10月15日説教「主イエスの二回目の受難予告」

2023年10月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書44章1~5節

    ルカによる福音書9章43~45節

説教題:「主イエスの二回目の受難予告」

 主イエスが、悪霊に取りつかれていた一人息子をいやされ、悪霊の支配から解放されたという奇跡に続いて、ルカによる福音書9章44節で主イエスは二回目の受難予告をされます。『新共同訳聖書』では43節を前半と後半とに分けて、その間に段落を設けて、「再び自分の死を予告する」という小見出しを付けていますが、これは42節までの奇跡のみわざと44節の受難予告とを分断させてしまうように思われるので、適切ではありません。

実は、この二つのことには深いつながりがあるのです。そのつながりは、わたしたちが18節から何度も確認してきたつながりと同じです。つまり、18節以下のペトロの信仰告白と21節以下の一回目の受難予告とがつながっているように、また23節以下の、キリスト者は日々に自分の十字架を背負って主イエスに従いなさいとの勧めが、その二つとがつながっているように、さらには28節以下の主イエスのお姿が山の上で栄光に輝いたという山上の変貌がそれにつながっているように、そして37節以下の悪霊に取りつかれた一人息子をいやされ、悪霊から解放されたという奇跡がそれにつながっているように、44節の二回目の受難予告もまたそれにつながっているのだということです。

ルカ福音書はそれぞれのつながりを強調しながら、一つ一つの主イエスのみ言葉、主イエスのみわざ、主イエスの出来事の意味を、より強め、深めているのです。わたしたちは聖書の記述の前後関係をていねいに考えながら、一つ一つの事柄の深い意味を探っていくことが求められています。

以上のことに注目するならば、43節はその節全体が前の悪霊追放の奇跡と、あとの二回目の受難予告とを結びつける役割を果たしているということに気づきます。しかもそれは、ある意味で逆説的な意味あいを持ったつなぎの文章と言えます。つまり、「人々は皆、神の偉大さに心を打たれ、イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていた」が、そのような偉大な神のみ力を与えられていた主イエスが、ここで二度目の受難予告をされているのだ。罪びとたちの手に引き渡されようとしているのだ。偉大な力と権威とを持っておられた神のみ子が、このように無力になり、罪びとたちによって葬り去られようとしているのだということを、ルカ福音書は強調しているのです。あるいは、このように言い換えてもよいかもしれません。悪霊に取りつれた人から悪霊を追い出され、悪霊をすらも支配される主イエスに人々が驚いているけれども、本当に驚かなければならない神の最も偉大なる奇跡は、人の子・主イエスが十字架につけられるということなのだ。それによって、神は全人類を罪から救ってくださったということこそが、世界中の人々が心を打たれ、驚き、そして見上げるべき神の救いのみわざなのだ。そのことをルカ福音書は強調しているのです。

 では、以上のことに注意を向けながら、43節を読んでみましょう。43節の前半では「人々は皆、神の偉大さに心を打たれた」とあり、後半では「イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていた」と書かれてあります。ここではまず、主イエスの悪霊追放の奇跡が神の偉大な、驚くべきみわざであったことが強調されています。それは、すべての被造物を支配しておられる全能の主なる神だけがなしうるみわざです。それとともに、ここでは神と主イエスとが結びつけられています。主イエスは神のみ子であり、神であることがここでは告白されているのです。主イエスが悪霊を追い出され、悪霊を支配していることは、そこに神のみ力が働いていることの目に見えるしるしなのであり、神のご支配のしるしなのです。

 主イエスは11章20節でこのように言われます。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。主イエスは神のみ子として、悪霊に勝利され、罪と死とに勝利され、神の救いの恵みによってすべての人を支配される神の国の王として、この世においでくださいました。そして、エルサレムで十字架にかかり、ご自身の罪なき尊い血をおささげになることによって、全人類の罪の贖いを成し遂げられ、救いのみわざを成就されるのです。

 【44節】。これは主イエスによる二回目の受難予告ですが、主イエスはまず「この言葉をよく耳に入れておきなさい」とお命じになります。主イエスはしばしば弟子たちに「よく聞け」とお命じになりました。8章8節や14章35節では、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。主イエスがこのように繰り返して弟子たちに「聞け」とお命じになった理由は、第一には、弟子たちは、またわたしたち信仰者は、主イエスのみ言葉を聞いて生きる者だからです。主イエスから聞かなければ、わたしたちの信仰の歩みは始まりませんし、正しく歩むこともできません。主イエスのみ言葉を聞き、それに教えられ、導かれて生きるのが、わたしたち信仰者です。

 第二には、弟子たちも、またわたしたちも、しばしば主イエスのみ言葉を忘れたり、他の言葉に耳を傾けたりしてしまう弱い者だからです。そこで、主イエスは繰り返して「よく聞け。耳を傾けよ」とお命じになります。わたしたちはその主イエスの命令を聞くたびに、わたしがそれまでいかに主イエスのみ言葉から離れた生活をしていたか、主イエスの導きに従っていなかったかに気づかされ、自らの罪に気づかされるのです。

 主イエスがご自身の受難予告を三度もされた理由も同様です。特に、主イエスの受難予告は、主イエスがどのようなメシア・キリスト・救い主であるのかを明らかにしていますから、誤ったメシア待望やご利益宗教界からわたしたちを守るために、非常に重要な内容を含んでいます。それゆえに、主イエスは何度もご自身のご受難と十字架、復活についてあらかじめ語っておられるのです。弟子たちとわたしたちを正しい信仰へと導き返そうとされるのです。

 一回目の受難予告は9章22節にありました。【22節】。そして、三回目は18章31節以下にあります。【31~33節】(145ページ)。二回目の受難予告は最も短くなっています。二つの点を取り上げましょう。

 一つは、主イエスはご自身のことを「人の子」と表現されているのは三つの受難予告に共通しています。受難予告の箇所に限らず、福音書の中で主イエスはご自身のことを「人の子」と表現しておられます。ご自身が「神の子」であるとか、「メシア・キリスト・救い主」であると、ご自身の口で言われるケースはありません。それはおそらく、当時のユダヤ人の間にあった、誤ったメシア待望論と混同されたり、誤解されたりするのを防ぐためではなかったかと推測されています。

 「人の子」という表現は、一般的に人間を意味する場合もありますが、福音書の中では特別な意味あいで言われているように思われます。それは、神が人の子、人間となられたたという意味です。主イエスは神が人となられた神のみ子であるということがこの表現で暗示されていると考えられています。特に、旧約聖書イザヤ書で預言されているような、神から特別の使命を託されて創造され、選ばれた人の子、特にまた、神の使命を果たすために苦難の道を歩む主の僕(しもべ)としての人の子という意味も含まれているように思われます。主イエスは旧約聖書のすべての預言を成就する神のみ子であり、「人の子」なのです。

 次に、「人々の手に引き渡される」についてです。「引き渡される」という言葉は三回目の受難予告でも用いられています。この言葉は、新約聖書の中で特別の意味を持った、いわば専門用語です。福音書の中では主イエスの受難予告の箇所と受難の場面にしばしば用いられます。パウロの書簡でも用いられています。この言葉がイスカリオテのユダについて用いられるときには、「裏切る」と翻訳されます。22章22節で主イエスはユダについてこう言われます。「人の子は、定められたとおりに去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」。ここで「裏切る」と訳されている言葉と「引き渡す」と訳されているもとのギリシャ語は同じです。

 この「引き渡す」という言葉には次のような意味が込められています。主イエスは人となられた神のみ子でしたが、罪びとたちの手から手へと引き渡され、ついには十字架に引き渡されたということです。まず、イスカリオテのユダに引き渡されます。ユダは主イエスをユダヤ人指導者の祭司長、長老たちに引き渡します。彼らは主イエスをユダヤ最高議会の法廷に引き渡します。ユダヤ最高議会はその裁判の際に、異邦人であるローマの総督ピラトの手に引き渡します。そして、ピラトはローマの処刑方法であった十字架刑に主イエスを引き渡します。そのようにして、主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、次々に罪びとたちの手に引き渡され、時に吟味され、時に侮辱され、そして捨てられ。十字架で死なれたのです。ここには、神がお遣わしになったメシア・キリスト・救い主である主イエスを受け入れず、信じないで、罪ありとして裁く人間の傲慢と、深く大きな罪とが暗示されているのです。

 使徒パウロはこの同じ「引き渡す」という言葉を全く違った意味で用いています。ローマの信徒への手紙8章32節にこのように書かれています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。パウロはここで、主イエスが罪びとたちの手によって次々と引き渡されていったという人間の罪の連鎖、その罪の深さ、大きさをもはるかにに上回る神ご自身の「引き渡し」のみわざを見ているのです。神はご自身のみ子を罪のこの世にお与えになっただけでなく、そのみ子を罪びとたちの手によって、最後には十字架の死へと引き渡されたのです。主イエスを十字架に引き渡したのは罪びとである人間たちであるかのように思われましたが、しかし実はそこで、人間のすべての罪をはるかに超えた神の大いなる愛があったのです。神はご自身の最愛のみ子をわたしたち罪びとにお与えくださったほどにわたしたちを愛されたのです。神はこのようにして、人間の罪のわざを神の救いのみわざへと変えてくださいました。ここに、神の偉大なる愛の「引き渡し」があります。ここにこそ、全世界のすべての人が驚きをもって見上げ、あがめるべき神の大いなる奇跡のみわざがあるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち罪びとたちのためにご自身の最愛のみ子を十字架に引き渡されるほどにわたしたちを愛され、わたしたちを罪から救ってくださいました。もはや何ものも、あなたのこの大きな愛からわたしたちを引き離すことはできません。主よ、どうかわたしたちをあなたが愛される民として、み国の完成の時に至るまで、守り、支え、導いてください。

○主よ、世界は混乱と危機に満ちています。戦争や破壊、災害や略奪、貧困や飢餓に苦しむ人たちが、全世界至る地域に、数多くおります。どうかこの悩める世界をあなたが顧みてください。憐れんでください。為政者たちに戦争の愚かさを気づかせ、あなたの愛と恵み、義と平和を与えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月8日説教「神によってエジプトに遣わされたヨセフ」

2023年10月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記45章1~28節

    使徒言行録7章9~16節

説教題:「神によってエジプトに遣わされたヨセフ」

 きょうの礼拝で朗読された創世記45章では、37章から始まったヨセフ物語のクライマックスとも言うべき感動的な場面が展開されています。ヨセフはここで、20数年前に分かれた11人の兄弟たちに自分の身を明かし、彼らとの涙の再会をします。1節に、「ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした」とあり、2節には、「ヨセフは声をあげて泣いた」と書かれています。また、14節、15節にはこう書かれています。【14~15節】。ヨセフにとって11人の兄弟たちとの再会がいかに感動的であったことか、特に、ただ一人の弟ベニヤミンとの再会がどれほどに感動的であったことか、熱い涙と抱擁なしにはなしえなかったものであったということを、聖書は繰り返して強調しています。

 彼らがどうして別れなければならなかったのか、20数年前に彼らにどのようなことがあったのかを知っているわたしたちには、彼らの感動と涙の意味はよく理解できます。少し過去へと振り返ってみましょう。

 族長ヤコブの年寄子として生まれたヨセフは、父からの特別な愛を受け、他の兄弟たちからはねたまれていました。しかも、生意気で、夢見る少年であったヨセフは、父と母と11人の兄弟たちがみな自分の前にひれ伏して自分を拝んでいる夢を見たと話したために、兄たちの怒りと憎しみは頂点に達し、ついに彼らはヨセフをエジプトに向かう商人たちに売り渡してしまいました。そして、父ヤコブにはヨセフは野獣に食い殺されてしまったと報告しました。それ以来、ヨセフの消息は20数年間、彼らには全く分かりませんでした。

 一方、ヨセフはエジプトの高官の奴隷として仕え、主人の信頼を得ていましたが、根拠のない嫌疑をかけられ、投獄されてしまいます。ヨセフは異教の地で、家族から離れ、生きるか死ぬかもわからないまま、暗い牢獄の中で不安と試練の日々を送ることになったのでした。

 しかし、主なる神はエジプトのヨセフとも共におられ、彼をお見捨てになりませんでした。彼をお用いになって、新しくエジプトの地において救いのみわざを前進させてくださいます。

 ヨセフは神から与えられた知恵によって、エジプト王ファラオの夢を解き明かし、その知恵が王に認められたために、ファラオに用いられてエジプト全土の総理大臣の位につかされました。ヨセフの知恵によって、7年間の豊作の間にエジプトの倉庫は穀物で満杯になり、続く7年間の飢饉に備えました。

 カナンの地にも飢饉は広がり、ヤコブはエジプトにある食料を買うために子どもたちを派遣します。第1回目には、末の子ベニヤミンを除いて10人の子どもたちで出かけました。彼らはエジプトで自分たちがひれ伏して食糧を買い求めた大臣が、かつて自分たちが売り渡したヨセフだとは全く気づいていませんでした。ヨセフは次に来るときには末の子も一緒に連れて来なければならないと命じました。

 そして翌年、ベニヤミンを加えた11人の子どもたちは再び食糧を求めてエジプトの大臣ヨセフの前にひれ伏しました。ヨセフが子どものころに見た夢が実現しました。その2回目のエジプト訪問のことが、43~44章に詳しく記されています.その続きがきょうの45章です。そこで初めて、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かしました。3節にはこのように書かれています。【3節】。このようにして、兄弟12人全員の感動的な再会の場面が描かれていくのです。

 けれども、ここでわたしたちはもう一つのことに注目しなければなりません。ヨセフと11人の兄弟たちの再会を感動的にしているのは、彼らの不思議な運命のめぐりあわせとか、しばらく離れていた肉親の情とかによるのではなく、あるいはまた、ヨセフに対する兄たちの憎しみや悪意、ヨセフ自身が経験した多くの試練、あるいは幸運とかの、それぞれのこれまでの起伏に富んだ人生の歩みとかによるのでもなく、それらのすべてを越えて働いている主なる神のみ手、神のみ心、神の導きこそが、この章では何度も語られており、強調されているということ、それこそがこの章全体を大きな感動で包んでいるのだということ、そのことにわたしたちは気づかされるのです。

 そのことが4節以下で、ヨセフの信仰告白として語られています。【4~8節】。ここに語られている内容は、37章から始まったヨセフ物語の中心的な意味であり、テーマであり、それはまたヨセフのこれまでの信仰の歩みを振り返っての信仰告白でもあります。さらにまた、それは新約聖書と旧約聖書全体を貫いている聖書の中心的なテーマであると言ってもよいでしょう。もう一度確認してみましょう。【5節b】。【7節】。そして【8節a】。三度も同じ内容が繰り返されています。これらの文章の主語はいずれも神です。しかも、人間たちの様々な悪意や憎しみや罪、あるいは苦難や試練の数々を越えて、それらを貫いてみ心を行なわれた主なる神が、すべての文章の主語です。すべての出来事、すべての事柄の主語です。その主なる神がわたしをこのように導いてくださったのだということを、ヨセフは繰り返して告白しているのです。

 ヨセフは自分が兄たちによってエジプトに売り飛ばされたということを忘れてしまったのではありません。4節では、「わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフである」と言っています。にもかかわらず、自分は神によってここに遣わされたのであって、それは神があなたがたの命を救うために、あなたがたの子孫を地に残すため、そのようになさったのだと告白しているのです。これは一体どういう意味なのでしょうか、なぜ、ヨセフはそう言うことができたのでしょうか。そのことをきょうのみ言葉から読み取っていきましょう。

 まず第一に言えることは、ヨセフはここで人間のはかりごとや行動ではなく、神のご計画、神の摂理、神のみわざを見ているということです。なぜならば、神の永遠なる摂理に基づいた神のみわざこそが、人間たちのすべてのはかりごとや行動を越えて、ヨセフの人生を導き、また人間の歴史を導いているということをヨセフは信じ、また今その現実を実際に見ているからです。すなわち、兄弟たちがヨセフをねたみ、憎しみを募らせて彼に悪しき計略をたくらんだにもかかわらず、神は20年の歳月を経て、今ここに兄弟たち全員を和解へと導かれ、しかも、かつて兄弟たちによって命を狙われ、売られたヨセフを、今は彼らの命を救うヨセフとなしたもうたからです。人間たちのどのような悪しき計略や罪のわざも、また苦難や試練も、神のご計画、神の救いのみわざを変えることも、止めさせることもできないのです。むしろ、神はそれらのすべてをお用いなって、それらのすべてを神の救いのみわざとなしてくださるのです。

 創世記最後の章で、ヨセフはもう一度このように言います。【50章19~20節】(93ページ)。また、使徒パウロはローマの信徒への手紙8章28節でこのように書いています。「神を愛する者たち、つまり、御計画にしたがって召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。神がわたしたちの人生を導かれる主でありたもうとき、また神が歴史の支配者であられる時、わたしたちもまたヨセフと共に,パウロと共に、そのように信じ、告白することができるのです。

 わたしたちはさらに進んで、主イエス・キリストの十字架の福音に思いを至らせるでしょう。当時のユダヤ人指導者たちが、またローマの総督が、こぞって神を冒涜する者、世を混乱させる者として裁き、十字架刑に処した主イエスを、神は全世界のすべての人の罪を贖い、その罪をゆるす救い主としてお立てくださり、この主イエス・キリストによってご自身の救いのご計画を最後の完成へと至らせたもうたのです。そのようにして神は族長アブラハム、イサク、ヤコブとその12人の子どもたちによって着々と押し進められてきた救いのみわざを成就されたのです。

 創世記45章のヨセフの信仰告白の基礎になっているもう一つのことは、7節に暗示されています。【7節】。この言葉は、わたしたちが創世記12章から繰り返して聞いてきた神の約束のみ言葉を思い起こさせます。創世記12章2節で神はアブラハムにこのように言われました。【12章2節】(15ページ)。また13章16節ではこう約束されました。【13章16節】。これをアブラハム契約と言います。この契約はアブラハムの子イサクへ、さらにその子ヤコブへ、そしてヤコブの12人の子どもたちによって形成されるイスラエルの民ヘと受け継がれていきました。ヨセフは今その神の約束のみ言葉、神の契約を確認しているのです。神の約束はエジプトと全国を襲った大飢饉の中でも有効に生きています。神の約束のみ言葉は、今食糧難にあるヤコブ一家の命を救うだけでなく、全世界のすべての人を罪と死とから救い、まことの命へと、永遠の命へと導くことによって、その最終目的に達するのです。

 9節以下で、ヨセフは兄たちに言います。「カナンの地に帰ったら、父ヤコブを連れて、一族みんなでエジプトに移住してきなさい。エジプトの最も良い地をみんなのために用意するから」と。

 このようにして、ヤコブ・イスラエルの12人の子どもたち全員がエジプトに移住することになったのでした。しかし、もちろんエジプトが彼らの最終目的地ではありません。さらにそれから400年以上のエジプトでの寄留の生活を経て、彼らイスラエルの民は指導者モーセと共にエジプトの奴隷の家を脱出し、荒れ野の40年間の旅を経て、神の約束の地カナンへと帰っていくことになります。それからさらに千数百年のイスラエルの民の歴史を導かれた主なる神は、ついにこの民の中からメシア・救い主をお遣わしになるという、壮大な神の救いの歴史が展開されていくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは創世記のみ言葉をとおして、あなたの永遠なる救いのご計画を知らされました。あなたは今もなお、その救いの歴史を導いておられます。今この世界はあなたのみ心から離れ、不義と邪悪に満ちているように見えますが、あなたは見えざるみ手をもって、この世界とその中に住む一人一人の歩みを導いておられます。どうか、あなたのみ名があがめられ、あなたのみ心が地にも行われますように。

○主なる神よ、あなたがこの世からお選びくださり、お建てくださった主キリストの教会もまた、多くの破れを持ち、痛み、弱っています。どうぞ、あなたを信じる民を強めてください。あなたのみ言葉によって力と勇気と希望とをお与えください。この時代の中で、それぞれの建てられている国や地域で、主キリストの福音を大胆に語り、あなたのご栄光を現わしていくことができますように。その群れに連なっている一人一人にあなたからの豊かな祝福が与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月1日説教「神の恵みによらなければ、だれも救われない」

2023年10月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(27回)

聖 書:イザヤ書61章1~3節

    エフェソの信徒への手紙2章1~10節

説教題:「神の恵みによらなければ、だれも救われない」

 『日本キリスト教会信仰の告白』は『使徒信条』に前文を付け加えた構成になっています。『使徒信条』は紀元4~5世紀ころにかけて完成したと考えられています。基本信条の一つに数えられ、世界のすべての教会が信じ、告白しています。

 『使徒信条』に付け加えられた前文では、『使徒信条』の中でままだ十分に告白されていない、16世紀の宗教改革以後のプロテスタント教会の特徴、特に宗教改革者カルヴァンの流れを汲む改革教会の信仰と神学の特徴をより鮮明に言い表しています。

 今わたしたちが学んでいる箇所でもそのことが確認されます。「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」。この箇所で用いられている「三位一体」という言葉は『使徒信条』では用いられていません。また、「神の恵みによらなければ」という表現も『使徒信条』にはありません。「三位一体」なる神の恵みによってのみ救われるという教理は、宗教改革者たちが聖書から再確認したプロテスタント教会の神学の中心です。

 きょうは、「三位一体論」というキリスト教会教理に触れながら、「神の恵みによってのみ」という宗教改革が強調した信仰について、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 まず、『使徒信条』と「三位一体論」との関係ですが、『使徒信条』の中には三位一体という言葉は用いられてはいませんが、そこにはすでにその信仰が前提にされていることは確かです。『使徒信条』の第1項では、「わたしは、天地の造り主、全能なる神を信じます」と告白し、第二項では「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」、そして第三項で「わたしは、聖霊を信じます」と告白しています。これは、三つの別々の神を信じることを告白しているのではなく、父なる神、子なる神、聖霊なる神が一人の神であり、唯一の主なる神が、父として、子として、また聖霊として働いておられ、一つの救いのみわざをなしておられるという、「三位一体」なる神が告白されていることは言うまでもありません。

 『日本キリスト教会信仰の告白』がその前文で「三位一体」というキリスト教教理の用語を用いているのは、古代教会から中世の教会、宗教改革の時代から今日に至るまでの教会の教理の歴史を重んじていることの表明であり、またその中で「三位一体論」が成立し、構築され、今もなお試みられているキリスト教教理の確立に向けての営みに自分たちもまた参加していることの表明でもあるのです。さらに言うならば、近代になって、キリスト教教理の伝統から外れて、全く独自の教えを説いてキリスト教会を混乱させている異端的キリスト教(彼らは一様に三位一体論を認めません)に対する明確な反対の表明でもあるのです。

 では次に、「神の恵みによらなければ」という告白の意味について考えていきましょう。この言い方には,強い否定の意味があります。「この三位一体なる神の恵みによらなければ」、だれ一人として、また他のどのような手段や方法によっても、決して救われることはなく、永遠の命を与えられることはなく、神の国に入ることはできないという、強い否定です。と同時に、このただ一つの道だけがある、これ以外にはない、これで十分だという強い断定でもあります。

 宗教改革者たちはこれを、「神の恵みのみによって」と表現しました。「神の恵みのみ」は「聖書のみ」「信仰のみ」と共に、宗教改革の、いわば合言葉でした。彼らはこの「のみ」という言葉を用いて、他のものを厳格に排除し、そのものだけに固執し、それだけに集中することによって、自分たちの信仰をより鮮明にしようとしたのでした。と言うのは、当時のローマ・カトリック教会がそうであったように、いつの時代にも、「神の恵みによってのみ救われる」というキリスト教信仰の真理がゆがめられ、あいまいにされ、神の恵み以外の他の何かによっても救われると考えたり、あるいは罪人が救われるためには神の恵みのほかに、これもあれも必要だと考える、そのような誤った信仰が教会を誘惑するからです。

 そのような誤った信仰理解との戦いは、すでに新約聖書の時代から始まっていました。主イエス・キリストの十字架の福音による救いが示されているにもかかわらず、ユダヤ人キリスト者は律法を守り行うことや、契約の民のしるしとしての割礼を受けることを救いの条件に加えました。パウロをはじめとする初代教会の使徒たちは、「神の恵みのみ」の信仰をゆがめるそのような誤った理解を教会から取り除くために戦いました。

 ローマの信徒への手紙3章20節で使徒パウロはこう書いています。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては、罪の自覚が生じるだけだ」(20節参照)と。それに続けて23節以下でこう言います。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(23~24節)。ここに、「神の恵みにより」「無償で」と書かれています。神の恵みとはどのようなものであるのかがここから分かります。また、別の視点から、11章6節では、神の恵みによるとはどういうことであるのかが語られています。「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうなれば、恵みはもはや恵みではなくなります」。

 以上の2箇所の聖書から、神の恵みとはどのようなものなのかを教えられます。第一に、神の恵みとは、無償で、値なしに与えられるということです。何らかの報酬として与えられるものでは全くありません。神の恵みを受けるに値しない、いやむしろ神に背く罪びとであるわたしたちに対して、神の側から一方的に、神の憐みによって、神からの贈り物として、差し出され、与えられる恵みなのです。わたしたちはそれをただ驚きと感謝とをもって受け取る以外にない恵み、それが神の恵みなのです。そして、その恵みによってわたしたちは罪から救われ、神の国の民とされているのです。

 第二に、神の恵みは他のすべてのものを排除するということ、不必要とするということです。あるいはまた、神の恵みに何かを付け加えるならば、それはもはや神の恵みではなくなってしまうということです。神の恵みは神の恵みだけで十分であり、純粋に神の恵みだけであるときに、最も大きな救いの力を発揮し、すべての人を罪から救うのです。

 『日本キリスト教会信仰の告白』で「神の恵みによらなければ」と表現し、宗教改革者たちが「神の恵みのみ」と言ったのは、そのような内容を含んでいるのです。

 では、もう一箇所、きょうの礼拝で朗読されたエフェソの信徒への手紙2章4節以下を開いてみましょう。ここには「恵み」という言葉が3度用いられています。5節に、「あなたがたの救われたのは恵みによるのです」。7節では、「神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです」。また8節では、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」とあります。神の恵みは豊かであり、限りなく広く、深く、数多くあります。その中で、ここで強調されているのは「救いの恵み」です。神の恵みの中で最も尊く、最も大きな恵みは「救いの恵み」です。罪の中で死んでいたわたしたちを、主キリストの十字架と復活の福音によって罪から救い、新しい命に生かし、来るべき神の国での勝利と栄光を約束してくださいました。その豊かな神の恵みの前で、わたしたちはだれも自らを誇ることはできません。わたしたちはただ信仰によって、主イエス・キリストがわたしのためになしてくださった救いのみわざを信じ、受け入れるのです。それがわたしたちの救いです。

 最後に、もう一度「三位一体なる神の恵みによらなければ」と告白されている、「三位一体なる神」という表現に注目してみましょう。別の言い方をすれば、「三位一体なる神」でなければ救われない、救いは完成されないということであり、また「三位一体なる神」の救いのみわざであるからこそ、それは完全であり、永遠であり、普遍的であるということを強調していることにもなります。

 『日本キリスト教会信仰の告白』でこれまでに告白されていた「三位一体なる神」のそれぞれのお働きについて振り返ってみましょう。冒頭の告白では、「わたしたちの唯一の主であるイエス・キリストがまことの神でありまことの人として、十字架で完全な犠牲をささげてくださり,復活して永遠の命の保証をお与えくださり、わたしの救いが完成される終わりの時まで、わたしのために執り成していてくださる」と告白されていました。

 次に、「父なる神の永遠の選びによって、この救いのみわざを信じるすべての人は、神によって義と認められ、罪ゆるされ、神の子どもたちとされる」と告白されていました。

 第三に、「聖霊なる神が、救われた信仰者を聖化し、神のみ心に喜んで従っていく人へと造り変えてくださる」ことが告白されていました。

 このようにして、お一人の神が、父なる神として、子なる神として、聖霊なる神として、三つの位格をフル稼働させるようにして、ご自身の全人格、すべての愛と恵みを注ぎ尽くすかのようにして、一つの救いのみわざのためにお働きくださっておられるのです。それゆえに、その救いのみわざは完全であり、永遠であり、普遍的であり,全人類を、すべての人を、罪から救う力を持つのだということが、ここで告白されているのです。その救いのみわざは、何かによって補われる必要は全くありません。また、それから何かを差し引いたり、付け加えたりする必要も全くありません。「この三位一体なる神の恵みによって」、わたしたちは罪から救われ、神の国の民とされているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中で滅びにしか値しなかったわたしたちを、あなたがみ子の十字架の血によって罪から贖い、救いの恵みをお与えくださいましたことを、心から感謝いたします。あなたを離れては、わたしたちはまことの命を生きることはできません。どうか、これからのちも日々あなたの命のみ言葉によってわたしたちを養い、み国が完成される日まで、わたしたちの信仰の歩みをお導きください。

○天の神様、病んでいる人を、またその人を介護する家族を励まし、支えてください。重荷を負って苦しんでいる人を助け、導いてください。孤独な人,道に迷っている人、飢え乾いている人、迫害されている人に、あなたが伴ってくださり、一人一人に希望と慰めと平安をお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月24日説教「異邦人コルネリウスが見た幻」

2023年9月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章1~8節

    使徒言行録10章1~8節

説教題:「異邦人コルネリウスが見た幻」

 使徒言行録10章1節から、カイサリアでの「コルネリウスの回心」と言われる出来事が始まります。これは11章18節まで続きます。使徒言行録の中で、一つの出来事としては最も長く記録されており、出来事の経過が詳しく語られ、また同じ内容が繰り返して語られています。この出来事が使徒言行録の中で非常に重要な意味を持っていることを表しています。そして、最後に11章18節には、次のようなまとめの言葉が記され、この出来事の頂点に達します。そこをあらかじめ読んでみましょう。【11章18節】。

 神は、主イエス・キリストの福音によって、先に選ばれた民イスラエルだけでなく、異邦人にまで救いのみ手を差し伸べてくださった。そして、全世界の、すべての人々に対しても、まことの命に至る悔い改めの道を、罪からの救いの道を開いてくださった。そのことが、コルネリウスとその一家、また彼の友人たちも含めて、多数の異邦人が洗礼を受け、また聖霊の賜物が与えられるということによってはっきりと示されたのです。

 異邦人の回心については、すでに8章26節以下に、エチオピアの高官がピリポから洗礼を受けたという出来事が記されていましたので、そのこと自体は新しいことではありませんが、ここでコルネリウスの回心について多くのスペースを割いて報告されていることには、理由があります。と言うのは、初代教会においては、異邦人への伝道の道が開かれたことによって、それに伴っていくつかの重要な課題が浮かび上がってくることになったからです。その課題の一つが、旧約聖書の律法の問題です。律法では、神に選ばれた聖なるものと、そうではない宗教的に汚れたものとの区別を明確に定めています。異邦人伝道においては、その区別をどのようにして乗り越えるかが大きな課題となりました。その課題を念頭に置きながら、きょうのみ言葉を読んでいきましょう。

 【1~2節】。カイサリアはエルサレムから北西約100キロメートル、地中海に面したパレスチナ地方最大の港町でした。当時は、ローマ帝国に属するユダヤ州の首都が置かれ、ローマ軍が駐留していました。カイサリアにはすでに8章40節に書かれてあったように、エルサレム教会の大迫害によって市内から追放されたフィリポが福音を宣べ伝えていました。その後のフィリポの活動についてや、この町に教会がすでにあったのかどうかについては書かれていませんが、やがてこの町に異邦人の教会が建てられていくことになる、その次第について、わたしたちはこのあとで読むことになります。

この町の駐留ローマ軍の百人隊長(百人の兵士を指揮する隊長)で、コルネリウスとう人物についての紹介が2節に詳しく書かれています。彼は「イタリア隊」と呼ばれる部隊の隊長ですから、生粋のローマ人であったと思われます。ユダヤ人から見れば、神の選びの民ではない異邦人ということになります。

でも、彼は旧約聖書のイスラエルの民、ユダヤ人の宗教、ユダヤ教の神を信じていました。異邦人でありながらイスラエルの唯一の神を信じている人を一般には「敬神家」と呼びます。正式にユダヤ教に改宗するためには、割礼の儀式を受け、洗礼を受けることが必要でしたが、敬神家は正式な改宗者ではありませんでしたが、その信仰は非常に熱心でした。

イスラエルの民・ユダヤ人は紀元前8世紀ころから世界各地に散らされていきましたが、彼らをディアスポラ・ユダヤ人と呼びますが、彼らは散らされた地で会堂を立て、旧約聖書の律法を守り、主なる神を信じる信仰を貫いていきました。彼らディアスポラ・ユダヤ人の信仰の証しによって、旧約聖書が教えている唯一神教や神の天地創造の信仰、高い倫理観や道徳心、さらに固い共同体意識が各地の教養ある人々に強い影響を与えました。それらの敬神家は、正式にユダヤ教に改宗するには至っていませんでしたが、ユダヤ人の会堂に出入りし、ユダヤ人と一緒に礼拝し、ユダヤ人と同じように律法を守り、祈りの生活をし、旧約聖書の教えを学んでいました。

 コルネリウスはそのような敬神家の一人でした。彼の家族もみなイスラエルの神を敬っていました。彼はその信仰の証しとして、貧しい人々のために施しをし、日に三度の祈りをささげ、おそらくはエルサレム神殿への巡礼も欠かさず行っていたと思われます。彼は非常に熱心な敬神家でした。けれども、彼の信仰はそのままどれほどに熱心を極めたとしても、そこには真実の救いはないのだということを、わたしたちは言わなければなりません。いや、わたしたちがそう思うよりもはるか前に、神ご自身が彼を真実の信仰へと、まことの救いへとお導きくださるために道を備えておられるのです。主なる神はこの熱心な敬神家コルネリウスが主イエス・キリストの十字架の福音によって本当の意味で救われるために、また彼の家族と彼の周囲の親しい友人たちも本当の救いを経験するために、使徒ペトロをお用いになり、そのみわざをお進めになります。

 【3~8節】。「午後3時」はユダヤ人の祈り時でした。熱心なユダヤ人は朝9時と正午と午後3時に、神に祈りをささげる習慣がありました。敬神家のコルネリウスもその習慣を守っていました。その時、神の天使が現れました。「神の天使」と「幻」は、旧約聖書以来、神が人間に現れ、語りかけられる時の啓示の手段の一つです。そこでは、神ご自身が人間と出会われ、人間に語っておられます。

 4節の「怖くなって」と訳されている箇所は、「恐れる」という言葉です。聖書の中にしばしば書かれている、人間が神と出会う際に覚える、いわば「聖なる恐れ」のことです。罪に汚れている人間が聖なる神と真実の出会いをする際に覚えざるを得ない恐れのことです。わたしたち人間はだれもみな罪に汚れ、滅ぶべき者です。いと高きにおられる聖なる,永遠なる神、最高の裁き主なる神のみ前に立つときに、わたしたちはだれもみな恐れざるを得ません。このような聖なる恐れがなければ、そこには真実な神との出会いも起こりません。もし、神に対する聖なる恐れを失っていたら、その信仰は単なる教養とか、道徳や倫理とか、あるいはご利益主義的な信仰になってしまうでしょう。

 コルネリウスは聖なる恐れの中で、「コルネリウスよ」という呼びかけを聞き、彼は「主よ、何でしょうか」と応答します。主なる神を恐れ、そのお招きに応える時、神はわたしたち人間から恐れを取り除き、恐れに替えて喜びと感謝とをお与えくださいます。コルネリウスの場合もそうでした。

 神は彼の熱心な信仰とその証しである祈りと施しを覚えていてくださると天使は告げます。神はすべての人の信仰の歩みを、たとえそれが人々の目には隠されていても、だれにも気づかれなくても、そのすべてを見ておられ、覚えておられます。覚えるとは、よく見ておられるとか記憶にとどめておられるという意味だけでなく、神が彼の信仰の歩みとその行ない、奉仕に対して正しく報い、応えてくださるということでもあります。

 神はコルネリウスに対して、どのように報い、応えてくださるのでしょうか。彼自身はまだその恵みの大きさに気づいてはいませんが、神は彼の信仰のわざや祈りに、はるかにまさる大きな恵みをもって、お応えくださいます。コルネリウスはあとになってそのことに気づきます。すなわち、神が使徒ペトロをお用いになって、彼と彼の家族とがいまだ聞いたこともなく、見たこともないほどの限りなく大きな、豊かな救いの恵み、主イエス・キリストの十字架の福音と出会い、それによって悔改めへと導かれ、罪のゆるしを与えられ、朽ちることのない永遠の命を受けとるという、大きな恵みをもって神が応えてくださるということを、コルネリウスはやがて知ることになるのです。

 神はわたしたちの小さな、欠けの多い信仰に対しても、貧しい証しのわざや、たどたどしい祈りをもみな覚えていてくださり、それらに対してもわたしたちの願いにはるかにまさった大きな恵みをもって、お応えくださるということを、わたしたちは信じたいし、信じてよいのです。

 神の使いは、ヤッファにいるペトロを招くようにとコルネリウスに指示します。エルサレム周辺の町々に宣教活動をしていたペトロは、9章43節によればヤッファで皮なめし職人のシモンの家に滞在していたと書かれていました。ヤッファはカイサリアから地中海沿岸に沿って50キロメートルほど南にある町です。ヤッファではペトロが病気で死んだタビタを生き返らせたという奇跡について、すぐ前に書かれていました。ヤッファにはすでに信仰者の群れができていました。シモンもすでに洗礼を受け、その群れの一員だったと推測されます。

 シモンは皮なめし職人であると紹介されています。当時の社会では、皮なめしという職業は最も尊敬されない、汚れた職業と考えられていました。しかしながら、シモンは主イエス・キリストを信じる信仰という、最高に尊い宝を与えられていました。神によって罪ゆるされ、救われている、神の民の一人とされていました。そして、初代教会のリーダーである使徒ペトロに宿を提供するという名誉を与えられています。それは、何という大きな恵みであることでしょうか。

 ペトロがシモンの家に滞在していたということは、ペトロが次の9節以下で見ることになる幻と何らかの関係があるように思われます。ペトロはその幻によって、神が清められた生き物はすべて清く、それを食べても汚れることはないということを神から示され、それによって旧約聖書の律法で定められていた宗教的に清い生き物と汚れた生き物の区別が取り除かれることになるのですが、それに先立って、主イエス・キリストを信じる信仰によって、どの職業が尊いとか汚れているとかの区別が取り除かれているということを、ここではあらかじめ語られていると読むことができます。

 主イエス・キリストの福音は、職業の違いによるすべての差別を取り除きます。職業に就くキリスト者は、その職業の違いにかかわらず、すべてのキリスト者は自分の職業をとおして主なる神に仕え、主キリストの福音を証しする使命を託されています。また、主キリストの福音を信じるキリスト者にとっては、男と女の違いからくる差別はすべて取り除かれます。みな互いに主キリストによって愛され、罪ゆるされている兄弟姉妹たちとして隣人に仕えるように招かれています。主キリストの福音を信じるキリスト者にとっては、民族や言語の違い、社会制度や生活様式の違い、その他のどのような違いも、お互いを分断したり、上下関係にしたりすることはありません。みな主キリストにあってみな一つだからです。みな主キリストの救いの恵みに生かされているからです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが主イエス・キリストの福音によってわたしたちを一つの群れとして集めてくださったことを感謝いたします.どうか、この国と、アジアの諸国と、全世界とが、主キリストの福音によって一つに結ばれ、全き平和が築かれますように。

○分断や侵略によって多くの血が流され、多くの破壊がなされている国や地域に、あなたが和平と分かち合いとを与えてください。災害や食糧難によって犠牲にされている子どもたちや弱っている人たちに、助けの手が差し伸べられますように。そして、あなたからの平安と慰めが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月17日説教「悪霊に取りつかれた一人息子をいやされた主イエス」

2023年9月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書42章1~7節

    ルカによる福音書9章37~42節

説教題:「悪霊に取りつかれた一人息子をいやされた主イエス」

 ルカによる福音書9章37節にこのように書かれています。【37節】。「一同」とは、28節によれば、主イエスペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちです。主イエスはこの日に、この三人の弟子たちを連れて、祈るために山に登られました。すると、祈っておられるうちに、主イエスのお姿が真っ白に光輝きました。「山上の変貌」と言われる場面です。その時、旧約聖書時代の偉大な二人の預言者、モーセとエリヤが主イエスと話している様子を、弟子たちは見ました。

 この「山上の変貌」と言われる出来事は、主イエスの最後の勝利と栄光のお姿を、先取りしています。この出来事が、18節以下のペトロの信仰告白と21節以下の主イエスの第一回目の受難予告、そして主イエスの弟子たる者は日々自分の十字架を背負って主イエスに従いなさいとの勧めの箇所に続けて描かれていることには、深い意味があります。すなわち、ご受難と十字架の主イエスは、また同時に復活と栄光の勝利者なる主イエスであられるということです。あるいはこう言い換えてもよいでしょう。主イエスはご受難と十字架の死の道を通って勝利と栄光に入られるのだと。そして、主イエスの弟子であるわたしたちキリスト者もまた、主イエスと同じように、苦難と十字架の死の道を通って勝利と栄光のみ国が約束されているのだと。

 前回わたしたちがそこで確認したもう一つの点は、旧約聖書の律法を代表するモーセと、預言者を代表するエリヤが主イエスと共にいて、主イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる最期のことについて話し合っていたということは、主イエスがこれからエルサレムで成し遂げようとしておられる十字架の死と三日目の復活、40日目の昇天、そして50日目の聖霊降臨によって、旧約聖書で約束されていた神の律法と預言とのすべてが成就されるということが、ここであらかじめ明らかにされているのです。主イエスはその救いの完成される日に向かってなおも歩みを進めていかれます。

 その翌日、主イエスは山から入りてこられ、大勢の群衆が待っている所に再びおいでになります。山の上での主イエスの栄光のお姿は一瞬にして終わり、主イエスは再び貧しい人間のお姿で、地上で待っていた群衆の中に入られました。主イエスは天の父なる神から遣わされた人の子として、この地に住む罪びとや病める人々のただ中にお帰りになりました。そして、エルサレムでのご受難と十字架への道をお進みになられます。

 ここに至って、わたしたちはなぜ前の場面でペトロが主イエスとモーセとエリヤのために山の上に小屋を建てる提案をしたとき、それが間違った判断であったのか、その理由をはっきりと知らされます。主イエスの栄光と勝利の時はまだ来ていません。主イエスの栄光のお姿を山の上に留めておくことは、主イエスのご受難と十字架の死を回避すること、それを避けていくことになります。十字架の主イエスがなければ、栄光の主イエスもありません。それゆえに、主イエスは今なお、しばらくはこの地上にとどまり、エルサレムまでのご受難と十字架への道をお進みになるのです。今なおしばらくは、この地上の罪びとたちと病める人たちの中にとどまり続けられるのです。彼らの一人をもお見捨てにはなさいません。主イエスが山の上に留まり続けることをなさらずに、いまだ罪と悲惨の中にあるこの地上に下ってこられたのはそのためでした。

 【38節】。37節には、大勢の群衆が主イエスを出迎えたと書かれていましたが、この時点ではまだ主イエスと群衆との出会いは起こっていませんし、救いの出来事も起こりません。わたしたちが群集の中の一人として主イエスを見ているならば、そこではまだ真実の出会いは起こっていません。群衆の中から、一人飛び出して、一人で主イエスのみ前に立ち、主イエスと対話をするとき、そこに主イエスとの出会いが起こり、主イエスによる救いの道が開かれます。

 この男の人は群衆の中から飛び出し、主イエスのみ前に立ち、大声で叫びました。と言うのは、彼にはそうせずにはおれない緊急の大きな課題があったからです。今すぐに主イエスの助けを必要としていたからです。主イエス以外には、彼の願いをかなえることができないように思われたからです。

 彼はこれまでのいきさつを説明します。彼の一人息子が悪霊に取りつかれ、けいれんなどのてんかんの症状によってひどく苦しめられていたので、主イエスの弟子たちに悪霊を追い出してくれるようにお願いしたが、弟子たちにはそれができなかった。それで、主イエスに直接にお願いに上がったというのです。

まず、父親としてのこの男の人の苦悩と、その息子の悪霊による苦しみのことを考えてみましょう。父親にとってこの子は一人息子であると強調されています。イスラエル社会においては、長男はその家の全財産と信仰と神の祝福を受け継ぎます。一人息子は父にとって、その家と氏族にとっても、大切な存在です。もし、一人息子が病気で死ぬことになれば、その家に与えられている神の祝福をも失うことになります。父親は必死になって主イエスにお願いしています。

病気の息子にとっては、苦しい戦いの連続です。悪霊は人間の意志や力をはるかに越えた暴力的な威力を発揮して、この子を苦しめます。この当時は、人間の重い病気や身体的・精神的障害は悪霊、あるいはサタンが働いていて、神のご支配から人間を引き離し、悪霊自身の支配下に置いている状態と考えられていました。4章31節以下に、主イエスがカファルナウムの町で安息日に会堂で悪霊に取りつかれた人を神の権威によっていやされたことが、また8章26節以下にも、ゲラサ人の地で悪霊に取りつかれた男の人を悪霊から解放されたという奇跡が記されていました。主イエスは神から遣わされたメシア・救い主として、神の権威によって悪霊を追い出され、その人を再び神の恵みのご支配の中へと招き入れられました。主イエスが悪霊を追い出されたことは、神の恵みのご支配が始まり、神の国が到来したことの目に見えるしるしでした

この父親が主イエスのみ前に立って、「わたしの子を見てやってください」とお願いをしたのは、弟子たちにはできなかったけれど、主イエスには確かに悪霊に勝利するみ力があると信じたからでした。主イエスは彼の願いをお聞きになります。

でも、その前に、主イエスは不信仰なこの時代と弟子たちの信仰の弱さを問題にされました。【41節】。9章1節によれば、12弟子たちが神の国の福音を宣教するために派遣されるにあたって、主イエスは彼らに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす権能をお授けになった」とありますが、にもかかわらず弟子たちに悪霊を追い出す力がなかったということは、彼らにはまだ信仰がなかったからでしょうか。でも、ルカ福音書のこの箇所では弟子たちの不信仰は直接には非難されておらず、この時代全体がよこしまで不信仰な時代だと言われています。だから、いまだに悪霊がこの世で力を発揮し、人間を神の恵みから遠ざけているのだと、主イエスは言われるのです。

主イエスはここで、「いつまで、わたしは不信仰なあなたがたと共にこの地上に留まり、あなたがたの不信仰に耐えねばならないのか」と言われます。「いつまで」という言葉には二重の意味が含まれています。一つには,この時代の不信仰と弟子たちの不信仰がいつまでも続くかのように思われるほどに大きく、深く、信仰であるという主イエスの嘆きの大きさの強調です。しかし、もう一つには、やがてその不信仰には終わりがくる、終わりの時が定められているということです。主イエスご自身がその不信仰の時代を終わらせてくださるからです。

それはいつの時でしょうか。主イエスがこの地上で弟子たちと一緒におられる期間、邪悪でよこしまで不信仰なこの時代の人々と主イエスが共におられる期間はいつまででしょうか。主イエスがわたしたちの不信仰に耐えねばならない期間は、いったいいつまでなのでしょうか。わたしたちはこう答えます。それは,主イエスのご受難と十字架の死、そして三日目の復活によって、わたしたちを罪の支配から解放してくださる時までだと。主イエスが再びこの地上に立ってくださり、神の国を完成させてくださる終りの日までだと。

主イエスはその子どもをご自身のみ前に連れてくるようにと命じます。主イエスは悪霊に取りつかれて苦しむその子を、決してお見捨てにはなりません。そのために、栄光に包まれた山の上から罪が今なお支配しているこの地上へと下ってこられたのですから。

弟子たちにはその子をいやすことができませんでした。悪霊の支配からその子を解放する信仰がまだ足りませんでした。でも、その子を主イエスのみもとへと連れてくるための手助けはできます。それはわたしたちにもできることです。病んでいる人や苦しんでいる人、迷っている人を主イエスのみもとへと連れてくる、これが今わたしたちにできる伝道の基本です。

【42節】。悪霊、汚れた霊は人間をはるかに上回る暴力的な力で人間を支配します。人間を神の恵みから遠ざけようと、驚異的な力をふるいます。人間はそれに立ち向かうことはできません。しかし、悪霊の抵抗は主イエスのみ前に引き出され、自らの最後を知った者のあがきでしかありません。主イエスは神のみ子として、父なる神から託された権威によって悪霊、汚れた霊を叱責されます。「サタンよ、引き下がれ。この人から出ていけ」とお命じになります。

主イエスはその子どもを悪霊の支配から解放され、神の恵みのもとへと連れ戻され、父親にお返しになりました。その一人息子は長い間の悪霊の支配から解放され、主イエスを信じた父親と共に主なる神の恵みのもとへと連れ戻されたのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって、わたしたちを罪と死の奴隷から救い出してくださり、あなたの民の一人としてわたしたちを教会の群れの中にお加えくださいました幸いを覚え、心から感謝いたします。どうか、わたしたちが再びあなたを離れて、罪の支配に屈することがありませんように。喜んであなたのみ言葉に聞き従い、忠実な僕としてあなたにお仕えする者としてください。

○主なる神よ、この世界とそこに住む人間たちを顧みてください。あなたから離れて、滅びへと向かうことがありませんように。わたしたちの間から争いや憎しみ、独善や傲慢を取り除いてください。ゆるし合ういや分かち合いの心をお与えください。あなたから与えられる義と平和で、この国を、アジアの諸国を、そして全世界を満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月10日説教「ヤコブの子どもたちの二度目のエジプト訪問」

2023年9月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記43章1~34節

    ローマの信徒への手紙13章8~10節

説教題:「ヤコブの子どもたちの二度目のエジプト訪問」

 兄弟たちによってエジプトに売り渡された族長ヤコブの子どもヨセフは、エジプト王ファラオが見た夢を解き明かし、7年間の大豊作のあとにやってくる7年間の大飢饉に備えて、エジプトの倉庫に穀物を蓄えさせるという知恵をファラオに示しました。それによって、彼はエジプトの総理大臣に任命さることになりました。ヨセフの夢解きの知恵と、その夢によって、将来の飢饉のために備えるという知恵もまた、主なる神から与えられたものでした。神は異教の地エジプトに売り飛ばされたヨセフと共にいてくださり、ヨセフを祝福し、彼の信仰を導き、やがてヨセフによってヤコブの家族全員を飢饉から救うことへと導かれました。それによって、のちの民イスラエルと教会をお用いになって、全世界のすべての人々を罪から救われるという大いなる救いのみわざを前進させてくださったのだということを、わたしたちは創世記のみ言葉から教えられます。

 42章では、世界を襲った大飢饉のために、カナン地方のヤコブ一家にも食物が途絶え、ヤコブの子どもたちがエジプトのヨセフのもとへ穀物を買うためにでかけたことが書かれていました。彼らはそれがヨセフとは知らずに、エジプトの大臣の前にひれ伏して、穀物を分けてくれるようにお願いしました。この第一回目のエジプト訪問によって、ヨセフが子どものころに見た夢、すなわち、37章7節に書かれていた夢、ヨセフの兄弟たちがみんな彼の周りに集まって、彼の前にひれ伏すという夢が、一部、実現することになりました。

 でも、それはまだ一部でした。12番目の子ども、ヨセフの弟で、ヨセフと同じ母ラケルから生まれた子、ベニヤミンはその時エジプトに同行してはいなかったからです。と言うのも、父ヤコブが末の子ベニヤミンを特別にかわいがり、かつてヨセフを失ったように、このたびはベニヤミンを失うかもしれないと、エジプト行きを認めなかったからでした。

 ヨセフが見た夢、それは神のみ心であり、神の救いのご計画なのですが、それが完全に実現されるためには、ベニヤミンが欠けています。また、それとの関連で、ヨセフにとって、また創世記全体に貫かれている神の救いのご計画で、どうしても解決されなければならない問題、それは父ヤコブと最愛の妻ラケルとの間にようやくにして生まれた年寄子であるヨセフとベニヤミンに対する偏った父の愛、偏愛が克服されなければならないということです。

 そして、実は、この二つのことが、43章に書かれている二度目のエジプト訪問のテーマでもあるのだということに、わたしたちは気づかされます。その二つのことに注目しながら、43章を読んでいきましょう。

 【1~2節】。世界的な大飢饉が7年間も続くことになります。パレスチナ地方のヤコブ一家にもその影響は及びました。エジプトから買い求めてきた穀物は1年もすれば食べつくしてしまいます。父ヤコブは、彼はこの章では新しい名前であるイスラエルとして6節、8節、11節に書かれていますが、彼は年老いてはいましたが、族長として、また一家の長として、その一族や家族が一人も飢饉で死ぬことがないようにと、気をつかっています。それは単に一族、一家の長としての責任からくる配慮であるのではありません。彼は、アブラハム、イサクから受け継いだ神との契約を忘れてはいません。神はこう言われました。「わたしはあなたとあなたの子孫とを永遠に祝福する。わたしはあなたの子孫の数を増し加え、空の星、海の砂ほどに増やし、あなたの子孫にこの地を永久の所有として受け継がせる」と。ヤコブはこの神の約束のみ言葉を信じるがゆえに、毎年繰り返される飢饉という試練の中にあっても、冷静に、また希望をもって家族と一族のために行動することができたのです。

 けれども、ヤコブには人間的な弱さがありました。末の息子ベニヤミンに対する特別な、偏った愛から、彼はまだ解放されてはいませんでした。かつて、おなじ偏愛から、ヨセフを特別にかわいがったために、兄たちの憎しみを買い、エジプトに売り飛ばされました。兄たちはヨセフは野獣にかみ殺されたと父には報告していました。ヤコブはヨセフに続いて最愛の子ベニヤミンをも失うこと恐れて、最初のエジプト行きには同行させませんでした。

 ところが、3節以下で、ユダが発言します。彼はこう言います。「最初のエジプト訪問の際に、自分たちの身の上をエジプトの責任者に話したところ、その人は次に来るときには末の子も一緒でなければならないと厳しく命じました。だから、ぜひベニヤミンを連れて行かせてください。もし、ベニヤミンにもしものことがあったら、自分が全責任を負いますから」と。

ここでのユダのベニヤミンに対する忠実で責任ある言葉と42章37節の最年長ルベンの言葉とを並べてみましょう。まず、【42章37節】。この言葉によっても、父ヤコブはベニヤミンを連れて行くことには同意しませんでした。次に、【43章9節】。父ヤコブは、このユダの言葉によって動かされました。それがなぜであったかについては、何も説明されていませんが、ルベンとユダの二人の子どもたちの弟ベニヤミンに対する愛と責任ある言葉を聞いて、自らの感情に任せた偏愛の愚かさを、ヤコブは気づかされたのだろうと思われます。また、ルベンとユダの言葉の中には、かつて父の偏愛を受けていた弟ヨセフを憎み、彼を売り飛ばそうとした兄たちの罪の告白がなされていると、読むこともできるでしょう。人間的な愛の破れが、このようにして克服されていくのです。そして、神の救いのご計画が進行されていくのです。

13、14節の父ヤコブの発言は、まさに奇跡的と言ってよいかもしれません。【13~14節】。ヤコブは末の子ベニヤミンに対する偏愛から解放されています。ルベンとユダという二人の子どもの忠実な兄弟愛に刺激されたからでしょうか。自分の命を捨てる覚悟までもって守るべき真理があることを知ったからでしょうか。それもあったでしょうが、ここでははっきりと「全能の神」が、「全能の神の憐みが」がと言われています。彼は今、全能の主なる神の憐みを知る者とされたのです。

ヤコブ自身も母の偏愛を受けて育ちました。父を欺いて兄エサウの長子の特権を奪いました。そのヤコブが、多くの試練を経験し、その中でも神に守られて、そのようにして神は彼の信仰を練り清められたのです。ただ主なる神の全能のみ力に頼り、人間のすべての欠けや破れをもお用いになってご自身の救いのご計画を進めてくださる全能の神の憐みを求める信仰者としてくださったのです。その全能の神にすべてをお委ねするヤコブとしてくださったのです。

主イエスはマタイ福音書10章37節以下で言われました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとするものは、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。ヤコブはこの信仰に生きる決断をしたのです。

そのようにして、ヤコブの子どもたち11人による二度目のエジプト行きが実行されました。【15~16節】。ヨセフはベニヤミンが一緒なのを見て、彼らを自宅での昼食に招きました。ところが、ヨセフだとまだ気づいていない兄弟たちは、自分たちが特別扱いされているのを不安に感じました。最初のエジプト行きの時に、穀物の代金として持参した銀が自分たちの袋に戻されていたのを思い起こし、そのことがとがめられるのではないかと思ったからです。

そこで、彼らはヨセフの使いである執事にあらかじめそのことを尋ねます。執事は、彼らの袋に銀を戻したのがヨセフの命令によってしたことを知っていましたから、23節でこのように答えています。【23節】。これは族長たちの主なる神を知らない異邦人であるエジプトの執事の言葉ですが、わたしたちはここにも主なる神のお働きを見るように思います。主なる神が異邦人の口をお用いになって、ご自身の測りがたく限りない恵みと導きを語っておられるように思います。

23節の冒頭を直訳すると、「あなたがたに平安あれ。恐れるな」となります。この言葉は神ご自身がエジプト人の執事の口をお用いになって、ヤコブの子どもたちに語った言葉と読むことができます。神はご自分の民イスラエルの試練や危機の時に、しばしば同じみ言葉をお語りになりました。出エジプト記14章で、エジプトを脱出したイスラエルの民がエジプト軍に追いかけられ、行く手を海に阻まれた時に、神はモーセによってこう言われました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いをみなさい。……主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(14章13~14節参照)。また、バビロンに捕虜として連れ去られていたイスラエルの民に、神はイザヤの口をとおしてこう語られます。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(43章1~2節)。そして、罪と滅びの中を歩んでいた世界の人々に最初のクリスマスの夜に語られたみ言葉は、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ福音書2章10~11節参照)。

このようにして、神は今もなお、迷ったり、悩んだり、恐れと不安の中にあるわたしたち一人一人に対して、「恐れるな。安心せよ。平安があるように。わたしはいつもあなたと共にいる」と呼びかけてくださいます。

ヨセフと11人の兄弟たちとの食事が始まりました。ヨセフはまだ自分の身を明かしていません。でも、同じ母ラケルから生まれたベニヤミンの顔を見るとこらえきれずに、別室に移って涙を流しました。このところの記述は非常に感動的です。【29~31節】。ヨセフはまだ自分の身を明かしてはいませんが、20数年ぶりの兄弟12人の再会、そしてただ一人の弟ベニヤミンとの再会がこのようにして実現しました。

これはまた、ヨセフが子どものころに見た夢の実現でもありました。26節と28節に、11人の兄弟たちがヨセフの前にひれ伏し、ヨセフを排したと繰り返されています。でも、ヨセフ自身はそのことを全く誇ってはいません。すべては神のみ心だからです。神の救いのご計画がこのようにして進められていくからです。神はお選びになった信仰者たちをお用いになって、ご計画にしたがって、万事を益となるように導いてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ。天地創造の初めから今に至るまで、そして終りの日にみ国が完成する日まで、あなたは永遠なる救いのご計画を進めてくださいます。主よどうぞ、今この時代にも、あなたのみ心が行なわれますように。弱っている人を励ましてください。迷っている人を導き返してください。倒れている人、壁の前でたたずんでいる人を、希望の光で照らしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月3日説教「三位一体なる神」

2023年9月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(26回)
聖 書:申命記6章4~5節
    マタイによる福音書28章16~20節
説教題:「三位一体なる神」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の基礎と中心について学んでいます。きょうは、前文の2段落、3つ目の文章、「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」、この告白の中の「三位一体なる神」について、聖書のみ言葉から学んでいきます。
 まず、1890年(明治23年)に制定された『(旧)日本基督教会信仰告白』との比較ですが、この『信仰告白』では「その恩(めぐみ)によるに非(あら)ざれば罪に死にたる人、神の国に入ることを得ず」となっていて、「三位一体なる神」という言葉がない以外は、今の『信仰の告白』とまったく同じです。1953年の『信仰の告白』で、なぜこの言葉が付け加えられたのかについての理由ははっきりしませんが、おそらくは古代教会と宗教改革時代からの教理的伝統を強調するためであったと推測できます。
 「三位一体」という言葉、またキリスト教の教理は、古代教会の神学者たちが様々な異端的な教えや間違った福音理解との戦いの中で、正しいキリスト教教理を形成していく段階で考え出された教理です。「三位一体」という言葉そのものは聖書の中にはありませんが、「三位一体論」という教理、教え、信仰理解は聖書の最も中心的で大切な真理であると言ってよいでしょう。
 「三位一体」という言葉を最初に用いたのは、紀元2世紀から3世紀にかけての神学者であるテルトゥリアヌスと言われています。彼は、父なる神と子なる神と聖霊なる神は三つの位格を持ちつつ、一つの実体であり、父、子、聖霊の三者は神性という一つの実体を共有すると説きました。その後、紀元4、5世紀に成立したと考えられる『アタナシオス信条』では、その全体で三位一体なる神について告白されています。それを要約すれば、「すべて信じて救われることを願う者は、唯一の神を三位において、三位を一体においてあがめなければならない。父と子と聖霊の三つの位格を持つ唯一の神を三位一体の神として信じ、礼拝しなければならない」と告白されています。
 「三位一体論」はその後も宗教改革の時代から今日にいたるまで、キリスト教会の最も重要な教え、教理として熱心に論じられてきました。すべてのプロテスタンと教会とカトリック教会が「三位一体論」を重んじています。「三位一体論」を信じるかどうかが、正統的な教会か異端かを判別する基準になっていると言ってよいでしょう。
 現在のキリスト教3大異端と言われる統一教会(世界平和統一家庭連合)、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教はいずれも「三位一体論」を否定します。彼らはしばしばそれを否定する理由として、「三位一体」という言葉が聖書の中にはないからだと言いますが、しかし彼らは「三位一体論」を否定することによって、聖書には書かれていないより重要な誤った教えを数多く考え出しています。たとえば、主イエスは神ではないとすることによって、彼らの教派の創設者、教祖が主イエスの代わりに神になります。また、聖霊が神ではないとすることによって、人間の努力とか精神とか、あるいは人間の信仰的な行動が聖霊なる神に代わって重要視されます。それによって、主イエスの十字架と復活の福音によって救われるという信仰だけでは不十分であり、他の何かによって主イエスの救いの不十分さを補わなければならないと主張します。しかし、それはもはやキリスト教ではありません。「三位一体論」を否定するならば、だれも正しい信仰に至ることはできませんし、真実の救いに至ることもできないのです。
 「三位一体論」は古代教会の神学者たちが聖書の中で証しされている信仰の真理から必然的に導き出された教理であり、聖書で証しされている神について、より正確に、より深く理解するための教理です。さらに言えば、神の救いのみわざをより確実に、より強力にわたしたちのものとするための教理なのです。三位一体なる神の救いのみわざは完全であり、永遠です。
 では、聖書の中で「三位一体論」はどのように証しされ、教えられているかを、聖書の主な個所を読みながら確認していきましょう。旧約聖書のイスラエルの信仰から新約聖書の教会の信仰に至るまで一貫していることは、神は唯一の神であるということです。一神教、唯一信教が聖書の教えです。ただお一人の神を信じ、この神だけを礼拝します。他の神々が多数共存しているギリシャや東洋、日本の宗教観とは根本的に違っています。
 出エジプト記20章2~3節にはこう書かれています。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしのほかに神があってはならない」。また、申命記6章4~5節では、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じられています。神は唯一である。主なる神はただお一人である。これが旧約聖書以来の信仰の基本です。
 主イエスはマルコによる福音書12章28節位以下の箇所で、この申命記6章のみ言葉を引用しながら、「唯一の主なる神を愛し、またあなたの隣人を愛しなさい」と教えられました。使徒パウロはローマの信徒への手紙3章30節で、「実に、神は唯一だからです」と教え、コリントの信徒への手紙一8章1節以下の箇所で、「唯一の神以外にいかなる神もいない。万物はこの唯一の父なる神から出て、わたしたちはこの神へ帰って行く」と書いています。
 「三位一体論」はこの唯一神教から出発します。この唯一信教の信仰を土台にし、そのうえで、主イエス・キリストが神であり、聖霊が神であると証しされている聖書の証言とを、どのように調整し、統一させるのか。つまり、父なる神とみ子なる神、主イエス・キリストと、聖霊なる神が、いずれもまことの永遠なる神であり、しかも三つの別々の神であるのではなく、一つの神、唯一の神であるという聖書の証言をどのように言い表すかが「三位一体論」の課題になるわけです。
 では次に、三位一体なる神についての具体的な聖書箇所を読んでみましょう。マタイ福音書28章18~20節にはこうあります。【18~20節】(60ページ)。今日、わたしたちが洗礼を受ける時もこの聖句が読まれますが、ここで「父と子と聖霊」の名前と言われる場合、普通ならば三つの名前ですから、「名によって」の名は複数形にならなければなりませんが、原文のギリシャ語では単数形になっています。つまり、父なる神の名前、子なる神、キリストの名前、そして聖霊なる神の名前は三つの別々の神の三つの名前なのではなく、一人の神の一つの名前であるということが、ここには暗示されているのです。
 主イエスご自身に「三位一体なる神」という認識があったのかどうかとか、この福音書が書かれた時に、これを書いた著者にその信仰があったのかどうかということは議論の余地があると言えますが、少なくとも初代教会が「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けていた際に、三つの別々の神を信じていたのではなかったということは明らかです。もちろん、わたしたちの場合も同様です。父なる神とみ子なる神、主イエス・キリストと聖霊なる神が、わたしたち人類の救いのために、またわたしの救いのために、受難と、十字架の死と、復活と、昇天と、聖霊降臨とによって、一つの救いのみわざをなしてくださった、その救いのみわざは完ぺきであった、完全であり永遠であり普遍であったということを、「三位一体論」は強調しているのです。父なる神としても、み子なる神としても、聖霊なる神としても、神はいつでもだれに対してもご自身の全ご人格をフル動員され、その愛と恵みとをすべてお用いになって、わたしの救いのためにお働きくださっておられる、そのことを「三位一体論」は強調しているのです。
 新約聖書からもう一箇所を読んでみましょう。コリントの信徒への手紙二13章13節です。【13節】(341ページ)。これは、初代教会以来、全世界の教会の礼拝で用いられている祝祷のみ言葉です。わたしたちはこの三位一体なる神の祝福を受けて、この世へと派遣されていきます。礼拝から始まるわたしたち信仰者の歩みは「三位一体なる神」の祝福によって包まれており、父なる神、み子なる神、聖霊なる神が常にわたしたちの歩みに伴っていてくださるのです。パウロはここでも、他のところでも「三位一体」という言葉を用いてはおりませんが、彼の手紙の至る箇所から「三位一体なる神」のお働きを読み取ることができます。
 最期に、エフェソの信徒への手紙1章3節以下を読んでみましょう。まず、【3~5節】(352ページ)。ここでは、父なる神のお働きが天地創造から始まり、み子主イエス・キリストによってわたしたちを救いの民としてお選びくださったことが告白されています。
 次の【6~12節】。ここでは、み子主イエス・キリストの十字架の血による贖いと、救いの完成に至るまでの執り成しのお働きが告白されています。
 そして、【13~14節】。ここでは、聖霊なる神のお働きが告白されています。終りの日に、神の国が完成され、わたしたち信仰者が神の国の民として神の栄光にあずかる者とされる確かな証印として、補償として、聖霊はわたしたちに与えられています。
 このようにして、「三位一体なる神」は、父なる神として、み子なる神として、そして聖霊なる神として、そのすべてのご人格をお用いになり、わたしたち一人一人の救いの完成のためにお働きくださるのです。この「三位一体なる神」によらなければ、罪の中で死んでいる人は、本当の命を生きることはできませんし、またこの「三位一体なる神」以外の何かによっては、だれも本当の救いを与えられることはありません。したがってまた、この「三位一体なる神」によって、わたしたちすべてに確かな、そして完全な救いが与えられているのです。わたしたちは大きな感謝と喜びとをもって、「わたしは三位一体なる神を信じます」と告白するのです。

(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたの救いのみわざは完全であり、永遠であり、普遍であることを信じます。どうか、だれもあなたの救いから漏れることがありませんように。すべての人が主キリストと聖霊によるあなたの救いに招かれますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月28日説教「タビタ、起きなさい」

2023年8月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ホセア書6章1~3節

    使徒言行録9章36~42節

説教題:「タビタ、起きなさい」

 ペトロは主イエスの12弟子のリーダーでしたが、世界最初の教会エルサレム教会のリーダーでもありました。彼の巡回伝道が使徒言行録9章32節から再開されます。ペトロはパレスチナとその周辺に建てられた諸教会の母なる存在であるエルサレム教会の代表者として、それらの諸教会を訪問し、教会の基礎を固めるために、さらには宣教活動を拡大するために、エルサレム教会から使命を託され、派遣されたのでした。8章14節からはサマリア教会を訪問したことが記録されていました。少し間があって、9章32節からはリダに住むキリスト者の訪問、そしてきょうの箇所では、ヤッファの集会を訪問したことが書かれています。リダもヤッファもまだ教会として整った群れにはなっていなかったと思われますが、ペトロがその二つの集会で行ったいやしの奇跡と死人をよみがえらせた奇跡は、その地域の福音宣教と教会の成長にとって大きな意味を持っていました。9章35節には、【35節】と書かれています。また、42節には、【42節】と書かれています。いずれも、一人の人がその重い病気をいやされ、死んでいた人が生き返らされたという奇跡以上に、主イエス・キリストの福音宣教によって、その地域全体に今や新しい神のご支配が始められ、神の救いの出来事が起こされ、神の国が接近してきたという、驚くべき神の救いのみわざを多くの人々が目にし、耳にするということが起こっているのです。ペトロはその神の大いなるみわざに仕えているのです。

 【36節】。リダという町はエルサレムから北東に約40キロメートル、ヤッファはさらに北東に20キロメートルほどの地中海沿岸の町です。ヤッファの町にだれがどのようにして主キリストの福音を宣べ伝えたのかについては記録はありませんが、おそらくはリダもそうであったと考えられていますが、8章1節に書かれていた、エルサレム教会に対する大迫害によって、市内から追放されたキリスト者たちがこれらの町にも散らされてきて、福音を宣べ伝えたのであろうと推測されます。わたしたちはここでもまた、「神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはない」(テモテへの第二の手紙2章9節参照)とのみ言葉を確認することができます。神の言葉は教会が経験する迫害や逆境の中でこそ、その力と命とを発揮するのです。

 「タビタ」は、当時のパレスチナ地方の一般的な言語であったアラム語と思われます。ギリシャ語では「ドルカス」と言い、その意味は「かもしか」であると説明されています。タビタはその名のように、美しく、軽やかな足で、活発に走り回り、教会の良い働き人、奉仕者として仕えていました。

 彼女は「婦人の弟子」と言われていますが、この言葉は新約聖書でここにしか用いられていませんので、教会の中でどのような役職であったのか、婦人の長老や執事であったのか、あるいは「使徒」という特別な役職を表すのか、はっきりとは分かりませんが、わたしたちがこの箇所で特に注目したいのは、ここには初代教会における婦人の働きについて、その数少ない記録が残されているということです。

古代社会においては、一般に婦人の社会的地位や働きについて表に現れることはほとんどありませんでした。そんな中で、使徒言行録とルカ福音書の著者であるルカは特に婦人たちの働きについて強調していることが確認できます。それはルカの個人的な見識によると言うだけでなく、主イエス・キリストの福音そのものが男女の違いとか、身分や年齢、その他の人間の違いを乗り越えているからにほかなりません。主イエス・キリストの福音を信じ、その信仰によって罪から救われている人はだれであれ、感謝と喜びとをもって神と隣人とに仕える人とされるのです。タビタがかもしかのような軽やかで活発な足を用いて「たくさんの善い行いや施しをしていた」のは、主イエスの福音によって罪ゆるされ、救われていることの感謝の応答です。

 日本キリスト教会は1963年から、「タビタの家」という、隠退された婦人教職や牧師夫人が共同生活をする福祉施設を造りました。現在は「タビタの会」と名称を変えて、同じような主旨の経済的支援の働きをしています。初代教会においても今日の教会においても、婦人たちの奉仕と働きは教会の大きな柱です。

主イエス・キリストの福音においては、また主の教会においては、男女の差別も、その働きにおける差別もありません。すべての信仰者に同じ神の霊が注がれているからです

 ところが、教会での中心的な働き人、奉仕者であったタビタが突然に病気でなくなるという不幸な出来事が起こりました。そのことはヤッファの教会にとってどんなにか大きな試練であり、損失であり、悲しみであったことでしょうか。

【37~39節】。一人の信仰者の死は教会全体の死であると宗教改革者ルターは言いました。ヤッファの教会の人たちはタビタの亡骸を清め、屋上の間に安置しておきました。タビタの死を悲しむために多くの人たちが集まってきました。特に、生前タビタの愛の奉仕によって助けられ、慰められていたやもめたちの悲しみは大きかったと思われます。一人の信仰者の死はその親族や友人たちの悲しみであるだけでなく、確かに教会全体の悲しみであり、教会全体の死です。教会は一人の信仰者の死によって、教会全体の死を共に経験するのです。しかし、もちろんそれだけではありません。教会は主イエス・キリストの十字架と復活によって、主イエス・キリストご自身がすでに罪と死と滅びとに勝利しておられることを信じている仰者の群れとして、教会全体が終わりの日に約束されている復活と永遠の命を共に経験することを許されているのです。

 ヤッファの教会がリダにいたペトロを呼び寄せたのは何のためであったのか、今の段階ではまだはっきりとは分かりません。あとになって分かるようになります。タビタの死をヤッファの教会員と共に悲しんでもらうためではありませんし、ペトロに葬儀の司式を依頼したのでもありません。ヤッファの人たちはペトロがリダの町で、長く中風で寝ていたアイネアを主キリストのみ名によって起き上がらせたという奇跡についてすでに耳にしていたに違いありません。十字架の死から三日目に復活された主イエス・キリストの福音を何度も聞いてきました。彼らがタビタの亡骸をすぐに葬らずに、屋上の間に安置しておいたのも、そしてペトロをリダから呼び寄せたのも、タビタの死を超えて、主なる神が何かをなしてくださるであろうとの彼らの信仰が背後にあったのではないかと、わたしたちは推測してもよいのではないでしょうか。

 【40~43節】。リダとヤッファとの距離は20キロメートルあまりですから、両方の町を行き来するには1日か2日はかかります。その間、ヤッファの教会の人たちはタビタの亡骸を囲みながら愛する人の死を悲しみつつ、しかし何かを期待しつつ、ペトロの到着を待っていました。

 しかし、聖書は彼らがタビタが生き返ることを期待していたとか、ペトロにその力があるかとか、そのようなことについては一言も語っていません。タビタが生き返ることは彼らの期待に応えるために行われるのではありません。そのことは、ペトロがみんなを部屋の外に出し、ただ一人になって神に祈ったと書かれていることによって強調されています。タビタの生き返りは主なる神のみ心であり、主なる神のみ力によるのであり、主イエス・キリストを死から復活させたもうた神のみわざなのです。

 ここに描かれているタビタの生き返りの奇跡、これは正確には死からの復活ではありません。いわば蘇生、生き返りです。その人はいつかは地上の生を終えて死の時を迎えます。復活とは、もはや死を見ない、永遠の命への復活です。主イエス・キリストただお一人が、わたしたちに先立ってこの永遠の命へと復活されました。そして、わたしたち信仰者にも終わりの日に完成される神の国での永遠の命への復活を約束してくださいました。

 実は、聖書には死んだ人が生き返るという蘇生の奇跡がいくつか記録されています。旧約聖書では、列王記上17章17節以下に、預言者エリヤがザレパテのやもめの子を生き返らせた奇跡。列王記下4章32節以下に、預言者エリシャがシュネムの女の子を生き返らせたという奇跡。新約聖書では、ルカ福音書8章40節以下の、主イエスが会堂長ヤイロの娘を生き返らせたという奇跡。これはマタイ福音書9章とマルコ福音書5章に並行記事があります。これとは別に、ヨハネ福音書11章には、マリアとマルタの弟ラザロを主イエスが生き返らせたという奇跡。きょうの箇所、使徒言行録9章と、同じ使徒言行録20章7節以下に、パウロの説教を聞いていたユテコという若者が3階から落ちて死んだときに、パウロが彼を生き返らせたという奇跡。計6か所になります。

 これらの蘇生の奇跡に共通している重要なポイントを二つにまとめてみましょう。一つには、これらはみな人間の蘇生の奇跡であり、主イエスの復活とは本質的には違うということです。主イエスの復活はもはや再び死ぬことのない永遠の命への復活です。両者は厳密に区別されなければなりませんが、しかし両者は固く結びついてもいます。これらの奇跡は主イエスの復活によって信仰者に約束されている終わりの日の神の国における復活と永遠の命の先取りであり、その確かなしるしなのです。主イエスがご自身の十字架の死と復活によって罪と死とに勝利の宣言をしてくださいました。信仰者にとっては、死の牙はすでに抜き取られています。死はもはや信仰者には致命的な傷を与えません。死によって、信仰者が神から引き反されることはありません。パウロがローマの信徒への手紙8章で語っているように、ご自身の独り子さえも惜しまずにわたしたちのために死に渡された大いなる神の愛から、どのような迫害も艱難も剣も死も、わたしたちを引き離すことはできないからです。

 二つには、これらの蘇生の奇跡には全能の生ける神が働いておられるということです。無から有を呼び出だし、死から命を生み出される神がそれらのみわざをなしておられます。預言者エリヤはこう神に祈りました。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」(列王記上17章21節)。神はその祈りを聞かれ、その子の命をお返しになりました。主イエスは会堂長に、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われ(ルカ福音書8章50節)、彼の娘の手を取って、「娘よ、起きなさい」と言われると、その子はすぐに起き上がりました。ペトロが「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は眼を開き、起き上がりました。

これらの奇跡には全能の主なる神のみ力が働いているのです。主イエスを復活させられた父なる神が働いておられるのです。その神はわたしたち信じる者たちの死すべき罪の体をも生かしてくださり、ついには終わりの日に、神の国において朽ちることのない永遠の命をお与えくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたち一人ひとりにもお与えください。わたしたちが朽ちるパンのためにではなく、永遠の命のために生きる者としてください。重荷を負っている人、試練の中にある人、孤独な人、迷っている人を、どうかあなたが顧みてくださり、あなたからの助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月20日説教「山上での主イエスの栄光の姿」

2023年8月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編2編1~12節

    ルカによる福音書9章28~36節

説教題:「山上での主イエスの栄光の姿」

 ルカによる福音書9章16節から27節は、この福音書の前半の頂点、あるいは前半と後半とを分ける分水嶺と言われます。ルカ福音書を読み進んでいくと、この時から、主イエスはご自身でもはっきりと自覚をもってご受難と十字架への道を進んで行かれることを感じ取ることができます。また、この箇所で語られている三つのこと、つまり、ペトロの信仰告白と、主イエスの第一回目の受難予告、そして主イエスの弟子である者は、日々自分の十字架を背負って主イエスに従って行くべきであるということ、これら三つのことは互いに深く関連しあっているということ、それがこの箇所のもう一つの重要なポイントであるということをわたしたちは学んできました。

 そして、きょうの礼拝で朗読された28節以下に記されている、後半の最初の場面、山上で主イエスのお姿が栄光に包まれたという山上での変貌と言われる箇所も、その前の三つのことと、別の意味で深く関連しあっています。これまでに学んできたことを振り返りながら、その関連性についてまず考えてみましょう。

 弟子のペトロが、「あなたこそが神から遣わされたメシア・キリスト・救い主です」と告白した主イエスは、第一回目の受難予告によって、ご自身が受難と十字架のメシアであることを明らかにされました。主イエスは人々が期待していたような政治的メシアではなく、罪や悪を剣や権力によって滅ぼす英雄的なメシアでもなく、国家や社会を繁栄に導くメシアでもない。全人類の罪のためにご自身が神の裁きを受け、苦しまれ、十字架で死なれるメシアである。それゆえに、そのメシア・キリストを信じる信仰者もまた、日々に自分の十字架を背負って、罪の自分に死につつ、神と隣人とのために自らをささげ、主イエスが進まれた道を生きるべきであると教えられました。

そして、その主イエスのお姿が山上で栄光に輝いたというこの箇所から、十字架の主イエスはまた同時に罪と死とに勝利され、復活された栄光の主であるということが明らかにされているのです。

 さらには、ご受難と十字架の主イエスをわたしの救い主と信じ、告白するキリスト者は、日々に自分の十字架を背負って生きることによって、主イエスが神の国で栄光の座につかれる時には、同じ栄光にあずかることが許されるという約束が、ここでは語られているのです。ここでは、いわゆる十字架の神学と栄光の神学とが結びつけられています。ご受難と十字架の主イエスは、同時に勝利と栄光の主イエスです。わたしたちキリスト者は苦難と十字架をくぐりぬけて、主イエスの勝利と栄光にあずかることが許されているのです。それが、きょうのみ言葉の中心的なメッセージです。

 では、28節から読んでいきましょう。【28節】。ルカ福音書は主イエスの祈りのお姿を多く描いていることをこれまでも確認してきました。主イエスが洗礼を受けられたとき、12弟子を選ばれたとき、そしてすぐ前の18節でも、主イエスは重要な場面で、あるいは重要な決断をなさるとき、いつも祈られました。父なる神のみ心を尋ね求め、それに従われました。わたしたちも祈りの大切さを今一度思い起こしたいと思います。

 次に、「山に登られた」とあります。山は旧約聖書でも新約聖書でも、神が人間と出会う場です。人里から離れ、人間たちの営みとこの世から離れ、ただ神とだけ向かい合う場です。主イエスはそのような場、そのような時を大切にされました。わたしたちはどうでしょうか。そのような場を、そのような時を持っているでしょうか。余りにも人間的なしがらみの中にがんじがらめに縛り付けられ、この世の有様に心も体も奪われてしまってはいないでしょうか。神と向かい合い、神と語り合うことが少なくなってはいないでしょうか。わたしたちはそのような場とそのような時を、もっと確保しなければなりません。

 主イエスはその際に三人の弟子たちを連れていかれました。ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、この三人は8章51節で、会堂長ヤイロの娘を主イエスが生き返らされたときにも、選ばれてその証人となりました。彼らは主イエスの重要な場面の証人として選ばれているのですが、彼らが選ばれたのは、彼らが他の弟子たちよりも信仰深かったからとか、優秀であったからでは必ずしもありません。と言うのも、32節には「ひどく眠かった」と書かれていて、彼らは主イエスと共に目覚めて祈っていることができなかったからです。彼らはそのような弱く、信仰の浅い人間の代表者なのです。そうでありながらも、主イエスによって選ばれて、この重要な場面の証人とされ、主イエスの栄光のお姿をその目で見ることを許されたのは、主イエスの一方的な恵みの選びによることです。

 【29~32節】。主イエスの「服は真っ白に輝いた」と書かれています。主イエスがこのときにどのようは服装をしておられたのかは分かりませんが、おそらくは粗末なものだったに違いありません。日夜、福音宣教のために旅を続けておられたのですから、服は擦り切れ、泥やほこりにまみれていたと思われます。また、そのお顔は汗で汚れ、みすぼらしかったと推測されます。人となられた神み子は、そのようにして身も心もすり減らすほどに,わたしたちの救いのために働かれました。

 その主イエスのお顔が今、山の上で突然に変わり、その服が真っ白に輝いたのです。白く輝く服装は神の使い、天使の服装です(ルカ福音書24章4節、ヨハネ福音書20章12節参照)。主イエスは汚れのない、罪がない、神からの使者としてのお姿を現されたのです。罪も汚れもない神のみ子が、罪のこの世に人のお姿でおいでくださり、人間の汗と労苦を身にまとわれ、わたしたちと共に歩まれる人の子となられたのです。そのようにしてわたしたちの救いを成し遂げられたのです。

 その時、旧約聖書の偉大な二人の人物が栄光に包まれて現れました。モーセとエリヤです。この二人は旧約聖書全体を代表しています。モーセは出エジプトの指導者、シナイ山で神から律法を授かりました。旧約聖書の律法を代表しています。エリヤはイスラエルの最初の預言者で、彼は死後その体が天に引き上げられました。終りの日に、メシアに先立って地上に再び現れるとマラキ書の最後で預言されています。彼は旧約聖書の預言者を代表しています。

 その二人が、エルサレムで主イエスが成し遂げようとしているおられる最期について話していたと書かれています。それは具体的には、主イエスの十字架の死と三日目の復活、そして40日目の昇天を指しています。それによって、旧約聖書の民イスラエルが長く待ち望んでいた救いが完成されます。モーセに代表される律法が成就され、エリヤに代表される預言が成就されます。旧約聖書を代表しているモーセとエリヤ自身がここに登場してそのことを証言しているのです。

 ペトロたちは眠りかけていましたが、栄光に輝く主イエスのお姿に目が開かれ、彼らは主イエスがご生涯の最後にエルサレムで成し遂げられるであろう救いのみわざをあらかじめ見ることを許され、その証人とされました。彼らが選ばれて主イエスの山上での変貌の証人とされたことの意味をさらに考えてみたいと思います。

 一つには、主イエスが最後に勝ち取られる勝利と栄光のお姿の証人とされたことです。それは、十字架の死と復活、そして昇天にとどまりません。来るべき神の国での主イエスの栄光のお姿の証人とされたということです。主イエスは神の栄光の輝きにその全身が包まれています。もはや、罪も死も痛みも苦しみもありません。すべてが神の栄光に包まれ、光り輝き、一片の暗さもありません。主イエスはそのような神の国の王であられます。彼らはそのことの証人です。

 もう一つには、教会の民もまたこの栄光を約束されていることの証人です。教会の民はこの地上にあっては主イエスの十字架の福音によって生きることを許されていますが、しかしなおも、破れや弱さを持ち、この世からの迫害や辱めを受けなければなりません。けれども、教会は苦難と十字架をくぐりぬけて、神の栄光にあずかる約束を与えられています。終りの時、再び主イエスが来臨される時、教会は主の栄光のお姿に似た者とされ、欠けも破れもなく、汚れも弱さもない、栄光ある主イエスのお体と同じにされるという約束を与えられています。彼らはそのことの証人として選ばれているのです。

 ところが、ペトロをはじめ弟子たちは主イエスの山上での変貌の出来事を正しく理解してはいませんでした。【33~36節】。ペトロは主イエスの栄光のお姿をそのまま永久にそこにとどめておきたいと願いました。栄光に輝いた主イエスとモーセとエリヤとをその場に長くとどめておくために小屋を三つ建てることをペトロは提案します。けれども、それは正しい提案ではありませんでした。栄光に包まれていたモーセとエリヤの姿は雲の中に消え去りました。主イエスのお姿はなおも貧しい人の子としてそこに残っていました。主イエスはこののちもなおも、神から遣わされたメシア・キリストとして、わたしたちを罪から救うために、エルサレムへと、ご受難と十字架への道を進み行かなければなりません。その歩みをここでとどめることはできません。主イエスが栄光に輝くためにはご受難と十字架の道を通らなければなりません。

 教会もまた、最後の栄光の時を約束されている群れとして、なおも今は地上にあっては困難な福音宣教の務めを続けていかなければなりません。わたしたち信仰者は、終わりの日の栄光を約束されている者たちとして、なおも今は地上にあっては、弱さや破れを抱えながら、信仰の歩みを続けなければなりません。わたしたちはまだ神の栄光に完全に包まれ、覆われているのではありません。けれども、主イエスご自身がすでに罪と死とに勝利され、父なる神の右に出しておられ、栄光のお姿に変えられていることをわたしたちは知っています。そして、わたしたち一人一人をもその栄光の中に招き入れてくださることを信じています。主イエスの約束のみ言葉を聞きつつ、信じつつ、主の栄光のお姿を直接この目で仰ぎ見る時がくるまで、勇気と希望とをもって信仰の歩みを続けていきたいと思います。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたちの弱くみすぼらしい現実を知っておられます。地上の教会の困難は信仰の戦いをご存じであられます。この世界の混乱と悲惨とをすべて見ておられます。主よ、どうかわたしたちを憐れんでください。この世界とわたしたちにあなたの救いのみわざを行ってください。わたしたちにあなたのみ心をお示しください。あなたのみ心がこの地に行われますように。そして、わたしたちがあなたの栄光の内に神の国の民として迎え入れられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月13日説教「ヨセフの夢の実現」

2023年8月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記42章1~29節

    ローマの信徒への手紙12章9~21節

説教題:「ヨセフの夢の実現」

 族長ヤコブ、すなわちイスラエルの12人の子どものうち11番目に生まれた子どもヨセフを主人公とした物語が、創世記37章から終わりの50章までに語られています。ヨセフは父ヤコブの最愛の妻ラケルから、長く待ち望んだあとでようやく生まれた年寄り子でしたから、ことさらに父の寵愛を受けて育てられ、そのことが兄たちの憎しみを買うことになりました。兄たちは憎しみと嘲笑を込めてヨセフを「あの夢見るお方」と呼びました(37章19節)。ヨセフが自分の見た夢を兄たちや両親に自慢げに話していたからです。その夢はこうでした。【37章7節】(64ページ)。もう一つの夢は、【9節】。ヨセフに対する兄たちの憎しみと妬みの結果、ヨセフは兄たちによってエジプトに売られていくことになったのでした。

 それからおよそ20数年後、きょうの礼拝で朗読された42章6節にこのように書かれています。【6節】。そして、【9節a】。子どものころにヨセフが見た夢が、今、紆余曲折を経て、実現しているのです。けれども、そのことに気づいていたのはヨセフだけであり、しかもヨセフはそれを自慢げに兄たちに話すことをしていません。ヨセフは自分の夢が実現して、自分をエジプトに売り飛ばした兄たちに勝利したことを誇っているのでは決してありません。彼はここに神のご計画の実現を見ているのです。彼が見た夢を実現させたのは神です。ヨセフは神のみ心が行われていることを悟り、神への恐れをもって、神から自分に託されている兄弟同士の真の和解と、神の隠された救いのみわざが行われるために、何をなすべきかを思案しているのです。この42章でもすべての出来事を支配している主人公はヨセフではなく、主なる神なのです。ヨセフはその神に服従しているのです。

 では、どのようにしてヨセフの夢が実現され、神のみ心が行なわれていくのでしょうか。【1~2節】。エジプトと全世界を襲った大飢饉は、当然のことながらパレスチナ地方に住むヤコブ一家にも命の危険を及ぼすほどの影響を与えました。ヤコブは一家の長として、また一族の族長として、その家族の命を守る責任を自覚しています。ヤコブはエジプトには穀物があるということを聞いていました。彼がどうやってその情報を手に入れたのかについては何も書かれてはいませんが、そこにも神の隠れたみ心が働いていたと推測することはできます。でも、全国的な飢饉のときに、なぜエジプトに穀物があるのかについては、彼には知らされていません。しかし、41章をすでに読んできたわたしたちにはその理由が分かっています。

 41章53節以下にはこのように書かれていました。【53~57節】。これは、ヨセフがエジプト王ファラオの夢を解き明かし、7年の飢饉の前の7年の大豊作の期間に、穀物を蓄えさせておいたからであることをわたしたちは知っています。ヨセフは神から与えられた知恵によってファラオの夢を解き明かし、また神からの知恵によって大豊作のあとの飢饉に備えました。その知恵がファラオに認められてエジプトの総理大臣に任命されたのです。

 大豊作も飢饉も、いずれも主なる神のみわざです。神は創造されたすべての被造物を強いみ手をもって支配しておられます。大地を豊かに実らせるのは主なる神です。また大地を乾かすのも神です。そのようにして、神は豊作を喜ぶ人々にも、飢饉に苦しむ人々にも、主なる神であられることをお示しになり、わたしたち人間がすべてのものの造り主であられる神に服従し、その神がわたしたちを無くてならないものによって養ってくださることを信じるように導かれるのです。

 それゆえに、神はだれも飢えによって死ぬことを望んでおられません。2節でヤコブは「そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか」と言っていますが、それはヤコブの願いである以上に、主なる神のみ心なのです。神は兄たちによってエジプトに売られたヨセフをお用いになり、神に選ばれた族長ヤコブとその家族のパンのために配慮なさいます。そして、彼らを飢えと死の危険から救い出されるのです。

 ヤコブは飢饉から一家を救うために10人の息子たちをエジプトへ派遣します。でも、一番末の子ども、最愛の妻ラケルから生まれたヨセフの弟ベニヤミンだけは、この危険な旅から除外しました。かつて、溺愛していたヨセフを失ってしまったときの記憶が父ヤコブにはまだ残っていました。4節にこのように書かれています。【4節】。しかし、これもまた父の偏った愛からの行動であったと言わなければなりません。かつて、父としてのヨセフに対する偏った愛が兄たちの憎しみを買い、ヨセフを失う結果になったのと同じ過ちを、ヤコブは繰り返しているのではないでしょうか。

そして事実、父ヤコブはヨセフとベニヤミンという二人の子どもに対する偏った愛から、大きな苦悩をもって解放されなければならない時がくるのだということを、わたしたちは次の43章で読むのです。あらかじめその個所を読んでみましょう。【43章14節】。このようにして、ヤコブは人間の偏った愛から、彼が何度も失敗を繰り返してきたあの人間への偏った愛から解放されていくのです。ただ、主なる神に対する全き服従こそが、族長として選ばれた信仰者ヤコブの進むべき唯一の道であることを知らされていくのです。主なる神を第一に愛することこそが、夫婦の愛、家族の愛、すべての人間への愛の土台であるべきことを知らされるのです。

 エジプトに遣わされたヤコブの10人の子どもたちは、エジプトで総理大臣の地位についていた弟ヨセフの前で地にひれ伏しています。ヨセフはすぐに兄たちだと気づきましたが、彼らは自分たちの前に立っているのが、かつて外国の商人に売り飛ばしたヨセフだとは全く予想することはできませんでした。

また、ヨセフは自分が子どものころに見た夢が20数年後の今エジプトで実現していることにも気づいていました。でも、ヨセフはそ知らぬふりをしています。むしろ、彼らに外国からのスパイ容疑をかけて、荒々しく取り扱っています。

 ヨセフはここで兄たちにかつての復讐をしようとしているのでしょうか。自分の夢が実現したことを兄たちに対して誇っているのでしょうか。いや、そうではありません。彼はここで神のみ心が成就しているのを悟ったのです。彼が子どものことに見た夢を実現させ、ヨセフと他の兄弟たちとを、数奇な運命をたどりながら、今エジプトで再会させてくださったのは、ほかでもなく主なる神であるのだということをヨセフは悟るのです。そして、神が父ヤコブの12人の子どもたち全員を、真実の和解へと導こうとされていることを知らされるのです。そのために、ヨセフはまだここに一緒にいない末の弟ベニヤミンとの再会をも果たさなければなりません。

 【18~22節】。ヤコブ・イスラエルの12人の子どもたちを真実の和解へと導く神のみわざがこれから始められようとしています。ヨセフは末の弟ベニヤミンをエジプトに連れてくることを兄たちに要求します。それまでは兄弟の一人を人質にして牢獄に監禁することにすると言います。それを聞いた兄たちは、かつて自分たちが弟ヨセフを憎み、彼一人だけを残し、彼を苦しめ、外国の商人に売り飛ばしたという罪に気づきました。最年長のルベンをはじめ兄たちは、弟ヨセフに対するかつての罪に気づき、その罪を悔いています。ここから兄弟たちの和解が始まります。

 ヨセフは兄たちが自分に対して犯したかつての罪を悔いていることを知り、彼らに知られないように、そっと涙を流したと24節に書かれています。ヨセフは彼らが穀物の代金として持参した銀をみな彼らの穀物袋の中に忍び込ませて返しました。そのことを知った彼らは、28節で「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」と言って驚きました。兄たちもまた今回のエジプト行きと、エジプトの総理大臣との出会い、それが弟ヨセフだとはまだ気づいてはいませんでしたが、そしてエジプトの穀物によって飢饉から救われたことのすべてに、主なる神が働いておられることを感じ取っていました。

彼らは父ヤコブのもとに帰り、事のすべてを報告します。けれども、ヤコブにとっては彼らの報告は決して嬉しいものではありませんでした。ヤコブは36節でこう言います。【36節】。ヤコブは父親としてのヨセフとベニヤミンに対する偏った愛からいまだ解放されてはいません。わたしたちがすでに43章14節であらかじめ確認したように、二度目のエジプト訪問の時になってようやくヨセフは全能の神に服従することこそが、父親として、また神に選ばれた族長として、家族のみんなとイスラエルの民とを救うことになるということに気づくのです。

そしてまた、二度目のエジプト訪問で、ベニヤミンを含む11人の兄弟全員がヨセフの前にひれ伏すようになって、ヨセフが子どものころに見た夢が実現し、神のみ心が完全に成就するようになるのです。そのようにして、族長ヤコブとイスラエルの民全員が主なる神の救いのみわざを見るようになるまで、そしてすべての民が主なる唯一の神を礼拝するようになるまで、神の隠れた救いのみわざは続けられていきます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち人間の罪や憎しみや破れ、傷ついた愛の中で、ご自身の永遠の救いのみわざを前進させてくださいます。どうかわたしたちが自らの罪と破れとを知り、それを悔い改め、あなたの全能のみ力を信じて、あなたに服従する者としてください。この時代のさまざまな争い、混乱や分断、苦悩と試練の中にあっても、あなたのみ心が確かに行なわれていくことをわたしたちに信じさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。