12月15日 説教「ザカリアの賛歌―解放の預言」

2019年12月15日(日) 秋田教会待降節第三主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    ルカによる福音書1章67~80節

説教題:「ザカリアの賛歌―解放の預言」

 ルカによる福音書1章68節以下は「ザカリアの賛歌」と言われます。46節以下の「マリアの賛歌」が、その最初の言葉「あがめる」のラテン語からマグニフィカートと呼ばれるのに対して、ザカリアの賛歌は「ほめたたえる」のラテン語でベネディクトゥスと呼ばれています。この二つの賛歌にはいくつもの共通点があります。きょうはその共通点に注目しながら、ザカリアの賛歌で歌われている福音の恵みを聞き取っていきましょう。

 共通点の第一は、マリアもザカリアも主なる神をあがめ、ほめたたえているということです。【67~68節a】。マリアの場合は【46~47節】。二人とも神の恵みと奇跡によって子どもが与えられ、親になろうとしており、また親になったからです。マリアの場合には、まだ婚約中であり、ヨセフと一緒になる前に、神の霊、聖霊によって神のみ子を宿すという約束を与えられました。ガリラヤ地方の貧しいおとめが神に選ばれて、神のみ子の母になろうとしているのです。マリアはその恵みの大きさに驚きつつ、喜びの声をあげています。

 ザカリアの場合には、長い間子どもが授からず、年老いて全くその可能性が消えかかっていた時に、神の恵みと奇跡によって妻エリサベトが身ごもり、今、月満ちて男の子が誕生し、洗礼者ヨハネが生まれました。彼は最初、神の約束のみ言葉を聞いた時にはそれが信じられず、疑ったために、神の裁きを受けて口がきけなくされましたが、今は、自らの目で子どもの誕生を見たゆえに、疑うことができません。神はザカリアの疑いと不信仰を貫いて、それを超えて、ご自身の救いのご計画を進めてくださいました。そして、ザカリアは神によって不信仰を取り除かれ、今や信じる人とされ、、神にゆるされて口を開き、神を賛美し始めました。彼の口が開かれたのは、この賛美の歌を歌うためです。主なる神をほめたたえるためです。

 このように、待降節の中を歩んでいるマリアとザカリアは、すでにここにおいて、来るべき降誕節、クリスマスの大きな喜びと祝福に満たされながら、主なる救いの神を賛美しているのです。

 第二の共通点は、いずれの賛歌もそれぞれの家庭内で起こった出来事を感謝して歌っているのですが、その内容は神に選ばれたイスラエルの民全体の救いについて、いや、それのみでなく全世界のすべての民の救いについて歌っているということです。マリアの賛歌では、主なる神が貧しく低いマリアを顧みてくださり、全世界の婦人たちの中で最も幸いな婦人としてくださったこと、全世界の中で高いところにいた者がすべて低くされ、低いところにいた者がすべて高くされるという大逆転が神によって引き起こされるであろうということ、そしてそれによって、神がアブラハムとその子孫イスラエルの民にお与えになった約束を成就してくださったということをマリアは歌っています。

 ザカリアの賛歌では、前半で、主なる神がイスラエルの解放と救いをお与えになったことを賛美し、感謝しています。【68節b~75節】。マリアの賛歌では、「イスラエルと全世界における神の大逆転のみわざ」が歌われているとまとめることができるでしょう。ザカリアの賛歌では、「イスラエルと全世界における神の解放と救いのみわざ」が歌われていると言ってよいでしょう。そして、ザカリアの賛歌のもう一つの大きな特徴は、ここでザカリアは自分たち夫婦に与えられた男の子、すなわち洗礼者ヨハネのことを歌っていると予想されますが、しかしその内容の多くは、ヨハネのあとにおいでになるメシア・救い主・主イエス・キリストのことを歌っているということです。ヨハネについてはっきりと語っている箇所は76節だけであり、他のすべてはヨハネが預言し、その道を整えた後においでになる降誕節の主・イエス・キリストについてであると言ってよいでしょう。ザカリアの賛歌では主イエス・キリストによる解放と救いのみわざが賛美され、預言されているのです。

 69節の「僕ダビデの家から起こされた」とは、二つの意味を含みます。一つは、神がダビデにお与えになった契約、いわゆる「ダビデ契約」が主イエスによって成就されるということです。「ダビデ契約」とはサムエル記下7章で神が預言者ナタンによってダビデに語られた約束です。その個所をご一緒に読んでみましょう。【サムエル記下7章12~13節】(490ページ)。神はこの約束を主イエス・キリストによって成就され、永遠に神が支配される王国である神の国を来たらせてくださいます。しかも、68節に「主はその民を訪れて」とあるように、天におられる主なる神ご自身が人の子となられて、イスラエルの民の中に、この世界に、おいでになって、ダビデとの契約を成就してくださり、救いのみわざを成し遂げてくださったのです。72、73節でもこのように告白されています。【72~73節a】。73節では、創世記12章から何度も繰り返して書かれている、いわゆる「アブラハム契約」の成就が語られています。神は天地創造以来の、また族長アブラハム以来の救いのご計画を、主イエス・キリストによって成就されるのです。

 もう一つの意味は、主イエスが肉のつながりによれば、ダビデ王家の子孫だということです。1章27節に、「ダビデ家のヨセフ」と書かれていました。使徒パウロもローマの信徒への手紙1章3節で、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」と告白しています。ダビデ王家は、実際には、紀元前587年のエルサレム陥落とユダ王国滅亡によって、イスラエルの王家としては歴史から消えてしまいましたが、しかし神はご自身の契約を決してお忘れにならず、ダビデの切り株から、ひとたび死んだようなダビデの家から、メシア・救い主・主イエスを誕生させてくださったのです。神の解放と救いのみわざはイスラエルとダビデ王家の滅亡の歴史をはるかに超えて、全世界の中で前進していくのです。

 70節では、メシア・救い主なる主イエスの誕生は旧約聖書の預言者たちによって預言されていたことの成就であることが語られています。わたしたちは旧約聖書は預言の書、新約聖書は成就の書と表現します。旧約聖書はその全体が、創世記からマラキ書に至るまで全39巻すべてにおいて、来るべきメシア・救い主・主イエス・キリストを預言し、その到来を待ち望んでいる書であると告白しています。神のみ言葉は何一つ空しく語られることはありません。そのすべてが成就するのです。

 71節と74節に、「敵からの救い」と言われています。敵からの救いとはどのようなことをいうのでしょうか。旧約聖書を読むと、イスラエルの民は多くの敵対する国によって攻撃され、苦しめられてきたことが分かります。エジプトがまず挙げられます。アブラハムの子孫はエジプトで400年の間、寄留の民として、時に奴隷のように扱われていました。約束の地カナンに定着してからは、ペリシテ、シリア、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、そしてその当時はローマの諸国によって支配され、苦難の歴史を歩んできました。敵とは、そのようなイスラエルを苦しめた諸国を指すとも考えられますが、しかし本当のイスラエルの敵はそうではありません。もしイスラエルの民が主なる神を信頼し、神のみ言葉を信じているならば、それらの敵はイスラエルに何をなし得るでしょうか。神は彼らをすべての敵の手から守り、救い、ご自分の民として選ばれたイスラエルとの契約を必ずや実行されるであろうということを、神は預言者たちによって繰り返して語られたのではなかったでしょうか。イスラエルの最も力強い味方として、いつの時にも主なる神が与えられていたのではなかったでしょうか。神がイスラエルの味方であるならば、諸国はどれほど強い武器を持っていようとも、イスラエルの敵にはなり得ません。

 イスラエルの敵とは、彼らの不信仰であり、神に対する背反であり、偶像礼拝であり、罪であると言うべきです。それこそが、イスラエルを滅びへと導く最も恐ろしい敵なのです。したがって、敵の手からの救いとは、罪からの救いに他なりません。77節以下の後半でそのことがはっきりと語られます。

 76節は、直接洗礼者ヨハネについて語られている箇所です。【76節】。これはすでに1章14節以下で語られていた内容と一致しています。ザカリアに生まれる洗礼者ヨハネは来るべきメシア・主イエス・キリストを預言し、指し示し、主イエスのために仕えます。そこにこそ、ヨハネの人間としての偉大さがあります。ヨハネは旧約聖書の預言者の列の最後に立ち、最も近いところでメシア・キリストを預言し、また最も近いところで来たりたもうたメシア・キリストを証しし、このメシアのために彼の生涯をささげてお仕えするのです。

 77節以下の後半でも、主イエス・キリストのことが語られます。しかも、イスラエルという一つの民族の解放と救いにとどまらず、全世界のすべての人々の解放と救いを成就される主イエス・キリストが語られます。【77~79節】。71節と74節で言われていた「敵の手からの救い」が「罪の赦しによる救い」であると、ここではっきりと語られています。神を信じない罪、神のみ言葉に背く罪、神ならぬ偶像を礼拝する罪、神と隣人を愛することができず自分の欲望のままに生きることしかできない罪、主イエス・キリストは十字架の死によって全人類をその罪から救ってくださる救い主であられます。

 救いは罪のゆるしとして与えられます。罪びと自らがその罪を何らかの方法で償うとか、自分で精算しなければならないのではありません。また、人間は自らの罪を自分で精算してゼロにすることなど決してできません。神がみ子主イエス・キリストの十字架の死によって、わたしたちの罪をもはや数えることをせず、わたしたちを罪なき者として見てくださるのです。それに代わって、罪なききみ子に罪を負わせ、罪の厳しい裁きを負わせることによって、わたしたちの罪を消し去ってくださったのです。主イエス・キリストが十字架で流された尊い血潮によってわたしたちの罪を洗い流してくださったのです。

 79節はイザヤ書9章の預言の成就と考えられます。その個所を読んでみましょう。【イザヤ書9章1~6節】(1073ページ)。イザヤは全世界を覆っている暗闇を見ています。死に覆われている罪のこの世界の暗黒を見ています。しかし、今や、主イエス・キリストの誕生によって、「暗闇と死の陰に座している」全世界のすべての人々を照らすまことの光が差し込んでくるのを、イザヤは主イエス誕生の500年以上も前に預言し、それを見ています。今や、その預言が成就する時が来ました。わたしたちは次週の主の日に、その日を祝うクリスマス礼拝をささげます。

 最後に、マリアの賛歌とザカリアの賛歌のもう一つの共通点を見ておきましょう。それは、神の憐れみが強調されていることです。マリアの賛歌では、【50節】、【54節】、そして【58節】。ザカリアの賛歌では、【72節】、【78節】。神の憐れみは、紀元前1800ころのイスラエルの族長時代から、紀元前1000年ころのダビデ王の時代にも、そして紀元1世紀のザカリアの時代にも、変わることはありませんでした。神は彼らイスラエルの民と結ばれた契約を決してお忘れにならず、彼らの時代が終わっても、イスラエル王国が滅亡したのちも、その契約を覚えられ、そして主イエス・キリストによって成就されたのです。神の憐れみはイスラエルの歴史を貫き、人間の罪と背きの歴史を貫いて永遠に変わることなく、救いのみわざを成し遂げていくのです。そして、神の憐れみは暗黒と死の谷に住むわたしたちすべての罪びとたちを照らすまことの光としてこの世に現れ、さらには、この取るに足りないわたしにまで及び、わたしに信仰を与え、罪から救い、神の民としました。神の憐れみは罪の中に信仰を生み出していく力であり、死と滅びの中にまことの命を生み出していく力なのです。

(祈り)

12月8日説教「十字架の死に至るまで従順であられた主イエス」

2019年12月8日(日) 秋田教会待降節第二主日礼拝

聖 書:イザヤ書53章1~10節

    フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教題:「十字架の死に至るまで従順であられた主イエス」

 フィリピの信徒への手紙2章5節にこのように書かれています。【5節】。この言葉が前半の1~4節と後半の6節以下とを結んでいます。きょうはまずこの結びつきについて考えてみましょう。1~4節では、使徒パウロは教会の一致と謙遜と互いに仕え合うことを勧めています。そして、6節以下では、主イエス・キリストがご自身を低くされ、僕(しもべ)のようになられ、父なる神のみ前で謙遜に、十字架の死に至るまで従順にお仕えになったことが語られています。この二つのことはどのように結びついているのでしょうか。

 一つは、主キリストの生き方がわたしたちキリスト者の生き方の模範、手本として示されているという理解です。これは、パウロが他の個所では「主キリストにならいなさい」と勧めていることと同じです。それとともに、ここではさらに深いつながりがあるように思われます。主キリストがそのようなキリスト者の生き方を可能にされた、そのような生き方の道を開かれたということも含まれています。つまり、主キリストが十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されたことによって、主キリストがわたしたちのために救いの道を開いてくださり、わたしたちキリスト者がその道へと招き入れられているということです。わたしたちキリスト者が愛の交わりによって一致を保ち、互いに謙遜と尊敬とをもって仕え合うことができるのは、主キリストの十字架の死によって罪ゆるされ、父なる神との豊な交わりの中に置かれているからなのです。キリスト者は主キリストによって開かれ、備えられた新しい存在、新しい生き方へと招き入れられているのです。

 そこで、パウロは6節以下で、主イエス・キリストの十字架について語りだします。そこに、わたしたちキリスト者の生き方の出発点、基礎、土台、そして目標があるからです。

 6節以下は「キリスト賛歌」と言われます。この賛歌は整った詩のような形式になっており、パウロの創作と言うよりは、パウロ以前の初代教会の礼拝の中で伝承されたものではないかと考えられています。全体は2部に分かれ、6~8節では、神と同じ高さにおられた主キリストが僕(奴隷)の低さにまで下られたことが語られています。これを「キリストの謙卑(けんぴ)」と言います。9~11節では、神が十字架で死なれた主キリストを高く引き上げられ、全世界、全宇宙の主とされたことが語られています。これを「キリストの高挙」と言います。この主キリストの謙卑と高挙がわたしたちキリスト者の新しい存在と生き方とを開くのです。

 では【6~7節a】。「主キリストは神の身分であったが、僕(奴隷)と同じ身分になられ、人間と同じ姿になられた」。ここでは、最も高きにおられた方が最も低きに降りてこられたと言われています。これが、わたしたちが間もなく迎えようとしているクリスマスの出来事、主イエスのご降誕の出来事の意味です。「神の身分」とは次の「神と等しい者」と同じ内容を語っています。主キリストは神と本質を同じくする神のみ子であり、世界が創造される前から神と共におられた、聖なる、永遠なる方です。

 そのような主キリストが「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になった」という、驚くべきことが語られています。神が人となられたという、この驚くべき奇跡、これがクリスマスの出来事の意味です。主キリストは神のみ子として、本来はすべての者たちに仕えられるべき高きにいます聖なる方でしたが、しかしその権威と権利とをすべて投げ捨てられ、ご自身を空しくされて、全く何も持たない僕として罪のこの世においでになり、すべての罪びとたちのために仕えくださったのです。罪なき聖なる方が罪のこの世においでくださり、罪びとの一人となられたのです。永遠なる方が過ぎ去り滅ぶべきこの被造世界においでくださり、罪の奴隷であった人間の一人となられたのです。

 7節冒頭の「かえって」という言葉は、主キリストの最初の高い地位と彼が選び取ったのちの低い身分とをつなげています。しかも、逆説的な意味合いでつなげています。主キリストは神と同じ身分という特権を他のことのために用いるという自由を持っておられました。その特権をご自分の権力を誇り、それを行使するために用いるとか、ご自分の喜びや楽しみのために用いることもできたのでした。しかし、彼はそうなさいません。むしろ、主キリストは彼に与えられている自由を、ご自分が持つ高い地位や特権を喜んで放棄するために用いたのです。主キリストは他を支配し、他に仕えられるという特権を放棄し、むしろ罪びとたちに仕える僕の身分を選び取るためにその自由を用いたのです。彼は何かに強制されてそうしたのでは全くありませんでした。神と同じという身分をだれかによって奪い取られたのでもなく、やむなく落ちぶれて僕の身分になったのでもありません。主キリストは全き自由の中で、「ご自分を無にして」、自ら進んで自己放棄と自己を犠牲としてささげる道をお選びになったのです。

 ここで、主イエスが選び取られた自由と、最初の人間アダムが誤って用いた自由とを比較してみたいと思います。最初の人間アダムとエバは神のかたちに似せて創造され、神との豊な交わりの中で、神から与えられた恵みをほしいままに受け取る自由と権利とを与えられていました。創世記2章にはアダムがエデンの園、喜びの園で神と共に生きる姿が描かれています。ところが、アダムはこの自由と特権を、自ら神のようになろうとし、神の高きにまで達するために用いました。そして、神から禁じられていた知識の木の実を取って食べ、神の戒めに背きました。これが、原罪(オリジナル・シン)と言われるものです。神に対して罪を犯した人間アダムはそれ以後神から身を隠して、神なき世界で、罪に支配され、罪の奴隷となって生きるほかなくなったのです。人間アダムは神のみ前での自由を失ってしまいました。

 主イエス・キリストは人間が罪のゆえに失った神のみ前での自由を、ご自身が神の身分を自ら進んで放棄するという自由によって、回復してくださったのです。今や、わたしたちには主イエス・キリストによって与えられたこの真実の自由に生きることがゆるされているのです。それゆえに、すでに1~5節で語られていたように、主キリストの十字架の愛によって教会全体が一致し、自分の喜びとか自分の利益のためにではなく、他者の益のために、他者を喜ばすために、自ら進んで僕となって他者に仕えていく自由、他者を支配したり、だれかの上に立って自らの意志を実現するのではなく、むしろ自ら低くなり、貧しくなり、自らを捨てる自由、すべての人のための僕となって仕える自由、この自由に生きる道を主キリストはわたしたちのために開かれたのです。

 【7節b~8節】。主キリストの謙卑と自由、自己を捨てるという自由、僕となり他者に仕えるという自由、そして罪の中にある人間と共に住み、共に歩まれるという自由は、何と、死に至るまで貫かれました。主キリストが選び取られた自由は、彼の死によっても脅かされることがない、死を貫いていく自由、死をも超えていく自由でした。

 「死に至るまで」と言い、すぐに続けて「それも十字架の死に至るまで」と付け加え、主キリストの従順の偉大さが強調されています。十字架刑はイスラエルでは決して行われませんでした。なぜなら、旧約聖書の申命記21章23節で「木にかけられた者は神に呪われた者である」と書かれているからです。神から賜った聖なる地を汚さないように、ユダヤ人はどのような極悪人でも木にかけることはしませんでした。そうであるのに、主イエス・キリストはローマ総督ピラトによって十字架刑を宣告され、最も屈辱的で神に呪われた十字架にかけられて死なれたのでした。これは何という神のみ子の低さ、貧しさ、謙卑、自己放棄でしょうか。主キリストは神と等しくあるという栄光の座を投げ捨てて人間となられただけでなく、人間として最も低いところにまで下られ、罪びとや犯罪人の友となられ、ついには神からも見捨てられたかのように、ただお一人で黄泉(よみ)の暗闇にまで降りて行かれ、それでもなおも父なる神に全き服従を貫かれて、十字架で死んでいかれたのです。

 では、これによって神は神であることをやめたもうたのでしょうか。神のみ子は神のみ子であることをやめられたのでしょうか。あるいは、神はほんの少しの間だけ、ナザレのイエスという人間の姿に身をやつして、この地上での短い旅を終えられたということなのでしょうか。いや、そうではありません。神は主イエスとして、完全な人間となられました。死を経験するほどに完全な人間となられました。主イエス・キリストは罪びとが受けるべき死という裁きを受けるほどに完全な人間となられました。そのようにして、神は罪びとのわたしたちと同じお姿になられ、わたしたち罪びとたちと共に歩まれ、わたしたちを完全に罪からお救いくださったのです。

 8節の「へりくだって」という言葉は、3節の「へりくだって」と同じです。フィリピ教会に謙遜を勧めていたパウロにはすでに主イエス・キリストご自身のへりくだり、十字架の死に至るまで父なる神のみ心に従順に服従された主キリストへりくだりのことが目の前に描き出されていたのでしょう。わたしたち罪びとたちの救いのために、このようにしてご自身を低く、貧しくされた神、その父なる神、神のみ心に全く服従をおささげになられた主イエス・キリスト、そこにこそ神がまことの神でありたもうことの真理があり、主キリストがまことの神のみ子であられることの真理があり、わたしたち罪びとに対する限りない愛と恵みがあるのです。それゆえにまた、そのようにして開かれた隣人に対するわたしたちのへりくだりと謙遜、愛と奉仕にこそ、わたしたちキリスト者の生きるべき道があるのです。

 キリスト賛歌の後半を読んでみましょう。【9~11節】。前半では主キリストが主語になっていましたが、後半では神が主語になります。神は死に至るまで従順であられた主キリストをお見捨てにはなりませんでした。神は最も低きところに降られた主キリストを、そのまま放置なされずに、最も高きところに引き上げられました。今や、主キリストのみ名はすべてのものの上に、君臨しています。罪と死とに勝利された主として、主キリストは今や神の右に座しておられます。

 「高く」とは、この世界にあるものたちが背比べをしてその中で最も高くという意味ではなく、この世界をはるかに超えて高く引き上げられ、天にまで引き上げられたという意味です。使徒言行録1章には、主イエスが復活されて40日目に天に引き上げられる様子が描かれています。また、エフェソの信徒への手紙1章20節以下にはこのように書かれています。【20~23節】(353ページ)。

 天にあげられた主イエス・キリストのみ名は、今や全世界の教会の民によって「イエス・キリストは主である」と告白され、証しされています。それによって教会はすべてのご栄光を神に帰するのです。それによって神の救いのみわざが完成します。主キリストの体である教会に呼び集められているわたしたちはこのようにして神を礼拝する一つの群れとなり、再び来られて神の国を完成される主イエス・キリストの再臨を待ち望むのです。それがアドヴェント(待降節)もう一つの意味です。

(祈り)

12月1日説教「エデンの園で神と共に生きる人間アダム」

2019年12月1日(日) 秋田教会待降節第一主日礼拝説教

聖 書:創世記1章4~17節

    ヨハネの黙示録2章1~7節

説教題:「エデンの園で神と共に生きる人間アダム」

 創世記2章の人間創造のみ言葉によれば、神は人間アダムを土のちりで造り、その鼻から命の息を吹き入れることによって、人間は生きた者となったと書かれています。中世初めの偉大な神学者アウグスチヌスはこのように言いました。「人間は神によって造られた者であるゆえに、造り主なる神のもとに帰るまでは、本当に魂の安らぎを得ることはできない」と。

 いったい、現代の人間は、またわたしたち一人一人は本当に魂の安らぎを得ているのでしょうか。神を失い、神なき世界で不安と孤独の中にある人間の魂、神の戒めに背き、罪びととなってエデンの園を追放され、暗黒と死の恐怖におののいている人間、そして争いと奪い合いを繰り返し、神を恐れることをしないこの世界、そこに本当の魂のやすらぎはあるのだろうか。神はこのような世界を顧みてくださるのだろうか。滅びゆく魂に救いを与えてくださるのだろうか。

 アドヴェント、待降節を迎えたこの時期に、わたしたちは世界の平和と人間の魂の平安を特に強く願い求めます。アドヴェントは本来ラテン語で「接近、到来」を意味します。日本語では待ち望むという人間の側の姿勢を言い表しますが、本来は神がこの世界に到来することを意味しています。神がこの世界に近づいて来てくださる、神がわたしたちの所に到来されるということです。神を見失い、滅びに向かっているこの世界を、そして不安と孤独の中をさまようわたしたちの魂を、神は決してお見捨てにはならず、この暗黒の世界を再びエデンの園とするために(エデンとは喜び、歓喜という意味ですが)、この世界でわたしたち人間が再び神と共に生きる喜びと平安に満たされるために、神はご自身の独り子、救い主なる主イエス・キリストをこの世界にお与えくださったのです。

 では、きょうは創世記2章8節から読んでいきましょう。【8節】。また【15節】。神は人間アダムをエデンの園に置いた、そこに住まわせたと繰り返されています。人間がエデンの園に住むことは神の強い意志であり、お導きなのです。人間は偶然にそこにいるのではありませんし、自分の意志や努力によってそこを手に入れたのでもありません。神が人間を創造されたことが神の強い意志であったように、人間がエデン・喜び・歓喜の園に住むこともまた、神の意志であり、神の大きな愛によることなのです。この神の深いみ心と大きな愛とを知り、神に感謝して神と共に歩み、神の導きに従って生きる時に、そこに本当の意味での喜び・歓喜があり、魂の平安があるのです。

 ここでもう一つ重要なポイントは、エデンの園は神がお造りになり、神が人間をそこに住まわせたのであって、それは神の所有であり、神がその園のご主人であるということです。人間はそれを自分の手で開拓したのではありませんし、それを自分の意のままに取り扱ってよいのでもありません。あるいはその中で自分の喜びを見い出したり、造り出していかなければならないのでもありません。園のご主人である神がすべてを備えてくださいます。

 そのことが、次の9節で具体的に語られています。【9節】。エデンの園では、神がすべての良きものを備えてくださいます。神はエデンの園に「見るからに好ましく、……あらゆる木を地に生えさせ」、さらに10節以下に書かれているように、豊かな川の流れによってその地を潤してくださり、人間アダムが生きるに必要なすべてを備えてくださり、彼が喜びと感謝とを持って、園のご主人である神と共に生きることができるように配慮しておられます。ここにこそ、人間の魂の安らぎ、本当の喜びがあります。

 15節によれば、神が人間をエデンの園に住まわせられたのは、人間アダムがその地を耕し、その地を管理し、守るという神から託された奉仕の務めを果たすためです。1章26節と28節で語られていたことと同じです。人間は神が創造されたこの世界とすべての被造物を治め、管理し、また美しいエデンの園を耕し、守るという神から託された務めに生きることによって、神と共にあり、神に従って生きる時に、本当の喜び、平安に生きることができるのです。

 エデンの園は具体的に地球上のどの地域を暗示しているのかということが議論されてきました。ヒントになるのが4つの川の名前です。今日までその名が知られているのは、14節のチグリス川、ユーフラテス川です。ピションとギホンは川の名前としては聖書ではここだけであり、特定することはできませんが、ピションはインダス川、ギホンはナイル川という説もあります。しかし、おそらくどこかの地域を特定する必要はないと思われます。10節の「四つの川」の四という数字は、聖書では完全数と言われ、全方向、全世界を意味していますから、エデンの園とは神が創造された世界全体と考えてよいと思います。

 エデンの園で、神と共に喜びのうちに生きる人間の最も基本的な姿が16~17節に書かれています。【16~17節】。人間がエデンの園で神と共に喜びのうちに生きるということは、具体的にはこの神のみ言葉を聞いて生きるということにほかなりません。16節の冒頭に、「主なる神は人に命じて言われた」とあります。人間は神のみ言葉を聞いて生きるべき存在です。神の命令を聞いて生きるのです。ここでは「命じて」とあり、続けて「食べなさい」も命令形ですが、神の命令は同時に許可であり、許しです。人間は神の命令によって、神の許しのもとで生きるのです。ここにこそ、人間の最大の自由があります。他の何ものによっても、あるいは自分自身によっても、生きることを制限されない、生きることと死ぬことを強制されない、「あなたは生きよ、生きてよろしい」と言われる主なる神の命令とゆるしの中で、人間は生きるのです。

 「園のどの木から……」(16節)。ここには、エデンの園で人間アダムに与えられている最大限の自由が具体的に示されています。「すべての木から取って食べなさい」。人間が生きるに必要なものすべてが神によって備えられています。人間はこの神のみ言葉を聞くとき、神からの最大限の自由の中で、その自由によって生きることができるのです。

 自由とは何か? ある哲学者は「人類の歴史は自由を求めての闘争であった」と言っています。人間はいつもみな自由を求めてきました。そのことはまた、人間はいつも自由ではなかった、いつも何かに拘束され、何かの奴隷であったということでもあります。人間はこの世の悪しき権力の奴隷にされることもあります。この世の富の奴隷になることもあります。人々の目に束縛され、自分自身の欲望に束縛されることもあります。そして、人間はだれもみな罪の奴隷です。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙5章で、「主イエス・キリストの十字架はわたしたちを罪の奴隷から解放し、自由にしたのだから、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」と勧めています。

 わたしたちは造り主なる神と共に生きるとき、神のみ言葉を聞いて生きるとき、本当の自由を与えられるのです。救い主・主イエス・キリストの十字架の福音を信じ、罪ゆるされることによってこそ、真の自由に生きることができます。「あなたは園のどの木からも取って食べなさい」、この神のみ言葉を聞くとき、人間は神の恵みと自由とゆるしのもとで、自由な存在とされ、真の自由の中で生きることができます。この自由はあくまでも神から与えられる自由であり、神なしで、人間が自分勝手に、気ままに生きてよいという自由ではありません。そのことは次の17節のみ言葉から明らかにされます。

 【17節】。ここには、神から与えられる自由とはどのようなものであるのかが語られています。人間は神のみ言葉の前で決断をしつつ、神から与えられた自由を選び取っていくのです。神の戒めに忠実に従って、禁じられた木の実を取って食べることをしないという決断の自由を選び取っていくのです。

 自由とは、何もしないで気ままに生きてよいという自由ではありません。もはや神さえも必要としなくなるほどに人間が自分の思いや欲望のままに生きてよいという自由でもありません。人間に与えられている自由とは、何よりもまず神のみ言葉に喜んで聞き従うという自由です。神のみ言葉に対して決断していく自由です。そのことはまた、結果的に言うならば、神のみ言葉に聞き従う自由に生きるときには、他のすべての束縛から解放されることでもあります。

 エデンの園に数多くある木の実から自由に取って食べなさいという最大の自由の中で、ただ1本の実からは取って食べてはならないというこの禁止は、人間アダムの自由を制限することになるのでしょうか。人間アダムはこのただ一つの禁止によって、「わたしには自由がない」と言って嘆くべきでしょうか。いや、決してそうではありません。むしろ、この神の禁止もまた、人間を真の自由と命へと導くための神の恵みのみ言葉なのです。と言うのは、人間はこの神の戒めに聞き従うことによって、死の危険から守られているからです。「食べると必ず死んでしまう」。だから、食べるなという神の命令は、人間を命へと導くために語られているのです。神のみ言葉はわたしたちをあらゆる死の危険から守るのです。まことの命へと導くのです。

 「善悪の知識の木」とは何かを考えてみましょう。その前に、同じように園の中央に生えていた「命の木」についても触れておきましょう。9節でその二つの木のことが語られていましたが、17節では「命の木」については何も語られてはいません。「命の木」については、のちにアダムが罪を犯した後で、3章22節以下で再び語られます。【3章22~24節】。ここでも暗示されているように、「命の木」とは、それを食べると死なずに永遠に生きることができるようになる木であるように思われます。神は2章17節では、その木の実を取って食べるなとは命じておられませんから、アダムはそれを食べてもよいし食べなくてもよかったと思われますから、そのことから推測して、エデンの園では人間アダムは本来死ぬことがない、永遠の命を与えられていたらしいと思われます。3章に入って、人間が罪を犯した後、罪びとになったアダムがいつまでも生きて、永遠に罪を犯し続けることがないようにするために、神はアダムをエデンの園から追放し、命の木から食べることができないようにされたと考えられます。

 では「善悪を知る木」とは何でしょうか。善悪を知るとは、善と悪とをわきまえるという倫理的な能力を意味するだけではなく、それをも含めて、すべての知識を言い表していると考えられます。聖書の中には、同じような用法が数多くあります。「大と小」と言えば、大きなものから小さなものまでのすべての大きさのものを言いますし、朝夕とは、一日中の意味ですし、「出ると入る」とは、家から出る時、家に入る時のすべての行動を言い表しています。「善悪を知る」とは、すべてを知る、知識の全体を知るということ、すなわち全知、全能であるということです。

 人間は「善悪の知識の木」から取って食べることは神から禁じられているのです。つまり、人間は全知でも全能でもありません。人間には限界が定められています。ただ、主なる神だけが全知全能の神であられます。そうであるゆえに、人間は全知全能の神からすべてのものを与えられ、神のみ言葉に導かれて生きるべきでありますし、生きることが許されているのです。

(祈り)

11月24日説教「洗礼者ヨハネの誕生」

2019年11月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記17章9~14節

    ルカによる福音書1章57~66節

説教題:「洗礼者ヨハネの誕生」

 ルカによる福音書1章から、わたしたちはこれまでに二人の子どもの誕生予告について聞いてきました。一人は、年老いて子どもがいなかったザカリアとエリサベトに神の大きな恵みと奇跡によって与えられるであろうと約束された洗礼者ヨハネです。【13節】。もう一人は、婚約中でまだ一緒になる前のヨセフとマリアに神の聖霊と奇跡によって与えられるであろうと約束されたメシアなる主イエスです。【30~31節】。

 そして、きょう朗読された最初のみ言葉で、ザカリアとエリサベトに語られた神の約束が成就し、彼らに男の子が誕生したということをわたしたちは聞きます。【57節】。では、もう一方はどうなるでしょうか。あらかじめ、2章を先取りして、それを確認しておきましょう。【2章6~7節】。ヨセフとマリアに語られたもう一つの神の約束が成就し、彼らに男の子が誕生したと書かれています。このように、神の約束は必ず成就します。神が語られたみ言葉は一つとしてむなしく消えることはありません。預言者イザヤが言うように、雨が天から降って地を潤し、芽を出させる。それと同じように、神の口から出るみ言葉も神が望み給うことを成し遂げ、神がお与えになった使命を必ず果たすのです(イザヤ書55章8節以下参照)。

 57節に2章6節でも同じですが、「月が満ちて」と書かれています。これは、妊娠の期間が満ちて、出産の時が来たという意味のほかに、神の約束の時が成就したという意味も含まれています。というのも、この男の子は神の約束によって与えられ、誕生した子だからです。神がザカリアとエリサベトにお語りになった約束の時が到来し、それによってエリサベトの妊娠の期間が満ち、神が約束された子どもの出産の時が来たのです。神の約束のみ言葉を聞き、その成就の時を信じて待ち望む人は、決して空しく待つことはありません。必ずやその時が満たされ、約束の成就の時を迎えます。それによって待ち望んでいる信仰者もまた喜びと感謝に満たされるのです。

 ある人は教会を妊娠している婦人にたとえています。教会は神の約束のみ言葉を聞き、終わりの日の神の国が完成される日、救いが完成され、永遠の命が与えられる時を待ち望みながら生きている信仰者たちの群れです。それはちょうど、胎内に子どもを宿し、出産の時を待つ婦人と同じだというのです。妊娠した婦人は日々に新しい命の鼓動を強く確かに感じながら、出産の時が確かに近づいて来ていることに喜びと希望を抱きながら、月が満ちるのを待ち望んでいます。それと同じように、わたしたち教会の民も、神の約束のみ言葉を聞きつつ、胎内に子どもを宿しているように、そして確かに約束の成就の時が近づいて来ていることを確信しつつ、「主よ、来たりませ」と祈りながら、時が満ちるのを待ち望んでいるのです。それゆえに、神の約束のみ言葉を聞きつつ待ち望むわたしたちの待望の時は決して空しく終わることはありません。その時は必ずや満たされます。

 次に【58節】。ザカリアとエリサベトの年老いた夫婦の喜びが、その家庭内にとどまらずに、多くの人々の喜びになりました。それというのも、彼ら夫婦の喜びが彼ら自身の力や能力で獲得した喜びとか、偶然に手に入れた喜びとかではなく、主なる神の大きな慈しみによって与えられた、天からの、神の奇跡によってもたらされた喜びであるからです。人間が自分の力で手に入れることができる地上の喜びには、その背後に争いや妬みや傲慢を伴いますが、またそれはやがて悲しみや不安に変わりますが、天からの、神からの喜びは、無限に大きく、永遠に続き、共に喜び合う群れを形成していきます。教会は神から与えられた永遠の救いの喜びを共にし、それゆえにまた悲しみや痛みや重荷をも喜んで共にする人たちの群れなのです。

 実は、このザカリアとエリサベト一家とその周辺に広がった喜びは、後で2章に描かれているクリスマスの喜びの反映であり、主イエスの誕生の喜びの照り返しであるのだということを、わたしたちはあらかじめ確認しておきたいと思います。【2章10~11節】(103ページ)。ザカリアとエリサベト夫婦に与えられた子どもヨハネが、来るべきメシア・キリストである主イエスのために道を整える務めを持ち、主イエスを証しし、指し示し、主イエスのために仕える働きをすることによって、主イエスと密接につながっている人物であるゆえに、クリスマスの大きな喜びがここにすでに差し込んできているのです。

 59節から、生まれてから8日目の割礼と命名の儀式のことが記されています。旧約聖書の律法に定められているように、イスラエルの家に生まれた男子は、生まれて8日目に、神の契約の民の一人であることのしるしとして、男性の生殖器の一部に傷をつける割礼と、命名の儀式を行いました。その二つは重要な儀式として、親戚や近所の人たちが多く家に集まってきて行われます。その時に、不思議なことが起こりました。

 名前を付けることは父親の務めでした。けれども、父親のザカリアは20節に書かれていたように、神の約束のみ言葉を信じなかったために、神の裁きを受けて、口がきけません。みんなの前で子どもの名前を発表することができません。そこで、親戚や近所の人たちが父親の代役を果たそうとします。彼らは父親と同じようにザカリアという名にしようと相談しました。ところがその時、妻のエリサベトが立ち上がります。「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と、彼らの考えに反対を表明します。

 ここで、最初の不思議なことが起こりました。当時のイスラエルは男性中心の社会で、公の場での女性の発言はほとんど認められていませんでした。子どもの名前を付ける権利もありませんでした。そうであるにもかかわらず、エリサベトは多くの男たちの前ではっきりと自分の意見を述べています。しかも、多くの男たちの考えに反して、またその家系に伝わる名前を子どもに引き継ぐという当時の習慣に反して、全く新しい名前、だれも思い浮かばないヨハネという名前にしなければいけないと強く主張しているのです。これは驚くべきことです。なぜエリサベトはそう言うのでしょうか。なぜエリサベトは多くの男たちに断固として反対意見を述べ、当時の社会の常識や慣習をも破って、このように言うのでしょうか。彼女をこれほどまでに大胆にさせ、勇気ある一人の人間とさせているのは、何でしょうか。

 その答えは、ただ一つ、わたしたちがすでに知っているように、エリサベトが神のみ言葉を聞き、それに従っていたからにほかなりません。13節に書かれていたように、「その子をヨハネと名付けなさい」とお命じになった神のみ言葉を、エリサベトもまた聞いていたからにほかなりません。神のみ言葉に聞き従うとき、このようにして彼女を強く立たしめ、多くの男たちに反対して、また当時の社会の慣習にも反対して、またそのような古い社会を変革していくことができる、神のみ前に立つ一人の信仰者として、エリサベトを固く、強く立たしめているのだということを、わたしたちはここから教えられるのです。神のみ言葉は、わたしたちの日常の生活やこの時代の中でも、その力と命とを発揮して、信じるわたしたちを一人のキリスト者として固く、強く立たしめてくれるであろうことを信じたいと思います。

エリサベトが神のみ言葉に聞き従って立ち上がった時に、さらに不思議なことが起こりました。【62~63節】。ザカリアは口がきけませんでした。そのために、書き板によって自分の考えを示しました。すると、ザカリアとエリサベトの意見が一致します。周囲の人々はみな驚かざるを得ません。なぜ、この夫婦はこのようなことで一致するのでしょうか。

これもまた、神のみ言葉による一致であることは言うまでもありません。二人が共に、同じ神の約束のみ言葉を聞き、共に神を信じ、共に神に従っているところに与えられる一致、ここにこそ夫婦の、そして人間と人間との真の一致があるのです。単に、考え方や趣味が同じだとか、人生観や価値観が同じだとか、あるいは性格が似ているとか、そのようなことからくる一致ではありません。そのような一致は、時が経過し、状況が変化すれば、やがて崩れていく他ありません。神のみ言葉からくる一致、共に神のみ言葉を聞き、共に神に従うことによる一致によってこそ、共に家庭や社会や国家を変革し、世の習わしや常識を打ち破って新しい秩序と共同体を形成していく力と命が与えられるのです。教会にはそのような神のみ言葉による一致を与えられています。

神のみ言葉に聞き従ったザカリアは再び語りだしました。【64節】。かつて、神の約束のみ言葉を信じることができなかったザカリアは、口がきけませんでした。イスラエルの民の祭司として、礼拝で神のみ言葉を語る務めを授けられていましたが、彼は神の裁きを受けて言葉を失っていました。しかし今、彼は神を信じる人となりました。神のみ言葉に従う人となりました。その時、彼は再び口を開き、語るべき言葉を与えられます。

彼は何を語るべきでしょうか。「神を賛美し始めた」と書かれています。他の言葉を語るために彼の口が開かれたのではありません。自分を誇ったり、だれかを非難したり、不満や不平を言うために彼の口が開かれたのではありません。そのことのために、彼の口があるのではありません。彼が語るべきは、彼に約束のみ言葉をお語りになり、その約束を確かに成就された主なる神を賛美する言葉に他なりません。この言葉を語るためにこそ、彼の口はひとたび閉ざされ、今また再び開かれたのです。ザカリアが神を賛美して語った内容は具体的には67節以下のザカリアの賛歌です。わたしたちは次回それを学びます。

わたしたちはここで、自分に何のために口が与えられ、言葉を語ることがゆるされているのか、その理由を知らされます。わたしの口が救い主なる神をほめたたえるため、主イエス・キリストの十字架の福音を語るため、そのためにこそわたしに口があり、言葉が授けられているのだということを知らされます。その時、わたしたちに与えられている口は最も良い働きをするのです。

【65~66節】。ここには、ザカリアとエリサベトの家庭に起こった不思議な出来事に対する周囲の人々の反応が描かれています。それは神への恐れであり、これから先に何が起こるのであろうかという不安と期待に満ちた問いかけです。わたしたちはここに、この出来事の6カ月後に起こるであろうあのクリスマスの出来事がかすかに暗示されているように感じるのです。年老いた夫婦の家庭に神の奇跡によって男の子が誕生したこと、神の約束のみ言葉を信じることができず、神の裁きを受けて口がきけなくなったザカリアが、神のみ言葉を信じる人へと変えられ、罪ゆるされて神を賛美する言葉を語る人とされたこと、ユダヤの地方の多くの人々がこの一家に起こった出来事を見て神を恐れ、やがて神がなそうとしておられるさらに偉大な出来事へと思いをはせていること、そのすべての出来事が6カ月後のクリスマスの時に、より確かな神の救いの出来事として成就することになるのです。すなわち、おとめマリアが聖霊なる神の奇跡によって男の子を生む、神が人となられてこの世においでくださったという大いなる奇跡が起こされる。また、その神のみ子の誕生がイスラエルのみならず、全世界すべての人々にとっての大きな喜びとなり、彼らを罪から救う出来事となる。そして、罪と死と滅びとに支配されていたこの世界が神のみ子の十字架の死と復活によって解放と勝利が約束されているという出来事が起こる。やがてわたしたちはそれらのことが成就する時を迎えるのです。

(祈り)

11月17日 説教「愛とへりくだった心をもって」

2019年11月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記24章17~22節

    フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教題:「愛とへりくだった心をもって」

 フィリピの信徒への手紙2章の冒頭で、パウロは教会の一致を強く勧めています。【1~2節】。ここでは、「同じ思い」「同じ愛」「心を合わせ」「思いを一つに」という、同じような意味を持つ言葉を4つも重ねながら、教会が一つの群れとして一致するように勧められています。すでに、1章27節でも、「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っている」と書かれていました。ここでは、教会の外の敵対する勢力、たとえば迫害とか異教的な教えや異端的な教理との戦いにおいて、教会が自分たちの身を固めるための一致の勧めでした。

 福音に敵対するこの世の不信仰な世界からの攻撃に対して、たじろぐことなく、福音に固く立って、福音の信仰のために一致して戦い続けるなら、神は必ずや教会に救いと勝利とを与えてくださるでしょう。けれども、主イエスがマタイ福音書12章25節で言われたように、「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」でしょう。主イエスはさらに18章19~20節でこのように言われました。【19~20節】(33ページ)。たとえ教会が二人、三人の小さな、弱い群れであっても、主イエス・キリストのみ名によって集められているならば、その群れの中心には罪と死とに勝利された主イエス・キリストがおられ、主ご自身がその信仰の戦いを導いてくださるでしょう。それゆえに、教会はどのような凶暴な敵を前にしても、困難に直面しても、恐れることなく、たじろぐことなく、一致して戦うことができるのです。

 きょうの2章では、どちらかと言えば、教会内部における一致、キリスト者たちの信仰生活における一致のことが勧められています。そして、注目すべきは、教会の外からの敵に対する戦いのために一致せよという1章27節の勧めよりも、教会内部の信仰生活において一致せよという2章2節の勧めの方が、より力を込めて言われているということです。外からの敵に対抗するために一致が必要であるだけでなく、それ以上に、教会が主キリストの教会として生き続けていくためには内部における一致が大切であるということです。

 パウロがここで、フィリピ教会に一致を強く勧めていることには、それなりの理由があったと思われます。4章2節には、教会の二人の婦人の間で何らかの争いがあったらしいということが推測されます。けれども、パウロはそこで詳しい事情には立ち入らずに、何よりもまず主にあって一致するように、和解するようにと勧めています。2章の勧めがこのようなフィリピ教会内部の事情に関連しているのかもしれません。しかし、それだけではありません。というのは、パウロは4章でも2章でも、彼女たちの争いの具体的な内容には一切触れておらず、教会内に分裂があったから、それを解決するためにここで一致を勧めているというのでは必ずしもありません。それよりも重要なことは、一致することが教会の本質そのものであるからです。教会はいつでも、どのようなときでも、絶えず、一つの群れとして一致してあるべきなのです。

パウロは他の手紙においても、しばしば教会の一致の重要性を強調しています。その理由は、単に教会が一致協力して内外の課題に取り組むようにということを勧めているのではなく、教会の一致と教会が一つであることは、教会の本質そのものだからです。教会は一人の主イエス・キリストの体であり、一つの霊、聖霊によって導かれ、一人の父なる神を礼拝している群れだからです。共に神の命のみ言葉を聞き、共に主イエス・キリストの救いの恵みにあずかり、共に来るべき神の国を待ち望んでいる一つの群れだからです。ここに、揺るがない教会の一致があるのです。

単に、教会の内部の分裂を解決するためだけの一致ではなく、何かの事業をやり遂げるための一致とか、一つの理想に向かって足並みをそろえるような一致なのではありません。教会の一致は、それらの人間が造りだす一致とは全く質を異にしています。たとえば、国家や社会がある政策を実行するために国民・住民に求める一致があります。企業や団体が自分たちの利益を追求するために必要な一致があります。その場合には、多少個人の考えや権利を抑えて、全員が同じ方向を向くことが求められます。時として、強制的な力によって縛りつける一致もあるでしょうし、人間の努力である程度の一致を造り出すこともできるでしょう。

しかし、教会の一致は人間が造りだす一致ではありませんし、人間が造り出すことができる一致よりも、はるかに固く、深い一致です。この一致は、一つの目的が実現すればそれで解消されてしまう一致ではありませんし、あるいは、個人の存在や権利を無視する全体主義でもありません。むしろ、信仰による一致は個人を一人の自由な人間とします。全体の中に埋没して自己を失っている人を見いだし、また群れから離れて一人孤独の中をさまよっていた人を群れの一人として見いだします。信仰は一人の人間として、しかも、神のみ前に立たされている一人の人間として見いだされる経験だと言ってよいでしょう。そして、信仰者の群れは、共に、神によって見いだされた一人一人の人間として、お互いをもそのような一人の人間として見いだすことによって一致するのです。お互いの顔を見れば、一致するような共通点は全くないようであっても、またそれぞれに個性があり、違った賜物を持っていても、だれもがみなかつては失われていた人たちであり、今は神によって見いだされている人たちであることを知っている、そういう人たちの群れとして一致するのです。唯一の神、ただお一人の救い主イエス・キリストから与えられている一致、それゆえに堅固で永遠的な一致、これが教会の一致なのです。

パウロはそのような一致を強調するために、1節で「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、……の心があるなら」と言って、勧めの言葉を語ります。ここには、後の教会の中で形成されていく重要なキリスト教教理である三位一体論の芽がすでに見えています。主キリストの励ましと愛の慰め、聖霊なる神の交わり、そして父なる神の慈しみと憐れみが言及されています。コリントの信徒への手紙二Ⅰ3章13節の、礼拝の終わりの祝福と派遣の言葉と似ています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように」。この三位一体なる神こそが、教会のすべての一致の源であり、土台であり、目標なのです。

では、このようにして三位一体なる神から与えられた一致が、教会の中でどのようにして具体化されていくのか、「愛」と「へりくだり」という二つを取り上げてみたいと思います。

「愛しなさい」という勧めは聖書の至る所にあります。愛のある生活、他者、隣人を愛する生活は、キリスト者の最も基本的なものと言えます。ここでは特に「同じ愛」と言われています。一人一人にそれぞれの愛の形があり、愛し方も違っているかもしれません。けれども、愛の源は一つです。1節で「キリストによる励まし、愛の慰め」と言われていたように、主キリストの十字架の愛がキリスト者のすべての愛の源泉です。「同じ愛」とは、わたしたちのさまざまな愛を超えて、それらの愛を一つに結びつける愛であり、それは主キリストの十字架によって与えられた神の愛です。また、「同じ愛」とは神の愛によって愛されているキリスト者が互いに愛し合う相互の愛でもあります。さらに、「同じ愛」とは、愛することによってお互いの違いをも超えて信仰者の群れを一つに結び合わせる愛でもあります。

愛は一人だけでは完成しません。神の愛がわたしたち罪びとを尋ね求めるように、愛は愛する他者を求め、見いだします。他者を愛し、また自分も愛されていることを知ることによって、愛は成長します。一方がより多く愛して、他方はより小さな愛で満足しているということもありません。愛は互いの愛を成長させ、純化させ、聖なるものとさせ、主キリストによる神の愛を証しします。

しかし、愛もまた人間を傲慢にしたり、卑屈にすることがあり得ます。否むしろ、愛という甘美な言葉にこそ、最も危険なとげが隠されていることもあります。それゆえに、「同じ愛」を持つ人は、多く愛するほどに、自分が神から与えられている愛の大きさを知り、多く愛されていることを知るほどに、多く愛するようにされます。そしてまた、その人はどんなに小さな、ささやかな愛をも喜んで受け入れ、それのみか、憎しみをも受け入れるのです。

わたしたちはここで主イエスのみ言葉を思い起こすべきでしょう。主イエスは福音書の中で「あなたの敵を愛しなさい」とお命じになりました。このみ言葉は、単に敵からの憎しみや怒りを我慢しなさいと命じているのではなく、また敵に対するあなたの憎しみや怒りを抑えなさいと命じているのでもなく、敵に対するあなたの怒りや憎しみを愛に変えなさいという命令であり、またそれによって、敵からの怒りや憎しみも愛に変わるであろうという約束でもあるのです。あなたを憎んでいた敵が、あなたの愛によって、罪びとに対する神の愛を知るようにされ、神の愛こそがすべての人間の憎しみや怒りに勝利し、人間を分断しているすべての憎しみや怒りを愛に変える力があることを悟るようにされるのです。「同じ愛」とは、憎しみをも愛に変える愛のことです。

【3~4節】。「へりくだる」、つまり謙遜についての勧めも聖書には数多くあります。愛が積極的に隣人を尋ね求め、見いだしていく行為であるように、謙遜もまた聖書では、自分を低くして他者を立て、自分自身の都合を差し置いても隣人のために配慮するという、積極的な行為です。そうではない間違った謙遜もあります。日本では、謙遜は一つの美徳とたたえられることがあります。何ごとも出しゃばらずに、自分には能力あると思ってもそれをあえて出さずに、相手には腰を低くして控えめな態度で臨む。そうすることで、自分を相手よりも優位な立場に置く。それが、美徳であると言われます。

しかし、聖書が言うへりくだり、謙遜はそうではありません。へりくだりは、単に自分を一時的に小さく低く見せるのではなく、徹底して他者に仕え、自らを徹底して貧しくし、無にして、自分のすべてを他者に与える奉仕の生き方のことです。それは、次回6節以下のみ言葉で学ぶように、主イエスご自身の十字架の死に至る道によって示され、開かれた道です。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」と書かれています。へりくだりは、いかなる意味でも、いかなる場合でも、決して自分の利益を第一にするのではなく、他者のためになることをひたすら求めます。自分を飾ったり大きく見せるためではなく、また自分の喜びとか満足とかを求めるのではなく、ひたすらに他者の喜びのために、他者を高めるために、他者の幸いを願って、自らをささげ尽くすのです。

最後にもう一度次のことを確認しておきましょう。「同じ愛を抱き」「へりくだる」というキリスト者の生き方は、主イエス・キリストによってわたしたちのために開かれ、備えられている道です。わたしたちは貧しく弱い罪びとですが、今や主イエス・キリストによって罪ゆるされ、主イエス・キリストによって開かれたこの道へと招かれているのです。

(祈り)

11月10日 説教「わたしは道であり、真理であり、命である―主キリスト」

2019年11月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編90編1~12節

    ヨハネによる福音書14章1~7節

説教題:「わたしは道であり、真理であり、命である―主キリスト」

 教会の古くからの伝統によると、11月1日は「諸聖人の日」と呼ばれ、カトリック教会で聖人とされた人たちや殉教した人たちを記念する日とされていました。それにならって、プロテスタント教会でも、11月の初めの主日に逝去者、あるいは召天者記念礼拝をささげるようになりました。信仰をもって地上の歩みを終えた教会員やその家族を覚えて記念礼拝をささげるということは、彼らの信仰と地上の歩みをお導きくださった主なる神を礼拝するということに他なりません。それと共に、今地上の歩みを続けているわたしたち一人一人をも神がすべての必要なものをもって、終わりの日まで導いておられるということを覚え、感謝する礼拝でもあります。

 きょうの秋田教会逝去者記念礼拝では、ヨハネによる福音書14章1~7節のみ言葉をご一緒に聞きましょう。前の13章から、主イエスの受難週の木曜日のことが書かれています。つまり、主イエスが十字架につけられる前日のことです。夕食の時(これは、共観福音書では、いわゆる最後の晩餐ですが)、主イエスは席から立ち上がって、12弟子一人一人の足を洗われました。主イエスのこの行為は、翌日の十字架の死の意味をあらかじめ予告しています。すなわち、主イエスはわたしたちすべての罪びとたちの僕として、奴隷が主人に仕えるようにわたしたちのためにお仕えになられ、最後にはご自身の命をおささげくださるほどにお仕えになられ、それによってわたしたちの罪を洗い清めてくださったのです。わたしたちは主イエスの十字架の死によって罪をゆるされている人たちとして、この礼拝に集められているのです。

 そのあとで主イエスは言われました。「わたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と。主イエスによって罪ゆるされているわたしたちは、罪ゆるされ救われている人たちの共同体を形成するために、互いに仕え合い、愛し合う共同体の一人一人として、この教会に集められているのです。だれもが、自分自身のためだけに生きるのではなく、むしろ、主イエスがわたしたちの足を洗われたように、お互いに仕え合い、喜んで他者のために仕えていく新しい愛の共同体を形成するのです。主イエスは13章34、35節で次のように言われました。【34~35節】(196ページ)。

 きょうの礼拝で朗読された14章からは、同じ木曜日の夕食の席で語られた主イエスの長い説教が17章の終わりまで続いています。一般に、主イエスの告別説教と言われています。説教が終わった翌日、金曜日に主イエスは裁判にかけられ、十字架刑を言い渡され、十字架上で息を引き取られることになります。

 主イエスは最後の夕食の時に、すでにご自身の死を予期しておられ、後に残される弟子たちのことを思って、彼らを励ましておられます。1節でこのように言われます。【1節】。尊敬する師であり、自分たちを導く主である方の死に直面して、弟子たちは恐れ、不安になり、失望するに違いありません。リーダーを失って、自分たちだけがこの世に取り残され、今なお罪と悪がはびこっているこの世での信仰の戦いを続けていかなければならない弟子たちを、主イエスは励まし、勇気づけ、なおも希望を失わずに前進していくために、力強い約束を与えておられます。

 【2~3節】。主イエスは弟子たちをお見捨てになるのではありません。主イエスの十字架の死によって、主イエスと弟子たちの関係が断ち切られてしまうのではありません。十字架の死は、主イエスと弟子たちとが永遠に共にいることの始まりとなるのだと主イエスは言われます。主イエスはここですでに、十字架の死のあとに続く復活と昇天を予告しておられます。金曜日に十字架上で死なれた主イエスは三日目の日曜日の朝に、死の墓から復活され、罪と死とに勝利されて、そののち天の父なる神のみもとへと凱旋帰国されるのです。

 主イエスが復活して天に昇られることは、主イエスご自身の罪と死に対する勝利のしるしであるだけでなく、主イエスを信じる弟子たちとわたしたちの罪と死に対する勝利の約束でもあるのです。主イエスが天に昇られるのは、わたしたちが永遠に住む場所を用意するためなのだと言われています。したがって、主イエスの十字架の死は弟子たちとわたしたちを見捨てることになることではなく、また、それによって主イエスと信仰者たちとを切り離すことになるのでもなく、むしろ、主イエスと信仰者たちが永遠に天の住まいで共にいることの約束であり、その始まりなのだというのです。

 これはどういう意味でしょうか。いつ、どのようにしてそのことが実現するのでしょうか。理解のポイントになるのが、3節の「戻って来て」という言葉が何を意味するかです。これには、3つの理解が可能ですが、いずれの理解であっても、キリスト教信仰が目指している目標は一致していますので、その共通点を考えながらみていきたいと思います。

 一つの理解は、主イエスの再臨の時、主イエスが再び地上に降りてこられ、わたしたちの救いを完成される終末のときを指しているという理解です。そのときには、信仰者はすべて墓から復活させられ、主イエスによって天へと引き上げられ、天にある神の国で永遠に主イエスと共にあって父なる神を礼拝する一つの民となるということが、テサロニケの信徒への手紙一4章15節以下等で教えられています。【15~17節】(378ページ)。

 二つめの理解は、信仰者の死のときを指しているという理解です。信仰者が地上の歩みを終えた時、主イエスが彼らを天の父なる神のみもとへと招き入れてくださることがここで約束されていると考えられます。信仰によって神と固く結ばれている信仰者は、死によっても神から引き離されることはありません。神は彼らを永遠にご自身のものとして守られ、支配しておられるゆえに、神との永遠の交わりは死によっても決して断ち切られることはないのです。

 16世紀の宗教改革者たちは、すでに天に召された信仰者たちを「勝利の教会」と呼び、地上で今なお信仰の戦いを続けている信仰者たちを「戦闘の教会」と呼び、それらはお一人の神によって集められている、一つの主イエス・キリストの教会なのだと理解しました。讃美歌29番の頌栄では、「天の民も、地にあるものも、父・子・聖霊なる神をたたえよ」と歌っています。すでに天に召された信仰者たち、わたしたちの教会の先輩たちも、主イエスによって天にある「勝利の教会」に招き入れられているのです。地上にあって今なお信仰の戦いを続けているわたしたちは、彼ら「勝利の教会」に移された信仰の先輩たちと共に、主なる神によって一つに結ばれ、一人の神を礼拝しているのです。

 三つめは、15節以下で語られる聖霊の派遣を指しているという理解です。16節ではこのように約束されています。【16~17節a】。また【26節】。そして【28節】。天に帰られた主イエスは、天から別の弁護者、助け主である聖霊をお遣わしになり、その聖霊なる神のお働きによって、地上に再び戻って来られるというのです。主イエスは弟子たちを、またわたしたち信仰者を地上に孤児としてお見捨てになることは決してありません。聖霊なる神として、教会を通して、永遠にわたしたちと共にいてくださり、わたしたちの信仰の戦いを共に戦ってくださり、弱く迷いやすいわたしたちの地上の歩みを守り導いてくださり、終わりの日に救いが完成されるときまでわたしたちと共にいてくださるのです。

 以上の三つの理解は、主イエスが戻って来られるときはいつかという時期においては異なっていますが、天に昇られた主イエスが弟子たちと、またわたしたちと永遠に共にいてくださり、わたしたちの信仰を導き、完成させてくださるということにおいては一致しています。

 主イエスは金曜日の午後に十字架で死なれ、三日目の日曜日の朝に復活され、40日目に天に昇られ、それから10日後のペンテコステのときに弟子たちに聖霊が注がれ、エルサレムに最初の教会が誕生しました。それ以来、聖霊なる神は教会を通して常に信仰者の救いのために働いておられます。信仰者の死のときにも、聖霊なる神はその人から離れず、主イエスが先だって昇って行かれた天に、主イエスが備えてくださった永遠の住まいへと引き上げてくださいます。そこで、永遠に主と共にあって、父なる神を礼拝する一つの民とされるのです。

 主イエスは告別説教の中でこの約束を弟子たちとわたしたちにお与えになられた後で、6節でこのように言われます。【6節】。今やわたしたちは主イエスのこのみ言葉をよく理解することができます。わたしたち罪びとのために苦難を受けられ、十字架で死なれた主イエス、そして三日目に復活され、天に昇られた主イエスによってこそ、わたしたちは父なる神のみもとへと至ることができるのだということを、正しく知ることができます。

 「わたしは……である」という言い方はヨハネ福音書に特徴的な主イエスのみ言葉です。6章35節では、「わたしが命のパンである」と言われました。10章11節では、「わたしは良い羊飼いである」と言われました。15章1節では、「わたしはまことのぶどうの木である」と言われました。他にもいくつかあります。この言い方では、「わたし」という言葉が強調されています。つまり、「わたしこそが、わたしだけが」という意味です。

 わたしたちは主イエス以外に、わたしをまことの命へと導く命のパンを求める必要はないし、求めるべきではありません。わたしの人生を導く羊飼いを、主イエス以外に求める必要はないし、求めるべきではありません。まことのぶどうの木である主イエスにつながっているならば、わたしたちには豊かな実りが約束されています。わたしたちのためにご自身の命をささげて死んでくださったまことの羊飼いであられる主イエスこそが、また復活されて、罪と死とに勝利された主イエスこそが、わたしたちに新しい命を与え、まことの救いの道へと導いてくださるからです。

 主イエスは「わたしは道である」と言われました。この道は父なる神に至る道です。神と人とをつなぐ道はそれまでは閉ざされていました。人間の罪が神を遠ざけていたからです。主イエスは神と人との仲保者となってくださり、わたしたち人間の罪をゆるし、わたしたちと神との交わりを回復してくださいました。主イエスは人間が神に至る道を、ご自身の死をもって開いてくださいました。それだけでなく、主イエスはわたしたちが神に至る道そのものでもあられます。聖霊によって、わたしたちを天の父なる神のもとへと引き上げてくださいます。わたしたちが地上の歩みを終えて死ぬときにも、主イエスはわたしの道であり続けてくださいます。

 主イエスはまた「わたしは真理である」と言われました。真理とは神の真理のことです。主イエスは神の真理をわたしたちに教えられただけでなく、主イエスこそが神の真理そのものであられました。主イエスが歩まれた十字架への道が、そのまま神の真理でした。神はご自身の独り子を十字架の死に引き渡されるほどに、わたしたち罪びとを愛されました。ここにこそ、神の真理があり、神の愛があります。

 このようにして、道であり、真理であり、命であられる主イエス・キリストが、天におられ、わたしたちのために天の場所を用意して待っておられるのですから、わたしたちは地上にあって、さまざまな試練や厳しい信仰の戦いを経験しなければならないのですが、しかし、最後の勝利を約束されている人たちとして、かしらを挙げ、前の方に全身を向け、目標を目指して走り続けるのです。

 主イエスはまた「わたしは命である」と言われました。命とは、この世に誕生してやがて死んでいくしかない命のことではありません。復活の命のことであり、死から始まり復活に至る命のことです。主イエスご自身が復活され、まことの命に生きておられると同時に、信じる人々に朽ちることのない永遠の命をお与えくださる救い主であられます。

(祈り)

11月3日説教 「土のちりで造られた人間アダム」

2019年11月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記2章4~9節

    コリントの信徒への手紙二4章7~15節

説教題:「土のちりで造られた人間アダム」

 創世記1章1節から2章3節までに、一連の神の創造のみわざが描かれています。第一日目の光の創造に始まって第6日目の人間の創造までで天地万物が創造され、第七日目を神は安息日とされ、造られたすべてのものを祝福されました。これで、神の天地創造のみわざは完了しました。

 ところが、きょうの礼拝で朗読された2章4節以下では、新たに人間が土のちりで造られたということが語られています。これはどういうことなのでしょうか。きょうは初めにこのことについて少しお話ししたいと思います。

 今日の聖書の研究の結果から明らかになったことをいくつかご紹介します。一つは、創世記には二つの、多少ニュアンスの違った創造の記録があるということを、今日ほとんどの聖書学者は認めています。さらには、1章1節から2章3節までと2章4節から3章の終わりまでは二つの違った天地創造の記録であるけれども、しかし全く別々のことを語っているのではなくて、一つの神の創造のみわざを違った視点から語っているのであって、これによって神の創造のみわざの意味と意図、み心、神の救いのご計画が、より深く、より信仰的に、より神学的に語られているのだということで聖書学者の意見は一致しています。

 もう一つ付け加えておくならば、これは旧約聖書の民であるイスラエルの長い信仰の歴史の中で伝承されてきた資料の違いに由来しているということです。その資料の見分け方ですが、第一の天地創造の記録では、神は単に「神」と表記されています。1章1節から2章3節まではすべてそうなっていることが確認できます。この第一の天地創造の記録は、非常に整えられた文体と構造で描かれており、よく考え抜かれた神学的な内容になっています。これはエルサレム神殿で仕える祭司階級の学者が集め、編集した資料であり、祭司資料と呼び、英語のプリーストの頭文字を取ってP資料と呼びます。

それに対して、第二の創造の記録では「主なる神」となっています。2章4節からすべてそうなっていることが分かります。日本語で「主」と訳されている箇所には神のお名前が書かれているのですが、今日神のお名前をどう発音するのかが分からなくなってしまったので、神のお名前が書かれている箇所は「主」、ヘブライ語では「アドナイ」ですが、そう読むことに決められています。これをJ資料と呼びます。神のお名前をヤーヴェと推測して、その頭文字を取っています。J資料は前のP資料と違って、文体はのびのびとしており、簡潔で生き生きとした表現によって神学的に深い内容が言い表されているという特徴があります。それぞれの資料には特徴がり、そこに描かれている神のお姿と強調されている神学的内容の違いがあり、それによって旧約聖書の信仰がより深く、より幅広く表現されているのです。

 そうしますと、2章4節の2行目は「主なる神」が主語になっていますので、これはJ資料ということになります。4節の1行目は、前の創造の記録の締めくくりと理解して、P資料とするのが一般的です。

 では、【4節b~6節】。この第二の天地創造の記録では、一日目、二日目という区切りはありません。また、人間を除く他の被造物が1日目から6日目の前半までに創造されて、最後に人間が創造されるという第一の創造の記録とは順序も違っているように思われます。第二の天地創造の記録では、まだ何も造られていないときに、7節に書かれてるように、人間が最初に創造されています。人間が造られた後で、9節になって木を生えさせられ、10節で川の流れができ、19節以下で野のけものや空の鳥などの生き物を神はお造りになります。

 このように、第一の創造の記録と第二の創造の記録は大きな違いがあるように思われますが、そこで語られている中心的なこと、神が天地万物と人間を創造された深いみ心は、全く一致していることをわたしたちは確認することができます。すなわち、第一の創造の記録では、人間はすべての被造物の頂点として、その頭として、最後に創造されており、また、人間はすべての被造物を治め、管理する務めを神から賜っており、そこには人間に対する神の深い愛とご配慮、永遠の救いのみ心が語られていましたが、第二の創造の記録では、人間はすべての被造物の中心に置かれており、人間を中心にして他のすべての被造物が造られていきますが、ここでも人間はすべての被造物を治め、管理する務めを神から賜っています。神はこれほどまでに人間を愛され、み心に留められ、神のみ前で、神と共に生きる者として、神のみ前で責任ある者として創造されたのだということが、同様に強調されていることが分かります。

 5節の最後に、「また土を耕す人もいなかった」と書かれています。人間の存在なしには、地上の生き物と他のすべて被造物の存在もない。それほどまでに、神は人間に特別に深く大きな存在の意味をお与えになったのであり、人間を被造世界の中心に据えておられ、人間の存在と命を全世界よりも重いものとされ、この人間の救いのために神はすべての愛を注がれるのだということが、この創造の記録から読み取ることができます。

 【7節】。第一の創造の記録では、1章26節に書かれていたように、「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」と神は言われて、神のみ言葉に言い表された強い神の意志と神の決意によって人間は創造されたということが強調されていましたが、第二の創造の記録ではむしろ人間が創造された際に用いられた素材の貧しさが強調されているように思われます。人間は土のちりで造られました。ここではどのような神の人間創造の意図が語られているのでしょうか。

 まず、第一の創造の記録と第二の創造の記録に共通していることを確認しておきましょう。それは、いずれも神が人間を創造されたということです。神が人間の造り主だということです。人間は偶然にこの世に生まれ落ちたのではありません。両親の所有物として生まれたのでもありません。国家のためとか、家の働き手のためとか、少子化を防ぐためとかに生まれるのでもありません。神がそのように望まれ、神の意志と決意のもと、神にその命の根源を持ち、神がその命と存在の主である者として、すべての人間は創造され、今あるのです。このことは、戦争やテロや飢餓によって多くの命が無意味にあるいは無残にあるいは無造作に失われていく時代の中にあって、また人間の命が他の何かと比較されては軽々しく投げ捨てられていく時代の中にあって、本当の意味での人間の命の尊厳さや重さや尊さを思い起こし、再確認するために、決して忘れてはならないことです。他のどのような思想であれ、信条であれ、宗教の教理であれ、聖書が語っているこのこと、すなわち神がすべての人間の命と存在の創造主であり、所有者であるという真理を超えるものはないのだということを、わたしたちキリスト者はもっと力を込めて発言し、証ししていかなければなりません。人間の命と存在は、だれのものでもなく、わたしのものでもなく、造り主なる神のものなのだということを、わたしたちは厳粛な思いで告白しなければなりません。

 ここで語られている第二のことは、人間は土のちりで造られたということです。ここには、ヘブライ語の言葉遊び、語呂合わせがあります。ヘブライ語で人間は「アーダーム」と言います。現在用いられているモダン・ヘブリュー(現代へブライ語)では長母音は原則ないので、新共同訳では「アダム」と書いてありますが、聖書のヘブライ語では長母音がありますので、正確には、人間は「アーダーム」、土は「アダーマ―」と発音します。人間は土「アダーマ―」から造られたゆえに人「アーダーム」なのです。またそれゆえに、3章19節に書かれているように、罪を犯して神の命の息を失ってしまった人間は、人「アーダーム」であるゆえに土「アダーマ―」に返るほかないのです。

 旧約聖書の民イスラエルの人々は、人間とは何者かを考える際に、人間「アーダーム」と発音する時にはいつも、土「アダーマ―」を同時に思いおこしたのです。人間は土から造られた者に過ぎず、やがて死んで土に返っていくほかない弱く、はかなく、貧しいものであるということを決して忘れませんでした。そうであるからこそ、命の息を吹き入れて人間を生きたものとしてくださった造り主なる神から決して離れることなく、神との生きた交わりを持ち続けるためにはどうしたらよいかを深く、真剣に考えたのでした。

 「塵」とは、日本語でも「ちりあくた」という言葉があるように、無価値なもの、ごみやほこりのようなもの、取るに足りないつまらないものを言い表しています。人間はそれ自体としてはこのようなものに過ぎません。人間にはいかなる誇るべきものも称賛されるべきものもありません。人間は神ではありません。神にはなり得ません。人間は土のちりから造られ、やがて土に返っていく者です。このことをわたしたちは何の幻想も抱かず、何のごまかしもなく、そしてまた決してそのことを隠すことなく、あるいはまた決して恥じることもなく、造り主なる神のみ前で認めるべきですし、認めてよいのです。神はそのような人間に、ご自身の命の息を吹き入れ、生きた者としてくださるのです。

 「形づくる」という言葉は、陶器師(土で器を作る人)が粘土を手でこねながら器を作っていく動作を言い表しています。また「鼻から命の息を吹き入れられた」と書かれています。あたかも神がかがんで人の鼻にご自身の口をつけられ、息を吹き込まれるかのようなリアルで生き生きとした表現が、ある意味で人間の動作に近いような表現が用いられています。これがJ資料が描く神の大きな特徴です。神はこのようにして、非常に具体的な動作をなさりながら、直接にご自身の手をかけながら、ご自身の思いを込めながら、人間を創造されたのです。

 7節の終わりに、「人はこうして生きる者となった」とあります。土のちりから造られた人間が、神の命の息を吹き入れられ、その朽ちていくしかない肉の体に神の霊が注入されることによって、人間は初めて生きる者となるのです。人間の命は直接に神の命の息である霊が人間の中に吹き入れられた命なのです。その命は100パーセント神から与えられた命であり、神に属する命なのです。人間の自由によって処理されるべきでは決してありません。また、神の命の息によらなければ、だれも本当の命を生きることはできません。

 人間は土のちりから造られた者であり、神によって命の息を吹き入れられて生きる者となるという人間理解は、旧約聖書全体に貫かれており、また新約聖書にまで貫かれています。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一Ⅰ5章45節で、創世記2章7節のみ言葉に触れながら次のように語っています。【45(「最後のアダム」とは主イエス・キリストのこと)~49節】(322ぺーじ)。土に属し、死んで朽ち果てるほかないわたしたちが、主イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によって、天に属する霊の体をお持ちの主キリストの似姿に変えられていくと約束されています。

 また、コリントの信徒への手紙二4章7節以下では、土の器であるわたしたち人間に永遠の命のみ言葉である主キリストの福音が託されていることを、使徒パウロは驚きをもって語っています。【7~11節】(329ページ)。これは何という大きな恵みでしょうか。土に属する者であるわたしたち人間に、この取るに足りない小さきもの、貧しきもの、滅ぶべき者に、全世界の人を罪から救う命のみ言葉である主キリストの福音を託され、持ち運ぶ使命が与えられているとは。  (祈り

10月27日説教「マリアの賛歌」

2019年10月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記上2章1~11節

    ルカによる福音書1章46~56節

説教題:「マリアの賛歌」

 ルカによる福音書1章46節以下は「マリアの賛歌」と言われています。ラテン語訳聖書の冒頭の「あがめる」という言葉から「マグニフィカート」と呼ばれ、古代から教会音楽の中で歌われてきました。きょうはこのみ言葉から、主イエスの誕生の意味と主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みについて聞いていきたいと思います。

 【46~47節】。このマリアの賛歌は、すぐ前のエリサベトの祝福の言葉に対するマリアの応答として歌われています。前の場面で、洗礼者ヨハネの母となるエリサベトと主イエスの母となるマリアとの出会いが描かれていました。その中で、二人の母になろうとしている婦人の胎内にいる洗礼者ヨハネと救い主・主イエスとがすでに出会い、あいさつを交わしているという驚くべき出来事が起こっていることをわたしたちは聞きました。そのときエリサベトは42節以下でこのように告白します。【42~45節】。このエリサベトの信仰告白に対するマリアの応答としての信仰告白が46節以下のマリアの賛歌です。

 日本語の翻訳では、45節と46節との間に数行の空間が設けられ、46節からのマリアの賛歌が独立してあるような印象を受けますが、これもまだ二人の婦人の出会いの場面の続きです。神に選ばれて、全世界の救い主・主イエスの母となろうとしているマリアが聖霊によって身ごもったことの確かなしるしとして、すでに神の奇跡によって洗礼者ヨハネを身ごもっている親族のエリサベトと出会い、二人の胎内にいるヨハネと主イエスとが出会うという出来事を通して、45節に書かれているように、「主なる神のみ言葉が必ず実現すると信じた人の幸い」をマリアはここで歌っているのです。マリア自身は、自分のおなかの中に新しい命が芽生え始めたという自覚はまだ全くないけれども、親族エリサベトにすでに起こっている奇跡を見て、まだ実現していない神の約束のみ言葉を信じた、それがマリアの幸いなのです。まだ見ていない事実を確認すること、それがマリアの信仰なのです。

 したがって、46節以下のマリアの賛歌は、まだ起こっていない神のご計画、まだ成就していない神の救いのみわざが、すでに起こっている確かな事実であるということを告白しているのです。わたしたちもまた、マリアの賛歌のみ言葉を聞いて、「神がお語りになったみ言葉が必ず成就する」と信じる、幸いな信仰へと招かれています。

 賛歌の冒頭で、「わたしの魂は、わたしの霊は」と繰り返していますが、これは強調する言い方です。わたしの心も体も、わたしの全身で主をあがめる。わたしの全存在をもって、わたしの全生涯を貫いて、わたしの生活全体を通して、わたしの命をかけて、主なる神をあがめ、喜びたたえるという意味です。これこそが、神の奇跡によって救い主の母になろうとしているマリアがなすべきことです。

 「あがめる」とは大きくするという意味を持っています。「主をあがめる」とは、主なる神だけを大きくし、他のすべてを小さくするということであり、わたしを含めてわたしの周囲にあるすべてのものを、主なる神のみ前で限りなく小さくするということです。特に、わたし自身を主なる神のみ前に小さくする、自らを貧しくし、謙遜になる。そして主なる神だけをあがめ、喜びたたえる。そうすることによって、すべての良きものを主なる神から期待し、神が最も良き道をわたしのために備えてくださることを信じ、神の約束のみ言葉がすべて成就することを信じる。それが、神の奇跡によって救い主の母になろうとしているマリアがなすべきことです。またそれが、主イエス・キリストの救いに招かれているわたしたちがなすべきことです。わたしたちが自らを小さくし、低くすればするほどに、神はわたしたちによってあがめられるようになり、また神から与えられる恵みと祝福は豊かになり、神からの幸いに満たされるようになるのです。

 47節でマリアは神を「救い主」と呼んでいます。ここには二つの意味が含まれています。一つは、マリアは救い主を必要としている罪びとであるという告白です。マリアは全世界の唯一のメシア・救い主である主イエスの母となるために神によって選ばれました。それゆえに、42節にあったように、「女の中で祝福された方」であり、マリア自身も48節で、「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」と歌っていますが、しかし、彼女が祝福された人であるのは、彼女の胎内に宿っている神のみ子・救い主なる主イエスが祝福された方であるからであって、彼女自身に何らかの優れた点があったからでは全くなく、むしろ彼女自身は38節と48節で「わたしは主のはしためです」、わたしは貧しく低きに住む者、罪びとに過ぎませんと繰り返し告白しているのです。このようなマリアの謙遜な信仰こそが、彼女を祝福された、幸いな人としているのです。

 「救い主」のもう一つの意味は、マリアがあがめ、喜びたたえている神は救いの神であるということです。もちろん、マリアにとってそうであるだけではありません。全世界のすべての人にとって、わたしたちにとっても、神は救いの神であり、わたしたちを罪から救ってくださる神であるからこそ、主イエスの父なる神は人々によってあがめられ、喜びたたえられるのです。わたしたちが信じている主イエス・キリストの父なる神は救いの神です。他の何らかの神ではありません。商売繁盛の神とか、地の豊作をもたらす神とか、健康や交通安全の神とか、そのような類(たぐい)の神ではありません。そのような神々は、一時的に、一部の人に、あがめられることがあるとしても、すべての人にとっての永遠なる、そして唯一の神ではありません。わたしたちが全生涯を貫いて、わたしの全存在をもって、わたしの命をかけてあがめるべき神は、わたしたちを罪と死と滅びから救い出される神であり、そのために独り子なる主イエスをこの世にお送りくださり、その尊いみ子を十字架の死に引き渡されるほどにわたしたち罪びとを愛してくださる救いの神、この神をこそわたしたちはあがめ、喜びたたえるべきです。また、そうするようにと招かれています。

 次に、マリアは神をあがめる理由を具体的に語ります。【48~50節】。「身分が低い」とは、マリアの社会的な地位の低さ、あるいは経済的な貧しさを指していると思われます。マリアは26節にあるようにガリラヤ地方のナザレの町の出身の、おそらくは農家の娘でした。神はそのようなマリアをみ心にとめ、メシア・救い主の母としてお選びになったのです。

 当時、ガリラヤ地方は多くの異邦人(ユダヤ人以外をこう呼ぶ)が住み、民族と宗教の純粋性を重んじるユダヤ人からは異邦人の地と呼ばれ(イザヤ書8章23節、マタイ福音書4章15節参照)、軽蔑されていました。神はイスラエルの首都であったエルサレムの都に住む、王家の娘とか、宗教家、政治家の娘ではなく、低く貧しいナザレのマリアをお選びになったのです。ここに、51節以下で語られる大いなる逆転が、すでにマリア自身の選びの中で起こっていることに気づかされます。【51~53節】。

 神はマリアを救い主の母としてお選びになることによって、そして、このマリアからお生まれになる主イエスの誕生によって、この世界とわたしたちの人生に、大いなる逆転を起こしたもうのです。神を恐れることなく、思い上がる者たちや、自らを誇っている傲慢な者たちが主なる神のみ力によってその所から追い散らされ、この世の権力にしがみついている者たちはその座から引き下ろされ、富に頼る者たちが空腹のままで追い返されるということが起こり、反対に、身分の低い人、この世で誇るべきものを何一つ持たない人が神の所にまで引き上げられ、飢え、乾き、ひたすらに神を慕い求めるほかにない人が、神から与えられる最も良きもので満たされるという、大きな逆転が起きるのです。このことについては、後でまた触れることにしましょう。

 48節でマリアは、彼女自身に大きな逆転が起こったのは「主がわたしに目を留めてくださったからだ」と告白しています。目を留めるとは、神がみ心にかけてくださり、顧みてくださったということです。だれも目を留めることがないような、小さく貧しいものに、神は目を留めてくださいます。人間の目は多くの場合、大きなもの、高いもの、華やかなものに向けられます。そうでないものは見捨てられ、時に目を背けられます。けれども神の目は隠されているもの、この世にあっては虐げられているもの、低きにあるものに注がれます。そのようなものを神は見いだしてくださるのです。神の目には何も隠されてはいません。そして、そのようにして神の目によって見出された人こそが、いつの世にあっても幸いな人と言われるのです。

 48、49節ではマリア個人に与えられた神の恵み、慈しみについて歌われていますが、50節からはイスラエルと全世界のすべての人に与えられる神の恵みと慈しみが歌われます。マリアの信仰は旧約聖書の民イスラエルから、新約聖書の民教会へと受け継がれます。それは、マリアの胎内に宿っておられるメシア・救い主であられる主イエスが、旧約聖書の民イスラエルによって長く待ち望まれ、新約聖書の民教会によってその救いの福音が全世界に告げ知らされていくことに似ています。

 【50節と54節】。「神の憐れみ」とは、神の恵みと同様に、それを受けるに値しない人に無償で与えられる神の愛に満ちたご配慮のことです。それゆえに、だれもがマリアのように、神への大きな感謝と恐れとをもってそれを受け取るほかにありません。神を恐れ、神のみ前に自らを低く貧しくする人こそが、いよいよ豊かな神の恵みと憐れみとを受け取ることがゆるされるのです。

 わたしたちはだれもが神の憐れみを必要としています。マリアは今はまだ年が若く、貧しいけれども、やがて成長して豊かになり、神の憐れみを必要としないときがくるというのでは決してありません。いやむしろ、信仰の道を進めば進むほどに、礼拝の回数を増せば増すほどに、頭に白髪が増えるごとに、いよいよ神の憐れみを必要としている自分であることを悟り、神の憐れみなしにはきょうの一日がないことを知って、神を恐れる人となる、そのような信仰へとわたしたちは招かれているのです。

 最後に、51~53節で歌われていた大いなる逆転について、それがいつどのようにして起こるのかを考えてみましょう。先にわたしたちは、マリアの選びの中ですでにそのことが起こっていると言いましたが、そのことが決定的に起こるのは主イエスのご生涯と十字架の死によってであるということを付け加えなければなりません。

 主イエスはルカ福音書6章の弟子たちへの説教の中でこのように言われました。【6章20節b~26節】(112ページ)。主イエスは幸いがないところに天の神からの幸いを創り出してくださいます。しかし、この世の幸いを求め、それで満足する者からは神は遠ざかるほかありません。

 もう一か所を読んでみましょう。【フィリピの信徒への手紙2章6~11節】(363ページ)。これこそが、神が起こしたもうた最も偉大なる逆転です。この主イエス・キリストの十字架の福音を信じる人に、神は滅びから救いへ、死から命への大いなる逆転の恵みをお与えくださるのです。

 (祈り)

10月20日(日)説教「福音の信仰のための戦い」

2019年10月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編24篇1~10節

    フィリピの信徒への手紙1章27~30節

説教題:「福音の信仰のための戦い」

 フィリピの信徒への手紙1章27節で、パウロはフィリピ教会の信徒たちに対する勧めの言葉を語ります。【27節a】。12~26節では、パウロは自分の身に起こったことについて語ってきましたが、ここからはフィリピ教会に対して語りかけます。パウロ自身のこととフィリピ教会のこと、この両者に共通しているもの、この両者を固く結びつけているもの、それは主キリストであり、主キリストの福音です。

パウロは主キリストの福音を宣べ伝えたために、迫害を受け、捕らえられ、今は獄の中に縛られています。しかし、パウロはこの迫害と試練のときを喜んでいます。なぜならば、彼が受けた迫害と試練を通して、主キリストの福音がより前進することとなったからです。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によっても決してつながれてはいないということが、不思議な仕方で証しされたからです。パウロはいつでも、どのような状況の中でも、自分を主キリストの福音との関連の中で見ています。自分の楽しみとか、自分の人生の計画の実行とか、自分の名誉や満足のためではなく、主キリストの福音がどうであるのか、自分が主キリストの福音のためにどう仕えたかという視点で自分を見ています。

フィリピ教会もまたそうあるべきです。主キリストの福音にふさわしく生きるべきです。もちろん、投獄されているパウロのことが心配です。教会の外からの攻撃や内からの誘惑にどう備えるかということも大きな課題です。教会員一人一人の日常の生活の中でも、多くの労苦があります。しかし、そうであっても、「あなたがたはひたすらキリストの福音にふさわしく生活を送りなさい」とパウロは勧めているのです。「わたしがそうであるように、あなたがたも、そしてすべてのキリスト者はそのようでありなさい。なぜなら、わたしたちが今あるのは主キリストの福音によるのであり、これからのちにも主キリストの福音によってあり続けるのだから」。パウロはすべてのキリスト者の生と死、生きることと死ぬこととを、主キリストの福音とのつながりの中で見ているのです。それがキリスト者の生と死の原点なのです。

「ひたすらに」とは、「ただこのこと一つだけに集中して」という意味です。他にも、多くの課題やなすべきことがあるかもしれないが、何よりもまず、このことを第一として考えなさい。それは、主キリストの福音にふさわしく生きることだとパウロは言います。主キリストの福音とのつながりの中でわたしの生と死を考える、これがキリスト者の生と死の原点である。それと同様に、主キリストの福音にふさわしく生きる、これがわたしたちキリスト者の生活原理であると言ってよいでしょう。ほかにどのような人生の課題があろうとも、今取り組まなければならない仕事や解決しなければならない問題があろうとも、それらを第一にするのではなく、主キリストの福音にふさわしく生きることを中心に据えて、その中心から他のもろもろの課題を考えていく、それがキリスト者の生活原理なのです。

他の書簡では別の表現も用いられています。テサロニケの信徒への手紙一2章12節では、「神の御心にそって歩む」、コロサイの信徒への手紙1章10節では、「主に従って歩む」、エフェソの信徒への手紙4章1節では、「神の招きにふさわしく歩む」とも言われています。いずれにしても、自分の価値判断とか、だれかが立てた基準とか、この世の価値基準に従って生きるのではなく、神のみ心、主キリストの福音を基準にして生きる、生活する、またそれを中心にして他のすべての課題を考える、それがわたしたちキリスト者の生活原理です。

主イエスは金持ちで立派な行いを誇っていた人に、「あなたに欠けているものが一つある。行って、あなたの持ち物をすべて売り払い、貧しい人たちに施しなさい。そして、わたしに従ってきなさい」とお命じになりました(マルコ福音書10章17節以下参照)。また、ルカ福音書10章42節では、せわしく立ち働いていて心を乱していたマルタに、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われました。主イエスのみ言葉を聞くことに集中することこそが、他の何にもまして重要なのです。そこから、すべてが始まるのです。

では、フィリピの信徒への手紙の中で「主キリストの福音にふさわしい生活を送る」とは具体的にどのような生き方なのかを考えてみましょう。「生活を送る」という言葉は「市民生活をする」という意味であり、3章20節ではこの言葉の名詞形が「本国」と訳されています。これは「国籍」という意味です。パウロはこの言葉を用いることによって、天に本国があり、神の国に市民権を持つキリスト者が、神の国の市民にふさわしい生活をするようにということを暗示しているように思われます。わたしたちキリスト者は今はこの世に住み、この国の国民として、この町の市民として生活していますが、主キリストの十字架の福音によって、この罪の世から贖いだされ、神の国に属する者とされました。わたしたちの本来の国籍は天にあります。それゆえに、地上の過ぎ去りゆくものを追い求めず、朽ち果てるべきこの世の宝に目を奪われず、心と目を天に向け、来るべき神の国の到来を待ち望みつつ、永遠なるものを追い求めて生きるようにと招かれているのです。

天に国籍を持つキリスト者は「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と27、28節に続けて書かれています。ここでは、主キリストの共同体である教会のことが言われています。主キリストの福音を信じて救われている共同体である教会は、一つの霊、聖霊によって固く立つことができます。使徒言行録2章に書かれているように、最初の教会は聖霊の降臨によって建てられました。教会は絶えず注がれる聖霊によって立ち続けます。自分たちの足で立つのではなく、立つことができるのでもありません。教会に集められている人の数とか経済力とかによって立つのでもありません。聖霊なる神が弱く貧しい一人一人をお用いになられ、その信仰を養ってくださり、その交わりを強めてくださり、一つのみ言葉のもとに、一つの信仰告白のもとに集めてくださることによって、教会はいつの時代にも、どのような試練のときにも、固く立つことができるのです。聖霊は教会の一致を与える神であり、また教会の足を固くする神であられます。

さらに、聖霊なる神は教会の民を福音の信仰のための共同の戦いへと赴かせると言われています。聖霊は信仰の戦いを導く神であられます。エフェソの信徒への手紙6章17節では、「霊の剣、すなわち神の言葉」と書かれています。聖霊は神のみ言葉と共に働き、敵を打ち破り、悪を打ち負かし、罪を滅ぼします。教会の民は聖霊なる神と共に、神のみ言葉を携えてこの世での信仰の戦いに出陣するのです。

ここには、天に国籍を持つ神の民である教会のこの世における戦いの姿勢が強調されています。教会はその信仰を教会内部にだけ閉じ込めておくことはできません。なぜなら、教会を生かし、教会を強めてくださる聖霊なる神と神のみ言葉が鋭い剣として罪のこの世を切り裂き、新しくされた命を創造し、神の義と神の国を建設してくださることを、教会は知っているからです。教会は自らの中に安住していることはできません。「聖霊の剣である神のみ言葉」を携えて、この世での信仰の戦いへと赴くようにと召されています。

宗教改革者カルヴァンは地上の教会を「戦闘の教会、戦い続けている教会」と呼び、天に召された信仰者の群れを「勝利の教会、戦いを終えて勝利を手にしている教会」と呼びました。主イエス・キリストご自身がその地上での全ご生涯が罪との戦いであり、十字架のご受難に向かう戦いであったように、キリスト者も地上にあっては主キリストにある信仰の戦いを続けるのです。そして、主イエスの戦いが復活と昇天の勝利であったように、キリスト者にも最後の勝利が約束されているのであり、地上の信仰の戦いを終えて天に召された信仰者たちはその勝利へとすでに招き入れられているのです。

パウロはそのことを28節の後半でこのように言っています。「このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです」。教会の民がこの世の反対者からどのような脅しや攻撃を受けようとも、決してたじろがず、後退せず、恥じることなく、主キリストの福音の信仰に固く立ち続けているならば、神はそのような教会の民に勝利を約束していてくださいます。その勝利を信じて信仰の戦いを続けるならば、それは敵対者たちにとっては敗北であり、滅びのしるしとなります。それは神ご自身がなさるみわざです。

29~30節では、キリスト者の信仰の戦いのさらに積極的な意味が語られます。【29~30節】。信仰の戦いは反対者たちからの攻撃に対して立ち向かうという、外からの必要に迫られて、いわば、いやいやながらも避けられないでしなければならない戦いなのではなく、キリスト者の信仰の戦いは主キリストを信じることに当然に伴っている戦いであり、いやそれのみか、それは神から与えられた恵みと言うべき戦いなのだとパウロは言うのです。それだけではありません。この戦いは主キリストのために苦しむ戦いなのです。もっと明確に言うならば、主イエス・キリストご自身の苦しみに共にあずかること、主キリストのご受難の歩みを共にすることなのです。

今パウロが福音宣教のために迫害を受け、捕らえられ、獄につながれているように、またフィリピの町で最初に福音を宣べ伝えたときに、パウロとシラスが投獄されて鞭打たれたように(使徒言行録16章16節以下)、信仰の戦いは苦難と試練の連続です。フィリピ教会はそのようなパウロの信仰の戦いを実際に見、今またそのことを聞き、そしてパウロのためにあつい祈りをささげ、支援物資を送り、また教会の外部と内部からの反対者たちと信仰の戦いをすることによって、フィリピ教会はパウロと同じ戦いをしているのだとパウロは言っています。パウロもフィリピ教会も共に主キリストご自身の苦難と戦いにあずかっているのです。ここに、キリスト者の豊かな交わりと一致があり、光栄があり、誇りがあり、豊かな恵みがあるのです。

聖書には、信仰による苦難は信仰者にとっては神から与えられた大きな恵みであると言われている箇所が数多くあります。ペトロの手紙一2章19節以下を読んでみましょう。【19~21節】(431ページ)。また、4章12節以下をも読んでみましょう。【12~14節】(433ページ)。使徒言行録14章22節には、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」というパウロの言葉があります。

キリスト者にとって、信仰の戦いは、それは多くの場合苦しみや痛みを伴うものではあるけれども、しかしそれはわたしたちの信仰の道にとって決して損失とか禍とかではなく、むしろそれは神からの恵みの賜物なのです。わたしたちを神の国へとお導きになる神の恵みなのです。わたしたちは主キリストを信じる信仰を恵みとして神から賜ったように、主キリストのための苦難をも恵みの賜物として神から与えられているのです。

(祈り)