7月30日説教「聖霊なる神の働きー聖霊の実」

2023年7月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(25回)

聖 書:出エジプト記20章1~17節

    ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節

説教題:「聖霊なる神の働き―聖霊の実」

 『日本キリスト教会信仰の告白』の前文の中で、聖霊なる神のお働きについて告白されている箇所を学んでいます。『信仰の告白』で聖霊について告白されているのは次の3箇所です。今学んでいる箇所の前文2段落目、二つ目の文章、「また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」。次は、同じ前文の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し……」。そして、後半の『使徒信条』では第三項目、「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを信じます」。この全体が聖霊なる神に関する告白と考えられます。

 このように見ると、日本キリスト教会は聖霊についてそれほど強調はしないと前回申し上げましたが、告白されている文章の量やその内容から言えば、父なる神、子なる神・主イエス・キリストとほとんど同じほどに聖霊なる神のお働きを重んじているというべきです。決して聖霊を軽んじているということではありません。ただ、実際には、礼拝説教の中で、あるいは聖書の学びの中で、聖霊を取り上げることは、確かに少ないというのは認めなければなりません。そこで、数少ない機会に、聖霊について正しい理解を深めるように心がける必要があります。

 きょうは、「聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」の後半部分、「御心を行わせる」という箇所を、聖書のみ言葉に導かれながら学びます。

「御心を行なわせる」の主語は聖霊です。また、「聖化し」の後にすぐ続けて「御心を行わせる」と続くので、「御心を行わせる」のは聖霊の聖化のお働きの一部、あるいはその結果という意味に理解すべきと考えられます。聖霊がわたしたち信仰者を日々に聖化し、この世に属する者からわたしたちを区別し、神に属する者たちとし、神にささげられた聖なる者たちとし、また主キリストに似た者たちとするという聖化のお働きは、わたしたち信仰者が神のみ心を行う者たちとして造り変えられていくということなのです。そして、聖霊の実を結ぶようになるということなのです。

 聖書はこのような聖化の働きと聖霊の実を結ぶことについてどう教えているでしょうか。【ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節】。ここでは、霊の導きに従って歩む信仰者の新しい生き方について語られています。それは、聖霊なる神のお働きによって聖化の道を歩む信仰者の新しい歩みのことです。ここで強調されていることは、信仰者が生きる主体となるのは常に聖霊なる神であるということです。わたしが自分の道を切り開いて歩まなければならないのではなく、またそうすべきでもなく、聖霊がわたしに働かれ、聖霊がわたしの道を導かれ、聖霊がわたしのすべての行動、考えの主体となってわたしを導かれるゆえに、わたしはその聖霊の導きに従うのだということです。『信仰の告白』では「御心を行なわせてくださいます」と表現しているのはそのことです。文語文では「御心を行なわしむ」となっていました。聖霊なる神の強い意志、導きが強調されています。わたしがこの聖霊なる神の強い意志を知り、信じ、それに服従する時、聖霊はわたしを神のみ心にかなった歩みへと造り変え、導いてくださるのです。

 この箇所で繰り返して語られているもう一つのことは、聖霊の導きによって歩む生き方は、肉によって歩む生き方と真っ向から対立するということです。【17節】と書かれています。「肉によって歩む」とは、生まれながらの人間の生き方のことです。それは罪に支配されています。罪に支配されているので、自分でこうしたいと願っていても、それを行うことができないという弱さを持っています。人間の心も意志も行動も、すべてが罪の奴隷とされているからです。

 ガラテヤの信徒への手紙の著者であるパウロは、彼自身がそのような弱さを持つ人間であることを強く自覚していました。彼はローマの信徒への手紙7章18節以下でこのように語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それが実行できないからです。わたしは自分が望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのはもはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(18~20節)。こう告白するパウロは24節でついにこう叫ばざるを得ません。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(24~25節)。

 パウロはローマの信徒への手紙8章でも人間の肉と神の霊・聖霊との対立について語っています。パウロがそこで強調している点は、肉と霊の対立は、わたしたちにとって死と命の問題なのだということです。肉に従っている人は死ぬほかにない人であり、死んだ人なのだ。なぜなら、その人は神に敵対しているからだと彼は言います。反対に、霊に従っている人は生きる人であり、神から平安を与えられ、神の子たちとされると言います。人間はだれも自分自身を肉の支配から解放することはできません。罪と死の奴隷状態から自由になることはできないとパウロは繰り返します。

 わたしたちを罪と死の法則から解放されるのはただお一人、主イエス・キリストだけです。ご自身がわたしたち人間と同じ肉のお姿でこの世においでくださり、十字架と復活によってわたしたちを罪と死の法則から解放してくださった主イエス・キリストだけが、わたしたちに命をもたらす霊の法則へと導くことができるのだとパウロは言います。8章11節にはこのように書かれています。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬべきはずの体をも生かしてくださるでしょう」。

 そのようにして、主イエス・キリストの十字架の福音によって、罪と死の法則から自由にされる時、わたしたちは初めて神のみ心に喜んで従っていく者とされ、聖霊の実を豊かに結ぶことができるようにされていくのです。

 ではここで、パウロがガラテヤの使徒への手紙5章とローマの信徒への手紙8章で教えている聖化への道、聖霊の実を結ぶ歩みについて重要なポイントを4つにまとめてみましょう。

 第一点は、人間の生まれながらの肉と聖霊とは両立しない、両者は厳しく対立し、どちらか一方を選び取ならければならないということです。そしてそれは、わたしたちが命を選ぶのか、それとも死を選ぶのかという選択だということです。つまり、生まれながらの肉に従って死を選ぶのか、そうではなく、聖霊に従って生きる命の道を選ぶのかという選択なのです。肉に従って生きる時、人間のすべての行い、わざは、それがどんなに精魂込めてなされたとしても、それは神のみ心からは遠く離れており、罪と死と滅びに支配されているので、実りを結ぶことはできません。

 第二点は、わたしたちが生まれながらの肉の支配から解放されるためには、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰による以外にはないということです。わたしたちはだれも肉の支配に負けてしまう弱い者でしかありません。自分の力で肉の欲を制御することも、それを死滅させることもできません。わたしたちのために罪と死とに勝利された主イエス・キリストだけが、聖霊によって肉と罪と死の支配からわたしたちを解放してくださいます。従って、わたしたちの聖化への道、聖霊の実りを結ぶ歩みは、ただひたすら主イエス・キリストと共に歩む道であり、主イエス・キリストが備えられた道を歩むこと以外ではありません。

 第三点は、わたしたちが聖化への道を進むためには、常に罪のゆるしを土台にし、罪のゆるしと固く結びついていなければならないということです。『日本キリスト教会信仰の告白』でも、「キリストにあって義と認められ」に続いて「信じる人を聖化し」と告白されているように、信仰義認による罪のゆるしと聖化の道は切り離すことはできません。聖化は罪のゆるしのあとに続き、罪のゆるしを土台としています。わたしたちは日々主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪ゆるされている者として、主キリストと固く結ばれ、肉の支配から解放されることによって、聖化への道を進むのです。

 第四点は、わたしたちは主イエス・キリストによって肉の支配と罪と死の法則から解放されているだけでなく、それらに対する勝利を約束されているゆえに、わたしたちは勇気と希望をもって肉の弱さと戦い、罪と死の法則に抵抗し、聖霊の導きに喜んで従うものとされるということです。そのようにして、神のみ心を行い、聖霊の実を豊に結ぶようにされていくのです。

 パウロがガラテヤの信徒への手紙5章22~23節で挙げている聖霊の実は、「霊の結ぶ実}と言われているように、聖霊なる神がわたしたちの中で働いてくださり、わたしたちの朽ち果てるべき肉の体をお用いになって、わたしたちにお与えくださる実です。

 「愛」「喜び」「平安」「寛容」「親切」「善意」「誠実」「柔和」「節制」、これらの聖霊の実は、信仰者が他者との交わりの中で、他者に対して好意を示し、他者の徳を立て、他者に仕える生き方の中で与えられる聖霊の実です。これを、19~21節に書かれている肉のわざと比較してみるとその違いは直ちに明らかになります。肉のわざがすべて自分自身を楽しませ、自分自身の利益を求める生き方であることが分ります。聖霊に導かれて聖化の道を歩む信仰者は、主イエスがそうであられたように、愛と真実とをもって他者に仕えていく時に、豊かな聖霊の実を与えられるのです。

 わたしたちは最後になお一つのことを付け加えなければなりません。わたしたちの聖化の道は神の国の完成の日まで続けられるということです。その日には、神はわたしたちに朽ちず、汚れず、しぼまない、天に蓄えられている財産を受け継がせてくださるでしょう(ペトロの手紙一1章4節参照)。わたしたちは神が最後にお与えくださる天にある賞与を得るために、前のものに全身を向けつつ、目標を目指して走り続けるのです(フィリピの信徒への手紙3章13~14節参照)。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちがあなたのみ心に喜んで聞き従い、十字架の主キリストを仰ぎ見つつ、あなたの栄光を現わす歩みを続けることができますように。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月23日説教「起きて、床を取り上げなさい」

2023年7月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ヨブ記19章23~27節

    使徒言行録9章31~35節

説教題:「起きて、床を取り上げなさい」

 使徒言行録9章31節にこのように書かれています。【31節】。これは、これまでの教会の歩みをまとめた文章です。使徒言行録の著者であるルカは、前にも何度かまとめの句を書いていました。すぐ前では、6章7節でこのようにまとめていました。【6章7節】(223ページ)。ここでは、初代エルサレム教会が2度のユダヤ人による迫害を経験しながらも、神の言葉が力強く広まっていったことが強調されていました。神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない(テモテへの手紙二2章9節参照)ということをわたしたちはそこで確認してきました。

 きょうの31節でまず取り上げたいことは、聖霊なる神のお働きについてです。聖霊はペンテコステの日に弟子たちの上に豊かに注がれ、エルサレム教会を誕生させました。聖霊はそののちの教会のすべての歩みを導かれました。教会の宣教活動にも教会員の交わりと奉仕の働きにも、賛美や祈りにも、あるいはまた、迫害や試練の時にも、聖霊は常に教会と教会員一人一人の歩みと共にあり、その歩みをみ心のままに導かれました。

 聖霊は使徒言行録の最初から最後まで、教会と信仰者の歩みを導かれる主体です。そこで、使徒言行録は聖霊行伝とも呼ばれます。今日のわたしたちの教会でも、聖霊のお働きは絶えず続けられています。この日本の異教の地にあっても、聖霊はすべての偶像の神々に対する勝利をわたしたちに確信させます。あらゆる困難や試練の中でも、わたしたちの歩みを力強く導かれ、希望と励ましを与えてくださいます。そして、終わりの日の完成へと導いてくださいます。

 31節では、「聖霊の慰めを受け」と書かれています。「慰め」と訳されているもとのギリシャ語は「パラクレーシス」であり、これは「傍らに呼び出された」という意味を持ち、「弁護」とか「慰め、励まし、呼びかけ」と訳されます。聖霊は常に教会のすべての歩みに伴っていてくださいます。わたしたち信仰者の傍らに立ち、時に、失望しているわたしに勇気と希望を与え、時に、道に迷っているわたしを正しい道へと呼び返し、時に、この世のことで心を煩わせているわたしを神のみ言葉へと差し向けてくださいます。そのようにして、聖霊は教会とわたしたち一人一人の信仰を終わりの日の完成へと導いてくださるのです。

 次に、「平和を保ち」とあります。わたしたちがこれまで学んできたように、初代教会は同胞のユダヤ人、あるいはユダヤ教から幾度も激しい迫害を受けました。エルサレム市内から多くの教会員が追放され、散らされるという大迫害もありました。そして、その迫害の急先鋒であったサウロ、すなわちパウロが復活の主イエスとの衝撃的な出会いによって、迫害者から福音の宣教者に変えられたという驚くべき出来事を9章の前半で読みました。教会は今、しばしの落ち着いた平安な時を迎えています。けれどもそれは、教会に迫害がなくなったという保証ではもちろんありません。12章1節で新たな迫害が始まることをわたしたちは読むことになるでしょう。それまでの少しの間の平和です。

この平和の期間もまた、教会の内的な充実と成長の時です。迫害の時に、神のみ言葉の力によって教会が成長したように、この平和の期間にも教会は成長し続けます。平和の中で休んでいるのではありません。神のみ言葉はいつも生きて働きます。聖霊はいつもわたしたちと共に歩まれます。教会は与えられた平和に感謝しながら、たゆみなくその歩みを続けます。

もう一つ31節で重要なことは、「主を畏れる」ということです。主なる神を恐れるという信仰は、旧約聖書時代からの信仰者の最も基本的、中心的な信仰の姿勢です。主なる神を恐れるとは、神を神とし、人間を人間とすること、そして主なる神以外のいかなるものをも神とはしないということです。主なる神への恐れがなければ、教会のわざは人間的なもの、この世的なものになり、終わりの日のみ国での真の実りを結ぶことはできません。教会の伝道活動、熱心な祈り、聖書の学び、信徒の交わり、一人一人の奉仕、あるいは喜びや悲しみを分かち合うこと、それらのすべてが主なる神への恐れをもってなされる時、人間の計画や思いや努力をはるかにまさった神のみわざが行われ、神の奇跡が行われ、豊かな祝福と実りが与えられるでしょう。

このように、聖霊なる神が共におられ、信仰者が神への恐れをもって共に仕える時に、教会は神のみ言葉の上に固く建てられ、また神のみ心かなって成長していくのです。

32節からは使徒ペトロの働きについてしばらく語られ、これは10章の終わりまで続きます。【32節】。ペトロの活動について最後に語られていたのは8章14節以下でした。そこでは、ペトロはヨハネと一緒に、誕生して間もないサマリア教会を視察するために、エルサレム教会から派遣された巡回伝道者としての務めを果たしていました。この箇所で、ペトロが方々を巡り歩き、リダという町の信者たちを訪問したのも、同じ巡回視察の務めのためと思われます。

初期のころの教会は、エルサレム教会をいわば母なる教会と考える意識が強くありました。パレスチナ各地に建てられた諸教会は、だれかが勝手に自分の好みに合わせた教会を形成するのではなく、母なる教会、エルサレム教会に連なる一つの教会として、その信仰を受け継いだ教会でなければなりません。更にその源流をたどれば、エルサレムで起こった主イエス・キリストの十字架の死と復活という出来事から始まっているのであって、全教会は母なる教会、エルサレム教会に連なっていると考えられていました。

ペトロは主イエスの12弟子のリーダーでしたが、またエルサレム教会のリーダーともなりました。彼はエルサレム教会を代表して各地に建てられた教会を巡回していたようです。このあと巡回する36節のヤッファ、10章24節のカイサリア、そして12章2節でエルサレム教会に戻るという道のりです。

リダの町はエルサレムから北東の方角へ40キロメートルほどに位置しています。この地に最初に伝道活動をしたのがだれであるかは知られていませんが、おそらくは8章1節に書かれていたエルサレム教会が受けた大迫害でエルサレムから追放された信者たちではないかと推測されます。サマリア教会もそうであったように、迫害で散らされて行った信者たちが、このようにして各地に宣教活動を展開していました。神は迫害という不幸な出来事をもお用いになって、教会の宣教活動を拡大させてくださるのです。

「リダに住んでいる聖なる者たち」と書かれていますが、ここではまだ教会という群れを形成するには至っていなかったようです。信者たちは「聖なる者たち」と言われています。この世から区別され、主キリストによって神のものとされ、神にささげられる者となったという意味です。彼らがエルサレムから追い出され、散らされた者としてリダに住むようになったにしろ、あるいはもともとリダに住んでおり、この町でだれかの宣教活動によってキリスト者となったとしても、そしてリダに住民登録をしているとしても、彼らは主キリストの十字架の血によって買い戻され、神のものとされ、本来は神の国の住民であり、天に国籍を持つ者たちです。わたしたちすべてのキリスト者もまたそのような意味での「聖なる者たち」です。

【33~34節】。ペテロは巡回視察のためにこの町の信仰者の様子を見に来ただけではありません。この町でも、ペトロは主キリストの福音を宣教する伝道者として、主キリストの救いのみわざのために仕えます。長い間重い病気で苦しむ一人の人と出会い、その人を信仰と救いへと導きます。

「会った」と33節に書かれています。人と人が出会うという経験はわたしたちの人生にとってとても貴重です。多くの良き出会いの経験をとおして、わたしたちは成長していきます。けれども、人間が人間と出会うだけではまだ決定的な出来事が起こりません。その出会いをとおして、主キリストとの出会いへと導かれることこそが、重要です。ペトロはアイネアを主イエス・キリストとの出会いへと導きます。わたしたちの伝道活動もこのようにして行われます。

ペトロは単刀直入に、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい」と命じます。ペトロ自身がアイネアの病気をいやすのではありません。あるいはペトロが優秀な医者のところへ彼を連れて行くのでもありません。ペトロはただ主イエス・キリストを信じる信仰者として、主イエス・キリストこそが彼の病をいやしてくださることを信じて、命じているのです。命じているのはペトロですが、いやしのみわざを行っておられるのは主イエスです。主イエスは神から遣わされたメシア・救い主としてわたしたちのすべての罪をゆるし、また病をいやしてくださいます。詩編103編の詩人は3~5節でこのように預言しています。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒やし、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐みの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のように若さを新たにしてくださる」。主イエスはこの預言を成就されたのです。

アイネアに対するペトロの命令は3章6節で彼が神殿の境内に横たわっていた足の不自由な人に語りかけた言葉と似ています。3章6節にこう書かれていました。「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。それはまた、ルカ福音書5章24節で主イエスご自身が語られた言葉と似ています。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。そして、中風の人に、わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。ペトロのいやしのわざは、この主イエスご自身のみわざの継続と言ってよいでしょう。それらのすべてにおいていやしのみわざをなしておられるのは、わたしたちの罪のために十字架で死なれ、三日目に復活された主イエス・キリストご自身にほかなりません。ペトロをはじめ初代教会の使徒たちは主イエスによる罪のゆるしのしるしとして、このような病のいやしの賜物を与えられていました。

長い間寝たきりであったアイネアが起き上がり、それまで自分が寝ていた床を整えることは、主イエスを信じて罪をゆるされ、新しい信仰の歩みを始めたことの目に見えるしるしです。アイネア自身がそのことを体験したしるしであり、また周囲の人たちに対しても主イエスによる奇跡的ないやしと救いのみわざの目に見える、確かなしるしとなりました。それは、アイネアが長い間縛りつけられていた罪の奴隷からの解放のしるしであり、彼が縛りつけられていたすべての束縛からの解放のしるしです。

「アイネアはすぐに起き上がった」と書かれています。主イエスを救い主と信じる人は、すべての奴隷と束縛の鎖から解き放たれ、自由にされ、罪と死の中から起き上がることができるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中にあって死んでいたわたしたちを、あなたがみ子の十字架の死と復活によって、死の床から起き上がらせてくださり、新しい命に生きる者としてくださったことを感謝いたします。願わくは、わたしたちを日々新たに造り変え、あなたのみ心を行う者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月16日説教「十字架を背負って主イエスに従う」

2023年7月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    ルカによる福音書9章21~27節

説教題:「十字架を背負って主イエスに従う」

 ルカによる福音書9章18節から27節までは、福音書の前半の頂点であると言われたり、あるいは前半と後半を分ける分水嶺とも言われます。また、18~20節で、弟子のペトロが主イエスに対して、「あなたは神から遣わされたメシア・キリスト・救い主です」と告白したペトロの信仰告白と、21~22節の、主イエスの第1回目の受難予告、そして23~27節の、だれでも主イエスの弟子である者は、日々自分の十字架を背負って主イエスに従って行くべきであるとの主イエスの勧めと、この三つのことは互いに関連しあっており、その関連の中で読まなければならないということ、これらのことを今までにも確認してきました。きょうはそれらのことを考慮しながら、23節以下の三つ目のことを学んでいきます。

 18節から27節までに語られている三つのことの中心は、二つ目の21~22節の主イエスの受難予告にあります。この受難予告を中心にして、その前のペトロの信仰告白を読まなければなりませんし、また23節以下の主イエスの勧めをも読む必要があります。

 つまり、「あなたは神から派遣されたメイア・キリスト・救い主です」というペトロの信仰告白は、主イエスが受難予告で語っておられるように、ご受難と十字架のメシア・救い主であるということが明らかにされているのです。当時のユダヤ人たちが期待していたような、イスラエルを武力でローマ帝国から解放する英雄的な王としてのメシアではなく、また、多くの人が期待するような、わたしの人生を経済的にも精神的にも豊かにし、わたしの望みをかなえてくれるようなメシアでもなく、主イエスはご受難と十字架のメシアである、すなわち、全人類を罪から救うために苦難の道を歩まれ、最後にはご自身の命を犠牲にして十字架で死なれるメシアであるということを主イエスはここで明らかにされたのです。ペトロとのちの教会は十字架の主イエスこそが全世界の唯一の救い主であると告白すべきであり、教会は十字架の主イエスを信じ、告白することによって生きるべきであり、ただそうしてのみ、生きることができるのだということが、ここでは教えられえているのです。

 次に、主イエスの受難予告と23節以下の主イエスの勧めとの関連は、これについてはきょうの礼拝で詳しく学ぶことになりますが、その関連についてはすぐに明らかなように、わたしたちキリスト者が日々に自分の十字架を背負って主イエスに従って行くべきであるのは、主イエスご自身がわたしたちに先立ってその道を歩まれたからにほかなりません。

 そこで、わたしたちに先立って十字架への道を進まれた主イエスご自身のことをまず考えてみましょう。9章18節から27節までの箇所は、福音書の前半の頂点、あるいは前半と後半の分水嶺であると紹介しましたが、このあとのルカ福音書を読むと、これ以後主イエスは確かにご自身の歩まれる道がエルサレムに向かっているということ、エルサレムでのご受難に向かっているということを深く意識しておられることが分ります。すぐに続いている28節以下の「山上の変貌」と言われる箇所もそうですし、44節の2回目の受難予告、そして51節にはこのように書かれています。【51節】。「天に上げられる時期」とは、主イエスのご受難と十字架の死、復活、そして昇天のすべてを含んでいます。それによって、神の救いの出来事が成就することを意味しています。主イエスは父なる神が備えられたこの道を、ご受難と十字架への道を、固い決意をもって進んで行かれます。それは、わたしたちの救いのためです。

 では、23節のみ言葉を読みましょう。【23節】。ここでは、主イエスの弟子であること、キリスト者であることが四つの表現によって言い表されています。一つには、「主イエスについていくこと」、二つに、「自分を捨てること」、三つは、「日々、自分の十字架を負うこと」、そして四つには、「主イエスに従うこと」。

 まず、一つ目の「わたしについて来る」は、直訳では「わたしのあとを行く」となります。主イエスをわたしの人生の先頭に立て、自分は主イエスの後をついて行くということです。わたしが自分の人生の先頭に立って、自分の道を切り開いていかなければならないのではなく、またそうする必要はなく、そうすべきでもないということです。わたしが自分の意志や知恵で選び取る道は、どれほどに慎重に選び、また熱心に努力しようが、それは罪の道であり、滅びに向かう道であるからです。わたしたちの心や思い、願い、また行動のすべては、神のみ心から離れており、神に背いているからです。主イエスの十字架がそのことを明らかにしました。わたしたち人間が自ら選び取ろうとするすべての道は神との交わりを破壊し、隣人との関係を破壊し、ついには自らを死と滅びへと至らせるほかにないのです。わたしたちの罪をゆるすために十字架の道を進み行かれた主イエスの後について行くことこそが、キリスト者とされたわたしたちが歩むべき道です。また、十字架の主イエスだけが、わたしたちの罪をゆるし、わたしたちが喜んで主イエスの後を行くことができる道へと、導いてくださるのです。

 二つ目には、「自分を捨てる」ことです。捨てるとは否定することです。これと同じ言葉が、主イエスのご受難の場面で用いられています。ルカ福音書22章56~57節を読んでみましょう。【56~57節】(156ページ)。ここで「打ち消して」と訳されている言葉と同じです。このときペトロは自分を守るために、自分を捨てるのではなく、逮捕されて裁判を受けている主イエスを否定し、捨てました。ペトロは十字架の主イエスにつまずき、十字架の主イエスを否定しました。自分の命と安全を守るために、十字架の主イエスを捨てました。主イエスの十字架の前では、そのようなすべての人間の罪が明らかにされるのです。

 では、自分を捨てるとはどういうことでしょうか。それはどのようにして可能になるのでしょうか。自分を捨てるためには、まず自分から解放されなければなりません。自分から自由にならなければなりません。自分の命と安全を守ることを第一に考える自分から、自分の地位や名誉や富を得ること第一とする自分から、自由になることです。そのような自分を否定し、わたしのために十字架につけられた主イエスをわたしの唯一の救い主として受け入れ、信じることです。それによって、わたしは罪に支配されていた自分から解放され、自由にされることができます。

 使徒パウロはそのことを、「古い罪の自分が十字架につけられて死んだ」(ローマの信徒への手紙6章6節参照)とか、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられるのだ」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節参照)と言っています。主イエスの十字架によって罪の奴隷からは解放されたわたしは、喜んで神と隣人の僕(しもべ)として仕えるように変えられていくのです。

 三つめは、「日々、自分の十字架を背負うこと」です。「日々」と言われているように、それがキリスト者とされているわたしたちの毎日の信仰生活であるということです。この「日々」という言葉の意味を、「ペトロの信仰告白」で教えられていることとの関連で考えてみましょう。

 日本キリスト教会は信仰告白を重んじる教会です。信仰告白を重んじるとは、『日本キリスト教会信仰の告白』を礼拝の中で全員が唱和するとか、その『信仰の告白』について深く学ぶとかいうことだけではありません。わたしたち一人一人の日々の信仰生活が、「主イエスこそが神から遣わされたメシア・キリストであり、わたしたちの罪のために十字架で死なれた唯一の救い主である」という告白に生きるということ、日々の信仰の歩みで、今の時代の中で、自分が置かれている場で、そのことを証しして生きるということ、それが信仰告白を重んじる教会であるということなのです。

 「自分の十字架を背負う」とあるように、主イエスの十字架ではなく自分の、わたしの十字架を背負うと言われています。これはどういうことでしょうか。わたしが主イエスと同じように自分の罪の贖いのために十字架で死ななければならないということでしょうか。そうであるはずはありません。わたしの救いは主イエスがご自身の十字架の死で完全になし遂げられたのですから、わたしがそれに何かを付け加えなければならばいということでは全くありません。

 ある人たちは、わたしたちキリスト者がこの世で担わなければならない重荷や苦難、あるいはキリスト者が不当に負わされている重圧とか迫害のことではないかと考えます。でも、それは正確ではありません。十字架が持っている負のイメージをここで強調するべきではありません。むしろ、自分が背負うべき十字架はすでに主イエスがわたしのために背負って、ゴルゴタの処刑場まで歩まれた十字架であることを強調すべきでしょう。だから主イエスは言われました。「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたに平安が与えられる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11章29~30節参照)。

 わたしが背負うべき十字架はすでに主イエスが負ってくださった十字架です。そこから、わたしの十字架が理解されます。すなわち、すでに主イエスの十字架によって罪ゆるされたいるわたしが、罪ゆるされていることの確かなしるしとして背負う十字架です。それは感謝と喜びのしるしとしての十字架です。あるいはまた、主イエスが死と復活と昇天によって罪と死とに勝利され、わたしたちを天にある神の国へとお招きくださっておられることの確かなしるしとしての十字架です。それゆえにわたしは、日々罪の自分に死に、日々に悔い改めつつ、日々に主イエス・キリストによって新しい命に生かされながら、神の栄光のために仕え、神と隣人のために自らをささげて生きる道へと招かれているのです。

 四つ目は「主イエスに従うこと」です。主イエス以外のだれをも、いかなるものをも、わたしの主とはしない、それらには従わないということです。ただ、主イエスにだけ聞き従うということです。なぜならば、これまでに学んだように、主イエスがわたしのためにご自身の尊い命をささげつくして開いてくださった命の道へ、幸いな道へとわたしを招いてくださっておられるからです。わたしはその道で、感謝と喜びに満たされつつ、主イエスによって託された務めを担っていくでしょう。「わたしに従ってきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう」(5章10節参照)との主イエスの招きを聞くでしょう。「あなたの敵を愛しなさい」(6章27節参照)との命令を聞きます。「あなたのともし火を高く掲げて、すべての人に見えるようにしなさい」(8章16節参照)との勧めを聞きます。その他のすべての主イエスの招きの言葉、務めへの召し、幸いの約束、それらのすべてのみ言葉を、喜んで聞き、主イエスに従って行くのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちを罪から救うために苦難と十字架への道を歩まれた主イエスの大きな愛と恵みを心から感謝いたします。どうかわたしたちが、罪ゆるされ救われている信仰者として、あなたのご栄光を表す歩みを続けることができますように、お導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月9日説教「夢を解き明かすヨセフ」

2023年7月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記40章1~23節

    コリントの信徒への手紙二4章7~18節

説教題:「夢を解き明かすヨセフ」

 創世記37章から「ヨセフ物語」が始まります。これは創世記の最後50章まで続きます。ヨセフは族長ヤコブ、すなわちイスラエルの12人の子どもの11番目に生まれた子です。彼は父ヤコブが年取ってから生まれた子であり、しかも愛する妻ラケルにようやくにして与えられた子でしたから、ヤコブはことさらに彼をかわいがり、他の子どもたちの中で特別扱いをして育てました。

 あるとき、ヨセフは夢を見ました。その夢で、兄たちがみんな自分の周りに集まり、自分の前にひれ伏していたと話しました。また別の夢で、父と母と11人の兄弟みんなが自分の前でひれ伏していたと話しました。これは何とも傲慢で、わがままで独りよがりな夢の内容です。父ヤコブはヨセフを叱り、兄たちはいよいよ彼を憎むようになったのは当然でした。ある日、兄たちは羊の放牧で家から遠く放れていたとき、ヨセフをエジプトに向かう商人に売り飛ばしました。しかし、父にはヨセフは野獣に食い殺されたと報告しました。以上が37章のあらすじです。

 39章では、ヨセフがエジプトの宮廷の役人ポティファルの家で奴隷として働いていたことが語られます。39章2節には、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」と書かれています。同じような主なる神の導きについて、3節、4節、また21節、23節にも繰り返されています。兄たちの憎しみをかい、エジプトに売られ、奴隷となったヨセフでしたが、そのエジプトにあっても、神は常にヨセフと共におられ、彼の道を導かれたことが強調されています。

神はイスラエルの約束の地カナンだけでなく、異教の地、奴隷の地であるエジプトにあっても、ご自身が選ばれた民の一人をお忘れにはなりません。このことは、やがて400年以上もの時を経て、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出される出エジプトの出来事を用意しているように思われます。

 ヨセフはポティファルの家で全財産の管理まで任せられるほどの信頼を得ていましたが、ある時彼の妻の策略によって無実の罪をきせられ、投獄されてしまいます。しかし、主なる神は獄につながれたヨセフをお見捨てにはなりませんでした。【39章21~23節】。かつて、兄たちによってエジプトに売り呼ばされたヨセフ、そして今またエジプトで獄に捕らわれの身となっているヨセフを、神はお用いになって、ご自身の救いのご計画をさらに進められるのです。

 次の40章では、夢を解くヨセフのことが語られます。41章でも、エジプトの王ファラオの夢を解くヨセフのことが語られます。きょうはこの2章から、夢を解き明かすヨセフについて学んでいくことにします。

 ヨセフがつながれていた牢獄に、エジプト王の給仕役の長と料理役の長が一緒に投獄されることになり、ある夜に二人とも同じ夢を見ました。その夢の不吉さにゆううつな顔をしている二人を見たヨセフが、彼らに尋ねます。【6~8節】。

ヨセフは二人の囚人仲間の顔色の変化に気づいています。今まではいつも自分が中心で、自分のことだけを気にして生きてきたヨセフでしたが、一人異教の地エジプトで労苦を重ね、少しずつ他者へと目が開かれていったのかもしれません。他者の心が理解できるように神によって変えられていったのでしょう。

夢を解き明かすことは古代エジプト時代では一つの学問でした。夢解きに関する多くの文献が残っているそうです。この二人の給仕役と料理役の長も、自分たちが見た不吉な夢の解き明かしを依頼すべき学者がたくさんいたと思われますが、ここは牢獄ですからそれも自由にできません。

 その時、ヨセフが発言します。「夢の解き明かしをなさるのはイスラエルの主なる神です。どうぞわたしにその夢を話してください。神からの知恵を与えられているわたしが解き明かしましょう」と。ここには、エジプトで重んじられていた夢解きの学問に対する軽蔑が含まれているのかもしれません。ヨセフの発言の意味はこうです。どんなに優れた知恵であっても、それは人間の限界ある能力によるものに過ぎない。イスラエルの神は人間の能力をはるかに超えて、未来に起こるべきことをすでに今見ておられ、あるいはまた、ご自身の計画を確かに実現に至らせる全能の力を持っておられる。そして、その夢解きの知恵を、選ばれた民であり、神の僕(しもべ)であるこの自分に霊的な賜物として授けてくださっておられる。ヨセフはそのように語るのです。

 聖書では、夢は神の啓示の手段の一つです。神は人間が寝ている間に、夢でご自身のみ心を、ご計画をお語りになります。ヨセフは兄たちから「あの夢見る者」と言われ、からかわれていましたが、彼が見た二つの夢、すなわち11人の兄弟たちと両親までもが自分の前にひれ伏すようになるという夢は、傲慢でわがままなヨセフの独りよがりの夢物語というのではなく、確かにそこに主なる神の隠されたご計画があったのであり、そのことが実際に創世記の終わりで実現するようになるということを、わたしたちはやがて読むようになるでしょう。

 ヨセフは神から与えられた知恵によって二人の夢を解き明かします。給仕役の長の夢は、三日後に彼がファラオのゆるしによって再び元の職務に戻されるという意味です。料理役の長の夢は、三日後に彼はファラオによって処刑され、木にかけられて、鳥がその肉をついばむという意味です。そして、三日後のファラオの誕生日には、実際にその二つのことが起こったと書かれています。

 ヨセフの夢解きがそのとおりになったので、釈放された給仕役の長がヨセフのことを王に執り成して、ユセフを牢から解放することを期待していたヨセフでしたが、給仕役の長はヨセフのことを忘れてしまったので、ヨセフはなおしばらく投獄されたままで、41章へと続いていきます。

41章でも、わたしたちはイスラエルの神、族長たちの神は、その後2年間の獄中のヨセフを決してお忘れにはならなかった、エジプト王ファラオの前に立つヨセフを絶えず支え、導かれたということを何度も確認することになるでしょう。給仕役の長がヨセフのことを忘れていたという事実が、かえってヨセフをエジプト王ファラオの前で神から与えられた知恵を示すきっかけとなるのです。

 2年後に、ファラオは不吉な二つの夢を見ました。一つは、良く肥えた七頭の雌牛がナイル川から上がってくると、その後に上がってきた醜い、やせ細った七頭の雌牛がそれを全部食べ尽くしたという夢でした。王がすぐ続けてみた夢は、良く実った七つの穂が、そのあとから出てきた実が入っていない干からびた七つの穂によってのみ込まれてしまったという、これもまた不吉な夢でした。

 不安に思った王は、エジプト中の魔術師や賢者を呼び集めて、夢の解き明かしをさせましたが、だれも解き明かすことができる者はいませんでした。その時になって、給仕役の長が2年前に牢獄で自分の夢を解いてもらったヨセフのことを思い出し、そのことを王に申し出ました。そこで、王は獄中からヨセフを呼び寄せることになりました。

 【14~16節】。16節のヨセフの言葉は40章8節の言葉を思い起こさせます。夢を解く知恵をヨセフにお与えくださるのは主なる神です。ヨセフはその神に仕える僕です。ヨセフはエジプト王ファラオの前でも、イスラエルの主なる神の証し人として立っています。自分自身はその主なる神の仕え人、僕であるにすぎないことを告白します。同じようなヨセフの信仰は、【25節】、【28節】、そして【32節】でも告白されています。ファラオとその国の歴史のすべてを支配し、導いておられるのは主なる神です。だれもそれに逆らうことも、そこから逃れることもできません。これがヨセフの信仰です。

 ヨセフはかつて父の寵愛を受けて、わがままで高慢な子どもに育ちました。兄たちからは憎まれました。でも、エジプトに売られ、そこで奴隷として仕え、また2年以上もの長い投獄生活を強いられ、そのような試練の中で、ヨセフは信仰の訓練を受けたのだと思います。異教の地にあっても、族長アブラハム、イサク、ヤコブが信じた主なる神を、ヨセフは信じ続けました。

 さて、ヨセフの知恵はファラオの夢を解くことにとどまらず、神がこれから計画しておられることに対する備えをする知恵にまで及びました。ファラオの夢は、7年間の大豊作と、その後の7年間の飢饉を予告しているとヨセフは語ります。この神の決定はだれにも変更できません。そこで、ヨセフは王に提案します。7年間の大豊作の期間に、収穫物の五分の一を国民から徴収して倉庫に蓄えさせ、その後の7年間の飢饉にあらかじめ備えておくようにと進言します。

 ヨセフのこの提案を聞いた王は、彼の知恵に感心し、ヨセフをエジプト全土の宰相、すなわち総理大臣に任命しました。【37~42節】。エジプト王ファラオがイスラエルの神についてこのように告白することは全くの驚きと言えます。神はこの世のもろもろの王にも、世界のもろもろの神々にも勝利しておられます。それらのすべてをお用いになって、ご自身の救いのお計画をお進めになります。

そののちヨセフは、王の勧めによってエジプト人と結婚し、7年間の大豊作の期間に国中の食料を集めて倉庫に貯蔵させました。【50~52節】。二人の子どもの名前に、ヨセフの信仰告白が言い表されています。エジプトで大成功をおさめ、最高の位につき、幸せの絶頂にいるときでも、ヨセフの信仰は揺るぎませんでした。彼が与えられた幸いのすべては、主なる神から与えられたものであり、彼が自分の手で得たものではありません。ヨセフの生涯は確かに苦労の多い、悩みに満ちた日々でした。その中で、神は彼に憐みを施し、彼の生涯を祝福されました。

 飢饉は世界中に広まり、世界の国々は食糧を求めてエジプトの大臣ヨセフのもとにやってくるようになりました。カナン地方にいた父ヤコブとその11人の子どもたちも、エジプトに穀物があるというニュースを耳にしていました。そのようにして、ヨセフが子どものころに見た夢が、図らずも実現することになるのです。すべては主なる神のご計画です。

 神の救いのご計画は、ヨセフの時代から400年以上を経たモーセの時代の出エジプトの出来事へ、さらにそれから千数百年を経て、主イエス・キリストの誕生へと前進していきます。主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を経て、その後の2千年の教会の歩みをとおして、さらに前進していくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは天地万物を創造され、今もなお造られたすべてのものをみ手のうちに治め、導いておられます。あなたはまた、永遠の救いのご計画により、全世界の歴史とわたしたち一人一人の歩みをも導いておられます。あなたは時に、わたしたちが経験する試練や苦難をとおして、あなたの尊いみ心を示したまいます。願わくは主なる神よ、どのような時にも、あなたが最もよい道をわたしたち一人一人に備えてくださることを信じ、あなたに聞き従って行く信仰をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月2日説教「聖霊なる神の働き-聖化」

2023年7月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(24回)

聖 書:イザヤ書6章1~7節

    ローマの信徒への手紙8章1~16節

説教題:「聖霊なる神の働き―聖化」

 『日本キリスト教会信仰の告白』の四つ目の文章は、「また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」と告白しています。ここでは、聖霊なる神のお働きについて告白されています。キリスト教教理で「聖化」と言われる教えです。ここでは、キリスト教教理の用語の「聖化」という言葉がそのまま用いられていますが、聖書の中に、「聖化」あるいは「聖化する」という言葉が用いられている箇所はありません。類似した言葉としては、「聖である」「聖なる」「聖とする」「聖別する」「清める」などの言葉が数多くあります。聖書で用いられているこれらの言葉は、キリスト教教理の「聖化」とは、厳密に言えば少し違った意味を持ちます。

 そこできょうは、「聖化」という教理を正しく理解するために、聖書で用いられているこれらの言葉の意味をまず学んでいきたいと思います。旧約聖書でも新約聖書でも、「聖」は、神の本質を言い表す言葉です。神は聖なる方です。ただ、神だけが聖なる存在です。神以外の、他のすべてのものは、聖ではありません。この世に属するもの、この世界、地上に属するものです。

 その意味で、聖とは、この世からは全く区別されたものであると言ってよいでしょう。神はこの世のすべてのものからは全く区別された聖なる方、永遠なる方、完全なる方、全能なる方、罪や汚れのない清い方、義なる方、そして唯一の創造者なる方であられます。それに対して、神以外のすべてのものは、わたしたち人間を含め、神以外のすべてのものは、神によって造られた被造物であり、過ぎ去り、移りゆき、滅ぶべきこの世に属し、不完全なもの、限りあるもの、弱くはかないもの、罪あるものです。このように、神と人間との絶対的な違い、区別に基づいた神の超越性が、神の「聖」です。

 預言者イザヤはエルサレム神殿で神と出会ったとき、神の使いセラフィムが互いにこう呼び交わす声を聞きました。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(イザヤ書6章3節)。そのときイザヤは言いました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者、しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(同5節)。このあと、イザヤは神によって罪と汚れがゆるされ、清められ、イスラエルの預言者として派遣されていきます。

 この世に属する人間は、本来、聖なる神のお姿を見ることも、そのお声を聞くこともできない。もしそうすれば、人間は滅びなければならない。死ななければならない。聖なる存在である神は、聖でない存在に対して、超越的な力、破壊的な力を持つ。そのように考えられていました。

 では、聖なる神に罪びとなる人間が近づくことは全くできないのでしょうか。この世に属する、罪に汚れた滅ぶべき人間が、聖なる神に近づくことが許される唯一の道を、神は備えてくださいました。それが、神礼拝です。わたしたち人間が聖なる神のみ前に恐れと全きへりくだりとをもって神を礼拝するときに、初めてわたしたちは神に近づき、神と交わることが許されます。

 けれども、そのままでは人間は汚れた者ですから、聖なる神のみ前に立つことができません。神のみ前に立つために、人間は聖別されなければなりません。聖別とは、聖なる神のみ前に出るために、この世のものから区別され、分離され、神に属する者に、神にささげられた者に変えられることです。

 神は全世界の中からイスラエルの民を選ばれ、ご自身の民として聖別されました。神はまた一週間のうちの一日を聖なる日、安息日として聖別されました。この日に、神に選ばれ、聖別されたイスラエルの民は、自分自身を神にささげられた者として、この世から自らを分離し、この世でのあらゆる関係やこの世での働きをすべて中止して、神を礼拝しました。そのようにして、彼らは聖なる神との交わりを持ち、神と出会い、神のみ言葉を聞き、神の救いのみわざを経験したのです。

 また、イスラエルの礼拝の中では、罪の贖いのためにささげられる動物も聖別されなければなりません。神にささげられる羊、ヤギ、牛などの家畜は、群れの中の傷がない肥えたものが選ばれ、数日前から群れからは分離されて備えておかれなければなりません。神は言われました。「わたしが聖なる者であるゆえに、わたしを礼拝する者もまた聖なるものとならなければならない」と。

 以上のことから確認されるように、聖書の中で言われる「聖」あるいは「聖別する」とは、神に属するもの、神にささげられるためにこの世から選び出され、この世から分離されるという意味です。

 さて、『日本キリスト教会信仰の告白』で告白されている「聖化」を考える場合にも、このような「聖」という言葉の意味から出発しなければなりません。聖化とは聖なるものに変えられていくことだからです。それは端的に言えば、わたしたちが神のものとされていく過程であると言ってよいでしょう。わたしがかつてはこの世に属していたが、次第に神に属する者へと変えられていくこと、わたしがこの世のものを求め、この世を基準にして生きてきた生き方から、神を求め、神を基準にして生きる生き方へと変えられること、わたしが自分自身のために生きていた生き方から、神に自らをささげ、神のために生きる生き方へと変えられていくこと、そのようにしてわたしが一歩一歩、神のものとされていく、その過程が聖化なのです。

 ここで、もう一つの重要なポイントは、その聖化は徹底して聖霊なる神のお働きであるということです。『信仰告白』のこの箇所の主語は聖霊です。わたしが自分の努力や自分の行動、意志によって自分を聖化するのではありません。あるいは、わたしの信仰がわたしを聖化するのでもありません。聖化は聖霊のみわざです。

 「聖霊は、信じる人を聖化し」と告白されているように、わたしたちがなすべきことは信じることです。主イエス・キリストの十字架の福音によってわたしの罪がゆるされているということを信じること、その信仰によって生きることです。もちろん、わたしにその信仰を与えてくださるのも聖霊なる神です。主イエス・キリストの十字架の死と復活がわたしの救いのためであることをわたしに信じさせ、その信仰によってわたしを義と認め、わたしを罪から救ってくださる、そのすべてが聖霊なる神のお働きです。その聖霊がそののちも常にわたしをとらえ、導き、わたしを聖化の道へと進ませてくださるのです。

 『信仰告白』の一つ前の文章では、「キリストにあって義と認められ」とあり、続いて、「信じる人を聖化し」とあります。義認と聖化は結びついています。義認には聖化が続きます。義認だけでは救いは完成しません。義認に聖化が続き、終わりの日の信仰の完成へと至ります。

 ところで、日本キリスト教会はどちらかと言えば聖化をそれほどには強調しないと言ってよいかもしれません。18世紀イギリスのジョン・ウェスレーを源流とするメソジスト派や今日の聖霊派と言われる教派は聖霊を強調します。彼らが考える聖化は、キリスト者が日々の生活の中で,祈りや学び、愛のわざなどの信仰の訓練を積み重ねることによって、罪と悪に勝利し、清められ、ついには全き聖化に達すると言います。ウェスレーは『キリスト者の完全』という書物を書いています。

 けれども、このような聖化の理解によれば、人間の意志や努力がどうしても重要視され、人間のわざ、道徳、倫理が強調されることになります。わたしたちの教会はそのことを警戒して、聖化を極端に強調することはしません。聖化はあくまでも聖霊なる神のみわざなのであり、わたしたち信仰者の努力義務をそこに持ち込むことは避けるべきだと考えています。

 では、わたしたちの聖化は具体的にどのようになされるのか。聖霊の聖化の働きはどのようにしてなされるのでしょうか。わたしたちの信仰にとって重要なポイントを二つにまとめましょう。

 第一には、わたしたちの聖化の道の出発とその過程、そしてその最終目的は主イエス・キリストにあるということです。ヘブライ人への手紙12章2節に、「信仰の創始者また完成者であるイエス」と書かれています。わたしたちのために十字架への苦難の道を進み行かれ、その死を耐え忍ばれ、今や勝利者として天の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストのみあとに従って行く道が、聖化の道です。主イエスはこう言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と。「わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(コリントの信徒への手紙一1章30節)主イエスの招きに応えて、主イエスが歩まれた道、主イエスが備えてくださった道を、従順に従い行くこと、それがわたしたちの聖化です。そして、主イエスが再びおいでになられるときには、わたしたちは主イエスのお姿をありのままに見ることが許され、わたしたちも主イエスのお姿に似た者に変えられるのです(ローマの信徒への手紙8章30節、ヨハネの第一の手紙3章2節参照)。そのとき、聖化の道は最終目的に達するのです。

 もう一点は、わたしたちは常に聖化の道の途上にあるということです。わたしたちは宗教改革者たちが言ったように、常に、罪びとです。しかしまた、常に、罪ゆるされている罪びとです。それゆえに、日々、罪を悔い改めつつ、また日々、罪ゆるされていることを感謝しつつ、神を礼拝する信仰生活を続けることが、聖化への道です。

わたしたちはまだ完全な者になっているのではありません。しかし、そうでありつつ、最後の勝利と完成の時に向かっていることを知っています。だから、わたしたちが「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」(フィリピの信徒への手紙3章12節以下参照)にほかなりません。この聖化への道を、聖霊は常にわたしと共におられ、わたしを導いてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちを罪と滅びから解放し、救いの道へとお導きくださったことを、心から感謝いたします。わたしたちはなおも弱くつまずきやすく、迷う者です。どうか、あなたが聖霊をもってわたしたちの信仰の道を導いてください。終りの日の完成に至るまで、希望と喜びとをもって信仰の道を歩ませてください。

○父なる神よ、不安や恐れの中にある人たちを天からのまことの光で照らし、慰めと平安をお与えください。重荷を負い、生きる困難を覚えている人たちに、主キリストにある励ましと勇気をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月25日説教「放蕩息子のたとえ」

2023年6月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(小泉典彦長老)

聖 書:詩編136編12節

    ルカによる福音書15章11~32節

説教題:「放蕩息子のたとえ」

 本日は、先ほど読んでいただいた、ルカによる福音書15章からご一緒に聖書の御言葉を聞きたいと思います。この聖書の箇所は、冒頭の見出しにもありますように、「放蕩息子」のたとえ として、聖書の中でも最も知られている箇所のひとつです。日曜学校の子どもたちの礼拝でもよく取り上げられる、イエスさまが話してくださったたとえ話です。今日の説教題も「放蕩息子のたとえ」としました。しかしこの箇所の主人公は、ゆるされた息子ではなく、深い慈愛で迎えてくれた父親です。

ルカによる福音書15章は、4~7節では「見失った羊」のたとえ・8~10節では「無くした銀貨」のたとえ・そして今日の箇所11~32節の「放蕩息子」のたとえの三つのたとえ話で構成されています。「見失った羊」・「無くした銀貨」・

「放蕩息子」に対する神さまの「失われたものへの配慮」が示されています。そしてそれら三つのたとえ話の共通点は、~友達や近所の人々を呼び集めて喜ぶ。今日のたとえでは祝宴を開いて喜ぶのです。~すなわち、失われたものを回復した時の大きな喜びであります。一人の罪人の悔い改めに対する神様の喜びであります。

さてそれでは、イエスさまがこの三つのたとえを話された時の状況をみてみましょう。15章1節以下、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。【2節】すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。【3節】そこで、イエスは次のたとえを話された。

◎放蕩息子のたとえ話

 イエスさまは多くのたとえ話をなさいましたが、中でもこの「放蕩息子」のたとえ話は、最も有名であると言ってよいでしょう。このたとえ話はたいへんわかりやすいものです。読んでいるだけで情景が目に浮かぶかのようです。まさに、どうしようもない放蕩息子の姿が見えてきます。さっそくお話を振り返ってみましょう。

 まず15章11節、「ある人に息子が二人いた」という言葉から始まっています。この「ある人」というのは、神さまのことをたとえていると言えるでしょう。そしてその息子のうち、弟のほうが父親に「お父さん、私がいただくことになっている財産の分け前をください」と要求します。「私がいただくことになっている財産」と言っていますが、財産はふつうは死んでから相続のために分けるのが普通です。しかしそれを今くれ、と言うわけですから、ずいぶん厚かましいお願いです。

 ところがこの父親は、腹を立てて拒否するかと思いきや、二人の息子に分けてやります。そうすると、弟息子はその財産を売り払ってお金に換え、遠い国に行ってしまいます。そしてそこで放蕩の限りを尽くして、財産をすべて使い果たしてしまいます。今でもときどき、会社のお金や役所の積立金を横領してギャンブルに使い、捕まるというニュースがあったりしますが、人間一度は思う存分お金を使ってみたいと思うのかもしれません。しかし遊ぶ金というものは、あっと言う間に無くなるもののようです。

 その地方にひどい飢饉が起こったとあります。飢饉が起きると、弱い人から死んでいく時代ですから、それこそ死に直面することとなります。もうなりふり構っていられません。ある人の所に身を寄せたところ、豚の世話をさせられたとあります。豚は、旧約聖書の律法では穢れた動物であり、ユダヤ人は飼いません。だからこれは、外国の異邦人の所であることが分かります。しかし豚のエサである「いなご豆」さえももらえなかったというのです。「いなご豆」とは、イスラエルでは、木に生えており。空豆のようなさやに入っているそうです。昔から家畜のエサとして、今ではヘルシーな健康食品の食材としても使われます。

 【17節】「そこで彼は我に返って言った」とあります。我に返るということはどういうことでしょうか。原語では「自分自身に帰る」という意味になっています。すなわち、本来の自分自身に帰った、ということでしょう。本当の自分自身を取り戻したということです。では、本当の自分自身とは何か?‥‥それがまさにここのポイントです。

 「自分捜し」という言葉が流行ったことがありました。自分が何をして良いか、どう生きたらよいか分からない。それで本来の自分の姿はなんだろうと、試行錯誤を続けることです。イエスさまがおっしゃる本来の自分とは何か、自分を取り戻すとはどういうことなのか?‥‥それがこのあとの放蕩息子の行動が示しています。それは、父親のもとに帰ることでした。父のもとには、有り余るほどのパンがあった。しかし今さらどの面下げて帰れるというのか。そこで帰った時に父にいう言葉を考えます。【18節】「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。【20節】「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。」彼は父親のもとに帰っていきます。お腹がすいて、トボトボと歩いて帰っていったことでしょう。しかも裸足で。

 さらに20節を見ると、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と書かれています。なぜまだ遠くにいたのに、父親は息子を見つけることができたのでしょうか?‥‥それは、この父親が地平線の彼方を見ていたからに他ならないと思います。そうでなければ、遠くから歩いてくる人影を発見することはできません。おそらく、この父親は、毎日毎日、今日帰ってくるか、今日帰ってくるか、と地平線の彼方をながめていたに違いありません。待っていたんです。帰ってくるのを

 そして父親のほうから駆けよって、首を抱いて接吻しました。息子が、戻ってくる前に父親に言うために考えていた言葉を言いかけます。ところが父親は、それを最後まで聞く前に、召使いたちに指示を下します。まるで、息子の言葉なんかどうでもよいという勢いです。もう、とにかくこのろくでもない息子が帰ってきたことが、うれしくて、うれしくてしかたがない‥‥という思いが伝わってきます。息子の謝罪の言葉よりも、父親の愛が前面に出ています。

 一番良い服、そして指輪、履物を。さらに肥えた子牛を屠ってごちそうを出しなさい、と。肥えた子牛というのは、たいへんなごちそうです。イスラエルでは、特別な賓客にしか出さないものだったようです。例えば創世記で、アブラハムが御使いたちをもてなした時に、肥えた子牛を屠っています。それぐらいの尋常ではない父親の歓迎ぶり、喜びようが表されています。

 なぜそこまでして、このろくでもない自分勝手だった息子を許し、喜びにあふれたのか。【24節】「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」という、ただそれだけの理由です。「死んでいた」というのは、父親のもとを離れていた状態を表しています。生き返った、見つかったというのは、父親のもとに帰ってきたことを指しています。すなわち、「我に返る」「立ち帰る」「本来の自分に戻る」ということは、父親のもとに戻ってくることを指しているのです。言い換えれば、神のもとに戻ってくること、信じることを指しています。
 さて、そうして弟息子を交えての宴会が始まりました。そこに一日の仕事を終えた兄が戻ってきます。そして宴会の事情を知って腹を立てます。怒りのあまり、家に入ろうとしません。つまり、弟が生きて帰ってきたことが喜びではない。父の態度に、不公平なものを感じて腹を立てたのです。そして出てきてなだめる父に向かって、不平をぶちまけます。この兄の言葉は、もっともです。たしかにその通りです。多くの人がその通りだと思わないでしょうか。しかしだからこそ、逆に、この父親の非常識さが際立ってきます。

◎分かれる感想

 今日の説教を準備するにあたり、あるミッションスクールの高校の授業で、生徒たちにこの個所を読ませ、感想を書いてもらったというエピソードを目にしました。そこでは、生徒から実にいろいろな感想が出てきたそうです。

生徒たちからは、「兄の言うことはもっともだ」と兄の肩を持つ人が多かったそうです。また、父親に対する意見も分かれました。放蕩息子をこのようにして受け入れる父親にはとても理解できない、という意見が多くありました。逆に、理解できるという意見もありました。どんな馬鹿息子でも、生きて帰ってきたらやはりうれしいのでは、という意見もあったそうです。実に様々な感想がありました。そのように多くの感想に分かれるのは、やはりこのたとえ話の中の登場人物に、自分を重ね合わせて見るからだろうと、その授業をすすめた教師は感じたそうです。

まとめ①「焦点は」

 このたとえ話の焦点はどこにあるのでしょうか。それは、このたとえ話のおかしな所にあります。するとやはりそれは、この放蕩息子を受け入れる父親の、非常識なまでの愛にあると言えます。いくら何でも人が良すぎると思われます。いくら生きて帰ってきたと言っても、全部放蕩息子が悪いのですから、ここまで喜ぶとなると、いくら何でも行きすぎだと思われます。兄の言うほうが当たり前です。

 しかしイエスさまによれば、私たちの神さまは、この父親のようであるということです。「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って、これほどまでに喜んでくださる。すなわち、悔い改めて、神のもとに立ち帰ることが本来の人間の在り方であり、それを神さまが手放しで喜んでくださるということです。

まとめ②「私たちは誰?」

 私たち自身は、この登場人物の中の誰でしょうか。自分を兄に置き換えて考える方も多いことでしょう。「こんなにまじめに生きているのに、なんだ神さまは」というようにです。その時には喜びがありません。しかし、自分もまたこの弟のほう、つまり放蕩息子であることに気がついた時、はじめて感謝と喜びが生まれます。

 自分もまた、救われる資格のない者であった。このことに気がついた時、多くの人が、「私も放蕩息子でした」と告白します。すると大いなる喜びが生まれてきます。神さまが、ここまで喜んでくださるのですから。聖書には、神様の愛についてイエスさまが語っておられる箇所が沢山あります。今月・6月の礼拝において、すなわち今日の礼拝においても、神さまの愛についてイエスさまが語っておられます。「恵の言葉」です。ヨハネによる福音書3章16~17節(新約167)。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(2回繰り返し読む)この箇所を更にわかりやすく表している讃美歌があります。194番「神さまは そのひとり子を」です。これは、日曜学校で歌われる「こども讃美歌」にもあるよく知られている讃美歌の一つです。「①神さまは そのひとり子を 世のなかにくださったほど 世の人を 愛されました ②神の子を 信じるものが、 新しい いのちを受けて、いつまでも 生きるためです」(讃美歌194番を開き朗読する。)神さまの愛についてとてもわかりやすくわたしたちに語りかけてくれます。

 さて一方、私たちはしばしばこの兄のように、すなわちファリサイ派の人々や律法学者たちのように考えることもあるのではないでしょうか。「自分はこんなにいっしょうけんめい働いているのに」と。しかし父なる神さまは、信じるようになった者に対して、一緒に喜んでやれとおっしゃるでしょう。伝道の喜びはそこにあります。父なる神さまの喜びを共にするからです。

 我に返る、本来の自分自身に帰るというのは、父なる神さまの所に帰るということです。私たちは皆、父なる神さまから命を与えられたのです。父なる神さまから命を受け、出発したのです。ですから、すべての人にとって、帰るところは父なる神さまの所です。

 このたとえ話には、表に出てきませんが、父なる神がこのように喜んで迎えてくださる背景には、イエス・キリストが十字架にかかられたから、ということがあります。イエスさまが、父なる神のもとに帰る道を用意してくださったのです。神の子として迎え入れられるなんの資格もない私たちが、このようにして喜んで迎え入れられる。まことに感謝です。

(執り成しの祈り)

○主イエス・キリストの父なる神様。あなたのお名前をほめたたえます。あなたのみ言葉はいつの時代にも、命と力とを持ち、救いの恵みを多くの人たちに分かち与えてくださいます。また、あなたは世界の至る所に、そのみ言葉を語り伝えるために仕える人たちを起こしてくださいます。どうか、わたしたちをもあなたのみ言葉をつたえる者としてお用いください。

○神様、戦争や紛争で故郷や住む家を失い、放浪の生活を強いられている難民たちに、温かい落ち着いた食卓と安らかな眠りをお与えください。差別や偏見によって人権を踏みにじられている人たちに、共に生きる喜びをお与えください。重荷を負う人、病んでいる人、孤独な人、一人一人にあなたからの慰めと平安、希望をお与えください。そして、わたしたちもキリストにならい、困難を抱えている人、悲しんでいる人、病んでいる人の為に、祈りを合わせて、その方々に仕えていくことができるようにしてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。      アーメン。

6月18日説教「パウロとエルサレムの使徒たち」

2023年6月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記3章1~10節

    使徒言行録9章26~30節

説教題:「パウロとエルサレムの使徒たち」

 紀元30年ころ、ペンテコステの日にエルサレムに誕生した世界最初の教会は、誕生してすぐにユダヤ人からの何度かの迫害を経験しながらも、そのたびに新たな力を与えられて、エルサレムだけでなく、パレスチナ全域に、さらにはユダヤ人以外の異邦人にまで、教会の活動が広げられ、主イエス・キリストの福音が宣べ伝えられていったということが、使徒言行録8章までに描かれてきました。わたしたちはその中で、何度も、「神の言葉はこの世の鎖によっては決してつながれない」(テモテへの手紙二2章9節参照)という使徒パウロの言葉を確認してきました。

 9章に入って、サウロ(すなわちパウロ)の回心と言われる出来事が記されていましたので、エルサレム教会の活動のことについてはしばらく中断されていましたが、きょう朗読された9章26節以下で再びエルサレム教会のことが語られます。【26節】。この箇所で、エルサレム初代教会の活動とキリスト者となったばかりのパウロの活動とが合流します。

 しかし、この両者の合流がこのような形で起こるであろうということを、8章が終わった段階でだれが予想しえたでしょうか。9章の初めに書かれていたように、パウロはキリスト教会迫害の急先鋒として、エルサレムのユダヤ教最高指導者の大祭司からの許可証をもらって、ダマスコにいるキリスト者を逮捕するために、意気込んでこの町にやってきたのでした。ところが、この町の入り口の門で、パウロは復活された主イエスとの衝撃的な出会いを経験し、キリスト教の迫害者であった彼が突然に180度方向転換をしたかのように、主イエスの福音を宣べ伝える宣教者に変えられたのでした。しかも、すぐにもそのダマスコの町で、主イエスこそが約束されていた神のみ子であり、メシア・キリストであると語り出したために、その町のユダヤ人から迫害を受け、命を狙われるようになったのでした。

 そのパウロが数週間後、あるいは数か月後かに、再びエルサレムに戻ってきたのです。あの迫害者であったパウロが、キリスト者パウロとなって。だれがそのようなことを予想しえたでしょうか。神は無から有を呼び出だすようにして、また死から命を生み出すようにして、わたしたちの人生の中で、この世界の歴史の中で働かれます。神はわたしたち人間の考えや可能性をはるかに超えて、時にはそれに逆らって、全く正反対のことをも実現させ、救いのみ心を前進させたもうのです。

 以前にも少し説明しましたが、使徒言行録の記録とパウロが書いたガラテヤの信徒への手紙1章の記録との間には、回心後のパウロの行動に大きな違いが見られます。ガラテヤの手紙では、パウロが異邦人に対する伝道者として召されたという点が強調されていて、キリスト者となったパウロはすぐにアラビア地方へと伝道に行ったと書かれています。そこでは、ダマスコでの伝道やエルサレム教会訪問のことについては触れられてはいません。それに対して、使徒言行録ではダマスコで受けた迫害と、続いてエルサレムで受けた迫害について描かれており、迫害する側にいたパウロが迫害を受ける側に変わったという点が強調されているように思われます。

使徒言行録のきょうの箇所では、キリスト教会の迫害者としてエルサレムを出て行ったパウロが、今迫害を受けるキリスト者となってエルサレム教会に戻ってきたということが語られています。

 26節に「弟子」とあるのはエルサレム教会の会員のことで、27節の「使徒たち」とは、主イエスの12弟子を中心とした教会の指導者たちを指していますが、8章1節に書かれていたエルサレム教会に起こった大迫害で、使徒以外の教会員はみな市内から追放されたことになっていました。けれども、ここではまだ会員が残っていたように思われます。そこで、迫害によって追放された教会員はギリシャ語を話すユダヤ人、つまりヘレニストに限っていたのではないかと推測されています。

ここには、エルサレムに戻ってきたパウロが教会の弟子たちから警戒されたことが書かれていますが、パウロは教会からも、またユダヤ教徒たちからも危険視されたことが容易に想像できます。パウロはユダヤ教徒で熱心なファリサイ派の指導者として、ユダヤ当局からの推薦状までもらって、キリスト教徒迫害のためにダマスコへでかけたのでした。そのパウロがキリスト者となり、キリスト教の宣教者となってエルサレムに戻ってきたということは、ユダヤ人のだれもが、特にその指導者たちにとっては、理解できない不思議なことであり、それは彼らにとっては大きな裏切りだととらえられたことは確かです。パウロは彼らにとって卑怯者であり、危険な人物です。

 エルサレム教会のキリスト者、また教会の指導者たちにとっても、パウロのこの大きな変化は信じがたいことでした。彼らがパウロを恐れたのは当然でした。パウロは、キリスト教会最初の殉教者となったステファノが石打ちの刑で処刑された際に、刑を執行した人たちの上着の番をしていたことが、7章58節に書かれていました。彼が教会にとって恐るべき迫害者であったことは、教会のだれもが知るところでした。

では、パウロはなぜどちら側からも歓迎されないであろうエルサレムへ危険を冒してまでも戻ろうとしたのでしょうか。そのことを考えながら、読み進んでいきましょう。

 【27節】。ここに、バルナバという人が現れ、パウロとエルサレム教会との間を執り成す役割を果たします。バルナバについては、4章36節ですでに紹介されていました。エルサレム教会員の一人で、その名前バルナバとは「慰めの子」という意味であること、彼が自分の畑を売却して、その代金の全額を教会にささげ、貧しい人たちを助け、彼らに慰めを与える人であったことが書かれていました。その名のとおりに、ここではパウロとエルサレム教会の間に立ち、ダマスコでパウロが経験したことを教会に話して彼らの誤解を解き、両者を結び付け、双方に慰めを与える人となりました。パウロにとってバルナバはどれほどにか力強い存在であったことでしょうか。

 神はこのようにして、いつの時にも、教会の働きにとって必要は人を起こしてくださいます。バルナバはこのあと、13章2節に書いてあるように、パウロの第一回世界伝道旅行に同伴者として、協力者として派遣され、長い間パウロの良き同労者として働きました。

 次に、【28節】。ここには、パウロのエルサレム行きの目的を暗示する二つのことが記されているように思われます。一つには、パウロはエルサレム教会の使徒たちの仲間入りを望んでいたということです。パウロは異邦人に対して福音を語るのが自分の務めだと自覚していましたが、エルサレム教会の当時の指導者であったペテロやほかの11人の弟子たち、また主イエスの兄弟ヤコブなどとの交わりを持つことを願っていました。パウロはのちに異邦人世界の宣教者となり、世界の各地に教会を建てるために仕えますが、その際にも、エルサレム教会を世界の母なる教会として重んじ、エルサレム教会との交わりを大切にし、困窮していたエルサレム教会のための献金を集めていました。

エルサレムは主イエスの十字架の死と復活、そして昇天の出来事が起こった場所であり、主イエス・キリストの福音と世界の救いの中心であり、そしてまた世界最初の教会が誕生した地です。全世界の教会はそこに源を持っているとパウロは考えていました。パウロは自分自身の信仰もまたエルサレムとその教会に原点があるということを確認する必要性を感じていたと推測されます。彼がダマスコで経験した復活の主イエスとの出会い、迫害者からキリスト者へと変えられたこと、そして主イエスによって異邦人伝道の使命を託されたこと、これらの出来事はパウロの個人的な体験であるだけでなく、エルサレム教会の使徒たちにも認められ、エルサレム教会との関連の中での出来事であることが証しされ、承認されることが必要であったのです。

 エルサレム行きのもう一つの目的は、パウロ自身がこの町で主イエス・キリストの福音を大胆に語るということには大きな意味があったからです。パウロを裏切り者、卑怯者と見ていたエルサレムのユダヤ人たち、ユダヤ教の指導者たちに対して、彼らを恐れることなく、自分がかつて迫害していた主イエスこそが、旧約聖書の中でユダヤ人たちが長く待ち望んでいたメシア・キリストであることを、またこの方こそが全世界の唯一の救い主であることを語り伝えること、それが熱心なユダヤ教徒からキリスト教会の宣教者に変えられたパウロの大きな使命であったからです。

 しかし、これもまた当然予想されていたことでしたが、パウロはエルサレムでも迫害を受け、命を狙われました。【29~30節】。「ギリシャ語を話すユダヤ人」とは、ヘレニストと一般に呼ばれていますが、彼らは外国に離散していたユダヤ人で、最近エルサレムに移り住んだ人たちでした。パウロもヘレニストの一人でギリシャ語を話していましたから、彼らに親近感をもって主イエスの福音を語ったのであろうと思われます。けれども、彼らは主イエスの福音を信じようとはせず、反対にパウロを殺そうとしました。パウロはエルサレム教会の兄弟たちに守られながら、地中海沿岸のカイサリアへ行き、そこからおそらく船で生まれ故郷である小アジア地方の町タルソスへと向かいました。

こののち、パウロはしばらく使徒言行録からは姿を消します。おそらくタルソスあたりで宣教活動を行なっていたと推測されています。彼が再び姿を現すの は、11章25、26節と13章1節以下の第一回世界伝道旅行のときになります。11章でも13章でも、そこでパウロと協力するのはここでパウロとエルサレム教会との間を執り成したバルナバです。

このようにして、神は迫害者パウロを宣教者パウロに変え、またパウロとエルサレム教会とのつながりを強め、そのためにバルナバをお用いになり、のちに3回にわたるパウロの世界伝道旅行の備えを着々と進められたのです。神は今もなお、全世界の教会をお用いになって、ご自身の救いのみわざを進めておられます。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたのみ言葉はいつの時代にも、命と力とを持ち、救いの恵みを多くの人たちに分かち与えます。また、あなたは世界の至る所に、そのみ言葉を語り伝えるために仕える人たちを起こしてくださいます。どうか、わたしたちをもあなたのみ言葉の証人たちとしてお用いくださいますように。

○天の父なる神よ、戦争や紛争で多くの血が流されている地域に和解と平和をお与えください。故郷や住む家を失い、放浪の生活を強いられている難民たちに、温かい落ち着いた食卓と安らかな眠りをお与えください。差別や偏見によって人権を踏みにじられている人たちに、共に生きる喜びをお与えください。重荷を負う人、病んでいる人、孤独な人、一人一人にあなたからの慰めと平安、希望をお与えください。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月11日「人間の生と死を考える」

2023年6月11日(日) 秋田教会伝道礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編90編1~12節

    ローマの信徒への手紙6章1~11節

説教題:「人間の生と死とを考える」

 今回の伝道礼拝の説教題を「人間の生と死とを考える」と付けました。その理由は、案内パンフレットにも書きましたが、わたしたちはこの数年、人間の死に関するニュースをしばしば耳にし、死について深く考える機会が多いからです。新型コロナウイルス感染症のために、高齢者や体力が弱い人が、時に十分な医療のサポートを受けられずに亡くなっていく例を多く見ました。亡くなる際にも、家族にも看取られず、また通常の葬儀も行えないというニュースも聞きました。それに加えて、戦争や侵略、内紛によって、ミサイルが平和だった町々村々の空を飛び交い、きょうは何人死んだ、その中で子どもは何人だったというアナウンスを、何度聞いたことでしょう。国家権力の暴力によって奪われていく人間の命、あるいは自然災害によって犠牲となる命、そのたびに、人間の死とは何なのか、人間の命とは何なのかと、心を痛めながら、強い憤りを感じながら、また深い同情をもって、考える機会が多くありました。みなさんはいかがでしょうか。

 このテーマのもう一つのポイントは、人間の生と死、生きることと死ぬことは、いつでも結びついているものであり、結びついて考えなければならないということです。人間は自ら死すべきものであることを知ることができる生き物であり、それゆえにまた、死の時が来るまでは人間はみな生きている、生きることができるということをも知っています。

 そのどちらをより強く意識するかで、その人の人生観が変わってくるでしょう。ある人は死に定められている自分の人生を悲観的にとらえ、辛く、暗い道を歩むようになるかもしれません。でも、ある人は希望と可能性を抱いて、死の直前までは自分は生きることができる、生きることが許されている、生きていてよいのだと考えることができます。死ぬことにより重い意味を見いだすのか、それとも、生きることにより大きな意味と希望を見いだすのか。わたしたちはだれもが後者でありたいですね。

 そこで、わたしたちは人間の命と死とを考える際に、様々なアプローチができると思いますが、たとえばそれぞれの時代の哲学者たちはどう考えたかとか、文学ではどう取り扱われているかとか、世界の宗教ではどのような違いがあるのかとか、それも興味深いのですが、人間の生と死の問題、課題を真正面から、真剣に捕らえ、その問題と課題に、神ご自身が、ご自身の命と全存在とをかけるようにして取り組まれた、主イエス・キリストの父なる神、聖書の神、キリスト教の神が、人間の生と死とをどのようにご覧になっておられるのか、どのように教えておられるのかを、見ていくことにしたいと思います。

 今簡単に触れましたように、聖書の神の教えの最大の特徴は、わたしたちがきょうテーマとして挙げている人間の生と死という問題、課題に、まさに神ご自身が、ご自身の御独り子なる主イエス・キリストの生と死そのものをとおして答えておられるというところにあります。神は天におられて、天からみ声を発して、「人間の生と死とはこうである」と教えておられるのではありません。神は天から地に下ってこられて、わたしたち人間と同じお姿になって、わたしたち人間と同じ生と死とを経験されて、それによってわたしたちの生と死との課題を担ってくださったのです。ここにこそ、人間の生と死との問題、課題に対する本物の答えがあり、わたしたちに希望と喜びを与える真理があると信じるのです。

このことについては、またのちほどお話しすることにして、先に旧約聖書、詩編90編では人間の生と死についてどのように教えられているかを学んでいきましょう。

1節に「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と書かれています。この詩人は主なる神に「あなたは」と呼びかけ、あなたとわたしたちの関係の中で、人間の生と死とを考えています。これが重要です。これが聖書の、またキリスト教の人間観、人生観、死生観の大きな特徴であると言えます。わたしたち人間の生と死、あるいは存在、そのすべてが主なる神との関係の中でとらえられ、理解されていることが重要です。

この詩人はおそらくは長く試練に満ちた生涯を送り、今その終りに近いことを悟り、自らの生と死とを今一度主なる神との関係の中でとらえなおしているように思われます。次の2節で、詩人はこの世界とその中にあるすべては、人間の命と存在も含めて、それらが神の創造によるものであることを告白しています。創世記の初めに書かれているように、神はこの世界とその中に住むすべての命あるものをみ言葉によって創造されました。神は「光あれ」とお命じになると、光が生じました。神は全宇宙とこの世界を同じようにして創造され、それらを正し秩序に配列されました。そして、創世記2章に書かれているように、神は人間を土のちりから創造され、その鼻から命の息を吹き入れて生きる者としてくださいました。

ここには、人間の命は本来神のものであり、神から賜ったものであるという信仰があります。そこで、詩編90編の詩人は、3節で、「あなたは人をちりに返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります」と言うのです。人間の命は本来神のものであり、神から与えられたものであるから、人間の命の役割を終えたら、それは神のもとへと返されるのです。これが、聖書の死の考え方です。神は人間に命を与え、またそれを取り返すのです。詩編の前にあるヨブ記1章21節にはこう書かれています。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主のみ名はほめたたえられる」。

その人の命が生まれてわずかであったとしても、病気や事故によって途中で終わったかのように見えようとも、あるいはこの詩人が言うように70年、80年の生涯を全うしたとしても、いずれの命も、神が与え、神が取り去られた命であり、それゆえに、その死もまた神のご支配のもとにあるのであって、そのすべてに深い神のみ心があり、神の導きがあるというのが、聖書の教えです。どのような生も死も、神のみ前で意味のないものはなく、神のみ心から離れた生も死もないのです。

この詩人は人間の生と死とを、もう一つの関連の中で見ています。それは、人間の罪です。7~9節を読んでみましょう。【7~9節】。詩人は人間の死を、神の怒りの結果と見ています。人間が神に対して罪を犯し、神がそれを怒り、罰する結果として死があると考えています。罪とは、神のみ心に従わないこと、神に背くことです。それは、人間を創造し、ご自分の形に似せて、愛と真実とをもって創造された神のみ心に背くことですから、その当然の結果として、神の怒りを招き、神の裁きとしての死がやってくるのです。

この詩人はそのことをよく理解しています。けれども、だからといって神の怒りの大きさに不安になったり、生きることに希望をなくしたりはしていません。むしろ、神のみ前に謙遜になることをわたしたちに勧めているように思われます。自分の罪を知り、その裁き主である主なる神を恐れ、敬い、神のゆるしを待ち望むようにわたしたちを招いているように思われます。

そして、12節でこう締めくくります。【12節】。「生涯の日を正しく数える知恵」とは、一つには、人間が神に対する罪のゆえに死すべき者であり、永遠なる神に対して限りある者であり、はかない存在であることを知ることです。もう一つには、そのような罪びとであるわたしたちに神は命をお与えになり、生きることをゆるし、また命じてもおられることを知り、きょうの一日一日を神から賜った命として感謝して受け取り、神のみ心に従って生きる喜びと幸いを知ることです。神はわたしたち人間をご自身の形に似せて創造され、このような知恵を人間にお与えくださったのです。

次に、新約聖書を開いてみましょう。きょうの礼拝で朗読されたローマの信徒への手紙6章1~11節で、この手紙の著者であるパウロは、わたしたち人間の生と死とを主イエス・キリストの生と死とに関連づけながら語っています。4~5節を読んでみましょう。【4~5節】。聖書の神、キリスト教の神は、わたしたち人間の生と死との意味を明らかにするために、ご自身の独り子なる主イエス・キリストをこの世に派遣されたのです。その神のみ子、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちに本当の死の意味を明らかにし、本当の生の意味を明らかにされました。そのことが、ここで語られているのです。

パウロはここで洗礼という儀式を比喩的に用いています。洗礼はイエス・キリストを救い主と信じる、いわば入信の儀式ですが、その洗礼によって、主キリストと信仰者とが一つに結合されることを、パウロはいくつかの表現で言い表しています。その一つは「共に」という言葉です。4節では、「キリストと共に葬られ」、6節では、「キリストと共に十字架につけられ」、8節では、【8節】。このほかにも、同じような意味で、3節では、「キリスト・イエスに結ばれて」、3節と4節では、「その死にあずかる」、5節では、「その死の姿にあやかる」「その復活の姿にもあやかる」、同じ5節では、「キリストと一体となって」など、多くの表現で主キリストと信仰者とが固く結合されることが強調されています。

その際、結合の主体と力は常に主イエス・キリストの側にあります。主イエスがわたしたち人間と連帯してくださった、わたしたち罪ある人間の世界においでくださり、わたしたちと共に歩まれ、わたしたちの罪をご自身で担ってくださり、わたしたちの罪のための裁きをわたしたちに代わって受けてくださった。そのようにして、わたしたちを罪の束縛から解放し、ゆるしてくださった。その救いの事実と恵みと、主キリストと固く結ばれることによって、信仰者のうちに豊かに注がれ、信仰者のものとされていくのです。

この箇所のもう一つの特徴は、生、生きるから、死へという順序ではなく、死から生、生きるという順序になっていることです。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活に合わされた信仰者は、主キリストと共に死んだ、そして主キリストと共に復活し、生きるのだと教えられています。主イエス・キリストが生から死へ、生きることから死ぬことへと至る一般的な順序を逆転させ、死から生へ、死ぬことから生きることへ向かう新しい道を開いてくださったのです。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活が、わたしたちをすべての死の支配や恐れや不安から解き放ち、神に愛され、受け入れられ、まことの命が約束されている新しい生へ、生きることへ、生きる喜びと希望へと招き入れているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがわたしたちをきょうの礼拝にお招きくださり、聖書のみ言葉をとおして、主イエス・キリストにある命の道へと招き入れられている幸いをお知らせくださったことを、心から感謝いたします。わたしたちは弱い者であり、迷う者でありますが、あなたによって備えられているこの命の道を、勇気と希望をもって歩むことができますように、あなたのお導きを祈り求めます。

○重荷を負っている人、試練の中にある人、病んでいる人、不安や恐れを抱いている人、孤独な人、すべてあなたの助けを必要としている人を顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月4日説教「主イエスの受難予告」

2023年6月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~5節

    ルカによる福音書9章21~27節

説教題:「主イエスの受難予告」

 ルカによる福音書9章18節から27節までには、互いに関連しあっている3つの重要な内容が語られています。18~20節は、ぺトロの信仰告白。21~22節は、主イエスの受難予告。そして23~27節は、主イエスの弟子である信仰者は日々に自分の十字架を背負って主イエスに従って生きるべきであるとの勧め。この3つのことは互いに深く関連しあっているので、その関連を考えながら読む必要があります。マタイ、マルコ、ルカ福音書、この3つを共観福音書と呼びますが、3つの福音書共に、細かな記述には違いが見られるものの、これらの3つの内容を同じ順序で、一連のものとして描いています。

 きょうは21節と22節を学びますが、これは18節から27節の関連した3つの内容の中で、その中心となっている最も重要な箇所です。

 まず21節ですが、【21節】と書かれています。弟子のペトロが主イエスを「あなたは神からのメシアです」と告白したことは正しい信仰告白であったということをわたしたちはすでに学びました。「イエスは神のみ子である」。「イエスは主である」。そして、「イエスはメシアである」。これらの信仰告白は、主イエスに対する信仰告白の基本であり、今日わたしたちが告白している『使徒信条』の土台となっているということをわたしたちは確認してきました。主イエスは全人類を罪から救うために神がこの世にお遣わしくださったメシア・キリスト・救い主であり、この方にわたしの救いのすべてがあるというのがわたしたちの信仰の中心です。

 そうであるのに、主イエスはここで弟子たちに「このことをだれにも話すな」と厳しく命じておられます。なぜでしょうか。多くのユダヤ人がこの正しい信仰告白をするようになり、主イエスを救い主と信じることこそが、主イエスの願いであり、また弟子たちはそのためにお仕えしているのではないでしょうか。そうであるのに、主イエスはこのことをすべての人に秘密にしておけと言われます。なぜでしょうか。

 このことは、一般に「メシアの秘密」と言われていて、新約聖書の大きな神学的テーマになっています。「メシアの秘密」は特にマルコ福音書で強調されていますが、共観福音書に共通しています。実は、ルカ福音書の中でわたしたちがこれまで学んできた中にも同じようなテーマがありました。4章35節では、汚れた霊(悪霊)が主イエスを「神の聖者だ」と告白した際に、主イエスは悪霊に「黙れ」とお命じになったことが書かれていました。また4章41節でも、悪霊が「お前は神の子だ」と叫んだのに対して、主イエスは悪霊にものを言うことをお許しにならなかったと書かれていました。さらに5章14節では、主イエスが重い皮膚病の人をいやされた際に、このことをだれにも話さないようにと厳しく命じられました。これらはみな、「メシアの秘密」と同じ意味があると考えられています。

 では、その意味、意図とは何でしょうか。一言でいうと、主イエスはご自身がメシア・キリストであることを誤解されたり、信仰以外の他のことのために悪用されることを注意深く避けようとされたということです。主イエスはご自身が「神のみ子」「主キリスト」「メシア・救い主」であることをこの世に宣教し、証しするためにおいでになったのですが、またそのために弟子たちを選ばれ,人々の病気をおいやしになったのですが、しかし、そのことが正しく信じられず、告白されずに、人間の好みに合わせて誤解されたり、悪のわざのために利用されたり、罪びとの救いのためではなく、この世の経済的繁栄とか、政治的運動とかのために利用される恐れがあることを知っておられました。そこで、弟子たちや人々を正しい信仰告白へと導くために、そのことがすべて明らかにされる「その時」までは、ご自身がメシアであることを安易に言い広めてはいけないと戒められたのです。

そのことがすべて明らかにされる「その時」とは、主イエスの十字架と復活の時です。その時には、主イエスがどのようなメシア・救い主であるのか、主イエスが神のみ子としてどのようなみわざをなさったのか、主イエスが全世界の唯一の主であるとはどういうことなのかが、すべて明らかにされるのです。その時にこそ、だれもが誤解することなく、他のだれかに、あるいは他の何かに悪用されることもなく、ただ主イエスの十字架の死のゆえにこそ、すべての人は主イエスをメシア・救い主と信じ、告白するようになるからです。

次の22節の主イエスの受難予告がそのことを明らかにしています。【22節】。これは主イエスによる第1回の受難予告です。このあと、2回続きます。第2回は9章44節、第3回は18章32~33節です。それぞれ表現の仕方には違いがありますが、「人の子、主イエスは苦難の道を歩まれ、十字架で死に、三日目に復活する」という中心的な内容は一致しています。

同じことを3度も予告されたのは、そのことが確かに起こることを強調しています。主イエスは父なる神が定められたこの苦難の道を、固い決意をもって進まれたのです。

また、予告とは、単に未来のことを予想して言うのではなく、主イエスが言われるみ言葉は、確実に、そして現実にその出来事を生み出していくという、力強い神のみ言葉です。

弟子たちは主イエスが復活されたあとで、この3度にわたる受難予告を思い起こし、あの時にはまだ全く気付いておらず、理解できていなかった主イエスの受難予告の意味を悟ったのでした。そして、このような主イエスのご受難の道にこそ、神の救いのみ心があったのだということを信じたのでした。

では次に、受難予告の内容を見ていきましょう。まず、主イエスはご自分のことを「人の子」と言われます。これは3回の受難予告でも同じです。主イエスはご自身の口から、「わたしは神の子である。わたしはメシア・キリストである」と言われることは一度もありません。多くの場合、ご自分を「人の子」と言われます。これにも、「メシアの秘密」と同じ意図があったと考えられています。

「人の子」とは、普通の意味で人間を言い表す言葉ですが、福音書の中ではそれに特別な意味が付け加えられています。この受難予告では、イザヤ書53章に預言されているような「苦難の僕」としての「人の子」のイメージが強調されています。主イエスは苦難の道を歩まれることによって主なる神の僕(しもべ)としての務めを果たし、主なる神のみ心を行い、他者のために執り成しをし、他の人の罪のために自ら苦しみを受け、そうすることによって多くの人を罪から救う「人の子」なのです。

しかも、主イエスが言われる「人の子」は単に他者のために苦難の道を歩むのではなく、22節で続けて説明されているように、「長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺される」という、最も屈辱的で、最も激しい拒絶を経験し、最も大きく深い苦難と苦悩の道を歩み、そしてついには捨てられ殺されるという、徹底した「苦難の僕」としての道を歩むというのです。そこには、何一つとして報いもなければ、もちろん誉れもありません。

「長老、祭司長、律法学者たち」は当時のユダヤ国家・イスラエルの宗教的・政治的な指導者たちでした。彼らはユダヤ最高議会(サンヘドリン、70人議会)の議員を構成し、最高裁判所の務めをも果たしていました。主イエスはこの法廷で裁かれ、最終的には、神を冒涜する者、神の律法に違反する者、エルサレム神殿を汚す者として裁かれました。当時のユダヤ人の知恵や信仰的伝統のすべてが主イエスを十字架で処刑すべき者と結論づけたのでした。そのようにして、主イエスがここで予告しておられてことが、すべてそのように実現したということをわたしたちは福音書の終わりで知らされます。

主イエスのこの「受難予告」は主イエスご自身による信仰告白と言ってもよいでしょう。主イエスはこれが「人の子」として、父なる神がご自分をこの世へとお遣わしになった目的であると悟り、信じておられたのでした。そして、父なる神が備えたもうたその苦難の僕の道を、喜んで進まれたのでした。この道を進むことこそが、全人類のまことの救いとなることを信じておられました。

しかしながら、当時のユダヤ人の多くが期待していたメシア・救い主の姿は、主イエスの「受難予告」の内容とは大きくかけ離れていたのです。当時の人たちは一般的に、いわば政治的メシアを待望していました。と言うのも、イスラエルは紀元前6世紀にダビデ王朝が倒され、それ以後次々と異教の諸外国の勢力の支配下にありました。紀元前63年からはローマ帝国の支配下に置かれていました。そのような、長い試練の歴史の中で、神がやがてメシア・救い主をイスラエルに送ってくださり、イスラエルを外国勢力から解放し、神に選ばれた自由な信仰の民として導いてくださるであろう。そのメシアはたくましい軍馬にまたがり、知恵と力と栄光を身に帯び、神に選ばれた民イスラエルの名誉と栄光を回復するであろう。そのようなメシアの到来を待望する信仰が高まっていました。

いつの時代でも、人々は自分たちが希望するメシア像を作り上げます。自分たちの願いをかなえてくれる救い主を求めます。自分たちの不足や不安、恐れや痛みを取り除いてくれる英雄を思い描きます。けれども、主イエスの「受難予告」はそれらの一切を否定し、拒絶し、打ち壊します。そして、どこに神のみ心があるのか、どこに真実の救いがあるのかをわたしたちに明らかにします。わたしたちはこの「受難予告」から主イエスの福音宣教のお働きを見ていかなければなりません。それゆえに、主イエスはご自分の十字架の時が来るまでは、ご自分がメシア・救い主であることを公に言ってはならないとお命じになったのです。

これが「メシアの秘密」の意味であり、意図です。わたしたちは当時の弟子たちやユダヤ人とは違って、主イエスの十字架の福音をすでに聞き、信じていますから、何ものをも恐れることなく、だれにもはばかることなく、大胆に、すべての人に、主イエス・キリストこそがわたしたちの唯一の救い主であると告白し、また宣べ伝えることができるのです。「主イエス・キリストはわたしたちの罪のために苦難の道を歩まれ、十字架で死んでくださり、三日目に復活され、わたしたちを罪から救い、わたしたちに新しい復活の命を授けてくださる」と宣べ伝えることができるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちを、あなたがみ子主イエス・キリストの十字架と復活によって救い、新しい命に生かしていてくださいますことを、心から感謝いたします。今わたしたちが遣わされているこの時代の中で、この時代の人々に、主イエス・キリストの十字架の福音を大胆に宣べ伝えることができますように、わたしたち一人一人に聖霊を注ぎ、強め、励ましてください。

○主よ、どうかこの世界とそこに住む人々を憐み、あなたの救いのみ心をお示しくださいますように。深く病み、傷つき、傷んでいるこの世界をどうぞお救いくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月28日説教「主キリストの霊によって生きよ」

2023年5月28日(日) 秋田教会聖霊降臨日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エゼキエル書37章1~14節

    ローマの信徒への手紙8章1~17節

説教題:「主キリストの霊によって生きよ」

 きょうは聖霊降臨日です。主イエスが十字架で死なれてから50日が過ぎたこの日に、弟子たちの上に聖霊が注がれ、新しい力に満たされた弟子たちが語った説教によって、三千人余りの人が洗礼を受け、エルサレムに世界最初の教会が誕生した日です。その日以来、聖霊なる神は全世界に教会を誕生させ、またそれらの教会のすべての働き、務め、活動を導いておられます。今もそうです。きょうのわたしたちの礼拝もそうです。さらには、わたしたち一人一人の日々の信仰の歩みも、聖霊なる神によって導かれています。

 きょうの礼拝では、ローマの信徒への手紙8章のみ言葉から、聖霊なる神がわたしたち一人一人にどのように働いてくださるのか、また聖霊によって新しい命を与えられているわたしたちキリスト者はどのように生きるべきなのかについてご一緒に学びましょう。

 【8章1節】。冒頭の「従って」という言葉は、この手紙の著者であるパウロがこれまでに語ってきた内容を受けています。具体的には、3章21節から始まっている主イエス・キリストによって成し遂げられた救いのみわざと、それを信じる信仰によってすべての人は罪ゆるされ、救われるという福音です。主イエス・キリストはわたしたちすべての人間の罪をゆるすために十字架で死んでくださいました。そして、三日目に復活されて、罪と死とに勝利されました。だから、その主イエス・キリストの十字架の福音を信じるあなたがたは、「罪に定められることはありません」と宣言されているのです。

 「定める」と訳されている言葉は、裁判で用いられる法廷用語です。「罪に定められることはありません」とは「無罪判決が下される」という意味です。しかも、パウロがこれまで語ってきたことから判断すれば、この判決はこの世の法廷ではなく、天にある神の法廷での無罪判決という意味になります。つまり、あなたがた、主イエス・キリストを救い主と信じるあなたは、神のみ前で罪をゆるされ、罪なし、無罪であるとの判決を神からいただいている。だから、あなたはもはや罪の奴隷ではない、罪から自由にされている。あなたは主キリストと固く結ばれているのだから、もはや神から見捨てられている罪びとではなく、神に愛されている神の子どもたちである。そのようにして、神によって罪ゆるされている人、神に愛され、受け入れられている人として、神はあなたを見ておられるという意味です。

それをさらに説明して、2節ではこう言われています。【2節】。「霊」とは、聖霊なる神のことです。9節では、「神の霊」また「キリストの霊」とも言われています。この「霊、神の霊、主キリストの霊」が、使徒言行録2章に書かれているペンテコステ・聖霊降臨日の教会誕生の出来事を起こされた聖霊なる神のことです。パウロはこれから、聖霊なる神がわたしたちキリスト者にどのように働いてくださるのかを語るのですが、その前に聖霊について少し確認をしておきたいと思います。

 聖書では、「聖霊」「神の霊」「キリストの霊」また旧約聖書では「主の霊」と言われているのはみな聖霊なる神のことですが、単に「霊」と言われている場合も、ほとんどが聖霊なる神を指しています。聖霊なる神は、父なる神、子なる神と同様に、唯一の、永遠なる、主なる神のことです。キリスト教教理では「三位一体論」と言いますが、唯一の主なる神が、父として、子として、聖霊としての、三つの位格を持ちながら、天地万物の創造のみわざ、罪からの救いのみわざ、救いの完成のみわざをなしておられるという教理です。

 したがって、聖霊は天地創造の初めから、父なる神とみ子なる神と同様に、唯一の神として永遠におられ、旧約聖書ではイスラエルの民の信仰を導かれましたが、ペンテコステの日からは、すべての人の目にはっきりと分かるように、イスラエルだけではなく、全世界の至る所で、力強いお働きを始められました。それが、使徒言行録2章以下に書かれている内容です。聖霊がエルサレムだけでなく、パレスチナ地方全土に、小アジア地方に、ギリシャ、ヨーロッパ全域に、教会を建てられたことがそこには記録されています。そのことから、使徒言行録は聖霊行伝とも呼ばれることがあります。

 旧約聖書の時代にイスラエルの民の信仰を導かれた聖霊には、ペンテコステ以後には新しいお働きが付け加えられました。それは、主イエス・キリストによって成し遂げられた救いのみわざを証しし、すべての人を信仰へと導く働きです。すなわち、主イエスが苦難の道を進まれ、十字架に付けられ、死んで葬られ、そして三日目に復活され、40日目に天に挙げられた、その主イエスのご生涯のすべてがわたしの罪のためであった、わたしを罪から救い出し、わたしが新しい復活の命に生きるためにあったということを、わたしに悟らせ、その主イエスをわたしの唯一の救い主として信じ、受け入れる決断を与え、わたしを洗礼へと導かれる、それが聖霊なる神のお働きだということです。

 そのようにして、聖霊によって信仰へと導き入れられたキリスト者は、そののちのすべての信仰生活も聖霊によって導かれて生きるのです。それを、パウロは2節で、「霊の法則」によって生きることだと言います。「法則」とは、ある一定の原則に従って力を発揮し、支配することを言います。つまり、聖霊の力によって支配され、聖霊なる神の意志と導きに従って生きることです。主キリストに結ばれ、主キリストの救いの恵みをいただいている信仰者は、自分の意志や力、あるいは自分の好みや欲望のままに生きるのではなく、聖霊の力と働きによって、聖霊なる神のみ心に導かれて生きる者とされるのです。

 「霊の法則」と反対の意味を持つのが「肉の法則」です。それは「罪と死の法則」でもあります。生まれながらの人間はだれもみな「肉の法則」の中にあります。「罪と死の法則」に支配されています。そして、だれ一人として、この「罪と死の法則」から自分自身を解放することはできません。

でも、ほとんどの人は自分が「肉の法則」のもとにあり、「罪と死の法則」に支配されていることには気づいていません。聖書が語る神のみ言葉によって、人は初めてそのことを知らされます。そして、主イエス・キリストによって「肉の法則」と「罪と死の法則」から解放されて初めて、わたしたちは自分がかつてはそのような「法則」のもとに支配されていたのだということに気づくのです。

神はわたしたちを「罪と死の法則」から解放するために、ご自身のみ子を肉のお姿でこの世にお遣わしになりました。3節に、「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」と書かれてあるとおりです。神の御独り子なる主イエスは罪なき聖なる神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち人間と同じ肉のお姿となられ、わたしたち罪びとの一人となられました。そのようにして、わたしたち罪びとである全人類に代わって、ご自身が神の裁きを受けて、神に呪われた十字架で死んでくださったのです。主イエスはわたしたち肉にある人間が経験しなければならないすべての労苦と苦しみと痛みとをご自身に経験され、父なる神に見捨てられるほどの深い苦悩の中で、死を経験されました。主イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。そのようにして、ご自身の命をかけて罪と戦われ、そしてついに、罪に勝利されたのです。父なる神はみ子主イエスを三日目に復活させ、天に引き上げられ、ご自身の右の座につかせたのです。そのようにして、罪と死とに勝利された神のみ子主イエス・キリストだけが、わたしたちを「罪と死の法則」から解放することがおできになります。

11節で、パウロは主イエスによる救いのみわざをこのようにまとめています。【11節】。ここでは、「イエスを死者の中から復活させた方」という言葉が2度繰り返されています。死の中から命を生み出される神、無から有を呼び出される全能の神のみ力が強調されています。その神が、わたしたち一人ひとりにも聖霊を注いてくださり、わたしたちを「肉の法則」と「罪と死の法則」から解放してくださるとの、強い、確かな約束がここで語られているのです。

では、そのような固い約束を与えられているわたしたちはどのように生きるべきなのかを聞いていきましょう。9節に、「神の霊」「キリストの霊」とあり、また11節でも、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と言われています。前に紹介したキリスト教教理の「三位一体論」では、「聖霊は父なる神と子なるキリストから出る霊」と説明されますが、その聖霊がわたしたちに注がれるということは、三位一体の神がその父としてのお働き、そのみ子としてのお働き、またその聖霊としてのお働き、そのすべてのお働きによってわたしたちの救いのために、わたしたちの救いが完成されるために、力を尽くしておられるということを意味しています。神はご自身の愛と恵みのすべてをお用いになって、ご自身の義と真実のすべてをお用いになって、わたしたち一人一人を強くとらえ、支配し、導いておられるということなのです。だから、そこには命と平和が満ちあふれています。たとえ、わたしがこの世で試練や災いにあう時にも、病や孤独と戦う時にも、全能の父なる神の霊と主キリストの霊がわたしと共にいてくださり、わたしを最後の勝利へと導いてくださるからです。

父なる神と主キリストが、すでに「肉の法則」と「罪と死の法則」に勝利しておられます。その支配からわたしを解放し、自由にしてくださいました。だから、自由にされた者として、聖霊によって生かされている者として、自分の中にある肉の働きを殺して生きるようにと13節では勧められています。【13節】。すでに、主イエス・キリストによってあなたは「肉の法則」「罪と死の法則」から解放されている。だから、そのように生きよと勧められているのです。そうであるから、いまだこの世を支配している「罪と死の法則」に対しては恐れずに信仰の戦いを挑み、主キリストの福音を語り伝える使命を果たすことができるのです。「だから、あなたがたは聖霊によって生きよ、また生きることが許されている」と聖書は語るのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは肉の弱さの中にあり、罪と死とに支配されています。どうか、わたしたちを憐んでください。わたしたちを罪と死からお救いください。

○主なる神よ、今わたしたちはあなたがみ子主イエス・キリストによってわたしたちを罪と死からお救いくださり、聖霊によって生きる新しい命の道へと導いておられることを聞きました。どうか、あなたのお招きに応えて、主キリストの福音を信じ、命と平和の道を歩む者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。