12月11日説教「ヤコブからイスラエルへ」

2022年12月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記32章23~33節

    ルカによる福音書1章67~80節

説教題:「ヤコブからイスラエルへ」

 ヤコブはハランにいる叔父ラバンの家で過ごした20年間の逃亡生活を終えて、故郷の地カナンに帰ろうとしています。創世記32章1~22節までには、ハランから長い道のりを旅して、ヤボク川の近くのマハナイムまでやってきたヤコブが、その地で兄のエサウとの再会の準備をしていることが描かれています。後半の23節からは、ヤボク川を渡ろうとしたヤコブが何者かと一晩中格闘したことと、その時に彼の名前がヤコブからイスラエルに変えられたことが書かれています。きょうはこの32章全体のみ言葉から学びたいと思います。

 【2~3節】。「マハナイム」とは「二組の陣営」という意味だと2節で説明されていますが、なぜその名がつけられたのかについては8節と11節に暗示されています。マハナイムはヨルダン川の東側のヤボク川のそばにある町です。ハランからは直線距離でも800キロメートル以上あり、兄のエサウが住むエドムまでは100キロメートル足らずです。その場所に到着した時に、神のみ使いたちがヤコブに現れたと書かれています。ヤコブをその地へと導かれたのが、主なる神であることを示しています。ヤコブは20年前に、兄のエサウを欺いて長男の特権を奪い、そのことでエサウの怒りを買って、殺されそうになったために逃亡したのですが、ヤコブは兄と和解しようとして故郷の地へと帰ってきました。

 でも、兄と和解することだけがカナンの地に帰ってきたことの理由ではないということを、わたしたちはここから知らされます。この地は、神の約束の地なのです。「この地を、アブラハム・イサク・ヤコブに永遠の嗣業として受け継がせる」と約束された神のみ言葉が成就されるために、ヤコブはこの地に、神によって導かれてきたのです。神の約束は、人間たちのすべての偽りや憎しみ、争い、そして罪を超えて、必ずや成就していきます。

 ヤコブは20年ぶりで兄のエサウに再会するにあたり、あらかじめ使いの者を遣わして、ヤコブのご機嫌を伺おうとしています。その使いの者が帰ってきてヤコブに報告します。【7~9節】。ヤコブはエサウの怒りがまだ解けていないことを恐れています。自分や家族の命、また財産が奪われることを恐れています。ヤコブはここで、ハランに引き返してもよかったのかもしれません。これからもラバンの家で労苦することになるとしても、ここでエサウにすべてを奪い取られるよりはましかもしれません。

 しかし、ヤコブはそうしませんでした。あえて危険を冒してまでも、兄エサウがいるカナンへ帰る決意を変えません。なぜならば、そこが神の約束の地であるから、神の約束が成就される地であるからです。31章3節と13節で、神が彼に「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい、わたしはあなたと共にいる」とお命じになった神のみ言葉に従うべきだからです。「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ」と8節に書かれているにもかかわらず、彼をこのような決断へと至らせたのは、この神の約束のみ言葉だったのです。

 兄エサウに対する恐れを取り除くために、ヤコブは知恵を発揮し、彼の一行を二組に分けました。しかし、この知恵は神やだれかを欺くための知恵ではありません。神から与えられた豊かな恵みを神に感謝し、その神のみ前に自らの貧しさを告白し、自分がそのような神の恵みを受け取るに値しない者であることを知らされるという、信仰による知恵だということが次のヤコブの祈りによって明らかになります。【10~13節】。

 あのヤコブの口からこのような告白を聞くとは、まったくの驚きというほかありません。わたしたちはヤコブがどのような人間であったかを知っています。彼は生まれたとき、先に生まれ出た兄エサウのかかとをつかんでいました。ヤコブという名前はヘブライ語の「かかと」の意味であり、実際に彼はそのかかとで兄のエサウを「押しのけ」ました。彼は母と組んで父イサクと兄エサウとを欺き、長男の特権を奪い取りました。ラバンの家に逃亡してからも、彼以上に悪賢いラバンと競いながら、互いにだましあいを続けていました。

 そのヤコブが、ラバンの家での20年間の試練の時を経て、また故郷に帰るにあたって、神の約束のみ言葉を何度も聞くことによって、傲慢で、人間的な知恵によって生きていたヤコブがこのように変えられていくのです。「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りないものです」。今や、ヤコブはこのように神のみ前で告白するのです。神から与えられた大きな恵みを、信仰をもって受け取り、それを心から感謝する人は、自分がその恵みを受け取るに値しない罪びとであることを知らされます。神の豊かな恵みと永遠に変わらない神の約束のみ言葉が、ヤコブを神のみ前でへりくだる者とし、罪を告白する信仰者としたのです。ヤコブの20年間の労苦に満ちた逃亡生活は、神が彼にお与えになった信仰の訓練の期間であったのだということが、今わたしたちにも明らかにされました。

 ヤコブが彼の家族と財産を二組に分けたのは、エサウに襲われた時に、どちらかが生き残るための知恵であったと8節に書かれていましたが、11節では、一本の杖だけを持ってこの地を出た自分が、今や二組の陣営を持つまでになったという、神の恵みの豊かさを強調するための知恵に変化しているのです。このようにして、ヤコブの人間的な知恵が、今や清められて、神から与えられた信仰による知恵へと変えられていったということに、わたしたちは気づかされます。

 次に、23節以下を見てみましょう。【23~25節】。ヤボク川はヨルダン川の支流であり、ヨルダン川東側を南北に分けている深い渓谷を流れる川です。その川を多くの家族や家畜を渡らせるのは大変な労苦でした。ヤコブは彼の家族や家畜を先にヤボク川を渡らせ、彼らが安全に渡り終えたことを見届けたのちに、彼は最後に渡りました。

その時、何者かが夜明けまで彼と格闘したと書かれています。この何者かとは、この場面では正体は明らかにされていませんが、これが神のみ使いであったということは、29節の「お前は神と人と闘って勝ったからだ」というその人自身の言葉から暗示されています。また、31節では、ヤコブ自身が「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と告白しています。ホセア書12章4~5節では、この場面を背景にしてこう語られています。「ヤコブは母の胎内にいたときから、兄のかかとをつかみ、力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた」。この何者かとは、神のみ使いであり、それは神ご自身を表しています。

 では、「ヤボクの渡しでの神との格闘」と言われるこの場面にはどのような意味が含まれているのでしょうか。いくつかのポイントにまとめてみましょう。一つには、ヤコブは今20年間の逃亡生活を終えて、兄エサウと再会し、彼と和解するという大きな課題を抱えて苦悩しているのですが、しかし本当に和解しなければならない相手はエサウなのではなく、神なのだということがここで明らかにされているのです。ヤコブは父イサクや兄エサウを欺き長男が受けるべき神の祝福を奪い取りました。しかし、それはイサクやエサウを欺いたというだけではなく、神ご自身を欺いていたのです。彼の傲慢でわがままな性格は、神に対する不従順であったのです。ヤコブはエサウと和解する前に、神と和解しなければなりません。神のみ前に立ち、神と向かい合い、神のみ前に自らのすべてをささげて、一晩中かけて、神の真実と取組まなければなりません。神と真実の、真剣な出会いをしなければなりません。それが、「ヤボクの渡しでの神との格闘」の第一の意味です。

 第二には、ヤコブは神との格闘の末に、自らの弱さと欠けを知らされたということです。ヤコブが怪力の持ち主であったことが29章10節で暗示されていました。そこには、数人で動かす大きな石をヤコブは一人で動かしたと書かれています。きょうの箇所でも、神のみ使いであるこの人はヤコブと格闘して勝ち目がなかったと26節に書かれています。さらに29節では、「神と人と闘って勝った」とも言われています。それほどの怪力の持ち主であったヤコブですが、最終的な結果としては神のみ使いによって腿の関節を外されました。32節には、「ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた」と書かれています。怪力の持ち主であったヤコブは、今や肉体の痛みと欠けを持つ人になりました。自らの弱さと破れを知る人とされたのです。

 使徒パウロは神から何かの肉体のとげを与えられていましたが、彼はそれを自分が思い上がらないために神から与えられた痛みだと、コリントの信徒への手紙二12章で書いています。そして、彼は続けて、「神の力は自分の弱さの中でこそ発揮されるのだから、わたしはむしろ自分の弱さを誇る。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからだ」とも言っています(12章7~10参照)。

 第三には、ヤコブはかつて父と兄を欺き、長男が受けるべき祝福を自分に奪い取りました。しかし、ここでは、ヤコブは神の祝福を受け取るために一晩中神のみ使いと格闘し、勝敗がついてからもなおもみ使いを離さず、ついに神の祝福を受け取りました。ヤコブの戦いは神の祝福を受け継ぐための戦いであったといってよいでしょう。これによって、ヤコブは事実上、神が初めにアブラハムに約束された万民のための祝福を受け継ぐ者となったのです。

最後にもう一つ、それは、ここで彼の名前がヤコブからイスラエルに変えられたということです。神によって名前が付けられること、また途中で変更されることは大きな意味を持っていました。その人自身が、その人の全体が、神によって変えられ、新しい人間とされ、新しい使命を与えられるということです。

ヤコブとはヘブライ語で「かかと」あるいは「押しのける者」という意味でした。その名のように、彼は兄エサウのかかとつかんで生まれ、彼を押しのけて長男の権利を奪いました。自己中心的に、自分の意思を押しとおし、自分の願いをかなえることが彼の生きる目的でした。けれども、これからはイスラエルという新しい名前が与えられます。イスラエルとはヘブライ語では、本来「神が支配されるように」という意味だと推測されていますが、ここでは、「神と闘う」あるいは「神が闘う」という意味で説明されています。いずれがより正確な意味なのかははっきりしていませんが、いずれにしても、彼の名前の中に「エル」すなわち「神」という名が付け加えられました。これからは、彼自身が彼の人生の主となるのではなく、神が彼の主となり、彼の人生のすべてがより明確に神のための人生となるのです。そして、彼の12人の子どもたちが神に選ばれた聖なる民、イスラエルとなり、イスラエルから出たメシア・キリストによって、教会の民が誕生するのです。

わたしたちが主イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、キリスト者という新しい名が与えられたこともまた、わたしが主キリストのものとなったということなのであり、パウロがガラテヤの信徒への手紙2章20節で言っているように、「生きているのはもはやわたしではなく、主キリストがわたしのうちに生きておられるのです」。わたしのために十字架に付けられ、死んで復活された主イエス・キリストにあって,主イエス・キリストのために生きるように召されているのが、わたしたちキリスト者です。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中にあって滅びにしか値しないこのわたしを、あなたがみ子の血によって罪と死から救い出してくださったことを、感謝いたします。どうか、わたしたちがあなたの救いの恵みにお答えし、あなたの栄光のためにお仕えするものとしてください。

〇待降節の中にあって、全世界があなたのみ子のご降誕を心から待ち望んでいます。どうか、この世界をお救いください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月4日説教「神の選びと召命」

2022年12月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書1章1~10節

    ガラテヤの信徒への手紙1章11~17節

説教題:「神の選びと召命」

 日本キリスト教会は信仰告白を重んじる教会であり、信仰告白によって立つ教会であるということを、最も大きな特徴にしています。1951年5月に新日本キリスト教会が創立されてすぐに、信仰告白の制定に取りかかり、2年後の1953年10月の第3回大会で現在の『日本キリスト教会信仰の告白」』を制定しました。教会の礼拝の中で、会衆一同が共に声を合わせて告白するほか、洗礼式と聖餐式のある礼拝では必ず告白されます。また、大会、中会の会議の開会礼拝で、教会建設式や牧師就職式などでも告白されます。もちろん、わたしたちが洗礼を受けてキリスト者になり、この教会の教会員になるときにも、「あなたはこの信仰告白を誠実に受け入れますか」と問われます。わたしたちの教会は信仰告白によって一つにされている教会です。

 きょうは「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな」の冒頭の部分、「神に選ばれて」という告白について、前回に続いて学びます。キリスト教教理では「神の選び」というテーマになります。今回は、神の選びに加えて、それと結びついている「召命」ということについても、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 神の選びの教理が、宗教改革者カルヴァンの流れを汲む改革教会の神学と信仰の特徴の一つであることを前回もお話ししましたが、神の選びにおいては、神の主権的な自由や神の先行的な恵みが強調されます。わたしたち人間の側の行動や判断、決断、あるいは知恵とか知識とかのすべてに先立って、神の恵みの選びがあり、その神の側での一方的な、自由な選びこそが、わたしたちの信仰を生み出し、またわたしたちの信仰を支え、導いているというのが改革教会の選びの教理の大きな特徴です。

 このことをより具体的に理解するために、他の教派の教えと比較してみるのがよいでしょう。たとえば、バプテスト派と一般に呼ばれている教派では、本人の自覚的な信仰体験が重んじられます。神の主権や神の自由、神の恵みの選びよりも、人間の側の決断や応答が重視されます。そのために、自分がどのような劇的な回心の体験をしたかとか、どれほど困難な状況の中で洗礼を受ける決心をしたかなどが好んで語られます。またそのようなことが、その人の信仰を計るバロメーターにされたりします。本人の決断が決定的な意味を持ちますので、まだ自分で決断ができない小児には洗礼を授けることはできません。小児洗礼は否定されます。

 それに対して、カルヴァンやその流れを汲む改革教会は、旧約聖書時代のイスラエルの民から新約聖書の初代教会と中世の教会から受け継がれてきた伝統的な小児洗礼を重んじてきました。それは、人間の側の判断や決断に先立つ神の選びと契約を強調するからです。わたしたち人間は信仰の家庭に生まれるや否や、いや、生まれる以前から、神との契約の民の中に招き入れられており、またすべての人は神の永遠なる予定のうちに恵みによって選ばれているからです。わたしたちが洗礼を受けてキリスト者になるということは、その神の主権的自由と神の先行する恵みの選びを信じ、それを受け入れることにほかなりません。

 でも、そうなれば、神の主権的な自由が強調されて、人間の自由な意志が無視されるのではないかという反論が予想されるかもしれません。しかし、人間の自由意志とは何でしょうか。それは、神を信じるために働く自由意志ではなくて、神の戒めに背き、神に反逆し、神から遠ざかろうとする自由意志なのではないでしょうか。最初に創造されたアダムとエヴァがそうであったように。それは、自ら罪の奴隷になろうとする自由意志なのではないでしょうか。人間がだれもが、そのような意志しか持っていないのではないでしょうか。それは本当の自由意志なのでしょうか。いやそうではなく、それはむしろ奴隷意志なのではないかと、宗教改革者カルヴァンが言っているとおりです。

 神の主権的な自由と神の先行する恵みによる予定と選びを信じるときにこそ、わたしたち人間に本当の自由が与えられ、感謝と喜びとをもって神のお招きに応える自由な意志が与えられるのです。

 では、きょうの礼拝で朗読された二か所の聖書のみ言葉に目を向けてみましょう。エレミヤ書1章は預言者エレミヤの召命の箇所です。【4~5節】。次に、ガラテヤの信徒への手紙1章はパウロが復活の主イエスと出会い、異邦人の使徒として召されたときのことが記されています。【15~16節】。

 きょうのテーマと関連して、この両者に共通している点があることにすぐに気づきます。それは、聖書の他の多くの箇所でも見いだすことができる共通点ですが、エレミヤが預言者として神に選ばれ、立てられたことも、またパウロが異邦人の使徒として選ばれ、立てられたことも、神の永遠なる予定によることであり、神の先行する恵みの選びによることであるということです。エレミヤが将来どんな人物に成長するかがまだ全く分からない時に、まだ母の胎に造られる前から、神がエレミヤを選び、彼を万国の預言者となるべく定められたと書かれています。また、パウロの場合には、彼がまだ母の胎内にいるときから、彼がのちにキリスト教会の迫害者になるであろうことがあらかじめ分かっていたのにもかかわらず、神が主権的な自由と恵みによってパウロを選び、彼を異邦人の使徒となるべく定められたと書かれています。

ここでは、エレミヤの自由意志とか、エレミヤの決断とかについては全く語られてはいません。いやむしろ、エレミヤは彼の意志によって、6節で「わたしは若者にすぎませんから」と神の招きに抵抗しています。パウロの場合も、彼はキリスト教会の迫害者として神の永遠の選びに抵抗し続けていました。にもかかわらず、そのようなエレミヤやパウロの抵抗よりもはるかに強い神の主権的自由による、神の断固とした選びの意志によって、二人は共に、いわば神によって強引にねじ伏せられるようにして、信仰者とされ、神の特別の使命につく者とされたのでした。これが、聖書が語る神の選びであり、『日本キリスト教会信仰の告白』によって告白されている「神の選び」なのです。

 では、このような神の選びは、わたしたち信仰者として選ばれた者にとって、どのような意味を持つのでしょうか。三つの点にまとめてみましょう。

 第一点は、ここにこそ、わたしたちの選びの確かさがあるということです。永遠から永遠にいます神が、永遠なる予定と主権的自由の意志とによって、人間のすべてのわざに先行する恵みの選びによって、このわたしを選ばれ、わたしをこの教会へと招き、信仰の道へと導き入れてくださった。ここにこそ、わたしの選びとわたしの信仰の確かな保証があるのだということです。わたしの決断や選択は、時として誤ることがあります。時として変わることがあります。しかし、神の選びは永遠であり、確固として、不動であり、不変です。わたしの死のときにも、死ののちにも、変わることはありません。主なる神ご自身がわたしの選びを永遠に保証してくださるのであり、わたしの信仰の道を終わりまで導いてくださるのです。そして、わたしが地上の歩みを終えるときにも、わたしと共にいてくださり、「あなたが選んだ信仰の道は正しかった。わたしがあなたの信仰の道を完成させる」と言ってくださり、わたしを永遠なる神のみ国へと導き入れてくださるのです。

 第二点は、神によって選ばれた者を、神のみ前で謙遜な者にするということです。わたしの側には神の選ばれる理由となるべきものは一切ありません。ただ、神の一方的に与えられる恵みによって選ばれたからです。それゆえに、わたしは神のみ前で何ら誇るべきものを持ちません。ただ、神の恵みの選びに感謝するのみです。すべてはただ神の栄光のため、神の誉れのためであることを告白するのみです。神の選びはわたしたちの中にあるごう慢な思いと誇りや高ぶりを取り除き、あるいはそれとは反対の、卑屈な思いや、不安、恐れ、絶望のすべてをも取り除き、わたしたちに救われた者に対する真の平安を与えるのです。

 第三点は、神の選びは、選ばれた者に強い召命感を与えます。エレミヤが神に選ばれ、万国の預言者として立てられたように、パウロが神に選ばれ、異邦人の使徒として、主イエス・キリストの福音を全世界に宣べ伝える伝道者として立てられたように、神に選ばれた者は神からの特別な務めを授けられます。神の選びはただちに召命につながっていきます。神の選びと召命の結合が重要です。神は選んだ人を特別な務めへと召すのです。

その召命と務めの種類や内容は、必ずしもその人の能力とか意志とか、あるいは努力とかによって決められるのではなく、それもまた、お選びくださった神から与えられる賜物です。神は年若い預言者エレミヤに、「あなたはだれをも恐れるな。あなたが語るべき言葉はわたしが授けるから。わたしがいつもあなたと共にいて、必ずあなたを救うから」と7、8節で約束しておられます。エレミヤは神に選ばれ、万国の預言者として立てられたとき、その務めを担うことができるように、神から賜物と力とを同時に与えられたのです。神の選びと召命は固く結びついています。

 教会の迫害者であったパウロの場合はどうだったでしょうか。彼が迫害の息を弾ませながら、ダマスコの近くまで来たとき、突然天からの強い光に打たれて地に倒れ、復活の主イエスと出会いました。そのとき彼は「血肉に相談するようなことはせずに」と16節で言っています。自分自身をも含めて、自分の家族や友人、またエルサレムにいる先輩の使徒たちにも、全く相談しなかったと彼は言うのです。それらのすべては、やがて滅び朽ち果てるしかない血肉であり、永遠なる神の選び前では、なんら力を持たないからです。彼はただひたすら、神の恵みの選びに彼の全生涯をかけたのです。迫害者であった自分を選び、それまで迫害していたまさにその主イエス・キリストのために仕える使徒としてお立てくださった神の驚くべき恵みの選びに、彼の生涯のすべてをかけたのです。

 パウロはコリントの信徒への手紙一15章9~10節でこうも言っています。「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれる値打のない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。神の恵みの選びによって主キリストの福音を宣べ伝える使徒として召されたパウロは、その務めを担うための恵みをも豊かに与えられました。

 神はわたしたちひとり一人をも恵みの選びによって主イエス・キリストを信じる信仰者としてくださいました。また、それぞれに賜物を与え、それぞれの務めに召していてくださいます。わたしたちはもはや自分自身のためだけに生きるのでありません。わたしのために死んでくださった主イエス・キリストと主キリストによって愛されている隣人のために生きる者とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがとるに足りないこのわたしをお選びくださり、あなたのみ子主イエス・キリストの救いにあずからせてくださいました幸いと大きな恵みとを覚えて、心からの感謝をささげます。どうか、あなたから与えられたこの信仰の道を全うさせてください。あなたがいつも共にいてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月27日説教「福音がエルサレムからサマリアへ」

2022年11月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書42章1~9節

    使徒言行録8章4~13節

説教題:「福音がエルサレムからサマリアへ」

 エルサレム初代教会は誕生して間もなくから繰り返してユダヤ人からの迫害を受けましたが、ついに最初の殉教者を出すに至ったということが、使徒言行録7章の終わりに書かれています。エルサレム教会の7人の奉仕者として選ばれた中心人物であったステファノの殉教は、誕生して間もないエルサレム教会にとっては大きな衝撃であり、また打撃であったことは言うまでもないことですが、それにとどまらず、その同じ日に、教会に対する大迫害が起こったと8章1節に書かれています。12人の使徒たち以外の多くのユダヤ人の教会員がエルサレム市内から追放されるという大きな困難が教会の試練と苦難に追い打ちをかけるようになったのです。それは、エルサレム教会の存亡の危機と言ってよいでしょう。

 けれども、神はこのような教会の大きな危機の時を、何と、教会の大きな発展の時に変えてくださったということを、わたしたちはすぐに続けて読むことができるのです。【4~5節】。迫害によってエルサレムから散らされていった信徒たちは、恐れて身を隠すようなことはしませんでした。彼らは主イエスによって立てられた「地の塩、世の光」として、主イエスとその福音の証し人であることを止めませんでした。主イエスが天に上げられる直前にお命じになった使徒言行録1章8節のみ言葉に忠実に従ったのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。この主イエスのみ言葉が、エルサレム教会を襲った大迫害を契機として成就されていくのです。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によっても決して繋がれることはありません。神のみ言葉に生きるキリスト者もまた、この世のいかなる鎖にもつながれることはありません。

 エルサレムから追放された信徒たちは、町々村々を巡り歩きながら各地に主イエスの福音を宣べ伝えましたが、使徒言行録8章ではこの後、その一人であるフィリポの働きについて報告しています。フィリポは6章に書かれてあったようにエルサレム教会の奉仕者として選挙された7人の一人です。6章5節では、殉教したステファノの次にその名が挙げられています。

 フィリポはサマリアの町に降って行ったと書かれています。サマリアはエルサレムの北、主イエスの故郷であるガリラヤの南に位置しますが、エルサレムの都からは降るという言い方をします。当時の信仰深いユダヤ人はエルサレムからガリラヤへ降る際には、サマリア地方をまっすぐに通り抜ける道を選ばずに、ヨルダン川の東側を迂回して行くのが普通でした。と言うのは、サマリアにはユダヤ人以外の民族がたくさん移り住んでおり、伝統的なユダヤの民族的な伝統も信仰も失われてしまっていたために、サマリアは異邦人の地、宗教的に汚れた地と考えられていたからです。

 その事情について少し説明しておきましょう。ユダヤ人とサマリア人との民族的・宗教的対立は、紀元前922年にイスラエル王国が南北に分裂した時にさかのぼります。そして、紀元前721年に北王国イスラエルが(その首都はサマリアでしたが)アッシリア帝国に滅ぼされ、アッシリアはその地に外国人を移住させるという占領政策をとったために、サマリア地方には他国の文化と宗教が入り込むようになったという次第です。その後も、長い間ユダヤ人とサマリア人との対立は続き、深まっていきました。ルカによる福音書10章で主イエスが語られた「親切なサマリア人のたとえ」はそのような歴史を背景にしています。

 迫害によって散らされていったフィリポがサマリアの人々に主イエスの福音を宣べ伝えたことによって、ユダヤ人とサマリア人の間の幾世紀にもわたる深い対立と分裂が、いま乗り越えられたということを、わたしたちは知らされるのです。しかも、そのことが、エルサレム教会を襲った大きな試練と災いという出来事をとおして実現されることになったのです。これは、まことに奇しき神のみわざ、神の奇跡というほかありません。神の救いのご計画はこの世にあるあらゆる抵抗や攻撃にもかかわらず進められていきます。いや、むしろ、神はそれらをお用いになって、人間の予想に反して、ご自身の永遠の救いのご計画を成就されるのです。主イエス・キリストの福音は、あらゆる民族的・宗教的対立の壁を突き破って、全世界のすべての民に宣べ伝えられていきます。なぜならば、主イエス・キリストの福音はゆるしと和解の福音であるからです。神が主イエスの十字架の福音によって、すべての人間の罪を取り除き、神と人間とを隔てていた罪という壁を、また人間と人間との間にあった罪という壁を取り除き、神と人間とを和解させ、人間と人間とを和解させてくださったからです。フィリポはこの和解の福音を携えてサマリアへ散らされていったのです。この和解の福音は、すべての時代の、すべての教会にも託されています。

 エルサレム教会に対する大迫害をきっかけにして散らされていったフィリポをはじめとした使徒たちの伝道活動を、きょうの個所ではいくつかの違った表現で語られています。4節では「福音を告げ知らせる」、5節では「キリストを宣べ伝える」、12節では「神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせる」とあります。フィリポが語った説教の内容については具体的に記されてはいませんが、これらの表現から、その内容が推測されます。

 フィリポがサマリアの人々に語った説教の内容は、第一には、神のみ言葉、神の福音であったということが分かります。この世の知恵ではありません。ユダヤ教の律法の解説でもありません。天の神から語られる神の言葉、天の神から与えられる喜ばしいおとずれであり、地にある悲しみや痛み、恐れや不安を取り除く天の神から与えられる福音です。朽ちるこの世の命ではなく、永遠の命を与える神の言葉です。異邦人の地としてユダヤ人からはさげすまされていたサマリアの人々は、今やこの福音によって生きる道へと招かれているのです。

 第二には、主イエスの十字架と復活によって、すべて信じる人は罪と死と滅びから救い出され、永遠の命の約束を受け取ることで許されるという福音をフィリポは語りました。すべてのユダヤ人、すべての人は律法を行うことによってではなく、この福音を信じる信仰によって救われるという福音です。

 第三には、神の愛と恵みのご支配の時が始まり、神の国が到来しているという福音です。主イエスが最初にガリラヤで宣教活動を始められた時に語られたみ言葉、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、この説教をフィリポもまた語ったのです。

 そして、彼が語った福音にはしるしが伴っていました。そのことが6節以下に書かれています。【6~8節】。福音書に書かれている主イエスのいやしの奇跡がそうであるように、フィリポが行った汚れた霊からの解放や病める人のいやしは、主イエス・キリストの福音による罪のゆるしの目に見えるしるしであり、神の国が到来したことの目に見えるしるしです。

サマリアの町に大きな喜びがあったと書かれています。ユダヤ人からは異邦人と言われ、辱めを受けていたサマリアの町、憎しみや敵意が満ちていたサマリアの町に、今や主イエス・キリストの福音によって与えられる喜びが満ちています。主イエス・キリストの十字架の福音が長い間の民族的・宗教的対立と憎しみに勝利したのです。

 主イエス・キリストの福音の勝利は次の9節以下にも語られています。【9~13節】。ここでは、主イエス・キリストの福音が魔術師シモンの魔術に勝利したことが語られています。サマリアにはさまざまな異国人が住んでいたために、さまざまな宗教がはびこっていました。その中でも、特に魔術師シモンは長年にわたってその驚くべき魔術を行って、人々の関心を集めていました。彼自身もまた自らを神のような偉大な者だと自称し、多くの信奉者を集めていました。子どもから大人まで、あらゆる年代の人々が彼の周りに群がっていました。

 人は目に見える物や感覚でとらえられるものにはすぐに関心を示します。人間の能力を超えた不思議なわざとか、いわゆる超能力とか、だれもが驚くような魔術、あるいは現実的な利益を約束する言葉などには、だれもが飛びつきます。けれども、それらはいずれも、人間の能力をいくらかは越えてはいても、人間のわざであり、本当に人間を救うことはできません。魂の平安を与えることはできません。なぜなら、それらはいずれもやがては朽ち果てるしかない人間から出たものであるからです。

 魔術師シモンは自分の優れた能力や人を驚かせるような魔術によって、自らを神の位置に高めようとしてしていましたが、しかしそれはいずれにしても人間から出たものに過ぎません。神から出たものではありません。人間が創り出した偶像は、人間に好まれるものではあっても、人間を根本から造り変えることはできません。人間を罪の支配から救うことはできません。

 それに対して、フィリポが語った神の国と主イエス・キリストの福音は、永遠なる神、全能なる神から与えられた命の言葉であり、人間の罪を打ち砕き、人間を新たに造り変え、新しい神の国の民とする命の言葉です。天におられる神が地に住むわたしたち人間を罪と死から救うために、ご自身が地に下って来られることによって成し遂げてくださった救いの福音です。

 サマリアの人々はフィリポの説教を聞いて、ここにこそ真実の救いがあると悟り、主イエス・キリストの福音を信じ、洗礼を受けました、魔術師シモンもまた信じて洗礼を受けたと書かれています。シモンとサマリアの人々は罪の支配から解放されました。異教の魔術からも解放されました。彼らは主イエス・キリストのものとなれました。神の国の民とされました。神の愛と恵みのご支配のもとに移されました。

 わたしたちもまた主イエス・キリストの十字架の福音によって罪から救われ、この世のさまざまな偶像から解放され、神の国に生きる自由へと招き入れられるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、この世はわたしたちの目を惑わす多くの偶像や罪の誘惑に満ちています。わたしたちは愚かで弱い者であり、たちまちにしてそれらに目や心を奪われてしまいます。神よ、どうか弱いわたしたちをお守りください。あなたのみ言葉によって武装させ、主キリストの福音によって、それらと戦う知恵と力とをお与えください。

○神さま、病んでいる人、弱っている人、道に迷っている人、試練の中にある人、孤独な人を、どうぞ顧みてください。主キリストにあって、平安と慰めと希望とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月20日説教「安心して行きなさい」

2022年11月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編107編1~9節

    ルカによる福音書8章40~56節

説教題:「安心して行きなさい」

 ルカによる福音書8章40~56節には、主イエスによる二つの奇跡が語られています。一つは、40~42節と49~56節にまたがっている、会堂長ヤイロの12歳になる娘を主イエスが死から生き返らせたという奇跡。もう一つは、43~48節の、12年間出血が止まらなかった、長血を患っていた婦人を主イエスがいやされたという奇跡です。長血を患っていた婦人の奇跡がヤイロの娘の奇跡の記述に前後を挟まれたような構造になっています。これは、時間的な経過からこのような構造になっているのですが、この二つの奇跡が密接な関連を持っていることにも関係しています。つまり、主イエスがヤイロの家に向かっている途中に、長血を患っていた婦人と出会い、彼女の病をいやすという奇跡のために時間を取っている間に、ヤイロの娘が死んだとの知らせが入ったのですが、主イエスはその知らせを聞いたにもかかわらず、ヤイロの家に行かれ、彼の娘を死から生き返らせるという奇跡を行われました。ここでは、病をいやされる主イエスの権能と、それ以上に、死に対してさえも勝利される、より偉大な主イエスの権能が語られているのです。

 主イエスはこれまでにも何度も悪霊を追い出し、重い病をいやし、全能の父なる神の権能と大いなる力とを持っておられることを証しされました。また、神の国が到来し、神の恵みのご支配によって悪しき霊やサタンがすでに敗北を告げられていることを証しされましたが、ここではさらに人間の死をも支配しておられ、死から命を創造される神の権能を持っておられることを証しておられるのです。

 この二つの奇跡には共通点が多くあります。一つは、主イエスの奇跡のみわざを体験した人がいずれも女性であるということ。二つには、ヤイロの娘の年齢が12歳であることと長血を患っていた婦人の病気の期間が12年間であるということ。さらに重要な共通点は、いずれの奇跡においても、「信じること、信仰」と「救い」を主イエスは強調しておられるということです。48節と50節を読んでみましょう。【48節】。【50節】。わたしたちはこの二つの奇跡をとおして、信じて救われることへと招かれているのです。

 では、きょうは43~48節の、長血を患っていた婦人のいやしの奇跡について学んでいくことにします。【43節】。43節冒頭の「ときに」とは、前からの時間的なつながりを言い表しています。この時、主イエスは会堂長ヤイロという人の12歳になるひとり娘が重病で死にそうなので家に来てほしいとの依頼を受け、彼の家に向かおうとしていました。しかし、その途中で群衆がまわりに押し寄せてきて、前に進めないような状況だったと40~42節に書かれています。主イエスは道を急いでいました。早く行かなければ、その娘さんの息が絶えて、主イエスに祈っていただき、病気をいやしていただくことができなくなるかもしれません。

 そのような時に、主イエスは雑踏の中で一人の婦人と出会われ、彼女の重い病気をいやされ、彼女を救われるという奇跡が起こされたということを、聖書は語るのです。この奇跡は、いわば道の途中で起こったものでした。けれども、主イエスにとっては、ある目的地に向かう途中であっても、すべての道、すべての時が、福音宣教の時であり、救いのみわざを行う時であるということを、わたしたちはここでも気づかされるのです。そこに、いやしを必要としている人が一人でもいるならば、そこに、救われるべき人が一人でもいるならば、主イエスはその人のために足を止めてくださり、その人と出会ってくださり、その人のための救いのみわざを行ってくださいます。

 この婦人の病気は12年間も出血が止まらず、その病気の治療のために全財産を使い果たすほどの重い病気であったことが書かれています。12年間と言えば、彼女が成人した女性になって、その青春時代のすべてをこの病気に苦しめられ、この病気と戦ってきたことが分かります。肉体的にも精神的にも、また経済的にも、それはどんなにか辛く苦しい戦いであったことでしょうか。それにもかかわらず、すべての手段が無駄に終わってしまうほかになく、全く希望を失ってしまうほかにないと思われました。

 それだけでなく、旧約聖書レビ記15章によれば、血の流出がある女性は、その期間は宗教的に汚れているとされ、公の場に出ることも他の人と交わることも禁じられていました。イスラエルでは血は命そのものであり、神聖なるものと考えられていて、それに人が触れることは神聖さを汚すことと考えられ、このような規定が定められたと推測されています。そのために、彼女はイスラエル宗教共同体の中には入って行けず、家族や隣人と自由に交わることもできないという、孤独と不安の時を過ごさなければなりませんでした。それが12年間も続いていたのです。肉体的な苦痛と精神的な苦痛、それに加え宗教的な苦痛、彼女の苦しみ、痛み、孤独、恐れ、絶望。だれが彼女のこの12年間の苦悩の人生に終わりを告げることができるのでしょうか。

 しかしながら、そのような彼女にも主イエスと出会うという、この大きな機会は失われてはいないということを、わたしたちはここで知らされるのです。否、むしろ、そのような多くの困難と重荷と痛みを抱えていた彼女にこそ、神がお遣わしになった救い主なる主イエスと出会う機会が与えられたのです。彼女はその大きな苦悩と試練の中でこそ、主イエスと出会うという、他の何ものにも代えがたい恵みの時が備えられたのです。

 【44節】。ここには、当時の律法の定めによって宗教的に汚れているとされていたこの婦人の大胆で勇気ある、また必死の行動と、しかし控えめで、恐れを覚え、自分を隠そうとする消極的な行動と、そしてまた、それらのすべてを超えている主イエスに対するあつい信仰と大きな期待とが、入り混じっているように感じられます。三つを区別することはできませんが、分かりやすくするために、分けてみていきましょう。

 律法の規定によれば、彼女は公の場に出ることはゆるされてはおらず、人と接触することも避けなければなりませんでした。また、一般的に言っても、女性から男性の方へ近づいて、その人に触るということも、当時の社会ではすべきではないと考えられていました。しかし、彼女は律法の定めや当時の慣習という壁を突き破って群衆をかき分け、主イエスに近づいて行っています。

 彼女にはまた恐れやためらいもありました。主イエスの正面から向かって行って、主イエスに自分の顔を見せ、直接言葉で主イエスにいやしをお願いする勇気はなかったように思われます。あるいはまた、宗教的に汚れている自分がだれかに触ればその人もまた汚れてしまうことに対する恐れもあったのかもしれません。彼女は気づかれないように主イエスの後ろから近づき、主イエスが着ている服の一部にでも触りたいと思いました。しかし、これでは主イエスとの真実の出会いは起こりません。彼女は何か魔術的な力を信じていたにすぎません。

 しかし、ここには彼女の主イエスに対する並々ならぬ信頼、期待、信仰があったことも確かです。彼女は主イエスのことを耳にし、この方がもしかしたら自分のこの重い病をいやしてくださる力を持っておられるかもしれないと思ったのでしょう。この方が、自分の12年間の苦しみから解放してくださることができるかもしれないと、彼女は最後の望みをかけて、主イエスのところへと行く決意をしました。その信仰が彼女に大胆で勇気ある行動をとらせていると言えるでしょう。そして、彼女を家から出させ、群衆をかき分け、主イエスに近づけさせたのです。その時、彼女の重い病気がいやされました。

 しかし、これで彼女の救いが完了したのではありません。主イエスは彼女との真実の出会いを求められます。【45~47節】。「わたしから力が出て行った」という主イエスのみ言葉は、非常にリアルで、興味深い表現です。主イエスのお体の中にみなぎっていた力が主イエスの着ていた服を通して、彼女の手と体全身へと移っていった。そして、彼女の病気がいやされたという事実が、何か目に映るような、現実的で、実感できるような表現のように思われます。主イエスはご自身の中にある力や恵み、そして命を、あたかも一人一人に移し入れるかのようにして、わたしたちに分かち与えてくださるのです。そして、ご自身が全く無になるまでに、その力を、その恵みを、その愛を、そしてその救いと命を、わたしたち一人一人に分かち与えてくださるのです。それが、主イエスの十字架のみわざでした。主イエスは、わたしたち罪びとのためにご自身の肉と血のすべてを注ぎ出すかのようにして、十字架でおささげくださったのです。この十字架の愛が、この婦人をいやし、救い、そしてまたわたしたちをも救うのです。

 主イエスからの力を受け取り、いやされた婦人は、もはや自分を隠しきれないことを悟りました。主イエスから与えられた神のいやしのみ力の大きさに、彼女は恐れを覚えて震え上がりました。そして、自分の身に起こったことを群衆に向かって語りだしました。これまでは、病気のために、人前に出たり、人と話をすることもできなかった彼女が、今は群衆の前に立ち、主イエスの救いのみわざを、主イエスの福音を証しする人へと変えられたのです。何と大きな変化でしょうか。

 48節で主エスはこう言われます。【48節】。この婦人は主イエスによって、長年苦しめられてきた重い病気をいやされただけではありません。彼女は主イエスと真実の出会いをして、その罪がゆるされ、救われたのです。福音書に書かれている主イエスのいやしのみわざは、単に肉体のいやしだけではなく、その人の全存在、その人の体と魂の全体、全人格の救いを含んでいます。主イエスとの真実の出会いを経験することによって、その人の罪が取り除かれ、神との交わりが回復されるからです。神の子どもたちとされ、神の国の民の一人とされるからです。

 そこで、主イエスは「安心して行きなさい」とお命じになります。信じる人には、主イエスのみ言葉を聞き、それに聞き従って生きる道、主イエスの憐みとゆるしの中で生きる道が備えられています。「安心して」とは「平安のうちに」という意味です。平安とは,ヘブライ語ではシャローム、ギリシャ語ではエイレーネーです。満ち足りている状態を意味する言葉だと言われます。主なる神がすべての必要なものをもって養い、生かしてくださる道。主なる神がわたしの行くべき道を備え、その道に常に神が伴ってくださる歩み。そこにこそ、わたしたちの平安、平和があります。わたしたちもまたこの道を、平安のうちに歩みましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは多くのことで思い煩い、不安や恐れに襲われ、また多くの破れや欠けをもって、迷いながら歩む者です。神よ、どうかわたしたちを憐れんでください。わたしたちをまことの救いへとお招きください。あなたと共にある平安でわたしたちを満たしてください。

○天の神よ、この世界もまた深く病み、傷つき、苦悩しています。この世界を憐れんでください。あなたのみ心を行ってください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月13日説教「新しい天と新しい地の完成を望み見て」

2022年11月13日(日) 秋田教会主日礼拝(逝去者記念礼拝)説教

(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書65章17~25節

    ヨハネの黙示録21章1~4節

説教題:「新しい天と新しい地の完成を望み見て」

 教会が逝去者記念礼拝をささげることの意味について、まず考えてみましょう。教会では、亡くなった人を神や仏、あるいは生きている人間とは違った何か特別な存在者として崇めたり、礼拝の対象とすることは決してありません。また、亡くなった人の生前の業績をたたえるためとか、亡くなった人の霊を慰めたりするために礼拝するのでもありません。教会の逝去者記念礼拝では、わたしたち人間の生と死、命と死後のすべてをみ手に治め、支配しておられる全能の父なる神、唯一の永遠なる神を礼拝します。そして、神の独り子なる主イエス・キリストによってわたしたち人間のすべての罪がゆるされ、わたしたちが神の子どもたちとされ、来るべきみ国での永遠の命を約束されているという福音を聞き、信じるために、わたしたちはこの逝去者記念礼拝に招かれています。

 もう一つの意味は、天にある勝利の教会と地にある戦いの教会との交わり、一致を覚えるということです。古い時代から、信仰をもって地上の歩みを終えて天に召された信仰者たちの教会を勝利の教会と呼び、今なお地上にあって、罪の誘惑と戦いながら信仰の歩みを続けている教会を戦いの教会、戦闘の教会と呼びました。天にある勝利の教会と、地にある戦いの教会は、二つの別々の教会ではありません。共に、一人の父なる神を信じ、礼拝し、共に一人の救い主なる主イエス・キリストを信じている、一つの群れ、一つの神の教会です。

 ヘブライ人への手紙12章1節では、天にある勝利の教会を証人たちの群れと呼んでいます。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と、そこでは勧められています。信仰によって地上の歩みを全うした逝去者たちは、すでに勝利の冠を神から与えられています。天にある教会には、罪と死と滅びとに勝利された主イエス・キリストがおられます。逝去者たちはその主キリストと固く結ばれています。

 その天にある勝利の教会と、今も信仰の戦いを続けている地上のわたしたちの教会とが、一つの礼拝の群れとして、一つの神の民として、今共に一人の父なる神を礼拝しているのです。そして、ヘブライ人への手紙が教えているように、天にある勝利の教会は、わたしたち地にある戦いの教会が、必ずや勝利へと導かれることを証している証人たちなのです。これが、逝去者記念礼拝をささげるもう一つの意味です。

 きょうは、ご一緒にヨハネの黙示録21章のみ言葉を聞きましょう。ヨハネの黙示録は新約聖書の最後の書であり、また聖書全体でも最後の書です。聖書の最初の書である創世記と対になっています。聖書が創世記で始まり、ヨハネの黙示録で閉じられていることには大きな意味があります。創世記には、神が初めに天地万物と人間を創造されたこと、そしてアブラハム・ヤコブ・イサクの神として、救いのみわざを具体的に始められたことが書かれています。ヨハネの黙示録には、この世界の終わりの時に、神がご自身のみ国を完成されることが書かれています。

ここから教えられるように、神は世界と人間の命と存在、またその歩み、歴史をお始めになり、そしてそれを完成されます。神はわたしたち一人一人の命と生涯の歩みを始められ、またそれを完成させてくださいます。わたしたちがきょう覚えている逝去者の一人一人についてもそのことが言えます。その人の生涯が、長寿を全うしたと思える生涯であったとしても、あるいは道半ばで突然に閉じられた生涯であったとしても、それをお始めになり、またそれを完成されるのは、主なる神です。わたしたちはそのことを信じるべきであり、また信じることができるのです。

では、ヨハネの黙示録21章1~2節を読みましょう。【1~2節】。1節と2節に「わたしは見た」という言葉が繰り返されています。次の3節には、「見よ」という神の命令が書かれています。ヨハネは神から与えられた信仰の目によって、世の終わりの時、終末の時、神の国が完成される時のことを見ています。神はヨハネの目を、彼が生きていた時代の現実をはるかに超えて、神が終わりの時に完成される神の国の出来事へと向けさせているのです。

ヨハネが生きていた時代、それはおそらく紀元1世紀の終わりころであったと推測されていますが、紀元30年代に誕生したキリスト教会はローマ帝国からの激しい迫害を受けていました。紀元81年にローマ皇帝に即位したドミティアヌスは自らを生ける神と称し、全国に自分の像を立て、その像の前で礼拝することを強要しました。いわゆる、皇帝礼拝です。キリスト教徒はこれを拒否したために、多くのキリスト者が捕らえられ、殺されました。この手紙の著者であるヨハネもその一人として、エーゲ海にあるパトモス島に幽閉されていました。教会は多くの殉教の血を流し、苦難と試練の中にありました。強大なローマ帝国の前では、誕生して間もない教会は全く無力であるかのように見えました。

そのような教会の現実の中で、しかしヨハネはその困難な現実に押しつぶされてしまったり、絶望したりするのではなく、彼の目を、神が完成される終末の時、み国の完成の時へと、向けることによって、なおも勇気と希望とをもって最後の勝利と完成を信じて、迫害を耐え忍び、信仰を貫き通すようにと、諸教会を励ましているのです。それがヨハネの黙示録が書かれた目的であったのです。

この個所でのもう一つの特徴は、「新しい」という言葉がたびたび用いられていることです。「新しい天と新しい地」(1節)、「新しいエルサレム」(2節)、さらに、5節には、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言われる神のみ言葉があります。イザヤ書65章17節には、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」という神の預言が語られています。

聖書で「新しい」という言葉が用いられる時、そこには特別な内容が含まれています。この言葉は単に「古い」に対する「新しい」を意味するのではありません。聖書の「新しい」という言葉には「永遠の」という意味があります。また、この世界には属していない、別の世界に、まさに新しい世界に属しているものという意味があります。したがって、この世界では永遠に新しいと言われます。旧約聖書が書かれた数千年前にも、二千年前の主イエスの時代にも、そして今も、それぞれの時代の人々にとって、「新しい」という聖書のみ言葉は常に新しいという意味を持っています。

聖書の「新しい」は、この世界にある新しさではありません。この世界にある新しさは時が過ぎるとともに古くなっていくほかにありません。この世界とは別の世界、神の国に属する新しさ、永遠なる神に根拠を持つ新しさのことです。神は常に新たに創造し、命を与えてくださるゆえに、それはいつまでも新しいものであり続けます。

そして、神から与えられる新しさ、神が創造される新しさの前では、すべてのものは古くなり、滅びていくしかありません。1節に「最初の天と最初の地とは去って行き、もはや海もなくなった」と書かれており、また20章11節でも「天も地も、のみ前から逃げて行き、行方が分からなくなった」とあるように、終わりの時、終末の時に、神が新しい天地を創造される時には、それまであったもの、わたしたちが今見ている世界とその中にあるすべてのものは、消え去り、滅びるのです。

では、神が新たに創造される新しい天と新しい地とは、どのようなものなのでしょうか。2節ではそれが結婚を比喩にして語られています。ここでは、「聖なる都、新しいエルサレム」である教会と、夫である主キリストとの結婚のことが語られています。

聖書では、結婚式は神の祝福と喜びが最も満ち溢れる時として描かれています。主イエスは福音書の中で、終末の時の神と神の民との盛大な祝宴を結婚式にたとえて話されました。ヨハネの黙示録では、もはやたとえではなく、終末の時に主イエス・キリストと教会が結婚することによって、神と人間との愛の交わりがここで完成するのです。

3節、4節には、新しい天と地が完成される時の神のみ言葉が語られています。【3~4節】。天にある玉座から神ご自身がお語りになります。「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となる」。これが、終末の時に完成される新しい天と地、神の国の中心的な内容です。神と人間との間をさえぎるものが何もなくなる。神と人間との交わりを妨げるものがすべて消え去る。神から人間を引き離そうとする悪しきサタンの力、罪、死がすべて滅ぼされ、もはや何ものも神から人間を引き離すことがなくなる。神と人間との完全で永遠なる交わり、永遠なる共存。これが終わりの日に完成される神の国なのです。これこそが、わたしたちの最高の幸いであり、最大の喜びです。わたしたちは神の祝福に満たされます。

神は最初の人間アダムとエヴァを創造された時から、人間と共にあろうとされました。エデン(喜び)の園でのアダムとエヴァの生活は、神と共に歩む生活でした。しかし、彼らが神の戒めを破って罪を犯してから、神との交わりが破壊され、人間は神の裁きを受けて死すべき者となりました。けれども、神は罪の人間をお見捨てにはならず、み子主イエス・キリストの十字架の死によって、人間の罪を贖い、ゆるし、再び信仰によって神との交わりを回復してくださいました。神が主イエス・キリストによって成就してくださった救いのみわざが、この終わりの時に、完成し、神と人間との永遠の共存、永遠の交わりが完成するのです。

それゆえに、4節では、人間の目から涙がぬぐい取られ、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もないと言われているのです。神から与えられる豊かな祝福と幸い、喜びに満たされるからです。インマヌエル、「神我らと共にいます」という神のみ言葉が完全に成就されるからです。

わたしたちがきょうの礼拝で覚えている、この教会の信仰の先輩たちは、初代教会の迫害の時代に預言者ヨハネが見た終わりの日の幻を、それぞれの生きた時代の中で、同じように見てきました。そして今は、罪と死とに勝利され天に昇られた主イエス・キリストと共に、勝利の教会にあって、終わりの日の完成の時を待ち望んでいます。

わたしたちもまた、今のこの時代の中で、さまざまな罪の誘惑や悪しき力と信仰による戦いを続けながら、預言者ヨハネと共に、またわたしたちの教会の天にある証人たちと共に、来るべき終わりの日の、神が創造してくださる新しい天と新しい地との完成を望み見ることをゆるされているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがこの教会を130年の長い年月にわたって守り、導いてくださいましたことを覚え、心からの感謝をささげます。この教会で信仰生活を送り、来るべきみ国を待ち望みつつ天に召された多くの信仰の証人たちに囲まれながら、今信仰の戦いと続けているわたしたちを、どうぞ顧みてください。また、ご遺族の一人一人に天からの慰めで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月6日説教「ヤコブの帰郷」

2022年11月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記31章1~21節

    ヘブライ人への手紙13章1~6節

説教題:「ヤコブの帰郷」

 創世記31章3節にこのように書かれています。【3節】。ヤコブは伯父ラバンの家での20年間の生活を終えて、故郷のカナンの地へ帰るようにとの神の命令を聞きました。この章には、1~22節までは、ヤコブがラバンの家から逃げ出すようにして旅立っていく時の様子と、23~42節までは、ヤコブが家族みんなを引き連れて家を出て行ったことを知ったラバンが三日後にヤコブの後を追って行き、追いついてからの二人のやり取りについて、そして43~54節までは、ヤコブとラバンが平和的に分かれることになったことを記念して二人が結んだ契約について描かれています。長い1章なので、朗読は21節までにしました。

 この章に描かれている内容の多くは、ヤコブとラバン、どちらも計算高く、悪賢く、自分の利益のために相手を欺くことしか考えないような、二人の男性の人間的で世俗的な会話と物語ですが、しかし聖書はそのような人間たちをお用いになって、ご自身の永遠の救いのみわざを成し遂げられる主なる神について語っています。わたしたちはこの章からも、アブラハム、イサク、ヤコブをお選びになってご自身の救いのみわざをお始めになった主なる神が、やがてヤコブの12人の子どもたちからなるイスラエルの民をとおして、そのみわざを前進させ、そしてついに、イスラエルの民の死にかけた切り株から出たメシア・救い主・イエス・キリストによってその救いのみわざを成就されるに至るまでの、永遠なる神の救いのみわざを、この31章からもわたしたちは読み取っていくことができます。

 今読んだ31章3節こそが、まず最初にそのことを語っています。ヤコブに故郷へ帰るようにとお命じになったのは神です。ヤコブ自身も、自分はもう十分に伯父ラバンのために働いたし、父イサクの家を出てから長い年月が過ぎたので、そろそろ故郷へ帰りたいと願ってはいました。しかし、それをお命じになるのは神ご自身です。

ヤコブはラバンの家で、愛する妻ラケルとの結婚のために7年間、働きました。けれども、ラバンに欺かれて、妹のレアと結婚させられ、ラケルを正式な妻とするために、さらに7年間働くことになりました。それから、30章25~43節に書かれているように、ラバンの家畜を養うためにもう6年間、計20年間、ラバンの家で、ラバンのために働かなければなりませんでした。そのようにして、ラバンのもとで、その家の主人のために、誠実に働き、ラバンのたび重なる欺きをも忍耐し、人生と信仰の訓練を積み重ね、そのようにして今、故郷に帰れとの神のご命令をヤコブは聞いたのです。彼はこの時が満ちるまで待たなければなりませんでした。いつも、どのような時にもヤコブと共にいてくださる神が、その時を満たしたくださるからです。

 30章25節以下に書かれているヤコブの6年間の働きのことを少し振り返ってみたます。25~26節で、ヤコブはラバンにこのように言います。【25~26節】。ところが、この時にはまだ神がお定めになった時は満ちていませんでした。故郷へ帰るのはヤコブの願いではなく、神のみ心です。ヤコブが独り立ちするためではなく、神がアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約を実行されるためです。

 ラバンはヤコブが故郷に帰りたい希望を持っていることを知り、ヤコブに報酬を支払いたいからと言って、さらに6年間、自分の家畜の群れを養うという約束を結ばせました。これもラバンの策略でした。ヤコブが彼自身の家畜を財産として持ち帰ることができるまで、なおしばらく家畜の世話をしなければならなくなり、その間自分の家畜の世話をもしてもらえるとラバンは考えました。

 ところが、賢さにおいては、ヤコブが一枚も二枚も上でした。ヤコブは、羊と山羊の中で、白い毛の中に黒い毛がぶちやまだらになっているものだけを自分の財産として持ち帰らせてくださいとラバンにお願いします。羊も山羊もほとんどは白く、ぶちやまだらはごくわずかなので、ラバンはすぐに承知しました。次にヤコブは、家畜の水飲み場に、ポプラなどの若枝の皮を一部はぎ、縞模様を造ってそれを置き、家畜が水を飲みに来てそこで交尾をする特に、その縞模様を見ると、生まれてくる子羊、子ヤギがみなぶちやまだらになり、ヤコブの家畜だけが増えたので、ヤコブは6年間で多くの家畜や財産を持つようになったと、

30章の終わりに書かれています。

 古代社会では、人間も家畜も妊娠した初期に見たものが生まれてくる子どもの性格や外見に影響を与えるという考えがあったようです。今日でも、いわゆる「胎教」というような形でその考えが受け継がれていると言われます。ヤコブの賢さがラバンに勝りました。きょう読んだ箇所で、ヤコブは二人の妻ラケルとレアを呼んで、にこのように言っています。【5~9節】。ヤコブは自分の家畜が増えたのは、神が自分と共にいてくださり、神がラバンから取り上げてわたしにお与えになったからだと言っています。ヤコブの知恵は神から与えられた知恵なのだと聖書は言っているように思われます。【11~13節】。

 ヤコブが二人の妻を自分のもとに呼んで、しかも彼女たちの父ラバンには気づかれないようにして、このような話をしていることには理由がありました。ヤコブはラバンには内緒にして家を出て行こうとしています。もし、家を出ると言えば、また引き止められるかもしれず、また自分が増やした財産を置いて行けと言われるかもしれないからです。それ以上に不安なのが、ラバンが二人の娘ラケルとレアを自分と一緒に出て行くことをゆるしてくれるかどうか、いやそもそもラケルとレア自身がそう願っているかどうかが分からなかったからです。ヤコブもラケルとレアも、大きな家族であるラバンの家に属しています。本来ならば、ラケルの同意なしには家を出て行くことはできないと、当時の社会では考えられていました。

 二人の妻ラケルとレアに対するヤコブの不安はすぐに解消されました。二人は父であるラバンが自分たちの夫であるヤコブにつらく当たっていたのを見ていました。ヤコブが誠実に父の家で働く姿も見ていました。彼女たちは父に内緒で夫ヤコブと共にラバンの家を出ることに賛成します。その時、ラケルはラバンの家の守り神である像を盗んで持ち帰りました。

 22節から、ヤコブ一家が家を出て行ったことに気づいたラバンの追跡が始まります。三日目にそれに気づいたラバンは、七日かけてヤコブに追いつきました。その前の日の夜、神が夢でラバンに語りました。【24節】。そのことが、ラバン自身の口からも語られます。【29~30節】。ラバンは自分に告げずに家を出て行ったヤコブに何らかの罰を加えることもできたのに、それをしないのはアブラハム・イサク・ヤコブの神が自分にそのように命じられたからだと言っています。ラバンもまたアブラハム・イサク・ヤコブの神のご支配のもとにあることを、そしてイサクがこの神の導きのもとにあることを知らされました。ヤコブの20年間の逃亡生活の中で、すべてを支配し、導いておられたのが主なる神であり、家の主人であるラバンではなかったということが、ラバン自身にも、また聖書を読んでいるわたしたちにも、はっきりと知らされたのです。

 ここで、ラケルが持ち帰った家の守り神の像のことが取り上げられています。ラバンは必死になってそれを見つけようとしますが、ラケルの機転によって、彼女がその像をラクダの鞍の下に隠し、その上に自分が座っていたので、ラバンに発見されずに済みました。このことを契機に、自分が家の像を盗んだと非難されたヤコブが、ラバンに対して反撃攻勢をかけ、彼に抗議します。

 【36~42節】。ここには、遠くハランの地の伯父ラバンのもとで逃亡生活をしたヤコブの20年間の意味は何であったのか、その目的は何であったのか、そのすべては神が備えられたものですが、それが明らかにされています。神はヤコブにこのことを悟らせるために、この20年間の信仰の訓練の時を、試練と忍耐の時を備えられたのです。ヤコブの傲慢で人を欺く悪しき知恵を打ち砕くため、自己中心的で、他者の権利を奪い取ってでも自分のものにしようとする彼の自我を打ち砕くために、神はヤコブにこの20年間を備えたもうたのです。

 43節からは、ヤコブとラバンが和解したことを確かな証拠として残す契約の儀式のことが描かれています。この儀式には、古代の近東地方の契約の儀式の慣習がいくつか見ることができます。また、その形式はのちのイスラエルの礼拝に受け継がれ、さらには今日の教会の礼拝にも受け継がれています。その特徴のいくつかを挙げてみましょう。

 一つは、神がその契約の証人となるということです。49節、50節でラバンはこう言います。【49~50節】。ラバンはここでヤコブの神をのちモーセの時代に名づけられる「主」というお名前で呼んでいます。53節でもラバンとヤコブが共にそれぞれの神を契約の証人とすることが語られています。【53節】。永遠なる神、真実なる神のみ前にあって、人間と人間との間の契約の真実性が保証されます。イスラエルの礼拝において、またわたしたちの礼拝において、永遠なる神、真実なる神のみ言葉が語られ、そのみ言葉が神による罪のゆるしを与え、その罪のゆるしの確かさを保証するのです。

 第二には、動物のいけにえがささげられることです。【54節】。ここには詳しくは書かれていませんが、おそらく動物の血が両者の間の契約の確かさを保証していたと考えられます。さらには、そのささげられた犠牲の動物の肉を共に食することによって、契約当事者間の交わり、和解が確かめられます。46節にも共同の食事のことが語られています。これらの形式は、イスラエルの礼拝の形式として受け継がれ、主イエス・キリストによって、わたしたちの教会の礼拝のために成就されたということをわたしたちは知っています。

 第三に、契約の記念として石塚や記念碑が建てられ、それが契約の目に見えるしるしとされるということです。それが、その地の名称の由来にもなっています。

 このようにして、ヤコブとラバンは平和的に20年間の共同生活を終えて、ヤコブは故郷の地、カナンへと帰ることがゆるされました。そして、ヤコブとエサウとの再会、ゆるし合いへと続きます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは和解の主、平和の主、すべてのものを一つに結びつける主であられます。あなたは、あなたとわたしたち人間との間にあった罪という厚い壁を打ち破って、わたしたち人間と和解してくださいました。その和解のために、あなたの御独り子の血を犠牲としておささげくださいました。それによって、わたしたちはあなたとの永遠の和解を与えられ、あなたの民としてみ国へと招き入れられておりますことを覚え、心から感謝いたします。

○主なる神よ、どうかわたしたち全人類に真実の和解と一致をお与えください。この世界から争いや憎しみ、分断や差別を取り除いてくださり、互いに仕え合い、互いに重荷を負い合い、互いに痛みを分かち合う真実の交わりと共に生きる道をお備えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月30日説教「神に選ばれた信仰者」

2022年10月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記7章6~11節

    コリントの信徒への手紙一1章26~31節

説教題:「神に選ばれた信仰者」

  『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして続けて学んできました。きょうから新しい段落に入ります。『信仰告白』の1段落目は、「わたしたちが主と崇める神のひとり子イエス・キリストは」から始まり、「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」までは、以前の文語文では一続きの文章でした。口語文になってから二つの文章に分けられましたが、文章の主語はいずれも主イエス・キリストであることは変わりません。主イエス・キリストが最初の段落全体のすべての文章の主語です。ここでは、主イエス・キリストとはどのような方であるのか、またその救いのみわざがわたしたちとどうかかわるのかということが告白されていました。

 きょうからは、次の段落に入ります。「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ、功績なしに罪を赦され、神の子とされます」。ここでは、わたしたちがどのようにして信仰者とされるのか、またどのようにして罪から救われるのかが告白されています。きょうはその最初の部分、「神に選ばれて」という箇所を、聖書のみ言葉から学んでいきます。

 まず、この個所を1890年(明治23年)に制定された旧『日本基督教会信仰告白』と比較してみましょう。旧『信仰告白』ではこうなっていました。「凡そ信仰に由りて、之と一体となれるものは赦されて義とせらる」。今の信仰告白の3分の1ほどの長さです。新たに付加された言葉をいくつか拾い上げてみると、冒頭の「神に選ばれて」、それから「功績なしに」、「神の子とされます」などが追加されていることが分かります。これらの追加部分は、新しい『日本キリスト教会信仰の告白』の特徴になっています。

 日本キリスト教会は1951年に日本基督教団を離脱し、第3回大会の1953年10月に現在の『信仰告白』を制定しました。その際に、わたしたちの先輩たちが志したことは、戦時中に旧日本キリスト教会が正しい信仰告白をすることができず、国家に迎合し、アジアや世界に侵略していく戦争に反対できず、神の民としての時代の見張り役を務めることができなかったという教会の過ちを反省して、宗教改革者カルヴァンの流れをくむ改革教会の信仰と神学を取り戻さなければならないとの強い決断によって、この信仰告白を制定したのでした。

 その強い主張と特徴が、『信仰告白』の最初の文言の「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリスト」という告白に言い表されているということを、すでにわたしたちは学びました。この「主告白」は、かつて戦時中の教会が見失っていた告白であった、主イエス・キリスト以外のだれをも、いかなるものをも主としない。天皇であれ、国家であれ、軍隊であれ、あるいは国家総動員とか八紘一宇とかのスローガンであれ、この世の何ものをも主とはしない。ただおひとり、わたしたちの罪をゆるすために十字架で死なれた主イエス・キリストだけがわたしたちが信じ、従うべき唯一の主である。この「主告白」をいつの時代にも貫き通すことが、新しく歩みを始めた日本キリスト教会の大きな課題である。先輩たちはそのように考え、『信仰告白』の冒頭に「主告白」を置いたのです。

 それとともに、「神に選ばれて」「功績なしに」「神の子とされる」という新しい『信仰告白』で追加された文言も、同じような意図から、日本キリスト教会の信仰と神学の特徴をはっきりと言い表し、今の時代の中で、時代の中に埋もれてしまうのではなく、主キリストの証し人として、世の光・地の塩として生きるべきことを告白しています。

 さて、神の選びの教理は、特に宗教改革者カルヴァンが強調した教えであり、改革教会の大きな特徴でもあります。カルヴァンは著書『キリスト教綱要』の中で、神の永遠の選びの教理について詳しく述べています。彼が選びの教理を強調するのには、主に二つの理由、目的がありました。一つは、わたしたちの救いは神から一方的に差し出された神の恵み、神の憐れみという泉から湧き出たものであるということを明確にとらえるためであるということ。二つには、わたしたちの救いは、神の永遠のご計画の中に定められており、それゆえに確かであり、神と主キリストによって守られているという、わたしの救いの確かさを明確にするためであるということです。今日わたしたちが選びの教理について考える際には、この二つの中心的な目的からそれないように注意することが重要です。と言うのは、選びの教理はカルヴァン以前にも以後にも、さまざまに議論され、多くの間違った教理を生み出すことになったからです。

 カルヴァンの選びの教理はいわゆる「二重予定説」と言われます。「神は永遠の選びによって、ある者を救いに予定し、ある者を滅びに予定された」というのが二重予定説です。けれども、のちの一部の教会はこの教えを神の選びの恵みをせばめたり、神の裁きを強調するという誤った教えに導き、本来信仰者に選ばれた喜びと確信とを与える目的の教理が、不安や恐れを与える教えに変えられたという歴史がありますので、わたしたちは慎重にこの教理を扱わなければなりません。カルヴァンの予定説、選びの教理は、先に挙げた二つの中心的な目的、神の選びと救いが一方的な神の恵みと憐みによるものであるということと、神の選びと救いが永遠なる神のご計画の中にあるのであり、それは確かであるということ、この二つの中心的な目的から外れないようにすることが重要です。

 では、神の選びについて教えている聖書を読んでみましょう。最初は、ローマの信徒への手紙9章11~13節です。【11~13節】(286ページ)。神は人間が生まれるより前に、何かをなすより前に、すでにある人を選ばれ、その人を愛されます。神の選びは選ばれる人の人間的な何かによって決定されるのではなく、全く神の側の自由な、恵みの選びによることなのです。16節に、「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです」と書かれれているとおりです。カルヴァンの「二重予定説」と言われる教理も、このような神の永遠で、自由な恵みの選びと、神の大きな憐れみを強調しているのです。

 また、使徒パウロは、キリスト教会の迫害者であった彼が、神に選ばれて主キリストの福音を宣べ伝える使徒とされたのは、全く神の恵みによることであり、神のみ心によるのであると、ガラテヤの信徒への手紙1章15節で語っています。【15~16節】(343ページ)。神はパウロが生まれるよりも前に、彼を選ばれ、彼を主キリストの福音の宣教者としてお立てになっておられたのです。

 では次に、神の選びの特徴について申命記7章のみ言葉から学んでいきましょう。【7章6~8節】(292ページ)。ここには、神がイスラエルの民を選ばれ、彼らをエジプトの奴隷の家から救い出された、その選びの特徴がいくつか語られています。6節には、「あなたの神、主は地の表にいるすべての民の中からあなたを選び」と書かれています。神の愛と救いのみわざは、神の選びにその基礎と出発点を持っていることが分かります。神は全世界のすべての国民の中から、ただ一つの民、イスラエルだけをお選びになりました。神はご自身が選ばれた民イスラエルを用いて、この民を通して、救いのみわざをなさるのです。極端な言い方をすれば、神の選びがなければ、神の救いのみわざはだれにも分からないということです。神の救いのみわざは、もちろん天地創造の初めから全地において、全被造物を通して絶えず行われているのですが、もし神に選ばれた者がいなければ、だれもその救いのみわざに気づかず、それを信じることもできず、その証人となることもできないということになります。神に選ばれた民、選ばれた人だけが、神の救いのみわざを悟り、信じ、またそれを全世界に向けて証しすることができます。選ばれた信仰者は、いまだ選ばれていない人々に対して、神の救いのみわざを証しする人とされるのです。

 6節の前半には、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」と書かれています。聖とは、この世から選び分かたれ、神にささげられたものとされたという意味です。神に選ばれた民イスラエルは、神のものであり、神の所有であり、神のご支配と配慮のもとに置かれます。したがって、イスラエルの民は神の民、神の宝の民であり、他の何ものからも自由にされた、自由の民です。

 神の選びは、神の愛によることが7、8節で語られています。神の愛が選びの愛であることがここでは強調されています。だれをも平等に愛する普遍的な愛というよりは、もちろんそうでもあるのですが、だれも神の愛から漏れてはいないのですが、それ以上に、神の愛は選ばれた一つの民、ひとりの人に集中して注がれる、選びの愛です。神は愛によって選び、選ばれた者に愛を集中して注ぎます。

 さらに重要なことは、その神の愛の特質です。神の愛は、すべての民の中で最も貧弱であり、小さな民であったイスラエルに注がれたと7節に書かれています。神の愛は、わたしたち人間の愛の基準とは全く違っています。わたしたちの愛は、この世的な価値観から生まれ、またそれに左右されます。人間の愛は愛すべきものを愛します。愛すべき価値が消えれば、愛も消えます。人間の愛はすべて罪の中にあるからです。

 しかし、神の愛は、愛に値しいないものを愛します。神の選びは、選ばれるに値しない者を選びます。それは、神に選ばれ、神に愛される対象には全く左右されない、ただ純粋に神の恵みと憐みによる、神の自由な意思による選びであり、愛なのです。

 ここで、新約聖書で選びについて語っているコリントの信徒への手紙一1章26節以下を読んでみましょう。【26~28節】(300ページ)。ここでは、神の不思議な選びの目的が語られています。それは、人間が誇りとしている知恵や力を打ち砕くためだと言われています。さらに、29節以下ではこう語られています。【29~31節】。これこそが、神の不思議な選び、自由な、恵みの選びの最終目的なのです。神に選ばれた人は、そのことを誇ることはだれにもできません。ただ、神の恵みの選びを感謝し、神の栄光をほめたたえるのです。

 もう一度、申命記7章に戻りましょう。ここで、神の選びの愛のもう一つの特徴は、神の愛はイスラエルを奴隷の家エジプトから救い出す神の救いのみ力として働くいうことです。神の選びの愛は、当時世界最強の国であったエジプトとその王ファラオの支配から、奴隷の民イスラエルを数い出しました。神の選びの愛は救いの力として働きます。神の選びの愛は、主イエス・キリストによる罪のゆるしの力として、わたしたちに働きます。

 神の選びのさらなる特徴は、神の選びの愛は神の契約に基礎づけられているということです。8節に、「あなたがたの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」と書かれています。神の選びの愛は、一時的な感情ではありませんし、あるいは偶然に思いついた愛ではありません。それは永遠なる神の契約に基づいています。神は族長アブラハムと契約を結ばれました。その子イサク、その子ヤコブと契約を更新されました。そして、ヤコブの12人の子どもたち、イスラエルの民へと契約は受け継がれ、ダビデ王との契約で更新され、ついにはダビデの子孫から出たナザレのイエスをお選びになり、この主イエス・キリストによって、新しい神の民である教会と新しい契約を結ばれたのです。神の選びの愛は、永遠なる神との契約に基づいています。時代が変わり、世界が代わっても、神の選びの愛は変わることはありません。ここにこそ、選ばれる人間の側の条件には左右されない、ただ神の一方的な恵みと憐みによる選びと救いがあり、またそれゆえにこそ、わたしたちの選びと救いの確かさがあるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画の中に、わたしたち一人一人をも招き入れてくださり、この滅びにしか値しない罪多き者をも、主キリストの救いにあずからせてくださいますことを信じ、心からの感謝をささげ、み名のご栄光をほめたたえます。どうか、全世界において、あなたのご栄光が現わされますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月23日説教「エルサレムの教会に対する大迫害と教会の成長」

2022年10月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記1章6~14節

    使徒言行録1~8節

説教題:「エルサレム教会に対する大迫害と教会の成長」

 キリスト教会最初の殉教者となったステファノの死は、誕生して間もないエルサレム教会にとって、どんなにか大きな衝撃であり、試練であったことでしょうか。教会はこれまでも二度の迫害を経験していました。一度目は、4章1節以下、ペトロとヨハネが捕らえられ、裁判にかけられました。二度目は、5章17節以下、12人の使徒たち全員が逮捕され、迫害が広げられました。そして今回は、エルサレム教会で選ばれた7人の奉仕者たちの一人ステファノが石打の刑で処刑され、教会員の血が流されるという、より深刻で、衝撃的な迫害となったのです。

 しかし、初代教会が受けた迫害はこれにとどまりませんでした。8章1節にこのように書かれています。【1節】。最初の殉教者ステファノの死は、同じ日に起こったエルサレム教会に対する大迫害の合図となったのです。使徒言行録では、この個所で初めて「迫害」という言葉が用いられます。しかも、それに「大」を付けて「大迫害が起こった」と書かれています。ステファノの死と教会員のエルサレム市内からの追放という二重の大きな試練が、エルサレム教会を襲ったのです。教会はこの試練にどのように立ち向かったのでしょうか。教会はこの試練の中で、どのようにしてなお生き延びることができるのでしょうか。使徒言行録を読むこんにちのわたしたちにも、大きな緊張感が走ります。

 「使徒たちのほかは皆」と書かれています。使徒たちとは主イエスの弟子であった12人を指しますが、彼らはエルサレムに留まることがゆるされたけれども、それ以外の教会員は、おそらくこのころは少なくとも5千人の教会員はいたと推測されますが、その全部がエルサレム市内から追放されたということを言うのか。そうなれば、エルサレム教会の存続そのものが不可能になるのではないかと思われます。ところが、このあとの使徒言行録にはエルサレム教会にある程度の教会員が残っていたと思われる記述がいくつかありますので、「ほかは皆」という表現は「ある特定のグループは皆」という意味ではないかと多くの研究者は考えています。

 エルサレム教会には、生まれた時からエルサレムを離れずに住んでいたユダヤ人、彼らはヘブライ語を話していたのですが、その人たちをヘブライストと一般的に呼びます。彼らのほかに、一度エルサレムから諸外国に出て行き、最近になってエルサレムに戻って来た、ギリシャ語を話すヘレニストと言われるユダヤ人とが住んでいて、エルサレム教会の中でもやもめたちの日々の分配のことでその両者に多少の争いがあったということが6章に書かれていました。その問題解決のために選ばれた7人の奉仕者の一人がステファノでした。当時のこのようないきさつから推測して、エルサレム市内の住民の間でも、もとからこの町に住んでいたヘブライストと諸外国から戻って来たヘレニストとの間にある種の軋轢があったのではないか。それが、今回のステファノの死刑判決と殉教がきっかけとなり、ステファノはヘレニストだったと思われますので、エルサレム教会のギリシャ語を話すヘレニストと言われる教会員の追放になったのではないか。しかし、ヘブライ語を話すヘブライスト、12人の使徒たちもそうですが、彼らはエルサレム市内に留まることをゆるされた、というのが実態ではないかと、多くの研究者は推測しています。

 しかし、そうであるとしても、この大迫害がエルサレム教会に与えた打撃は限りなく大きいものでした。教会の有能な働き人であったステファノを失いました。他の6人の奉仕者も、その名前から推測してみなヘレニストでしたから、ギリシャ語を話すヘレニストの教会員と一緒に追放されました。少しずつ整えられつつあった教会の体制は、一気に崩されてしまいました。教会はこの危機をどのようにして乗り越えていくのでしょうか。

 【2節】。「信仰深い人たち」については二つの理解ができます。一つは、ユダヤ教の信者たちで、信仰深い人々。もう一つは、エルサレムに残っているキリスト教の信者たち。いずれにしても、ここで強調されていることは、ステファノの殉教の最後の姿に真実な信仰を見た人たちが多くいたということです。主イエスの十字架の死の場面を見たローマ軍の百人隊長が、「本当にこの人は神の子だった」と告白したように(マルコ福音書15章39節)、石打の刑で処刑されながら徹底して神への信仰を貫き通し、それのみか自分を裁いているユダヤ人指導者たちの罪のゆるしを祈っているステファノの姿は、多くの人の心を打ち、彼の遺体を手厚く葬るという行動へと至らせたのです。処刑された犯罪人に対しては、公然と葬儀を行ったり、死者への悲しみを面に出したりすることは禁じられていたにもかかわらず、彼らはステファノを処刑したユダヤ人指導者者たちへの抗議でもあるかのように、彼の死を悲しんだということがここには言い表されています。

 誕生して間もない若い教会は、この世からの迫害に対抗して身を守る術を何も持っていません。反撃したり、抗議したりする力もありません。教会は弱く、貧しく、無力であるように見えます。迫害の血を流し、この世から追放されるほかにない、憐れな群れであるかのように見えます。けれども、教会は迫害によってもこの世界から撤退することはなく、消え去ってしまうこともありません。むしろ、人間的な弱さの中にこそ、教会の本当の力と命が、それは天の父なる神から与えられるのですが、その力と命が現れ出るのです。

 次に、【4節】。大迫害によりエルサレム市内と教会から追い出された信仰者たちは、決して信仰そのものを失ってしまったのではありませんでした。信仰を捨てて、再びこの世の朽ち果てるものを追い求める生活へと戻っていったのでもありませんでした。彼らは神のみ言葉を捨てたのではありません。主イエス・キリストの福音を語る口を閉ざしたのではありません。いや、むしろ、散らされた信仰者たちによって、主イエス・キリストの福音の種がより広い地域へ蒔かれることになったのです。

 宗教改革者カルヴァンは注解書の中でこのように書いています。「このように、彼らの神はやみの中から光を、死から命を引き出すのを常となさった。というのは、一つの場所でしか聞かれなかった福音の声が、今や至る所で鳴り響くからである」。主キリストの福音がエルサレムからパレスチナ全域へと、さらには全世界へと拡大されていくきっかけが、実にエルサレム教会が経験した大迫害だったのだということを、わたしたちは知らされるのです。

 彼らは必ずしも自ら進んで福音の種をまくために出て行ったのでありませんでした。エルサレムからの強制退去によって、いわば外からの圧力に強いられて出て行ったのでした。また、追い出された彼らは、次の迫害を恐れてどこかに身を隠したり、この世から姿を消して部屋の中に閉じこもっていたのでもありませんでした。彼らは神のみ言葉を宣べ伝えながら、巡り歩いたと書かれています。大迫害を経験した彼らにとっても、神の言葉は決してこの世の鎖につながれてはいませんでした。この世からの圧力によってもその力と命を失ってはいませんでした。人間の弱さ、教会の弱さの中でこそ、神のみ言葉はその偉大な力と命を発揮するのです。神のみ言葉はエルサレムだけにとどまらず、ユダヤ全域に、北の異邦人の地サマリアへ、さらにはパレスチナ全域を行きめぐり、小アジアからヨーロッパへと拡大されていくのです。

 このようにして、1章8節で、復活された主イエスが弟子たちにお命じになったみ言葉、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」との約束のみ言葉が、エルサレム教会を襲った大迫害をとおして成就されていくのです。これはまさに神の奇跡のみわざです。

 8章1節と4節に「散って行った」という言葉がありますが、これは元のギリシャ語は文法的には受動態で「散らされていった」という意味です。意味上の主語は何かと考えるなら、教会を迫害したユダヤ人指導者たちが挙げられるかもしれませんが、以前にもお話したように、聖書では受動態で意味上の主語がはっきり語られない場合の多くは神が主語と考えられています。ここでもそのように理解すべきです。信仰者たちをユダヤ、サマリアとパレスチナ全域へ、さらには全世界へと散らし、その散らされた地で神のみ言葉を宣べ伝えさせ、主キリストの福音を語らせたのは、神ご自身なのです。彼らを導かれたのは聖霊なる神なのです。1章8節で、主イエスが「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、……地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われたのは、そのことであったのです。たとえ、人間的な弱さと教会の無力さの中にあっても、否むしろ、そのような時にこそ、神はその偉大な力と命とを発揮なさいます。

 きょうの聖書の個所で、もう一つ目を引くことがあります。それは、ここにサウロという名前が何度も出てくるということです。ステファノの処刑の時、7章58節で、8章1節と3節、計3回もサウロの名前が挙げられています。もちろん、サウロはのちの使徒パウロのことです。エルサレム教会が経験した最初の殉教者と大迫害のこの場面にパウロの名前がたびたび出てくる。7章58節ではステファノの石打ちの刑のわき役として、8章1節ではステファノ殺害に責任を持つ一人として、そして8章3節では、教会迫害の張本人として、それどころか迫害運動の首謀者として、その名前が挙げられています。

 使徒パウロのその後の活動をよく知っているわたしたちは、ここに登場してくる教会の迫害者であったサウロ・パウロがやがて人間の目には図り知ることのできない神の深いみ心と、永遠の救いのご計画によって、教会の偉大な宣教者とされるという、神の大きな奇跡のみわざを思い知らされるのです。パウロは使徒言行録22章19節以下で、ダマスコで復活の主イエス・キリストに出会い、回心した時のことを回想しています。【22章19~21節】(259ページ)。

 神はエルサレム教会が経験した最初の殉教者の血と大迫害をお用いになって、主イエス・キリストの福音と教会を全世界へと拡大していくきっかけをお与えになったように、神はまた、教会の迫害者パウロをもお用いになって、主イエス・キリストの福音と教会とを全世界へと拡大していく具体的な道をお備えになったのです。カルヴァンが言ったように、神は闇から光を創造され、死から命を生み出され、無から有を呼び出だされたのです。

 わたしたちもまたこの神を信じる信仰へと招かれています。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、わたしたちを罪から救い、罪によって死すべきわたしたちを永遠の命に生かしてくださる神を信じる信仰へと招かれています。そして、この主キリストの福音を全世界に宣べ伝える宣教の務めへと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子の血によって贖い取ってくださったあなたの教会の民を、どうかみ国の完成の時まで守り、導いてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月16日説教「悪霊にとりつかれた人をいやされた主イエス」

2022年10月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編51編1~14節

    ルカによる福音書8章26~39節

説教題:「悪霊に取りつかれた人をいやされた主イエス」

 主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤ湖の北西沿岸の町カファルナウムから船出して向こう岸に渡っていきました。途中、激しい嵐に会い、舟が沈みそうになりましたが、主イエスが神の権威と力によって風と荒波とをお叱りになって嵐を静められ、舟は無事に対岸に着きました。その地は、26節によれば、ゲラサ人の地方と言われています。

 当時、ガリラヤ湖の東側一帯はデカポリス(10の都市と言う意味)と呼ばれ、そこの住民はほとんどがユダヤ人以外の異邦人でした。ローマ政府が直接統治していた異教徒の地でした。その地で豚を飼っている人がいたのはその理由によります。というのは、ユダヤ人にとって豚は宗教的に汚れた動物で、飼育することもその肉を食べることもしなかったからです。

 主イエスがそのような異邦人の地へ出かけ、異邦人に福音を宣べ伝えたということは、福音書では非常にまれなことです。主イエスがユダヤ人の地で異邦人に伝道したことや異邦人をいやされたという記録はいくつかありますが、異邦人の地へ出かけて行って、異邦人に伝道したという記録はここだけです。その意味で、きょうの個所には大きな意味が含まれているといえます。

 最初に、そのことについて少し考えてみましょう。主イエスの福音宣教の範囲はユダヤ人の地に限られ、その対象もユダヤ人にほぼ限定されていました。それは、神が、旧約聖書に書かれているように、最初にユダヤ人、イスラエルの民をお選びになり、この民と救いの契約を結ばれたからです。けれども、この神とイスラエルとの契約は、一つの民族だけの救いを目指していたのではありませんでした。神は先に選ばれたイスラエルの民によって、やがてその救いのみわざが全世界のすべての国民へと拡大されていくことを最初から計画しておられました。神の限りない恵みと慈しみ、全人類に対する大きな愛が、イスラエルの民をとおして証しされていたのです。そしてついに、主イエス・キリストによってその神の救いのみ心が明らかにされました。主イエスはすべての罪びとのために十字架で死んでくださり、すべての人の罪が主イエスの尊い血の贖いによってゆるされ、救われるということを明らかにされました。神は主イエス・キリストによって、新しい教会の民をお選びくださり、全世界に建てられる教会によって、主キリストの福音がすべての人に宣べ伝えられるようにされたのです。これが神の永遠の救いのご計画でした。

 このことから、きょうのルカ福音書のゲラサ人の地での福音宣教と救いのみわざを見てみると、この出来事はやがて教会が誕生し、主イエスの福音が全世界に宣べ伝えられることの、いわば先取りであり、そのことをあらかじめ預言していることになります。十字架につけられ、三日目に復活された主イエスが、弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ福音書16章15節)とお命じになられたように、異邦人伝道、全世界への福音宣教は、主イエスご自身が最初からご計画しておられたことなのです。わたしたちはその主イエスのご計画に従って、こんにちこの日本で、この秋田で、福音宣教のわざのために仕えているのです。

 では、26から27節を読みましょう。【26~27節】。『新共同訳聖書』では、27節の後半は「男がやって来た」と翻訳されていますが、この文章の主語は前半と同じ主イエスと考えるのがよいと思われます。つまり、「イエスは陸に上がられた」「その時、イエスはこの町の者で悪霊に取りつかれている男と出会った」と訳すがよいように思われます。『口語訳聖書』ではそのように訳されていました。この人は人里離れた墓場を住まいとし、他の人にはできるだけ会わないようにしていたのですから、その人が主イエスの方に近づいてきたと考えるよりは、主イエスの方がその人のところへと近づいて行かれ、その人と出会われたと考えるの自然ですし、その方が主イエスご自身の意図でもあったと考えるべきでしょう。

 悪霊に取りつかれていたこの人は、29節にも書かれているように、彼自身の心も体もすべてが悪霊の力によって支配され、自分で自分をコントロールできないほどに凶暴な力を発揮して、人々に恐怖を与えていました。彼はほとんど人間であることを失い、30節では彼自らが自分の名前は「レギオンです。男百何千もの悪しき霊、汚れた霊が自分の中に住み、自分を支配しているからです」と答えているほどでした。レギオンとはローマの軍隊で、歩兵6千人と数百の騎兵で構成されている部隊のことです。それほどの驚異的な力の悪しき霊によって自分が占領され、支配されていると告白しているのです。彼の住みかが墓場や荒れ野であったように、彼は常に死と直面し、絶望と暗闇が彼を覆っていたのです。

 けれども、主イエスがそのような彼と出会ってくださいます。そのような彼に主イエスが近づいて行かれます。そして汚れた霊に向かって「この男から出て行け」とお命じになりました。すると、悪霊に取りつかれている人が言いました。彼が言ったというよりは、彼の中に住んでいる何百何千もの悪霊が言っていると表現した方が適当かもしれませんが。

28節を読みましょう。【28節】。ここで、彼は、あるいは悪霊はと言うべきでしょうが、主イエスのみ前にひれ伏し、主イエスを「いと高き神の子イエス」と呼んでいます。これはどういうことでしょうか。「いと高き神の子」という言葉はこの福音書の1章32節にもあります。【1章30~33節】(100ページ)。これは神から遣わされたメシア・救い主キリストへの正しい信仰告白です。だとすれば、悪霊は主イエスを全世界の唯一の救い主だと信じ、告白しているということなのでしょうか。そうではないでしょう。悪霊は主イエスに敵対している罪の力ですから、これは主イエスに対する正しい信仰告白ではもちろんありません。悪霊自身がこの人の口を借りて「自分たちには構わないでくれ。頼むから自分たちを苦しめないでくれ」と懇願しているのですから、これが悪霊の正しい告白でないことは明らかです。

これと同じような状況がすでに4章34節に書かれていたことを思い起こします。【4章34節】(108ページ)。ここでも学びましたように、悪霊や汚れ霊は人間をはるかに上回る力や知恵(それは悪しき知恵ですが)、霊的力(これも悪しき霊の力ですが)を持っていて、人間が気づくことができず、知ることもできない真理のようなものを直観的に悟る能力を持っていたので、弟子たちでさえもまだ信じることができなかった主イエスの本当の正体を感じ取ることができたのではないかと考えられます。とは言っても、もちろんそれが主イエスに対する正しい認識でも正しい信仰告白でもないことは言うまでもなく、主イエスはそのような悪霊の告白を受け入れることはありません。それを拒絶なさいます。悪霊に向かって「黙れ、この人から出て行け」とお命じになったと、4章35節に書かれていました。

きょうの個所でも同じです。主イエスは悪霊の力も権威も、その偽りの告白をも受け入れることはありません。主イエスはいと高き神の権威と力とによって、悪霊を支配され、滅ぼされます。それがおできになります。そのことを知っている悪霊は、自分たちが完全に滅ぼされてしまうことを恐れて31節に書かれているように、「底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないように」と主イエスに懇願しています。そして、悪霊たちは主イエスに豚の中に入る許可を求めたと32節書かれています。主イエスはそれをおゆるしになりました。

けれども、主イエスは悪霊たちがこれからもずっと豚の中で生き延びることをおゆるしになったのではありませんでした。豚の中に乗り移った悪霊は、豚と一緒に崖を下って、ガリラヤ湖の底に沈んで死んでしまったと33節に書かれています。

主イエスは悪霊に勝利されました。そして、このようにして、悪霊に取りつかれていた人を悪霊の支配から解放され、彼を死と暗闇の中から救い出されました。【35~36節】。主イエスが神の権威と力によって、悪霊に勝利され、死んでいた人を生き返らされる時、それを見た人々は恐れざるを得ません。神の奇跡を見る時、人はみな大きな恐れにおそわれます。主イエスのお働きの中に天におられる神の現臨を、全能の父なる神の救いのみわざを見るからです。ここでは、主イエスが十字架の死と復活によって明らかにされた罪と死に対する勝利がすでに暗示されているのです。それゆえに人々は主イエスの救いの福音を、この異邦人の地で語り伝えるということが起こっているのです。ここにすでに、後の世界の教会の働きが暗示されているのです。

37節からは、主イエスのこの救いのみわざを見たゲラサ地方の人々の反応が書かれています。【37節】。主イエスが神の権威と力によって悪霊に勝利するという神の救いのお働きを見た彼らの恐れは、しかし信仰には至りませんでした。一人の人が悪霊の支配から解放され、救われたという、この驚くべき救いのみわざを信じ、主イエスに従っていく信仰の決断をする人は、いやされたその人以外にはいませんでした。この地方の人々は主イエスにここから立ち去ってもらいたいと願いました。一人の人が救われたという神の恵みに感謝するよりも、彼らが飼っていた家畜が悪霊と一緒に湖に沈んで死んでしまったという、損失をこうむったことの方を、重大視したのでしょう。これ以上自分たちの財産を失いたくないと考えたのでしょう。

しかし、主イエスにとっては一人の人が悪霊の支配から解放され、救われたということは、全世界を手に入れるよりもはるかに尊いことなのです。主イエスは言われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ16章26節)。またこうも言われました。「二羽のすずめが一アリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のおゆるしがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんのすずめよりもはるかに勝っている」(マタイ福音書10章29~30節)。

主イエスによって悪霊から解放され、救われた人は、主イエスと一緒に働きたいと申し出ましたが、主イエスは彼にこう言われました。【39節】。彼は、異邦人の地に留まり、異邦人に向かって主イエスの福音を語り伝える最初の人となりました。彼はのちの時代に全世界に建てられる教会の、最初の宣教者となりました。主イエスと出会い、主イエスの救いの恵みにあずかった人は、主イエスの福音を語り伝える人へと変えられます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは天地創造の初めから今に至るまで、そして終わりの日に神の国が完成される時まで、恵みと慈しみとをもって、また義と愛とをもって、すべての造られたものをご支配し、導いておられます。どうか、この地においてあなたのみ心が行われますように、あなたの救いのみわざが全世界のすべての人たちに実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月9日説教「ヤコブの子どもたち」

2022年10月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記30章1~24節

    ローマの信徒への手紙11章25~36節

説教題:「ヤコブの兄弟たち」

 創世記29章31節から30章24節までに、ハランにいる伯父ラバンの家で働いていた20年間にヤコブに生まれた11人の子どもたちの誕生について、その名前の由来について書かれています。ヤコブはのちに32章29節で神によってイスラエルと名前を変えられますが、彼に生まれたこれらの11人の子どもと、35章18節で最後に生まれた子どもベニヤミンを加えて12人が、エジプトを脱出してからイスラエルの12部族を形成することになります。そして、やがて神の約束の地カナンに入り、その地で神の民イスラエルとして生きていくことになります。

聖書がここでそれらの子どもたちの誕生について、またその名前の由来について詳しく語っているのは、その理由によります。神に選ばれた族長アブラハム、その子イサク、その子ヤコブから、神に選ばれた民イスラエルへと神の契約、すなわちアブラハム契約が受け継がれていくのです。「わたしはお前とお前の子どもたちを永遠に祝福する。お前の子どもたちは空の星の数ほどに、海辺の砂の数ほどに増えるであろう。そして、わたしはお前とお前の子どもたちに乳と蜜が流れる麗しい地カナンを、それはわたしたちキリスト者にとっては神の国のことなのですが、その地を永遠の嗣業として与える」。この神の契約、神の約束のみ言葉が、族長からイスラエルの民へと、そして主キリストの教会の民へと受け継がれていくのです。

 29章31節以下のヤコブとレアとの間に生まれた4人の子どもについては、前回少し触れましたが、改めて31節を読んでみましょう。【29章31節】。「レアが疎んじられている」とは、30節に書いてあるように、ヤコブがラバンの二人の娘のうち姉のレアよりも妹のラケルの方を愛していたということを言います。ヤコブはラケルと結婚したいと願って、そのために7年間ラバンの家で働きましたが、ラバンに欺かれ、レアと結婚させられました。ヤコブはラケルと結婚するためにさらに7年間、働かなければなりませんでした。それでも、ヤコブは愛するラケルのために、14年間もラバンの家で一生懸命に働きました。

 それほどのラケルに対するヤコブの大きな愛に逆らうかのようにして、神はラケルをではなく、ヤコブに疎んじられていたレアの方を顧みられ、彼女に子どもを賜ったと書かれています。伯父ラバンによってだまされたヤコブは、今また神ご自身によっても拒絶されているのです。カナンの地で父母の家にいた時には、何でも自分の思いどおりに事が運び、傲慢で悪賢いヤコブでした。母と結託して、父と長男エサウとを欺いて、長男の権利をエサウから奪い取り、それによってエサウの怒りを買い、カナンから1千キロも離れたハランの地の伯父ラバンのところに逃亡してきたのでしたが、そのヤコブが今は全く自分の思いどおりにはいかず、人に欺かれ、人生の試練を経験しなければならず、神からも裁きを受けなければならなくなっているのです。ヤコブはここで神のみ前に謙遜になることを学ばなければなりません。自分の願いを達成することが重要なのではなく、神のみ心が行われることこそが、自分の生涯にとって最も大切であるのだということを学ばなければなりません。

 32節から、ヤコブとレアとの間に生まれた4人の子どもの名前書かれています。最初の子どもはルベンと名づけられました。「それは、彼女が、『主はわたしの苦しみを顧みてくださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない』と言ったからである」と32節に説明されています。神は、ヤコブが愛したラケルよりも、疎んじられていたレアの方を顧みられます。神は苦しむ人、悲しむ人、虐げられている人を顧みられ、その人に恵みをお与えになります。それによって、神はいつくしみ深く、どんなに小さなものをも見捨てず、み心に留められる神であることをお示しになり、そのみ名があがめられるのです。

 レアはここで神をあがめるとともに、子どもの誕生は神から与えられる恵みであり、祝福であることを告白しています。このあとの子どもの誕生も、すべて神からの賜物です。子どもの命はすべて神から与えられたもの、すべて神に属するものであるということを、聖書は繰り返して教えます。それは親の所有ではありません。国家のための命でもなく、働き手とか経済活動とかのためでもありません。神から与えられた、神のための命です。

 すべての命が神から与えられた命であることが、子どもの名前を付ける際の親の信仰告白として現わされます。ヤコブの12人の子どもたちの名前もすべて親の信仰告白です。神の恵みを感謝する信仰が子どもの名前になります。ちなみに、イエスという名前、旧約聖書のヘブライ語ではヨシアとかヨシュアとなりますが、これは「神は救いである」という意味です。もっとも、この名前は両親のヨセフとマリアが選んだのではなく、主なる神ご自身がその子が生まれる前からすでに決めていた名前でしたが、そして、事実、神はこの子、主イエスによってご自身の救のみわざを成就してくださったということを、わたしたちは知っています。

 二人目の子どもはシメオンです。「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ、またこの子をも授けてくださった」(33節)とレアは告白します。三人目の子どもはレビ、これは「結びつく」という意味のヘブライ語に由来します。四人目はユダ、「今度こそ主をほめたたえよう」(35節)とレアが言ったように、「ほめたたえる」というヘブライ語に由来します。

 次に、30章1~2節を読みましょう。【1~2節】。この個所の理解は大きく二つに分かれます。一つは、ラケルが自分に子どもができないのはあなたに原因があるのだとヤコブを非難したのに対して、ヤコブは自分のせいではない。神がそうなさったのだと言い訳をしているという解釈です。しかし、ここでヤコブは神のみ心を理解し始めていると解釈する方が良いように思われます。ヤコブはラケルを愛していたのですから、当然ラケルに子どもが与えられることを望んでいたでしょう。自分とレアとの間には子どもが与えられているのに、愛するラケルとの間になぜ子どもができないのだろうかと悩んでいたはずです。にもかかわらず、ラケルとの間に子どもが与えられないのは、神のみ心なのだと気づき始めていたと解釈するのがよいように思います。子どもを宿らせるのも、そうでないのも、すべては神のみ心であるということが聖書の信仰です。わたしたちは祈りつつ、神のみ心を尋ね求めるのです。

 妻との間に子どもができない場合には、その家の召し使いとの間にできた子どもを妻の膝の上に置くことによって、妻の子どもとして認められたという習慣があったことは16章でも触れました。ラケルは召し使いビルハによって自分の子どもを得ようとします。ビルハはヤコブとの間に最初の子どもを産んだので、ラケルは6節でこう言います。【6節】。ビルハはまた二人目の子どもを産みました。【8節】。ダンは5人目、ナフタリは6人目の子どもになります。ラケルは召し使いビルハとヤコブとの間に生まれた二人の子どもを、神が自分たちにお与えくださった子どもたちとして感謝して受け入れます。神は人間同士の妬みや醜い争いの中でも、ご自身の救いのご計画を着々とお進めになっておられることを、わたしたちはここから知らされます。

 9節からは、レアの召し使いジルパとの間の二人の子どもの誕生が書かれています。一人はガド、これは「幸運」という意味のヘブライ語に関連しています。次はアシュル、これは「幸せ」という意味のヘブライ語に由来しています。ヤコブの7人目、8人目の子どもです。レアは「何と幸運なことか」「何と幸いなことか」と言って、レアの召し使いジルパとヤコブとの間の二人の子どもを、神から与えられた自分たちの子どもとして、感謝して受け入れます。

 14節からは、恋なすびを巡ってのレアとラケルの駆け引きが語られます。恋なすびの正式な名称はマンドレイクと言うようですが、プラムほどの大きさの黄色い、香りが良い実で、古代から愛の妙薬と言われていたそうです。ラケルは自分に子どもが与えられないので、その恋なすびを手に入れようとして、レアと交渉をします。レアとラケルの恋なすびを巡ってのやり取りのあとで、17節にはこう書かれています。【17節】。また、【22~23節】。レアの場合にもラケルの場合にも、彼女たちに子どもが与えられたのは恋なすびの効果によるのではなく、神の顧みと恵みによるのだと聖書ははっきりと語っています。

 レアの5人目の子どもはイサカル、その名前の意味は【18節】。6人目の子どもはゼブルン、その名前の意味は【20節】。これがヤコブの9人目と10人目の子どもになります。二人の妻の争いはまだ続いていますが、神はここでもまた、疎んじられていたレアを顧みられ、豊かな恵みをお与えになり、そのようにして神の永遠の救いのみわざをお進めになっておられます。

 ヤコブが愛したラケルにはもう何年もの間子どもが与えられませんでした。30章には夫であるヤコブについてはほとんど語られてはいませんが、彼がこの間、何を思っていたかを推測することはできます。愛するラケルと結婚するために7年間伯父ラバンのために働きました。ラバンの策略によって、もう7年間働かされることになりました。それでも、愛するラケルに神は子どもをお授けにはなりません。ヤコブはここに神の裁きを見ていたに違いありません。神が信仰の試練を与え、彼の信仰を訓練しておられるということに、ヤコブは気づいていたのかもしれません。わたしたちはヤコブの20年間の逃亡生活の終わりに、兄エサウとの再会を前にした彼の告白を、ここであらかじめ聞いておきたいと思います。【32章10~13節】(55ページ)。ヤコブは20年間の試練に満ちたラバンの家での逃亡生活の中で、このことを神から学ばしめられたのです。

 その神の隠されたみ心がある程度成就された時になって、ようやくにしてラケルに子どもが与えられました。「神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れ、その胎を開かれたので」と22節に書かれていますが、この文章の主語はすべて神です。神が御心に留めてくださいます。神が願いを聞き入れてくださいます。神が彼女の胎をお開きくださり、子どもをお授けになります。

 ラケルの最初の子、ヤコブの11人目の子どもは、ヨセフです。ヨセフの名前の意味には二つの説明があります。一つは、「すすぐ、摘み取る」というヘブライ語、もう一つは「付け加える」というヘブライ語です。どちらもヨセフという発音に似ているヘブライ語です。ラケルのもう一人の子ども、ヤコブの12人目の子ども、35章で語られるベニヤミンの誕生がここで暗示されています。

 ヨセフについて最後に少し触れておきます。創世記37章から、いわゆるヨセフ物語が始まります。ヨセフは当然のことながら両親に最もかわいがられ、ほかの子どもたちとは違って特別扱いされていましたので、兄たちの反感を買い、エジプトに売られることになります。エジプトでのヨセフの数奇な生涯が創世記の終わりの50章まで続きます。そしてついには、ヤコブ・イスラエルの他の子どもたちもみんな一緒にエジプトに移住することになり、エジプトでの400年余りの寄留の生活の後、モーセを指導者とした出エジプトへと、そして約束の地カナンでのイスラエルの信仰の歩みが続いていくことになります。神の壮大な救いの歴史はこれからもまだまだ続くのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが族長アブラハムをお選びになって具体的にお始めになった全世界、全人類の救いのみわざの中に、わたしたちをもお招きくださっておられますことを覚え、あなたの大いなる恵みと慈しみとを心から感謝いたします。この世界は未だ救いの完成の途中にあり、破れや痛みや苦しみの中にあります。けれども、あなたは確かにこの救いの歴史を完成させてくださることを、わたしたちは信じます。願わくは、病んでいるこの世界をあなたが憐れんでくださり、顧みてくださり、、あなたの救いのみ心を行ってください。

主イエス・キリストのみ名によって、アーメン。