えてくださいました。平和とは第一には神との平和のことです。エフェソの信徒への手紙2章14節に、「キリストはわたしたちの平和である」と書かれています。主キリストの十字架の死によって神と人間との間にあった敵意という隔ての壁が取り除かれました。神との真実の平和があるところに、人間が住むこの地上の平和が与えられるのです。主キリストを信じる教会の民は平和の福音に告げ知らせる証し人とされるのです。

(祈り)

12月29日 説教「神と共に生きる人間、人と共に生きる人間」

2019年12月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記2章18~25節

    ローマの信徒への手紙12章9~25節

説教題:「神と共に生きる人間、人と共に生きる人間」

 創世記には1章1節から2章4節前半までと、2章4節後半から25節までの二つの天地創造の記録があるということを、わたしたちは前回確認しました。神の創造のみわざは一つですが、それを多少違った二つの側面から描いていると言えます。第一の創造の記録と第二のそれとは、表現の仕方や強調点が違っています。神学的立場の違いもあります。しかし、そこで語られている中心的なメッセージは一致しています。神の一つの天地創造と人間創造のみわざが、このように二つの側面から語られることによって、わたしたちはより一層神のみわざとお働きの深さや広さ、偉大さを教えられます。

創世記1章26、27節の第一の人間創造のみ言葉によると、神は人間をご自身にかたどって、ご自身の姿に似せて、男と女とに創造されました。人間は他の生き物とは違って、ただ人間だけが、神に似ているものとして、神に近い存在として創造されました。人間は神のパートナーとして、神と共に生きるべきものとして、神を礼拝し、神のみ言葉を聞いて生きるものとして創造されています。

 そのことは、2章4節以下の第二の人間創造のみ言葉によって、より一層明らかにされます。神は人間アダムに命の息を吹き入れて生きる者とし、エデンの園(すなわち喜びの園)に住まわせ、生きるに必要なすべてのものをお与えになり、「園のどの木からでも自由に取って食べよ」とお命じになりました。人間はこの神のみ言葉を信じて神に聞き従うときに、最大限の自由と豊かな命を与えられ、神と共に永遠に生きることがゆるされます。

 二つの人間創造のみ言葉に共通しているテーマのもう一つは、神と共に生きるべき人間はまた同時に人間と共に生きるべき存在でもあるということです。1章27節で「男と女に創造された」と書かれているのはそのことを意味しています。神は人間を一人だけで創造されませんでした。「男と女」という対で、ペアで創造されました。しかも、男ともう一人の男とか、女ともう一人の女ではなく、男と女という、違った存在である二人が一組となって、連帯して、共に生きるべきものとして創造されました。

 きょうの礼拝で朗読されたもう一つの人間創造のみ言葉である2章18節以下には、よりはっきりと、より具体的に、共に生きるべき人間アダムのパートナーとして神が女エバを創造されたことが語られています。では、18節から読んでいきましょう。【18節】。「人が独りでいるのは良くない」と神は言われます。人は一人で生きるべきではない、生きることはできない、人は孤独であるべきではない。それは人間を創造された神の強い意志であり、み心なのです。

 「彼に合う」と訳されているヘブライ語は直訳すれば「彼の前にある者として、彼に向か合っている」という意味です。20世紀のドイツの神学者カール・バルトはこれを「差し向かいである者として」と訳しました。人間は一人だけで生きるべきではなく、他の人間と向かい合って、顔と顔とを向かい合わせ、心と心とを向かい合わせ、共に、連帯的人間として生きるべきである、それが創造者なる神のみ心であり、神は人間をそのような者として創造されたのです。

 人間は一人では生きられない、孤独であってはならないということは、わたしたち人間の共通した思い、共通した認識でもあります。だれでも、孤独であることの寂しさというものを経験します。そのつらさを知っています。今の時代は特に人間関係が破壊し、多くの人が孤立と孤独を強いられています。そのために傷つき、生きる希望や喜びを失いかけている人たちも多くいます。自殺や殺人、暴力などの背景には、だれからも愛されず、理解されない孤独な人間の姿が潜んでいるように思われます。もし、だれか一人でもその人を真剣に理解してあげ、愛していたなら、その人と顔と顔とを向かい合わせて、差し向かいである人が一人でもいたならば、それらの悲惨な事件のいくつかは防げたに違いありません。人は孤独であってはいけないということはわたしたちすべての切なる思いであるのですが、それ以上に、わたしたちの創造主なる神のみ心であり、強い意志であるということをここから教えられます。

 神はわたしたち人間が神と差し向かいで生きる者となるように望んでおられます。また、わたしたち人間が互いに差し向かいで生き、連帯的人間となるように望んでおられます。そのために、神はご自身のみ子・主イエス・キリストをわたしたちのもとにお送りくださいました。わたしたちと同じ人間のお姿で、わたしたち罪びとたちと連帯してくださり、しかも死に至るまで徹底してわたしたち罪びとたちと連帯してくださいました。「その名はインマヌエル、神我らと共にいます」というクリスマスの福音をわたしたちは先週聞きました。神はわたしたち罪びとたちと永遠に共にいてくださいます。神が我らと共にいますゆえに、我らもまた共にいることができるのです。それゆえに、だれも孤独ではありません。「人が一人でいるのは良くない」と言われた神のみ心は、天地創造の初めから、降誕節に至るまで、さらに主イエス・キリストの十字架の死に至るまで、そして終わりの日のみ国が完成されるときまで、永遠に貫かれているのです。

 「助ける者」とはここでは具体的には男アダムに対する女エバのことです。「助ける者」という翻訳は誤解される恐れがあります。だれかの補助的な存在と理解されやすいからです。しかし、ここで言う助ける者とは、忙しいときの助っ人のことではありません。男アダムが自分の仕事や何らかの目的をうまくやり遂げるために、あったら便利というような補助のことではありません。むしろ、それなしでは男が人間であることができない相手、あるいは、それなしでは女が人間であることができない相手としての、互いに相手をなくてならない存在として必要とするような、そのような関係、すぐ前の言葉で言うならば、お互いが差し向かいである者たちとして、顔と顔とを合わせて向かい合う相手のことです。それこそが、「人が独りでいるのは良くない」と言われた神のみ心に適った男アダムと女エバの関係です。英語の翻訳では多くはパートナーという言葉が用いられています。

 「助ける者」が必要だということは、男アダムの側からの要求ではなく、神のご配慮によることです。神がアダムをエデンの園に置かれたことのみ心にそってさらに深く探っていくならば、「彼に合う助ける者」とは、共にエデンの園で神のみ言葉を聞き、神から与えられている命の恵みを共に分かち合い、共に喜んで神にお仕えしていくためのパートナー、同伴者ということになるでしょう。わたしたちはここから、男と女との正しい連帯的関係について、その頂点としての結婚のあり方について、あるいは一人の人間と一人の人間が共に生きるという課題について、さらには教会生活での兄弟姉妹の交わりについても考えていく基本を見いだすことができるのではないでしょうか。

 さて、神は人間アダムにふさわしい助ける者をお与えになるために、まず野や空の生き物をお造りになったと19節から書かれています。1章に描かれていた第一の創造の記録では、これらの生き物が造られたのちに、最後に人間が創造されたという順序になっていましたが、第二の創造の記録では人間の後に他の生き物が造られます。その順序は違っていますが、そこで語られている中心的なテーマは一致しています。すなわち、人間はそれらのすべての生き物たちの頂点にあり、中心にあるということです。きょうの個所では人がそれらの生き物に名前を付けるということによってそのことが表現されています。名前を付けるということはそれらに対して主権を行使すること、それらを治め、管理し、守るということを意味しています。1章26節、28節以下で語られていたことと同じ意味です。

 けれども、それらの生き物を人が思いのままに支配し、管理できても、それが人の孤独を満たす助ける者とはなり得なかったと20節に書かれています。それらは人間と差し向かいの関係を作ることはできません。そこには、呼びかけたり支配したりすることはあっても、応答がないからです。互いの人格的関係がないからです。本当の意味で差し向かいであるためには、一個の人格と一個の人格とが共に独立した存在として出会い、対話し、応答しあうことが必要です。そのようにして、人は孤立と孤独から解放され、連体的人間となります。しかし、人間以外の生き物とはそのような関係を築くことができなかったと聖書は言います。【20節】。

 続けて、【21~24節】。神が人を深い眠りに落とされたのは、これが神の奇跡のみわざであることの強調です。人はこれには全く関与していませんし、関与することも傍観者であることもできません。ここでも、これまでの神の創造のみわざが無から有を呼び出だす創造であり、死から命を生み出す創造であることと同じ内容が語られています。神はみ言葉によってすべてのものを創造されました。神はまた、土のちりから人を創造され、これに命の息を吹き入れて生きる者とされました。男アダムのあばら骨から女エバを創造されたのも同じような無からの創造、死から命の創造です。

 ただ、ここで強調されているもう一つのことは、男アダムと女エバは同じ骨、同じ肉によって造られているのであり、両者は一体となるべきであり、連体的人間である、それが神のみ心だということです。そのことが、「主なる神が彼女を人のところへ連れて来られた」という言葉によって強調されています。男アダムと女エバとが真実の出会いをし、共にふさわしい助け手となり、連体的人間となって、一体となるのは、神のお導きなのです。神が二人を出会わせるのです。

 23節には、7節と同じようなヘブライ語の語呂合わせがあります。女を意味するイシャーと男を意味するイシュとは語源は違っていますが発音が似ていることから、イスラエルの人々は男イシュと発音する時はいつでも女イシャーを思い起こし、イシュなしにはイシャーはなく、イシャーなしにはイシュがないということを意識しました。そのようにして、すべての人は隣人と共にあることによって真実の差し向かいの関係となり、連体的人間となることを意識しました。

 【24節】。エフェソの信徒への手紙5章31、32節ではこの創世記のみ言葉は主キリストと教会との一体を語っていると理解しています。わたしたちが主キリストの体なる教会の中に植えこまれることによって、主キリストと一体にされ、またわたしたちも一体とされるのです。

(祈り)

12月22日(日)クリスマス礼拝説教

「世界史の中でのクリスマス、わたしの中でのクリスマス」

2019年12月22日(日) 秋田教会クリスマス礼拝説教

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ルカによる福音書2章1~14節

説教題:「世界史の中でのクリスマス、わたしの中でのクリスマス」

 ルカによる福音書2章では、主イエスの誕生を世界史との関連で伝えています。当時世界を支配していたローマ皇帝アウグストゥスの名前と、イスラエルが属していたシリア州の総督キリニウスの名前、そして、ローマ皇帝の命令に従って住民登録をするためにダビデの生まれ故郷ユダヤのベツレヘムに旅立ったヨセフとマリアのことが語られています。マリアはベツレヘムの滞在中に月が満ちて男の子を生みました。その子こそが、全世界の人たちがその誕生をお祝いしているクリスマスの主人公、全世界のすべての人の唯一の救い主であられる主イエス・キリストです。これが、ルカ福音書が伝えるクリスマスの出来事です。

 このように、主イエスの出来事を歴史との関連の中で語ることがルカ福音書の大きな特色です。3章1節では、最初のクリスマスからおよそ30年後、洗礼者ヨハネが荒れ野で救い主・主イエスの到来が近いことを宣べ伝え始めた時の歴史的背景が語られています。ルカ福音書はこのように主イエスの出来事を世界史の中に位置づけることによって、主イエスが歴史上の人物であり、福音書に書かれている主イエスの出来事、誕生とそのご生涯、そして十字架の死と三日目の復活、その救いのみわざのすべてが、架空の作り話ではなく、確かな歴史的な事実であることをわたしたちに強く訴えているのです。

 それだけではありません。聖書が主イエスの出来事を世界の歴史の中に位置づけて語るさらに重要な意味は、主イエスの誕生とその救いのみわざが世界の歴史に大きな影響を与えているからです。主イエスは世界の歴史の中に入って来られ、その歴史を動かし、歴史を支配され、全世界の王の王となられ、すべての人の救い主となられるということを聖書は語っているのです。

皆さんは西暦紀元という年の数え方が主イエスの誕生を基準にしていることをご存じと思います。紀元6世紀ころ、主イエスが誕生した年の翌年から紀元1年と数える方法が考えだされ、紀元15世紀ころにはその数え方が西洋諸国に広まったと言われています。紀元を英語でADと言い表しますが、これはラテン語のAnno Dominiの略です。Anno Dominiは「主の年」という意味です。主イエスが生まれた年から世界の年を数え始めたのです。主イエスの誕生によって世界の歴史が新しく始まったからです。主イエスの誕生によって神の救いの恵みが全世界のすべての人に接近してきたのです。神の救いの恵みが今やわたしたちの目の前に差し出されているのです。主イエスがこの世においでになったこの時こそが、神の恵みの時、神の救いの時なのです。

このクリスマスの時に、神は世界のただ中に入ってきてくださいます。わたしの目の前に、救いの恵みをもって立っておられます。世界の主としてこの世界においでくださった主イエスは、ほかでもないこのわたしの救い主として、クリスマスの豊かな恵みと祝福とをもって、わたしのところにもおいでくださいます。真実の悔い改めと信仰とをもって、主イエスをわたしの救い主として迎え入れましょう。それがわたしの中でのクリスマスです。世界の中で起こるクリスマスの出来事は確かにわたしの中でも起こります。

では、ルカ福音書が主イエスの誕生を世界史との関連で語っていることの意味について、3つの視点からさらに深く学んでいくことにしましょう。第一に、主イエスの誕生とそのご生涯の出来事が歴史上の事実であることを証明しているという点をすでにあげましたが、2章1、2節と3章1節とを比較してみますと世界とイスラエルの支配者の名前がみな違っていることに気づきます。2章は主イエスの誕生の時、3章はそれから30年後、主イエスが年およそ30歳で福音宣教のお働きを開始された時(3章23節参照)、その30年間に世界の支配者はみな変わりました。世界の支配者ローマ皇帝もイスラエルの国の指導者も変わっていきます。時代は変わり、この世の権力者たちも変わります。しかし、その中で、神の救いのご計画はいよいよ前進していくのだということをわたしたちはここから知らされます。主イエス誕生の時から、洗礼者ヨハネの登場へ、そして主イエスご自身の福音宣教の開始へと、神の救いのみわざは時代の変化の中でも確かに続けられ、前進していくのです。たとえ時代がどのように変化しようとも、この世の支配者が次々と立っては倒れていく中にあって、主イエス・キリストによる神の救いのみわざは決して変わることなく、滞ることなく、この世界の歴史を貫いて続けられていくのです。主イエス・キリストの救いのみわざは今もなお世界の教会を通して全世界の至る所で、この秋田の町で、続けられています。

次に、主イエスの誕生と救いのみわざは世界の歴史とどのように関連しているのでしょうか。ルカ福音書2章の少し先の個所を読んでみましょう。【10~11節】。この日にお生まれになった主メシアである主イエスは民全体に大きな喜びを与えると言われています。この民とは、旧約聖書の民イスラエルを指しています。旧約聖書は最初のクリスマス以前の、すなわち主イエスが誕生される前の神の救いのみわざについて記している書です。神は全世界の民の中からイスラエルをお選びになり、この民を通して救いのみわざをなさいました。そして、この民と契約を結ばれ、この民の中から全世界を罪から救い出されるメシア・救い主を遣わすと約束なさいました。イスラエルは2千年近くの間、神の約束の成就を待ち望み、メシア・救い主の到来を信仰をもって待ち続けてきました。

クリスマスはイスラエルの民のこの待望の時が終わり、神の約束が成就される時です。それゆえに、それは大きな喜びの時です。この世にあるどんな喜びよりもはるかに大きい、天の神から与えられる喜びです。永遠の喜びです。それゆえにまた、それはイスラエルの民だけでなく、全世界のすべての民にとっての大きな喜びでもあるのです。クリスマスにはこの大きな喜びが世界中に満ち溢れます。世界中の人々がさまざまなかたちでクリスマスをお祝いするのも、この天の神からの大きな、そして永遠の喜びの照り返しなのです。

クリスマスの日に誕生された主イエスは11節で「救い主」と呼ばれています。救い主とは、わたしたち人間を罪から救う唯一の主であるという意味です。人間は最初に創造されたアダムとエヴァ以来、すべての人間は神から離れ、神に背き、神なき世界で罪と死と滅びへと向かっていました。しかし今や、神はこの罪に覆われた暗闇の世界をまことの光で照らし、わたしたちを罪から救い出すために主イエス・キリストを世にお送りくださったのです。そして、主イエス・キリストの十字架の死によってわたしたちを罪の奴隷から贖いだし、救い出してくださったのです。主イエス・キリストによってわたしたちは神との命の交わりを回復され、神の子どもたちとされ、神の国の民とされています。これが全世界のすべての人々に与えられているクリスマスの大きな喜びの内容です。

第三に、ルカ福音書が世界史の中でのクリスマスを強調している意義の最も重要な点について、きょうのみ言葉から聞き取っていきましょう。きょうの聖書のみ言葉から受けるわたしたちの印象は、ここで歴史を支配し、人々を動かしているのはローマ皇帝アウグストゥスであるように見えます。彼は世界に勅令を発し、自分の権力と支配力を帝国内のあらゆる地にいきわたらせるために、また税金を効率よく取り立てるために、住民登録をするように命じます。人々は戸籍登録をしてある地まで赴き、手続きをしなければなりません。

ヨセフは妻マリアと共にガリラヤのナザレから120キロメートル余り南のエルサレム郊外のベツレヘムまで、登録するために旅立っていきました。ヨセフはダビデ家の家系に属していたので、ダビデの出身地ベツレヘムに戸籍があったからです。この時マリアは身重でした。二人にとってこの旅はどんなにか困難だったことでしょう。けれども、ローマ皇帝の命令に逆らうことはだれにもできません。世界の支配者であるローマ皇帝の前では、ヨセフとマリアは大海に浮かぶ木の葉のように、波間に漂うほかありません。

しかし、今クリスマスを祝っているわたしたちは知っています。そのようなごくごく小さな存在でしかないヨセフとマリアこそが、ここでは神の偉大なる約束の担い手をして選ばれているのであり、神の救いの歴史を全世界の中で新しくお始めになる救い主の両親となるべく定められているのだということを。取るに足りない貧しく年若い二人、歴史の中で翻弄されるしかないような二人、ヨセフとマリア、彼らこそが、全世界のすべての人々に伝えられるクリスマスの大きな喜びの源である主イエスの誕生を、自らの身に経験するために神に選ばれているのです。

神が今新たにお始めになる救いの歴史においては、ローマ皇帝アウグストゥスがその歴史の主なのではありません。クリスマスの主なのではありません。貧しく小さなヨセフとマリアからお生まれになり、家畜小屋で飼い葉おけの中に布にくるまれて寝かされている幼な子主イエスこそがクリスマスの主であられ、聖書全体の主であられ、全世界の救い主であられ、そしてわたしたち一人一人の救い主なのです。

ここでは、1章46節以下の「マリアの賛歌」で歌われていた大きな逆転が世界史の中で起こっています。その個所を読んでみましょう。【48~54節】。クリスマスにはこのような大きな逆転が世界の歴史の中で、またわたしたちの人生の中で起こるのです。この日に、貧しく、低く、みすぼらしいお姿で誕生された主イエス・キリストが全世界の救い主となられるからです。世界の歴史を動かし、それに意味を与えているのは、偉大な権力者ではなく、財を蓄えた富める者でもなく、知恵を誇る高慢な者でもありません。ヨセフとマリアのように、神の約束のみ言葉を聞きつつ、そのみ言葉の成就の時を待ち望みながら、従順に神が定められた道を歩む人たちこそが、世界の歴史の本当の担い手なのであり、そして彼らからお生まれになった主イエス・キリストこそが全世界の主、教会の主、そしてわたしの主なのです。

このクリスマスの福音を聞いたわたしの中でもあの大きな逆転が起こります。神がこの小さな取るに足りないわたしを顧みてくださり、わたしの罪のためにご自身のみ子・主イエス・キリストを十字架に引き渡されるほどにわたしを愛してくださったことを知らされ、わたしの罪と高慢と欲望とを打ち砕いてくださったゆえに、わたしがこれからは喜んで神と隣人とに仕える人に造り変えられ、この世の過ぎ去り朽ちていくものを追い求めるのではなく、天にある永遠なるものを求めて生きる人とされる、そのような大きな逆転がわたしの中にも起きるのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、全世界のすべての人たちにクリスマスの大きな喜びと豊かな恵み、祝福が届けられますように。

〇神よ、この世界を顧みてください。あなたのみ心に背いて、滅びに向かうことがありませんように。どのように小さな命も、傷つき、病んでいる命も、あなたのみ子によって与えられた大きな愛から離れることがありませんように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和とが日本とアジアと全世界のすべての民に与えられますように。

 主イエス・キリストみ名によって。アーメン。

12月15日 説教「ザカリアの賛歌―解放の預言」

2019年12月15日(日) 秋田教会待降節第三主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    ルカによる福音書1章67~80節

説教題:「ザカリアの賛歌―解放の預言」

 ルカによる福音書1章68節以下は「ザカリアの賛歌」と言われます。46節以下の「マリアの賛歌」が、その最初の言葉「あがめる」のラテン語からマグニフィカートと呼ばれるのに対して、ザカリアの賛歌は「ほめたたえる」のラテン語でベネディクトゥスと呼ばれています。この二つの賛歌にはいくつもの共通点があります。きょうはその共通点に注目しながら、ザカリアの賛歌で歌われている福音の恵みを聞き取っていきましょう。

 共通点の第一は、マリアもザカリアも主なる神をあがめ、ほめたたえているということです。【67~68節a】。マリアの場合は【46~47節】。二人とも神の恵みと奇跡によって子どもが与えられ、親になろうとしており、また親になったからです。マリアの場合には、まだ婚約中であり、ヨセフと一緒になる前に、神の霊、聖霊によって神のみ子を宿すという約束を与えられました。ガリラヤ地方の貧しいおとめが神に選ばれて、神のみ子の母になろうとしているのです。マリアはその恵みの大きさに驚きつつ、喜びの声をあげています。

 ザカリアの場合には、長い間子どもが授からず、年老いて全くその可能性が消えかかっていた時に、神の恵みと奇跡によって妻エリサベトが身ごもり、今、月満ちて男の子が誕生し、洗礼者ヨハネが生まれました。彼は最初、神の約束のみ言葉を聞いた時にはそれが信じられず、疑ったために、神の裁きを受けて口がきけなくされましたが、今は、自らの目で子どもの誕生を見たゆえに、疑うことができません。神はザカリアの疑いと不信仰を貫いて、それを超えて、ご自身の救いのご計画を進めてくださいました。そして、ザカリアは神によって不信仰を取り除かれ、今や信じる人とされ、、神にゆるされて口を開き、神を賛美し始めました。彼の口が開かれたのは、この賛美の歌を歌うためです。主なる神をほめたたえるためです。

 このように、待降節の中を歩んでいるマリアとザカリアは、すでにここにおいて、来るべき降誕節、クリスマスの大きな喜びと祝福に満たされながら、主なる救いの神を賛美しているのです。

 第二の共通点は、いずれの賛歌もそれぞれの家庭内で起こった出来事を感謝して歌っているのですが、その内容は神に選ばれたイスラエルの民全体の救いについて、いや、それのみでなく全世界のすべての民の救いについて歌っているということです。マリアの賛歌では、主なる神が貧しく低いマリアを顧みてくださり、全世界の婦人たちの中で最も幸いな婦人としてくださったこと、全世界の中で高いところにいた者がすべて低くされ、低いところにいた者がすべて高くされるという大逆転が神によって引き起こされるであろうということ、そしてそれによって、神がアブラハムとその子孫イスラエルの民にお与えになった約束を成就してくださったということをマリアは歌っています。

 ザカリアの賛歌では、前半で、主なる神がイスラエルの解放と救いをお与えになったことを賛美し、感謝しています。【68節b~75節】。マリアの賛歌では、「イスラエルと全世界における神の大逆転のみわざ」が歌われているとまとめることができるでしょう。ザカリアの賛歌では、「イスラエルと全世界における神の解放と救いのみわざ」が歌われていると言ってよいでしょう。そして、ザカリアの賛歌のもう一つの大きな特徴は、ここでザカリアは自分たち夫婦に与えられた男の子、すなわち洗礼者ヨハネのことを歌っていると予想されますが、しかしその内容の多くは、ヨハネのあとにおいでになるメシア・救い主・主イエス・キリストのことを歌っているということです。ヨハネについてはっきりと語っている箇所は76節だけであり、他のすべてはヨハネが預言し、その道を整えた後においでになる降誕節の主・イエス・キリストについてであると言ってよいでしょう。ザカリアの賛歌では主イエス・キリストによる解放と救いのみわざが賛美され、預言されているのです。

 69節の「僕ダビデの家から起こされた」とは、二つの意味を含みます。一つは、神がダビデにお与えになった契約、いわゆる「ダビデ契約」が主イエスによって成就されるということです。「ダビデ契約」とはサムエル記下7章で神が預言者ナタンによってダビデに語られた約束です。その個所をご一緒に読んでみましょう。【サムエル記下7章12~13節】(490ページ)。神はこの約束を主イエス・キリストによって成就され、永遠に神が支配される王国である神の国を来たらせてくださいます。しかも、68節に「主はその民を訪れて」とあるように、天におられる主なる神ご自身が人の子となられて、イスラエルの民の中に、この世界に、おいでになって、ダビデとの契約を成就してくださり、救いのみわざを成し遂げてくださったのです。72、73節でもこのように告白されています。【72~73節a】。73節では、創世記12章から何度も繰り返して書かれている、いわゆる「アブラハム契約」の成就が語られています。神は天地創造以来の、また族長アブラハム以来の救いのご計画を、主イエス・キリストによって成就されるのです。

 もう一つの意味は、主イエスが肉のつながりによれば、ダビデ王家の子孫だということです。1章27節に、「ダビデ家のヨセフ」と書かれていました。使徒パウロもローマの信徒への手紙1章3節で、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」と告白しています。ダビデ王家は、実際には、紀元前587年のエルサレム陥落とユダ王国滅亡によって、イスラエルの王家としては歴史から消えてしまいましたが、しかし神はご自身の契約を決してお忘れにならず、ダビデの切り株から、ひとたび死んだようなダビデの家から、メシア・救い主・主イエスを誕生させてくださったのです。神の解放と救いのみわざはイスラエルとダビデ王家の滅亡の歴史をはるかに超えて、全世界の中で前進していくのです。

 70節では、メシア・救い主なる主イエスの誕生は旧約聖書の預言者たちによって預言されていたことの成就であることが語られています。わたしたちは旧約聖書は預言の書、新約聖書は成就の書と表現します。旧約聖書はその全体が、創世記からマラキ書に至るまで全39巻すべてにおいて、来るべきメシア・救い主・主イエス・キリストを預言し、その到来を待ち望んでいる書であると告白しています。神のみ言葉は何一つ空しく語られることはありません。そのすべてが成就するのです。

 71節と74節に、「敵からの救い」と言われています。敵からの救いとはどのようなことをいうのでしょうか。旧約聖書を読むと、イスラエルの民は多くの敵対する国によって攻撃され、苦しめられてきたことが分かります。エジプトがまず挙げられます。アブラハムの子孫はエジプトで400年の間、寄留の民として、時に奴隷のように扱われていました。約束の地カナンに定着してからは、ペリシテ、シリア、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、そしてその当時はローマの諸国によって支配され、苦難の歴史を歩んできました。敵とは、そのようなイスラエルを苦しめた諸国を指すとも考えられますが、しかし本当のイスラエルの敵はそうではありません。もしイスラエルの民が主なる神を信頼し、神のみ言葉を信じているならば、それらの敵はイスラエルに何をなし得るでしょうか。神は彼らをすべての敵の手から守り、救い、ご自分の民として選ばれたイスラエルとの契約を必ずや実行されるであろうということを、神は預言者たちによって繰り返して語られたのではなかったでしょうか。イスラエルの最も力強い味方として、いつの時にも主なる神が与えられていたのではなかったでしょうか。神がイスラエルの味方であるならば、諸国はどれほど強い武器を持っていようとも、イスラエルの敵にはなり得ません。

 イスラエルの敵とは、彼らの不信仰であり、神に対する背反であり、偶像礼拝であり、罪であると言うべきです。それこそが、イスラエルを滅びへと導く最も恐ろしい敵なのです。したがって、敵の手からの救いとは、罪からの救いに他なりません。77節以下の後半でそのことがはっきりと語られます。

 76節は、直接洗礼者ヨハネについて語られている箇所です。【76節】。これはすでに1章14節以下で語られていた内容と一致しています。ザカリアに生まれる洗礼者ヨハネは来るべきメシア・主イエス・キリストを預言し、指し示し、主イエスのために仕えます。そこにこそ、ヨハネの人間としての偉大さがあります。ヨハネは旧約聖書の預言者の列の最後に立ち、最も近いところでメシア・キリストを預言し、また最も近いところで来たりたもうたメシア・キリストを証しし、このメシアのために彼の生涯をささげてお仕えするのです。

 77節以下の後半でも、主イエス・キリストのことが語られます。しかも、イスラエルという一つの民族の解放と救いにとどまらず、全世界のすべての人々の解放と救いを成就される主イエス・キリストが語られます。【77~79節】。71節と74節で言われていた「敵の手からの救い」が「罪の赦しによる救い」であると、ここではっきりと語られています。神を信じない罪、神のみ言葉に背く罪、神ならぬ偶像を礼拝する罪、神と隣人を愛することができず自分の欲望のままに生きることしかできない罪、主イエス・キリストは十字架の死によって全人類をその罪から救ってくださる救い主であられます。

 救いは罪のゆるしとして与えられます。罪びと自らがその罪を何らかの方法で償うとか、自分で精算しなければならないのではありません。また、人間は自らの罪を自分で精算してゼロにすることなど決してできません。神がみ子主イエス・キリストの十字架の死によって、わたしたちの罪をもはや数えることをせず、わたしたちを罪なき者として見てくださるのです。それに代わって、罪なききみ子に罪を負わせ、罪の厳しい裁きを負わせることによって、わたしたちの罪を消し去ってくださったのです。主イエス・キリストが十字架で流された尊い血潮によってわたしたちの罪を洗い流してくださったのです。

 79節はイザヤ書9章の預言の成就と考えられます。その個所を読んでみましょう。【イザヤ書9章1~6節】(1073ページ)。イザヤは全世界を覆っている暗闇を見ています。死に覆われている罪のこの世界の暗黒を見ています。しかし、今や、主イエス・キリストの誕生によって、「暗闇と死の陰に座している」全世界のすべての人々を照らすまことの光が差し込んでくるのを、イザヤは主イエス誕生の500年以上も前に預言し、それを見ています。今や、その預言が成就する時が来ました。わたしたちは次週の主の日に、その日を祝うクリスマス礼拝をささげます。

 最後に、マリアの賛歌とザカリアの賛歌のもう一つの共通点を見ておきましょう。それは、神の憐れみが強調されていることです。マリアの賛歌では、【50節】、【54節】、そして【58節】。ザカリアの賛歌では、【72節】、【78節】。神の憐れみは、紀元前1800ころのイスラエルの族長時代から、紀元前1000年ころのダビデ王の時代にも、そして紀元1世紀のザカリアの時代にも、変わることはありませんでした。神は彼らイスラエルの民と結ばれた契約を決してお忘れにならず、彼らの時代が終わっても、イスラエル王国が滅亡したのちも、その契約を覚えられ、そして主イエス・キリストによって成就されたのです。神の憐れみはイスラエルの歴史を貫き、人間の罪と背きの歴史を貫いて永遠に変わることなく、救いのみわざを成し遂げていくのです。そして、神の憐れみは暗黒と死の谷に住むわたしたちすべての罪びとたちを照らすまことの光としてこの世に現れ、さらには、この取るに足りないわたしにまで及び、わたしに信仰を与え、罪から救い、神の民としました。神の憐れみは罪の中に信仰を生み出していく力であり、死と滅びの中にまことの命を生み出していく力なのです。

(祈り)