7月9日説教「夢を解き明かすヨセフ」

2023年7月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記40章1~23節

    コリントの信徒への手紙二4章7~18節

説教題:「夢を解き明かすヨセフ」

 創世記37章から「ヨセフ物語」が始まります。これは創世記の最後50章まで続きます。ヨセフは族長ヤコブ、すなわちイスラエルの12人の子どもの11番目に生まれた子です。彼は父ヤコブが年取ってから生まれた子であり、しかも愛する妻ラケルにようやくにして与えられた子でしたから、ヤコブはことさらに彼をかわいがり、他の子どもたちの中で特別扱いをして育てました。

 あるとき、ヨセフは夢を見ました。その夢で、兄たちがみんな自分の周りに集まり、自分の前にひれ伏していたと話しました。また別の夢で、父と母と11人の兄弟みんなが自分の前でひれ伏していたと話しました。これは何とも傲慢で、わがままで独りよがりな夢の内容です。父ヤコブはヨセフを叱り、兄たちはいよいよ彼を憎むようになったのは当然でした。ある日、兄たちは羊の放牧で家から遠く放れていたとき、ヨセフをエジプトに向かう商人に売り飛ばしました。しかし、父にはヨセフは野獣に食い殺されたと報告しました。以上が37章のあらすじです。

 39章では、ヨセフがエジプトの宮廷の役人ポティファルの家で奴隷として働いていたことが語られます。39章2節には、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」と書かれています。同じような主なる神の導きについて、3節、4節、また21節、23節にも繰り返されています。兄たちの憎しみをかい、エジプトに売られ、奴隷となったヨセフでしたが、そのエジプトにあっても、神は常にヨセフと共におられ、彼の道を導かれたことが強調されています。

神はイスラエルの約束の地カナンだけでなく、異教の地、奴隷の地であるエジプトにあっても、ご自身が選ばれた民の一人をお忘れにはなりません。このことは、やがて400年以上もの時を経て、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出される出エジプトの出来事を用意しているように思われます。

 ヨセフはポティファルの家で全財産の管理まで任せられるほどの信頼を得ていましたが、ある時彼の妻の策略によって無実の罪をきせられ、投獄されてしまいます。しかし、主なる神は獄につながれたヨセフをお見捨てにはなりませんでした。【39章21~23節】。かつて、兄たちによってエジプトに売り呼ばされたヨセフ、そして今またエジプトで獄に捕らわれの身となっているヨセフを、神はお用いになって、ご自身の救いのご計画をさらに進められるのです。

 次の40章では、夢を解くヨセフのことが語られます。41章でも、エジプトの王ファラオの夢を解くヨセフのことが語られます。きょうはこの2章から、夢を解き明かすヨセフについて学んでいくことにします。

 ヨセフがつながれていた牢獄に、エジプト王の給仕役の長と料理役の長が一緒に投獄されることになり、ある夜に二人とも同じ夢を見ました。その夢の不吉さにゆううつな顔をしている二人を見たヨセフが、彼らに尋ねます。【6~8節】。

ヨセフは二人の囚人仲間の顔色の変化に気づいています。今まではいつも自分が中心で、自分のことだけを気にして生きてきたヨセフでしたが、一人異教の地エジプトで労苦を重ね、少しずつ他者へと目が開かれていったのかもしれません。他者の心が理解できるように神によって変えられていったのでしょう。

夢を解き明かすことは古代エジプト時代では一つの学問でした。夢解きに関する多くの文献が残っているそうです。この二人の給仕役と料理役の長も、自分たちが見た不吉な夢の解き明かしを依頼すべき学者がたくさんいたと思われますが、ここは牢獄ですからそれも自由にできません。

 その時、ヨセフが発言します。「夢の解き明かしをなさるのはイスラエルの主なる神です。どうぞわたしにその夢を話してください。神からの知恵を与えられているわたしが解き明かしましょう」と。ここには、エジプトで重んじられていた夢解きの学問に対する軽蔑が含まれているのかもしれません。ヨセフの発言の意味はこうです。どんなに優れた知恵であっても、それは人間の限界ある能力によるものに過ぎない。イスラエルの神は人間の能力をはるかに超えて、未来に起こるべきことをすでに今見ておられ、あるいはまた、ご自身の計画を確かに実現に至らせる全能の力を持っておられる。そして、その夢解きの知恵を、選ばれた民であり、神の僕(しもべ)であるこの自分に霊的な賜物として授けてくださっておられる。ヨセフはそのように語るのです。

 聖書では、夢は神の啓示の手段の一つです。神は人間が寝ている間に、夢でご自身のみ心を、ご計画をお語りになります。ヨセフは兄たちから「あの夢見る者」と言われ、からかわれていましたが、彼が見た二つの夢、すなわち11人の兄弟たちと両親までもが自分の前にひれ伏すようになるという夢は、傲慢でわがままなヨセフの独りよがりの夢物語というのではなく、確かにそこに主なる神の隠されたご計画があったのであり、そのことが実際に創世記の終わりで実現するようになるということを、わたしたちはやがて読むようになるでしょう。

 ヨセフは神から与えられた知恵によって二人の夢を解き明かします。給仕役の長の夢は、三日後に彼がファラオのゆるしによって再び元の職務に戻されるという意味です。料理役の長の夢は、三日後に彼はファラオによって処刑され、木にかけられて、鳥がその肉をついばむという意味です。そして、三日後のファラオの誕生日には、実際にその二つのことが起こったと書かれています。

 ヨセフの夢解きがそのとおりになったので、釈放された給仕役の長がヨセフのことを王に執り成して、ユセフを牢から解放することを期待していたヨセフでしたが、給仕役の長はヨセフのことを忘れてしまったので、ヨセフはなおしばらく投獄されたままで、41章へと続いていきます。

41章でも、わたしたちはイスラエルの神、族長たちの神は、その後2年間の獄中のヨセフを決してお忘れにはならなかった、エジプト王ファラオの前に立つヨセフを絶えず支え、導かれたということを何度も確認することになるでしょう。給仕役の長がヨセフのことを忘れていたという事実が、かえってヨセフをエジプト王ファラオの前で神から与えられた知恵を示すきっかけとなるのです。

 2年後に、ファラオは不吉な二つの夢を見ました。一つは、良く肥えた七頭の雌牛がナイル川から上がってくると、その後に上がってきた醜い、やせ細った七頭の雌牛がそれを全部食べ尽くしたという夢でした。王がすぐ続けてみた夢は、良く実った七つの穂が、そのあとから出てきた実が入っていない干からびた七つの穂によってのみ込まれてしまったという、これもまた不吉な夢でした。

 不安に思った王は、エジプト中の魔術師や賢者を呼び集めて、夢の解き明かしをさせましたが、だれも解き明かすことができる者はいませんでした。その時になって、給仕役の長が2年前に牢獄で自分の夢を解いてもらったヨセフのことを思い出し、そのことを王に申し出ました。そこで、王は獄中からヨセフを呼び寄せることになりました。

 【14~16節】。16節のヨセフの言葉は40章8節の言葉を思い起こさせます。夢を解く知恵をヨセフにお与えくださるのは主なる神です。ヨセフはその神に仕える僕です。ヨセフはエジプト王ファラオの前でも、イスラエルの主なる神の証し人として立っています。自分自身はその主なる神の仕え人、僕であるにすぎないことを告白します。同じようなヨセフの信仰は、【25節】、【28節】、そして【32節】でも告白されています。ファラオとその国の歴史のすべてを支配し、導いておられるのは主なる神です。だれもそれに逆らうことも、そこから逃れることもできません。これがヨセフの信仰です。

 ヨセフはかつて父の寵愛を受けて、わがままで高慢な子どもに育ちました。兄たちからは憎まれました。でも、エジプトに売られ、そこで奴隷として仕え、また2年以上もの長い投獄生活を強いられ、そのような試練の中で、ヨセフは信仰の訓練を受けたのだと思います。異教の地にあっても、族長アブラハム、イサク、ヤコブが信じた主なる神を、ヨセフは信じ続けました。

 さて、ヨセフの知恵はファラオの夢を解くことにとどまらず、神がこれから計画しておられることに対する備えをする知恵にまで及びました。ファラオの夢は、7年間の大豊作と、その後の7年間の飢饉を予告しているとヨセフは語ります。この神の決定はだれにも変更できません。そこで、ヨセフは王に提案します。7年間の大豊作の期間に、収穫物の五分の一を国民から徴収して倉庫に蓄えさせ、その後の7年間の飢饉にあらかじめ備えておくようにと進言します。

 ヨセフのこの提案を聞いた王は、彼の知恵に感心し、ヨセフをエジプト全土の宰相、すなわち総理大臣に任命しました。【37~42節】。エジプト王ファラオがイスラエルの神についてこのように告白することは全くの驚きと言えます。神はこの世のもろもろの王にも、世界のもろもろの神々にも勝利しておられます。それらのすべてをお用いになって、ご自身の救いのお計画をお進めになります。

そののちヨセフは、王の勧めによってエジプト人と結婚し、7年間の大豊作の期間に国中の食料を集めて倉庫に貯蔵させました。【50~52節】。二人の子どもの名前に、ヨセフの信仰告白が言い表されています。エジプトで大成功をおさめ、最高の位につき、幸せの絶頂にいるときでも、ヨセフの信仰は揺るぎませんでした。彼が与えられた幸いのすべては、主なる神から与えられたものであり、彼が自分の手で得たものではありません。ヨセフの生涯は確かに苦労の多い、悩みに満ちた日々でした。その中で、神は彼に憐みを施し、彼の生涯を祝福されました。

 飢饉は世界中に広まり、世界の国々は食糧を求めてエジプトの大臣ヨセフのもとにやってくるようになりました。カナン地方にいた父ヤコブとその11人の子どもたちも、エジプトに穀物があるというニュースを耳にしていました。そのようにして、ヨセフが子どものころに見た夢が、図らずも実現することになるのです。すべては主なる神のご計画です。

 神の救いのご計画は、ヨセフの時代から400年以上を経たモーセの時代の出エジプトの出来事へ、さらにそれから千数百年を経て、主イエス・キリストの誕生へと前進していきます。主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事を経て、その後の2千年の教会の歩みをとおして、さらに前進していくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは天地万物を創造され、今もなお造られたすべてのものをみ手のうちに治め、導いておられます。あなたはまた、永遠の救いのご計画により、全世界の歴史とわたしたち一人一人の歩みをも導いておられます。あなたは時に、わたしたちが経験する試練や苦難をとおして、あなたの尊いみ心を示したまいます。願わくは主なる神よ、どのような時にも、あなたが最もよい道をわたしたち一人一人に備えてくださることを信じ、あなたに聞き従って行く信仰をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月2日説教「聖霊なる神の働き-聖化」

2023年7月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(24回)

聖 書:イザヤ書6章1~7節

    ローマの信徒への手紙8章1~16節

説教題:「聖霊なる神の働き―聖化」

 『日本キリスト教会信仰の告白』の四つ目の文章は、「また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」と告白しています。ここでは、聖霊なる神のお働きについて告白されています。キリスト教教理で「聖化」と言われる教えです。ここでは、キリスト教教理の用語の「聖化」という言葉がそのまま用いられていますが、聖書の中に、「聖化」あるいは「聖化する」という言葉が用いられている箇所はありません。類似した言葉としては、「聖である」「聖なる」「聖とする」「聖別する」「清める」などの言葉が数多くあります。聖書で用いられているこれらの言葉は、キリスト教教理の「聖化」とは、厳密に言えば少し違った意味を持ちます。

 そこできょうは、「聖化」という教理を正しく理解するために、聖書で用いられているこれらの言葉の意味をまず学んでいきたいと思います。旧約聖書でも新約聖書でも、「聖」は、神の本質を言い表す言葉です。神は聖なる方です。ただ、神だけが聖なる存在です。神以外の、他のすべてのものは、聖ではありません。この世に属するもの、この世界、地上に属するものです。

 その意味で、聖とは、この世からは全く区別されたものであると言ってよいでしょう。神はこの世のすべてのものからは全く区別された聖なる方、永遠なる方、完全なる方、全能なる方、罪や汚れのない清い方、義なる方、そして唯一の創造者なる方であられます。それに対して、神以外のすべてのものは、わたしたち人間を含め、神以外のすべてのものは、神によって造られた被造物であり、過ぎ去り、移りゆき、滅ぶべきこの世に属し、不完全なもの、限りあるもの、弱くはかないもの、罪あるものです。このように、神と人間との絶対的な違い、区別に基づいた神の超越性が、神の「聖」です。

 預言者イザヤはエルサレム神殿で神と出会ったとき、神の使いセラフィムが互いにこう呼び交わす声を聞きました。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(イザヤ書6章3節)。そのときイザヤは言いました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者、しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(同5節)。このあと、イザヤは神によって罪と汚れがゆるされ、清められ、イスラエルの預言者として派遣されていきます。

 この世に属する人間は、本来、聖なる神のお姿を見ることも、そのお声を聞くこともできない。もしそうすれば、人間は滅びなければならない。死ななければならない。聖なる存在である神は、聖でない存在に対して、超越的な力、破壊的な力を持つ。そのように考えられていました。

 では、聖なる神に罪びとなる人間が近づくことは全くできないのでしょうか。この世に属する、罪に汚れた滅ぶべき人間が、聖なる神に近づくことが許される唯一の道を、神は備えてくださいました。それが、神礼拝です。わたしたち人間が聖なる神のみ前に恐れと全きへりくだりとをもって神を礼拝するときに、初めてわたしたちは神に近づき、神と交わることが許されます。

 けれども、そのままでは人間は汚れた者ですから、聖なる神のみ前に立つことができません。神のみ前に立つために、人間は聖別されなければなりません。聖別とは、聖なる神のみ前に出るために、この世のものから区別され、分離され、神に属する者に、神にささげられた者に変えられることです。

 神は全世界の中からイスラエルの民を選ばれ、ご自身の民として聖別されました。神はまた一週間のうちの一日を聖なる日、安息日として聖別されました。この日に、神に選ばれ、聖別されたイスラエルの民は、自分自身を神にささげられた者として、この世から自らを分離し、この世でのあらゆる関係やこの世での働きをすべて中止して、神を礼拝しました。そのようにして、彼らは聖なる神との交わりを持ち、神と出会い、神のみ言葉を聞き、神の救いのみわざを経験したのです。

 また、イスラエルの礼拝の中では、罪の贖いのためにささげられる動物も聖別されなければなりません。神にささげられる羊、ヤギ、牛などの家畜は、群れの中の傷がない肥えたものが選ばれ、数日前から群れからは分離されて備えておかれなければなりません。神は言われました。「わたしが聖なる者であるゆえに、わたしを礼拝する者もまた聖なるものとならなければならない」と。

 以上のことから確認されるように、聖書の中で言われる「聖」あるいは「聖別する」とは、神に属するもの、神にささげられるためにこの世から選び出され、この世から分離されるという意味です。

 さて、『日本キリスト教会信仰の告白』で告白されている「聖化」を考える場合にも、このような「聖」という言葉の意味から出発しなければなりません。聖化とは聖なるものに変えられていくことだからです。それは端的に言えば、わたしたちが神のものとされていく過程であると言ってよいでしょう。わたしがかつてはこの世に属していたが、次第に神に属する者へと変えられていくこと、わたしがこの世のものを求め、この世を基準にして生きてきた生き方から、神を求め、神を基準にして生きる生き方へと変えられること、わたしが自分自身のために生きていた生き方から、神に自らをささげ、神のために生きる生き方へと変えられていくこと、そのようにしてわたしが一歩一歩、神のものとされていく、その過程が聖化なのです。

 ここで、もう一つの重要なポイントは、その聖化は徹底して聖霊なる神のお働きであるということです。『信仰告白』のこの箇所の主語は聖霊です。わたしが自分の努力や自分の行動、意志によって自分を聖化するのではありません。あるいは、わたしの信仰がわたしを聖化するのでもありません。聖化は聖霊のみわざです。

 「聖霊は、信じる人を聖化し」と告白されているように、わたしたちがなすべきことは信じることです。主イエス・キリストの十字架の福音によってわたしの罪がゆるされているということを信じること、その信仰によって生きることです。もちろん、わたしにその信仰を与えてくださるのも聖霊なる神です。主イエス・キリストの十字架の死と復活がわたしの救いのためであることをわたしに信じさせ、その信仰によってわたしを義と認め、わたしを罪から救ってくださる、そのすべてが聖霊なる神のお働きです。その聖霊がそののちも常にわたしをとらえ、導き、わたしを聖化の道へと進ませてくださるのです。

 『信仰告白』の一つ前の文章では、「キリストにあって義と認められ」とあり、続いて、「信じる人を聖化し」とあります。義認と聖化は結びついています。義認には聖化が続きます。義認だけでは救いは完成しません。義認に聖化が続き、終わりの日の信仰の完成へと至ります。

 ところで、日本キリスト教会はどちらかと言えば聖化をそれほどには強調しないと言ってよいかもしれません。18世紀イギリスのジョン・ウェスレーを源流とするメソジスト派や今日の聖霊派と言われる教派は聖霊を強調します。彼らが考える聖化は、キリスト者が日々の生活の中で,祈りや学び、愛のわざなどの信仰の訓練を積み重ねることによって、罪と悪に勝利し、清められ、ついには全き聖化に達すると言います。ウェスレーは『キリスト者の完全』という書物を書いています。

 けれども、このような聖化の理解によれば、人間の意志や努力がどうしても重要視され、人間のわざ、道徳、倫理が強調されることになります。わたしたちの教会はそのことを警戒して、聖化を極端に強調することはしません。聖化はあくまでも聖霊なる神のみわざなのであり、わたしたち信仰者の努力義務をそこに持ち込むことは避けるべきだと考えています。

 では、わたしたちの聖化は具体的にどのようになされるのか。聖霊の聖化の働きはどのようにしてなされるのでしょうか。わたしたちの信仰にとって重要なポイントを二つにまとめましょう。

 第一には、わたしたちの聖化の道の出発とその過程、そしてその最終目的は主イエス・キリストにあるということです。ヘブライ人への手紙12章2節に、「信仰の創始者また完成者であるイエス」と書かれています。わたしたちのために十字架への苦難の道を進み行かれ、その死を耐え忍ばれ、今や勝利者として天の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストのみあとに従って行く道が、聖化の道です。主イエスはこう言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と。「わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」(コリントの信徒への手紙一1章30節)主イエスの招きに応えて、主イエスが歩まれた道、主イエスが備えてくださった道を、従順に従い行くこと、それがわたしたちの聖化です。そして、主イエスが再びおいでになられるときには、わたしたちは主イエスのお姿をありのままに見ることが許され、わたしたちも主イエスのお姿に似た者に変えられるのです(ローマの信徒への手紙8章30節、ヨハネの第一の手紙3章2節参照)。そのとき、聖化の道は最終目的に達するのです。

 もう一点は、わたしたちは常に聖化の道の途上にあるということです。わたしたちは宗教改革者たちが言ったように、常に、罪びとです。しかしまた、常に、罪ゆるされている罪びとです。それゆえに、日々、罪を悔い改めつつ、また日々、罪ゆるされていることを感謝しつつ、神を礼拝する信仰生活を続けることが、聖化への道です。

わたしたちはまだ完全な者になっているのではありません。しかし、そうでありつつ、最後の勝利と完成の時に向かっていることを知っています。だから、わたしたちが「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」(フィリピの信徒への手紙3章12節以下参照)にほかなりません。この聖化への道を、聖霊は常にわたしと共におられ、わたしを導いてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちを罪と滅びから解放し、救いの道へとお導きくださったことを、心から感謝いたします。わたしたちはなおも弱くつまずきやすく、迷う者です。どうか、あなたが聖霊をもってわたしたちの信仰の道を導いてください。終りの日の完成に至るまで、希望と喜びとをもって信仰の道を歩ませてください。

○父なる神よ、不安や恐れの中にある人たちを天からのまことの光で照らし、慰めと平安をお与えください。重荷を負い、生きる困難を覚えている人たちに、主キリストにある励ましと勇気をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月25日説教「放蕩息子のたとえ」

2023年6月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(小泉典彦長老)

聖 書:詩編136編12節

    ルカによる福音書15章11~32節

説教題:「放蕩息子のたとえ」

 本日は、先ほど読んでいただいた、ルカによる福音書15章からご一緒に聖書の御言葉を聞きたいと思います。この聖書の箇所は、冒頭の見出しにもありますように、「放蕩息子」のたとえ として、聖書の中でも最も知られている箇所のひとつです。日曜学校の子どもたちの礼拝でもよく取り上げられる、イエスさまが話してくださったたとえ話です。今日の説教題も「放蕩息子のたとえ」としました。しかしこの箇所の主人公は、ゆるされた息子ではなく、深い慈愛で迎えてくれた父親です。

ルカによる福音書15章は、4~7節では「見失った羊」のたとえ・8~10節では「無くした銀貨」のたとえ・そして今日の箇所11~32節の「放蕩息子」のたとえの三つのたとえ話で構成されています。「見失った羊」・「無くした銀貨」・

「放蕩息子」に対する神さまの「失われたものへの配慮」が示されています。そしてそれら三つのたとえ話の共通点は、~友達や近所の人々を呼び集めて喜ぶ。今日のたとえでは祝宴を開いて喜ぶのです。~すなわち、失われたものを回復した時の大きな喜びであります。一人の罪人の悔い改めに対する神様の喜びであります。

さてそれでは、イエスさまがこの三つのたとえを話された時の状況をみてみましょう。15章1節以下、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。【2節】すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。【3節】そこで、イエスは次のたとえを話された。

◎放蕩息子のたとえ話

 イエスさまは多くのたとえ話をなさいましたが、中でもこの「放蕩息子」のたとえ話は、最も有名であると言ってよいでしょう。このたとえ話はたいへんわかりやすいものです。読んでいるだけで情景が目に浮かぶかのようです。まさに、どうしようもない放蕩息子の姿が見えてきます。さっそくお話を振り返ってみましょう。

 まず15章11節、「ある人に息子が二人いた」という言葉から始まっています。この「ある人」というのは、神さまのことをたとえていると言えるでしょう。そしてその息子のうち、弟のほうが父親に「お父さん、私がいただくことになっている財産の分け前をください」と要求します。「私がいただくことになっている財産」と言っていますが、財産はふつうは死んでから相続のために分けるのが普通です。しかしそれを今くれ、と言うわけですから、ずいぶん厚かましいお願いです。

 ところがこの父親は、腹を立てて拒否するかと思いきや、二人の息子に分けてやります。そうすると、弟息子はその財産を売り払ってお金に換え、遠い国に行ってしまいます。そしてそこで放蕩の限りを尽くして、財産をすべて使い果たしてしまいます。今でもときどき、会社のお金や役所の積立金を横領してギャンブルに使い、捕まるというニュースがあったりしますが、人間一度は思う存分お金を使ってみたいと思うのかもしれません。しかし遊ぶ金というものは、あっと言う間に無くなるもののようです。

 その地方にひどい飢饉が起こったとあります。飢饉が起きると、弱い人から死んでいく時代ですから、それこそ死に直面することとなります。もうなりふり構っていられません。ある人の所に身を寄せたところ、豚の世話をさせられたとあります。豚は、旧約聖書の律法では穢れた動物であり、ユダヤ人は飼いません。だからこれは、外国の異邦人の所であることが分かります。しかし豚のエサである「いなご豆」さえももらえなかったというのです。「いなご豆」とは、イスラエルでは、木に生えており。空豆のようなさやに入っているそうです。昔から家畜のエサとして、今ではヘルシーな健康食品の食材としても使われます。

 【17節】「そこで彼は我に返って言った」とあります。我に返るということはどういうことでしょうか。原語では「自分自身に帰る」という意味になっています。すなわち、本来の自分自身に帰った、ということでしょう。本当の自分自身を取り戻したということです。では、本当の自分自身とは何か?‥‥それがまさにここのポイントです。

 「自分捜し」という言葉が流行ったことがありました。自分が何をして良いか、どう生きたらよいか分からない。それで本来の自分の姿はなんだろうと、試行錯誤を続けることです。イエスさまがおっしゃる本来の自分とは何か、自分を取り戻すとはどういうことなのか?‥‥それがこのあとの放蕩息子の行動が示しています。それは、父親のもとに帰ることでした。父のもとには、有り余るほどのパンがあった。しかし今さらどの面下げて帰れるというのか。そこで帰った時に父にいう言葉を考えます。【18節】「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。【20節】「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。」彼は父親のもとに帰っていきます。お腹がすいて、トボトボと歩いて帰っていったことでしょう。しかも裸足で。

 さらに20節を見ると、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と書かれています。なぜまだ遠くにいたのに、父親は息子を見つけることができたのでしょうか?‥‥それは、この父親が地平線の彼方を見ていたからに他ならないと思います。そうでなければ、遠くから歩いてくる人影を発見することはできません。おそらく、この父親は、毎日毎日、今日帰ってくるか、今日帰ってくるか、と地平線の彼方をながめていたに違いありません。待っていたんです。帰ってくるのを

 そして父親のほうから駆けよって、首を抱いて接吻しました。息子が、戻ってくる前に父親に言うために考えていた言葉を言いかけます。ところが父親は、それを最後まで聞く前に、召使いたちに指示を下します。まるで、息子の言葉なんかどうでもよいという勢いです。もう、とにかくこのろくでもない息子が帰ってきたことが、うれしくて、うれしくてしかたがない‥‥という思いが伝わってきます。息子の謝罪の言葉よりも、父親の愛が前面に出ています。

 一番良い服、そして指輪、履物を。さらに肥えた子牛を屠ってごちそうを出しなさい、と。肥えた子牛というのは、たいへんなごちそうです。イスラエルでは、特別な賓客にしか出さないものだったようです。例えば創世記で、アブラハムが御使いたちをもてなした時に、肥えた子牛を屠っています。それぐらいの尋常ではない父親の歓迎ぶり、喜びようが表されています。

 なぜそこまでして、このろくでもない自分勝手だった息子を許し、喜びにあふれたのか。【24節】「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」という、ただそれだけの理由です。「死んでいた」というのは、父親のもとを離れていた状態を表しています。生き返った、見つかったというのは、父親のもとに帰ってきたことを指しています。すなわち、「我に返る」「立ち帰る」「本来の自分に戻る」ということは、父親のもとに戻ってくることを指しているのです。言い換えれば、神のもとに戻ってくること、信じることを指しています。
 さて、そうして弟息子を交えての宴会が始まりました。そこに一日の仕事を終えた兄が戻ってきます。そして宴会の事情を知って腹を立てます。怒りのあまり、家に入ろうとしません。つまり、弟が生きて帰ってきたことが喜びではない。父の態度に、不公平なものを感じて腹を立てたのです。そして出てきてなだめる父に向かって、不平をぶちまけます。この兄の言葉は、もっともです。たしかにその通りです。多くの人がその通りだと思わないでしょうか。しかしだからこそ、逆に、この父親の非常識さが際立ってきます。

◎分かれる感想

 今日の説教を準備するにあたり、あるミッションスクールの高校の授業で、生徒たちにこの個所を読ませ、感想を書いてもらったというエピソードを目にしました。そこでは、生徒から実にいろいろな感想が出てきたそうです。

生徒たちからは、「兄の言うことはもっともだ」と兄の肩を持つ人が多かったそうです。また、父親に対する意見も分かれました。放蕩息子をこのようにして受け入れる父親にはとても理解できない、という意見が多くありました。逆に、理解できるという意見もありました。どんな馬鹿息子でも、生きて帰ってきたらやはりうれしいのでは、という意見もあったそうです。実に様々な感想がありました。そのように多くの感想に分かれるのは、やはりこのたとえ話の中の登場人物に、自分を重ね合わせて見るからだろうと、その授業をすすめた教師は感じたそうです。

まとめ①「焦点は」

 このたとえ話の焦点はどこにあるのでしょうか。それは、このたとえ話のおかしな所にあります。するとやはりそれは、この放蕩息子を受け入れる父親の、非常識なまでの愛にあると言えます。いくら何でも人が良すぎると思われます。いくら生きて帰ってきたと言っても、全部放蕩息子が悪いのですから、ここまで喜ぶとなると、いくら何でも行きすぎだと思われます。兄の言うほうが当たり前です。

 しかしイエスさまによれば、私たちの神さまは、この父親のようであるということです。「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って、これほどまでに喜んでくださる。すなわち、悔い改めて、神のもとに立ち帰ることが本来の人間の在り方であり、それを神さまが手放しで喜んでくださるということです。

まとめ②「私たちは誰?」

 私たち自身は、この登場人物の中の誰でしょうか。自分を兄に置き換えて考える方も多いことでしょう。「こんなにまじめに生きているのに、なんだ神さまは」というようにです。その時には喜びがありません。しかし、自分もまたこの弟のほう、つまり放蕩息子であることに気がついた時、はじめて感謝と喜びが生まれます。

 自分もまた、救われる資格のない者であった。このことに気がついた時、多くの人が、「私も放蕩息子でした」と告白します。すると大いなる喜びが生まれてきます。神さまが、ここまで喜んでくださるのですから。聖書には、神様の愛についてイエスさまが語っておられる箇所が沢山あります。今月・6月の礼拝において、すなわち今日の礼拝においても、神さまの愛についてイエスさまが語っておられます。「恵の言葉」です。ヨハネによる福音書3章16~17節(新約167)。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(2回繰り返し読む)この箇所を更にわかりやすく表している讃美歌があります。194番「神さまは そのひとり子を」です。これは、日曜学校で歌われる「こども讃美歌」にもあるよく知られている讃美歌の一つです。「①神さまは そのひとり子を 世のなかにくださったほど 世の人を 愛されました ②神の子を 信じるものが、 新しい いのちを受けて、いつまでも 生きるためです」(讃美歌194番を開き朗読する。)神さまの愛についてとてもわかりやすくわたしたちに語りかけてくれます。

 さて一方、私たちはしばしばこの兄のように、すなわちファリサイ派の人々や律法学者たちのように考えることもあるのではないでしょうか。「自分はこんなにいっしょうけんめい働いているのに」と。しかし父なる神さまは、信じるようになった者に対して、一緒に喜んでやれとおっしゃるでしょう。伝道の喜びはそこにあります。父なる神さまの喜びを共にするからです。

 我に返る、本来の自分自身に帰るというのは、父なる神さまの所に帰るということです。私たちは皆、父なる神さまから命を与えられたのです。父なる神さまから命を受け、出発したのです。ですから、すべての人にとって、帰るところは父なる神さまの所です。

 このたとえ話には、表に出てきませんが、父なる神がこのように喜んで迎えてくださる背景には、イエス・キリストが十字架にかかられたから、ということがあります。イエスさまが、父なる神のもとに帰る道を用意してくださったのです。神の子として迎え入れられるなんの資格もない私たちが、このようにして喜んで迎え入れられる。まことに感謝です。

(執り成しの祈り)

○主イエス・キリストの父なる神様。あなたのお名前をほめたたえます。あなたのみ言葉はいつの時代にも、命と力とを持ち、救いの恵みを多くの人たちに分かち与えてくださいます。また、あなたは世界の至る所に、そのみ言葉を語り伝えるために仕える人たちを起こしてくださいます。どうか、わたしたちをもあなたのみ言葉をつたえる者としてお用いください。

○神様、戦争や紛争で故郷や住む家を失い、放浪の生活を強いられている難民たちに、温かい落ち着いた食卓と安らかな眠りをお与えください。差別や偏見によって人権を踏みにじられている人たちに、共に生きる喜びをお与えください。重荷を負う人、病んでいる人、孤独な人、一人一人にあなたからの慰めと平安、希望をお与えください。そして、わたしたちもキリストにならい、困難を抱えている人、悲しんでいる人、病んでいる人の為に、祈りを合わせて、その方々に仕えていくことができるようにしてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。      アーメン。

6月18日説教「パウロとエルサレムの使徒たち」

2023年6月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記3章1~10節

    使徒言行録9章26~30節

説教題:「パウロとエルサレムの使徒たち」

 紀元30年ころ、ペンテコステの日にエルサレムに誕生した世界最初の教会は、誕生してすぐにユダヤ人からの何度かの迫害を経験しながらも、そのたびに新たな力を与えられて、エルサレムだけでなく、パレスチナ全域に、さらにはユダヤ人以外の異邦人にまで、教会の活動が広げられ、主イエス・キリストの福音が宣べ伝えられていったということが、使徒言行録8章までに描かれてきました。わたしたちはその中で、何度も、「神の言葉はこの世の鎖によっては決してつながれない」(テモテへの手紙二2章9節参照)という使徒パウロの言葉を確認してきました。

 9章に入って、サウロ(すなわちパウロ)の回心と言われる出来事が記されていましたので、エルサレム教会の活動のことについてはしばらく中断されていましたが、きょう朗読された9章26節以下で再びエルサレム教会のことが語られます。【26節】。この箇所で、エルサレム初代教会の活動とキリスト者となったばかりのパウロの活動とが合流します。

 しかし、この両者の合流がこのような形で起こるであろうということを、8章が終わった段階でだれが予想しえたでしょうか。9章の初めに書かれていたように、パウロはキリスト教会迫害の急先鋒として、エルサレムのユダヤ教最高指導者の大祭司からの許可証をもらって、ダマスコにいるキリスト者を逮捕するために、意気込んでこの町にやってきたのでした。ところが、この町の入り口の門で、パウロは復活された主イエスとの衝撃的な出会いを経験し、キリスト教の迫害者であった彼が突然に180度方向転換をしたかのように、主イエスの福音を宣べ伝える宣教者に変えられたのでした。しかも、すぐにもそのダマスコの町で、主イエスこそが約束されていた神のみ子であり、メシア・キリストであると語り出したために、その町のユダヤ人から迫害を受け、命を狙われるようになったのでした。

 そのパウロが数週間後、あるいは数か月後かに、再びエルサレムに戻ってきたのです。あの迫害者であったパウロが、キリスト者パウロとなって。だれがそのようなことを予想しえたでしょうか。神は無から有を呼び出だすようにして、また死から命を生み出すようにして、わたしたちの人生の中で、この世界の歴史の中で働かれます。神はわたしたち人間の考えや可能性をはるかに超えて、時にはそれに逆らって、全く正反対のことをも実現させ、救いのみ心を前進させたもうのです。

 以前にも少し説明しましたが、使徒言行録の記録とパウロが書いたガラテヤの信徒への手紙1章の記録との間には、回心後のパウロの行動に大きな違いが見られます。ガラテヤの手紙では、パウロが異邦人に対する伝道者として召されたという点が強調されていて、キリスト者となったパウロはすぐにアラビア地方へと伝道に行ったと書かれています。そこでは、ダマスコでの伝道やエルサレム教会訪問のことについては触れられてはいません。それに対して、使徒言行録ではダマスコで受けた迫害と、続いてエルサレムで受けた迫害について描かれており、迫害する側にいたパウロが迫害を受ける側に変わったという点が強調されているように思われます。

使徒言行録のきょうの箇所では、キリスト教会の迫害者としてエルサレムを出て行ったパウロが、今迫害を受けるキリスト者となってエルサレム教会に戻ってきたということが語られています。

 26節に「弟子」とあるのはエルサレム教会の会員のことで、27節の「使徒たち」とは、主イエスの12弟子を中心とした教会の指導者たちを指していますが、8章1節に書かれていたエルサレム教会に起こった大迫害で、使徒以外の教会員はみな市内から追放されたことになっていました。けれども、ここではまだ会員が残っていたように思われます。そこで、迫害によって追放された教会員はギリシャ語を話すユダヤ人、つまりヘレニストに限っていたのではないかと推測されています。

ここには、エルサレムに戻ってきたパウロが教会の弟子たちから警戒されたことが書かれていますが、パウロは教会からも、またユダヤ教徒たちからも危険視されたことが容易に想像できます。パウロはユダヤ教徒で熱心なファリサイ派の指導者として、ユダヤ当局からの推薦状までもらって、キリスト教徒迫害のためにダマスコへでかけたのでした。そのパウロがキリスト者となり、キリスト教の宣教者となってエルサレムに戻ってきたということは、ユダヤ人のだれもが、特にその指導者たちにとっては、理解できない不思議なことであり、それは彼らにとっては大きな裏切りだととらえられたことは確かです。パウロは彼らにとって卑怯者であり、危険な人物です。

 エルサレム教会のキリスト者、また教会の指導者たちにとっても、パウロのこの大きな変化は信じがたいことでした。彼らがパウロを恐れたのは当然でした。パウロは、キリスト教会最初の殉教者となったステファノが石打ちの刑で処刑された際に、刑を執行した人たちの上着の番をしていたことが、7章58節に書かれていました。彼が教会にとって恐るべき迫害者であったことは、教会のだれもが知るところでした。

では、パウロはなぜどちら側からも歓迎されないであろうエルサレムへ危険を冒してまでも戻ろうとしたのでしょうか。そのことを考えながら、読み進んでいきましょう。

 【27節】。ここに、バルナバという人が現れ、パウロとエルサレム教会との間を執り成す役割を果たします。バルナバについては、4章36節ですでに紹介されていました。エルサレム教会員の一人で、その名前バルナバとは「慰めの子」という意味であること、彼が自分の畑を売却して、その代金の全額を教会にささげ、貧しい人たちを助け、彼らに慰めを与える人であったことが書かれていました。その名のとおりに、ここではパウロとエルサレム教会の間に立ち、ダマスコでパウロが経験したことを教会に話して彼らの誤解を解き、両者を結び付け、双方に慰めを与える人となりました。パウロにとってバルナバはどれほどにか力強い存在であったことでしょうか。

 神はこのようにして、いつの時にも、教会の働きにとって必要は人を起こしてくださいます。バルナバはこのあと、13章2節に書いてあるように、パウロの第一回世界伝道旅行に同伴者として、協力者として派遣され、長い間パウロの良き同労者として働きました。

 次に、【28節】。ここには、パウロのエルサレム行きの目的を暗示する二つのことが記されているように思われます。一つには、パウロはエルサレム教会の使徒たちの仲間入りを望んでいたということです。パウロは異邦人に対して福音を語るのが自分の務めだと自覚していましたが、エルサレム教会の当時の指導者であったペテロやほかの11人の弟子たち、また主イエスの兄弟ヤコブなどとの交わりを持つことを願っていました。パウロはのちに異邦人世界の宣教者となり、世界の各地に教会を建てるために仕えますが、その際にも、エルサレム教会を世界の母なる教会として重んじ、エルサレム教会との交わりを大切にし、困窮していたエルサレム教会のための献金を集めていました。

エルサレムは主イエスの十字架の死と復活、そして昇天の出来事が起こった場所であり、主イエス・キリストの福音と世界の救いの中心であり、そしてまた世界最初の教会が誕生した地です。全世界の教会はそこに源を持っているとパウロは考えていました。パウロは自分自身の信仰もまたエルサレムとその教会に原点があるということを確認する必要性を感じていたと推測されます。彼がダマスコで経験した復活の主イエスとの出会い、迫害者からキリスト者へと変えられたこと、そして主イエスによって異邦人伝道の使命を託されたこと、これらの出来事はパウロの個人的な体験であるだけでなく、エルサレム教会の使徒たちにも認められ、エルサレム教会との関連の中での出来事であることが証しされ、承認されることが必要であったのです。

 エルサレム行きのもう一つの目的は、パウロ自身がこの町で主イエス・キリストの福音を大胆に語るということには大きな意味があったからです。パウロを裏切り者、卑怯者と見ていたエルサレムのユダヤ人たち、ユダヤ教の指導者たちに対して、彼らを恐れることなく、自分がかつて迫害していた主イエスこそが、旧約聖書の中でユダヤ人たちが長く待ち望んでいたメシア・キリストであることを、またこの方こそが全世界の唯一の救い主であることを語り伝えること、それが熱心なユダヤ教徒からキリスト教会の宣教者に変えられたパウロの大きな使命であったからです。

 しかし、これもまた当然予想されていたことでしたが、パウロはエルサレムでも迫害を受け、命を狙われました。【29~30節】。「ギリシャ語を話すユダヤ人」とは、ヘレニストと一般に呼ばれていますが、彼らは外国に離散していたユダヤ人で、最近エルサレムに移り住んだ人たちでした。パウロもヘレニストの一人でギリシャ語を話していましたから、彼らに親近感をもって主イエスの福音を語ったのであろうと思われます。けれども、彼らは主イエスの福音を信じようとはせず、反対にパウロを殺そうとしました。パウロはエルサレム教会の兄弟たちに守られながら、地中海沿岸のカイサリアへ行き、そこからおそらく船で生まれ故郷である小アジア地方の町タルソスへと向かいました。

こののち、パウロはしばらく使徒言行録からは姿を消します。おそらくタルソスあたりで宣教活動を行なっていたと推測されています。彼が再び姿を現すの は、11章25、26節と13章1節以下の第一回世界伝道旅行のときになります。11章でも13章でも、そこでパウロと協力するのはここでパウロとエルサレム教会との間を執り成したバルナバです。

このようにして、神は迫害者パウロを宣教者パウロに変え、またパウロとエルサレム教会とのつながりを強め、そのためにバルナバをお用いになり、のちに3回にわたるパウロの世界伝道旅行の備えを着々と進められたのです。神は今もなお、全世界の教会をお用いになって、ご自身の救いのみわざを進めておられます。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたのみ言葉はいつの時代にも、命と力とを持ち、救いの恵みを多くの人たちに分かち与えます。また、あなたは世界の至る所に、そのみ言葉を語り伝えるために仕える人たちを起こしてくださいます。どうか、わたしたちをもあなたのみ言葉の証人たちとしてお用いくださいますように。

○天の父なる神よ、戦争や紛争で多くの血が流されている地域に和解と平和をお与えください。故郷や住む家を失い、放浪の生活を強いられている難民たちに、温かい落ち着いた食卓と安らかな眠りをお与えください。差別や偏見によって人権を踏みにじられている人たちに、共に生きる喜びをお与えください。重荷を負う人、病んでいる人、孤独な人、一人一人にあなたからの慰めと平安、希望をお与えください。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月11日「人間の生と死を考える」

2023年6月11日(日) 秋田教会伝道礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編90編1~12節

    ローマの信徒への手紙6章1~11節

説教題:「人間の生と死とを考える」

 今回の伝道礼拝の説教題を「人間の生と死とを考える」と付けました。その理由は、案内パンフレットにも書きましたが、わたしたちはこの数年、人間の死に関するニュースをしばしば耳にし、死について深く考える機会が多いからです。新型コロナウイルス感染症のために、高齢者や体力が弱い人が、時に十分な医療のサポートを受けられずに亡くなっていく例を多く見ました。亡くなる際にも、家族にも看取られず、また通常の葬儀も行えないというニュースも聞きました。それに加えて、戦争や侵略、内紛によって、ミサイルが平和だった町々村々の空を飛び交い、きょうは何人死んだ、その中で子どもは何人だったというアナウンスを、何度聞いたことでしょう。国家権力の暴力によって奪われていく人間の命、あるいは自然災害によって犠牲となる命、そのたびに、人間の死とは何なのか、人間の命とは何なのかと、心を痛めながら、強い憤りを感じながら、また深い同情をもって、考える機会が多くありました。みなさんはいかがでしょうか。

 このテーマのもう一つのポイントは、人間の生と死、生きることと死ぬことは、いつでも結びついているものであり、結びついて考えなければならないということです。人間は自ら死すべきものであることを知ることができる生き物であり、それゆえにまた、死の時が来るまでは人間はみな生きている、生きることができるということをも知っています。

 そのどちらをより強く意識するかで、その人の人生観が変わってくるでしょう。ある人は死に定められている自分の人生を悲観的にとらえ、辛く、暗い道を歩むようになるかもしれません。でも、ある人は希望と可能性を抱いて、死の直前までは自分は生きることができる、生きることが許されている、生きていてよいのだと考えることができます。死ぬことにより重い意味を見いだすのか、それとも、生きることにより大きな意味と希望を見いだすのか。わたしたちはだれもが後者でありたいですね。

 そこで、わたしたちは人間の命と死とを考える際に、様々なアプローチができると思いますが、たとえばそれぞれの時代の哲学者たちはどう考えたかとか、文学ではどう取り扱われているかとか、世界の宗教ではどのような違いがあるのかとか、それも興味深いのですが、人間の生と死の問題、課題を真正面から、真剣に捕らえ、その問題と課題に、神ご自身が、ご自身の命と全存在とをかけるようにして取り組まれた、主イエス・キリストの父なる神、聖書の神、キリスト教の神が、人間の生と死とをどのようにご覧になっておられるのか、どのように教えておられるのかを、見ていくことにしたいと思います。

 今簡単に触れましたように、聖書の神の教えの最大の特徴は、わたしたちがきょうテーマとして挙げている人間の生と死という問題、課題に、まさに神ご自身が、ご自身の御独り子なる主イエス・キリストの生と死そのものをとおして答えておられるというところにあります。神は天におられて、天からみ声を発して、「人間の生と死とはこうである」と教えておられるのではありません。神は天から地に下ってこられて、わたしたち人間と同じお姿になって、わたしたち人間と同じ生と死とを経験されて、それによってわたしたちの生と死との課題を担ってくださったのです。ここにこそ、人間の生と死との問題、課題に対する本物の答えがあり、わたしたちに希望と喜びを与える真理があると信じるのです。

このことについては、またのちほどお話しすることにして、先に旧約聖書、詩編90編では人間の生と死についてどのように教えられているかを学んでいきましょう。

1節に「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」と書かれています。この詩人は主なる神に「あなたは」と呼びかけ、あなたとわたしたちの関係の中で、人間の生と死とを考えています。これが重要です。これが聖書の、またキリスト教の人間観、人生観、死生観の大きな特徴であると言えます。わたしたち人間の生と死、あるいは存在、そのすべてが主なる神との関係の中でとらえられ、理解されていることが重要です。

この詩人はおそらくは長く試練に満ちた生涯を送り、今その終りに近いことを悟り、自らの生と死とを今一度主なる神との関係の中でとらえなおしているように思われます。次の2節で、詩人はこの世界とその中にあるすべては、人間の命と存在も含めて、それらが神の創造によるものであることを告白しています。創世記の初めに書かれているように、神はこの世界とその中に住むすべての命あるものをみ言葉によって創造されました。神は「光あれ」とお命じになると、光が生じました。神は全宇宙とこの世界を同じようにして創造され、それらを正し秩序に配列されました。そして、創世記2章に書かれているように、神は人間を土のちりから創造され、その鼻から命の息を吹き入れて生きる者としてくださいました。

ここには、人間の命は本来神のものであり、神から賜ったものであるという信仰があります。そこで、詩編90編の詩人は、3節で、「あなたは人をちりに返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります」と言うのです。人間の命は本来神のものであり、神から与えられたものであるから、人間の命の役割を終えたら、それは神のもとへと返されるのです。これが、聖書の死の考え方です。神は人間に命を与え、またそれを取り返すのです。詩編の前にあるヨブ記1章21節にはこう書かれています。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主のみ名はほめたたえられる」。

その人の命が生まれてわずかであったとしても、病気や事故によって途中で終わったかのように見えようとも、あるいはこの詩人が言うように70年、80年の生涯を全うしたとしても、いずれの命も、神が与え、神が取り去られた命であり、それゆえに、その死もまた神のご支配のもとにあるのであって、そのすべてに深い神のみ心があり、神の導きがあるというのが、聖書の教えです。どのような生も死も、神のみ前で意味のないものはなく、神のみ心から離れた生も死もないのです。

この詩人は人間の生と死とを、もう一つの関連の中で見ています。それは、人間の罪です。7~9節を読んでみましょう。【7~9節】。詩人は人間の死を、神の怒りの結果と見ています。人間が神に対して罪を犯し、神がそれを怒り、罰する結果として死があると考えています。罪とは、神のみ心に従わないこと、神に背くことです。それは、人間を創造し、ご自分の形に似せて、愛と真実とをもって創造された神のみ心に背くことですから、その当然の結果として、神の怒りを招き、神の裁きとしての死がやってくるのです。

この詩人はそのことをよく理解しています。けれども、だからといって神の怒りの大きさに不安になったり、生きることに希望をなくしたりはしていません。むしろ、神のみ前に謙遜になることをわたしたちに勧めているように思われます。自分の罪を知り、その裁き主である主なる神を恐れ、敬い、神のゆるしを待ち望むようにわたしたちを招いているように思われます。

そして、12節でこう締めくくります。【12節】。「生涯の日を正しく数える知恵」とは、一つには、人間が神に対する罪のゆえに死すべき者であり、永遠なる神に対して限りある者であり、はかない存在であることを知ることです。もう一つには、そのような罪びとであるわたしたちに神は命をお与えになり、生きることをゆるし、また命じてもおられることを知り、きょうの一日一日を神から賜った命として感謝して受け取り、神のみ心に従って生きる喜びと幸いを知ることです。神はわたしたち人間をご自身の形に似せて創造され、このような知恵を人間にお与えくださったのです。

次に、新約聖書を開いてみましょう。きょうの礼拝で朗読されたローマの信徒への手紙6章1~11節で、この手紙の著者であるパウロは、わたしたち人間の生と死とを主イエス・キリストの生と死とに関連づけながら語っています。4~5節を読んでみましょう。【4~5節】。聖書の神、キリスト教の神は、わたしたち人間の生と死との意味を明らかにするために、ご自身の独り子なる主イエス・キリストをこの世に派遣されたのです。その神のみ子、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちに本当の死の意味を明らかにし、本当の生の意味を明らかにされました。そのことが、ここで語られているのです。

パウロはここで洗礼という儀式を比喩的に用いています。洗礼はイエス・キリストを救い主と信じる、いわば入信の儀式ですが、その洗礼によって、主キリストと信仰者とが一つに結合されることを、パウロはいくつかの表現で言い表しています。その一つは「共に」という言葉です。4節では、「キリストと共に葬られ」、6節では、「キリストと共に十字架につけられ」、8節では、【8節】。このほかにも、同じような意味で、3節では、「キリスト・イエスに結ばれて」、3節と4節では、「その死にあずかる」、5節では、「その死の姿にあやかる」「その復活の姿にもあやかる」、同じ5節では、「キリストと一体となって」など、多くの表現で主キリストと信仰者とが固く結合されることが強調されています。

その際、結合の主体と力は常に主イエス・キリストの側にあります。主イエスがわたしたち人間と連帯してくださった、わたしたち罪ある人間の世界においでくださり、わたしたちと共に歩まれ、わたしたちの罪をご自身で担ってくださり、わたしたちの罪のための裁きをわたしたちに代わって受けてくださった。そのようにして、わたしたちを罪の束縛から解放し、ゆるしてくださった。その救いの事実と恵みと、主キリストと固く結ばれることによって、信仰者のうちに豊かに注がれ、信仰者のものとされていくのです。

この箇所のもう一つの特徴は、生、生きるから、死へという順序ではなく、死から生、生きるという順序になっていることです。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活に合わされた信仰者は、主キリストと共に死んだ、そして主キリストと共に復活し、生きるのだと教えられています。主イエス・キリストが生から死へ、生きることから死ぬことへと至る一般的な順序を逆転させ、死から生へ、死ぬことから生きることへ向かう新しい道を開いてくださったのです。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活が、わたしたちをすべての死の支配や恐れや不安から解き放ち、神に愛され、受け入れられ、まことの命が約束されている新しい生へ、生きることへ、生きる喜びと希望へと招き入れているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがわたしたちをきょうの礼拝にお招きくださり、聖書のみ言葉をとおして、主イエス・キリストにある命の道へと招き入れられている幸いをお知らせくださったことを、心から感謝いたします。わたしたちは弱い者であり、迷う者でありますが、あなたによって備えられているこの命の道を、勇気と希望をもって歩むことができますように、あなたのお導きを祈り求めます。

○重荷を負っている人、試練の中にある人、病んでいる人、不安や恐れを抱いている人、孤独な人、すべてあなたの助けを必要としている人を顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月4日説教「主イエスの受難予告」

2023年6月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~5節

    ルカによる福音書9章21~27節

説教題:「主イエスの受難予告」

 ルカによる福音書9章18節から27節までには、互いに関連しあっている3つの重要な内容が語られています。18~20節は、ぺトロの信仰告白。21~22節は、主イエスの受難予告。そして23~27節は、主イエスの弟子である信仰者は日々に自分の十字架を背負って主イエスに従って生きるべきであるとの勧め。この3つのことは互いに深く関連しあっているので、その関連を考えながら読む必要があります。マタイ、マルコ、ルカ福音書、この3つを共観福音書と呼びますが、3つの福音書共に、細かな記述には違いが見られるものの、これらの3つの内容を同じ順序で、一連のものとして描いています。

 きょうは21節と22節を学びますが、これは18節から27節の関連した3つの内容の中で、その中心となっている最も重要な箇所です。

 まず21節ですが、【21節】と書かれています。弟子のペトロが主イエスを「あなたは神からのメシアです」と告白したことは正しい信仰告白であったということをわたしたちはすでに学びました。「イエスは神のみ子である」。「イエスは主である」。そして、「イエスはメシアである」。これらの信仰告白は、主イエスに対する信仰告白の基本であり、今日わたしたちが告白している『使徒信条』の土台となっているということをわたしたちは確認してきました。主イエスは全人類を罪から救うために神がこの世にお遣わしくださったメシア・キリスト・救い主であり、この方にわたしの救いのすべてがあるというのがわたしたちの信仰の中心です。

 そうであるのに、主イエスはここで弟子たちに「このことをだれにも話すな」と厳しく命じておられます。なぜでしょうか。多くのユダヤ人がこの正しい信仰告白をするようになり、主イエスを救い主と信じることこそが、主イエスの願いであり、また弟子たちはそのためにお仕えしているのではないでしょうか。そうであるのに、主イエスはこのことをすべての人に秘密にしておけと言われます。なぜでしょうか。

 このことは、一般に「メシアの秘密」と言われていて、新約聖書の大きな神学的テーマになっています。「メシアの秘密」は特にマルコ福音書で強調されていますが、共観福音書に共通しています。実は、ルカ福音書の中でわたしたちがこれまで学んできた中にも同じようなテーマがありました。4章35節では、汚れた霊(悪霊)が主イエスを「神の聖者だ」と告白した際に、主イエスは悪霊に「黙れ」とお命じになったことが書かれていました。また4章41節でも、悪霊が「お前は神の子だ」と叫んだのに対して、主イエスは悪霊にものを言うことをお許しにならなかったと書かれていました。さらに5章14節では、主イエスが重い皮膚病の人をいやされた際に、このことをだれにも話さないようにと厳しく命じられました。これらはみな、「メシアの秘密」と同じ意味があると考えられています。

 では、その意味、意図とは何でしょうか。一言でいうと、主イエスはご自身がメシア・キリストであることを誤解されたり、信仰以外の他のことのために悪用されることを注意深く避けようとされたということです。主イエスはご自身が「神のみ子」「主キリスト」「メシア・救い主」であることをこの世に宣教し、証しするためにおいでになったのですが、またそのために弟子たちを選ばれ,人々の病気をおいやしになったのですが、しかし、そのことが正しく信じられず、告白されずに、人間の好みに合わせて誤解されたり、悪のわざのために利用されたり、罪びとの救いのためではなく、この世の経済的繁栄とか、政治的運動とかのために利用される恐れがあることを知っておられました。そこで、弟子たちや人々を正しい信仰告白へと導くために、そのことがすべて明らかにされる「その時」までは、ご自身がメシアであることを安易に言い広めてはいけないと戒められたのです。

そのことがすべて明らかにされる「その時」とは、主イエスの十字架と復活の時です。その時には、主イエスがどのようなメシア・救い主であるのか、主イエスが神のみ子としてどのようなみわざをなさったのか、主イエスが全世界の唯一の主であるとはどういうことなのかが、すべて明らかにされるのです。その時にこそ、だれもが誤解することなく、他のだれかに、あるいは他の何かに悪用されることもなく、ただ主イエスの十字架の死のゆえにこそ、すべての人は主イエスをメシア・救い主と信じ、告白するようになるからです。

次の22節の主イエスの受難予告がそのことを明らかにしています。【22節】。これは主イエスによる第1回の受難予告です。このあと、2回続きます。第2回は9章44節、第3回は18章32~33節です。それぞれ表現の仕方には違いがありますが、「人の子、主イエスは苦難の道を歩まれ、十字架で死に、三日目に復活する」という中心的な内容は一致しています。

同じことを3度も予告されたのは、そのことが確かに起こることを強調しています。主イエスは父なる神が定められたこの苦難の道を、固い決意をもって進まれたのです。

また、予告とは、単に未来のことを予想して言うのではなく、主イエスが言われるみ言葉は、確実に、そして現実にその出来事を生み出していくという、力強い神のみ言葉です。

弟子たちは主イエスが復活されたあとで、この3度にわたる受難予告を思い起こし、あの時にはまだ全く気付いておらず、理解できていなかった主イエスの受難予告の意味を悟ったのでした。そして、このような主イエスのご受難の道にこそ、神の救いのみ心があったのだということを信じたのでした。

では次に、受難予告の内容を見ていきましょう。まず、主イエスはご自分のことを「人の子」と言われます。これは3回の受難予告でも同じです。主イエスはご自身の口から、「わたしは神の子である。わたしはメシア・キリストである」と言われることは一度もありません。多くの場合、ご自分を「人の子」と言われます。これにも、「メシアの秘密」と同じ意図があったと考えられています。

「人の子」とは、普通の意味で人間を言い表す言葉ですが、福音書の中ではそれに特別な意味が付け加えられています。この受難予告では、イザヤ書53章に預言されているような「苦難の僕」としての「人の子」のイメージが強調されています。主イエスは苦難の道を歩まれることによって主なる神の僕(しもべ)としての務めを果たし、主なる神のみ心を行い、他者のために執り成しをし、他の人の罪のために自ら苦しみを受け、そうすることによって多くの人を罪から救う「人の子」なのです。

しかも、主イエスが言われる「人の子」は単に他者のために苦難の道を歩むのではなく、22節で続けて説明されているように、「長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺される」という、最も屈辱的で、最も激しい拒絶を経験し、最も大きく深い苦難と苦悩の道を歩み、そしてついには捨てられ殺されるという、徹底した「苦難の僕」としての道を歩むというのです。そこには、何一つとして報いもなければ、もちろん誉れもありません。

「長老、祭司長、律法学者たち」は当時のユダヤ国家・イスラエルの宗教的・政治的な指導者たちでした。彼らはユダヤ最高議会(サンヘドリン、70人議会)の議員を構成し、最高裁判所の務めをも果たしていました。主イエスはこの法廷で裁かれ、最終的には、神を冒涜する者、神の律法に違反する者、エルサレム神殿を汚す者として裁かれました。当時のユダヤ人の知恵や信仰的伝統のすべてが主イエスを十字架で処刑すべき者と結論づけたのでした。そのようにして、主イエスがここで予告しておられてことが、すべてそのように実現したということをわたしたちは福音書の終わりで知らされます。

主イエスのこの「受難予告」は主イエスご自身による信仰告白と言ってもよいでしょう。主イエスはこれが「人の子」として、父なる神がご自分をこの世へとお遣わしになった目的であると悟り、信じておられたのでした。そして、父なる神が備えたもうたその苦難の僕の道を、喜んで進まれたのでした。この道を進むことこそが、全人類のまことの救いとなることを信じておられました。

しかしながら、当時のユダヤ人の多くが期待していたメシア・救い主の姿は、主イエスの「受難予告」の内容とは大きくかけ離れていたのです。当時の人たちは一般的に、いわば政治的メシアを待望していました。と言うのも、イスラエルは紀元前6世紀にダビデ王朝が倒され、それ以後次々と異教の諸外国の勢力の支配下にありました。紀元前63年からはローマ帝国の支配下に置かれていました。そのような、長い試練の歴史の中で、神がやがてメシア・救い主をイスラエルに送ってくださり、イスラエルを外国勢力から解放し、神に選ばれた自由な信仰の民として導いてくださるであろう。そのメシアはたくましい軍馬にまたがり、知恵と力と栄光を身に帯び、神に選ばれた民イスラエルの名誉と栄光を回復するであろう。そのようなメシアの到来を待望する信仰が高まっていました。

いつの時代でも、人々は自分たちが希望するメシア像を作り上げます。自分たちの願いをかなえてくれる救い主を求めます。自分たちの不足や不安、恐れや痛みを取り除いてくれる英雄を思い描きます。けれども、主イエスの「受難予告」はそれらの一切を否定し、拒絶し、打ち壊します。そして、どこに神のみ心があるのか、どこに真実の救いがあるのかをわたしたちに明らかにします。わたしたちはこの「受難予告」から主イエスの福音宣教のお働きを見ていかなければなりません。それゆえに、主イエスはご自分の十字架の時が来るまでは、ご自分がメシア・救い主であることを公に言ってはならないとお命じになったのです。

これが「メシアの秘密」の意味であり、意図です。わたしたちは当時の弟子たちやユダヤ人とは違って、主イエスの十字架の福音をすでに聞き、信じていますから、何ものをも恐れることなく、だれにもはばかることなく、大胆に、すべての人に、主イエス・キリストこそがわたしたちの唯一の救い主であると告白し、また宣べ伝えることができるのです。「主イエス・キリストはわたしたちの罪のために苦難の道を歩まれ、十字架で死んでくださり、三日目に復活され、わたしたちを罪から救い、わたしたちに新しい復活の命を授けてくださる」と宣べ伝えることができるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちを、あなたがみ子主イエス・キリストの十字架と復活によって救い、新しい命に生かしていてくださいますことを、心から感謝いたします。今わたしたちが遣わされているこの時代の中で、この時代の人々に、主イエス・キリストの十字架の福音を大胆に宣べ伝えることができますように、わたしたち一人一人に聖霊を注ぎ、強め、励ましてください。

○主よ、どうかこの世界とそこに住む人々を憐み、あなたの救いのみ心をお示しくださいますように。深く病み、傷つき、傷んでいるこの世界をどうぞお救いくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月28日説教「主キリストの霊によって生きよ」

2023年5月28日(日) 秋田教会聖霊降臨日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エゼキエル書37章1~14節

    ローマの信徒への手紙8章1~17節

説教題:「主キリストの霊によって生きよ」

 きょうは聖霊降臨日です。主イエスが十字架で死なれてから50日が過ぎたこの日に、弟子たちの上に聖霊が注がれ、新しい力に満たされた弟子たちが語った説教によって、三千人余りの人が洗礼を受け、エルサレムに世界最初の教会が誕生した日です。その日以来、聖霊なる神は全世界に教会を誕生させ、またそれらの教会のすべての働き、務め、活動を導いておられます。今もそうです。きょうのわたしたちの礼拝もそうです。さらには、わたしたち一人一人の日々の信仰の歩みも、聖霊なる神によって導かれています。

 きょうの礼拝では、ローマの信徒への手紙8章のみ言葉から、聖霊なる神がわたしたち一人一人にどのように働いてくださるのか、また聖霊によって新しい命を与えられているわたしたちキリスト者はどのように生きるべきなのかについてご一緒に学びましょう。

 【8章1節】。冒頭の「従って」という言葉は、この手紙の著者であるパウロがこれまでに語ってきた内容を受けています。具体的には、3章21節から始まっている主イエス・キリストによって成し遂げられた救いのみわざと、それを信じる信仰によってすべての人は罪ゆるされ、救われるという福音です。主イエス・キリストはわたしたちすべての人間の罪をゆるすために十字架で死んでくださいました。そして、三日目に復活されて、罪と死とに勝利されました。だから、その主イエス・キリストの十字架の福音を信じるあなたがたは、「罪に定められることはありません」と宣言されているのです。

 「定める」と訳されている言葉は、裁判で用いられる法廷用語です。「罪に定められることはありません」とは「無罪判決が下される」という意味です。しかも、パウロがこれまで語ってきたことから判断すれば、この判決はこの世の法廷ではなく、天にある神の法廷での無罪判決という意味になります。つまり、あなたがた、主イエス・キリストを救い主と信じるあなたは、神のみ前で罪をゆるされ、罪なし、無罪であるとの判決を神からいただいている。だから、あなたはもはや罪の奴隷ではない、罪から自由にされている。あなたは主キリストと固く結ばれているのだから、もはや神から見捨てられている罪びとではなく、神に愛されている神の子どもたちである。そのようにして、神によって罪ゆるされている人、神に愛され、受け入れられている人として、神はあなたを見ておられるという意味です。

それをさらに説明して、2節ではこう言われています。【2節】。「霊」とは、聖霊なる神のことです。9節では、「神の霊」また「キリストの霊」とも言われています。この「霊、神の霊、主キリストの霊」が、使徒言行録2章に書かれているペンテコステ・聖霊降臨日の教会誕生の出来事を起こされた聖霊なる神のことです。パウロはこれから、聖霊なる神がわたしたちキリスト者にどのように働いてくださるのかを語るのですが、その前に聖霊について少し確認をしておきたいと思います。

 聖書では、「聖霊」「神の霊」「キリストの霊」また旧約聖書では「主の霊」と言われているのはみな聖霊なる神のことですが、単に「霊」と言われている場合も、ほとんどが聖霊なる神を指しています。聖霊なる神は、父なる神、子なる神と同様に、唯一の、永遠なる、主なる神のことです。キリスト教教理では「三位一体論」と言いますが、唯一の主なる神が、父として、子として、聖霊としての、三つの位格を持ちながら、天地万物の創造のみわざ、罪からの救いのみわざ、救いの完成のみわざをなしておられるという教理です。

 したがって、聖霊は天地創造の初めから、父なる神とみ子なる神と同様に、唯一の神として永遠におられ、旧約聖書ではイスラエルの民の信仰を導かれましたが、ペンテコステの日からは、すべての人の目にはっきりと分かるように、イスラエルだけではなく、全世界の至る所で、力強いお働きを始められました。それが、使徒言行録2章以下に書かれている内容です。聖霊がエルサレムだけでなく、パレスチナ地方全土に、小アジア地方に、ギリシャ、ヨーロッパ全域に、教会を建てられたことがそこには記録されています。そのことから、使徒言行録は聖霊行伝とも呼ばれることがあります。

 旧約聖書の時代にイスラエルの民の信仰を導かれた聖霊には、ペンテコステ以後には新しいお働きが付け加えられました。それは、主イエス・キリストによって成し遂げられた救いのみわざを証しし、すべての人を信仰へと導く働きです。すなわち、主イエスが苦難の道を進まれ、十字架に付けられ、死んで葬られ、そして三日目に復活され、40日目に天に挙げられた、その主イエスのご生涯のすべてがわたしの罪のためであった、わたしを罪から救い出し、わたしが新しい復活の命に生きるためにあったということを、わたしに悟らせ、その主イエスをわたしの唯一の救い主として信じ、受け入れる決断を与え、わたしを洗礼へと導かれる、それが聖霊なる神のお働きだということです。

 そのようにして、聖霊によって信仰へと導き入れられたキリスト者は、そののちのすべての信仰生活も聖霊によって導かれて生きるのです。それを、パウロは2節で、「霊の法則」によって生きることだと言います。「法則」とは、ある一定の原則に従って力を発揮し、支配することを言います。つまり、聖霊の力によって支配され、聖霊なる神の意志と導きに従って生きることです。主キリストに結ばれ、主キリストの救いの恵みをいただいている信仰者は、自分の意志や力、あるいは自分の好みや欲望のままに生きるのではなく、聖霊の力と働きによって、聖霊なる神のみ心に導かれて生きる者とされるのです。

 「霊の法則」と反対の意味を持つのが「肉の法則」です。それは「罪と死の法則」でもあります。生まれながらの人間はだれもみな「肉の法則」の中にあります。「罪と死の法則」に支配されています。そして、だれ一人として、この「罪と死の法則」から自分自身を解放することはできません。

でも、ほとんどの人は自分が「肉の法則」のもとにあり、「罪と死の法則」に支配されていることには気づいていません。聖書が語る神のみ言葉によって、人は初めてそのことを知らされます。そして、主イエス・キリストによって「肉の法則」と「罪と死の法則」から解放されて初めて、わたしたちは自分がかつてはそのような「法則」のもとに支配されていたのだということに気づくのです。

神はわたしたちを「罪と死の法則」から解放するために、ご自身のみ子を肉のお姿でこの世にお遣わしになりました。3節に、「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」と書かれてあるとおりです。神の御独り子なる主イエスは罪なき聖なる神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち人間と同じ肉のお姿となられ、わたしたち罪びとの一人となられました。そのようにして、わたしたち罪びとである全人類に代わって、ご自身が神の裁きを受けて、神に呪われた十字架で死んでくださったのです。主イエスはわたしたち肉にある人間が経験しなければならないすべての労苦と苦しみと痛みとをご自身に経験され、父なる神に見捨てられるほどの深い苦悩の中で、死を経験されました。主イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。そのようにして、ご自身の命をかけて罪と戦われ、そしてついに、罪に勝利されたのです。父なる神はみ子主イエスを三日目に復活させ、天に引き上げられ、ご自身の右の座につかせたのです。そのようにして、罪と死とに勝利された神のみ子主イエス・キリストだけが、わたしたちを「罪と死の法則」から解放することがおできになります。

11節で、パウロは主イエスによる救いのみわざをこのようにまとめています。【11節】。ここでは、「イエスを死者の中から復活させた方」という言葉が2度繰り返されています。死の中から命を生み出される神、無から有を呼び出される全能の神のみ力が強調されています。その神が、わたしたち一人ひとりにも聖霊を注いてくださり、わたしたちを「肉の法則」と「罪と死の法則」から解放してくださるとの、強い、確かな約束がここで語られているのです。

では、そのような固い約束を与えられているわたしたちはどのように生きるべきなのかを聞いていきましょう。9節に、「神の霊」「キリストの霊」とあり、また11節でも、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と言われています。前に紹介したキリスト教教理の「三位一体論」では、「聖霊は父なる神と子なるキリストから出る霊」と説明されますが、その聖霊がわたしたちに注がれるということは、三位一体の神がその父としてのお働き、そのみ子としてのお働き、またその聖霊としてのお働き、そのすべてのお働きによってわたしたちの救いのために、わたしたちの救いが完成されるために、力を尽くしておられるということを意味しています。神はご自身の愛と恵みのすべてをお用いになって、ご自身の義と真実のすべてをお用いになって、わたしたち一人一人を強くとらえ、支配し、導いておられるということなのです。だから、そこには命と平和が満ちあふれています。たとえ、わたしがこの世で試練や災いにあう時にも、病や孤独と戦う時にも、全能の父なる神の霊と主キリストの霊がわたしと共にいてくださり、わたしを最後の勝利へと導いてくださるからです。

父なる神と主キリストが、すでに「肉の法則」と「罪と死の法則」に勝利しておられます。その支配からわたしを解放し、自由にしてくださいました。だから、自由にされた者として、聖霊によって生かされている者として、自分の中にある肉の働きを殺して生きるようにと13節では勧められています。【13節】。すでに、主イエス・キリストによってあなたは「肉の法則」「罪と死の法則」から解放されている。だから、そのように生きよと勧められているのです。そうであるから、いまだこの世を支配している「罪と死の法則」に対しては恐れずに信仰の戦いを挑み、主キリストの福音を語り伝える使命を果たすことができるのです。「だから、あなたがたは聖霊によって生きよ、また生きることが許されている」と聖書は語るのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは肉の弱さの中にあり、罪と死とに支配されています。どうか、わたしたちを憐んでください。わたしたちを罪と死からお救いください。

○主なる神よ、今わたしたちはあなたがみ子主イエス・キリストによってわたしたちを罪と死からお救いくださり、聖霊によって生きる新しい命の道へと導いておられることを聞きました。どうか、あなたのお招きに応えて、主キリストの福音を信じ、命と平和の道を歩む者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月21日説教「エジプトに売られたヨセフ」

2023年5月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記37章12~36節

    ローマの信徒への手紙10章5~13節

説教題:「エジプトに売られたヨセフ」

 創世記37章から、族長ヤコブ(すなわちイスラエル)の12人の子どもの一人ヨセフを主人公にした、「ヨセフ物語」と言われる一連の長い物語が始まります。これは、創世記の終わりの50章まで続きます。そして、次の出エジプト記へと物語が続いていきます。つまり、ヨセフ物語は、なぜイスラエルの祖先がエジプトに移住することになったのか、そのいきさつについて語っていることになります。それはまた、なぜイスラエルがその地での長い寄留生活ののちに、主なる神の強いみ手によって、エジプトの奴隷の家から脱出するという救いの出来事を体験するようになったのか、どのようにしてイスラエルが神の契約の民とされたのかという大きな主題へと発展していくことにもなるのです。ヨセフ物語はヨセフを主人公にしていますが、本来ヨセフの歩みと生涯を導き、支配しておられるのは主なる神であり、これもまた主なる神の救いの出来事であり、神の永遠の救いの歴史の一コマなのです。

 きょうは12節から読んでいきましょう。【12~14節】。ここから、まず分かることは、兄たちが外で羊の群れを養う仕事についていたのに対して、11番目に生まれた子ヨセフは父のところにとどまっていたということです。末の子ベニヤミンがどうしていたのかは不明ですが、ここでもわたしたちは、父ヤコブが年取ってから愛する妻ラケルに生まれた子ヨセフを特別扱いをし、仕事をさせていなかったということに気づきます。3節に、【3節】と書かれてあったのと同様です。このような父の偏愛が子どもたちの間に亀裂を生じさせ、不幸な分断と悲劇を生み出すのは当然です。

 兄たちはシケムで羊の群れを飼っていたとあり、ヨセフは父の家にいて、その場所がヘブロンであったと書かれています。実は、シケムとヘブロンの間の距離は100キロメートル以上あります。たぶん兄たちはテント生活をしながら牧草を求めて移動していたのだろうと推測されます。では、なぜその兄たちのいる遠くの地にかわいい息子ヨセフを派遣したのかの理由はよくわかりません。兄たちの手伝いのためではなかったことは確かです。14節で父ヤコブ・イスラエルは「兄たちの様子を見てきて、報告してくれ」と依頼しているからです。ここでもまだ、ヨセフに対する父の偏愛ぶりは変わっていません。父の代わりに、兄たちの仕事を監視するという意図があったのかもしれません。

 そうであればなおさら、父は兄たちがヨセフを憎んでいたことを知っていたはずなのに、なぜあえてその兄たちのところに最愛の子ヨセフを一人で派遣したのか、ヨセフが兄たちから何らかの仕返しをされるのではという危険性を理解していなかったのかという疑問が生じます。いずれにしても、父ヤコブのヨセフに対する偏愛がやがて不幸を招くことになるのは避けられません。

 ヨセフはシケムの町に着きましたが、兄たちを探しあてることはなかなかできませんでした。ようやくにして、シケムからさらに北20キロメートルのドタンで兄たちの一行を見つけました。

 ところが、兄たちはヨセフの姿を遠くに見つけると、まだ彼が近づかないうちに、セフを殺そうと相談します。【20節】。兄たちはヨセフを「夢見るお方」と呼んでいます。もとのヘブライ語を直訳すれば、「夢の主人」となります。この呼び方には、軽蔑や嘲笑(あざ笑い)の意味と、一種の恐れの念も含まれています。兄たちの考えでは、ヨセフは夢ばっかり見ている夢想家であり、現実をしっかりと見ていない、一種の甘えん坊でありわがままだという見方がある一方で、ヨセフが見た夢の背後には主なる神がおられるのではないか、もしそうだとすれば、ヨセフが見た夢のように、その内容は7節と9節に書かれていましたが、将来自分たちが弟ヨセフに支配されるようになるのではないか、それは自分たちにとっては不幸で災いだ、そんなことが起こってはならない、あるいは、起こるかもしれないという恐怖心も彼らにはありました。そこで、ヨセフを殺してしまえば、彼が見た夢も実現しなくなるに違いない、あるいは、そうなってほしいと兄たちは考えました。

 その時、12人の兄弟のうちヤコブとレアの間に生まれた長男ルベンとレアの4番目の子どもユダが、他の兄弟たちを説得して、ヨセフを殺さないでも済むように提案します。【21~24節】。また、【26~27節】。最年長のルベンが冷静な判断をし、またユダもそれに同意したことから、兄たちはユセフの命を奪うことだけはとどまりました。

 聖書はそのあたりのいきさつについて淡々と描いていて、読者であるわたしたちは、なるほど兄弟の中の最年長であるルベンは冷静な判断をしたから、ヨセフは助かったんだと納得するのですが、ここにもまた確かに、見えない神のみ手が働いていたことを読み取ることができるように思います。神は、父ヤコブ・イスラエルのヨセフにたいする偏愛によって兄弟たちの間に生じた憎しみや敵意、さらには殺意をすらも超えて、あるいはまた兄たちによってその運命を翻弄され、あわや殺されそうになったヨセフをその危機からお救いになり、彼の数奇な生涯をとおして、イスラエルの民をお救いくださるという、永遠なる救いのご計画を、神は着々と進めておられるということを、わたしたちはここから読み取ることができるのです。

 その後ヨセフがどうなったのか、ここには二つの違った内容が描かれているように思われます。一つは、25節から27節に書かれているように、ヨセフをイシュマエル人の隊商に売ろうとしたユダの提案です。この提案がどうなったのかについては、そのあと具体的に書かれていません。もう一つが、28節のミディアン人の商人たちがヨセフを穴から引き揚げて、彼を銀20枚でイシュマエル人に売り渡したということです。これから判断すれば、銀20枚を受け取ったのはミディアンの商人たちで、ルベンや兄弟たちではなかったことになります。

 ここには、もとの資料に何らかの混乱があったのではないかと考えられています。それを整理すると、ヨセフは兄たちによってイシュマエル人の隊商に売り飛ばされたという資料があり、それとは別に、ヨセフは兄たちが気づかないうちにミディアン人の商人たちが穴から引き揚げて連れ去ったという資料があり、この二つの資料がここでは結合されていると説明されています。

 物語の流れから見ると、29、30節には、【29~30節】と書かれてあるように、後者の資料に物語が続いていきます。ルベンは長男として、他の兄弟たちを説得して、ヨセフの命を助けてあげて、父のもとへと返してあげたいと願っていたのに、彼を投げ入れた穴をあとで見てみると、ヨセフの姿が見つからないので、彼がどうなってしまったのかを、本気で心配しています。長男として弟ヨセフを守り、父のところに連れ戻す責任があったのに、それができないでいる自分の無念さと弟ヨセフを失ってしまった失意の大きさで、「自分の衣を引き裂き」、悲しんでいます。ルベンはユセフが最終的にはイシュマエル人の隊商に売られてエジプトへと連れていかれたことは全く知らなかったようです。他の兄弟たちがそのことに気づいていたのかについては、何も具体的な記述はありません。

 【31~32節】。兄弟たちが行ったこの工作の背景には、当時の慣習があったと言われています。出エジプト記22章12節に、だれかが隣人の家畜を預かり、「もし、野獣にかみ殺された場合は、証拠を持って行く。かみ殺されたものに対しては、償う必要はない」と定められているように、他の人の家畜を預かって養っているときに、野獣に襲われたなら、その襲われた家畜の一部を持って帰れば、弁償する必要はなく、羊飼いとしての責任を免除されることになっていました。兄弟たちが、ヨセフが身に着けていた晴れ着に動物の血を塗って父に見せたことによって、ヨセフが確かに死んだことの証拠となっただけでなく、ヨセフが野獣に襲われた時に、自分たちはヨセフを見捨ててその場から逃げたのではなく、彼を守るためにできるだけのことをしたという証拠にもなったのです。兄弟たちがヨセフの無事を知っていてそのような工作をしたのか、それとも長男ルベンと同様に他の兄弟たちも、ヨセフがもしかしたら野獣にかみ殺されたのかもしれないと考えていたのかは、この箇所からははっきりと断定はできません。

 でも、父ヤコブ・イスラエルは、愛する息子ヨセフが野獣にかみ殺されたのだと判断する以外にありません。【33~35節】。ここには、父ヤコブ・イスラエルの深い、深い嘆き、悲しみが印象的に描かれています。それがあまりにもリアルであり、もはや何ものによっても慰められないほどの、深く、大きく、深刻な嘆き悲しみであることが強調されているので、その出来事の本当の中味を知っているわたしたちにとっては、何か滑稽で、しかし笑うに笑えない、複雑な思いを抱かせます。

 ある人はこう表現しています。「ヨセフ物語の冒頭のこの出来事の中には、まだ父ヤコブ・イスラエルがかつて犯した罪の影が残っている。それは彼ヤコブがまだ若いころから老人になるまで、彼に付きまとってきたものである。かつて彼が自分の父を欺き、父が自分よりも愛していた兄エサウの祝福を横領したように、今や彼の最愛の息子を厄介払いした他の息子たちによって欺かれているのだ」と。

かつて欺いた者が、今欺かれている、そして深く、いやしがたい嘆き悲しみに沈んでいるという、人間たちの罪と偽りの現実をわたしたちはここに見るのです。しかも、その罪と欺きが人間の存在そのものを根底から揺さぶり、あるいは否定し、拒絶すらするほどの、深い苦悩となって、「わたしも嘆きながら陰府に下って行こう」と人間に言わせているほどの、大きな、深刻な罪の現実がここにあるのを、わたしたちは知らされるのです。

そして、神はそのような人間たちの罪の現実の中で、その罪の現実を超えて、エジプトでのヨセフの歩みをなおも導いていかれます。そしてついには、そのような人間たちの罪の現実の中で、その罪の現実をはるかに超えて、神のみ子、主イエス・キリストによる罪からの救いのみわざを神はわたしたちのために成就なさったのです。わたしたちが『使徒信条』で「陰府に下り」と告白しているように、神のみ子主イエス・キリストは、「わたしは嘆きながら陰府へ下って行こう」と言ったヤコブ・イスラエルを陰府から救い出すために、そしてまた、わたしたちを罪のどん底と陰府の苦しみから救い出すために、十字架で死なれ、陰府に下られたのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが旧約聖書の族長たちを導かれ、イスラエルの民を導かれ、そして、あなたの独り子なる主イエス・キリストの十字架の贖いによって全人類のための救いのみわざを成就してくださいましたことを、心から感謝いたします。主なる神よ、どうか罪多く、滅びにしか値しないこのわたしをも、あなたの御愛と御憐みによって、罪と死と滅びからお救いください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月14日説教「聖霊なる神」

2023年5月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(23回)

聖 書:イザヤ書44章1~5節

    ヨハネによる福音書14章16~31節

説教題:「聖霊なる神」

 『日本キリスト教会信仰の告白』は古代教会の信仰告白である『使徒信条』に前文を付けた「簡単信条」と言われるものであり、短い文章の中に豊かな内容のキリスト教教理、聖書の教えが凝縮されています。これまで学んできましたように、わたしたちの教会の『信仰告白』は、使徒たちの信仰を受け継いだ古代教会(あるいは初代教会)の正統的な信仰を土台にして、16世紀の宗教改革時代、特にカルヴァンの神学を柱に、その後の改革教会の神学を中心に据えた信仰を言い表しています。わたしたちの教会は「神の言葉によって、絶えず改革され続けていく教会」をこの日本の地に建てること目指してきました。

 座席前のポケットに備えられている印刷物では、2段落の2行目、「また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」。きょうから数回にわたってこの箇所を学んでいくことにします。ここでは、聖霊なる神が、父なる神、子なる神と同じく神であるということと、その聖霊なる神のお働きについて告白されています。

 まず、「父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は」という文章は、古代信条の一つである『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』に由来していることを確認しておきたいと思います。古代教会では、様々な異端的な教えが広がったために、紀元325年に、小アジア地方、現在のトルコにあるニカイアという町で第1回世界教会会議を開催しました。その会議で、アリウス派などの間違った教えを排除し、正統的なキリスト教の教えとして『ニカイア信条』を採択しました。続いて、紀元381年にコンスタンティノポリスで開催された世界教会会議では、『ニカイア信条』に聖霊なる神の項目が付け加えられて、『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』が採択されました。

 その中で、聖霊なる神についてこのように告白されています。「わたしは、主であり、命を与える聖霊を信じます。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられ、また預言者をとおして語られました」。この告白の中の「父と子とともに礼拝され、あがめられ」がそのまま(「礼拝され」と「あがめられ」の順序が反対になっていますが)『日本キリスト教会信仰の告白』に取り入れられています。

 そこで今回は、『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』を参照しながら、聖霊なる神について告白されている内容について、ここでは何が教えられ、何が強調されているのかを学んでいくことにします。

 第一の重要なポイントは、聖霊は、天地の創造主である父なる神と、わたしたちの唯一の救い主である神の御独り子、主イエス・キリストとまったく同様に、神であることが告白されています。またその聖霊は、わたしたちが信じ、礼拝し、あがめ、賛美し、服従すべき神であるということが強調されています。

 と言うのは、古代教会の時代から、今もなおそうですが、聖霊を神とは考えなかったり、あるいは父なる神、子なる神から一段低い神のように考える誤った理解があるからです。たとえば、聖霊を人間の感情とか意志とか、あるいは霊魂と同じに考え、聖霊が神であることを否定して、人間の感情や意志を重んじる人々、古代教会ではアリウス主義という異端、今日ではエホバの証人(ものみの塔)や統一協会などの異端的な教派も、そのような考えに基づいて聖霊が神であることを否定し、また三位一体論をも否定しています。

 聖霊が神であることを否定し、人間の感情や意志、努力、また行為を強調する異端的キリスト教からは、必然的に主イエス・キリストの救いのみわざを不完全なものにするという結論が生じます。そして、主イエスの救いのみわざの不完全な部分を人間が補うという考えに発展していきます。それが、信者の霊的な働きとか、強い意志とか、熱心な活動によってなされていくようになります。異端的なキリスト教会が献金や布教活動に異常なまでに熱心になるのはそのためです。

 けれども、そのような考え方は、わたしたちがこれまで学んできたことに照らし合わせてみるならば、間違った信仰の理解であることが直ちに明らかになります。すなわち、神の主導的な選びの教えと信仰義認の教えとは矛盾することが分ります。神はわたしたち人間の意志とか努力とかに先立って、このわたしを選ばれ、わたしを救いの道へとお招きくださいました。わたしは罪びとの仲間であり、何一つ神のみ心を行うことができないにもかかわらず、み子主イエス・キリストがわたしのためになしてくださった救いのみわざによって、神はわたしを義と認め、わたしの罪をゆるしてくださいました。わたしの救いは、100パーセント神のみわざによるのであり、人間のあらゆる意志や行動に先立つ、神の側からの一方的な恵み、恩恵によってわたしは救われているのです。そこには、人間の感情とか意志、あるいは熱心さとかは全く入り込む余地がないことが明らかです。

 いや、それだけでなく、わたしたちが聖霊なる神を信じ、告白することによって、聖霊なる神もまた、父なる神、み子なる神と共に、わたしたち人間の救いのために、先行的に、主導的に働いてくださるということを知らされます。神は、父なる神として、み子なる神として、そして聖霊なる神として、神ご自身の全ご人格によって、わたしたちの救いのためにお働きくださいます。神の全存在、神のすべての力、恵み、知恵、愛、それらをお用いになって、わたしたちのための救いのみわざを完全になしてくださいます。神の救いのみわざは完全であり、永遠であり、人間や他の何ものかによって補われなければならないことは全くありません。

 ここで、古代から中世にかけて教会で論争されてきた聖霊発出論争について簡単に触れておきたいと思います。『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』では「聖霊は父と子とから出る」と告白されていました。ところが、聖霊が父なる神と子なる神の両方から出るのか、それとも父なる神からのみ出るのかをめぐって西方教会と東方教会がその後も長く論争を続けました。西方教会(ローマ教会)は「聖霊は父と子から発出する」という説をとり、東方教会(ギリシャ教会、日本ではハリストス正教会)は「父から」(のみ)という説を主張し、この違いが東西教会の分裂の大きな原因となったと言われます。

 では、聖書ではどのように教えられているでしょうか。ヨハネによる福音書14章16、17節を読んでみましょう。【16~17節a】(197ページ)。ここでは、聖霊は父なる神が遣わすと言われています。次に、ヨハネ福音書15章26節では、【26節】。ここでは、わたし(主イエス)が聖霊をあなたがたに遣わすと言われていると理解できます。これらのみ言葉から、わたしたちプロテスタント教会は正方教会(ローマ教会)と同じく、聖霊は「父と子とから出る」と告白しています。

 では、聖霊なる神とはどのような神なのか、どのようなお働きをするのかを見ていきましょう。聖霊なる神のお働きは、旧約聖書でも新約聖書でも数多く語られています。『ニカイア・コンスタンティノス信条』では、「聖霊は預言者をとおして語られた」と告白されていました。旧約聖書の天地創造の時から、聖霊は永遠なる神として存在しておられましたが、特に預言者たちの活動をとおして、彼らが語った神のみ言葉の説教と共に聖霊は働かれ、イスラエルの民の信仰を導かれました。

新約聖書から、ヨハネ福音書と使徒言行録のみ言葉を取り上げます。先ほど読んだヨハネ福音書14章16節でも15章26節でも、聖霊は「弁護者」と呼ばれています。元来の意味は「かたわらに呼び出された人」であり、日本語では弁護者、助け主、慰め主とも訳されます。

 主イエスが十字架につけられ、死んで葬られ、40日目に天に昇られたあとに、主イエスは弟子たちを決して孤児のようにはさせないと約束されました。そして、天に昇られてから父なる神と共に、聖霊をこの世に、弟子たちの上に、またわたしたちの上に派遣してくださいました。聖霊はいつでも、どこでも、常に弟子たち、またわたしたち信仰者と共にいてくださる神です。わたしたちを罪の攻撃や誘惑から守り、助け、弁護し、時に信仰の戦いに疲れるわたしたちを慰め、励まし、わたしたちの信仰を終わりの日の完成の時まで導かれる神、それが聖霊です。

 また、ヨハネ福音書14章26節では、聖霊が弟子たちに、主イエスが語られた神の国の福音が生ける神のみ言葉であることを思い起こさせるであろうと言われています。聖霊は主イエスがお語りになった神の国の福音がすべての人を救う命と力とを持っていることを信じさせ、弟子たちを、またわたしたちを救いへと導き入れる働きをされます。聖霊が働く時、聖書のみ言葉とその解き明かしがわたしの救いとなってわたしに響き、わたしを救いへと導くのです。

 同じヨハネ福音書15章26節では、聖霊は「真理の霊」とも呼ばれ、主イエスについて証しをするであろうと言われています。聖霊は教会の福音宣教を導く神でもあられます。聖霊は神の真理をこの世に対して証しをし、主イエスの十字架の福音をこの世に宣べ伝える教会の務めを導きます。

 その教会の使命を果たすために、神はペンテコステの日に聖霊を弟子たちの上に豊かに注ぎ、エルサレムに世界最初の教会をお建てくださいました。使徒言行録2章に書かれているとおりです。主イエスは天に挙げられる直前に弟子たちにこのように約束されました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1章8節)。その約束が10日後のペンテコステの日に成就したのです。

 聖霊は今や全世界のあらゆる町々村々に教会を建て、その教会をとおして今も働いておられ、すべての人を主キリストの福音へと招いておられます。わたしたちの福音宣教の務めと奉仕を支え、導いておられます。また、わたしたち一人一人の信仰の歩みを導いておられます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちの教会の上に、またわたしたち一人一人の上にも、聖霊を豊かに注いでください。わたしたちを聖霊の器としてお用いくださり、主イエス・キリストの体なる教会を建てるために、また全世界のすべての人々に主キリストの福音を宣べ伝えるために、わたしたちをお用いください。

○主なる神よ、どうかこの世界を顧みてください。戦争や紛争が絶えない地域、不正義と不平等によって略奪や飢餓に苦しむ弱い人たち、差別や格差の中で取り残されている孤独で病んでいる人たち、いま世界は主なる神であるあなたからの和解と平和、癒しと希望を切望しています。どうかこの世界に救いを与えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月7日説教「ダマスコで宣教したパウロ」

2023年5月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書18章1~10節

    使徒言行録9章19b~25節

説教題:「ダマスコで宣教したパウロ」

 キリスト教会の迫害者であったサウロ、のちのパウロは、ユダヤ教の大祭司からの委任状を携えて、エルサレムから北へ200キロメートルも離れているシリア州ダマスコへ向かいました。その町に住むキリスト者を捕らえて、エルサレムへ連行するためでした。ところが、ダマスコの町の入口で、突然天からの強い光に照らされたパウロは地に倒れ、復活された主イエスのみ声を聞きました。これが、迫害者パウロと迫害されていた主イエスとの劇的な出会いでした。この時から、パウロはキリスト教会の迫害者からキリスト教会の宣教者、使徒パウロに変えられたのです。わたしたちの罪のための十字架に付けられ、三日目に復活されて、罪と死とに勝利された主イエス・キリストが、古いユダヤ教の律法に生きていたパウロをひとたび滅ぼし、死なせ、新しく主キリストの福音によって生きるパウロとして、再び生き返らせてくださったのです。ユダヤ教の律法の奴隷であったパウロを、主キリストの福音によって開放し、自由と喜びをもって主キリストの福音を宣べ伝える宣教者、使徒としてくださったのです。

 使徒言行録9章19節後半から20節にはこのように書かれています。【19節b~20節】。19節から30節によれば、パウロは復活の主イエスと出会って使徒となってからしばらくの間、ダマスコにとどまり、主イエスの福音を語り伝え、そののち、その町でユダヤ人によって命を狙われるようになり、ダマスコを脱出してエルサレムに向かい、それからカイサリアで船に乗り、パウロの故郷である小アジア地方タルソスへ行ったと書かれています。

 ところが、ガラテヤの信徒への手紙1章13節以下では、ダマスコで復活の主イエスによって異邦人のための宣教者とされた時、パウロはすぐにアラビヤへ行き、それからダマスコに戻ってきて、その後3年してからエルサレムの使徒たちに会ったと彼自身が書いています。

 使徒言行録とガラテヤの信徒への手紙には調整することができない違いがありますが、この違いはそれぞれの強調点の違いと見ることができると思います。使徒言行録では、キリスト教会の迫害者であったパウロが、突然に180度方向転換をしてキリスト教の宣教者となり、ユダヤ人キリスト者を迫害するために行った町で、すぐに主イエス・キリストの福音をその町にいるユダヤ人に宣べ伝えたということが強調されています。それに対して、ガラテヤの信徒への手紙では、ユダヤ人以外の異邦人のための使徒として召されたパウロが、主イエスご命令を受けてすぐに異邦人の地アラビヤにでかけて行き、そこで福音を宣教したということが強調されています。

 では、使徒言行録で強調されている迫害者パウロが迫害されるパウロに変わっていった次第について学んでいきましょう。19節に、「ダマスコの弟子たち」とあることから明らかなように、この町はシリア州にあり、イスラエルの外の異邦人の地ですが、そこにはかなりのキリスト者がいたことが分ります。8章1節に書かれていたエルサレム教会に起こった大迫害で、エルサレム市内から追放されたキリスト者もその中にはいたと推測されます。もっとも、よく考えてみますと、パウロはそのキリスト者を迫害するためにダマスコに来たわけですから、それは当然と言えば当然なのですが、さらに続けて、パウロは彼らと「一緒にいて」と書かれていることは、実は驚くべき情況であることに気づかされます。迫害しようとしていた人と迫害されるべきであった人たちが、今や一緒にいるからです。共に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えているからです。主イエスの福音が敵対していた人間たちを一つに結びつけ、共に福音のために仕える同労者とするという実例を、ここで確認することができます。

 20節の「会堂」(ギリシャ語ではシュナゴーゲー、シナゴーグですが)はキリスト者の集会を指す場合もありますが、ここではユダヤ教の会堂と理解すべきです。ダマスコには離散のユダヤ人(デアスポラ)がたくさん住んでいて、ユダヤ教の会堂がいくつもあったことが分ります。パウロはまずそこで主キリストの福音を語りました。それは、13章以下で、パウロが計3回の世界伝道旅行にでかけて、町々で宣教活動を開始する際と同じやり方です。世界の至る地域にデアスポラのユダヤ人がいましたから、パウロは新しい町に入ると、まずユダヤ人会堂を探して、そこで福音を語りました。

 パウロは異邦人伝道の使徒として召されたという強い自覚をもっていました。また、それが復活の主イエスと出会った時の主のご命令であったということが15節に書かれていました。そうであるにもかかわらず、彼がまずユダヤ人に主キリストの福音を語ったことには理由がありました。それは、神がまず全世界の中からイスラエルの民ユダヤ人をお選びになり、ご自身の契約の民とされたからです。パウロは神のこのような救いの秩序、救いのご計画を重んじました。先に選ばれたユダヤ人をとおして,あるいは、彼らのつまずきをとおして、神はさらにユダヤ人以外の異邦人へと救いのみ手を広げられたのです。そして今や、主イエス・キリストの十字架の福音によって、全世界のすべての人が救いへと招かれているのです。

 「この人こそ神の子である」。これがダマスコでの、キリスト者となって最初のパウロの宣教の中心的メッセージでした。これはパウロの最初の信仰告白であると言えます。ナザレで生まれ育ち、ガリラヤで神の国の福音を説教し、エルサレムで捕らえられ、十字架で裁かれ、死んで葬られ、三日目に復活された主イエス、この方こそが神のみ子であり、神の救いのご計画を成就された方であるという告白です。これまで、ユダヤ教ファリサイ派の指導者として、律法に生きてきたパウロが、今や「主イエスこそが神のみ子である」という信仰告白によって生きるキリスト者とされているのです。

22節には、「イエスがメシアである」という信仰告白があります。これらの告白と共に、「イエスは主である」という告白が、パウロと初代教会の信仰告白の中心、骨格を形成しています。「イエスは主である」。「イエスは神の子である」。「イエスはメシアである」。これらの告白を土台にして、のちに『使徒信条』が形成され、また『日本キリスト教会信仰の告白』が作成されています。

次に、【21節】。人々の驚きは、まさに神の奇跡を見た驚きであると言ってよいでしょう。神は、十字架に付けられ、復活された主イエスによって、教会の迫害者であったパウロを、教会の宣教者パウロへと造り替えてくださったのです。さらにはまた、ユダヤ教の律法に違反し、エルサレム神殿を汚し、神を冒涜した罪で裁かれた主イエスを、その裁いた側に立っていたパウロによって、神のみ心を行う神のみ子であると告白されていることへの驚きでもありました。それは、主イエスを十字架につけて裁こうとしたユダヤ人指導者たちの行動が間違っていたことを暗示するものでもありました。

「この名を呼び求める者たち」とはキリスト者たち、クリスチャンの別名です。キリスト者以外のユダヤ人は、イエスとかキリストというお名前を口に出すことを恐れて、「この名」と表現しました。うっかり、イエスとかキリストというお名前を口にしたら、その方の力が自分に及んでくるかもしれないと考えたからです。主イエス・キリストというお名前にはそのような偉大な神の力が働いていると考えられていました。主イエスを信じないユダヤ人はそのことを恐れていました。けれども、わたしたちキリスト者はこの方のお名前が持つ救いの力を信じ、この方のお名前によって洗礼を授けられました。

 【22節】。パウロはユダヤ人の不信仰と批判や攻撃を少しも恐れません。それによって、福音を語ることをやめることは決してありません。むしろ、彼は日々に新たな力を与えられて、主イエス・キリストの福音を語り続けました。神のみ言葉は、この世のどのような鎖によっても決してつながれることはないからです。

 「イエスはメシアである」という告白についてもう少し詳しく見ていきましょう。メシアとは、以前にもお話ししましたように「油注がれた者」という意味のヘブライ語です。キリストはそのギリシャ語訳です。日本語では「救い主」と訳されます。旧約聖書の民イスラエルは,長い苦難と迫害の歴史の中で、神は終わりの日に、イスラエルと全世界のすべての民のためのまことの救い主をこの世にお遣わしくださるであろうということを信じ、待ち望んでいました。その救い主を、まことの、永遠の預言者であり、まことの、永遠の祭司であり、そして、まことの、永遠の王である「油注がれた者」・メシアと呼びました。主イエスこそが旧約聖書で預言されたそのメシアであるという信仰告白です。このメシア・キリスト・救い主によって、神の永遠の救いのご計画が成就されたのです。このメシア・キリスト・救い主に、すべての人の、わたしの救いがあるのです。

 パウロはこれまで熱心なユダヤ教徒そして、ファリサイ派律法学者として、神の律法を一つ一つ守り行うことによって救われる、神の国に入ることができると考えていました。そのために努力してきました。けれども、そうではない。わたしがわたしの力や知恵や努力によってわたしの救いを手に入れるのではない。わたしの救いのために、わたしに代わって、十字架で死んでくださり、ご自身の尊い命をわたしのためにささげつくされた主イエス・キリストによってこそ、またこの主イエス・キリストによってのみ、わたしは罪ゆるされ、神の国での永遠の命の保証が与えられている、この信仰こそがわたしの確かな、そして唯一の救いなのです。

 【23~25節】。サウロ、のちのパウロはユダヤ人にとっては裏切り者のように映ったに違いありません。もしこの時に、彼の周囲のキリスト者たちが知恵を働かせ、勇気をもってパウロを助け出さなければ、ステファノに続いて二人目の殉教者を出すことになっていたかもしれません。もしそうなれば、それは初代教会にとってのみならず、のちの世界の教会にとってどんなにか大きな損失になったことでしょうか。しかし、神はそれをお許しにはなりませんでした。神はパウロを死の危険から救い出されました。

 そのようにして、かつて熱心なユダヤ教ファリサイ派の一人としてキリスト者の命を奪おうと迫害の息をはずませていたパウロが、今や熱心なキリスト者となり、ユダヤ人から命を狙われる者となりました。16節で復活の主イエスが言われたように、「わたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示そう」、このみ言葉が、早くも成就し、実現することとなったのです。神は神にお仕えする使徒パウロを、その生涯にわたってみ心のままに導かれ、彼の多くの苦難、試練、迫害をとおして、ご自身の救いのみわざを前進させられたのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、かつて初代教会の使徒たちが主キリストの福音を宣べ伝えるために、すべての苦難や試練を喜んで耐え忍んだように、わたしたちをも喜んで福音にお仕えする一人一人としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。