6月19日説教「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

2022年6月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ホセア書6章1~3節

    コリントの信徒への手紙一15章12~28節

説教題:「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは前回に引き続いて、「復活して永遠の命の保証を与え」という告白について学びます。前回は、主イエスご自身の復活の出来事を中心に学びましたが、きょうは、主イエスの復活がわたしたち信仰者に永遠の命の保証を与えるということについて、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 前回にも指摘したことですが、『日本キリスト教会信仰の告白』の「前文」と後半の『使徒信条』とを比較してみると、『使徒信条』では第二項目の「わたしは主イエス・キリストを信じます」の中で主イエスの十字架と復活のことが告白されており、第3項目の「わたしは聖霊を信じます」の中で、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちのことが告白されています。それに対して、「前文」ではその二つの項目が一続きで告白されています。

 つまり、主イエス・キリストが人類の罪のため、すなわち、わたしたちの罪のために十字架につけられ、それによって完全な犠牲をささげてくださった、そのことがわたしたちのための罪からの贖いであったということが、同じ一つの文章の中で告白されており、主イエスの復活もそれと同じです。主イエスの復活がわたしたち信仰者に永遠の命の保証を与えるものであるということが、「復活して永遠のいのちの保証を与え」と、二つのことがあたかも一つのことであるかのように告白されています。これほどまでに、主イエスの救いのみわざとわたしたちに与えられる恵みとが密接に、また堅く、結合していることが「前文」では強調されているのです。

これは、主イエスのご生涯とそのみわざのすべてが、わたしたちのためであったことと関連しているのは言うまでもありません。主イエスの誕生、ご生涯、奇跡やいやしのみわざ、弟子たちに語られた説教、そしてご受難、十字架の死、三日目の復活、40日目の昇天、それらのすべては、わたしたち人間の罪のゆるしと救いのため、わたしたちのからだの復活のため、わたしたちの永遠の命のため、わたしたちの救いの完成のためだったのです。主イエスのご生涯全体とわたしたち信仰者の救いの恵みとは密接に結びついているのです。

 では、主イエスの復活の出来事とわたしたち信仰者の永遠の命の保証とは、どのように結ぶついているのか、その関連について聖書はどのように教えているのかをみていきましょう。

 福音書の中には、主イエスの復活とわたしたちの命の保証とが直接に関連づけられている聖句はありません。福音書は主イエスの復活の出来事で終わっているからです。主イエスの復活と聖霊降臨後、教会が誕生し、パウロの書簡になって初めて両者の関連が頻繁に語られます。では、それはパウロの信仰、パウロが考え出した神学と言うべきなのでしょうか。いや、そうではありません。主イエスの復活の出来事以前に、主イエスご自身の信仰の中にはっきりとあったということを、わたしたちは福音書の中に確認することができます。主イエスは弟子たちに繰り返して説教されました。「わたしを信じ、わたしに従ってくる人は、まことの命を得るであろう。その人は、来るべき神の国では永遠の命を受け継ぐであろう」と。

 特に、ヨハネによる福音書では、主イエスを信じる信仰と永遠の命の結びつきが強調されています。3章16節にこのように書かれています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。また、【6章39~40節】(175ページ)。さらに、【11章25~26節】(189ページ)。

 これらは、主イエスがご自身の復活と、信仰者に与えられるであろう永遠の命を預言したみ言葉として読むことができます。主イエスはご自身の十字架の死と三日目の復活をあらかじめ弟子たちに予告されただけでなく、復活されたあとに弟子たちと信じる者たちすべてに、朽ちることのない、死によっても終わることがない、永遠の命をお与えになることをもあらかじめ約束しておられました。

 では次に、パウロの書簡を見ていきましょう。パウロの書簡では、主イエスの復活と信仰者に約束されている永遠の命とが、別々に語られるという例はほとんどなく、両者の結びつきが多くの箇所で強調されています。その代表的な個所が、きょうの礼拝で朗読されたコリントの信徒への手紙一15章です。この章全体が「復活の章」と言われていますが、ここでは主イエスの復活の出来事とそれを信じる信仰者の体の復活、永遠の命が密接に関連していること、切り離すことができないことが繰り返して語られています。

 パウロはまず3節から、彼自身が初代教会から受け継いだ信仰告白の中で、主イエスの復活と、復活された主イエスの顕現について語り、さらにはパウロ自身にも復活の主イエスが出会ってくださったことを感謝と驚きとをもって語った後で、12節以下では、主イエスの復活を信じながら、信仰者の復活はないと主張しているコリント教会の一部の人たちの誤った信仰を正すために、次のように語ります。「主イエスの復活と信仰者の体の復活とは分かちがたく結びついているのであるから、もし信仰者の体の復活を否定するなら、主イエスの復活をも否定することになるのであって、それはキリスト教会の信仰と宣教の基礎を失うことになるではないか」と、彼は熱っぽく語ります。したがって、ここでは当然、主イエスの復活と信仰者の体の復活、永遠の命との固い結びつきが強調されていることが分かります。

 もう1箇所、ローマの信徒への手紙6章を読んでみましょう。【3~8節】(280ページ)。ここでは、主イエスの死と復活が、わたしたち信仰者が古い罪の体に死に、新しい復活の命に生きること、つまり主イエスの出来事とわたしたちの信仰の体験、その二つのことが洗礼という礼典において同時に起こっていると語られています。ここでも、主イエスの復活と信仰者の永遠の命とが固く結ばれています。

 では次に、そのような両者の固い結びつきはどこから来るのでしょうか。そのことを語っている箇所を読んでみましょう。【ローマ8章11節】(284ページ)。ここでは、主イエスを死人の中から復活させられた父なる神が、またその父なる神から遣わされた霊、聖霊によって、わたしたち信仰者にもまことの命を、死に勝利した永遠の命をお与えくださるであろうと言われています。主イエスの復活とわたしたち信仰者の復活、永遠の命とを固く結びつけているのは、主イエスを死人の中から復活させられた父なる神の力であり、また聖霊なる神なのです。主イエスご自身の復活の中に、わたしたち信仰者の復活と永遠の命の約束と保証がすでに含まれていると言ってよいでしょう。主イエスはわたしたち滅びゆく者たちに永遠の命を約束するために、死の墓から三日目に復活されたのです。『日本キリスト教会信仰の告白』で「主イエスは復活して、永遠の命の保証を与え」と告白されているのは、そのことです。

 『信仰告白』の中の「保証を与え」とは、まだそれは実際には与えられていないが、やがて必ずや与えられるという確かな保証があるということを意味しています。。再び、コリントの信徒への手紙一15章に戻りましょう。20節にはこう書かれています。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。「初穂」とは、麦や野菜、果物などの最初の実りのことです。イスラエルの民は初穂を自分たちの食用にしないで、神にささげました。初穂は神からの恵みの賜物だからです。その初穂には間違いなく次の収穫が続くことを神は約束しておられます。主イエスの復活には間違いなく信じる者たちの復活が続きます。復活の初穂である主イエスの復活は、わたしたち信仰者の復活の確かな保証なのです。

 20節の「死者の中から」と「眠りについた人たち」はいずれも複数形です。主イエスお一人だけを言うのではありません。主イエスは、罪のゆえに死すべきすべての罪びとたちの中に入ってきてくださり、そのお一人となって十字架で死んでくださいました。また、主イエスは主イエスの復活を信じるすべての信仰者の代表者として、死に勝利され、復活されました。それによって、わたしたちに復活と永遠の命の確かな保証をお与えくださったのです。

 この確かな約束と保証は、終わりの時、神の国が完成し、主イエスが神の国の王として君臨され、最後の敵である死を完全に滅ぼされる時に、実現します。しかし、主イエスの復活を信じる信仰者にとっては、主イエスがすでにご自身の十字架の死と復活によって、罪と死とに対して勝利しておられることを知らされているゆえに、そして聖霊によって、復活と永遠の命の確かな保証を与えてくださっておられるゆえに、主イエスを信じる信仰者にとっては、今すでにその永遠の命に生き始めていると言えるのです。

 永遠の命とは何かということを確認しておきましょう。わたしたちはこれまでに何度も聖書のみ言葉から学んできたように、永遠の命とはこの世にある今の命が永続するということではありません。今の命は、どれほどに引き延ばしたとしても、それはいずれか滅びなければならない命です。聖書が教える永遠の命とは、この世の命の延長ではなく、全く新しく主イエス・キリストから与えられる命であり、復活され、今も、そしていつまでも生きておられる主イエス・キリストと共にある命であり、父なる神との永遠の交わりの中で生きる命のことです。主イエスがマタイによる福音書28章20節で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されたみ言葉を信じる信仰者に与えられる命のことです。

 第二には、それは死を乗り越えた命のことです。あえて言うならば、死から始まる命のことです。主イエス・キリストの十字架と共に、古い罪に支配されていたわたしが死に、主イエスの復活によってわたしが新しい命に生かされる命であり、主イエスによって罪ゆるされた命のことです。

 第三に、それは、この世に属する命ではなく、来るべき神の国に属する命のことです。ヨハネの黙示録21章3~4節でこのように語られている命です。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。主イエス・キリストの復活を信じるわたしたちは、この永遠の命へと招き入れられているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが朽ち果てる命のためのパンだけによって生きるのではなく、永遠の命へと至らせるあなたのみ言葉を信じて生きる者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月12日説教「ステファノの説教(三)モーセの召命」

2022年6月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記3章1~15節

    使徒言行録7章23~35節

説教題:「ステファノの説教(三) モーセの召命」

 使徒言行録はペンテコステの日に誕生した初代教会の歴史を描いています。先週の日曜日が、そのペンテコステ、弟子たちに聖霊が注がれて教会が誕生した日の礼拝でした。主イエスの誕生が紀元1年とすると、ペンテコステは紀元30年代前半の今ごろの季節になります。エルサレムに誕生した教会は、その後数十年の間に急激にパレスチナから小アジア地方、ヨーロッパ、当時の世界の中心都市ローマと、さらにその西当時世界の果てと言われていたスペインに、そしてやがて全世界へと拡大され、今日に至るまで継続されています。世界の教会の歴史はおよそ2000年、秋田教会の歴史はそのうちの近年130年間が重なっていることになります。

 使徒言行録7章に書かれているステファノの説教は、主イエスの時からさらにさかのぼり、紀元前19世紀ころのアブラハム、イサク、ヤコブの族長時代から始まって、きょうの礼拝で朗読された23節からはモーセが40歳になって、神の召命を受けてイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出す指導者として立てられることが語られています。これは、紀元前1280年ころと考えられています。

神がアブラハムとモーセをお選びになって、イスラエルの民をご自身の契約の民とされ、神の救いのみわざをお始めになったときから数えると、およそ4千年間の神の救いの歴史の中に、わたしたち秋田教会の130年の歴史が位置付けられるということになります。きょうの使徒言行録のステファノの説教を学ぶにあたって、そのような神の永遠なる救いのご計画の中にわたしたち秋田教会もまた連なっている、その中に招き入れられているということを、まず最初に覚え、そのことを神に感謝したいと思います。

 ステファノはキリスト教会最初の殉教者となった人です。7章の長い説教、これは実はユダヤ最高法院での裁判の席で被告席に立たされた彼の弁明なのですが、その説教が終わったあとすぐに、58節で彼は石打の刑で処刑されました。この説教が、彼の殉教の死直前の説教であり、彼の説教の内容そのものが殉教の死を招く直接的な原因になったのであり、これはまさに彼の命をかけた説教であり、殉教の血に直結する説教であるということを考えると、わたしたちは身の引き締まる真剣な思いとならざるを得ません。

 23節からは、モーセが40歳になってからのことが語られます。ステファノはモーセの120年の生涯を3つに区切り、誕生からエジプト王宮で育てられ、エジプトの教育を教え込まれた40年間(17~22節)と、エジプトで同胞の民イスラエル人が虐待されている現実を目撃し、事件を起こしてミディアン地方に身を隠していた40年間(23~29節)、そして出エジプトから荒れ野の40年間の旅(30節以下)にまとめています。

 23節の「40歳になったとき」と30節の「40年たったとき」は、いずれも原典のギリシャ語を直訳すると、「彼の40年間が満ちたとき」となります。ここには、神がモーセの生涯のそれぞれの40年の期間を、神が計画しておられた救いの期間と理解し、それぞれの救いの期間が神によって満たされたという理解があるように思われます。23節と30節は、17節に連続しているからです。

【17節】。モーセは生まれてすぐにファラオの命令によってナイル川に捨てられましたが、神の奇跡によって、ファラオの娘に救い上げられ、王宮で育てられ、エジプトの最高の教育を受けたこと、そこには神の見えざるみ手の働きがあったということ。エジプト人として育てられたモーセであったが、彼は決してエジプト人になったのではなく、神に選ばれた民、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫として、神の契約の民イスラエルに連なるモーセとして、彼をとおしてなされるであろう神の救いのご計画は、この期間も着実に前進していたのだということ、そのことを17節は語っているように思われます。

そして、次の40年間も、その次の40年間も、モーセに対する神の救いのご計画が満ちる期間となることが23節と30節に予告されているのです。では、23節を読みましょう。【23節】。それは彼自身の願いというよりは、25節にあるように、「自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられる」とモーセが信じたからです。けれども、モーセも、また彼の同胞のイスラエル人も、この時点ではまだ神の本当の救いのご計画を悟ってはいませんでした。モーセは、奴隷として苦しめられていた同胞を見て、相手のエジプト人を殺すことによって同胞の民を解放できると考えていました。しかし、暴力に対して暴力をもってしても、そこには本当の救いはありません。彼が神の救いのみ心を正しく知るためには、なおしばらくの訓練の期間が必要です。

また同胞のイスラエル人は、エジプト王宮で育ったモーセを自分たちの同胞だとは認めていなかったようです。神がモーセを用いてイスラエルの民をお救いになるということは、彼らにはまだ理解されてはいませんでした。彼らはこう言ってモーセを非難しています。「だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか」(27、28節)。モーセは奴隷として苦しめられていた同胞の民を救うためにエジプト人を殺したのに、そのことが同胞のイスラエル人には理解されず、受け入れられませんでした。イスラエル人がモーセを神から遣わされた自分たちの指導者として認めるためには、なおしばらくの期間が必要になります。

モーセはファラオに命をねらわれていることを知り、シナイ半島の西、ミディアン地方に逃れ、その地で祭司の職にあったエトロのもとに身を寄せ、彼の娘ツィポラと結婚をし、二人の子どもの父親となりました。ミディアン地方でのモーセのことについては出エジプト記でも詳しくは書いていませんが、この期間は彼にとっては信仰の訓練の期間であったと推測されます。また、神の召命のみ声を聞くときまでの待機の期間でもありました。神がこの第二の40年間という期間を満たしてくださるまで、モーセは信じて待ち望む必要があったのです。

次に、30~34節を読みましょう。【30~34節】。モーセがシナイの荒れ野で見た幻は「燃える柴の幻」と言われます。ステパノはその詳細を語っていませんが、柴が燃えているのにいつまでも燃え尽きることがないという不思議な幻でした。この幻は、イスラエルの民がエジプトで苦難を受け、虐待され、迫害されても、神の民であるイスラエルは決して滅亡することないということのしるしであり、また同時に、ご自身の民に対する神の情熱と愛はいつまでも変わることなく、永遠に燃え続けるということのしるしでもありました。

モーセはこの幻を見て励まされ、新たな力を与えられ、忘れかけていたエジプトにいる同胞イスラエル人を助けるという彼の使命を再び思い起こしたのでした。そして、燃える柴の中から、今度ははっきりと神のみ声を聞きました。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサク、ヤコブの神である」と。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言い方は、旧約聖書でも新約聖書でも、何度も繰り返されています。この表現には二つの大きな意味があります。一つには、神が最初にアブラハムを選ばれ、彼と結ばれた契約は、その子イサク、その子ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたち、イスラエルの民へと受け継がれ、さらにその契約は、主イエス・キリストによって全世界の教会へと受け継がれていくのであって、神の選びと契約は永遠に変わらないということが言い表されているのです。

もう一つは、本来はこちらが本質なのですが、神はアブラハムの神であり、その子イサクの神であり、ヤコブの神、イスラエルの神、主イエス・キリストの父なる神であり、教会の神であり、そしてわたしたち一人一人の神である、そのように、神は永遠なる神であり、神の愛と義と真理とは永遠に変わらず、神の救いのみわざはどのような時代の変化や状況の変化にも変わることなく、永遠に継続されていくという意味です。

使徒言行録で語られているステファノの説教の文脈で考えるならば、神が最初アブラハムに語られた契約、「わたしはお前を祝福する。お前はすべて信じる人々の祝福の基となる。わたしはお前の子孫を星の数ほどに、海の砂の数ほどに増やす。またわたしはお前とお前の子孫とにこの約束の地を嗣業として与え、神の国を受け継がせる」、この神の契約は、イスラエルの民が400年間エジプトに寄留し、そこで奴隷として虐待され、苦しめられていても、決して神はお忘れにはならない。神はエジプトで奴隷の民とされたイスラエルの神であり続け、イスラエルの民と結ばれた契約は彼らの苦難の中にあっても決して破棄されることはない。その契約は確かな成就に向かっている。神は燃える柴の中からモーセにそのようにお語りになったのです。

神はイスラエルの民の苦難をご覧になっておられ、彼らの苦悩の叫びを聞かれ、それゆえに、天におられる神が地に降って来られ、直接にご自身のみ手をもって彼らをお救いになると言われます。そのために、モーセを遣わすと言われます。ここに至って、モーセはイスラエルの民に対する神の救いのみ旨をはっきりと知らされ、同胞の民を助けたいとの彼の願いが、彼自身の願いである以上に、神の願いであり、神の強い意志であり、永遠に変わることのない神の愛と義と真理とによる救いのご計画であるということを悟るのです。ここではっきりとモーセの召命、神による招きが語られます。彼は同胞の民イスラエルの指導者として立てられます。召命には派遣が伴います。モーセはエジプトへと遣わされます。エジプト王国を支配している絶対的権力者であるファラオのもとへと遣わされます。奴隷として苦しむイスラエルの民の解放者として派遣されるのです。

最後の35節を読みましょう。【35節】。ステファノが旧約聖書の偉大な指導者モーセについて語っているのは、単に出エジプト記に記されている古い歴史をたどっているのではありません。わたしたちはここで、モーセの最初の40年間の生涯と次の40年間の生涯に、ステファノが主イエスのご生涯を重ね合わせている、ここに主イエスの預言を見ている、そして主イエスの預言が今成就していることを見ているのだ、ということに気づかされるのです。

主イエスの誕生とモーセの誕生とが重なります。エジプト王ファラオの迫害の中でモーセは誕生しました。主イエスはヘロデ大王とローマ帝国の弾圧の中で誕生しました。モーセはイスラエルの民が奴隷として苦しめられている中に派遣されました。主イエスは信仰の命を失いかけていたイスラエルの民の中へ、世界に罪が満ち、暗黒に支配されていた中へ、すべての人を罪から救うメシア・救い主として派遣されました。モーセは同胞の民には理解されず、排斥されたにもかかわらず、神に選ばれ、神に立てられ、神に派遣されました。主イエスはご自分の民ユダヤ人には受け入れられず、この世では見捨てられ、ただお一人苦難の道を歩まれ、十字架につけられ、そのようにして神の救いのみ心を成就されました。神の救いは、あらゆる人間の罪や過ち、神への無理解や抵抗にもかかわらず、今この時も前進していくのだということをわたしたちは信じるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちはあなたのみ前にあって、かたくなであり、無知であり、悟るに鈍くあり、悔い改めるに遅くあり、信仰の薄い者であることを告白せざるを得ません。主よ、どうぞわたしたちを憐れんでください。わたしたちをお救いください。わたしたちがあなたの愛と義と真理とによって生きる者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月5日説教「真理の霊によって生きる教会」

2022年6月5日(日) 秋田教会ペンテコステ礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エゼキエル書33章12~20節

    ヨハネによる福音書14章15~31節

説教題:「真理の霊によって生きる教会」

 ペンテコステは本来ギリシャ語で五十番目という意味を持ちますが、ユダヤ教の五十日目の祭り、五旬節を指すようになりました。この祭りはユダヤ人にとっての三大祭りの一つであり、旧約聖書では、七週の祭り、仮り入れの祭りと呼ばれていました。過ぎ越しの祭りから50日目に祝う祭りであり、刈り入れた麦の初穂を神にささげる祭りでした。ちなみに、ユダヤ人の三大祭りとは、過ぎ越しの祭りと五旬節・ペンテコステ、それに秋のぶどうの収穫を祝う仮庵の祭りであり、すべてのイスラエルの民はこの三大祭りの時にはエルサレムの神殿で神を礼拝しなければならないと律法に定められていました。

 主イエスご自身もガリラヤ地方を中心にした福音宣教の3年間の活動の間に、毎年過ぎ越しの祭りにはエルサレムの神殿で礼拝されたことが福音書に書かれています。そして、おそらくは3回目が最後のエルサレム訪問であったと思われますが、その週の木曜日の夕方には弟子たちと最後の晩餐を囲まれました。共観福音書ではそれがユダヤ教の過ぎ越しの食事であったと伝えています。翌日の金曜日には、主イエスはユダヤ最高法院での裁判を受け、十字架刑に処せられました。

 ユダヤ教の祭りで刈り入れの祭りが過ぎ越しの祭りが終わってから50日後の祭りと言われ、二つが関連付けられていることには理由がありました。過ぎ越しの祭りは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から神の強いみ手によって導き出され、救われたことを神に感謝する祭りであり、50日目の刈り入れの祭りは、救われたイスラエルの民が神の約束の地に入り、その地で種をまき、その初穂を神にささげて、収穫を感謝する祭りであったのです。神によって奴隷の家から救われた民には、豊かな収穫が約束されているのであり、彼らはその収穫を刈り取ることをゆるされているのであり、その感謝のささげものによっていよいよ神による救いの恵みを確かにするのです。

 新約聖書において、主イエスの十字架による罪のゆるしの恵みと、その後50日目のペンテコステの日の聖霊降臨もまた同じような関連性があります。主イエスの十字架と復活の恵みが、具体的に豊かな実りをもたらし、救われた人間の魂を収穫するために主なる神が弟子たちに聖霊を注いでくださり、彼らが語った命の言葉を信じ、救われる人たちの群れを誕生させてくださったのです。聖霊によって命と救いのみ言葉を語り、聖霊によって信じ、救われる人たちの群れである教会を誕生させてくださったのです。ペンテコステの日に聖霊によって誕生した教会は、聖霊によってさらに新たな実りを与えられ、聖霊によって生き続けます。

 ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれ、教会が誕生したことは、ある日に偶然に起こった出来事ではありません。過ぎ越しの祭りと麦の初穂をささげる五旬節とが関連付けられてるだけでなく、聖霊降臨は古くから旧約聖書で預言されていた神の救いのご計画であったのであり、そして、それはまた主イエスご自身があらかじめ弟子たちに約束しておられた出来事でもありました。

 旧約聖書の預言の方から見ていきましょう。ペンテコステの日のペトロの説教でそのことが語られています。その個所を読んでみましょう。【使徒言行録2章16~21節】(215ページ)。信じる人々の上に聖霊が注がれ、聖霊のみ力に満たされてすべての人が神のみ言葉の証人となり、すべての人が主イエス・キリストのみ名によって救われるようになるのは、預言者ヨエルが旧約聖書で預言していたように、神の永遠の救いのご計画によることなのです。その預言がペンテコステの日に成就したのです。神の永遠の救いのご計画は終わりの日に神の国が完成される時まで継続されます。

 主イエスが弟子たちに聖霊を注ぐ約束をされたことについては、ヨハネによる福音書に詳しく語られていますが、共観福音書でもそのことが暗示されています。まず、マタイ福音書28章19~20節を読んでみましょう。【19~20節】(60ページ)。父なる神、子なる神・主イエス・キリスト、そして聖霊なる神という三位一体なる神のみ名によって洗礼を受け、救われる人たちの群れである教会が全世界に誕生することが、ここですでに主イエスご自身のお言葉によって暗示されています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とのお約束も、聖霊のお働きを暗示しています。

次に、ルカ福音書24章45節以下を読んでみましょう。【45~49節】(161ページ)。49節の「父が約束されたものをあなたがたに送る」、また「高い所からの力に覆われる」も聖霊の降臨を暗示しています。弟子たちは聖霊なる神のお力によって、全世界の人々に主イエス・キリストの福音を宣べ伝え、主イエス・キリストの十字架と復活の証人として立てられるのです。

ヨハネ福音書では聖霊についてより詳しく約束されています。きょうの礼拝で朗読された14章15節以下はその最初ですが、これ以降にも15章26節、16章4~15節などで聖霊について語られています。これらのヨハネ福音書の主イエスのお言葉から、聖霊について、聖霊なる神のお働きについて、聖霊によって生きるわたしたちの教会について、さら学んでいくことにしましょう。

第一に重要なポイントは、聖霊は、わたしたちがすでに見たように、父なる神の永遠の救いのご計画の中で約束され、また主イエスのお約束でもあったということだけでなく、聖霊は父なる神とみ子なる主イエスから遣わされる霊なる神であるということです。

約束されていたと言いましたが、聖霊は約束された時になって初めて現れた神というのではありません。聖霊は永遠の初めから父なる神、子なる神と共におられた聖霊なる神です。旧約聖書の中でも聖霊は働いておられました。エゼキエル書では、聖霊が死んで骨だけになった人に新しい命を吹き込むことが預言されています。そのほかにも、聖霊がイスラエルの民に霊的な命をお与えになったことが数多く記されています。その聖霊なる神が、約束の時になって、すべての信仰者の上に豊かに注がれるようになったのだということです。

聖霊は父なる神と主イエスから派遣される霊であることについて、ヨハネ福音書14章26節では、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が」と言われ、15章26節では、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき」と言われており、弁護者なる聖霊は父なる神と主イエスの両方から派遣されるということが読み取れます。主なる神は、父なる神として、子なる神として、また聖霊なる神として、キリスト教の教理ではこれを「三位一体論」と言いますが、わたしたちの救いのためにお働きくださいます。神はご自身の全ご人格をもって、いわば全身全霊を込めて、わたしたちの救いのために働いてくださいます。父なる全能の神として、同時に、み子なる神として、人となられ、十字架で死んでくださった神として、そしてまた同時に、すべて信じる人に注がれる命と真理の霊、聖霊なる神として、三位一体なる神の全ご人格、全機能をお用いになって、わたしたち罪びとを罪と死と滅びから救い出すために働いておられ、その救いを完成させてくださるのです。

第二点は、14章16節で、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とあるように、聖霊は別の弁護者、すなわち、主イエスに続くもう一人の弁護者であるということです。ですから、主イエスが地上から去った後にも、弟子たちは孤児のようになって見捨てられるのではなく、もう一人の弁護者である聖霊がいつまでも弟子たちと共におられると言われているのです。

もう少し具体的に説明するならば、主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活され、その後40日間にわたって弟子たちに復活のお姿を現され、40日目に天に昇られ、もはやそのお姿は地上では見ることができないのですが、その主イエスの救いのみわざを引き継ぐようにして、聖霊が注がれたということであり、「わたしはいつまでもあなたがたと共にいる」と言われた主イエスのお約束は廃棄されたのではなく、そのようにして継続されているということなのです。

このことと関連して、聖霊が主イエスのみわざを引き継ぐという意味のことがたびたび語られます。14章26節では、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」、15章26節では、「その方がわたしについて証しをなさるはずである」、16章13、14節では、「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」。聖霊は主イエスとわたしたちとを堅く結びつけ、主イエスの十字架と復活の福音をわたしたちに悟らせ、信じさせ、その福音によって新しく生きる力と導きとを与えてくださるのです。

第三点は、聖霊が「弁護者」と言われていることです。弁護者とは、ギリシャ語では「パラクレートス」ですが、「パラ」とは「そばに、近くに」という意味で、「クレートス」とは「呼び出された人」という意味です。『口語訳聖書』では「助け主」と訳されていました。罪を告発された被告人とか、窮地に陥って助けを必要としている人の傍らに立ち、その人を弁護し、必要な助けの手を差し伸べる人をパラクレートスと呼びました。主イエスご自身が弟子たちにとってのパラクレートスでしたが、主イエスが天に帰られてからは聖霊が弟子たちの、そして教会とわたしたちにとってのパラクレートスとして、終わりの日の救いの完成の時までわたしたちを導いてくださいます。17節で、「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたのうちにいるからである」と主イエスが言われたとおりです。

最後に、聖霊は14章17節や15章26節、16章13節で「真理の霊」と呼ばれています。15章26節では、「真理の霊が来るときに、その方がわたしについて証しをなさるはずである」と言われ、また16章13節では【13節】(200ページ)と言われています。真理の霊である聖霊が下るとき、聖霊は信仰者に主イエスが語られたみ言葉をすべて悟らせ、信じさせ、その人を真理へと導かれるというのです。真理とは、主イエス・キリストのことであり、主イエスの十字架と復活の福音のことなのです。神の真理は主イエスの十字架と復活の福音に最もよく現わされているのです。神の真理とは、神がわたしたち罪びとを愛され、その愛によってご自身の独り子を十字架に犠牲としておささげになったということにほかなりません。ここに神の愛があり、ここに神の真理があるのです。わたしたちは聖霊によってこの神の愛と真理へと招き入れられているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、永遠に変わらないあなたの愛と真理の中にわたしたちをとどまらせてください。聖霊によって、わたしたちに新たな命を注ぎ込んでください。日本とアジア、そして全世界の人々が、また主キリストの教会が、多くの困難な課題を抱え、祈りつつ労苦を重ねています。どうか、この世界とその中に住むすべての人々を憐れんでください。顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月29日説教「アブラハムからイサクへ受け継がれた契約」

2022年5月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記26章1~25節

    ヘブライ人への手紙11章17~22節

説教題:「アブラハムからイサクへ受け継がれた契約」

 創世記26章では、アブラハムの子イサクの生涯について描かれています。ほかの族長たちと比較して、イサクについてわたしたちが知ることができる箇所は非常に少なく、イサクを主人公として語っているのは、ほとんどこの26章に限られていると言ってもよいほどです。彼の父アブラハムについては12章から25章前半まで、彼の子ヤコブについては27章から36章にかけて、彼の孫の一人ヨセフについては37章以後創世記の終わりまでに描かれています。イサクについて語られている箇所は26章以外にもいくつかありますが、そこでは必ずしもイサク自身が主人公というわけではありません。

 イサクは偉大な父アブラハムと、兄弟で激しい相続争いをする個性の強い子ヤコブとの、いわば彼らの谷間にいる、目立たない、影の薄い人物であると言ってよいかもしれません。彼を主人公とするこの26章でも、すでに死んでいる父アブラハムの名前が10回近くも出てきます。たとえば、【1節】、【3節、5節】などです。イサクは、いわば父親の七光りによって、わずかにこの26章で、創世記全体の中で通りすがりに取り扱われているように思われます。

 実際、イサクは自分の意志で選び取った運命を歩むよりは、彼の父アブラハムや彼の双子の子どもたち、彼の妻といった、彼の周辺の人々の運命の中で翻弄された人生を歩んできました。イサクはまだ若かった時、父アブラハムによって、燔祭のたきぎの上に横たえられました。父親となってからは、双子の子、エサウとヤコブの相続争いと、それに加わった妻リベカのたくらみに対して、なすすべもなく、ついには年老いて盲人となり、次男ヤコブと妻リベカの策略によってだまされ、長男に与えるべき祝福を次男ヤコブに与えてしまうという失態を行うことになりました。そのことについては27章に語られています。イサクは人間として、父親として、また信仰者としても、破れや弱さをいっぱい持っていました。

 しかし、そうでありながらも、神は彼を決してお見捨てにはなりません。いな、神はそのようなイサクをお用いになって、ご自身の救いのみわざを前進させられます。3~4節にこのように書かれています。【3~4節】。そして、24節でも。【24節】。神の約束は、人間として、父親として、また信仰者として、弱さや欠けをたくさん持っているイサクに与えられます。神の祝福がそのようなイサクに受け継がれます。神の約束の地カナンが、そのようなイサクに約束されています。天の星の数ほどの子孫が、そのようなヤコブを父として持つと約束されています。父アブラハムに与えられた神の約束が何一つかけることなく、そのようなヤコブに完全に受け継がれていくのです。父アブラハムの主なる神は、全く同様にそのようなイサクの主なる神であられるのです。神は、そのような弱さや欠けを持つヤコブの神であられることによってこそ、ご自身の大きな恵みとご栄光とを明らかにされます。人間が弱い時にこそ、神はご自身の力を現わされます。

 では、【1~2節】を読みましょう。アブラハムもカナンに移り住んで間もなく飢饉にあいました。彼は食料を求めて家族と共にエジプトに移住しました。イサクも父と同じようにエジプト行きを考え、パレスチナ南方のゲラルへと向かいました。しかし、イサクの場合は、神によってエジプトへの道をさえぎられました。父アブラハムの場合には、神はあえて彼のエジプト行きを止めることはなさいませんでしたが、その子イサクにはエジプト行きをお許しにはなりませんでした。なぜ神はそうなさったのでしょうか。こう推測することができます。イサクは父アブラハムほどには人間としての意志も決断力も強くはないので、異教の地エジプトへ行ったらきっと信仰をなくしてしまうに違いないと神はお考えになり、イサクをその危険から守られたのだと。その推測は間違ってはいないだろうと思います。神は信仰の弱い人に対してはそれなりの手を打ってくださり、その人を守るために危機の時にみ言葉を語ってくださいます。それゆえに重要なことは、その人が強い人間であるか、弱い人間であるかではなく、神は常にその人に必要なみ言葉を語ってくださるゆえに、わたしたちがそれに聞き従うべきであるということなのです。イサクは神のみ言葉に従い、エジプト行きを思いとどまったゆえに、神との契約の中で生き続け、神の祝福を受け継ぐ人となったのです。

 多くの弱さと欠けを持っていたヤコブは、飢饉と空腹の中で主なる神のみ言葉にすべてを委ね、信頼すべきことを学ばされるのです。そのために、約束の地カナンに留められます。彼が神に服従し、その地に留まる時に、神は常に彼と共におられ、それゆえに神の祝福は彼を離れず、彼は神の約束のすべてを受け継ぐことになるのです。たとえ、彼がエジプトでその空腹が満たされ、富める者になったとしても、彼が神のみ言葉に聞き従わず、それゆえに神の祝福を受け継ぐことができなかったなら、彼は神なき空しい人生を送るほかになかったでしょう。

 主イエスはマタイ福音書5章の山上での説教で言われました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と。ここでわたしたちはこう言うことができます。「貧しさの中で神に聞き従ったイサクは何と幸いであることか」と。神は彼にこのように約束されるからです。もう一度、2~5節を読んでみましょう。【2~5節】。わたしたちはここで、神の約束がどのようにしてアブラハムからイサクへと受け継がれていくのかを、注意深く確認してみましょう。

 第一に言えることは、神の契約がアブラハムからイサクへと受け継がれるのは、イサク自身の何らかの条件や資格にはよらないということです。彼が強い人間であるか弱い人間であるかによらず、あえて言うならば、彼が弱く、欠けの多い人間であるにもかかわらず、また彼には何の業績もないのに、父アブラハムの信仰と従順によって、アブラハムへの神の約束が何一つ欠けることなくそのすべてが受け継がれるということです。先に、そのことを親の七光りと表現しましたけれど、しかし、本当にすべては父アブラハムのゆえになのでしょうか。わたしたちはそこを厳密にみていく必要があります。

 3~5節の文章の実際の主語、実質的な主語はすべて「わたし」、すなわち主なる神です。3節では、「わたしはあなたと共にいる」。「わたしがあなたを祝福する」。「わたしはこれらの土地のすべてをあなたとあなたの子孫とに与える」。「わたしがあなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを果たす」。4節も同様です。5節でも、「わたしの声に聞き従う」。「わたしの戒め、わたしの命令、わたしの掟、わたしの教え」と、わたしが何度も強調されています。すなわち、正確に言うならば、アブラハムのゆえにではなく、神が彼に語られたみ言葉のゆえに、神の約束のゆえに、その神のみ言葉が永遠に変わらないゆえに、アブラハムへの約束がそのまますべてイサクへと受け継がれているのです。親の七光りのゆえにではなく、アブラハムのゆえにではなく、アブラハムが信じた主なる神ゆえにと言うべきです。神の永遠に変わらない恵みと愛のゆえにと言うべきなのです。この神こそが偉大なのです。この神こそが、信じたアブラハムを偉大な信仰の父としているのです。そして、この神こそが、今ここで弱く欠けの多いイサクをも万国の祝福を受け継ぐ信仰者としているのです。

 7節からは、イサクがゲラルの王アビメレクに対して、妻のリベカを自分の妹だと偽ったことが書かれています。【7節】。父アブラハムはエジプトに移住した時に同じようなことをしたと12章10節以下に書かれていました。また、20章には、同じゲラルの王アビメレクの前でもアブラハムは妻のサラを自分の妹だと偽って自分の命を救おうとしたと書かれていました。アブラハムは同じ過ちを2度繰り返していましたが、その子イサクまでもがその父の欠点を受け継いで、同じ過ちを繰り返しています。

 アブラハムのところでも説明しましたように、定住の土地を持たない遊牧民であった族長たちは、新しい土地では特に住民としての法的な権利を持っていませんから、美しい奥さんを持っている男はその命をねらわれ、奥さんを奪われても何の保護も期待できません。そこで、アブラハムもイサクも自分の妻を妹だと偽って、その土地の王や指導者に気に入られ、その奥さんにしてもらえれば、自分もまた王からよい待遇を受けることができると考えたのでした。自分の命と利益を守るために自分の妻を売り渡し、犠牲にするような愛のない、非人間的な行為と言わざるを得ません。いや、それだけでなく、共に神の約束を担っている夫婦であり、「あなたがたの子どもから多くの子孫が生まれ、祝福が受け継がれていく」と言われた神の契約に背く不信仰であったということを、わたしたちはこれまでも確認してきました。

 けれども、今回もまた、神はイサクとその妻リベカを守られました。それによって、ご自身の契約を守られました。事態が悪化する前に、イサクとリベカが夫婦であることがアビメレク王に分かってしまい、王は二人を保護することになりました。ここにも、隠されたお姿で主なる神が働いておられるのに違いないとわたしたちには推測できます。

 実は、8節で「ペリシテ人の王アビメレクが窓から下を眺めると、イサクが妻のリベカと戯れていた」と書かれている「戯れる」というヘブライ語はイサクが誕生した時に、百歳のアブラハムが「神はわたしに笑いをお与えになった」と言ったときの「笑う」という言葉と同じです。神はイサクと妻リベカの信仰の危機の時にも彼らに「笑い」をお与えになったということがここでは暗示されているのです。

 【12~14節】。飢饉のあとには豊作がやってきます。飢饉も豊作も神のみわざです。神は違った方法によってではありますが、飢饉の時にも豊作の時にも恵みをお与えくださいます。しかしまた、飢饉の時もそうであるように、豊作の時もまた誘惑と試練が待っています。

 15節に「ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた」と書かれているのは、イサクを妬んだペリシテ人の報復だったと考えられます。豊かになったイサクはペリシテ人との争いに巻き込まれてしまうのでしょうか。

でも、多くの弱さと欠けがあってもたびたび神によって守られてきたイサクは、もはや争いによって勝利しようとはしません。「ここから出て行っていただきたい」とのアビメレク王の求めに応じて、彼はその土地を去ります。イサクはまだその土地の所有者ではありません。旅人、寄留者です。いつでもその土地を手放す用意があります。神の約束の確かさがあるからです。

 その後も、井戸を巡ってのペリシテ人との衝突が何度も続きますが、そのたびにイサクは彼らと争わず、平和の人としての放浪の旅を続けます。神によって豊かに富む人は、いつでもそれを神の平和のために捨てることができる人でもあります。そして、ついにイサクは神からの平和を与えられました。最後に22節以下をもう一度読みましょう。【22~25節】。これが、多くの人間的な弱さや欠けを持っていたイサクの生涯です。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが族長アブラハム、イサク、ヤコブの生涯をお導きくださったように、また、イスラエルの民の信仰の歩みをお導きくださったように、そしてまた主イエス・キリストによって建てられた秋田教会の130年の歩みをお導きくださいましたことを覚えて、心からの感謝をささげ、み名をほめたたえます。どうかこの群を憐れみ、豊かに祝福し、あなたのご栄光を現わす教会としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月22日説教「種をまく人のたとえ」

2022年5月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編1編1~6節

    ルカによる福音書8章9~15節

説教題:「種をまく人のたとえ」

 ルカ福音書8章4節以下の「種をまく人のたとえ」の個所を、前回に引き続いて学んでいくことにします。4節から15節までの全体の構造を確認しておきましょう。4~8節では、主イエスがお語りになった「種をまく人のたとえ」、9~10節では、主イエスがたとえを用いて語ることの意味について、11~15節では、主イエスご自身による「種をまく人のたとえ」の解説が語られています。この構造は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書)に共通しています。ルカ福音書はマタイ、マルコ福音書よりも半分ほどに短縮されています。

きょうはまず、主イエスが神の国の福音を、たとえを用いて語ることの意味について学びます。【9~10節】。9節の弟子たちの問いに対する主イエスのお答えは、直接には11節に続いています。11節に、「このたとえの意味はこうである」とあるからです。主イエスはたとえの意味を説明される前に、たとえを用いて語ることの意味、あるいはその目的について10節で語っておられます。「種をまく人のたとえ」だけでなく、他のすべてのたとえにもこの原則は適用されます。では、主イエスが神の国の福音を多くのたとえを用いて語るのはなぜなのか。けれども、わたしたちが主イエスのお答えからそのことを理解するのは必ずしも簡単ではないように思われます。

というのは、何かの真理についてより分かりやすく、初心者にも理解できるために、身近かな例やたとえを用いて語る、それがたとえで語ることの意味であり目的であると多くの人は考えます。ところが、主イエスのお答えは違っています。「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ようになるためであると主イエスは言われるからです。これはどういうことでしょうか。主イエスのお答えには大きな謎が隠されているように思われます。その謎を読み解いていきましょう。

ここで問題となる第一点は、主イエスが十二弟子たちと他の人々とをここで区別していることです。十二弟子たちは主イエスと常に共にいて、神の国の秘密について何度も聞き、それを悟ることが許されているが、群衆はそうではないからたとえで語るのだと主イエスは説明しておられます。しかし、実際にはどうかと言えば、9節で弟子たちは「このたとえはどういう意味か」と質問しています。マルコ福音書4章13節には、「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか」という弟子たちに対する主イエスの叱責の言葉が記されています。弟子たちもまた、主イエスの期待に背いて、このたとえを十分に理解してはいなかったことが分かります。主イエスがお語りになった神の国のたとえが大きな謎であるのは、弟子たちにとっても同様であると言えます。

ここで主イエスが十二弟子と群衆とを区別しておられるのは、弟子たちが神の国の福音をより深く理解できるとか、ファリサイ派が考えたように、弟子たちの方が群衆よりも神の国に近い所にいるという理由によるのではありません。むしろ、弟子たちの無理解を強調するためであったと言うべきでしょう。彼らは主イエスに選ばれ、主イエスと常に共にいて、親しく御言葉を聞く機会が与えられていたにもかかわらず、彼らもまた群衆と同じに、神の国の奥義、その秘密を正しく理解することができていなかったのだと言うべきでしょう。

次に、謎の核心に迫りましょう。10節後半のみ言葉は二重かぎかっこで囲まれていて、これが旧約聖書からの引用であることを暗示しています。マタイ福音書13章ではっきりとこれがイザヤ書6章の預言であると明記されています。その個所を読んでみましょう。【13~15節】(24ページ)。イザヤ書のこの預言は、「心をかたくなにするメッセージ」と言われます。イザヤが神のみ言葉を語れば語るほどに、イスラエルの人々は心をかたくなにして、自分たちの罪に気づこうとせず、悔い改めることをしない、そしてついに、神の厳しい裁きを受けて、国は滅び、民は異教の国に捕らわれの身となるということが、イザヤ書では記されています。

そのように、主イエスが神の国の福音について、その奥義・秘密についてたとえを用いてお語りになることによって、だれもがその内容をよく理解し、神の国の福音を受け入れて救われるようになるのかと言えば、そうではなく、むしろそれによって主イエスの説教を聞いた人の目が見えなくされ、その心がかたくなにされ、弟子たちも群衆も、同じように救いから遠い所に立っていることが明らかにされるのだと主イエスは言われるのです。主イエスの説教によって神の国の福音がたとえで分かりやすく語られたとしても、それで神の国の秘密がだれにでも理解でき、信じることができるようになるのではなく、まただれもが救われるようになるというのでもありません。説教の内容が分かりやすいということと、説教を聞いて救われるということは同じではありません。

主イエスがここで問題にしておられることを二つの側面から見ていきましょう。一つは、神の国が今やわたしたちのすぐ近くに到来し、種をまく農夫の所にも、台所に立つ主婦にも、道を歩く旅人にも、すべての人に近づいて来ているということです。主イエスがこの世界の日常的な出来事や行動をたとえに用いて神の国の秘密を語られたことによって、神の国という、地から遠く離れた天の父なる神のご支配が、だれでもが経験し、生きているこの現実に関係づけられ、わたしたち一人一人の現実と密接にかかわる事柄となった、神の国がわたしの身近になった、わたしの生き方に直接かかわる事柄となったのです。今やわたしたちはわたしのすぐ近くに来ている神の国、神の恵みのご支配に対して、態度表明をするべく迫られているということです。

主イエスがたとえで神の国の奥義をお語りになることのもう一つの重要なポイントは、神の国の奥義・秘密を悟ることをしない、あるいはできない、人間の無知と罪と、また悔い改めることをしない人間のかたくなさのことです。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われる主イエスの招きのみ言葉を聞いても、それを受け入れず、なおも自分が好む道を進もうとし、罪を悔い改めることをしない人間のかたくなさが、ここでは問題にされているのです。

主イエスがたとえで神の国の福音をお語りになることによって、神の国の福音がわたしの問題、わたしの課題となり、わたしがそれに対してはっきりと態度表明をするように迫られます。その時、神からの一方的な恵みとして差し出される神の国の福音を受け入れるに値しないわたしの罪が明らかにされるのです。神の国の福音を聞くよりも、自分の欲望や傲慢な声に耳を傾けようとしている自分の罪とかたくなさに気づかされるのです。深い罪の自覚と悔い改めなしには、だれも主イエスがお語りになる神の国のたとえを聞くことはできません。

そこで、わたしたちは主イエスがお語りになったこの理由、目的を基準にして、11節以下のたとえの解説を読んでいくことが必要です。前回にも確認したように、このたとえの中心は神のみ言葉の種をまかれる主イエスご自身です。主イエスは天の父なる神のみもとから地に下って来られ、人間のお姿となられてこの世においでになりました。そして、日夜、至る所に神の国の福音を、み言葉の種をまかれます。主イエスの奇跡のみわざを見るために集まってきた人々にも、重い病気で病んでいる人たちにも、きょう一日の生活にあくせくしている人たちにも、宗教的・政治的権威に寄りすがっている人たちにも、主イエスはすべての人に迫り来る神の国について語られ、神の国の福音へとお招きになりました。そのことがたとえの中心点です。

11節からの主イエスの解説では、どちらかと言えば、種をまく人よりはまかれた土地の違いの方に重点が移っているように思われるかもしれません。しかし、それは読む側のわたしたち自身の偏見や差別的価値判断からくる誤った理解なのです。この個所を読んで、わたしたちはすぐにあの人は道端のようだとか、わたしは石地のようだ、この人は茨のようだ、こんな人が良い土地のことだなどと考え、人や自分をその枠に当てはめることをしがちです。そして、ある時には他の人を裁き、またある時には自分を弁護するのです。

しかし、ここで語られている重点はあくまでも種をまく人であり、そしてまかれた種のことです。11節に「種は神の言葉である」と説明されており、12節と13節、14節、そして15節に、「御言葉を聞く」と繰り返されています。種をまく人はあらゆる場所に種をまき、すべての人に神の国の福音を語り、多くの人がそれを聞くことができるようにと働きます。多くの種が芽を出さず、語っても語っても聞かれず、種まきの労苦が無駄に終わるとしても、あるいは、み言葉に対する抵抗や反撃が予想されるとしても、種まきはすべての人にみ言葉の種をまき、神の国の福音を語るのです。

第二に強調されている点は、み言葉の種が持っている生命力です。み言葉の種がこの地にまかれると、そこにある変化が生じます。道端にまかれると、悪魔の激しい攻撃にあいます。石地にまかれると、み言葉のための試練や迫害が起こります。茨の中にまかれると、この世の思い煩いや富の誘惑、欲望が心に入り込み、み言葉に抵抗します。これらはみな、神のみ言葉そのものが持っている偉大な力と生命力によって引き起こされる現象です。神のみ言葉が持つ力と生命力は、この世のものではなく、神から来る力、生命力であるゆえに、この世を支配しているサタンや罪の力、悪しき欲望からの抵抗と攻撃を受けざるを得ません。教会の説教者が語る言葉が、この世のものであるならば、この世から時に歓迎されもし、そのような激しい抵抗や攻撃を受けることはないのかもしれません。しかし、神のみ言葉は罪に支配されているこの世を破壊し、変革していく力を持っていますから、多くの抵抗や反撃を受けざるを得ません。けれども、ついには神のみ言葉の種は良い地に落ち、聞かれ、信じられ、豊かな実りをつけるのです。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)。神のみ言葉を語る教会はこのような主イエスの約束を与えられているのです。

ここで教えられる第三の点は、わたしたちはここでもまた自らの罪とかたくなさ、弱さと愚かさによって、何としばしば神の命のみ言葉を無駄にしているかを告白しなければならないということです。神のみ言葉の力と生命力とを信じないために、わたしたちは何としばしば罪の誘惑に屈し、迫害を恐れ、おのれの欲望に敗北してしまっていることでしょうか。み言葉の種をまく務めをおろそかにしていることでしょうか。

 主イエスはこのようなわたしたちのために十字架で死んでくださったことを思い起こすべきです。ヨハネによる福音書12章23、24節で主イエスはこのように言われました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。主イエスはわたしたちの中にみ言葉の種が深く根付くために、わたしたちに豊かな収穫を得させるために、そしてまた、わたしたちがみ言葉の種をまく務めを大胆に果たしていくことができるために、十字架で死んでくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたちにも与えてください。そのみ言葉によって生きる者としてください。どうか、全世界のすべての人が、朽ちるパンのために生きるのではなく、あなたの命のみ言葉によってまことの命を生きる者たちとしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月15日説教「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

2022年5月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    マルコによる福音書16章1~8節

説教題:「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは、「復活して永遠のいのちの保証を与え」という箇所を、聖書のみ言葉に聞きながら学んでいきます。

「復活して」と「保証を与え」の二つの動詞の主語は、言うまでもなく、『信仰告白』の冒頭にある「わたしたちが主と崇める神のひとりご子イエス・キリスト」です。主イエス・キリストが『信仰告白』の最初の文章すべての主語です。それだけでなく、主イエス・キリストは『信仰告白』全体の主語であり、またわたしたちの信仰と信仰生活すべての主語であられるということを、わたしたちはこれまでにも何度も確認してきました。

 「復活して永遠のいのちの保証を与え」、主イエス・キリストがこの文章の二つの動詞の主語ですが、その意味合いは少し違っています。つまり、「復活して」の方は、主イエスが死から復活されたという、もっぱら主イエスご自身に関することであるのに対して、「保証を与え」の方は、主イエスがご自身の復活によって、わたしたち信じる人たちに永遠のいのちの保証をお与えくださったという、わたしたち信仰者に関することが告白されています。

 このことは、すぐ前の文章でも同じでした。主イエスが十字架にかかられたことと、それに続いて、その主イエスの十字架によって、全人類の罪のための完全な犠牲がささげられ、わたしたちすべての罪が贖われたということが告白されていました。つまり、『信仰告白』の最初の文章では、まず主イエス・キリストのことが告白されており、主イエス・キリストがどのような方であり、何をなされたのか、そのみわざについて告白されているのですが、また同時に、そのことがわたしたちにどのような意味があるのか、主イエスのご人格と彼のみわざが、わたしたちに何をもたらすのか、それによってわたしたちの生き方がどのように変えられていくのかということが、告白されているのです。

 『日本キリスト教会信仰の告白』は『使徒信条』に前文を付けた簡単信条ですが、後半の『使徒信条』では、第二項の「主イエス・キリストを信じます」の中で主イエスの十字架の死、復活が告白され、次の第三項の「聖霊を信じます」の中で、わたしたちに与えられる「罪のゆるし」と「体の復活、永遠の命」が告白されており、それぞれの項目別に語られていましたが、前文では二つが合体した形で告白されていて、両者の結びつきがより強調されていると言ってよいでしょう。

そこで、きょうは第一に、主イエスご自身の復活について、そして第二に、それがわしたち信仰者にとってどのような意味を持つのかということ、その結びつき、結合について学んでいきたいと思います。

主イエスの復活について記録している最も古い文書はコリントの信徒への手紙15章3節以下と考えられています。そこを読んでみましょう。【15章3~5節】(320ページ)。3節の「すなわち」以下の文章が、パウロが受け取った初代教会の信仰告白だったと考えられます。その中に、「三日目に復活したこと」とそれに続いていくつかの復活の顕現について告白されています。主イエスの復活は初代教会の信仰告白の中心であったことが確認できます。

ちなみに、パウロがこの手紙を執筆したのが紀元55年ころと考えられますから、これが今日聖書として残されている文書の最も古い主イエスの復活の記録と言えます。きょうの礼拝で朗読されたマルコによる福音書16章の復活の記録は、福音書の中では一番早いのですが、おそらくはパウロの手紙よりは少し遅く、紀元60~70年ころに書かれたと考えられています。いずれも、主イエスの十字架の死、復活の出来事から2、30年後であったということになります。

では、主イエスの復活を信じる信仰は、主イエスの弟子たちにとって、初代教会にとって、どのような意味を持っていたのでしょうか。使徒言行録2章のペンテコステの時のペトロの説教からそれをさぐってみましょう。この説教は主イエスの復活からちょうど7週後、ペンテコステ・聖霊降臨日になりますが、その日の説教でペトロは繰り返して主イエスの復活のことを語っています。【2章23~24節】(216ページ)。また【31~32節】。ペトロの神殿での説教でも同じです。【3章15節】(218ページ)。

ペトロはこれらの説教で、自分たちは主イエスの復活の証人であるということを強調しています。つまり、ペンテコステの時に誕生した教会は、主イエスの復活の証人として集められた弟子たちによって建てられたということです。あるいは、そもそも教会とは主イエスの復活の証人としての使命を果たすために建てられたのだということです。主イエスの復活は、初代教会の信仰告白の中心であっただけではなく、彼らの信仰と教会の出発点、土台、基礎、またその目的でもあったと言えます。

主イエスの十字架の時に、ペトロを始め弟子たちは皆主イエスを見捨てて逃げ去りました。彼らは主イエスの十字架につまずき、散らされました。けれども、復活された主イエスは、散らされた弟子たちを再び呼び集めてくださいました。主イエスを3度「知らない」と否んだペトロを、復活の主イエスは再び使徒としてお立てくださいました。そのようにして、復活された主イエスと出会った弟子たちは、罪と死の中から再び立ち上がることができたのです。主イエスの復活は弟子たちを新しい命によって生かし、教会を誕生させたのです。主イエスの復活を信じた弟子たちは、主イエスの復活から新しい命を生きる者とされ、新しい歩みを始める者とされました。主イエスの復活を土台にして建てられた教会は、主イエスの復活から生きる信仰者の群れとして、この世の朽ちゆくものや死すべきものによって生きるのではなく、罪と死とに勝利した主イエスの復活の命を土台として、そこから出発して、その復活の命を与えられている者たちとして、その復活の命の完成の時を目指して歩むのです。そのようにして、主イエス・キリストの教会は、過ぎ去り行き、滅び去るしかないこの世にあって、主イエスの復活の命、永遠の命に生かされている信仰者の群れとして、復活された主イエスを証ししていくのです。

従って、主イエスの復活の証人として生きている教会は、この世にある他のすべての人間の集団、宗教団体であれ、政治団体、趣味の団体、営利団体、地域共同体、それらすべての人間集団とはこの点において決定的に違っているということが言えます。この世のすべての人間集団は、時とともに過ぎ去り、滅び行くしかなく、罪に支配され、すべては最後の死に向かっているのに対して、教会は主イエスの十字架の死から始まり、主イエスの復活から始まっている、そして死を超える希望へと向かっている、終わりの日に再び来り給う主イエス・キリストを待ち望みながら歩む群れであるということなのです。わたしたちの教会が、「主は復活して永遠のいのちの保証を与え」と告白している第一の意味がここにあります。

さて、この観点から福音書を読んでみると、福音書は主イエスの誕生から始まり、数年間の神の国の福音の宣教活動と、主イエスの地上での最後の1週間、受難週の十字架の死と葬り、そして日曜日朝の復活という順序で描かれています。けれども、普通の人物の伝記と大きく違っている点は、その人の死をもって伝記の本文が終わるのが一般的であるのに対して、福音書ではさらに1章が、マルコによる福音書では16章が続いているということです。しかも、その1章が伝記の本文が終わって、いわばエピローグのような付け足しの1章ではなく、それも本文そのものであり、それだけでなく、その最後の章から何か新しいことが始まることを予感させるような描き方になっているというのが、主イエスのご生涯を記録した福音書の大きな特徴なのです。

マルコ福音書16章1節に、「安息日が終わると」と書かれてあり、2節には、「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ」と書かれています。この書き方は、聖書の最初のページ、創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」というみ言葉を思い起こさせます。ここから、新しい1週が始まる、新しい1日が始まる、新しい神の救いのみわざが始まる、新しい信仰の歩みが始まるということを、わたしたちに予感させます。そして、振り返って考えてみると、マルコ福音書はこの最後の章から書かれているのだということに気づかされるのです。マルコ福音書は主イエスの復活の出来事から、その復活を信じた信仰によって書かれていることに気づくのです。

さらに具体的に読んでいくと、週の初めの日、つまり日曜日の早朝に、数人の婦人たちが主イエスの亡骸(なきがら)に油を塗るために墓へと急ぎます。婦人たちは敬愛する先生である主イエスに対して、最後の奉仕をするつもりでいました。亡くなった人の体に香油を塗ることは、死者を葬るための重要な儀式でした。けれど、主イエスの場合、十字架で息を引き取られたのが金曜日の午後3時過ぎ、ユダヤ人にとっては一日は日没から始まりますから、日没の前に急いで墓に葬られました。というのは、次の日はユダヤ人の安息日であって、何の仕事もしてはならないと律法で定められていたからです。そのために、主イエスのお体に香油を塗る時間がなかったのです。

そこで、婦人たちは安息日が終わった日曜日の早朝に、やり残した奉仕をするために墓へと急いだのでした。ところが、婦人たちが墓へ行ってみると、そこには主イエスのお体がありませんでした。主イエスは婦人たちが墓に着く前にすでに復活され、墓は空になっていたのです。そのために、死者のための最後に残されていた香油塗りの奉仕をしようとしてやってきた彼女たちは、その奉仕ができませんでした。その代わりに、彼女たちは白い長い衣を着た若者、これは神の使いである天使のことですが、彼が語る神のみ言葉を聞かされます。【6~7節】。

死者のために仕えようと墓にやってきた彼女たちは、今や、死者のためにではなく、復活された主のために、今も生きておられる主イエス・キリストのために、主イエス・キリストの復活の証人として、主イエス・キリストの復活の福音を携えて、それを語り伝えるために仕える者へと変えられたのです。そのために、彼女たちは急いで墓から立ち去りました。もはや、墓へと急ぐ人たちではありません。墓を後にして、復活の福音に生きる者へと変えられたのです。

ここには、主イエスの復活を知らない人と、それを知らされた人の違いが、象徴的に描かれているように思われます。まだ主イエスの復活を知らなかった婦人たちは、死者のために奉仕しようと、墓へと向かいます。すべての人間は、そのようにして、死へと向かっていきます。死ぬべき者たちのために仕え、死のために仕えている人は、死の前では為すすべなく、くずおれるほかにありません。あの婦人たちのように、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と言って、不安と恐れを抱きつつ、自らも墓へと急ぐほかにありません。

しかし、主イエスの復活を知らされた婦人たちは、すでに墓の石が取り除かれていることを見ています。もはや、死者のために奉仕するのではなく、復活して生きておられる主イエスにお仕えするために、死から命へ向かって歩み出すのです。そこにこそ、本当の意味での生きる希望があります。主イエス・キリストの復活を信じ、そのことを告白するわたしたちは、その希望に生きることがゆるされているのです。

(執り成しの祈り)

〇わたしたちの命と死とをみ手に治めておられる全能の父なる神よ、あなたがわたしたちを死の墓から救い出し、永遠の命に至る希望へと召してくださいましたことを心から感謝いたします。わたしたちはあなたを離れては罪の中で死ぬほかありません。どうか、み子主イエスの復活を信じる信仰によって、わたしたちをまことの命の道へとお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月8日説教「ステファノの説教(二)ヨセフからモーセへ」

2022年5月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記1章1~14節

    使徒言行録7章9~22節

説教題:「ステファノの説教(二)ヨセフからモーセへ」

 キリスト教会の最初の殉教者となったステファノが、死の直前にユダヤ最高議会の法廷で語った説教が使徒言行録7章に書かれています。ステファノの説教はアブラハムから始まる信仰の民イスラエルの2千年近くの歴史を振り返りながら、その中で神がどのようにイスラエルの救いの歴史を導かれたかについて語り、そして約束されていたメシア・救い主・イエス・キリストによってその救いの歴史を、今この時に完成されたことを語っています。それだけでなく、その裁判の席で彼を裁くべきユダヤ人指導者たちが、メシア・救い主であられる主イエス・キリストを受け入れず、十字架の刑によって殺したという、彼らの大きな罪について語っています。ここでは、被告席に立たされているステファノが主イエス・キリストの証人として語ることによって、ユダヤ人指導者たちの悔い改めることをしない罪を裁く結果となっているのです。

 7章2~8節では、族長アブラハムからその子イサクとヤコブ、彼の12人の子どもたちについて語られています。創世記12章から36章に書かれている内容をまとめています。9~16節では、ヤコブの子どもヨセフのエジプトでの生活と、そののちヤコブ一族全員がエジプトに移住したこと、これは創世記37章から終わりの50章までのまとめです。きょうはこの個所と、次の17~22節まで、モーセの誕生について語られている箇所を学びます。

 ヤコブはのちにイスラエルと改名しますが、創世記25章26節によれば、ヘブライ語のかかとを意味するアーケーブにちなんでヤコブと名づけられました。彼が双子の兄エサウのかかとをつかんで生まれてきたからです。やがて彼はその名のごとく、兄エサウウを自分のかかとでけ落とすようにして、兄と父とをだまして長男としての特権を奪い取り、父の財産と祝福とを受け継ぎました。

 ヤコブには12人の子どもが与えられましたが、年老いてから生まれた子ヨセフを父ヤコブは一番かわいがり、特別扱いしたために、他の兄弟はヨセフをねたんで、彼をエジプトに売り飛ばしました。

9~10節でステファノはこう語ります。【9~10節】。ヨセフがエジプトに売り飛ばされた原因は父ヤコブの偏愛であり、それをねたんだ他の兄弟たちの憎しみであったのですが、しかし、そこには神の隠された救いのご計画があったのであり、神がヨセフを選んでご自身の救いのご計画を進められたという、神の選びがあったのだということを、ステファノの説教が明らかにしています。そのことは、9節の「神はヨセフを離れず」という言葉で表現されています。他の兄弟たちはヨセフを捨てたけれども、しかし神は彼から離れず、彼をお見捨てにならなかったのです。父の偏愛と兄弟たちの憎しみという人間のあやまちや悪意にもかかわらず、その中を貫いて神の救いのみ心が行われていったのでした。

さらに10節では、「あらゆる苦難から助け出して、恵みと知恵とをお授けになった」と語られています。神はご自身がお選びになった信仰者と常に共にいてくださり、その人によって救いのみわざを行われます。神に選ばれるということ、また神が常に共にいてくださるということは、信仰者にとって、苦難や試練に遭わないという保証ではありません。いやむしろ、神は信仰者に苦難や試練の道を備えたもうのです。けれどもまた、その苦難と試練の道の中でもなおも、神は信仰者をお見捨てにはならず、信仰者を離れず、苦難と試練をとおして大いなる恵みを与え、救いのみわざをなしたもうのです。

わたしたちはここで、9節、10節で語られているヨセフの生涯は主イエス・キリストのご生涯を指し示していることに気づかされます。「神は彼を離れずいつも共におられた」、「あらゆる苦難から助け出された」、「恵みをお与えになった」、そして「知恵を現わされた」、これらすべては新約聖書の中で主イエスのご生涯について語られている内容と一致します。

主イエスは神のみ子であられ、神が常に共におられたゆえに、神の権威によって力強い命のみ言葉をお語りになり、罪のゆるしのみ言葉を語られ、数々の奇跡のみわざを行われました。神が主イエスと共におられたというだけでなく、主イエスはインマヌエル「神我らと共にいます」と呼ばれるメシア・救い主であられ、神はこの主イエスによってわたしたち罪びとと永遠に共にいてくださる道を開かれたのです。神はまた主イエスのご受難と十字架への道に伴われ、主イエスを死の墓から救い出され、復活の命をお与えになりました。使徒パウロがコリントの信徒への手紙一1章18節以下で書いているように、主イエスの十字架の死は救われる人にとっての神の知恵であり力であり、十字架の福音の愚かさによって、神はわたしたちをお救いくださったのです。けれども、ユダヤ人は十字架の愚かさにつまずき、主イエスを信じませんでした。

さて、エジプトに渡ったヨセフは神から与えられた知恵によって、エジプト王ファラオの好意を得、宰相(総理大臣)の位につきました。その後、世界的規模の大飢饉が起こり、カナンの地に住んでいたヤコブとその一族は、ヨセフの知恵によって蓄えられた食料を求めてエジプトへとやってきました。兄たちはかつて自分たちが売り飛ばしたヨセフがエジプトでまだ生きていて、しかも宰相にまでなっていて、自分たちの目の前で穀物の販売を取り仕切っているなどと、予想もしていませんでした。最初に、兄弟たちが食料を求めてやってきたときには、ヨセフは自分の身分と過去を明かしませんでしたから、兄弟たちはヨセフとは気づきませんでしたが、二度目にやってきたときに、自分が弟のヨセフであることを打ち明け、兄たちの罪をゆるし、兄弟たちは和解しました。その後、父ヤコブと11人の子どもたちとその一族75人がみなエジプトに移住することになりました。ここまでが、創世記に書かれている族長の歴史です。

ヨセフはこのように、多くの苦難と試練の生涯をとおして、カナンの地にいた彼の家族を救う者となったのです。神が常に彼と共におられ、彼に恵みをお与えくださり、彼の道をお導きくださったからです。そのようにして、ヨセフはわたしたちすべての人間を罪から救うために苦難の道を歩まれた主イエス・キリストを指し示したのです。

次に、17節からはモーセについて語られます。出エジプト記1章以下に書かれているイスラエルの民の歴史の始まりです。ここでステファノはモーセの生涯を40年単位で3つに区分して語っています。17~22節は、誕生から40歳になるまで、23~29節は次の40年、30節からは最後の40年について語っています。

ヤコブ(後に改名してイスラエル)の12人の子どもたちとその子孫はおよそ400年間エジプトに住んでいました。神の知恵によって世界的飢饉からエジプトを救ったヨセフのことはやがて忘れ去られていきました。カナンの地から移住してきたイスラエルの子孫が次第に増えるにつれて、エジプトの王はその民族の信仰と結束の強さに恐れを感じ、彼らを奴隷として虐待するようになりました。

【17~22節】。エジプトでのイスラエルの苦難の歴史の始まりは、神の約束の実現の時が近づいていることのしるしでもあったとステファノは語ります。かつて神がアブラハムに、「あなたとあなたの子孫とにこの地を永久の所有として与える。あなたの子孫はこの地に増え広がり、わたしはあなたの子孫を代々に祝福するであろう」と約束された神のみ言葉は、400年のエジプトでの寄留の生活の間にも神はお忘れにはなりませんでした。そればかりか、今この苦難と危機の時にその約束を成就されるというのです。

「ヨセフのことを知らない別の王」、はイスラエルの子孫を虐待し、彼らの家に生まれた乳飲み子を殺すように命じました。この王がだれであるのか、エジプト側にもイスラエル側にも記録はありませんが、紀元前13世紀のエジプト第19王朝最初の王ラメセス二世ではないかという説がもっとも有力です。

この王がエジプト全国に、「ヘブライ人の家に生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め」と命令したと出エジプト記1章22節に書かれています。エジプト王ファラオの命令は絶対的な権限を持っていました。寄留の民であり、奴隷の民であったヘブライ人にとっては、その命令に逆らうすべは全くありません。イスラエルの民は寄留の地エジプトで死に絶えてしまうことになるのでしょうか。神が最初アブラハムにお与えになった約束のみ言葉、彼の子イサクとその子ヤコブへと受け継がれた神との契約はここで途絶えてしまうのでしょうか。神の救いのご計画はこれで中断してしまうのでしょうか。

しかし、そうではありませんでした。神はイスラエルの子孫が苦難や試練の中にあったときにも、絶望的な危機の時にも、なおも彼らと結ばれた契約をお忘れにならず、神がイスラエルの民によってお始めになった救いのみわざを決して中断されることはありません。神はこの時にも、イスラエルを救うために一人の人をお選びになりました。

それがモーセです。モーセの両親はこの世の権力者の命令を恐れませんでした。それは、彼らが主なる神を恐れていたからです。天地万物を無から創造された神、族長アブラハムをお選びになり、彼と永遠の契約を結ばれた神、その主なる神へのイスラエルの信仰は族長時代の数百年間とエジプトでの400年間が過ぎても、全く変わっていなかったのです。なぜなら、彼らに対する民の愛と義と救いのみ心が変わらなかったからです。この神を信じ、この神のみを恐れる信仰者にとっては、この世のいかなる権力者をも、迫害をも、恐れる必要はありません。

モーセの両親は幼な子をパピルスで編んだ小さなかごに入れ、ナイル川の岸に置きました。偶然にそれを見たファラオの娘が幼な子を引き上げ、自分の子として育てることになりました。このようにして、モーセはエジプトの宮廷で育てられ、エジプト人としての最高の教育を受け、やがてイスラエルの民をエジプトから救い出す指導者として神に用いられるのです。このようなことを一体だれが予想しえたでしょうか。このような神の隠されたみ心を一体だれが知り得たでしょうか。迫害する者たちのただ中にあって、迫害する者たちをもお用いになって、迫害する者たちの手からご自分の民を救い出す指導者モーセを準備される神を、だれが知り得たでしょうか。

このようにして、神はモーセを選び、彼をお立てになり、イスラエルの民を奴隷の家エジプトから救い出されたのです。モーセはこのようにして、全人類を罪の奴隷から救い出されるメシア・主イエス・キリストを指し示し、メシアのための道を備えるために仕えたのです。

(執り成しの祈り)

〇主イエス・キリストの父なる神よ、あなたがきょうわたしたち一人一人をお選びになり、それぞれの派遣された場から呼び出し、あなたのみ前に集わせ、あなたの救いのみ言葉をお聞かせくださいましたことを心から感謝いたします。どうか、あなたがみ言葉によって創造されたこの世界で、あなたのみ心が行われ、あなたの救いのみわざが成就されますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月1日説教「エサウとヤコブ - 神の選び」

2022年5月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記25章19~34節

    ローマの信徒への手紙9章6~18節

説教題:「エサウとヤコブ―神の選び」

 創世記12章からの族長アブラハム物語りは25章5節以下に書かれている彼の死をもって、ひとまず幕を降ろすことになります。【5~10節】(38ページ)。この個所について、二つことに触れておきたいと思います。一つは、5節の「全財産をイサクに譲った」というみ言葉です。古代近東諸国では、長男が他の男兄弟の2倍の財産を相続するのが習わしでしたが、アブラハムの実の子はイサク一人ですから、彼が全財産を相続することになります。ただし、ここで重要な点は、イサクは地上の財産を受け継ぐだけではなく、父アブラハムの信仰の財産を受け継ぐのだということです。父アブラハムに与えられた神の契約を受け継ぐのです。すなわち、神の祝福と、星の数ほどの信仰の子孫と、神の約束の地とを受け継ぐのです。これこそが、彼が父から受け継ぐべき最も大切は財産なのです。地上の朽ちるほかない財産をではなく、天の父なる神から賜った信仰の財産を受け継ぐべきであること、このことは、わたしたち一人一人の信仰の家庭にとっても同様だということをまず覚えたいと思います。

 二つには、8節のみ言葉です。「アブラハムは長寿を全うし、……満ち足りて」と、彼の生涯が満たされたことが二度語られ、強調されています。これはいわば天寿を全うしたという意味ですが、より詳しく言うならば、神が彼のために用意された地上のすべての日々が今や終わり、神が彼によって計画しておられた救いのご計画が今や成就したという意味です。アブラハムの生涯を満たすのは主なる神なのです。アブラハム自身は幾度も疑い、挫折し、失敗したとしても、あるいはまた、彼にまだやり残した仕事があったとしても、彼の信仰の生涯を本当の意味で満たしてくださるのは主なる神なのです。それゆえに、アブラハムの死はそれですべてが終わってしまうのではなく、むしろ神の約束が成就される時、神のみ心が全うされる時、神の救いのみわざが前進する時となるのです。神は彼の死をとおしても、ご自身のご計画を成就されるのです。11節にこう書かれてあるとおりです。【11節】。

 アブラハムの死を超えてさらに前進される神の救いのご計画について、19節から始まるエサウとヤコブの誕生の個所を続けて読んでいきましょう。【19~21節】(39ページ)。イサクの結婚に関しては24章に長い花嫁探しの物語として描かれていましたが、彼が父アブラハムの故郷ハランからリベカを迎えて結婚したのは40歳の時でした。この二人の信仰の家庭によって、神の約束が受け継がれていくことになるのですが、すぐにも困難な問題が彼らの前に立ちふさがります。「妻に子供ができなかった」と21節に書かれています。アブラハムと妻サラの場合も、子どもが与えられず、25年間彼らは祈り続けました。イサク自身が両親の長い祈りの末に与えられた祈りの子であったのですが、彼はまた妻リベカに子どもが与えられるようにと祈る者となりました。この祈りは、イサクと妻リベカの課題であるだけでなく、彼らが担っている神の約束の成就のためでもありました。彼らは「お前の子孫を星の数ほどに増やす」と言われた神の約束の成就を共に祈りつつ待ち望む者とされたのです。

 神は彼らの祈りに応えてくださいます。彼らに子どもが与えられたのはイサクが60歳の時であったと26節に書かれていますので、彼らは20年間祈り続けたことになります。神は彼らの祈りに応えられ、ご自身の救いのご計画を推進されます。

 けれども、一つの願いが聞かれてリベカが身ごもってから、すぐにまた別の問題がやってきます。【22~23節】。「これでは、わたしはどうなるのでしょう」とのリベカの叫びは、初めて親になるリベカの不安、また胎内の子どもの異常な動きに対する不安を言い表していると思われますが、同時に、生まれ出る二人の子どもが長子の権利を巡ってその後に繰り広げるであろうさまざまな争いをも、先取りしているようにも思われます。

 リベカは「主のみ心を尋ねるために出かけた」とありますが、どこに行ったのかは分かりません。礼拝の場所か祈りの場所と思われます。困難な課題や悩み、不安を解決してくださるのは主なる神です。

 神のお答えには二つの内容が含まれています。一つは、リベカから生まれる二人の子どもは二つの民族になるということです。一つの民族は、弟ヤコブの子孫であるイスラエルの民です。もう一つは、エサウの子孫であるエドム人です。エドム人は死海(塩の海)の南方に住み着いて、その後イスラエルと長く争いを繰り広げることになります。

二つには、先に生まれた長男ではなく、後に生まれた次男がより強い民になり、兄を支配するようになるということ。この神のお答えには、驚くべき大逆転が語られています。当時の慣習からすれば長男がその家の家督権を持つのが当然で、その家全体を治める権利を有しているにもかかわらず、「兄が弟に仕えるであろう」と預言されているからです。先に生まれたエサウの子孫エドム人ではなく、後で生まれたヤコブの子孫であるイスラエルの民を神は選ばれたのです。

 ここには不思議な神の選びがあります。使徒パウロはこの神の不思議な選びについて、ローマの信徒への手紙9章で語っています。【10~13節】(286ページ)。これは神の憐れみによる選びです(16節以下参照)。人間の善悪や意志やすべてのわざに関係なく、また社会的秩序とか慣習にも関係なく、それらのすべてに先立つ、神の側からの一方的な恵みと憐れみによる選び、それが神の選びであることがここでは強調されています。それゆえに、神に選ばれた人は、神の救いのご計画のために用いられ、神の救いのみわざのために仕える者とされるのです。選ばれた人は、神への感謝と恐れとをもって、神から託された務めを担うことによって、神の選びに応えるのです。これが、アブラハムの選びでした。また、これがヤコブの選びであり、イスラエルの民の選びであり、預言者エレミヤの選びであり、そして使徒パウロの選びでもありました。

 イスラエルの選びについては、申命記7章6節以下にこのように書かれています。【6~8節】(292ページ)。この変わることのない神の永遠の愛がイスラエルの全歴史を導いていました。預言者エレミヤの選びについては、エレミヤ書1章5節にこのように書かれています。【5節】(1172ページ)。それゆえに、エレミヤはたびたびの同民族から迫害の中でも恐れることなく神のみ言葉を語り続けることができました。そして、使徒パウロの選びつついて、彼自身がガラテヤの信徒への手紙1章15節でこのように言っています。【15~15節】(343ページ)。それゆえに、パウロもまた多くの困難や試練の中で、なおも力強く主イエス・キリストの福音を語り続けることができました。

 今日のわたしたち一人一人の選びもまた同様です。わたし自身の何らかの能力とか価値によらず、ただ一方的な神の愛と憐れみによって、この貧しい者であり弱い者であるわたしが神の選びを受け、主イエス・キリストの福音へと導き入れられ、救いへと招き入れられ、神の民とされているのです。ここにこそ、わたしたちの救いの確かさがあり、救われている喜びがあり、そして福音宣教の使命を果たしていく力と希望があるのです。

 では、もう一度創世記25章に戻りましょう。23節には、双子の兄弟であるエサウとヤコブの逆転の運命が、彼らの誕生する前からすでに神によって決定されていることが語られているのですが、その後の二人の生涯は実際にどのようになっていくのでしょうか。

 【24~26節】。先に生まれた兄エサウの説明が「赤い」(これはヘブライ語ではアドモーニー)、「毛深い」(ヘブライ語ではシェーアール)となっていますが、この二つはいずれもヘブライ語の発音がエサウとは一致しません。30節で空腹だった彼が「赤いものを食べさせてほし」と願ったことや、後のエドム人の子孫となったということと関連していると思われます。ヤコブの方は、ヘブライ語のかかとを意味するアーケーブに関連づけられています。ヤコブが生まれた時に兄エサウのかかとをつかんでいたということは、この時からすでに兄エサウを長男の位置から引きずり下ろそうとしていたことをにおわせています。23節の神の預言の成就がすでにここに暗示されているように思われます。ヤコブの本来のヘブル語の意味は「主は守られる」であると考えられます。

 成長した二人の関係はどうなったでしょうか。【27~34節】。わたしたちはここに確かに23節の神の預言がその成就に向かいつつあるということを予感します。それには両親の二人の子どもたちに対する別々の愛、偏愛が大きく作用していることをわたしたちは知らされます。27章で最終的に起こるであろうエサウとヤコブの地位の大逆転がここから始まります。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。両親の分裂した愛、偏愛が、それは決して子どもの健全な成長にとっては良くないのですが、しかしそのような破れた人間の愛をお用いになって、あるいは人間の破れや罪をもお用いになって、神はご自身のご計画を推し進められるのです。

 狩りから帰って来たエサウは、空腹に耐えきれずに、ヤコブが調理していたレンズ豆の煮ものを、中身が何であるのかも知ろうとせず、「その赤いものを食べさせてほしい」と懇願します。そして、ヤコブの悪だくみに乗せられ長子の権利を放棄しました。ヘブライ人への手紙12章16節では、「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないように気をつけるべきである」と警告されているように、人間は自分の腹を満たすために神の祝福を捨て、時に人の命をも奪うのです。

 荒れ野で40日間断食をされたのちに悪魔の試みを受けられた主イエスは、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。わたしたちは朽ち果てるもののために生きるのではなく、永遠の命に至る神のみ言葉によってこそ生きるべきであることを、ここで改めて教えられます。

 他方、弟のヤコブは抜け目のない悪賢さを発揮しています。この時とばかりに、兄の長子の権利を奪おうとします。しかも、兄に誓いまでさせて、自分の利益を確保しようとしています。ヤコブのこの行動は、道義的には決して許されるものではありません。兄弟を欺いてまで長子の権利を手に入れることを聖書が勧めているのでもありません。悪や不正を用いてでも神の祝福を手に入れるべきだと聖書が教えているのでもありません。それは、神への忠実な信仰によって、神から賜るものであることをわたしたちは知っています。

 そうであるとしても、神は両親の偏った愛をもご自身のご計画のためにお用いになったように、ここでも兄を出し抜こうとするヤコブの悪だくみをお用いになって、23節のご自身のみ言葉の成就に向けて、あの不思議な神の選びに向けて、救いのみわざをお進めになるのです。

 そのようにして、神はイスカリオテのユダの裏切りや弟子たちの逃亡や、そしてわたしたち人間の罪をもお用いになって、主イエス・キリストの十字架と復活によってご自身の救いのみわざを成就してくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが主イエス・キリストの十字架の血によってわたしたちと結んでくださった新しい契約は、全世界のすべての国民、すべての人々にとっての永遠の真理であり、まことの救いです。神よ、どうかあなたの愛と義と平和がこの世界を支配し、深く病み、傷ついているこの世界をいやしてくださいますように。

主エス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月24日説教「種をまく人」

2022年4月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書55章8~13節

    ルカによる福音書8章4~10節

説教題:「種をまく人」

 前回学んだルカ福音書8章1節には、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」と書かれていましたが、その際に主イエスは多くのたとえ、あるいはたとえ話を用いてお話になりました。共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカの三つのの福音書では、主イエスがお語りになった説教のほぼ三分の一はたとえであり、その種類は40種以上あると言われています。

 ルカ福音書ではすでに5章36節に、「イエスはたとえを話された」とあり、古いものに新しいものをつなぎ合わせることはできない、新しいものは爆発的な力と命をもって、古いものを破壊してしまうから、ということを強調されました。また、6章39節にも、「イエスはまた、たとえを話された」とあり、新しく始まったゆるしの時代に生きる人は裁き合うのではなくゆるし合うべきことを教えておられます。

 きょうの礼拝で朗読された8章4節以下では、まずたとえが語られ、次に、例えで語ることの理由、目的について、そして11節以下では、先に語られたたとえの解説が主イエスご自身によってなされています。この個所は共観福音書にほぼ同じ形で記録されていますが、ルカ福音書はマタイ、マルコに比べて半分くらいに短縮されています。そこで、マタイ、マルコを参照にしながらこのたとえを学んでいくことにします。

 【4~5節a】。主イエスの説教を聞くために多くの人々が集まってきました。主イエスは彼らにお語りになりました。群衆は、聴衆として、主イエスの説教を聞くように招かれています。彼らの中には、主イエスによって病気をいやしていただくためとか、主イエスの奇跡を見るために集まってきた人たちも多くいたに違いありません。あるいは、主イエスをユダヤ教の異端者とみて、偵察活動のために来た人たちもいたでしょう。その他の目的をもって来た人たちをも含めて、すべての人たちは今、何よりもまず主イエスがお語りになる説教を聞かなければなりません。

 主イエスが説教をお語りになる、そして聴衆がそれを聞くとは、聖書の中ではどのような意味を持つのでしょうか。わたしたちはここでそのことの特別な意味を理解しておかなければなりません。主イエスは興味本意に集まってきた群衆に、みんなの興味に合わせて、いわゆる大衆受けするような講演や講義をしておられるのではありません。集まってきているひとり一人に、その人が聞くべき神のみ言葉を、その人に向かって語っておられ、その人がその神のみ言葉によって生きていくようにと招いておられるのです。主イエスはわたしたち罪びと一人ひとりに語りかけてくださり、わたしたちを救いへとお招きになるために、お語りになります。聖書で「主イエスがお話になった」と書かれているのは、いつでも、どこでも、そういう意味です。

 「たとえを用いて」とありますが、先ほども紹介したように、主イエスの説教の多くはたとえを用いてのお話でした。主イエスがここでお話しになったたとえは、一般に「種まきのたとえ」と言われてきましたが、近年は「種を蒔く人のたとえ」と言われるようになり、少し強調点が移ってきました。『新共同訳』では小見出しに「種を蒔く人」のたとえとしているのは、その変化、強調点の違いを意識していると思われます。マタイ福音書13章18節には、「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」と書かれてあり、主イエスご自身が「種を蒔く人のたとえ」と呼んでおられることからも明らかなように、このたとえは「種を蒔く人」に強調点があるのです。種をまく人がこのたとえの主人公なのです。わたしたちはまずこのことを確認しておきましょう。

 5節で「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」という言葉でこのたとえは始まります。種をまく人が、種を携えて、町々村々を巡り歩き、この世界の至る所に、すべての場所、すべての人に、神のみ言葉の種を蒔くために出て行く、そのために種をまく人はこの世においでになった、しかり、主イエスこそが神のみ言葉の種を蒔く人ご自身なのだということをわたしたちはまず教えられるのです。主イエスは神のみ言葉の種を携えて、否、ご自身が神のみ言葉そのものであるお方として、天の父なる神のみもとから、この地に下って来られました。

 ヨハネ福音書1章では、主イエスの誕生を神の言葉が受肉したこととして表現しています。14節に、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書かれてあるように、主イエスは旧約聖書で語られた神のみ言葉をすべて実現に至らせ、成就されるために、人間のお姿でこの世界においでになったのです。

 神のみ言葉の種をまくためにこの世界においでになられた主イエスご自身が種まきのたとえの主人公であるということから、このたとえを理解していくことが求められます。したがって、種がまかれた場所の違い、道端とか石地、いばらの中そして良い土地に注目して、それぞれの特徴について論じるとというのは本来の主題ではありませんし、それぞれの場所にまかれた種がその後にどうなったか、なぜそうなったのかを詳細に分析したり、その4種類に人々を区分けし、分類したりするということは、ここでは主題ではないということです。主イエスが全地に、全世界のすべての人に、神のみ言葉の種をまくために、人となってこの世においでになられたことこそが重要なのです。

 もう一つここで確認しておくべきことは、種まきのたとえは神の国のたとえであるということです。主イエスは10節で弟子たちにこのように語っておられます。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることがゆるされているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」。また、11節の解説の個所では、「種は神の言葉である」と説明しておられます。種まきのたとえは神の国について、神の国の福音についてのたとえということです。ルカ福音書の中でこれまでに語られた5章36節以下のたとえと6章39以下のたとえも神の国の福音に関するものであったということをわたしたちは読んできました。これら以外の主イエスのたとえも、そのほとんどは神の国のたとえです。主イエスの到来によって開始された神の国、神の新しいご支配、その隠された奥義、秘密を語り、解き明かすために、主イエスはたとえをお用いになったのです。このことについては、次回さらに深く学ぶことになるでしょう。

 では、以上のことを基本にしながら、種まきのたとえを読んでいきましょう。【5~8節】。このたとえは当時の農家の慣習を背景にしていると言われます。種まき機械などない時代ですから、農夫は種を入れた大きな袋を背負いながら、広い畑をくまなく歩いて種をまきます。その際に、一部の種は耕作されている畑を越えて道端や石地の所にも飛んでいきますが、農夫はいちいちそのことは気にしませんし、耕作地の外に飛んでいった種をわざわざ拾い集めるということもしません。そのような農夫の慣習を背景にしているという説明がよくなされます。けれども、種まきのたとえの種をまく人が主イエスご自身であり、そこで語られている内容が神の国の福音であるということからすれば、その説明は適切ではないことが分かります。

 もちろん、主イエスはそのような習慣をご存じであられ、当時のだれもが知っている日常的なことを用いてたとえを語られたのですが、それによって指し示されているのは神の国の福音ですから、主イエスがどの場所でも所かまわずに、無造作にみ言葉の種をまかれたとか、道端や石地にまかれた種については無関心であられたということを連想させる説明は適切ではありません。主イエスは一粒一粒の種に思いをこめられ、一人一人にふさわしく、その人が救いに導かれることを祈り、信じながらみ言葉の種をまかれた、神の国の福音をお語りになったということを忘れるべきではありません。

 そうであるとすれば、わたしたちはここでまず、主イエスが道端であれ、石地であれ、あるいは茨が生えている場所であれ、すべての場所に、すべての人に、神の国の福音の種をまかれたのだということを読み取らなければなりません。1節に、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」と書かれあったとおりです。主イエスは故郷ガリラヤ地方から、異邦人と言われ、ユダヤ人からさげすまされていたサマリア地方にも、時には異教の地にも、そしてご自身を捕えるユダヤ人指導者たちが待ち構えているユダヤ地方、エルサレムに至るまで、あらゆる危険や困難の中を、ひたすらにみ言葉の種をまき続けられました。そして、わたしたちを罪から救い出すために、ご受難の道を進まれました。ついには、一粒の麦の種が地に落ちて死ぬように、十字架で死んでくださり、それによって多くの実りを結ばれたのです。

 主イエスがお語りになる神の国の福音はすべての人に届けられます。宗教には全く無関心で、この世の生活に明け暮れている人も、ローマ帝国の支配者やヘロデの王宮も、ユダヤ教の指導者、ファリサイ派、祭司たちも、そしてユダヤ人以外の異邦人も、すべての人が主イエスが語られる神の国の福音に招かれています。すべての人が神の国の福音を必要としているからです。すべての人が神の国の福音によって救われ、朽ちることのない永遠の命へと招かれています。主イエスが語られた種まく人のたとえでは、まず第一にこのことが強調されなければなりません。

 もう一つ、このたとえの中心点は、まかれた種が必ずや芽を出し、やがて豊かな実りをつけるということです。道端、石地、いばらの中という3種類の場所にまかれた種は実りをつけることができませんでした。もっといろんなケースを挙げることができるかもしれません。用水路に落ちて、流されてしまった種とか、隣の畑に落ちて、隣の人が収穫した場合とか、まかれた種が実りをつけずに失われてしまう例はたくさんあるでしょう。神のみ言葉の種が芽を出し、実りをつけるには、多くの障害があり、困難が待っています。わたしたちは時にその厳しい現実を見て、希望を失いかけることもないわけではありません。けれども、8節に、「また、ほかの種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」と書かれています。主イエスはこの約束を与えてくださいます。イザヤ書55章11節にはこのように書かれています。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」。

 わたしたちもこの約束を信じながら、神のみ言葉の種をまき続ける使命を託されているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたちにも与えてください。あなたのみ言葉の力を信じさせてください。あなたのみ言葉が、死んでいる人を生き返らせ、病んでいる人をいやし、憎しみと殺戮を繰り返している国民(くにたみ)に和解と平和の道を備えることを信じさせてください。

〇主なる神よ、この世界を憐れみ、あなたの愛と正義で満たしてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月17日説教「主イエスは復活であり、命である」

2022年4月17日(日) 秋田教会復活日・教会建設記念日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    ヨハネによる福音書11章17~27節

説教題:「主イエスは復活であり、命である」

 教会の暦ではきょうは主イエスの復活を記念するイースター礼拝です。また、きょうの礼拝は秋田教会建設記念日を覚える礼拝でもあります。(旧)日本基督教会秋田教会が自給独立の教会として秋田伝道教会から秋田教会として教会建設式を執行したのが1934年(昭和9年)4月15日(日)、紺野瀧一郎牧師が就職して2年目でした。当時の東北中会が「自給独立十年計画」を立て、外国ミッションからの経済的独立を目指す運動を始めて4年目でした。それまでの外国ミッションの支援に感謝しつつ、精神的にも経済的にもそれから独立して、教会員一人一人が自覚的に教会を支える自給独立の歩みを始めたのでした。今年は88年目になります。弱さや欠けを持つ教会ですが、主の憐みとお導きとを信じて、真実の教会を建てていくために、これからも共に仕えていきたいと願います。

 きょうのイースター礼拝では、ヨハネによる福音書11章17節以下のみ言葉をご一緒に聞きます。この個所は、ベタニア村のマリアとマルタの兄弟ラザロが死んで墓に葬られて4日目に主イエスによって生き返らされたという奇跡が記されていますが、その中でまず25節の主イエスのお言葉に注目しましょう。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である』」。「わたしは○〇である」という言い方はヨハネ福音書に何度も書かれている特徴的な表現であり、主イエスの自己宣言、自己提示と言われます。たとえば、6章5節では「わたしは命のパンである」、8章12節では「わたしは世の光である」、10章11節では「わたしは良い羊飼いである」、14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である」、15章1節「わたしはまことのぶどうの木である」などです。主イエスはこれらの表現によって、ご自身がほかのだれかとは全く違った特別な存在であり、特別な人間であり、天の父なる神が人間のお姿となってこの世に来られた、神のみ子であるということを語っておられます。

 「わたしは〇〇である」はギリシャ語では「エゴー エイミイ」と言います。エゴーは「わたし」という意味の名詞、「エイミイ」は「わたしは〇〇である」という意味の動詞です。つまり、「エイミイ」だけでその意味になるのに、さらにそれに「エゴー」「わたしは」という言葉を付け加え、強調している言い方なのです。その意味を汲んで日本語に翻訳するとすれば、「わたしこそは〇〇である。わたしだけが〇〇である。わたし以外には〇〇はいない」ということになります。

 つまり、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の命のパンである。天から下って来て、あなたがたに朽ちることがないまことの命を与え、罪の中で死んでいたあなた方をまことの命によって生かす命のパンである」と主イエスは言われます。「わたしこそは、主イエスこそが、すべての人を照らす世の光である。暗闇に閉ざされているこの世界を天からの光によって照らし、暗黒の地に住んでいるあなたがたをそこから導き出し、神のみ言葉の光に照らされて歩むようにする世の光である」。「わたしこそは、主イエスこそが、良い羊飼いである。迷える羊を探し出し、清い飲み水を与え、野のすべての獣(けもの)の攻撃から守り、羊のために命をも惜しまない唯一の良い羊飼いである」。「わたしこそは、主イエスこそが、道であり、真理であり、命である。父なる神に至る唯一の真理への道、唯一の命に至る道、だれも主イエスを通らなければ神のみもとに行くことができない」。「わたしこそは、主イエスこそが、唯一のまことのぶどうの木である。主イエスにつながっていれば、だれでも豊かな実りをつけることができる」。そのように、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の、まことの、そして永遠の、すべての人にとっての、復活であり、命である」と主イエスが言われるのです。

 では、この主イエスのみ言葉はどのような状況の中で言われたのか、またそれにはどのような意味が込められているのかを見ていきましょう。

 11章1節に、ラザロはべタニア村に住むマルタとマリアの兄弟であると紹介されています。ベタニアはエルサレムの東3キロメートルにあります。ラザロという名前には「神が助けた」という意味があります。ここでは象徴的な意味があるように思われます。彼が重い病気になりました。マルタとマリアは主イエスが急いできてくださってラザロの病気をいやしてくださることを願いました。その時、主イエスは4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われましたが、しかし主イエスはすぐにはベタニアには向かわれずに、なおも二日間もそこに滞在し、その間にラザロは息を引き取りました。主イエスは14、15節でこう言われます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」。そう言われてから、主イエスがマルタとマリアの家に着いた時には、ラザロが死んで墓に葬られてすでに4日もたってからであったと17節に書かれています。これはどういうことでしょうか。ここに主イエスのどのような意図があったのでしょうか。

 一つ明らかなことは、主イエスは意図的にラザロの所に行くのを遅らせておられるということです。もし、主イエスがすぐにラザロのもとへ向かっていたら、彼が息を引き取る前に到着していたでしょう。21節でマルタが言っているとおりです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。32節ではマリアも同じことを言っています。彼女たちは主イエスが奇跡によってラザロの病気をいやすことがおできになると期待し、また信じていました。9章に書かれていたように、主イエスは生まれながらにして目が見えなかった人の目を開かれ、見えるようにされました。その他、多くの病をいやす奇跡を行っておられました。ラザロに対しても同じことが出来たはずです。でも、彼が死んでしまってからは、どうすることもできないだろうという思いが彼女たちにはあったのでしょう。彼女たちも、弔問に来たユダヤ人たちもラザロの死の前でただ泣き崩れるほかなかったことが33節に書かれています。

 しかしながら、実はそこにこそ、主イエスの最終的な意図が、目的があったのだということにわたしたちは気づかされます。マルタにとっても、またこの時にラザロの死を悼みながら彼女たちを慰めるためにこの家を訪れていた弔問客も、そしてすべての人にとっても、人間にとって死が最後に行きつくところであり、死が最後に勝利し、人間はそれに対して何の抵抗もできず、全く無力で、死の前に屈服するほかないと、だれもが考えるのですが、しかし、主イエスはここでそれを根本から覆し、死が最後なのではない、死が最後に勝利するのではない、死から新しい命が生み出され、死ではなく命こそが最後に勝利するのだということを、お示しになるのです。病気をいやす奇跡よりもはるかに偉大なる死から命を生み出す復活の奇跡をマルタたちとユダヤ人たちと、そしてわたしたちに見せることが主イエスの最終目的だったのです。

 主イエスが4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われたのはこのことだったのです。また、14節で「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたがそれによって信じるようになるためである」と言われたのはこのためだったのです。そして、主イエスは事実ラザロを死から生き返らせたことが38節以下に書かれています。43節から読んでみましょう。【43~44節】。

 主イエスは死の力を打ち破られました。死に勝利されました。死から新しい命を生み出されました。これは神のみ子であられる主イエスにだけ与えられた神の力であり、主イエスだけがなされる神の奇跡です。主イエスはこれによって神の栄光を現わされました。しかしそれは、ラザロに身に起こった奇跡であり、「わたしこそが復活であり、命である」と言われた主イエスのみ言葉の意味がまだ十分に解明されているとは言えません。わたしたちはさらに深くこのみ言葉の意味をさぐっていかなければなりません。

 23節で主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われた時、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と答えています。これが、この時代のユダヤ人が一般的に持っていた復活信仰でした。生涯神を信じ、神に従った信仰者は終わりの日に神の国が完成される時に復活させられるという信仰は、イスラエルの長い苦難の歴史をとおして、特に紀元前2世紀の大規模なユダヤ教迫害を経て、次第に強くなっていったと推測されています。というのは、苦難と試練の中でも神を信じ続け、神に全き服従をささげてその信仰を貫きとおした信仰者を神は決してお見捨てになることはない。地上の生涯では報われなかったとしても、神は最後には必ずや報いてくださる。そして、復活の命をお与えくださるに違いない。そこから、復活信仰が芽生えるようになったと推測されています。

 しかし、主イエスはここで、そのようなマルタや当時のユダヤ人の復活信仰に対して、終末の時の復活ではなく、今ここで主イエスのみ言葉を聞く信仰者に対して、「わたしこそが復活そのものであり、命そのものである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われたのです。主イエスを救い主と信じる信仰者は、今すでに復活そのものであられる主イエスの復活に与ることがゆるされている、命そのものであられる主イエスの命によって生きることがゆるされている。それゆえに、主イエスが死に勝利されたように、信仰者ももはや死の力に支配されることはない。死に勝利し、復活の命に生かされている。主イエスはそう言われるのです。

 主イエスのこのみ言葉は、主イエスご自身の十字架の死と3日目の復活というイースターの出来事を土台にして理解されなければなりません。主イエスは全人類の罪を贖うために十字架で死んでくださいました。そして、罪と死と滅びからわたしたちを救い出すために、死の墓から復活され、死に勝利されたのです。この主イエスを救い主と信じる信仰によって、わたしたちは死から命へと移されています(5章24節参照)。死のとげはすでに主イエスによって抜き取られているのです。復活の主イエスを信じる信仰者にとっては、その歩みは死に向かっているのではなく、すでに死から命へと移されています。主イエスの復活の命に向かっています。わたしたちはこの信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちを、あなたがみ子イエス・キリストの十字架と復活によって、まことの命に生きる者としてくださいましたことを、感謝いたします。どうか、わたしたちが朽ち果てるしかない地上の命のために生きるのではなく、天から与えられる永遠の命に生かされている者にふさわしく、復活であり命であられる主イエス・キリストにお仕えする信仰の歩みを続けさせてください。主イエスの復活の恵みと命が、全世界のすべての人にありますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。