11月23日説教「律法学者の偽善を見抜かれる主イエス」

2025年11月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:歴代誌下24章17~22節

    ルカによる福音書11章45~54節

説教題:「律法学者の偽善を見抜かれる主イエス」

 きょうの礼拝で朗読されたルカ福音書11章46節に、「イエスは言われた。『あなたたち律法の専門家も不幸だ』」と書かれています。同じようなみ言葉は次の47節にも「あなたたちは不幸だ」とあり、また52節でも「あなたたち律法の専門家は不幸だ」と繰り返されています。それだけでなく、前回学んだ42節にも、「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ」とあり、43節でも「あたたたちファリサイ派の人々は不幸だ」、44節にもう一度「あなたたちは不幸だ」と、合計6回、律法の専門家とファリサイ派の人々に対する「不幸だ」という言葉が語られています。

 「不幸だ」と訳されているもとのギリシャ語は、「ウーアイ」と発音します。これは一種の、嘆きや怒りを表現するうなり声で、「ああ、なんという災いであることか」という意味合いの言葉です。『口語訳聖書』では「わざわいである」と訳され、さらに古い『文語訳』では、「災いなるかな」と訳されていました。そうすると、この言葉は「幸いなるかな」という主イエスのお言葉と対比されているということに気づきます。実際に、主イエスはこの福音書の6章で、二つを対比させて語っておられました。その箇所を開いてみましょう。【6章20~26節】(112ページ)。ずっと以前にkoの箇所を学びましたが、「幸いである」という主イエスのお言葉は、天の父なる神から与えられる幸いのことであり、この地上にあるどんな幸いよりもはるかにまさって、何ものによっても再び奪い取られることも消え去ることもないような永遠の幸いのことであり、「幸いなるかな」とは、主イエスはその幸いを信じる信仰者たちに確かにお与えくださるという約束の言葉なのであるということを学びました。主イエスはその永遠の幸いをわたしたちにお与えになるために十字架で死なれ、三日目に復活されたのです。

 「災いなるかな」はそれとは正反対の内容ですから、この世の人間の基準で

考えて、この人は災いだ、不幸だというのではなく、天の父なる神から与えられる災い、あるいは呪い、裁き、さらに言うならば死の判決、そのような神の厳しい断罪を意味する言葉なのです。では、なぜ主イエスはファリサイ派や律法の専門家に何度も繰り返して「あなたがたは災いだ」と言われるのでしょうか。

 その理由を学んでいくにあたって、初めに一つ確認しておくべきことがあります。それは、主イエスはわたしたちに対して天の父なる神からの幸いを語ることができると同時に、また天の父なる神からの災いをも語ることができるお方だということです。また、それをわたしたちに与えることができるお方だということです。なぜならば、主イエスは神み子であられるからです。主イエスは聖霊によっておとめマリアの胎内に宿り、その命は完全に神からの命として、神ご自身の命として誕生されました。地上のすべての歩みもまことの人でありながらまた同時にまことの神として生きられました。そして、地上の歩みの最後に、わたしたち罪びとである人間のすべての罪をご自身に担われ、わたしたちに代わって神の裁きを受けられ、十字架で死なれました。しかし、三日目に死の墓から復活されました。無から有を呼び出だし、死から命を生みだされる神のみ力によって、罪と死とに勝利されたのです。わたしたちのためにご自身の命をもささげ尽くして、わたしたちを罪と死の裁きから救い出してくださった主イエスであられるからこそ、わたしたちに幸いを語り、また災いをも語ることがお出来になるのです。

 ここで、ファリサイ派と律法の専門家のことを簡単に説明しておきます。当時のイスラエルのユダヤ教はファリサイ派とサドカイ派との二つの大きな派に別れていました。サドカイ派はエルサレムの神殿で仕える祭司たちが中心でした。フアリサイ派は旧約聖書に書かれているモーセの律法やそれ以後に付け加えられたさまざまな教えや伝統を厳格に守ることを重視していました。その中の律法の専門家(『口語訳聖書』では律法学者といわれていました)は律法を詳細に研究し、さらに細かな規定をつくり、その解釈をする権限を持っていました。

 彼ら二つの教派は宗教的な地位はもちろん、社会的地位も高く、民衆からの尊敬を受け、また裕福であり、皆一様に、自分たちの生き方、考え方には自信を持っており、それを誇ってさえいました。先ほど読んだ6章で、主イエスが「あなたがたは不幸だ」と言われていたことがすべて彼らに当てはまるということが分かります。「富んでいるあなたがたは不幸である」、「今満腹しているあなたがたは不幸である」、「今笑っているあなたがたは不幸である」、「すべての人のほめられるとき、あなたがたは不幸である」、そのすべてが彼らに当てはまっています。

他方、多くの一般の民衆は、日常の生活を維持するだけで精一杯、律法や細かな規定を厳格に守ることはできず、彼ら宗教的エリートからは軽蔑的な言葉で「地の民」と呼ばれていました。彼らは、主イエスが「幸いである」と呼びかけられている貧しい人々であり、今飢えている人々であり、今泣いている人々でした。しかし、主イエスは彼らに幸いを約束され、神の国を約束されました。

主イエスが幸いと災いを考える基準はファリサイ派や律法学者とは全く違っていました。おそらくは、今日のわたしたちの基準とも違っているでしょう。そのことに注目しながら、主イエスが「災いだ」と語られたみ言葉を読んでいきましょう。

 42節から読んでいきます。【42節】。イスラエルの民は神の強いみ腕によってエジプトの奴隷の家から導き出され、神が約束されたカナンの地を受け継ぎました。その地は神から賜った地であり、その地から収穫されたすべての収穫物も神からの賜物でした。イスラエルの民はそのことを神に感謝して、収穫の初穂と、全収穫の10分の1を神におささげしました。そのことを定めた律法はレビ記や申命記の中の各所に記されています。

 当時の律法学者はこの律法をさらに細かく規定して、はっかやうんこうなどの小さな野菜にまで範囲を広げ、彼らは几帳面にそれを実行し、自分たちはここまで厳格に律法を守っているのだと誇っていたのです。それが自分たちの信仰の深さだと見せつけていたのです。

 けれども主イエスは言われます。「そのような細かなことにこだわっているあなたがたは、律法の最も根幹であり、中心である、神とあなたの隣人とを愛しなさいという律法には、全く心を用いていない。それを守ってもいないではないか」と。確かに彼らはそうでした。彼らは自分たちの信仰を他の人に見てもらうために、他の人からの誉れを求めて、神の律法を道具として利用しているだけで、神に対する信仰も服従も感謝も伴っていなかったのです。

マタイ福音書では、主イエスは彼らを「偽善者たち」と呼んでいます。偽善者とは、「仮面をかぶって自分ではない他の人物を演じる」という意味を持っています。それは神を欺く最も深い罪だと主イエスは言われるのです。主イエスがお求めになるのは、仮面をつけたわたしではなく、いわば素顔のわたしです。おそらくは、罪に満ちており、失敗や過ち、破れや欠けが多くあるであろうみすぼらしいわたしであるかもしれないけれども、神のみ心を知らず、傲慢で、他者を傷つけることが多いわたしであるかもしれないけれども、そのわたの素顔を、主イエスは見ていてくださるのです。そして、そのようなわたしを受け入れてくださるのです。そのようなわたしをも愛してくださり、そのようなわたしのために主イエスはご受難の道を歩まれ、十字架で死んでくださったのです。そして、わたしの罪をゆるしてくださり、わたしが喜んで神と隣人とにお仕えする人へと、わたしを新しく造り変えてくださるのです。それゆえに、わたしは別のだれかを演じる必要はありません。主イエスは、ほかでもないこのわたしを愛してくださるからです。

次に、【46節】。ファリサイ派と律法学者は、宗教的にも政治的にも民衆の指導者でした。主なる神から、民衆を神礼拝へと導く務めを託された人たちでした。そうであるのに、彼らは民衆に律法を守れと命じ、さらに細かな規則をたくさん作っては彼らに重荷を負わせ、それを守らない人たちを非難し、神の国から遠ざけることをしていました。それは、主なる神に対する最も悪意に満ちた反逆であり、罪でした。民衆の指導者である彼らこそが、民衆の苦しみや痛みをよく知り、それを思いやり、彼らと共に歩むようにと、神からの務めを託されているのです。彼らを慰め、励まし、彼らの重荷を共に負うように召されているのです。「すべて重荷を負い、苦労している人はわたしのものに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言われた主イエスにならうべきなのです。しかし、彼らはそうしていませんでした。それゆえに、彼らは神の呪いを受けて滅びなければならないと、主イエスは言われるのです。

主イエスは47節から、もう一つの彼らの偽善と罪の実例を挙げています。【47~51節】。51節の「アベルの血」とは創世記4章に書かれている兄のカインが弟アベルを殺したという、聖書に書かれている最初の殺人で流された血のことです。「ゼカルヤの血」とは、歴代誌下24章21節に書かれている、祭司の子ゼカルヤが迫害を受けて神殿の庭で殺されたことを指します。当時のユダヤ教のヘブライ語原典の編集では歴代誌が最後に配置されていましたので、時代的には最後に流された血というわけではありませんが、聖書の最初と最後に書かれている殺人で流された血という意味で、その間に迫害を受けて殉教した多くの預言者たちの血をすべて含んで、その血の責任が今のあなたがたにあるのだと、主イエスは言われるのです。なぜならば、彼ら宗教の指導者たちは、自分たちが先輩の偉大な預言者たちと同じように、主なる神にお仕えしている証しとして、預言者たちの墓を勝手に作っては、その墓を飾っていたからです。

主イエスがここで彼ら宗教的指導者たちの偽善と罪とを厳しく非難しておられるのは、彼らは預言者たちの墓を飾ってお祭り騒ぎをしているけれども、彼らは預言者たちが語った神の言葉そのものには全く耳を傾けていないからなのです。預言者たちは人々に対して、自分の罪を告白して、悔い改めて、神に立ち帰りなさいと語りました。けれども、彼らは悔い改めず、かえって、神の言葉を語った預言者たちを迫害し、殺しました。それと同じように、今あなたがたも、自分の罪に気づこうともせず、むしろそれを、仮面をつけて覆い隠し、あたかも罪がないかのように演じている、その偽善的信仰こそが、神の怒りを受けて、厳しい裁きを受けなければならないのだと、主イエスは言わるるのです。

主イエスがここで求めておられる真実の信仰とは、わたしの罪のために死んでくださった主イエスを、わたしの救い主と信じる信仰にほかなりません。主イエスがわたしのすべての罪を代わりに背負ってくださり、わたしに代わって裁きを受けてくださり、それゆえにわたしは今や罪ゆるされ、救われていることを信じ、その救いの恵みを神に感謝する信仰、その信仰をこそ主イエスはわたしたちに求めておられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちは自らの罪に気づくこと遅く、悔い改めてあなたに立ち帰ることが少ない、傲慢で、かたくなな者であることをみ前に告白いたします。どうか、わたしたちの罪をおゆるしください。み子主イエス・キリストによって、わたしたち罪からお救いください。そして、これからのちは、喜んで主なる神であるあなたと、あなたがお与えくださった隣人に、心からお仕えする者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

11月16日説教「イエス・キリストの恵みによって使徒とされたパウロ」

2025年11月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「イエス・キリストの恵みによって使徒とされたパウロ」

 パウロがローマの信徒への手紙を書いた主な目的は、ローマ教会訪問の前に、まだ会ったことがないローマの教会員に自分を知ってもらうこと、それと同時に、自分がこれから携えていく主イエス・キリストの福音がどのようなものであるのかを知ってもらうこと、そして、ローマ教会を拠点としてさらに西の果てイスパニア(今のスペイン)にまで福音を宣べ伝えるという自分の計画をあらかじめ知ってもらい、そのためにローマ教会の協力を得たい、これが手紙を執筆した主な理由でした。きょう学ぶ5節では、自分がどのようにしてイエス・キリストの使徒とされたのかについて語っています。

 【5節】。パウロはすでに1節でこのように自己紹介をしていました。【1節】。この1節で自己紹介は済んでいたはずなのに、5節で更に自分の使徒としての務めについて付け加えていることになりますが、実はこの箇所は2節の冒頭にあるように、「この福音」つまり1節の「神の福音」を説明する2節から6節までの長い挿入文であって、神の福音である主イエス・キリストのことを語っている個所になります。その主イエス・キリストを語る中で、「この方により……恵みを受けて使徒とされました」と自分のことについて触れているわけです。つまり、「神の福音」である「御子、主イエス・キリスト」のお働きの一つとして、パウロが使徒として召されたことがあるというのです。

 そしてまた、続く6節では、もう一つの主イエス・キリストのお働きとして、【6節】と付け加えられています。パウロが使徒として召されたことも、ローマの教会員が異邦人の中から選ばれて主キリストのものとなるように召されていることも、共に主イエスのお働きなのであり、主イエスによる召し、招きなのであり、それによってパウロとローマの教会とは、互いにまだ直接にあったことはないけれど、また何百キロメートルも離れているけれども、両者は固く信仰によって結ばれているのです。

 パウロは6節で「わたしたちは」と言っていますが、これはいわば文学的表現で、パウロ自身を指しています。自分が特別に異邦人に対して福音を宣べ伝える務めを託されているという強い自覚がこの言い方に込められているのかもしれません。

 「この方により」とは、2節から4節で語られていた神のみ子であり、ダビデの子孫から生まれ、死者からの復活によって力ある神のみ子と定められた主イエス・キリストによって、という意味です。パウロが使徒となったのは、自分がそうなりたいと願ったからではありませんでした。だれかに勧められたからでもなく、だれかに命令されてでもありません。死者の中から復活された主イエス・キリストからの直接の任命によって使徒とされたのだとパウロは言うのです。

 すでに1節の自己紹介で「召されて使徒となったパウロ」と書いたのに加えて、この5節でも「この方によって、恵みを受けて使徒とされた」と、自分が使徒であることを繰り返し語っていることには、理由があります。というのは、パウロは主イエスの本物の使徒ではないという意見が彼の周囲には少なからずあったからです。パウロは地上の主イエスと会ったことも、その説教を聞いたこともありませんし、もちろん主イエスの12人の弟子でもありません。それだけでなく、彼はキリスト教会を迫害するユダヤ教ファリサイ派の学者であり指導者でした。だから、彼は自称の使徒であり、使徒としての権威もなく、彼が教えている内容も本当に主イエスの教えなのか疑わしい。彼は使徒であることを自称して世の評判を求めているに過ぎない。そのようにパウロを批判する人たちがいたということが、パウロ自身が書いた書簡から明らかです。

 では、実際にはどうであったのかと言いますと、使徒言行録9章に、パウロが復活の主イエスと出会ったことが書かれています。彼は、キリスト教会を迫害し、信徒たちを捕らえて牢獄に閉じ込めるために、エルサレムから北のダマスコの町に向かっている途中に、突然天からの強い光に照らされ、彼は地に倒れました。とのとき天から声がありました。「サウル、サウル(これはパウロの古い呼び名でした)、なぜわたしを迫害するのか」。それは、復活された主イエスの呼びかけでした。その後、パウロが起き上がると、彼は主イエスのみ名をイスラエルやすべての国々の人々に宣べ伝える器として選ばれた者であることを復活の主イエスから伝えられたのです。

 このようにして、迫害者であった彼が主イエスの福音の宣教者に変えられた経験をしたパウロは、ガラテヤの信徒への手紙1章1節では自らをこのように紹介しています。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」。更に、1章15、16節ではこのように書いています。「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによりって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、この福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき」。

 このように、パウロがイ主エス・キリストの福音を宣べ伝える使徒とされたのは、徹底して父なる神とみ子主イエス・キリストによることなのだと、パウロは繰り返して語っているのです。しかし、それがパウロの誇りになるのでは決してなく、彼は神の恵みの前に徹底して謙遜になり、自分は使徒と呼ばれる資格も値打ちもない者であり、ただ「神の恵みによって今日のわたしがある」(コリントの使徒への手紙15章9節)のであるから、その神の恵みが無駄になることがないように、他のすべての使徒たちよりも熱心に働いてきたのだと、彼は別の手紙の中で書いています。

このように、パウロが使徒として召されたことを語る際に、きょうの箇所でもガラテヤの使徒への手紙でも、また他の書簡でも共通していることは、死者の中から復活された主イエスとの関連で語っているということです。教会の迫害者であったパウロが、主イエスの福音を宣べ伝える宣教者へと変えられたことは、まさに死からの復活に等しいと言えます。それは、無から有を呼び出だし、死から命を生み出される全能の父なる神のみわざなのです。神はその偉大なる力によって、復活の主イエスとの出会いをとおして、パウロを新しい命に生かしてくださり、新しい使命に生きる者としてくださったのです。そのような神の偉大なる力は、今日も、復活の主イエスとの出会いをとおして、わたしたち一人一人に働いているのです。

では、きょうの5節のみ言葉に戻りましょう。パウロはここでも、自分が異邦人のための伝道者であると自覚していることを語っています。手紙を受け取るローマの教会も、次の6節から推測すると、多くはユダヤ人以外の異邦人、ギリシャ人であったと思われますから、彼がそのことを強調する理由にもなっているのでしょう。実際にパウロは、使徒言行録9章の記録でも、また彼の書簡でも、自分は異邦人のために遣わされている使徒であることをしばしば語っています。

でも、そのこととは別に、パウロは神がイスラエルの民を選ばれたという、神の選びの重要性についても語っています。神は全世界の民の中からイスラエルを選ばれ、この民と契約を結ばれ、この民をとおして救いのみわざを行われました。そのことを書いているのが旧約聖書です。そして、神はこの今の時になって、その救いのご計画を最終目的に至らせるために、ご自身の一人子なる主イエス・キリストを世にお遣わしになって、全世界のすべての人のための救いのみわざを成就されました。主イエスの十字架の死と復活によって、その救いが成就されたのです。

パウロは神のこの救いの順序、秩序を重んじました。そして、宣教活動にために新しい町に入ると、まずユダヤ人の会堂で、ユダヤ人に対して主イエスの福音を語りました。わたしたちは使徒言行録の学びをとおしてそのことを知らされています。けれども、ユダヤ人は主イエスの福音を信じませんでした。パウロたちを迫害し、町から追い出しました。そこで、パウロの足は異邦人、ギリシャ人へと向かったのでした。パウロが異邦人の伝道者となったのは、彼の選択とは決意とかによるのではありませんでした。それが神の救いの秩序とユダヤ人の罪のゆえでした。それはまた、神の永遠なる救いのご計画でもあったのです。それゆえにパウロは常にユダヤ人の救いのために祈り続けました。神はユダヤ人も異邦人も、全世界のすべての人が主イエスの福音を聞いて罪を悔い改め、救われて、神の民となることを望んでおられます。パウロも、そしてわたしたちも、そのために仕えるようにと召されているのです。

パウロは使徒としての務めを、「その御名を広める」ためであると言います。この箇所を直訳すると「彼のみ名のために」であって、広めるという言葉は本来ありません。もちろん、主イエスのお名前を世界に広めるということも含んでいると思いますが、主イエスのお名前が崇められ、賛美されるために、その御名の栄光のために、またそのお名前が真実に告白されるために、ということも含まれるでしょう。当時の世界では、ローマ皇帝の名が崇められ、皇帝の名前と顔が刻まれた銀貨が流通していました。皇帝の名前には、「主」という言葉をつけて呼ばれていた中で、しかし、キリスト者はそうではなく、主イエス・キリストこそが全世界の唯一の主であり、崇められ、礼拝され、賛美されるべき唯一の方であり、主と告白されるべき唯一の方であると告白しました。

「信仰による従順へと導くために」という言葉の中には、パウロの信仰理解の特徴がよく表れています。信仰とは、ただ漠然と神の存在を信じるとか、何かの真理や信条を信じるとか、あるいは何か宗教的な感情に浸るということではなく、信じている神のみ心を知り、それに従って生きること、神のみ言葉への従順な服従なのだとパウロは言います。けれども、その服従は信仰による服従でなければなりません。信仰を伴わない服従は悪しき服従であり、悪魔的な服従であり、そこには本当の喜びも感謝もありません。主イエス・キリストを信じる信仰によって、主イエスの救いの恵みを知らされ、主キリストの十字架と復活によって示された神のみ心に服従することは、自由と喜びと感謝に満ちた服従です。この信仰による服従こそが、わたしたち本当に生かし、他のすべての束縛から自由にするのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを主イエス・キリストによる救いの恵みによって罪の奴隷から解放してくださり、自由と喜びとをもってあなたと隣人にお仕えする者としてくださったことを感謝いたします。どうか、わたしたち一人一人をも、主イエスの福音を持ち運ぶ働き人としてお用いくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

11月9日説教「生涯の日々を正しく数える知恵を与えてください」

2025年11月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

             逝去者記念礼拝

聖 書:詩編90編1~17節

    ペトロの手紙一1章22~25節

説教題:「生涯の日々を正しく数える知恵を与えてください」

 詩編90編の詩人は10節でこのように言っています。「人生の年月は七十年程のものです。健やか人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」と。この詩人は、表題によればモーセという古い時代のイスラエルに生きた人です。紀元前13世紀ころの信仰者ですから、今から3500年以上も前の人ですが、人間の一生を考える感覚は、今日のわたしたちと全くと言ってよいほど変わりません。現代に生きている、年を重ねた多くの人たちも、このモーセと同じように、「わたしは70年間、もう少しで80年間、一生懸命に生きてきたけれど、苦労が多かったなあ、失敗も多かったなあ。だけど今振り返れば、あっという間だったような気がする」という言葉で、その人の一生を語るのかもしれません。多くの人がこの詩人に共感することでしょう。

そこで、さらに読み進めていくと、12節では詩人はこう言います。【12節】。ここで詩人は、彼がこれまで生きてきた70年、80年の生涯を振り返りながら、自分のすべての人生の歩みが、いったいどんな意味があったのだろうか。そして、残されたわずかの日々を、どのように生きていったらよいのだろうか、と深く考えながら、彼は「どうかわたしに人間として知るべき本当の知恵を与えてください」と願い求めているのです。では、ここで詩人が、「どうぞわたしに教えてください」と願っている相手は、だれでしょうか。それは、彼がこの詩の冒頭で呼びかけている相手です。「主よ、あなたは」と呼びかけている、主なる神のことです。詩人は、主なる神に対して、「主よ、どうぞわたしに、わたしの生涯の日々を正しく数える知恵を与えてください」と、祈り求めているのです。「なぜならば、その知恵を与えることがお出来になるのは、主なる神よ、ただあなたお一人だからです。そして、もしあなたからその知恵を与えられなければ、わたしの70年、80年の生涯の意味を、正しく理解することができず、正しく受け止めることができないからです。また、これからの残されているわずかな生涯を正しく生きることもできないからです」と、この詩人は言うのです。

では、「生涯の日を正しく数える知恵」とは、どのような知恵のことでしょうか。これが、きょうの逝去者記念礼拝の日の説教の中心、ポイントです。ご一緒に、詩編90編のみ言葉から、この問いの答えを見いだしていきましょう。

「知恵」という言葉は、旧約聖書の中では非常に重要で、また深い内容を持つ言葉です。旧約聖書の中には知恵文学に分類される文書があります。ヨブ記や、コヘレトの言葉、また箴言、詩編の一部も知恵文学に分類されます。イスラエルの人たちは「知恵」という言葉によって、人間がなぜ生きるのか、あるいはどのように生きるべきなのか。また、なぜ死ぬのか、なぜ苦しんだり迷ったりするのか。なぜ神を信じるのか、どのように神を信じるべきなのかという課題を取り扱いました。「知恵」はまさに人間を深く知ること、神を深く知ること、信仰を深く知ることに深くコミットメントしています。

箴言1章7節には、「主を恐れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」とあり、2章6節には、「知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える」と書かれています。人間が人間として知るべき知恵は、ただ主なる神からのみ与えられる。他の人間からも自然や宇宙からも、他のいかなるところからも本当の知恵は与えられない。そして、人間は神から与えられる知恵によって生きるときにこそ、本当の人間として、その人の人生を生きることができる。そのことを箴言は繰り返して教えているのです。

さて、では、本題です。「わたしの生涯の日々を正しく数える知恵」とはどのような知恵のことなのでしょうか。詩編90編の最初から改めて読んでいきましょう。そうすると、すぐに気づくことがあります。それは、この詩人は人間としての自分を考えるに際して、自分を主なる神との関係の中で考えているということです。【1~2節】。人間は人間仲間だけで生きているのではありません。他の生き物、自然、環境などとのかかわりの中で生きています。それ以上に、人間は主なる神との関係の中で、その神の大きなみ手の中で生きているのだというのが、この詩人の信仰です。

その信仰から、彼はさらに次のことを教えられます。神は天地万物を創造され、それらのすべてを今もなおご支配しておられる。その神の偉大さ、永遠性、普遍性、そして無限性に比べると、人間である自分はなんと小さく、弱く、はかなく、限りある存在であることか。詩人は3節からそのことを告白せざるを得ません。【3~6節】。天地万物を創造され、そのすべてをみ手に治めておられる神、生きるものすべての命を支えておられる神、その神の偉大さ、無限さ、永遠なる存在の前では、人間は朝に花を咲かせ、夕べにはしおれる草花に過ぎない。そのことを知ること、それこそがわたしたち人間が神から教えられる知恵なのだと言ってよいでしょう。

人間は、全能で永遠なる神のみ前に立つとき、そのみ手の中に包まれるときに、初めて自らの小ささ、はかなさを教えられるのです。そうでなければ、人間はどこまでも傲慢で、自らの有限性に気づかず、自ら死すべき者であることを忘れて、自らを小さな神々のように錯覚してしまうのです。聖書はそれこそが、神を忘れた人間の罪だと言うのです。

この詩人は、神のみ前での自らのはかなさ、死すべき存在を自覚させられるとともに、それだけでなく、それが人間の罪に対する神の怒りの結果であることをも知らされます。彼の告白はいよいよ深刻になります。【7~11節】。神のみ手の中にある人間、神のみ前に立たされている人間が、自らをどのような人間であるのか自覚させられるとき、その究極は、人間が神に背き、神から離れている罪びとであるということを知ること、神の怒りと裁きの前で消え去り、死すべき人間であることを知ること、これこそが人間が神から教えられる最大の知恵なのだと、詩人は告白しています。

そうしますと、きょうの説教の最初に読んだ10節のみ言葉は、単に人生のはかなさを嘆いたり、あるいは人生の無常を情緒的に歌ったのではなく、もっと深刻な、人間の死すべき存在、人間の罪の存在を、恐れとおののきとをもって告白していた言葉であったということに、わたしたちは気づかされるのです。

そしてまた、そのような人間の深刻な罪の存在を告白する詩人の祈り願いであるからこそ、12節の、【12節】という彼の祈りの真剣さが伝わってくるのです。「主なる神よ、ぜひとも、わたしのこの祈り願いをお聞きください。わたしのこれまでの生涯の日々を正しく数え、またこれからの残されているわずかな生涯の日々をも正しく数える知恵をあなたから与えられなければ、わたしのすべての生涯は空しく飛び去り、意味なく消え去っていくしかないのですから」。これが詩人の切なる祈り願いなのです。

では、これまで学んできたこの詩編の内容から、「生涯の日を正しく数える知恵」とはどのような知恵なのかを、探っていきましょう。一つには、数を数えるということは、1から数え始めて、最後は70になるか、または80になるか、あるいはそれ以上になるかは別として、いずれにしてもその数には終わりがくるということ、つまり、わたしの生涯には終わりがあるということ、わたしは死すべき存在なのだということを知ること、それが人間が知るべき知恵の第一であるということです。

わたしたち人間はしばしばそのことを忘れています。それを忘れるということは、本当は愚かなことであり、だれでもが簡単に気づくべきことなのに、人間は意識的にも無意識的にも、そのことを忘れています。そのことが人間の途方もない傲慢さを生み出し、神の存在をも脅かすほどの恐るべき悪や狂気を生み出し、世界の歴史を暗黒の狂乱と戦争、殺戮へと導くのです。

しかし、詩人は願うのです。「わたしの生涯には限りがあり、わたしは死すべき存在であるゆえに、どうか主なる神のみ前にあって、わたしを謙遜なものにしてください。神を恐れる者にしてください」と。

もう一つのことは、わたしに与えられたこれまでの70年、80年、あるいはまだ数十年の人もいるでしょうが、その過去の一日一日を数える知恵のことです。すなわち、わたしが歩んできたわたしの生涯のすべての日々、その一日一日のすべてが、神のみ手の中にあったのであり、神の恵みと導きの日々であったということを知り、その一日一日を神に感謝する日として数えるということです。あの時の苦しみのときにも、悩みのときにも、孤独であったときにも、神はわたしを忘れてはおられなかった。わたしをお見捨てにはならなかった。あるいはまた、わたしの失敗や過ちのすべてをも、神は覚えておられ、それでもわたしから離れなかった。その神が共に歩んでくださった過去の日々を、一日一日と数えて、神に感謝すること、これが人間に与えられている知恵なのです。

そして第三に、わたしの残されているあとわずかな生涯の歩み、あるいはこれから何十年も続くであろうわたしの生涯の歩みの一日一日を数えて、その日に与えられるであろう神の恵みと導きとを信じ、それを数えて生きていくという知恵です。

詩人は13節以下でこのように願っています。【13~17節】。神の慈しみは永遠に続きます。わたしが経験した多くの苦難や災いにもはるかにまさって、神の慈しみはわたしの人生を満たし、わたしの人生に意味を与え、わたしに喜びを与えます。わたしの生涯の終わりまで、神の慈しみは絶えることはありません。それのみか、わたしの生涯が終わったのちにも、神の慈しみはわたしから離れません。そのことを知る知恵こそが、わたしの生涯のすべての歩みを満たし、そしてまた、わたしに与えられている永遠の命の約束を確かにするのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちをきょうの逝去者記念礼拝へとお招きくださいました幸いを心から感謝いたします。あなたがこの秋田の地にわたしの教会をお建てくださり、多くの信仰者をここにお集めくださいました。わたしたちは今、彼ら多くの信仰の先達者たちに雲のように囲まれています。どうか、この教会の歩みを更にお導きください。きょうの礼拝に集まったすべての人にあなたからの祝福が豊かに与えられますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

11月2日説教「エルサレム使徒会議の決議と使徒通達」

2025年10月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:レビ記17章10~14節

    使徒言行録15章22~35節

説教題:「エルサレム使徒会議の決議と使徒通達」

 紀元48年か49年ころに開催されたエルサレム使徒会議は、二つの重要な意味を持っていました。一つは、当時の原始キリスト教会、初代教会とも言いますが、そこで大きな問題となっていたユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の信仰理解の違いからくる論争と分裂の危機に、この会議によって一定の共通理解が与えられ、原始キリスト教会が主イエス・キリストの福音のもとで一致することができたということです。第二には、のちの二千年にわたる全世界のキリスト教会にとって、教会の諸問題や諸課題に取り組む際に、教会の代表者が集まり、会議を開いて、話し合いによって事の解決を図るという、教会会議の原形がここで示されたということです。この二つのことは、今日のわたしたちの教会にとって、どれほどに有意義であったか、どれほどに世界の教会の存在を支え、健全に導く役割を果たしているか、そのことはどんなに強調しても強調し過ぎることはありません。

 きょうは、エルサレム使徒会議がのちの教会の歩みに与えた大きな意味を考えながら、その会議で決議されたことと、その決議を他のすべての教会に伝達するために作成された「使徒通達」と言われる文書について学んでいきます。

 会議に出席したメンバーは、現地のエルサレム教会からは使徒ペトロ、彼はエルサレム教会の指導的な立場にありましたが、それと主イエスの肉親の弟で、ペトロのあとにこの教会の指導者となったと考えられている長老のヤコブ、このヤコブが会議の議長を務めたと推測されます。それにユダヤ教のファリサイ派から信者になった何人かの長老たち。一方、エルサレムから北へ5、600キロのアンティオキア教会からは、使徒パウロとバルナバ、それに数人の長老たちでした。このほかの教会からの出席者があったかどうかは、具体的には記されてはいませんが、この会議に集まった議員たちは、当時パレスチナ地域だけでなく、地中海沿岸と小アジアの各地に広がっていた全世界の教会の代表者であるとの意識を、強く持っていたことは確かです。

 エルサレム教会とアンティオキア教会の成り立ちについて確認しておきましょう。エルサレム教会は、紀元30年ころ、主イエスがエルサレムで十字架につけられ、死んでから三日目に復活され、50日後のペンテコステのときに弟子たちの上に聖霊が降り、エルサレムに集まっていた3千人余りのユダヤ人がペトロの説教を聞いて、主イエスの福音を信じ、洗礼を受けてキリスト者となった、その時に誕生した世界最初の教会がエルサレム教会でした。教会員の全員がユダヤ人であり、かつてはユダヤ教の信者であり、神に選ばれた契約の民のしるしである割礼を受け、また旧約聖書の律法を重んじていました。彼らの多くはキリスト者になってからも、かつてのユダヤ教の教えや慣習を捨てきれずにいました。

 アンティオキア教会は、それから10年ほど後、エルサレム教会で起こった大迫害によって、使徒以外の多くのユダヤ人キリスト者がエルサレム市内から追放されたのですが、その何人かがアンティオキアまで逃れて来て、そこでユダヤ人以外のギリシャ人にも主イエス・キリストの福音を語り、多くのギリシャ人が洗礼を受けてキリスト者となりました。そのようにして誕生したのがアンティオキア教会ですから、そのメンバーのほとんどはギリシャ人でした。したがって、彼らは割礼を受けていませんでしたし、律法やユダヤ教の慣習を守るということもありませんでした。アンティオキア教会には、ペトロやバルナバのようにユダヤ人からキリスト者になった人もいましたから、各地に誕生した教会の多くも、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が一緒に教会生活をしていたと思われます。

したがって、エルサレム使徒会議で協議されたことは、エルサレム教会とアンティオキア教会だけの問題ではなく、全世界の教会の課題であったのです。すなわちそれは、異邦人にも割礼と律法が必要なのかどうか、ユダヤ人のように割礼を受け、律法とユダヤ教の慣習を守るように義務付けるべきかどうか、そうしなければ異邦人の信仰は不十分であり、救いは不完全なのかどうかという問題です。

使徒言行録15章7節以下の使徒ペトロの証言も、12節のパウロとバルナバの証言も、そして13節以下のヤコブの証言も、主イエス・キリストの十字架と復活の福音は、全世界のすべての人の救いにとって十分であるから、異邦人に割礼や律法の重荷を負わせるべきではなく、その必要もないということで一致していました。

 議長の役を務めたヤコブは、その結論とともに、20節で次の項目を付け加え、それを文書にして諸教会に届けることを提案しました。【20~21節】。前回にもお話ししましたように、ヤコブがなぜこの項目を付け加えたのかの理由については、はっきり分かっていません。会議で最終的に決議された内容は、異邦人には割礼も律法の重荷をも負わせないというものであったはずなのに、ヤコブは20節で、旧約聖書のレビ記などに書かれている律法を守らせる必要があると言い、また21節でもユダヤ教の慣習を持ち出していますので、これが会議全体の決議に基づくものなのか、それともヤコブ個人の意見が反映されているのかは不明ですが、いずれにしても、会議での決議からは少しそれて、ユダヤ人キリスト者の理解に傾いているという印象はぬぐえません。

 このヤコブの提案については、今日の研究者の間でも種々の議論がありますが、結論的に言えることは、このエルサレム会議で初代教会のユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の信仰理解の違いとそこから生じる諸問題のすべてが解決されたわけではないということです。そのことは、あとで見るように、パウロの書簡からも確認できます。

 議長ヤコブの提案により、エルサレム会議の決議とヤコブが提案した20節の付帯事項とを書簡にしてアンティオキア教会やその他の教会に通知することになりました。パウロとバルナバ、それにエルサレム教会から派遣されたバルサバと呼ばれるユダおよびシラスが書簡を携えて、この書簡は「使徒通達」とか「使徒教令」と言われますが、彼らはまずアンティオキア教会を訪問します。この教会はパウロとバルナバが議員として派遣された教会ですが、今回はエルサレム会議から派遣された使者として、エルサレム教会から派遣された長老たちと一緒に教会員の前に立ちます。

 【23~29節】。ここでは最初に、15章1節に書かれてあったこと、すなわちエルサレム教会からアンティオキア教会に行ったある人たちが、「あなたがた異邦人キリスト者もユダヤ人キリスト者と同じように、割礼を受けなければ救われない」と勝手に語って、アンティオキア教会の人たちを混乱させたことをお詫びすることから始まっています。彼らはエルサレム教会から正式に派遣されたのではないということを明確にしています。そして次に、エルサレム会議での決議事項を伝え、さらに議長のヤコブが提案した付帯事項が29節で告げられます。その内容は、20節と少し順序は違いますが、一致しています。

 しかし、28節、29節の表現から解釈すると、会議での決議の中心は、異邦人に割礼を受けさせる必要はないし、律法を守る義務を負わせる必要もない、ユダヤ教の慣例に縛られることもないという内容であったはずなのに、この文章だと29節の付帯事項の方に強調点が置かれているように読めます。なぜもっとはっきりと、のちにパウロがローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙で語っているように、「ユダヤ人であるかギリシャ人であるかに関係なく、あるいはまた割礼があるかないかでもなく、だれであっても、すべての人は律法の行いによって救われるのはなく、ただ主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって、一方的に神から差し出されている恵みによって罪ゆるされ、救われ、神のみ前に義とされ、神の民とされるのだ」と、明確な結論を出せなかったのかと、不思議に思われるかもしれません。パウロがこの付帯事項に賛成したとは、どうしても思えません。今日の研究者たちもこの点に疑問を投げかけています。

 では、パウロ自身はこの付帯事項で言われていることについて、どのような考えをもっていたのか、聖書から確認しておきましょう。

 コリントの信徒への手紙一8章では、偶像の神々にささげられた肉を食することについて書かれています(309ページ)。ユダヤ人は伝統的に異教の神である偶像にささげられた肉は汚れているとして、食べることをしませんでした。もしその肉が、偶像の神々にささげられた後で市場に卸され、うっかりその肉を買って食べると、食べた自分も罪に汚れてしまうと考え、その肉がどこから来たのかを慎重に吟味してからでないと、食べませんでした。しかし、異邦人からキリスト者になった人にとっては、肉はみな同じ肉であって、その汚れが食べて人の中に入ってくることはないと考えました。そこで、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が同じ教会で共同の食卓を囲むということが困難になってきました。このような問題が、初代教会では頻繁に起こっていたのです。。

 パウロはこの問題を取り上げ、教会の中に分裂が起こっていることを嘆いて、8章4節以下でこのように書いています。【4~6節】。天地万物の唯一の創造者なる神と、そのみ子である唯一の救い主なる主イエス・キリストを信じる信仰によって、そもそも偶像なる神は存在しないのだから、どれが汚れた肉であるかそうでないかと吟味することは愚かなことだと言っています。教会は、国や人種の違い、男女の違い、社会的地位の違い、その他あらゆる違いをはるかに超えて、主イエス・キリストを信じる信仰によってこそ、すべて一致するからです。これがパウロの結論です。

 「みだらな行い」については、少し前の5章から6章で取り扱われています。ここでは主に二つのみだらな行いが挙げられています。一つは、5章1節で「ある人が父の妻をわがものにしている」ということ、つまり親と子の近親相姦です。6章15節以下では、神殿娼婦と交わることです。そのいずれも、神から賜った体を大切にしない、それを汚し損傷する行為であるから、みだらな行いを避けなさいと命じたあとで、6章19節でこのように言います。【19~20節】。神から賜っているあなたの体、主イエスの血という尊い代価を支払って買い取られたあなたの体を、聖霊が宿る神の神殿としなさい、その体で神の栄光を現わしなさいと勧めています。

 主イエス・キリストによって罪ゆるされ、新しい命を与えられているキリスト者は、それまでの自分とは全く違った新しい自分に再創造されているのですから、古い倫理や道徳や社会的慣習から解放され、また世にあるさまざまな偶像礼拝から解放されているのであり、そしてまた、罪と欲望からも解放されているのであるから、自由と喜びをもって、神への感謝と献身に生きる者とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストの御血潮によって、わたしたちを罪の奴隷から贖いだしてくださり、あなたのものとしてくださいましたことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちが再び罪の奴隷となることがありませんように、あなたに固く結びついて、あなたのみ心を行う者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

10月26日説教「あなたの内側を清めなさい」

2025年10月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記6章1~9節

    ルカによる福音書11章37~44節

説教題:「あなたの内側を清めなさい」

 主イエスが、あるファリサイ派の人の家に招かれ、食事をされたとき、食前に手を洗わなかったことから、ファリサイ派との間に論争が起こったことが、37節から書かれています。主イエスはファリサイ派の人たちの偽善的な信仰を見抜かれ、彼らに厳しい非難の言葉を語られました。40節では、彼らを「愚か者たち」と呼び、また42節、43節、44節では、彼らを「不幸だ」と決めつけています。「不幸だ」と訳されている言葉は、もう少し厳しい響きを持っています。『口語訳聖書』では「災いだ」と訳されていました。「災いだ」というこの言葉は、主イエスがお語りになった「幸いだ」という言葉と対照的な意味を持っています。「幸いだ」は、天の父なる神から救いと祝福を約束され、その救いへと招かれている信仰者の幸いを意味していますが、それに対して、「災いだ」は、神の最終的な救いを拒んでいる、あるいはそれから外れている滅びの状態、神の永遠の裁きによって呪われている状態を意味している言葉なのです。主イエスは客人として招かれているファリサイ派の人の家で、「あなたがたは愚か者だ」「あなたがたは災いだ」と言われたのです。これはなんという失礼で、また厳しく、激しい言葉でしょうか。

 わたしたちはこの箇所を読むときに、主イエスのみ言葉の厳しさ、裁きの性格を見るように思います。多くの人が主イエスに対して抱いているイメージは、温厚で寛容なお心を持ち、わたしたちにゆるしと慰めのみ言葉をお語りくださる方というのが一般的だと思います。確かに主イエスはそのようなお方ではありますが、それと同時に、主イエスは厳しいお言葉で怒られ、裁かれ、災いをもお語りになります。そして、そのような温厚さと厳しさは、単に主イエスの人間としての性格や感情の二面性というのではなく、そのいずれもが父なる神の権威に基づくものであり、また主イエスの救いのみわざそのものなのです。主イエスがわたしたちを罪から救おうとなさるその熱心さ、あるいは確かさ、豊かさの現われなのです。主イエスは父なる神の権威によって、わたしたちに罪のゆるしと慰めのみ言葉をお語りになり、また、神の権威によってわたしたちの中に潜む偽善を見抜き、裁きのみ言葉をお語りになるのです。主イエスのみ言葉聞くときには、わたしたちはいつでも神の権威の前に立たされ、恐れおののかざるを得ないのです。

 詩編130編の詩人はこのように叫んでいます。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」と。これはわたしたちの叫びでもあります。しかしまた、わたしたちはこの詩人と共に、続けてこう告白しなければなりません。「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」と。わたしたちは今、わたしの中に潜む偽善と罪を見抜き、裁かれる主イエスのみ前に恐れおののきつつ、しかしまた、わたしたちのすべての罪をゆるされる主イエスのみ前に感謝と平安に満たされながら立つことが許されているのです。

 では、きょうの箇所を読んでいきましょう。【37節】。ルカ福音書では主イエスが食事の席に招かれたという場面を数多く記しています。5章29節以下では、12弟子の一人となった徴税人レビの家で、7章36節以下では、あるファリサイ派の人の家で、14章1節以下では、ファリサイ派の議員の家で、食卓に招かれたことが書かれています。また15章2節には、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」とファリサイ派の律法学者たちが主イエスを非難したことが書かれています。主イエスは当時の宗教的指導者たちの家や、社会では罪びととして見捨てられていた人たちとも、しばしば食卓を共にされました。食卓を共にすることは、最も親しい交わりのしるしでした。主イエスは多くの人たちと食卓を共にすることによって、その人たちの近くに接近され、その人の心の中に入られ、親しい交わりを持たれました。そのもっとも典型的な場面は、主イエスと弟子たちとの最後の晩餐であったと言えましょう。わたしたちにとっては聖餐式がそうです。

 ところで、そのような親しい交わりのしるしである共同の食卓の席では、必ずと言ってよいほど、何かの対立や論争が引き起こされるということを、わたしたちは確認することができます。きょうの箇所では、主イエスが食前に手を洗わなかったということからファリサイの人との間に論争が起こり、その論争の中で主イエスはファリサイ派の偽善的信仰を明らかにし、また本当に清めるとはどういうことなのかをお語りになりました。5章27節以下の徴税人レビの家での食事のときには、ファリサイ派と律法学者たちから、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」という非難の声が上がったことが書かれています。その非難に対して主イエスは、「健康な人には医者はいらない。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と宣言されました。7章36節以下のあるファリサイ派の人の家での食事のときには、一人の罪深い女の人が香油を主イエスに振りかけたことから、このファリサイ派の人が、「この人が預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と言って主イエス非難したことが書かれています。主イエスはその時、「この人は多くの罪を赦されたから、多くの愛をわたしに示した」と言われ、女の人に「あなたの罪は許された」と宣言されました。更に、14章1節以下の安息日に、あるファリサイ派の人の家での食事のときには、主イエスがその席にいた水腫を患っている人をいやされたことから、安息日に病気をいやすことが安息日の律法に違反しているかどうかという論争が始まりました。そこで、主イエスは「安息日に自分の息子が井戸に落ちたら、すぐに引き上げてあげないことがあろうか」とお答えになりました。主イエスは安息日にこそ、わたしたちの命を救うためのみわざをなさるのだということが、そこでは明らかにされています。

 このように、主イエスを中心にした食卓においては、ある種の論争が起こり、その論争をとおして、人間の中に潜む罪が明らかにされ、また真実が何であるかが明らかにされるということが、それぞれの場面に共通しています。主イエスがわたしたちと共に食卓を囲まれるとき、主イエスはわたしたちの心の中にまで入ってきてくださいます。わたしたちがその主イエスを、心を開いて受け入れるならば、主イエスは真実の救いへとわたしたちをお招きくださいます。けれども、心を閉ざし、かたくなに罪の中にとどまり続けるならば、主イエスの裁きが明らかにされます。そこでは、人間の中に潜んでいる罪や偽善が浮かび上がってくるのです。

 次に、38節を読みましょう。【38節】。ファリサイ派は旧約聖書の律法を厳格に守り、それだけでなく、律法をさらに細分化して多くの細かな規則を作っていました。食事の前に念入りに手を洗うこと、また食器などもていねいに洗い清めることもその一つでした。これは、衛生上の理由からではなく、宗教的な汚れから身を清く保つためでした。外出中に気づかずに宗教的に汚れたものに触れているかもしれない。その手で食事をすると、口からその汚れが体の中に入ると彼らは考えました。それを防ぐために、律法には書かれていないことまで細かに規定して、手を洗い、身を清めることに気を使っていたのでした。それが神に対する信仰だと考えていたのでした。

 しかし、主イエスは彼らの偽善的な信仰を見抜かれます。【39~41節】。ファリサイ派の人たちは手を洗ったり食器を清めたりして、外側から入ってくる汚(よご)れを防ぐことによって、あたかも自分の内側も清められたかのように錯覚しているが、しかしそれは、自らは清い罪のない人間であるかのように思い込み、自分の罪を隠そうとしている傲慢でかたくなな人間であることの証拠であると主イエスは言われます。それこそが主なる神に対する反逆なのであり、罪なのです。そもそも、罪や汚れは人間の外側から入ってくるものではなく、ましてや口から食べ物を介して入ってくるものでもありません。罪や汚れは、人間の中にあるものであり、その人自身の中に住みついているのであり、その人の心と魂が神から離れている、神のみ心に背いているところに人間の罪があるのであり、外側を洗い清めて、それで罪がないと考えることは、彼らの偽善であり、悪意に満ちた罪そのものなのだと主イエスは言われるのです。

 では、清くなるとはどういうことなのでしょうか。どうすれば罪や汚れから清められるのでしょうか。主イエスはまずわたしたちの目を創造者なる神に向けさせます。「外側をお造りになった神は、内側をもお造りになったではないか」と。わたしたちの外なる体、肉体も、また内なる心、魂も、共にみな神が創造されたものです。両者を分離することはできません。わたしたちの体も心も、造り主なる神のものです。その全体をもって、造り主なる神を崇め、神に感謝し、お仕えする者として、神は人間を創造されたのです。

 更に、主イエスは続けて「器の中にある物を人に施せ。そうすればあなたたちのすべては清くなる」と言われました。「器の中にある物」とは、直訳すれば「内にあるもの」で、『新共同訳聖書』ではそれを器の中にある物と理解して翻訳していますが、むしろ40節との関連から理解すれば、神の創造された人間の内側、その人の心と魂とを神に差し出せと命じられていると理解すべきと考えます。すなわち、あなたの内側である心と魂とを、あなたの外側である体と一緒に、主なる神に差し出しなさい、ささげなさい。そうすればあなたのすべてが清くされる、という意味に理解するのが良いと思います。神はわたしたちの罪に汚れた心を体をも、主イエス・キリストの十字架の血によって清め、受け入れてくださいます。

 42節からはファリサイ派に対する三つの「不幸だ」が語られています。最初にお話ししましたように、これは神の滅びの運命にある災いを語る厳しい裁きの言葉です。その内容については次回45節以下を学ぶ際に確認しますが、ここでもファリサイ派の偽善的で、自らの罪を覆い隠そうとする傲慢な思いだけでなく、他の人をも罪へと導く悪意に満ちた罪が語られています。

 42節で主イエスは、「正義の実行と神への愛」とを語っておられます。わたしたちの救い主であられる主イエスこそが、神の義を全うされ、神の愛に生きられ、十字架への道を進み行かれました。主イエスが十字架で成就してくださった神の義と愛によって、わたしたちは罪ゆるされ、救われています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしの中に潜んでいる傲慢な思いやかたくなな思い、罪や汚れを、どうか主キリストの血によって清めてください。そして、わたしたちをあなたのみ心にかなう者たちとして受け入れてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

10月19日説教「預言者イザヤが望み見た永遠の平和」

2025年10月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              伝道礼拝(世界の平和を願って)

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    エフェソの信徒への手紙2章14~18節

説教題:「預言者イザヤが望み見た永遠の平和」

 きょうの伝道礼拝では、「平和」をテーマにしています。聖書辞典によれば、『新共同訳聖書』で「平和」という言葉が用いられている回数は、旧約聖書では217回、新約聖書では87回、計およそ300回ということになります。平和を意味する旧約聖書のヘブライ語は「シャローム」、新約聖書のギリシャ語は「エイレーネー」ですが、原語が同じでも「平和」と訳されたり「平安」と訳されたりしますし、平和を意味する言葉が用いられていなくても、平和を語っている個所も数多くありますので、数だけで論じることはできませんが、いずれにしても、聖書は全体的に、平和について深い関心を寄せ、平和を深く教えていると言えますし、わたしたちが信じている神、そしてわたしたちの救い主であられる神のみ子、主イエス・キリストは平和の王、平和の主であることは言うまでもありません。

 聖書が教える平和には、大きく3つの分野、領域があります。一つは、国と国、民族と民族、また人と人とが争わず、互いに相手を敵視して戦うことなく、互いに協力し合い、共に生きていることが平和です。二つには、社会の中で正義が行われ、差別や格差、偏見といったゆがんだ秩序がなく、特にイスラエルの社会では、弱い立場にある子どもや夫に死別した寡婦、老人、また他国からの寄留者などが保護され、正しく支援されてる社会秩序を平和と言います。単に争いや戦争がないというだけでなく、社会的な不正や権力者による搾取がない社会のことです。三つ目には、一人一人の人間、わたしが、本当に平安な状態にあることです。それは、主なる神とわたしとの関係に破れがないこと、神が常にわたしと共におられること、わたしが常に主なる神に従い、神のみ心を行い、神に感謝をして生きていることによって与えられるのですが、わたしがそのような平安の中にあること、それが平和です。そのような3つの分野、領域の平和ということを考えながら、きょうはイザヤ書が教えている平和について学んでいきたいと思います。

 8月10日の秋田教会平和祈念礼拝のときには、イザヤ書2章1~5節のみ言葉を学びました。もう一度その箇所を読んでみましょう。【1~5節】(1063ページ)。その時には紹介しませんでしたが、実は、ニューヨークにある国連本部に「イザヤの壁」と呼ばれる場所があり、その壁にこの4節のみ言葉「彼らは剣を打ち直して……もはや戦うことを学ばない」と英語で刻まれているそうです。国連に加盟している193か国の指導者たちが、重要な会議に出席するためにここに集う際に、彼らはこの壁に書いてあるイザヤ書のみ言葉をどのように読むのでしょうか。年々、核兵器の保有数を増やし、より大きな空母を製造し、より強力なミサイルを増設し合っている国々の代表者たちが、この聖書のみ言葉をどう理解するのでしょうか。「もはや戦うことを学ばない」と言われる神のみ言葉に真っ向から対抗して、「もっともっと戦うことを学ぼうではないか」と協議するのでしょうか。しかし、そうであってはならないと、わたしたちは言い続けなければなりません。キリスト教国と言われる国であろうと、そうでない国であろうとも、国連の建物に刻まれているこの聖書のみ言葉に、この建物に出入りする人は皆、責任を負わなければならないのではないかと、わたしたちは訴え続けなければなりません。たとえ、秋田に住むわたしたちの声が遠くて小さくあったとしても。

 きょうの礼拝で朗読されたイザヤ書9章4節に、同じようなみ言葉が書かれています。【4節】。2章では、戦争で兵士が手に持つ剣と槍が、農民が手に持つ鋤と鎌に打ち直されると言われていましたが、ここでは兵士自身が身に着けていた靴と軍服が火で焼き尽くされると書かれています。これによって、もはや再び兵士がそれを身に着ける必要がなくなった。今や戦争は終わって、永遠の平和が訪れたからだということが表現されているのです。

 預言者イザヤの時代、紀元前8世紀のイスラエルは、まさに激動の時代、戦争の時代でした。イスラエルの北には、当時近東諸国に破竹の勢いで支配を広げていたアッシリア帝国が迫り、南にはエジプト第25王朝が、馬にひかれた戦車を誇り、いまだ強い権力を保持していました。イスラエル北王国は紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダもアッシリアとエジプトの間で揺れ動いていました。

1節の、「闇の中を歩む民」、「死の陰の地に住む者」とは、常に戦争の脅威に脅かされ、文字どおりに日夜死と隣り合わせで生活しているイスラエルのことを言っていると思われます。わたしたちが生きている今日にも、それと同じ状況にいる人々が多くいることを、わたしたちは見ています。

 そのような戦国の時代に、預言者イザヤは、もはや再び武器を持たない、もはや再び軍服を着ない、平和を預言したのでした。イザヤが預言し、望み見ていたこの平和は、当時の指導者たちが考えていた国の課題とは、根本的に違っていました。イザヤが預言者活動をしていた紀元前742年から701年までの40年間にイスラエル南王国ユダの王はウジヤからヨタム、アハズ、ヒゼキヤと変わりましたが、それらの王たちは、ある時にはアッシリアに貢物を送り、ある時にはエジプトの戦車を頼り、またある時には他国との同盟に助けを求めていました。いずれの王たちも、それが国に平和をもたらすと考えていました。イスラエルだけでなく、周辺の他の諸国も同様でした。そのことは、今日の世界の諸国の指導者たちも同じであると言えます。

 けれども、イザヤはまったく違った平和を預言したのです。軍備の増強ではなく、どこの国と手を組むかでもない、そのような戦いの勝利のための手段ではなく、戦いそのものを放棄する、戦いを止めて、もはや戦いのことを学ばない、戦いの準備も必要がない、そのような平和を預言したのです。

 では、イザヤが預言した平和とはどのような平和のことなのでしょうか。その平和はどのようにしてやって来るのでしょうか。いくつかの基本的なことをまず確認しておきましょう。イザヤ書2章の預言では、4節の冒頭に「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」と書かれてあるように、主なる神が諸国の最終的な裁判官としてお裁きになることを信じて、すべての国民が一人の主なる神を礼拝する神の民となることから、真の平和が来るであろうと教えています。

 また、9章では、天におられる神が天からまことの光で照らしてくださり、大きな喜びで満たしてくださるときに、諸国の間の憎しみや不安、恐れが消え去り、そこにまことの平和が訪れるであろうと預言されています。後半の5節以下では、そのとき一人のみどり子がわたしたちのために誕生し、その男の子によって全世界が治められ、永遠の平和が打ち立てられ、その平和の国は永遠に続くであろうと預言されています。

 以上の三つのこと、すなわち全世界のすべての民が一人の主なる神を礼拝する一つの神の民となること、天におられる神から与えられるまことの光と喜びにすべての民が満たされること、そして一人のみどり子の誕生によって築かれるであろう永遠の王国、これが平和の基本であると教えられます。

 けれども、まだ何か漠然としており、神を信じているイスラエルにとってはそうであるでしょうけれど、他の諸国に同じことを強要することはできないであろうし、そもそもイザヤの時代に、その預言がどのように成就されたのかということも、わたしたちにははっきりとは分かりません。イザヤの平和の預言には現実性が乏しい、あるいは理想論だと反論する人もいるでしょう。

 そこで、今日の聖書学者はこう考えます。このイザヤの預言は2章2節にあるように、「終わりの日」の預言であり、いわゆる終末論的に理解されなければならない。終末の時の理想の平和がここでは語られているのだと。またこう考えます。9章の「一人のみどり子」とは主イエス・キリストのことであり、この預言が新約聖書に至って、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって成就されたのだと。

この二つの的理解に、わたしたちは100パーセント同意してよいでしょう。そして、その理解を更に深めていくことが大切と思われます。イザヤの預言には、確かに終末論的な要素が濃くあります。今この時に、この時代の中で、すべてのことが直ちに実現することを預言しているのでは必ずしもありません。とは言っても、キリスト教の終末論は、現在のことには関連しない未来のことだけを言うのではありません。神が、未来にこうなるであろう、終わりの日にはこのことが起こるであろうと言われるときに、信仰者はその未来を、いわば先取りして、未来に起こるべきことが今すでに起こると固く信じて、あたかもそのことが今すでに起こっているかのように固く信じて、行動をするのです。それがキリスト教の終末論であり、イザヤの預言もまたそのように理解されるのです。

まだ、世界の多くの国々は武器を増強し、核兵器までをも無限に増やそうとしています。宗教の違いと、そこから生じる理解の違いがあり、それはますます深まっていくように思われます。世界の現状はイザヤの平和預言からは遠く、遠くあるように思われます。けれども、わたしたちはイザヤの預言から、真の平和がどこにあるのか、どのようにしてその平和がこの地に築かれるのかを、はっきりと示されているのです。その平和のために、祈ることへと導かれているのです。そして、その平和は確かに主なる神によってこの地に、全世界にもたらされるのです。

エフェソの信徒への手紙2章14節14節以下にはこのように書かれています。【14~18節】(354ページ)。イザヤが預言した真の平和、永遠の平和は主イエス・キリストによって成就された、実現した、完成したのだと、わたしたちは信じます。そして、この福音を全世界に宣べ伝えることが、この平和の中にすでに生かされているわたしたちに託された使命なのです。教会の使命なのです。教会は、また教会に招かれているわたしたち一人一人は、この使命に生きることによって平和のために仕えるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、永遠の平和の主であれれる主イエス・キリストにあるまことの平安をわたしたちにお与えください。また、世界のすべての人々にお与えください。特にも、きょうの命が脅かされ、不安と恐れの中で暗闇を歩んでいる人々を、天からの光によって照らし、希望と平安とをお与えください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

イザヤ書の平和思想

〇2章1~5節、平和という言葉はない。終末論的。エルサレム・シオン伝承。主の律法と礼拝。武器から農具へ。戦うことを学ばない、永遠の平和。

〇7章14節、「インマヌエル預言」。

〇8章8~10節、インマヌエル、すべての戦略の放棄。

〇9章1~6節、「平和の君」の誕生。

〇11章1~5節、エッサイの株から出る芽。

〇11章6~10節、狼と小羊とが共存する。

〇26章1~6節、主に信頼する平和。

〇26章12節、平和をお授けください。

〇32章15~20節、霊が下される時の平和。

〇48章17~19節、「平和は大河のように」。

〇54章13~17節、神の義による平和。

〇57章18~21節、神のいやしと平和。

〇66章12節、「平和を大河のように」。

10月12日説教「出エジプトと初子の奉献」

2025年10月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記13章1~16節

    ルカによる福音書2章22~32節

説教題:「出エジプトと初子の奉献」

 イスラエルの民はアビブの月の15日早朝に、それまで400年以上寄留していた奴隷の家エジプトを脱出し、神がお導きになる約束の地カナンに向けて旅立ちました。彼らがエジプトに滞在していた期間は出エジプト記12章40節によれば430年、創世記15章13節の預言によれば400年でした。二つの説があったようです。アビブの月は、のちにはニサンの月と言われるようになりましたが、今日の太陽暦では春3月から4月にかけてのころです。この月がイスラエルにとっての新しい年の初め、正月に定められたことが、すでに12章1節に書かれていました。なぜならば、神の民イスラエルは出エジプトから始まったからです。出エジプトはイスラエルの民誕生の原点であり、彼らの歩み、歴史、そして信仰の原点であるからです。それはちょうど、主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活がわたしたちキリスト者の命と存在、信仰と生活の原点であるのと同様です。

 出エジプトの出来事はイスラエルののちの時代にまで続く重要な三つの祭り、祭儀とも言いますが、それと関連づけられています。一つは、イスラエルで最も重要な祭りである過越し祭、二つめは、過越し祭のあと7日間続く除酵祭(種入れぬパンの祭り)、そして三つめは初子(ういご)の奉献です。初子の奉献については、きょうのテキストである出エジプト記13章1~2節と、少し飛んで11~16節に記されています。3節から10節は除酵祭に関する内容です。初子の奉献については、ほかに22章28節以下や34章19節以下、それにレビ記、民数記にも初子奉献の規定が書かれています。過越し祭と除酵祭については、すでに学んだ12章と13章3節以下に繰り返して書かれていましたし、旧約聖書全体で幾度となく言及されていて、イスラエルにとって重要な祭りであったことが分かります。イスラエルの民はこれらの祭り、祭儀、礼拝をとおして、毎年毎年、また安息日ごとに、出エジプトの出来事を思い起こして、自分たちの命と存在の原点とその歩みの原点へと立ち返り、そこに現わされた主なる神の恵みを感謝し、その神が今もなお自分たち一人一人と共にいてくださり、苦難や試練の時にも、救いのみわざをなしてくださることを信じ、告白したのです。

 では、きょうは初子の奉献について、それが出エジプトの出来事とどのように関連づけられているのかを学んでいきたいと思います。【1~2節】。ここでは、出エジプトの出来事と初子の奉献との関連については触れられずに、一般的に人間と動物の初子は神のものであるので、それを聖別して神にささげるべきことが命じられています。11~13節でも同様です。ここではより詳しく、人間の男子で初めて生まれた長男と、家畜の最初に生まれたオスはすべて神にささげるべきことが命じられています。ただし、ろばは宗教的に汚れた動物とされ、神にささげることができないので、その場合には小羊によって贖うように定められています。贖うとは、神にささげるべきものを他の清い動物を代わりにささげることによって神から買い取るということです。

 また、人間の命はこれを殺して神にささげることはできませんので、他のもので贖わなければなりませんが、何によって贖うのかは、ここには明記されていません。民数記18章16節では、生後1か月後の男子を贖う金額は銀5シェケルとあります。1シェケルは10グラムほどと推測されます。また、民数記のこの箇所には、農作物や果物の初物もまた神にささげるべきと定められています。

 このように、初子や初物を特別視するという習慣は古代の他の民族にも一般的にみられます。特にイスラエルにおいては、人間の命はもちろん動物の命も、すべての命は神から与えられたものであるという信仰が強くありました。また、農作物や果物なども神から与えられたものと考えられました。そのために、初子や初物は特別に大きな神の恵みと祝福に満ちたものであって、それを感謝して神にささげることは最高のささげものであったのです。また、初子や初物を神に感謝してささげることは、そのあとに続く命と収穫もまたすべて神からの賜物であるという信仰告白であり、さらには、初子と初物にはそのあとに次ぎ次ぎと神の豊かな収穫と恵みが続くということの確かな保証でもありました。

 古い時代からあったそのような初子、初物を特別視する考え方に、出エジプトの出来事が結びついたのではないかと推測されています。きょうの聖書箇所の14~16節を読んでみましょう。【14~16節】。前の12章に書かれていたように、アビブの月の14日の夕暮れに、エジプトに寄留していたイスラエルの民は、家々で1頭の子羊を屠り、その血を家の柱とかもいに塗り、肉は種入れぬ固いパンと苦菜とを一緒に食べなさいと神に命じられていました。これがのちの過越しの食事です。この最初の過越しの食事は、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から解放し、救い出してくださることを信じ、その前祝いとして、共同の食事を食べました。その夜、アビブの月の深夜、神から派遣された滅ぼす者によって、王ファラオの家からエジプト全土のすべてのエジプト人の家々の初子が、人も家畜もみな撃たれ、死んだために、エジプトに大いなる恐れと混乱が生じ、ついに王ファラオはイスラエルの民をエジプトから追い出すことにしたのでした。しかし、イスラエルの家々には小羊の血が塗られていたので、滅ばす者がその前を過ぎ越し、彼らの初子は守られました。

 このことから、子羊の血によってイスラエルの民の初子が贖われ、滅びから救われたと考えられ、それだけでなく、その子羊の血によってイスラエルの民全体がエジプトの奴隷の家から贖いだされたと考えられ、彼らにとっては初子は二重にも三重にも、主なる神のものであり、主なる神から賜った大いなる恵みと信じられるようになったのです。そこから、初子を神にささげるという儀式が出エジプトの出来事と関連づけられて行われるようになったと考えられます。

 ルカによる福音書2章22節以下によれば、主イエスの両親であるヨセフとマリアは生後40日が過ぎてからエルサレム神殿で清めの儀式と初子奉献の儀式を行ったことが書かれています。22、23節にこのように書かれています。「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるために、エルサレム神殿に連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである」。おそらく、このとき両親は初子の贖い金として銀5シェケルを神殿にささげ、幼子主イエスを贖って、神から買い戻したのであろうと思われます。

 主イエスの両親は旧約聖書の律法に忠実に従いました。主イエスご自身もまたそうであられました。主イエスもまた、というよりは、主イエスこそが完全な意味で、神の律法を成就されました。主イエスの両親は贖い金を神にささげて、神から買い戻したのですが、しかし主イエスご自身はご自分の全存在、全生涯を父なる神のためにおささげになられ、そしてついにはそのご生涯の終わりには、実際にご自身の命をおささげになられたのです。死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神に従順であられ、わたしたち全人類の罪の贖いのために、ご自身の命を十字架におささげくださったのです。出エジプトのときに、出エジプトの救いの出来事との関連によって定められた初子奉献の律法は、完全な意味で主イエスによって成就されたのでした。

 主イエスのご両親の初子奉献の場面で、もう一つ教えられることは、両親が幼子主イエスを抱いてエルサレム神殿に入ったときに、預言者シメオンがその主イエスを自らの腕に抱いてこのように言ったと、ルカ福音書2章29節以下に書かれています。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民の誉れです」(29~32節)。預言者シメオンは神がお遣わしになるメシア・救い主に会うまでは決して死なないとの神からのお告げを受けていましたが、今このとき、彼は幼子主イエスの奉献のこの時に、その神の約束が成就されたことを悟り、それによって彼の長い待望のときが終わり、彼の人生が満たされたことを知ったのです。わたしたち人間の人生、歩み、命は、救い主・主イエスと出会うことによって、本当の意味で満たされるのです。

 出エジプト記に戻りましょう。14節にこのように書かれています。【14節】。これと同じようなみ言葉は、8節では除酵祭に関連して、【8節】、また12章26節では過越しの食事に関連して、語られています。【26節】(112ページ)。過越し祭、除酵祭、そして初子奉献、これらはみな出エジプトという神の偉大なる救いと解放のみわざを覚え、感謝する重要な祭りとしてイスラエルの家庭で受け継がれ、また信仰の継承と子どもたちの信仰教育の場として毎年続けられてきたのです。それがのちには、エルサレム神殿での祭儀、礼拝の中で継承されていきました。そして、主イエスの十字架と復活によって、全人類の救いと解放が成就されたのです。

 16節に、【16節】。同じようなみ言葉は除酵祭に関連して8節にもありました。【8節】。「腕に付けて」とは、手に墨で何かの文字やしるしを書いたのであろうと推測しています。「額に付けて」とは、頭に何かの飾りをつけてそれを目と目の間に垂らしていたらしいと推測されています。9節の「口ずさむ」とは文字どおり出エジプトに関する何らかの文章を口で唱えることです。このように、手と目と口によって、出エジプトの神の救いの恵みを絶えず忘れないために、何かを身に着けていたようです。のちには、主イエスの時代も、また今日のユダヤ人もそうですが、テフィリンと言われる聖書のみ言葉を書いた紙を収めた小さな箱にバンドを付けて、手や額に巻き付けるという習慣になりました。手を伸ばして何かをつかもうとするとき、手首に付けられている神のみ言葉を思い起こすため、目を動かして何かを見るとき、目の前に付けられている神のみ言葉を思い起こすため、また口を動かして何かを発言するとき、いつも口ずさんでいた神のみ言葉を思い起こすため、イスラエルの民はそのような工夫をしました。わたしたちもまた、わたしが何かをなすとき、何かを話す時、何かを考えるとき、あらゆる機会に神の救いのみ言葉を思い起こすために、神のみ言葉をいつも身近に置いておく訓練をし、神のみ言葉を思い起こすように心がけたいと願います。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉はわたしの足を導くともし火、わたしの道を照らす光です。どうか、いつもわたしたちにあなたの命のみ言葉を熱心に慕い求める信仰をお与えください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

10月5日説教「わたしたちの主イエス・キリスト」

2025年10月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:サムエル記下7章8~17節

    ローマの信徒への手紙1章1~7節

説教題:「わたしたちの主イエス・キリスト」

 使徒パウロがローマの信徒への手紙を執筆した主な動機の一つに、彼自身の自己紹介と彼が宣べ伝えていた主キリストの福音をローマの教会に知ってもらうことがありました。世界の中心都市であったローマに、パウロはまだ足を踏み入れたことがありませんでした。ローマの教会員との面識もほとんどありませんでした。パウロは当時、なんとかしてローマに行きたい。そこで福音を語りたい。それから、ローマを足掛かりにしてさらにその西の果てイスパニアまで伝道の範囲を広げたいとの切なる願いを持っていました(15章22節以下参照)。そこで、これから訪ねるローマの教会に自分のことを知ってほしい、いやそれ以上に、自分が携えていく主キリストの福音がどのようなものであるのかを、ぜひとも知ってほしい、その思いがこの手紙を執筆する動機になったのです。

 手紙の冒頭から、パウロのそのような、はやる思いをうかがい知ることができます。彼は当時の手紙の書式を破って、まず自分の名前を書いた後で次に相手の名前を書くべきところを、1節の「神の福音」という言葉を受けて、2節からすぐにもその神の福音について語りだしているのです。それが6節まで続きます。7節になってようやく、手紙の受取人であるローマの教会の名前が出てきます。2節から6節までの長い挿入文によって、パウロは手紙の本文で書くべき神の福音について、主イエス・キリストについて書いているのです。

 きょうは3節から4節を学ぶことにします。【3~4節】。「神の福音」、福音とは良い知らせ、幸いな善きおとずれという意味ですが、それは「御子に関するもの」であると、パウロは言います。神のみ子である主イエス・キリストが神の福音の中心であり、全内容であり、神の福音そのものであると言うのです。ここで重要なポイントは、福音とは神のみ子である主イエス・キリストという、一人の人格的な存在者に関するものであるということです。たとえば、何らかの真理とか、哲学や思想とかではなく、また、金とかダイヤモンドとかの物質でもなく、あるいはまた、ある種の世界観や人生観とかでもなく、主イエス・キリストという一人の人間となられた神のみ子であり、まことの神であり、まことの人であられる主イエス・キリスト、神がこの世にお遣わしになられた一人の救い主、主イエス・キリストこそが、福音の中心、全内容、福音そのものであるということです。

 これは神の福音と言われているように、神を起源とし、神からやってくるものです。この世のどこかで創り出されたものではありません。この世にも福音と呼ばれるものがあるでしょうが、パウロが今問題にしている福音は、この世のものでも人間の発見でもなく、天におられる全能の父なる神から与えられる福音なのです。したがってそれは、すべての人にとっての永遠の福音です。神が、罪に支配されているこの世をお見捨てにならず、神を見失っているこの世界をなおもみ心にかけてくださり、この地に住んでいるわたしたち一人一人を愛してくださり、罪から救い出すためにみ子を世にお遣わしになられた、このみ子の派遣こそが神の福音なのです。

 わたしたちは福音を求めて遠くへ出かける必要はありません。それを探すために天に上らなければならないのでもありません。あるいはまた、それを受け取るために、何らかの資格や努力が必要だということもありません。神ご自身が、天から降って来られ、この地に降りて来てくださったのです。そして、神ご自身がわたしたちに近づいて来てくださり、わたしたちを尋ね求め、見いだしてくださったのです。ここに神の福音の初めがあります。そして、すべての人がこの福音を聞くことができるように、神はわたしたちに聖書を与え、また教会をお建てくださり、わたしたちひとり一人を礼拝へとお招きくださったのです。

 3節後半から4節では、み子主イエス・キリストの肉による存在と、聖なる霊による存在という、全く性質が違った二つの存在が一つの人格の中に共存していることが語られます。まず、肉という言葉ですが、これは聖書では、弱くもろいもの、やがて朽ちていくほかないもの、それゆえに死と滅びから逃れることができない人間の性質全体を表現しています。神のみ子はこの人間の肉を身にまとわれたということです。神のみ子主イエス・キリストはわたしたち人間と全く同じ肉の姿となられ、肉の存在としてこの世にお生まれになり、この世界の中で、罪びとたちの歴史の中で、一人の紛れもない人間として生きられたのです。神が人間となられたということです。これを受肉と言います。

 ガラテヤの信徒への手紙4章4節にはこう書かれています。「時が満ちると、神は、御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」。また、ヘブライ人への手紙5章7節以下にはこうあります。「キリストは、肉において生きられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、ご自身に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」(7~10節)。このようにして、神のみ子主イエス・キリストはわたしたち人間を罪から救うために、わたしたち肉にある者たち、罪びとたちの一人となってくださったのです。

 「肉によればダビデの子孫から生まれ」とあります。マタイ福音書、ルカ福音書によれば、主イエスの父ヨセフはダビデの家系に属していました。ダビデ家のヨセフからお生まれになったということは、主イエスの誕生が旧約聖書の預言の成就であったことを語っています。サムエル記下7章に預言されているように、神はダビデ王に「あなたの家系から永遠の王が出るであろう」と約束されました。これをダビデ契約と言います。神は天地創造の初めから計画しておられた救いのみわざを、イスラエルの民の選びとダビデとの契約によって前進させ、ついに時満ちて、ダビデの子孫であるヨセフとマリアの子として、主イエスをこの世に誕生させました。それによって、ご自身の永遠の救のご計画を成就されたのです。主イエスは父なる神の永遠の救いのご計画の中で、肉となられ、まことの人となられ、クリスマスの日に誕生されました。そして、わたしたちのための救いを成就されたのです。

 「神の御子と定められた」とありますが、主イエスが復活によって始めて神のみ子になったということではありません。主イエスは永遠の始めから神のみ子でしたが、肉にある間は、そのことはいわば隠されていました。復活によって、神のみ子であることがはっきりと示されたという意味です。死から命を生み出される神の全能の力だけが、人間の罪と死とに勝利することができます。

 主イエスはこのように、全く違った二つの性質、二つの存在、肉にあるまことの人間としての存在と、神の霊によるまことの神としての存在、その二つの存在によって、わたしたちの救いを完全なものにしてくださったのです。主イエスはまことの人として、わたしたち人間の弱さや痛みのすべてを知っていてくださいます。そして、わたしたち罪びとたちの一人となってくださり、罪の重荷を担ってくださいました。

 しかしまた、主イエスはまことの神として、聖なる神の霊のみ力によって、肉なるものを打ち破り、罪と戦い、復活によって罪と死とに勝利されたのです。主イエスは人間としてのすべての試練や痛みを経験されたゆえに、試練や痛みの中にある人を思いやることができます。しかも、試練の中で父なる神の全き服従を貫かれて、十字架の死に至るまで従順であられることによって、罪と死とに勝利されたのです。それゆえにまた、試練の中にある人に勇気と希望を与え、試練に打ち勝つ力を与えることができるのです。

 4節の「死者の中からの復活」とある「死者」は複数形です。主イエスは死者たちの中から復活されたという意味です。十字架につけられ死なれた主イエスが三日目に復活されたということは、主イエスを信じるすべてのキリスト者たちの中から復活されたということであり、主イエスは罪のゆえに死すべきわたしたちすべての人間たちの、その代表として死なれたのであり、またその初穂として復活されたという意味です。主イエスの十字架の福音を信じるキリスト者にとっては、主イエスの復活はその初穂であり、またその保証なのです。わたしたちはまことの神でありまことの人であられる主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、罪ゆるされ、救われ、永遠の命の約束を与えられているのです。

 「この方が、わたしたちの主イエス・キリストである」とパウロは結んでいます。ここには、初代教会の最も初歩の信仰告白があると言われています。「わたしたちの主イエス・キリスト」とは、「イエスはわたしたちの主であり、キリストである」という文章をちぢめたものです。この信仰告白は新約聖書の中にたびたび出てきます。フィリピの信徒への手紙2章11節には「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べ伝えて、父である神をほめたたえる」とあります。「イエスはキリストであり主である」、これが信仰告白の原点であり、ここから発展して、『使徒信条』や宗教改革期の多くの信仰告白が作成され、またわたしたちの『日本キリスト教会信仰の告白』も制定されたのです。

 イエスは名前です。旧約聖書音ヘブライ語ではヨシア、ヨシュア、「神は救いである」という意味の、ユダヤ人に一般的な名前です。主イエスの場合、決定的に違う点は、神がこの名前の名付け親であるということ、また主イエスが生まれる前から神がこの名前を決めておられたということ、そして事実、神はこの主イエスによってご自身の救いのみわざを成就されたということです。

 キリストはヘブライ語ではメシア、油注がれた者という意味です。イスラエルでは、王や預言者、祭司がその職に任じられる際には頭からオリブ油を注がれました。主イエスは、まことの永遠の王として、また、まことの永遠の預言者として、そして、まことの永遠の祭司として、父なる神から託された全人類のための救いのお働きを完全に成し遂げられたメシア・キリスト・救い主であられます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはみ子、主イエス・キリストによってわたしたちのための救いのみわざを完全に成し遂げてくださいました。わたしたちはもはや罪の奴隷ではありません。死と滅びに支配されている者でもありません。あなたからの新しい命によって生かされ、来るべきみ国での永遠の命を信じます。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

9月28日説教「エルサレム使徒会議でのヤコブの証言」

2025年9月28(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:アモス書9章11~15節

    使徒言行録15章11~15節

説教題:「エルサレム使徒会議でのヤコブの証言」

 紀元48年、あるいは49年に開催されたエルサレム使徒会議は、世界最初の教会会議でした。初代教会の中で大きな問題であったユダヤ人キリスト者とユダヤ人以外の異邦人キリスト者との間にあった対立や信仰理解の違いが、この会議によって、両者が共通の理解を深め、一致を見いだし、初代教会のさらなる成長と発展のために大きな貢献をする役割を果たしたのでした。

 このエルサレム使徒会議は、古代・中世から今日に至るまでの世界教会会議の原点となりました。世界の教会はそれぞれの時代の異端的な間違った教えを排除し、また教会の共通の課題に取り組むために、世界教会会議(あるいは公会議とも言われますが)を開催し、会議によって問題を解決し、新たな課題に一致して取り組むということを続けてきました。第一回世界教会会議として今日位置づけられているのは紀元325年のニカイア会議です。第2回は381年のコンスタンティノープル会議、第3回が431年のエフェソ会議、第4回が451年のカルケドン会議などが重要です。これらの教会会議によって、今日わたしたちが一般に信じている、主キリストはまことの神であり同時にまことの人であるとか三位一体論とかのキリスト教の基本的な教理が確立されたのです。エルサレム使徒会議はその原点です。

 エルサレム使徒会議で取り上げられた問題は、15章1節に書かれていました。エルサレム教会に属するユダヤ人キリスト者は、もともとはユダヤ教で、神に選ばれた契約のしるしとして男子はみな割礼を受けていました。しかし、ユダヤ人ではない異邦人、ギリシャ人でキリスト者になった人たちは割礼を受けていませんし、ユダヤ人が古くから大切にしてきた律法の教えや慣習も知りません。そこで、エルサレム教会からやって来たユダヤ人キリスト者がアンティオキア教会のギリシャ人キリスト者に対して、「あなたがたも割礼を受けなければ救われない」と主張したことから、両者の間で激しい議論に発展し、その問題を解決するために両者がエルサレム教会に集まって会議を開くことになったというわけです。

 会議では、まずアンティオキア教会の議員であるパウロとバルナバが第一回世界伝道旅行で多くの異邦人・ギリシャ人が主イエス・キリストの福音を信じて救われたことを報告しました。しかし、それに対してエルサレム教会の議員であるユダヤ教ファリサ派からキリスト者になった人たちが、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張したと、5節に書かれていました。次に発言したのがエルサレム教会の指導者であるペトロでした。ペトロはかつて彼自身が経験した異邦人であるコルネリウス一族の回心の出来事(10章の詳しく書かれていた)を思い起こしながら、神は異邦人にもユダヤ人と同じように聖霊を注いで救いの道を開かれたことを証言しました。ペトロの証言の結論は11節に書かれています。【11節】。

 このペトロの発言によって、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間の激しい議論に終止符が打たれることになりました。12節にこう書かれています。【12節】。ペトロは当時エルサレム教会の指導的立場にありましたから、そのペトロの発言の重さは確かにあったと思われますが、これまでの対立と激しい議論に終止符を打つことになった要因は、発言者がペトロであったからというよりは、その発言の内容そのものであったと言うべきでしょう。天の父なる神が主イエス・キリストによって、ユダヤ人だけでなく異邦人をも、全世界のすべての人の救いのみわざを、今この時になしてくださった。人間の側の何らかの功績やわざによらず、神の側から差し出された一方的な恵みによって、すべての人をまことの救いへとお招きくださっておられる。その恵みの事実こそが、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の論争を終わらせたのです。

 ペトロの発言に続いて、アンティオキア教会からの議員であるバルナバとパウロが再び発言します。その内容については詳しく紹介されていませんが、わたしたちがすでに学んできた13章から14章に書かれていた第一回世界伝道旅行での数々の伝道の成果についてでした。しかし、それはパウロたちの業績では全くなく、ここでの主語は神です。「自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業」のことです。人間の側の割礼なしに、律法の行いなしに、ただ一方的に神の側から差し出された救いの恵みによって、異邦人もまた救いへと招き入れられたのです。すべては神のみわざです。

 次に、エルサレム教会の長老ヤコブが13節から発言します。あとで、19節以下の箇所で、会議のまとめのような発言をしていますので、このヤコブが会議の議長を務めていたと推測されています。

 ヤコブは主イエスの肉親の兄弟です。マルコによる福音書6章3節によれば、主イエスにはヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの4人の兄弟と姉妹も何人かいたと書かれています。また、使徒言行録1章14節によれば、主イエスの十字架のあと、主イエスの母マリアと兄弟たちが12弟子の群れに加わって、一緒に祈りながら、ペンテコステの日に聖霊が注がれるのを待っていたと書かれています。彼らは主イエスの十字架の死後になって、主イエスを救い主と信じる信仰へと導かれたのでした。そして、ヤコブはエルサレム教会の長老に選ばれ、ペトロのあとに教会の指導者となりました。神はこのようにして、主イエスの肉親である母マリアや兄弟たちにとってはおそらく耐え難い不幸でしかなかったであろう、長男であった主イエスの十字架の死という悲惨な出来事の中で、その悲劇の主人公であったマリアと兄弟たちをも、不思議な導きによって救いへと招き入れてくださり、エルサレム教会のよき働き人としてお用いになったという、驚くべき大きな救いの恵みを、わたしたちはここに見るのです。

 ヤコブの発言を聞きましょう。【13~14節】。シメオンとは、シモン・ペトロのエルサレム教会での呼び名でした。ヤコブはパウロの書簡から推測すれば、ずいぶんとユダヤ教的な古い伝統に縛られていた人であったと考えられていますが、そのヤコブであっても、ペトロが語ったコルネリウス一族がキリスト者となったという出来事の意味を認めないわけにはいきませんでした。さらに、彼は旧約聖書を引用して、そのように神の福音がユダヤ人から異邦人へと広げられていくことは、神が古くから預言者たちによって語っておられたことであるとつけ加えています。

 16節~18節は、旧約聖書アモス書9章11~12節およびイザヤ書45章21節のみ言葉です。【16~18節】。アモスは紀元前8世紀の預言者でした。彼はイスラエル王国がその罪のゆえに神の裁きを受けてやがて滅ぼされるであろうと預言しました。しかしまた同時に、アモスは神がそののち、ダビデ王国を回復し、残りの者たちを集め、それに異邦人をも増し加えて、新しい神の民として再建してくださると預言しました。ヤコブの理解によれば、ここで預言されているように、イスラエル・ダビデ王国の回復と異邦人も神の民に増し加えられるであろうというこの預言は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって成就したのだと言うのです。その神の全世界的な救いのみわざが、ペトロやパウロたち、また初代教会の宣教活動によって現実となって実現したのだと言うのです。しかも、そのことは神が天地万物を創造された初めの時から、神の永遠なるご計画であったのだとヤコブは語ります。旧約聖書で預言されていたことはすべて新約聖書において、主イエス・キリストによって、成就されたのです。

 神は初めにイスラエルの民をお選びになり、この民をとおして救いのみわざをなさいました。イスラエルの罪と背きによってイスラエル王国は滅びましたが、神はその切り株から新しい芽を生え出ださせ、一人のメシア・キリスト・救い主として、主イエス・キリストをお送りくださいました。この主キリストは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、すべての人の罪を担われ、すべての人の死の裁きをご自身で担われ、十字架で死んでくださいました。それによって、神はわたしたちすべての人の罪をおゆるしくださったのです。ユダヤ人だけでなく、異邦人も、全世界のすべての人の罪が、神のみ子の十字架の死によって贖われ、ゆるされています。

 そこで、会議の議長であるヤコブは19節でこのように結論づけます。【19節】。ユダヤ人キリスト者からなるエルサレム教会の指導者であったペトロの発言と同じように、ヤコブもまた、異邦人教会の指導者パウロとバルナバの主張を認め、異邦人の律法の重荷からの解放を宣言し、割礼の義務からも自由にしたのです。ユダヤ人も異邦人も、一方的に差し出された神の救いの恵みによって、その救いを信じる信仰によって救われるということを結論づけました。このエルサレム教会で決められたことは、今日全世界の教会での一致した理解になっています。

 20節以下に付則として追加されている決議については、なぜこれが付け加えられたのか、よくわかっていません。律法と割礼の義務から解放した異邦人に対して、なぜこのような規定が必要だったのか。ある意味で、これはパウロたち異邦人教会側がエルサレム教会に妥協したとも受け取れます。ユダヤ人は偶像礼拝を厳しく戒め、また血の中には命があって、その命は本来神のものであるという考えも強くありましたから、エルサレム教会としては、この点はどうしてもゆずれなかったからであろうと推測されています。

 20節の「偶像に備えて汚れた肉」とは、偶像に備えられた肉はその偶像の神々の汚れが染みついているので、それを食べることは偶像礼拝に参加したことになるとして、ユダヤ人は決して食べませんでした。「みだらな行い」とは、レビ記18章などで禁じられている近親相姦のことです。また「絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように」とは、先ほど言いましたように、血をそのまま食べることは神を冒涜することになるとユダヤ人は考えたからです。初代教会では、偶像にささげられた肉を食べてよいかどうかや近親相姦などの問題があったということが、パウロの書簡から知ることができます。エルサレム教会会議ですべてが解決されたわけではありませんでしたが、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が一つの教会の群れを共に形成するという道が開かれたことは、初代教会の成長、発展にとって大きな役割を果たしたことは間違いありません。ここにも、神の尊いお導きがあったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちはあなたの救いの恵みを受け取るに値しない神を知らない者たちであり、罪多い者たちでありましたが、あなたの大きな憐れみと愛によって救いへと招かれておりますことを、心から感謝いたします。どうか、世界のすべての人たちにこの救いの恵みが与えられますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

9月21日説教「まことの光に照らされている人」

2025年9月21(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編119編106~112節

    ルカによる福音書11章33~36節

説教題:「まことの光に照らされている人」

 ルカによる福音書11章33節からの説教の中で、主イエスは「ともし火」と「光」をたとえにして語っておられます。「ともし火」はランプのことです。「光」そのランプが照らしている光のことです。きょうの聖書の箇所を正しく、また深く学ぶために、まず聖書全体に目を向けてみましょう。

 聖書では、ともし火や光という言葉は、非常に印象的に、また数多く用いられています。聖書辞典で調べてみると、ともし火という言葉は新約聖書で20数回用いられていますが、そのほとんどは主イエスの説教です。光の方は旧約・新約聖書で250回ほど用いられています。太陽の光とか、ランプの光のように、光を発する物を指す場合と、何らかの比喩や象徴として用いられている場合もあります。

 古代の人々にとって、ともし火や光は、今日のわたしたち以上に強い印象を与えたであろうということは、容易に推測できます。今日のわたしたちは電気で作られた人工的な光に囲まれており、いつでもスイッチをひねれば、すぐに周囲全体が明るくなります。光のありがたさとか大切さ、またその働きの大きさに気づくことはあまりありません。光がない世界の暗さとか、その恐怖とか戸惑いとかを強く意識することもありません。それに比べて、夜の暗闇を照らす光として、ランプやたいまつしかなかった古代の人々にとって、光はわたしたち以上に印象深く、強いイメージを与えたと思われます。

 まず、聖書の最初のページには、創世記1章3節に、神が最初に創造された特別な光について書かれています。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」神は天地万物を創造された時、第一日目に光を創造されました。この光は太陽とか月星の光とは違います。太陽や月が創造されるのは第四日目になってからです。第一に目に創造されはこの光は、特別な光であって、すべての光の根源のようなものであり、この光の中で、第二日目以降の天地万物が創造されるので、この光がなければ何ものも存在することができないような、すべての存在している被造物の、その存在を根底から支えているような、そのような光のことです。

 聖書は、そのような特別な光を考えているのです。神が第一日目に創造されたこの光がなければ、何物も存在することができない、生きることも、動くことも、歴史や歩みを刻むこともできない、そのようなすべての存在と命と歩みとを可能にしている光、それを支えている光、それを導いている光、そのような特別な光を、聖書は考えているのです。

 詩編119編105節に、印象深いみ言葉があります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす光」。ここでは、光は比喩として用いられていますが、ここでも創世記1章3節の特別な光が暗示されているように思います。神のみ言葉の光なしでは、わたしは安全な道を、正しい道を、まことの命に至る道を歩むことはできないと、この詩人は告白しているのです。

 もう一つ、わたしたちがよく知っている新約聖書のみ言葉は、ヨハネ福音書1章です。「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(4~5節)。そして、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(9節)。ヨハネ福音書は、言(ことば)、命、光という言葉によって、クリスマスの日に誕生された主イエスご自身と、その主イエスによってこの世界のすべての人もたらされる命と救いを語っているのです。主イエスこそが天地創造の初めからおられた神の言葉であり、その神の言葉によって与えられるまことの光であり、またその光によってすべての人の存在と命とが支えられ、導かれ、救いへと招き入れられる、そのような光であるとヨハネ福音書は語っているのです。

 以上、光につて教えている聖書の箇所を見てきたことから明らかなように、きょうの主イエスの説教で語られているともし火、光は、主イエスご自身のことであり、また主イエスが宣べ伝えておられる神の国の福音のことを指しているということを、まず確認しておくことが重要です。

 では、33節から読んでいきましょう。【33節】。ともし火、ランプは部屋を照らす光です。当時の家は、たいてい一部屋で、小さな窓があり、一つのランプで部屋全体を照らします。夜の家の中はランプがなければ真っ暗で、何も見えません。

 33節と同じような表現は、すでに8章16節にもありました。また、マタイ福音書5章13節以下では、光とともし火は、世にあってキリスト者として生きているあなたがたの生き方を教える比喩として用いられています。その箇所を読んでみましょう。【14~16節】(6ページ)。わたしたちキリスト者は、すでに罪ゆるされ、救われている者たちとして、いまだ罪の支配の中にあるこの世の暗闇の中で、主イエス・キリストの光を反射して、光の存在として生きるように招かれているということが、ここでは教えられています。

 それに対して、ルカ福音書11章では、前からの続きから判断すると、33節のともし火は、キリスト者の信仰生活を指すというよりは、主イエスご自身を、あるいは主イエスが語られた福音を指していると考えられます。29節以下との関連を見てみましょう。主イエスはユダヤ人が目に見えるしるしを求めていることを嘆いて、あなたがたユダヤ人の不信仰を、異邦人でありながらヨナの説教によって悔い改めたニネベの人たちが裁くであろうと言われました。そして、今の時代にはヨナのしるし以外には与えられないと言われました。ヨナのしるしとは、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいて、三日目にそこから出てきたように、主イエスが十字架で死に、墓に葬られ、三日目に墓の中から出てきて復活されるというしるしのことで、この十字架と復活の福音を聞いて信じ、罪を悔い改めることによってこそ、あなた方は救われるのだと主イエスは説教されたのです。

 けれども、彼らユダヤ人は主イエスを信じませんでした。主イエスが語られた神の国の福音を信じませんでした。それに対して、33節のみ言葉が語られたのです。【33節】。暗い罪の世を照らすまことの光として世に来られた主イエス、また主イエスが語られた神の国の福音、そして主イエスの十字架の死と復活の福音、それは家全体を明るく照らすともし火である。イスラエルの民と全世界のすべての人を照らし、罪から救う光である。そうであるのに、そのともし火を穴倉の中や升の下に閉じ込めて、その光を覆い隠してしまうとは、なんと愚かなことか。なんとかたくなで罪深いことか。これが、33節の意味です。

イスラエルの民ユダヤ人が神の愛によって選ばれているのは、またわたしたちがこの世から選び出され、教会の民とされているのは、救い主、主イエスの光を高く掲げ、主イエスの福音の光をすべての人に見えるようにし、この世を照らすまことの光を証しするためなのです。

そうすると、ルカ福音書11章33節とマタイ福音書5章13節以下の「地の塩、世の光」についての主イエスの説教とは、本質的には同じことを語っているということが分かります。ルカでは、ともし火と光は主イエスご自身と主イエスの福音を表す比喩として用いられ、またマタイ福音書ではわたしたちキリスト者を表す比喩として用いられていますが、わたしたちキリスト者が世の光として輝くのは、わたしたち自身が持っている何らかの能力とか資質とかによるのではなく、まことの光である主イエスに照らされ、その主イエスの光を、いわば反射して輝くのですから、ルカ福音書とマタイ福音書は、本質的には同じ内容を語っていると言えます。

次に、34節からは、まことの光である主イエスによって照らされているわたしたちキリスト者の在り方が、同じようにともし火と光の比喩を用いて語られています。【34~36節】。目は、そこから光が入ってくる入り口です。目から光が入ってくることによって、あたかも全身が明るくなったように感じます。目を閉じたり目隠しをしていれば、光があっても、その光は体の中には届かず、全身が暗くなったように感じます。

主イエスは、「あなたの目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」と言われます。澄んだ目とは、光をまっすぐにとらえ、自分の体の中に受け入れる目のことです。光が照らしていても、その光から目をそらしたり、光とは反対の方向を向いていては、澄んだ目を持っているとは言えませんし、全身も明るくなりません。澄んだ目とは、まことの光であり、救いと命の光である主イエスと出会い、その福音を従順な心で聞き、受け入れ、信じることを言うのです。

そのような澄んだ目で主イエスの福音の光を受け入れるならば、それによって、その人の全身が明るくなると36節で語られています。まことの光である主イエスによって、その人の全身が明るく照らされるのです。その人は、まことの光の中に招き入れられ、まことの光に包まれたようになるのです。それが、わたしたちキリスト者であると主イエスは言われます。また、パウロはそのようなキリスト者のことを、ガラテヤの信徒への手紙2章20節で、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておらるのだ」と言っています。そこから、わたしたちキリスト者の新しい信仰生活が始まります。

その新しい信仰生活を、きょうの箇所から二つにまとめてみましょう。一つは、わたしたちがまことの光である主イエスによって照らされるなら、わたしたちの中にあった闇が追い払われ、主イエスの光を反射して生きる者とされるということです。主イエスの十字架と復活の福音によって罪ゆるされている者として、その罪のゆるしの恵みに感謝して生きる者とされるのです。主イエスは「あなたがたはこの世の光である」と言われました。コリントの信徒への手紙二2章15節では、キリスト者は主キリストによって神にささげられた良い香りであると言われています。わたしたちキリスト者は、主イエスの光を反射し、主イエスの香りを放つ存在とされているのです。

 第二には、そのようにして、まことの光によって照らされているキリスト者は、この世を支配している闇に対して信仰によって戦いをいどみ、絶えず襲ってくる罪の誘惑と戦いつつ、ついにはそれに勝利する約束に生きるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを罪と悪が支配するこの邪悪な世から守ってください。あなたのみ心を行う信仰者としてください。そして、ついにはあなたのみ国が勝利することを信じさせてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。