11月6日説教「ヤコブの帰郷」

2022年11月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記31章1~21節

    ヘブライ人への手紙13章1~6節

説教題:「ヤコブの帰郷」

 創世記31章3節にこのように書かれています。【3節】。ヤコブは伯父ラバンの家での20年間の生活を終えて、故郷のカナンの地へ帰るようにとの神の命令を聞きました。この章には、1~22節までは、ヤコブがラバンの家から逃げ出すようにして旅立っていく時の様子と、23~42節までは、ヤコブが家族みんなを引き連れて家を出て行ったことを知ったラバンが三日後にヤコブの後を追って行き、追いついてからの二人のやり取りについて、そして43~54節までは、ヤコブとラバンが平和的に分かれることになったことを記念して二人が結んだ契約について描かれています。長い1章なので、朗読は21節までにしました。

 この章に描かれている内容の多くは、ヤコブとラバン、どちらも計算高く、悪賢く、自分の利益のために相手を欺くことしか考えないような、二人の男性の人間的で世俗的な会話と物語ですが、しかし聖書はそのような人間たちをお用いになって、ご自身の永遠の救いのみわざを成し遂げられる主なる神について語っています。わたしたちはこの章からも、アブラハム、イサク、ヤコブをお選びになってご自身の救いのみわざをお始めになった主なる神が、やがてヤコブの12人の子どもたちからなるイスラエルの民をとおして、そのみわざを前進させ、そしてついに、イスラエルの民の死にかけた切り株から出たメシア・救い主・イエス・キリストによってその救いのみわざを成就されるに至るまでの、永遠なる神の救いのみわざを、この31章からもわたしたちは読み取っていくことができます。

 今読んだ31章3節こそが、まず最初にそのことを語っています。ヤコブに故郷へ帰るようにとお命じになったのは神です。ヤコブ自身も、自分はもう十分に伯父ラバンのために働いたし、父イサクの家を出てから長い年月が過ぎたので、そろそろ故郷へ帰りたいと願ってはいました。しかし、それをお命じになるのは神ご自身です。

ヤコブはラバンの家で、愛する妻ラケルとの結婚のために7年間、働きました。けれども、ラバンに欺かれて、妹のレアと結婚させられ、ラケルを正式な妻とするために、さらに7年間働くことになりました。それから、30章25~43節に書かれているように、ラバンの家畜を養うためにもう6年間、計20年間、ラバンの家で、ラバンのために働かなければなりませんでした。そのようにして、ラバンのもとで、その家の主人のために、誠実に働き、ラバンのたび重なる欺きをも忍耐し、人生と信仰の訓練を積み重ね、そのようにして今、故郷に帰れとの神のご命令をヤコブは聞いたのです。彼はこの時が満ちるまで待たなければなりませんでした。いつも、どのような時にもヤコブと共にいてくださる神が、その時を満たしたくださるからです。

 30章25節以下に書かれているヤコブの6年間の働きのことを少し振り返ってみたます。25~26節で、ヤコブはラバンにこのように言います。【25~26節】。ところが、この時にはまだ神がお定めになった時は満ちていませんでした。故郷へ帰るのはヤコブの願いではなく、神のみ心です。ヤコブが独り立ちするためではなく、神がアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約を実行されるためです。

 ラバンはヤコブが故郷に帰りたい希望を持っていることを知り、ヤコブに報酬を支払いたいからと言って、さらに6年間、自分の家畜の群れを養うという約束を結ばせました。これもラバンの策略でした。ヤコブが彼自身の家畜を財産として持ち帰ることができるまで、なおしばらく家畜の世話をしなければならなくなり、その間自分の家畜の世話をもしてもらえるとラバンは考えました。

 ところが、賢さにおいては、ヤコブが一枚も二枚も上でした。ヤコブは、羊と山羊の中で、白い毛の中に黒い毛がぶちやまだらになっているものだけを自分の財産として持ち帰らせてくださいとラバンにお願いします。羊も山羊もほとんどは白く、ぶちやまだらはごくわずかなので、ラバンはすぐに承知しました。次にヤコブは、家畜の水飲み場に、ポプラなどの若枝の皮を一部はぎ、縞模様を造ってそれを置き、家畜が水を飲みに来てそこで交尾をする特に、その縞模様を見ると、生まれてくる子羊、子ヤギがみなぶちやまだらになり、ヤコブの家畜だけが増えたので、ヤコブは6年間で多くの家畜や財産を持つようになったと、

30章の終わりに書かれています。

 古代社会では、人間も家畜も妊娠した初期に見たものが生まれてくる子どもの性格や外見に影響を与えるという考えがあったようです。今日でも、いわゆる「胎教」というような形でその考えが受け継がれていると言われます。ヤコブの賢さがラバンに勝りました。きょう読んだ箇所で、ヤコブは二人の妻ラケルとレアを呼んで、にこのように言っています。【5~9節】。ヤコブは自分の家畜が増えたのは、神が自分と共にいてくださり、神がラバンから取り上げてわたしにお与えになったからだと言っています。ヤコブの知恵は神から与えられた知恵なのだと聖書は言っているように思われます。【11~13節】。

 ヤコブが二人の妻を自分のもとに呼んで、しかも彼女たちの父ラバンには気づかれないようにして、このような話をしていることには理由がありました。ヤコブはラバンには内緒にして家を出て行こうとしています。もし、家を出ると言えば、また引き止められるかもしれず、また自分が増やした財産を置いて行けと言われるかもしれないからです。それ以上に不安なのが、ラバンが二人の娘ラケルとレアを自分と一緒に出て行くことをゆるしてくれるかどうか、いやそもそもラケルとレア自身がそう願っているかどうかが分からなかったからです。ヤコブもラケルとレアも、大きな家族であるラバンの家に属しています。本来ならば、ラケルの同意なしには家を出て行くことはできないと、当時の社会では考えられていました。

 二人の妻ラケルとレアに対するヤコブの不安はすぐに解消されました。二人は父であるラバンが自分たちの夫であるヤコブにつらく当たっていたのを見ていました。ヤコブが誠実に父の家で働く姿も見ていました。彼女たちは父に内緒で夫ヤコブと共にラバンの家を出ることに賛成します。その時、ラケルはラバンの家の守り神である像を盗んで持ち帰りました。

 22節から、ヤコブ一家が家を出て行ったことに気づいたラバンの追跡が始まります。三日目にそれに気づいたラバンは、七日かけてヤコブに追いつきました。その前の日の夜、神が夢でラバンに語りました。【24節】。そのことが、ラバン自身の口からも語られます。【29~30節】。ラバンは自分に告げずに家を出て行ったヤコブに何らかの罰を加えることもできたのに、それをしないのはアブラハム・イサク・ヤコブの神が自分にそのように命じられたからだと言っています。ラバンもまたアブラハム・イサク・ヤコブの神のご支配のもとにあることを、そしてイサクがこの神の導きのもとにあることを知らされました。ヤコブの20年間の逃亡生活の中で、すべてを支配し、導いておられたのが主なる神であり、家の主人であるラバンではなかったということが、ラバン自身にも、また聖書を読んでいるわたしたちにも、はっきりと知らされたのです。

 ここで、ラケルが持ち帰った家の守り神の像のことが取り上げられています。ラバンは必死になってそれを見つけようとしますが、ラケルの機転によって、彼女がその像をラクダの鞍の下に隠し、その上に自分が座っていたので、ラバンに発見されずに済みました。このことを契機に、自分が家の像を盗んだと非難されたヤコブが、ラバンに対して反撃攻勢をかけ、彼に抗議します。

 【36~42節】。ここには、遠くハランの地の伯父ラバンのもとで逃亡生活をしたヤコブの20年間の意味は何であったのか、その目的は何であったのか、そのすべては神が備えられたものですが、それが明らかにされています。神はヤコブにこのことを悟らせるために、この20年間の信仰の訓練の時を、試練と忍耐の時を備えられたのです。ヤコブの傲慢で人を欺く悪しき知恵を打ち砕くため、自己中心的で、他者の権利を奪い取ってでも自分のものにしようとする彼の自我を打ち砕くために、神はヤコブにこの20年間を備えたもうたのです。

 43節からは、ヤコブとラバンが和解したことを確かな証拠として残す契約の儀式のことが描かれています。この儀式には、古代の近東地方の契約の儀式の慣習がいくつか見ることができます。また、その形式はのちのイスラエルの礼拝に受け継がれ、さらには今日の教会の礼拝にも受け継がれています。その特徴のいくつかを挙げてみましょう。

 一つは、神がその契約の証人となるということです。49節、50節でラバンはこう言います。【49~50節】。ラバンはここでヤコブの神をのちモーセの時代に名づけられる「主」というお名前で呼んでいます。53節でもラバンとヤコブが共にそれぞれの神を契約の証人とすることが語られています。【53節】。永遠なる神、真実なる神のみ前にあって、人間と人間との間の契約の真実性が保証されます。イスラエルの礼拝において、またわたしたちの礼拝において、永遠なる神、真実なる神のみ言葉が語られ、そのみ言葉が神による罪のゆるしを与え、その罪のゆるしの確かさを保証するのです。

 第二には、動物のいけにえがささげられることです。【54節】。ここには詳しくは書かれていませんが、おそらく動物の血が両者の間の契約の確かさを保証していたと考えられます。さらには、そのささげられた犠牲の動物の肉を共に食することによって、契約当事者間の交わり、和解が確かめられます。46節にも共同の食事のことが語られています。これらの形式は、イスラエルの礼拝の形式として受け継がれ、主イエス・キリストによって、わたしたちの教会の礼拝のために成就されたということをわたしたちは知っています。

 第三に、契約の記念として石塚や記念碑が建てられ、それが契約の目に見えるしるしとされるということです。それが、その地の名称の由来にもなっています。

 このようにして、ヤコブとラバンは平和的に20年間の共同生活を終えて、ヤコブは故郷の地、カナンへと帰ることがゆるされました。そして、ヤコブとエサウとの再会、ゆるし合いへと続きます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは和解の主、平和の主、すべてのものを一つに結びつける主であられます。あなたは、あなたとわたしたち人間との間にあった罪という厚い壁を打ち破って、わたしたち人間と和解してくださいました。その和解のために、あなたの御独り子の血を犠牲としておささげくださいました。それによって、わたしたちはあなたとの永遠の和解を与えられ、あなたの民としてみ国へと招き入れられておりますことを覚え、心から感謝いたします。

○主なる神よ、どうかわたしたち全人類に真実の和解と一致をお与えください。この世界から争いや憎しみ、分断や差別を取り除いてくださり、互いに仕え合い、互いに重荷を負い合い、互いに痛みを分かち合う真実の交わりと共に生きる道をお備えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月30日説教「神に選ばれた信仰者」

2022年10月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記7章6~11節

    コリントの信徒への手紙一1章26~31節

説教題:「神に選ばれた信仰者」

  『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして続けて学んできました。きょうから新しい段落に入ります。『信仰告白』の1段落目は、「わたしたちが主と崇める神のひとり子イエス・キリストは」から始まり、「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」までは、以前の文語文では一続きの文章でした。口語文になってから二つの文章に分けられましたが、文章の主語はいずれも主イエス・キリストであることは変わりません。主イエス・キリストが最初の段落全体のすべての文章の主語です。ここでは、主イエス・キリストとはどのような方であるのか、またその救いのみわざがわたしたちとどうかかわるのかということが告白されていました。

 きょうからは、次の段落に入ります。「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ、功績なしに罪を赦され、神の子とされます」。ここでは、わたしたちがどのようにして信仰者とされるのか、またどのようにして罪から救われるのかが告白されています。きょうはその最初の部分、「神に選ばれて」という箇所を、聖書のみ言葉から学んでいきます。

 まず、この個所を1890年(明治23年)に制定された旧『日本基督教会信仰告白』と比較してみましょう。旧『信仰告白』ではこうなっていました。「凡そ信仰に由りて、之と一体となれるものは赦されて義とせらる」。今の信仰告白の3分の1ほどの長さです。新たに付加された言葉をいくつか拾い上げてみると、冒頭の「神に選ばれて」、それから「功績なしに」、「神の子とされます」などが追加されていることが分かります。これらの追加部分は、新しい『日本キリスト教会信仰の告白』の特徴になっています。

 日本キリスト教会は1951年に日本基督教団を離脱し、第3回大会の1953年10月に現在の『信仰告白』を制定しました。その際に、わたしたちの先輩たちが志したことは、戦時中に旧日本キリスト教会が正しい信仰告白をすることができず、国家に迎合し、アジアや世界に侵略していく戦争に反対できず、神の民としての時代の見張り役を務めることができなかったという教会の過ちを反省して、宗教改革者カルヴァンの流れをくむ改革教会の信仰と神学を取り戻さなければならないとの強い決断によって、この信仰告白を制定したのでした。

 その強い主張と特徴が、『信仰告白』の最初の文言の「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリスト」という告白に言い表されているということを、すでにわたしたちは学びました。この「主告白」は、かつて戦時中の教会が見失っていた告白であった、主イエス・キリスト以外のだれをも、いかなるものをも主としない。天皇であれ、国家であれ、軍隊であれ、あるいは国家総動員とか八紘一宇とかのスローガンであれ、この世の何ものをも主とはしない。ただおひとり、わたしたちの罪をゆるすために十字架で死なれた主イエス・キリストだけがわたしたちが信じ、従うべき唯一の主である。この「主告白」をいつの時代にも貫き通すことが、新しく歩みを始めた日本キリスト教会の大きな課題である。先輩たちはそのように考え、『信仰告白』の冒頭に「主告白」を置いたのです。

 それとともに、「神に選ばれて」「功績なしに」「神の子とされる」という新しい『信仰告白』で追加された文言も、同じような意図から、日本キリスト教会の信仰と神学の特徴をはっきりと言い表し、今の時代の中で、時代の中に埋もれてしまうのではなく、主キリストの証し人として、世の光・地の塩として生きるべきことを告白しています。

 さて、神の選びの教理は、特に宗教改革者カルヴァンが強調した教えであり、改革教会の大きな特徴でもあります。カルヴァンは著書『キリスト教綱要』の中で、神の永遠の選びの教理について詳しく述べています。彼が選びの教理を強調するのには、主に二つの理由、目的がありました。一つは、わたしたちの救いは神から一方的に差し出された神の恵み、神の憐れみという泉から湧き出たものであるということを明確にとらえるためであるということ。二つには、わたしたちの救いは、神の永遠のご計画の中に定められており、それゆえに確かであり、神と主キリストによって守られているという、わたしの救いの確かさを明確にするためであるということです。今日わたしたちが選びの教理について考える際には、この二つの中心的な目的からそれないように注意することが重要です。と言うのは、選びの教理はカルヴァン以前にも以後にも、さまざまに議論され、多くの間違った教理を生み出すことになったからです。

 カルヴァンの選びの教理はいわゆる「二重予定説」と言われます。「神は永遠の選びによって、ある者を救いに予定し、ある者を滅びに予定された」というのが二重予定説です。けれども、のちの一部の教会はこの教えを神の選びの恵みをせばめたり、神の裁きを強調するという誤った教えに導き、本来信仰者に選ばれた喜びと確信とを与える目的の教理が、不安や恐れを与える教えに変えられたという歴史がありますので、わたしたちは慎重にこの教理を扱わなければなりません。カルヴァンの予定説、選びの教理は、先に挙げた二つの中心的な目的、神の選びと救いが一方的な神の恵みと憐みによるものであるということと、神の選びと救いが永遠なる神のご計画の中にあるのであり、それは確かであるということ、この二つの中心的な目的から外れないようにすることが重要です。

 では、神の選びについて教えている聖書を読んでみましょう。最初は、ローマの信徒への手紙9章11~13節です。【11~13節】(286ページ)。神は人間が生まれるより前に、何かをなすより前に、すでにある人を選ばれ、その人を愛されます。神の選びは選ばれる人の人間的な何かによって決定されるのではなく、全く神の側の自由な、恵みの選びによることなのです。16節に、「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです」と書かれれているとおりです。カルヴァンの「二重予定説」と言われる教理も、このような神の永遠で、自由な恵みの選びと、神の大きな憐れみを強調しているのです。

 また、使徒パウロは、キリスト教会の迫害者であった彼が、神に選ばれて主キリストの福音を宣べ伝える使徒とされたのは、全く神の恵みによることであり、神のみ心によるのであると、ガラテヤの信徒への手紙1章15節で語っています。【15~16節】(343ページ)。神はパウロが生まれるよりも前に、彼を選ばれ、彼を主キリストの福音の宣教者としてお立てになっておられたのです。

 では次に、神の選びの特徴について申命記7章のみ言葉から学んでいきましょう。【7章6~8節】(292ページ)。ここには、神がイスラエルの民を選ばれ、彼らをエジプトの奴隷の家から救い出された、その選びの特徴がいくつか語られています。6節には、「あなたの神、主は地の表にいるすべての民の中からあなたを選び」と書かれています。神の愛と救いのみわざは、神の選びにその基礎と出発点を持っていることが分かります。神は全世界のすべての国民の中から、ただ一つの民、イスラエルだけをお選びになりました。神はご自身が選ばれた民イスラエルを用いて、この民を通して、救いのみわざをなさるのです。極端な言い方をすれば、神の選びがなければ、神の救いのみわざはだれにも分からないということです。神の救いのみわざは、もちろん天地創造の初めから全地において、全被造物を通して絶えず行われているのですが、もし神に選ばれた者がいなければ、だれもその救いのみわざに気づかず、それを信じることもできず、その証人となることもできないということになります。神に選ばれた民、選ばれた人だけが、神の救いのみわざを悟り、信じ、またそれを全世界に向けて証しすることができます。選ばれた信仰者は、いまだ選ばれていない人々に対して、神の救いのみわざを証しする人とされるのです。

 6節の前半には、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」と書かれています。聖とは、この世から選び分かたれ、神にささげられたものとされたという意味です。神に選ばれた民イスラエルは、神のものであり、神の所有であり、神のご支配と配慮のもとに置かれます。したがって、イスラエルの民は神の民、神の宝の民であり、他の何ものからも自由にされた、自由の民です。

 神の選びは、神の愛によることが7、8節で語られています。神の愛が選びの愛であることがここでは強調されています。だれをも平等に愛する普遍的な愛というよりは、もちろんそうでもあるのですが、だれも神の愛から漏れてはいないのですが、それ以上に、神の愛は選ばれた一つの民、ひとりの人に集中して注がれる、選びの愛です。神は愛によって選び、選ばれた者に愛を集中して注ぎます。

 さらに重要なことは、その神の愛の特質です。神の愛は、すべての民の中で最も貧弱であり、小さな民であったイスラエルに注がれたと7節に書かれています。神の愛は、わたしたち人間の愛の基準とは全く違っています。わたしたちの愛は、この世的な価値観から生まれ、またそれに左右されます。人間の愛は愛すべきものを愛します。愛すべき価値が消えれば、愛も消えます。人間の愛はすべて罪の中にあるからです。

 しかし、神の愛は、愛に値しいないものを愛します。神の選びは、選ばれるに値しない者を選びます。それは、神に選ばれ、神に愛される対象には全く左右されない、ただ純粋に神の恵みと憐みによる、神の自由な意思による選びであり、愛なのです。

 ここで、新約聖書で選びについて語っているコリントの信徒への手紙一1章26節以下を読んでみましょう。【26~28節】(300ページ)。ここでは、神の不思議な選びの目的が語られています。それは、人間が誇りとしている知恵や力を打ち砕くためだと言われています。さらに、29節以下ではこう語られています。【29~31節】。これこそが、神の不思議な選び、自由な、恵みの選びの最終目的なのです。神に選ばれた人は、そのことを誇ることはだれにもできません。ただ、神の恵みの選びを感謝し、神の栄光をほめたたえるのです。

 もう一度、申命記7章に戻りましょう。ここで、神の選びの愛のもう一つの特徴は、神の愛はイスラエルを奴隷の家エジプトから救い出す神の救いのみ力として働くいうことです。神の選びの愛は、当時世界最強の国であったエジプトとその王ファラオの支配から、奴隷の民イスラエルを数い出しました。神の選びの愛は救いの力として働きます。神の選びの愛は、主イエス・キリストによる罪のゆるしの力として、わたしたちに働きます。

 神の選びのさらなる特徴は、神の選びの愛は神の契約に基礎づけられているということです。8節に、「あなたがたの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」と書かれています。神の選びの愛は、一時的な感情ではありませんし、あるいは偶然に思いついた愛ではありません。それは永遠なる神の契約に基づいています。神は族長アブラハムと契約を結ばれました。その子イサク、その子ヤコブと契約を更新されました。そして、ヤコブの12人の子どもたち、イスラエルの民へと契約は受け継がれ、ダビデ王との契約で更新され、ついにはダビデの子孫から出たナザレのイエスをお選びになり、この主イエス・キリストによって、新しい神の民である教会と新しい契約を結ばれたのです。神の選びの愛は、永遠なる神との契約に基づいています。時代が変わり、世界が代わっても、神の選びの愛は変わることはありません。ここにこそ、選ばれる人間の側の条件には左右されない、ただ神の一方的な恵みと憐みによる選びと救いがあり、またそれゆえにこそ、わたしたちの選びと救いの確かさがあるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画の中に、わたしたち一人一人をも招き入れてくださり、この滅びにしか値しない罪多き者をも、主キリストの救いにあずからせてくださいますことを信じ、心からの感謝をささげ、み名のご栄光をほめたたえます。どうか、全世界において、あなたのご栄光が現わされますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月23日説教「エルサレムの教会に対する大迫害と教会の成長」

2022年10月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記1章6~14節

    使徒言行録1~8節

説教題:「エルサレム教会に対する大迫害と教会の成長」

 キリスト教会最初の殉教者となったステファノの死は、誕生して間もないエルサレム教会にとって、どんなにか大きな衝撃であり、試練であったことでしょうか。教会はこれまでも二度の迫害を経験していました。一度目は、4章1節以下、ペトロとヨハネが捕らえられ、裁判にかけられました。二度目は、5章17節以下、12人の使徒たち全員が逮捕され、迫害が広げられました。そして今回は、エルサレム教会で選ばれた7人の奉仕者たちの一人ステファノが石打の刑で処刑され、教会員の血が流されるという、より深刻で、衝撃的な迫害となったのです。

 しかし、初代教会が受けた迫害はこれにとどまりませんでした。8章1節にこのように書かれています。【1節】。最初の殉教者ステファノの死は、同じ日に起こったエルサレム教会に対する大迫害の合図となったのです。使徒言行録では、この個所で初めて「迫害」という言葉が用いられます。しかも、それに「大」を付けて「大迫害が起こった」と書かれています。ステファノの死と教会員のエルサレム市内からの追放という二重の大きな試練が、エルサレム教会を襲ったのです。教会はこの試練にどのように立ち向かったのでしょうか。教会はこの試練の中で、どのようにしてなお生き延びることができるのでしょうか。使徒言行録を読むこんにちのわたしたちにも、大きな緊張感が走ります。

 「使徒たちのほかは皆」と書かれています。使徒たちとは主イエスの弟子であった12人を指しますが、彼らはエルサレムに留まることがゆるされたけれども、それ以外の教会員は、おそらくこのころは少なくとも5千人の教会員はいたと推測されますが、その全部がエルサレム市内から追放されたということを言うのか。そうなれば、エルサレム教会の存続そのものが不可能になるのではないかと思われます。ところが、このあとの使徒言行録にはエルサレム教会にある程度の教会員が残っていたと思われる記述がいくつかありますので、「ほかは皆」という表現は「ある特定のグループは皆」という意味ではないかと多くの研究者は考えています。

 エルサレム教会には、生まれた時からエルサレムを離れずに住んでいたユダヤ人、彼らはヘブライ語を話していたのですが、その人たちをヘブライストと一般的に呼びます。彼らのほかに、一度エルサレムから諸外国に出て行き、最近になってエルサレムに戻って来た、ギリシャ語を話すヘレニストと言われるユダヤ人とが住んでいて、エルサレム教会の中でもやもめたちの日々の分配のことでその両者に多少の争いがあったということが6章に書かれていました。その問題解決のために選ばれた7人の奉仕者の一人がステファノでした。当時のこのようないきさつから推測して、エルサレム市内の住民の間でも、もとからこの町に住んでいたヘブライストと諸外国から戻って来たヘレニストとの間にある種の軋轢があったのではないか。それが、今回のステファノの死刑判決と殉教がきっかけとなり、ステファノはヘレニストだったと思われますので、エルサレム教会のギリシャ語を話すヘレニストと言われる教会員の追放になったのではないか。しかし、ヘブライ語を話すヘブライスト、12人の使徒たちもそうですが、彼らはエルサレム市内に留まることをゆるされた、というのが実態ではないかと、多くの研究者は推測しています。

 しかし、そうであるとしても、この大迫害がエルサレム教会に与えた打撃は限りなく大きいものでした。教会の有能な働き人であったステファノを失いました。他の6人の奉仕者も、その名前から推測してみなヘレニストでしたから、ギリシャ語を話すヘレニストの教会員と一緒に追放されました。少しずつ整えられつつあった教会の体制は、一気に崩されてしまいました。教会はこの危機をどのようにして乗り越えていくのでしょうか。

 【2節】。「信仰深い人たち」については二つの理解ができます。一つは、ユダヤ教の信者たちで、信仰深い人々。もう一つは、エルサレムに残っているキリスト教の信者たち。いずれにしても、ここで強調されていることは、ステファノの殉教の最後の姿に真実な信仰を見た人たちが多くいたということです。主イエスの十字架の死の場面を見たローマ軍の百人隊長が、「本当にこの人は神の子だった」と告白したように(マルコ福音書15章39節)、石打の刑で処刑されながら徹底して神への信仰を貫き通し、それのみか自分を裁いているユダヤ人指導者たちの罪のゆるしを祈っているステファノの姿は、多くの人の心を打ち、彼の遺体を手厚く葬るという行動へと至らせたのです。処刑された犯罪人に対しては、公然と葬儀を行ったり、死者への悲しみを面に出したりすることは禁じられていたにもかかわらず、彼らはステファノを処刑したユダヤ人指導者者たちへの抗議でもあるかのように、彼の死を悲しんだということがここには言い表されています。

 誕生して間もない若い教会は、この世からの迫害に対抗して身を守る術を何も持っていません。反撃したり、抗議したりする力もありません。教会は弱く、貧しく、無力であるように見えます。迫害の血を流し、この世から追放されるほかにない、憐れな群れであるかのように見えます。けれども、教会は迫害によってもこの世界から撤退することはなく、消え去ってしまうこともありません。むしろ、人間的な弱さの中にこそ、教会の本当の力と命が、それは天の父なる神から与えられるのですが、その力と命が現れ出るのです。

 次に、【4節】。大迫害によりエルサレム市内と教会から追い出された信仰者たちは、決して信仰そのものを失ってしまったのではありませんでした。信仰を捨てて、再びこの世の朽ち果てるものを追い求める生活へと戻っていったのでもありませんでした。彼らは神のみ言葉を捨てたのではありません。主イエス・キリストの福音を語る口を閉ざしたのではありません。いや、むしろ、散らされた信仰者たちによって、主イエス・キリストの福音の種がより広い地域へ蒔かれることになったのです。

 宗教改革者カルヴァンは注解書の中でこのように書いています。「このように、彼らの神はやみの中から光を、死から命を引き出すのを常となさった。というのは、一つの場所でしか聞かれなかった福音の声が、今や至る所で鳴り響くからである」。主キリストの福音がエルサレムからパレスチナ全域へと、さらには全世界へと拡大されていくきっかけが、実にエルサレム教会が経験した大迫害だったのだということを、わたしたちは知らされるのです。

 彼らは必ずしも自ら進んで福音の種をまくために出て行ったのでありませんでした。エルサレムからの強制退去によって、いわば外からの圧力に強いられて出て行ったのでした。また、追い出された彼らは、次の迫害を恐れてどこかに身を隠したり、この世から姿を消して部屋の中に閉じこもっていたのでもありませんでした。彼らは神のみ言葉を宣べ伝えながら、巡り歩いたと書かれています。大迫害を経験した彼らにとっても、神の言葉は決してこの世の鎖につながれてはいませんでした。この世からの圧力によってもその力と命を失ってはいませんでした。人間の弱さ、教会の弱さの中でこそ、神のみ言葉はその偉大な力と命を発揮するのです。神のみ言葉はエルサレムだけにとどまらず、ユダヤ全域に、北の異邦人の地サマリアへ、さらにはパレスチナ全域を行きめぐり、小アジアからヨーロッパへと拡大されていくのです。

 このようにして、1章8節で、復活された主イエスが弟子たちにお命じになったみ言葉、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」との約束のみ言葉が、エルサレム教会を襲った大迫害をとおして成就されていくのです。これはまさに神の奇跡のみわざです。

 8章1節と4節に「散って行った」という言葉がありますが、これは元のギリシャ語は文法的には受動態で「散らされていった」という意味です。意味上の主語は何かと考えるなら、教会を迫害したユダヤ人指導者たちが挙げられるかもしれませんが、以前にもお話したように、聖書では受動態で意味上の主語がはっきり語られない場合の多くは神が主語と考えられています。ここでもそのように理解すべきです。信仰者たちをユダヤ、サマリアとパレスチナ全域へ、さらには全世界へと散らし、その散らされた地で神のみ言葉を宣べ伝えさせ、主キリストの福音を語らせたのは、神ご自身なのです。彼らを導かれたのは聖霊なる神なのです。1章8節で、主イエスが「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、……地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われたのは、そのことであったのです。たとえ、人間的な弱さと教会の無力さの中にあっても、否むしろ、そのような時にこそ、神はその偉大な力と命とを発揮なさいます。

 きょうの聖書の個所で、もう一つ目を引くことがあります。それは、ここにサウロという名前が何度も出てくるということです。ステファノの処刑の時、7章58節で、8章1節と3節、計3回もサウロの名前が挙げられています。もちろん、サウロはのちの使徒パウロのことです。エルサレム教会が経験した最初の殉教者と大迫害のこの場面にパウロの名前がたびたび出てくる。7章58節ではステファノの石打ちの刑のわき役として、8章1節ではステファノ殺害に責任を持つ一人として、そして8章3節では、教会迫害の張本人として、それどころか迫害運動の首謀者として、その名前が挙げられています。

 使徒パウロのその後の活動をよく知っているわたしたちは、ここに登場してくる教会の迫害者であったサウロ・パウロがやがて人間の目には図り知ることのできない神の深いみ心と、永遠の救いのご計画によって、教会の偉大な宣教者とされるという、神の大きな奇跡のみわざを思い知らされるのです。パウロは使徒言行録22章19節以下で、ダマスコで復活の主イエス・キリストに出会い、回心した時のことを回想しています。【22章19~21節】(259ページ)。

 神はエルサレム教会が経験した最初の殉教者の血と大迫害をお用いになって、主イエス・キリストの福音と教会を全世界へと拡大していくきっかけをお与えになったように、神はまた、教会の迫害者パウロをもお用いになって、主イエス・キリストの福音と教会とを全世界へと拡大していく具体的な道をお備えになったのです。カルヴァンが言ったように、神は闇から光を創造され、死から命を生み出され、無から有を呼び出だされたのです。

 わたしたちもまたこの神を信じる信仰へと招かれています。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、わたしたちを罪から救い、罪によって死すべきわたしたちを永遠の命に生かしてくださる神を信じる信仰へと招かれています。そして、この主キリストの福音を全世界に宣べ伝える宣教の務めへと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子の血によって贖い取ってくださったあなたの教会の民を、どうかみ国の完成の時まで守り、導いてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月16日説教「悪霊にとりつかれた人をいやされた主イエス」

2022年10月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編51編1~14節

    ルカによる福音書8章26~39節

説教題:「悪霊に取りつかれた人をいやされた主イエス」

 主イエスと弟子たちの一行は、ガリラヤ湖の北西沿岸の町カファルナウムから船出して向こう岸に渡っていきました。途中、激しい嵐に会い、舟が沈みそうになりましたが、主イエスが神の権威と力によって風と荒波とをお叱りになって嵐を静められ、舟は無事に対岸に着きました。その地は、26節によれば、ゲラサ人の地方と言われています。

 当時、ガリラヤ湖の東側一帯はデカポリス(10の都市と言う意味)と呼ばれ、そこの住民はほとんどがユダヤ人以外の異邦人でした。ローマ政府が直接統治していた異教徒の地でした。その地で豚を飼っている人がいたのはその理由によります。というのは、ユダヤ人にとって豚は宗教的に汚れた動物で、飼育することもその肉を食べることもしなかったからです。

 主イエスがそのような異邦人の地へ出かけ、異邦人に福音を宣べ伝えたということは、福音書では非常にまれなことです。主イエスがユダヤ人の地で異邦人に伝道したことや異邦人をいやされたという記録はいくつかありますが、異邦人の地へ出かけて行って、異邦人に伝道したという記録はここだけです。その意味で、きょうの個所には大きな意味が含まれているといえます。

 最初に、そのことについて少し考えてみましょう。主イエスの福音宣教の範囲はユダヤ人の地に限られ、その対象もユダヤ人にほぼ限定されていました。それは、神が、旧約聖書に書かれているように、最初にユダヤ人、イスラエルの民をお選びになり、この民と救いの契約を結ばれたからです。けれども、この神とイスラエルとの契約は、一つの民族だけの救いを目指していたのではありませんでした。神は先に選ばれたイスラエルの民によって、やがてその救いのみわざが全世界のすべての国民へと拡大されていくことを最初から計画しておられました。神の限りない恵みと慈しみ、全人類に対する大きな愛が、イスラエルの民をとおして証しされていたのです。そしてついに、主イエス・キリストによってその神の救いのみ心が明らかにされました。主イエスはすべての罪びとのために十字架で死んでくださり、すべての人の罪が主イエスの尊い血の贖いによってゆるされ、救われるということを明らかにされました。神は主イエス・キリストによって、新しい教会の民をお選びくださり、全世界に建てられる教会によって、主キリストの福音がすべての人に宣べ伝えられるようにされたのです。これが神の永遠の救いのご計画でした。

 このことから、きょうのルカ福音書のゲラサ人の地での福音宣教と救いのみわざを見てみると、この出来事はやがて教会が誕生し、主イエスの福音が全世界に宣べ伝えられることの、いわば先取りであり、そのことをあらかじめ預言していることになります。十字架につけられ、三日目に復活された主イエスが、弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ福音書16章15節)とお命じになられたように、異邦人伝道、全世界への福音宣教は、主イエスご自身が最初からご計画しておられたことなのです。わたしたちはその主イエスのご計画に従って、こんにちこの日本で、この秋田で、福音宣教のわざのために仕えているのです。

 では、26から27節を読みましょう。【26~27節】。『新共同訳聖書』では、27節の後半は「男がやって来た」と翻訳されていますが、この文章の主語は前半と同じ主イエスと考えるのがよいと思われます。つまり、「イエスは陸に上がられた」「その時、イエスはこの町の者で悪霊に取りつかれている男と出会った」と訳すがよいように思われます。『口語訳聖書』ではそのように訳されていました。この人は人里離れた墓場を住まいとし、他の人にはできるだけ会わないようにしていたのですから、その人が主イエスの方に近づいてきたと考えるよりは、主イエスの方がその人のところへと近づいて行かれ、その人と出会われたと考えるの自然ですし、その方が主イエスご自身の意図でもあったと考えるべきでしょう。

 悪霊に取りつかれていたこの人は、29節にも書かれているように、彼自身の心も体もすべてが悪霊の力によって支配され、自分で自分をコントロールできないほどに凶暴な力を発揮して、人々に恐怖を与えていました。彼はほとんど人間であることを失い、30節では彼自らが自分の名前は「レギオンです。男百何千もの悪しき霊、汚れた霊が自分の中に住み、自分を支配しているからです」と答えているほどでした。レギオンとはローマの軍隊で、歩兵6千人と数百の騎兵で構成されている部隊のことです。それほどの驚異的な力の悪しき霊によって自分が占領され、支配されていると告白しているのです。彼の住みかが墓場や荒れ野であったように、彼は常に死と直面し、絶望と暗闇が彼を覆っていたのです。

 けれども、主イエスがそのような彼と出会ってくださいます。そのような彼に主イエスが近づいて行かれます。そして汚れた霊に向かって「この男から出て行け」とお命じになりました。すると、悪霊に取りつかれている人が言いました。彼が言ったというよりは、彼の中に住んでいる何百何千もの悪霊が言っていると表現した方が適当かもしれませんが。

28節を読みましょう。【28節】。ここで、彼は、あるいは悪霊はと言うべきでしょうが、主イエスのみ前にひれ伏し、主イエスを「いと高き神の子イエス」と呼んでいます。これはどういうことでしょうか。「いと高き神の子」という言葉はこの福音書の1章32節にもあります。【1章30~33節】(100ページ)。これは神から遣わされたメシア・救い主キリストへの正しい信仰告白です。だとすれば、悪霊は主イエスを全世界の唯一の救い主だと信じ、告白しているということなのでしょうか。そうではないでしょう。悪霊は主イエスに敵対している罪の力ですから、これは主イエスに対する正しい信仰告白ではもちろんありません。悪霊自身がこの人の口を借りて「自分たちには構わないでくれ。頼むから自分たちを苦しめないでくれ」と懇願しているのですから、これが悪霊の正しい告白でないことは明らかです。

これと同じような状況がすでに4章34節に書かれていたことを思い起こします。【4章34節】(108ページ)。ここでも学びましたように、悪霊や汚れ霊は人間をはるかに上回る力や知恵(それは悪しき知恵ですが)、霊的力(これも悪しき霊の力ですが)を持っていて、人間が気づくことができず、知ることもできない真理のようなものを直観的に悟る能力を持っていたので、弟子たちでさえもまだ信じることができなかった主イエスの本当の正体を感じ取ることができたのではないかと考えられます。とは言っても、もちろんそれが主イエスに対する正しい認識でも正しい信仰告白でもないことは言うまでもなく、主イエスはそのような悪霊の告白を受け入れることはありません。それを拒絶なさいます。悪霊に向かって「黙れ、この人から出て行け」とお命じになったと、4章35節に書かれていました。

きょうの個所でも同じです。主イエスは悪霊の力も権威も、その偽りの告白をも受け入れることはありません。主イエスはいと高き神の権威と力とによって、悪霊を支配され、滅ぼされます。それがおできになります。そのことを知っている悪霊は、自分たちが完全に滅ぼされてしまうことを恐れて31節に書かれているように、「底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないように」と主イエスに懇願しています。そして、悪霊たちは主イエスに豚の中に入る許可を求めたと32節書かれています。主イエスはそれをおゆるしになりました。

けれども、主イエスは悪霊たちがこれからもずっと豚の中で生き延びることをおゆるしになったのではありませんでした。豚の中に乗り移った悪霊は、豚と一緒に崖を下って、ガリラヤ湖の底に沈んで死んでしまったと33節に書かれています。

主イエスは悪霊に勝利されました。そして、このようにして、悪霊に取りつかれていた人を悪霊の支配から解放され、彼を死と暗闇の中から救い出されました。【35~36節】。主イエスが神の権威と力によって、悪霊に勝利され、死んでいた人を生き返らされる時、それを見た人々は恐れざるを得ません。神の奇跡を見る時、人はみな大きな恐れにおそわれます。主イエスのお働きの中に天におられる神の現臨を、全能の父なる神の救いのみわざを見るからです。ここでは、主イエスが十字架の死と復活によって明らかにされた罪と死に対する勝利がすでに暗示されているのです。それゆえに人々は主イエスの救いの福音を、この異邦人の地で語り伝えるということが起こっているのです。ここにすでに、後の世界の教会の働きが暗示されているのです。

37節からは、主イエスのこの救いのみわざを見たゲラサ地方の人々の反応が書かれています。【37節】。主イエスが神の権威と力によって悪霊に勝利するという神の救いのお働きを見た彼らの恐れは、しかし信仰には至りませんでした。一人の人が悪霊の支配から解放され、救われたという、この驚くべき救いのみわざを信じ、主イエスに従っていく信仰の決断をする人は、いやされたその人以外にはいませんでした。この地方の人々は主イエスにここから立ち去ってもらいたいと願いました。一人の人が救われたという神の恵みに感謝するよりも、彼らが飼っていた家畜が悪霊と一緒に湖に沈んで死んでしまったという、損失をこうむったことの方を、重大視したのでしょう。これ以上自分たちの財産を失いたくないと考えたのでしょう。

しかし、主イエスにとっては一人の人が悪霊の支配から解放され、救われたということは、全世界を手に入れるよりもはるかに尊いことなのです。主イエスは言われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ16章26節)。またこうも言われました。「二羽のすずめが一アリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のおゆるしがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんのすずめよりもはるかに勝っている」(マタイ福音書10章29~30節)。

主イエスによって悪霊から解放され、救われた人は、主イエスと一緒に働きたいと申し出ましたが、主イエスは彼にこう言われました。【39節】。彼は、異邦人の地に留まり、異邦人に向かって主イエスの福音を語り伝える最初の人となりました。彼はのちの時代に全世界に建てられる教会の、最初の宣教者となりました。主イエスと出会い、主イエスの救いの恵みにあずかった人は、主イエスの福音を語り伝える人へと変えられます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは天地創造の初めから今に至るまで、そして終わりの日に神の国が完成される時まで、恵みと慈しみとをもって、また義と愛とをもって、すべての造られたものをご支配し、導いておられます。どうか、この地においてあなたのみ心が行われますように、あなたの救いのみわざが全世界のすべての人たちに実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月9日説教「ヤコブの子どもたち」

2022年10月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記30章1~24節

    ローマの信徒への手紙11章25~36節

説教題:「ヤコブの兄弟たち」

 創世記29章31節から30章24節までに、ハランにいる伯父ラバンの家で働いていた20年間にヤコブに生まれた11人の子どもたちの誕生について、その名前の由来について書かれています。ヤコブはのちに32章29節で神によってイスラエルと名前を変えられますが、彼に生まれたこれらの11人の子どもと、35章18節で最後に生まれた子どもベニヤミンを加えて12人が、エジプトを脱出してからイスラエルの12部族を形成することになります。そして、やがて神の約束の地カナンに入り、その地で神の民イスラエルとして生きていくことになります。

聖書がここでそれらの子どもたちの誕生について、またその名前の由来について詳しく語っているのは、その理由によります。神に選ばれた族長アブラハム、その子イサク、その子ヤコブから、神に選ばれた民イスラエルへと神の契約、すなわちアブラハム契約が受け継がれていくのです。「わたしはお前とお前の子どもたちを永遠に祝福する。お前の子どもたちは空の星の数ほどに、海辺の砂の数ほどに増えるであろう。そして、わたしはお前とお前の子どもたちに乳と蜜が流れる麗しい地カナンを、それはわたしたちキリスト者にとっては神の国のことなのですが、その地を永遠の嗣業として与える」。この神の契約、神の約束のみ言葉が、族長からイスラエルの民へと、そして主キリストの教会の民へと受け継がれていくのです。

 29章31節以下のヤコブとレアとの間に生まれた4人の子どもについては、前回少し触れましたが、改めて31節を読んでみましょう。【29章31節】。「レアが疎んじられている」とは、30節に書いてあるように、ヤコブがラバンの二人の娘のうち姉のレアよりも妹のラケルの方を愛していたということを言います。ヤコブはラケルと結婚したいと願って、そのために7年間ラバンの家で働きましたが、ラバンに欺かれ、レアと結婚させられました。ヤコブはラケルと結婚するためにさらに7年間、働かなければなりませんでした。それでも、ヤコブは愛するラケルのために、14年間もラバンの家で一生懸命に働きました。

 それほどのラケルに対するヤコブの大きな愛に逆らうかのようにして、神はラケルをではなく、ヤコブに疎んじられていたレアの方を顧みられ、彼女に子どもを賜ったと書かれています。伯父ラバンによってだまされたヤコブは、今また神ご自身によっても拒絶されているのです。カナンの地で父母の家にいた時には、何でも自分の思いどおりに事が運び、傲慢で悪賢いヤコブでした。母と結託して、父と長男エサウとを欺いて、長男の権利をエサウから奪い取り、それによってエサウの怒りを買い、カナンから1千キロも離れたハランの地の伯父ラバンのところに逃亡してきたのでしたが、そのヤコブが今は全く自分の思いどおりにはいかず、人に欺かれ、人生の試練を経験しなければならず、神からも裁きを受けなければならなくなっているのです。ヤコブはここで神のみ前に謙遜になることを学ばなければなりません。自分の願いを達成することが重要なのではなく、神のみ心が行われることこそが、自分の生涯にとって最も大切であるのだということを学ばなければなりません。

 32節から、ヤコブとレアとの間に生まれた4人の子どもの名前書かれています。最初の子どもはルベンと名づけられました。「それは、彼女が、『主はわたしの苦しみを顧みてくださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない』と言ったからである」と32節に説明されています。神は、ヤコブが愛したラケルよりも、疎んじられていたレアの方を顧みられます。神は苦しむ人、悲しむ人、虐げられている人を顧みられ、その人に恵みをお与えになります。それによって、神はいつくしみ深く、どんなに小さなものをも見捨てず、み心に留められる神であることをお示しになり、そのみ名があがめられるのです。

 レアはここで神をあがめるとともに、子どもの誕生は神から与えられる恵みであり、祝福であることを告白しています。このあとの子どもの誕生も、すべて神からの賜物です。子どもの命はすべて神から与えられたもの、すべて神に属するものであるということを、聖書は繰り返して教えます。それは親の所有ではありません。国家のための命でもなく、働き手とか経済活動とかのためでもありません。神から与えられた、神のための命です。

 すべての命が神から与えられた命であることが、子どもの名前を付ける際の親の信仰告白として現わされます。ヤコブの12人の子どもたちの名前もすべて親の信仰告白です。神の恵みを感謝する信仰が子どもの名前になります。ちなみに、イエスという名前、旧約聖書のヘブライ語ではヨシアとかヨシュアとなりますが、これは「神は救いである」という意味です。もっとも、この名前は両親のヨセフとマリアが選んだのではなく、主なる神ご自身がその子が生まれる前からすでに決めていた名前でしたが、そして、事実、神はこの子、主イエスによってご自身の救のみわざを成就してくださったということを、わたしたちは知っています。

 二人目の子どもはシメオンです。「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ、またこの子をも授けてくださった」(33節)とレアは告白します。三人目の子どもはレビ、これは「結びつく」という意味のヘブライ語に由来します。四人目はユダ、「今度こそ主をほめたたえよう」(35節)とレアが言ったように、「ほめたたえる」というヘブライ語に由来します。

 次に、30章1~2節を読みましょう。【1~2節】。この個所の理解は大きく二つに分かれます。一つは、ラケルが自分に子どもができないのはあなたに原因があるのだとヤコブを非難したのに対して、ヤコブは自分のせいではない。神がそうなさったのだと言い訳をしているという解釈です。しかし、ここでヤコブは神のみ心を理解し始めていると解釈する方が良いように思われます。ヤコブはラケルを愛していたのですから、当然ラケルに子どもが与えられることを望んでいたでしょう。自分とレアとの間には子どもが与えられているのに、愛するラケルとの間になぜ子どもができないのだろうかと悩んでいたはずです。にもかかわらず、ラケルとの間に子どもが与えられないのは、神のみ心なのだと気づき始めていたと解釈するのがよいように思います。子どもを宿らせるのも、そうでないのも、すべては神のみ心であるということが聖書の信仰です。わたしたちは祈りつつ、神のみ心を尋ね求めるのです。

 妻との間に子どもができない場合には、その家の召し使いとの間にできた子どもを妻の膝の上に置くことによって、妻の子どもとして認められたという習慣があったことは16章でも触れました。ラケルは召し使いビルハによって自分の子どもを得ようとします。ビルハはヤコブとの間に最初の子どもを産んだので、ラケルは6節でこう言います。【6節】。ビルハはまた二人目の子どもを産みました。【8節】。ダンは5人目、ナフタリは6人目の子どもになります。ラケルは召し使いビルハとヤコブとの間に生まれた二人の子どもを、神が自分たちにお与えくださった子どもたちとして感謝して受け入れます。神は人間同士の妬みや醜い争いの中でも、ご自身の救いのご計画を着々とお進めになっておられることを、わたしたちはここから知らされます。

 9節からは、レアの召し使いジルパとの間の二人の子どもの誕生が書かれています。一人はガド、これは「幸運」という意味のヘブライ語に関連しています。次はアシュル、これは「幸せ」という意味のヘブライ語に由来しています。ヤコブの7人目、8人目の子どもです。レアは「何と幸運なことか」「何と幸いなことか」と言って、レアの召し使いジルパとヤコブとの間の二人の子どもを、神から与えられた自分たちの子どもとして、感謝して受け入れます。

 14節からは、恋なすびを巡ってのレアとラケルの駆け引きが語られます。恋なすびの正式な名称はマンドレイクと言うようですが、プラムほどの大きさの黄色い、香りが良い実で、古代から愛の妙薬と言われていたそうです。ラケルは自分に子どもが与えられないので、その恋なすびを手に入れようとして、レアと交渉をします。レアとラケルの恋なすびを巡ってのやり取りのあとで、17節にはこう書かれています。【17節】。また、【22~23節】。レアの場合にもラケルの場合にも、彼女たちに子どもが与えられたのは恋なすびの効果によるのではなく、神の顧みと恵みによるのだと聖書ははっきりと語っています。

 レアの5人目の子どもはイサカル、その名前の意味は【18節】。6人目の子どもはゼブルン、その名前の意味は【20節】。これがヤコブの9人目と10人目の子どもになります。二人の妻の争いはまだ続いていますが、神はここでもまた、疎んじられていたレアを顧みられ、豊かな恵みをお与えになり、そのようにして神の永遠の救いのみわざをお進めになっておられます。

 ヤコブが愛したラケルにはもう何年もの間子どもが与えられませんでした。30章には夫であるヤコブについてはほとんど語られてはいませんが、彼がこの間、何を思っていたかを推測することはできます。愛するラケルと結婚するために7年間伯父ラバンのために働きました。ラバンの策略によって、もう7年間働かされることになりました。それでも、愛するラケルに神は子どもをお授けにはなりません。ヤコブはここに神の裁きを見ていたに違いありません。神が信仰の試練を与え、彼の信仰を訓練しておられるということに、ヤコブは気づいていたのかもしれません。わたしたちはヤコブの20年間の逃亡生活の終わりに、兄エサウとの再会を前にした彼の告白を、ここであらかじめ聞いておきたいと思います。【32章10~13節】(55ページ)。ヤコブは20年間の試練に満ちたラバンの家での逃亡生活の中で、このことを神から学ばしめられたのです。

 その神の隠されたみ心がある程度成就された時になって、ようやくにしてラケルに子どもが与えられました。「神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れ、その胎を開かれたので」と22節に書かれていますが、この文章の主語はすべて神です。神が御心に留めてくださいます。神が願いを聞き入れてくださいます。神が彼女の胎をお開きくださり、子どもをお授けになります。

 ラケルの最初の子、ヤコブの11人目の子どもは、ヨセフです。ヨセフの名前の意味には二つの説明があります。一つは、「すすぐ、摘み取る」というヘブライ語、もう一つは「付け加える」というヘブライ語です。どちらもヨセフという発音に似ているヘブライ語です。ラケルのもう一人の子ども、ヤコブの12人目の子ども、35章で語られるベニヤミンの誕生がここで暗示されています。

 ヨセフについて最後に少し触れておきます。創世記37章から、いわゆるヨセフ物語が始まります。ヨセフは当然のことながら両親に最もかわいがられ、ほかの子どもたちとは違って特別扱いされていましたので、兄たちの反感を買い、エジプトに売られることになります。エジプトでのヨセフの数奇な生涯が創世記の終わりの50章まで続きます。そしてついには、ヤコブ・イスラエルの他の子どもたちもみんな一緒にエジプトに移住することになり、エジプトでの400年余りの寄留の生活の後、モーセを指導者とした出エジプトへと、そして約束の地カナンでのイスラエルの信仰の歩みが続いていくことになります。神の壮大な救いの歴史はこれからもまだまだ続くのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが族長アブラハムをお選びになって具体的にお始めになった全世界、全人類の救いのみわざの中に、わたしたちをもお招きくださっておられますことを覚え、あなたの大いなる恵みと慈しみとを心から感謝いたします。この世界は未だ救いの完成の途中にあり、破れや痛みや苦しみの中にあります。けれども、あなたは確かにこの救いの歴史を完成させてくださることを、わたしたちは信じます。願わくは、病んでいるこの世界をあなたが憐れんでくださり、顧みてくださり、、あなたの救いのみ心を行ってください。

主イエス・キリストのみ名によって、アーメン。

10月2日説教「わたしたちのために執成してくださる主キリスト」

2022年10月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~12節

    ローマの信徒への手紙8章26~39節

説教題:「わたしたちのために執り成してくださる主キリスト」

『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストに、キリスト教信仰の中心とわたしたちの教会、日本キリスト教会の信仰の特徴を学んでいます。『信仰の告白』の最初の段落は、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは」に始まり、「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」まで続きます。ここまでが一続きの文章であり、ここには日本キリスト教会の信仰の特徴が数多く告白されていることを、わたしたちは確認してきました。

 前回、その終わりの部分の「救いの完成される日まで」という個所について学びましたが、少しその内容を振り返っておきたいと思います。「救いの完成される日まで」には大きく二つの意味が含まれます。一つは、わたしたちの信仰は未完成だということ、わたしたちは神の国に至る信仰の旅路の途中にあるということ。時に弱ったり、時に迷ったり、時に不安になったりしながら、わたしたちは今しばらくはこの地上にあって信仰の戦いを続けていかなければならないのだということ。これが一つです。もう一つは、しかしわたしたちの信仰の歩みは確かに終わりの日の完成に向かっている、神の国で約束されている、朽ちず汚れず、終わることのない永遠の命に向かって前進しているということ。それゆえに、わたしたちはうしろのものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばしつつ、目標を目指して走り続けることができるのだということ。以上の二つのことがここでは告白されています。

 それに続いている、きょう学ぶ「わたしたちのために執り成してくださいます」との関連、つながりを考えてみましょう。そうすると、わたしたちは重要な点に気づきます。つまり、わたしたちの信仰が完成される日まで、わたしたちのために執り成していてくださる方がおられるということです。わたしの信仰を完成させるのはわたしなのではなく、わたしのために執り成してくださる方、わたしの信仰が完成されるために執り成してくださる方がおられるということです。その方がわたしの信仰の歩みに常に伴ってくださり、いわばわたしの手を引くようにして、たどたどしいわたしの信仰の歩みを終わりの日の完成に至るまで確実に導いてくださるのです。これがきょう学ぶポイントです。

では、この信仰告白についてさらに深く学んでいくことにしましょう。そのために、この文章の主語を今一度確認しておくことが大切です。それは、「神のひとり子イエス・キリスト」です。主イエス・キリストは2000年ほど前に、天の父なる神のみ子としてこの世界においでになり、おとめマリアの胎からお生まれになり、イスラエルの地で神の国の福音を宣べ伝えられ、エルサレムで十字架につけられ、三日目に復活されました。そして、十字架の死から40日目に天に昇られました。主イエス・キリストは天の父なる神の右に座しておられ、今も生きて働いておられ、わたしたちの礼拝に聖霊によって現臨しておられ、終わりの日、終末の時に、わたしたちの救いが完成される時まで、わたしたちのために執り成していてくださると、告白されているのです。わたしたちの救い主イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも変わることなく、わたしたちの救い主として働いておられます。

 では、はじめに「わたしたちのために」という言葉の意味を考えてみましょう。同じような意味の言葉が少し前の「人類の罪のため十字架にかかり」にもありました。「人類のため」と「わたしたちのために」、厳密に言えば、この二つの言葉の意味は違う点があります。「人類の罪のため十字架にかかり」は、全人類が、すべての人がみな罪びとであるということ、そしてその全人類の罪のために、すべての人の罪をゆるすために、主イエス・キリストは十字架におつきになったということですが、「わたしたちのために」とは、その主イエス・キリストを救い主として受け入れ、信じているわたしたちのために、主は救いの完成の時まで共におられ、導いてくださるという意味になります。

 いずれにしても、重要なポイントは、主イエス・キリストのご生涯、その救いのみわざは、すべてがわたしたち人間の救いのためであったということです。主イエスは、ご自分の喜びとか誉れを全くお求めにはなりませんでした。徹底して、他者のために、神に敵対していたわたしたち罪びとたちのために生きられ、、そして死なれ、復活なさいました。終わりの日に救いが完成され、わたしたちが主キリストと同じ姿に変えられる時まで、主は天におられて、わたしたちのために生きられ、働かれます。

 天に昇られた主イエスがわたしたちのために執り成してくださるということには特別な意味が含まれています。福音書によれば、主イエスが地上におられた間、それは30年少しの期間であったと考えられていますが、その期間に主イエスはガリラヤ地方のナザレの町で家族や地域の人たちと一緒に過ごされ、30歳になられてからナザレを出て、弟子たちをお集めになり、ガリラヤ湖周辺の町々村々で神の国の福音を宣教され、3年ほど後にエルサレムで十字架につけられました。その間、主イエスと交わり、主イエスの教えと導きとを受けることがゆるされた人々は、パレスチナ地域のごく限られて人々だけでした。もちろん、主イエスはそのご生涯の最初から全人類の罪の救いのために、わたしたちすべての人たちの救いの完成のために働いておられたのですが、そのことはまだいわば隠されていました。

 けれども、主イエスが復活され、天に昇られ、父なる神の右の座におつきになってからは、すべての人と、永遠に共におられる普遍的な方となられたのです。天におられる主イエスは、時を超え、場所を超え、すべての違いや壁を越えて、今や聖霊なる神として、全世界に、すべての人と共におられ、すべての人のために執り成し、働いておられるのです。主イエス・キリストはきょうこの時にも、聖霊においてわたしたちの礼拝に現臨しておられます。

 ヨハネによる福音書14~16章に書かれている、主イエスのいわゆる「告別説教」の中で、繰り返して主は弟子たちに語っておられます。「わたしは間もなくあなたがたの前からいなくなる。しかし、決してあなたがたを見捨てて、孤児のようにするのではない。わたしは天からあなたがたに聖霊を送る。この聖霊はあなたがたと永遠に共にいて、あなたがたにわたしの言葉とわたしのわざを証しするであろう。そして、あなたがたに最後の勝利を約束してくださるであろう」と。主イエスはまた、マタイによる福音書28章18~20節でこのように言われました。「わたした天と地の一切の権威を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたすべてことを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。

 次に、「執り成してくださる」という告白について学びましょう。執り成すという言葉は、今日日常会話の中ではほとんど用いられませんが、聖書では、旧約聖書と新約聖書で、「執り成す」「執り成し」という動詞と名詞で10回あまり用いられています。教会でも執り成しの祈りをするという言い方でしばしば使います。執り成すとは、仲裁をする、仲立ちをする、両者の間を取りもつという、両者の関係を回復させたり、より良い関係へと導くことを言います。わたしたち信仰者が、他者のための執り成しの祈りをするということは、その人が神との関係を回復し、あるいはより深くするように神が働いてくださるようにと祈り、神がその人にとって恵み深くあられ、その人のためにみ心に適ったみわざをなしてくださるようにと祈ることです。主イエス・キリストによって罪ゆるされ、神との関係を回復され、神の恵みをいただいている信仰者は、他者のための執り成しの祈りをし、祭司としての務めを果たすことが求められています。主イエス・キリストが徹底して他者のために、わたしたちのために生き、死なれたように、わたしたちもまた他者のために生きることへと招かれているからです。

 信仰告白の中では、主イエス・キリストがわたしたち信仰者のために執り成してくださると言われていますので、主キリストが父なる神とわたしたちとの間に立ってくださり、神とわたしとの関係を修復し、改善してくださる。それによって、神がわたしのために最も良き道を備え、わたしのために最もふさわしいみわざをなしてくださるようにと、常に祈っておられる、導いておられるということを告白しています。

 このような主イエスの執り成しの務めとお働きについて、ヘブライ人への手紙7章24~25節にはこのように書かれています。【24~25節】(409ページ)。主イエスは動物の犠牲を神殿にささげる祭司ではなく、神のみ子としてのご自身の尊い命を十字架におささげになったまことの大祭司として、また

復活して永遠に生きておられる大祭司として、わたしたちを罪と死と滅びから救い、わたしたちの救いの完成のために絶えず執り成しておられます。わたしたちはこの主イエス・キリストの執り成しによって、神との豊かな交わりに招き入れられているのです。神の国での永遠の命を約束されているのです。

 ローマの信徒への手紙8章26節以下には、聖霊なる神と主イエス・キリストの執り成しについて書かれています。聖霊なる神の執り成しについては、【26~28節】(285ページ)。天におられる父なる神とその右に座しておられる主イエス・キリストから遣わされる聖霊なる神は、父なる神とみ子主イエス・キリストの救いのご計画を完成へと導くために、弱く、くずおれやすいわたしたちのために執り成してくださり、わたしたちをみ子のお姿に似たものにしてくださると、続けて29節以下に書かれています。

 さらに、31節以下では、父なる神の偉大なる愛の力と、み子主イエス・キリストの執り成しのことが書かれています。【31~33節】。ご自身のみ子をさえも惜しまれず死に渡された神の、わたしたち罪びとに対する大きな愛は、わたしたちを罪から解放し、すべての束縛からも解放し、もはや何ものもわたしたちを支配することはない、この大きな神の愛からわたしたちを引き離すことはできないと、この手紙の著者であるパウロは勝利の歌を歌っています。

 また、【34~35節】。26節の聖霊なる神の執り成しととも0に、ここでは主イエス・キリストの執り成しが語られています。わたしたちすべての罪びとのために十字架で死んでくださり、それによってわたしたちを罪から救い出してくださった主イエス・キリストは、復活され、天に昇られ、父なる神の右に座しておられます。罪と死とに勝利され、父なる神から一切の権威を授けられました。その主イエス・キリストがわたしたちに信仰を与え、わたしの信仰の歩みを導かれ、終わりの日にわたしの信仰を完成させてくださるまで、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 主イエスはその誕生の時から十字架の死に至るまで、地上の歩みのすべてが、ご自身のためではなく、徹底して他者のため、わたしたち罪びとたちのためでありましたが、天に昇られてからも、終末の救いの完成の時まで、徹底して、わたしたちのために生きておられるのです。主イエス・キリストはわたしたちの礼拝に現臨してくださり、わたしたちひとり一人の信仰の歩みに伴ってくださり、わたしの幸いな時も、災いの時も、そしてわたしの死の時も、死ののちにも、わたしと共にいて、わたしのために執り成してくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちのたどたどしい信仰の歩みをあなたがみ子主イエス・キリストと聖霊によって絶えず守り、導いてくださいますことを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちが心を挙げて、天に備えられている勝利の冠を見上げながら、たゆむことなく、信仰の道を進みゆくことができますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月25日説教「ステファノの殉教」

2022年9月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編31編2~9節

    使徒言行録7章54~60節

説教題:「ステファノの殉教」

 キリスト教会最初の殉教者となったステファノが、ユダヤ最高法院の法廷で語った弁明、または説教が使徒言行録7章1節から53節まで続いていますが、この説教は途中で中断されているような感じを受けます。52、53節でステファノは、あなたがたユダヤ人指導者たちは旧約聖書の預言者たちが預言した正しい方、神の律法を成就される方である主イエスを殺したのだと語りましたが、彼はこのあとさらに、主イエス・キリストの復活や救いへの招きについても語りたかったに違いありませんが、ユダヤ最高法院の71人の議員たちやその裁判を傍聴していたユダヤ人たちの怒りの声によって、彼の説教は中断させられたのではないかと思います。

 【54節】。たとえ、ステファノの説教が中断されたのだとしても、彼の説教の目的は十分果たされていたということが、ユダヤ人指導者たちの反応によって確認することができます。彼らはステファノの説教によって自分たちの罪の姿があらわにされたことを知らされました。しかし、その罪を悔い改めることはせずに、なおもその罪の中にとどまり続けようとしている、そのかたくなな罪がここで明らかになっているからです。自らの罪を知らされながらも、悔い改めることをしない人間の罪の本質を、わたしたちはここに見ることができます。ステファノと彼の説教に対する激しい怒りが、彼らの反応でした。

 それに対して、ステファノ自身については、55、56節にこのように書かれています。【55~56節】。ここでは、神に敵対する罪の人間の怒りに満ちた姿と、神に守られている殉教者の平安に満ちた姿とが対比されています。ステファノの目は怒り狂って自分を攻撃してくる人々に向けられていません。また、彼らの攻撃によって苦境に立たされている自分自身にも向けられていません。彼は、聖霊に満たされ、彼の目は天に向けられています。神の栄光を仰ぎ見ています。天にあるみ座で、父なる神の右に立っておられる主イエス・キリストの姿を仰ぎ見ています。わたしたちすべての罪びとたちのために、十字架で死なれ、その尊い血によってわたしたちを罪から贖い、三日目に死の墓から復活されて、罪と死とに勝利された主イエス・キリスト。天に昇られ、父なる神の右に座しておられ、神の国が完成される日まで、信じる人々のために執成しをされ、守り、導いておられる主イエス・キリストに、ステファノの目は注がれています。そして、平安と喜びと希望とに満たされています。

 55節と56節に、「神の右に立っておられるイエス」と書かれていますが、一般的には、その位に就き、支配者としての務めをしている場合には、「神の右に座す」という表現が用いられますが(『使徒信条』ではそのように告白されています)、ここで「神の右に立つ」と言われているのは、殉教者ステファノを天の勝利の教会に迎え入れるために、主イエスが両手を広げて立ち上がり、迎え入れてくださるお姿を強調しているためと思われます。ステファノは主イエス・キリストによって約束されていた信仰の勝利を確信して、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と叫んでいます。天におられる復活の主イエス・キリストは、死に至るまで忠実にご自身の証人となった信仰者に、最後の勝利を与え、神の国に迎え入れてくださるのです。

 使徒言行録に描かれているステファノの裁判と殉教の場面が、福音書に描かれている主イエス・キリストの裁判と十字架の死の場面と、共通している点がいくつかあることに注目したいと思います。第一の共通点は、主イエスおよびステファノと、二人を取り囲んでいる周囲のユダヤ人たちとの対比に共通点があります。主イエスを裁き、十字架につけたユダヤ人たちは、福音書に書かれているように、「彼を十字架につけよ、十字架につけよ」と叫びたて、主イエスをあざ笑い、憎しみと怒りをもって攻撃し、騒然としているのに対して、主イエスご自身は十字架につけられた肉体の痛みと人々の罪のためのお苦しみの中にあっても、すべてを父なる神にお委ねし、平安に満たされておられました。ステファノもまた、迫害と死の直前にあっても、泣き叫ぶことなく、恐れることなく、勝利者であられる主イエス・キリストにすべてを委ね、そのお姿を仰ぎ見つつ、平安に満たされています。このように、神の国の福音に仕える信仰者、主イエス・キリストの証し人として立つ信仰者は、聖霊によって強められ、最後の勝利を確信させられ、たとえ迫害と殉教によって地上の命が奪い取られようとも、その人には神の国での永遠の命が約束されていることを知るのです。

 第二の共通点は、マルコ福音書14章62節の主イエスのみ言葉と使徒言行録7章56節のステファノの告白との一致です。主イエスはユダヤ最高法院での裁判で、詩編110編1節のみ言葉を引用しながらこう言われました。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」。主イエスはこのみ言葉のとおりに、十字架の死の後、三日目に復活され、40日目に天に昇られ、父なる神の右のみ座につかれました。そして、終わりの日には、雲に乗って再びおいでになり、すべて信じる人たちの信仰を完成させ、神の国へとお招きになります。ステファのはその主イエスのみ言葉が今すでに成就しているのを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と告白しているのです。ステファノの地上の歩みは死によって終わるとしても、彼は地から天に移され、主イエスがいます天の勝利の教会へと招き入れられるのです。

 第三と第四の共通点は、主イエスの十字架上での七つの言葉のうち、二つがステファノの殉教の時に彼が語った言葉とほぼ同じであるという点です。59節の「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と60節の「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」、この二つがルカ福音書23章が伝える主イエスの十字架上での言葉とほぼ一致します。その二つの言葉の意味についてはあとで学ぶことにしますが、主イエスの十字架の場面と最初の殉教者ステファノの死の場面に以上のような共通点があることは偶然ではありません。主イエス・キリストを信じる信仰者は主イエスご自身が歩まれた道と同じ道を歩むであろうことは、当然だと言えるでしょう。主イエス・キリストと同じ道を進むということは、信仰者にとっては大きな喜びであり、誇りであり、栄誉であり、そして勝利なのです。

 では次に、57節以下を読みましょう。【57~60節】。ステファノはここで石打の刑によって処刑されたように思われる。あるいは、ユダヤ最高法院での正式な判決が下される前に、怒り狂った人たちによって、いわばリンチのようにして石打で殺されたのかもしれません。使徒言行録の記述からは正式な判決が下されたのかどうかはっきりしませんが、石打の刑の仕方によって処刑されていることは確かです。レビ記や申命記に定められている律法の規定によれば、神を冒涜したり、重大な罪で死刑となった犯罪人に対しては、証人となった人たちがまず初めに犯罪者に石を投げ、次にまわりにいる人々が一斉に石を投げ、犯罪人が死ぬまで石を投げ続けるというのが石打の刑でした。ユダヤ人の間では死刑は石打の刑が一般的でした。しかし、主イエスの場合、石打の刑ではなく十字架刑であったのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国の総督ピラトが最終的に主イエスに死刑判決を下したことから、ローマ帝国内で一般的であった十字架刑が執行されたことによります。

 57節に、「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ」と書かれていますが、これはおそらく、ステファノが55節と56節で、主イエスを神のみ子と告白したことが人間を神と等しい者として、神を冒涜したと受け取られたからであろうと推測されます。人々はステファノの神を冒涜した言葉を聞かないようにと大声を出し耳をふさいだのであろうと思われます。もしそれを聞けば、自分たちも神を冒涜したことになると考えたからです。ユダヤ人たちはそれほどまでにステファノの告白と証言を恐れていたことが分かります。彼が告白した人の子であり同時に神のみ子であられる主イエス・キリストの福音を恐れていたのです。ユダヤ人たちは神のみ子、主イエスの十字架につまずきました。

 58節にサウロという若者が登場します。サウロ、のちのパウロはステファノの迫害と殉教の場面ではほんのわき役として、石打の刑を執行する人たちの上着を監視する役として現れるにすぎませんが、彼がこのあとで自らキリスト教会迫害の急先鋒となり、しかしまたそののちには、キリスト教徒に回心し、熱心な伝道者となり、使徒言行録の中心人物となるということを、いったいだれが予想しえたでしょうか。

 最後に、ステファノが死の直前に語った二つの言葉に耳を傾けましょう。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)。前にもふれたように、この二つは福音書に書かれている主イエスの十字架上でのみ言葉とほとんど同じです。ルカ福音書23章46節にはこう書かれています。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』。こう言って息を引き取られた」。また、同じ福音書23章34節には、「その時、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかを知らないのです』」。

最初の殉教者ステファノはまさに主イエスが歩まれた道と同じ道を進んだということをわたしたちはここではっきりと確認することができます。それはただ単に、主イエスの生き方をまねて、同じように生きたと言うのではありません。主イエスが先だって開かれた道、主イエスによって備えられた道へとステファノは招かれていると言うべきでしょう。主イエスの十字架の死がステファノにこのような生き方を可能にしているのです。主イエスの十字架の死によって罪の贖いが完全に成し遂げられ、罪の支配から解放され、罪と死に対する勝利が約束されているゆえにこそ、ステファノはこの迫害と殉教の道を、全き服従をもって進み、しかも喜びと希望を抱きつつ、天のみ国へと招かれていることを告白しているのです。

「わたしの霊をお受けください」という祈りは、「わたしの命、わたしの存在のすべてをあなたにささげます」という祈りです。死に至るまで従順に服従した主なる神の僕(しもべ)であり、主イエス・キリストの証し人の最後の祈りです。それは救いと勝利と平安を確信した信仰者の最後の祈りです。わたしたち一人一人が地上の歩みを終える時の祈りです。

「この罪を彼らに負わせないでください」という祈りは、迫害する者や敵対する者をもゆるし、愛する祈りです。主イエス・キリストによってすべての罪をゆるされている信仰者はこのように祈ることができ、また祈るように命じられています。この祈りによって、信仰者はすべての罪と裁き合いと、憎しみと怒りに勝利していることを確信する祈りです。

「ステファノはこう言って、眠りについた」(60節)。新約聖書では信仰者の死を眠ると言います。それは復活の希望を暗示しています。信仰者の死は永遠の眠りではありません。信仰者にとって死は最後ではありません。復活への門です。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちを従順な者にしてください。あなたのお招きのみ声を聞いたなら、直ちに悔い改め、喜んであなたに従っていく者としてください。

○天の神よ、多くの試練や苦難の中にあるこの世界を、どうかあなたが憐れんでくださり、あなたのみ心が行われ、人々に平和と希望とが与えられますように。また、あなたが全世界にお建てくださった主キリストの教会を顧みてください。なたの救いのみわざのために、わたしたちの教会をお用いください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月18日説教「風と荒波を静められた主イエス」

2022年9月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編107編23~32節

ルカによる福音書8章22~25節

説教題:「風と荒波を静められた主イエス」

 ルカによる福音書8章22節からこの章の終わりまでには、主イエスによる4つの奇跡のみわざについて語られています。22~25節には、ガリラヤ湖の風と荒波を静められた奇跡。26~39節には、ガリラヤ湖対岸ゲラサ人の地方で悪霊に取りつかれている男の人から悪霊を追い出し、いやされるという奇跡。次の40~56節には、12年間出血が止まらず、長血を患っていた婦人をいやされた奇跡と、会堂司ヤイロの娘を死からよみがえらせたという奇跡。

 主イエスはこれらの奇跡によって、ご自身が神のみ子としての主権と権威と力とを持っておられ、自然と世界のすべてを支配しておられること、また悪霊やすべての病気、そして人間の死をも支配しておられることをお示しになられました。それと同時に、神の国が、神の恵みのご支配が、主イエスの到来と共に始まったのだということをお示しになりました。

 きょうは、その最初の奇跡のみわざについて学んでいきましょう。【22節】。湖とはガリラヤ湖のことです。ガリラヤ湖の北西沿岸の町カファルナウムは主イエスのガリラヤ伝道の拠点でした。向こう岸とは、湖の東側の地方で、そこはデカポリス(10の都市という意味のギリシャ語)と呼ばれる地方で、多くはユダヤ人以外の異邦人が住んでおり、当時はローマ政府が直接支配していました。

 主イエスは何のためにこの地方へ行こうと言われたのでしょうか。続く26節以下には、「ガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」と書かれてあり、この地で悪霊に取りつかれている男の人から悪霊を追い出されたという奇跡のみわざが39節まで書かれていますので、これが主イエスの旅の目的であったと推測できます。主イエスが悪霊に取りつかれている男の人と出会ったのが偶然であったとしても、彼をおいやしになってからすぐにこの地方から立ち去っておられますので、結果的にはこの一人の人のいやしの奇跡を行うことが、この地にやって来られたことの目的であったことになります。

 ガリラヤ湖を舟で渡るという主イエスの旅は、観光目的とか、休息とか、何か他の目的のためではありません。主イエスが場所を移動される時、その目的は、ただ一つ、それは主イエスが天の父なる神のみもとからこの地に下って来られた目的と同じ、新しい地にも神の国の福音を宣べ伝えるため、人々を罪の支配から解放し、救うためにほかなりません。ガリラヤ湖の対岸がユダヤ人以外の異邦人の地であろうとも、そこではただ一人の人がいやされただけであろうとも、そこに救いを必要としている人が一人でもいる限り、主イエスはそこへと舟をこぎ出されます。たとえ、危険な航海が予想されるとしても、主イエスは一人の苦しむ人を救うために船出されます。

 ガリラヤ湖は海面よりも200メートルほど低い所にあり、夕方には周囲の山々から突然の吹き下ろしがあって、急激に気候が変化し、湖が荒れることがあると言います。そのような危険が待ち構えている海であっても、主イエスは神の国の福音を宣べ伝えるため、一人の傷つき病める人の魂を救うために、船出されます。

 その際に、主イエスは弟子たちを伴われます。弟子たちも主イエスと共に危険が待ち構えている海へ船出しなければなりません。主イエスの弟子である教会は、静かで安全な港の中にとどまっていることはできません。この世の荒波へと漕ぎ出さなければなりません。主イエスの十字架の福音を宣べ伝えるために、罪びとが一人でも救われるために、不信仰なこの時代のただ中へと漕ぎ出し、厳しい信仰の戦いを続けていかなければなりません。もし、わたしたちの信仰が自分を守るためだけの信仰であるならば、危険な海へと漕ぎ出して行き、他の人の救いのために命をかけて仕える信仰でないなら、わたしたちは主イエスの弟子ではありませんし、そのような信仰はやがて衰え、あるいは歪み、ついには命を失ってしまうほかないでしょう。主イエスはわたしたちにも呼びかけて言われます。「わたしと一緒に向こう岸に渡ろう」と。

 【23節】。「イエスは眠られた」と書かれているのは聖書の中でここだけです。これは意味深い一節です。二つの意味を考えてみましょう。一つには、この一句は主イエスの人間性を言い表しています。主イエスは神のみ子であられますが、いわば超人的な強さや完全さをもってこの世においでになられたのではありません。主イエスはわたしたち人間と全く同じように、人間としての肉体を持ち、肉の弱さを持って生まれ、生きられました。主イエスはわたしたちの人間としての弱さや、疲れや、痛み、悲しみのすべてを知っておられました。時には、空腹を覚えられ、疲れて眠られ、時には涙を流され、時には怒り、叫ばれました。主イエスはまことの人間として、人の子として、わたしたち人間が持つすべての弱さを経験されました。それゆえに、主イエスはわたしたちの弱さを思いやることがおできになるのです。

 もう一つは、主イエスが眠られたということは、父なる神への全き信頼のお姿を表しています。詩編4編の詩人は、主なる神が苦難の中にあるわたしの祈りを聞いてくださるゆえに、「わたしは平和のうちに身を横たえ、眠ります」(詩編4編9節参照)と告白しています。安らかな眠りは神への全き信頼によります。神の守りと導きとを信じる信仰によって、主イエスは波風に揺れ動く舟の中で、すべてを神にお委ねして、安らかに眠っておられます。

 けれども、主イエスの眠りは怠けている人の惰眠ではありませんし、一緒に舟に乗っている弟子たちに無関心であったり、彼らをお見捨てになったのでもありません。主イエスは目覚めるべき時には、たとえ弟子たちがみな眠っていても、ただお一人目覚めておられます。わたしたちは受難週の木曜日の夜、ゲツセマネの園でのことを思い起こします。弟子たちは疲労と恐れと緊張のあまり、みな眠ってしまい、主イエスによって3度も起こされましたが、起きて祈っていることができませんでした。その間、主イエスだけがお一人目覚めておられ、汗を血の滴りのように流され、父なる神に祈られ、激しい信仰の戦いをされ、ご自身に備えられた十字架への道を進み行く決意をされました。主イエスはわたしたちがみな罪の中で眠りこけていた時に、ただお一人目覚めておられ、わたしたちの罪のために戦われ、祈られ、そして罪に勝利されたのです。

 23節から、もう一つのことを教えられます。わたしたちが主イエスと共に、主イエスに従って信仰の旅路に船出する時には、激しい嵐に出会うことがあるということです。キリスト者となって主イエスに従って生きるということは、人生の悩みや試練、苦難には決して出会わないという保証を得ることではありません。この世の偽りの宗教やご利益宗教は、この世での安全や繁栄を約束します。多くの人たちはそのような宗教に飛びつきます。けれども、それは人間の欲望や自己追及を満足させ、利己主義的な生き方を認めるだけであって、そこには本当の救いはありませんし、人間が共に生きる幸いや、互いに重荷を負い合う喜びはありません。

 わたしたちが主イエスに従い、信仰の道を歩むということは、むしろ荒波の中に漕ぎ出していくことであり、苦難や試練の中で主イエスが共にいてくださることを教えられ、希望と勇気を与えられ、また実際に主イエスの助けと守り、導きを経験し、いつもどのような時でも神に感謝することができる生き方に変えられ、主イエスのためには試練や苦難を少しも恐れず、それらに耐え、ついには主イエスの勝利にあずかる、これがわたしたちの信仰の歩みなのです。

 次に【24節】。激しい嵐の中でも目を覚まさなかった主イエスでしたが、弟子たちの助けを呼び求める声をお聞きになります。そして、目を覚まされ、起き上がられます。主イエスはいつまでも眠っておられるのではありません。わたしたちの苦悩の叫びをお聞きになられます。わたしたちを救うために、目覚め、立ち上がってくださいます。わたしたちをすべての苦難から、死の危険から、救い出してくださいます。

 弟子たちは嵐を恐れています。12弟子の中の少なくとも4人はこのガリラヤ湖の漁師でした。ここを仕事場にし、湖のことや舟の扱い方をよく知っていました。しかし、このような状況になって、彼らの経験や知識は少しも助けにはなりませんでした。死の危険の前で、彼らはあわてふためき、なすすべを失っていました。彼らを死の危険から救い出してくれるものは、何もないかのようでした。

 その時にこそ、主イエスは立ち上がられます。弟子たちの叫びにお答えになります。そして、彼らを死の危険から救い出されます。人間の知識や経験、知恵や力のすべてが無効になった時でも、いやその時にこそ、主イエスはわたしたちの救いとなってくださるのです。

 主イエスは直接に風と荒波にお命じになりました。ルカ福音書にはその時の主イエスのお言葉は書かれていませんが、マルコ福音書4章では、「黙れ、静まれ」とお命じになったとあります。すると、風も波も静まって、なぎになりました。これは、主イエスが主なる神と同じ権威と力とを持っておられ、自然を支配しておられる神であることを明らかにしています。

 古代社会では、旧約聖書と新約聖書の世界でもそうですが、海や水は人間がコントロールできない大きな魔力を持つと考えられ、恐れられていました。創世記1章に書かれている神の天地創造のみわざの中で、神が第二日に天の水と地の水とを分けられ、第三日に陸と海とを分けられましたが、ここでは海とその水とを支配される神の偉大な力が暗示されています。また、詩編では、しばしば大きな苦難が「大水、大波」にたとえられ、神は信じる人をそのすべての大水、大波から守ってくださることが告白されています。

 主イエスはここで直接に風と荒波とのお命じになり、それを静められました。主イエスは神の権威と力とをもって、この世界とそこに住む人間たちを支配しておられ、救いのみわざを行ってくださるのです。

 最後に、【25節】。主イエスはここで弟子たちの信仰を問題にしておられます。重要なのは、人間の経験とか知識、あるいは知恵や技術ではありません。信仰こそがあらゆる試練と苦難の中で、わたしたちを恐れや不安から解放し、救うのです。主イエスがわたしと共にいてくださる、わたしの人生という舟に共に乗っていてくださる、わたしたちの福音宣教の旅路に伴っていてくださるという信仰が、わたしたちの険しい信仰の歩みを守り導くのです。主イエスがわたしと共にいてくださるのなら、わたしはすべての試練と苦難とにすでに勝利しているのです。死の危険にも勝利しているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、大きな試練と苦難の中にある世界の教会と、全世界のすべての国民とをお救いください。この地において、あなたのみ名があがめられ、み心が行われ、み国が来ますように。

○神よ、この秋田の地で、福音宣教を開始して130年目を迎えたわたしたちの教会を、あなたがいつの時代にも必要なものを備えてくださり、新しい信仰者を生み出してくださり、今日に至るまでお導きくださいましたことを、心から感謝いたします。さまざまな欠けや破れを持ち、弱く小さな群れですが、あなたがこの教会を憐れんでくださり、この教会をお用いくださって、み国の福音を宣べ伝える務めを果たさせてください。今集められているわたしたち一人一人を祝福し、恵みと平安をお与えください。さらに新しい信仰者を増し加えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月11日説教「ヤコブとラケルの結婚」

2022年9月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記29章1~30節

    ローマの信徒への手紙5章1~11節

説教題:「ヤコブとラケルの結婚」

 創世記29章1節にこのように書かれています。【1節】。「東方の人々の土地」とは、28章2節などではパダン・アラムと言われ、27章43節などではハランと言われている地のことで、ユーフラテス川の上流の地域で、パレスチナからは北東へ7、800キロメートル離れています。ヤコブは双子の兄エサウの殺害計画から逃れるために、母リベカの勧めに従って、母の兄ラバンの家に身を寄せようとして、一人で長く困難な旅を続け、今ようやくその地ハランに近づいてきました。

 きょう朗読された29章から31章までは、ラバンの家でのヤコブの20年間について語っています。当初は、この逃亡の旅は少しの間で終わるはずでした。27章43節以下で母リベカはこう言っていました。【43~45節】。ヤコブ自身もそう思っていたに違いありません。けれども、母と息子の予想に反して、少しの期間のつもりが20年間になりました。「あとでまたお前の顔を見よう」と願っていた母は再び愛するわが子に会うことはありませんでした。

 ヤコブの20年間のうちの最初の7年間は、愛するラケルとの結婚のために働いていたので、20節には、「ほんの数日のように思われた」と書かれているように、あっと言うに過ぎました。しかし、彼はさらに7年間、姉のレアのために働かなければならなくなり、それからさらにラバンの家畜のために6年間、計20年間、ヤコブはラバンの家で労苦し、忍耐して働き続けたのでした。

 この20年間はヤコブにとってどのような意味を持つのかということを、わたしたちはあらかじめ確認おきたいと思います。叔父ラバンの家とは言え、故郷を遠く離れて一人、ラバンの思惑通りに働かされてきたこの20年間は、ヤコブにとっては信仰の訓練の時だったと言えるのではないでしょうか。これまで父イサクの家では、何でも自分の思いどおりになる、わがままな子でした。母の愛を一身に受けて、ついには母と組んで父と兄とを欺き、長男の特権を自分の手に入れました。けれども、これからのヤコブは、ラバンの家ではすべてが自分の思いどおりには運ばないのだということを学ばなければなりません。彼のわがままと傲慢が打ち砕かれなければなりません。

そして何よりも、あらゆる人間の思いをはるかに超えて、神のご計画が進められていくということを学ばなければなりません。叔父ラバンの家で労苦して働き、ラバンのたび重なる欺きにも忍耐して、彼に忠実に仕え、そうすることによって、彼が最後に仕えるべきお方が主なる神であるのだということを学ばなければなりません。また、彼のすべての労苦を顧みてくださるお方が主なる神であるということを学ばなければなりません。そのために、ヤコブにとってはこの20年間の訓練の期間がぜひとも必要だったのです。主なる神が愛する者を訓練し、愛するすべての子らをムチ打たれるとヘブライ人への手紙12章に書かれているとおりです。

 さて、ヤコブの旅には兄エサウから逃れるということと同時に、もう一つの目的がありました。28章1節以下に書かれてあるように、カナン地方の娘と結婚することを避けて、母の兄ラバンの娘の一人と結婚するということでした。父イサク自身もラバンの妹であるリベカと結婚していました。29章2~24節に描かれているヤコブの花嫁探しの光景は24章の父イサクの花嫁探しの時とよく似ています。いずれの場合にも、二人の出会いの場所は村の郊外にある井戸の周辺。家畜に水を飲ませる時が旅人と娘との出会いの機会となります。娘は親切な旅人と出会い、走って家に帰り、ラバンにそのことを報告します。ラバンが二人の結婚に際しての条件を出します。イサクの場合もヤコブの場合も、ラバンは抜け目のない計算高い人物として描かれています。24章では、妹リベカを嫁がせる時にはたくさんの金銀を手に入れました。今度は娘を嫁がせるにあたって20年間のヤコブの労働力を手に入れることになります。

 しかし、両者の共通点とともに、違う点もいくつかあります。イサクの花嫁探しの時には、彼自身ではなく、アブラハムの家の年長の奴隷がその役を担いますが、ヤコブの場合には、彼自身が、しかも逃亡の身となって、一人寂しく孤独で困難な旅に出なければなりませんでした。また、イサクの花嫁探しの場合には、金銀などたくさんの贈り物を持参したのに対して、ヤコブの場合には、つえ一本のほかには何も持たずに家を出ました。そのために、結婚するには彼自身の労働力を差し出さなければならず、しかもその期間が20年間にもなることが必要でした。おそらく、ここには、わたしたちが先に確認したように、ヤコブに対する神の試練と訓練の意図が反映されているように思われます。ヤコブはラバンの家での彼の結婚をとおして、彼のわがままで傲慢な思いが神によって打ち砕かれ、すべては自分の思いどおりにいくと考えていた彼の人生に神の試練が与えられることによって、彼は神のみ前に謙遜にされ、彼の思いを超えて、神ご自身の計画が実現していくのだということを学ばされているのです。

 家畜の水飲み場での場面には当時の遊牧民の慣習が描かれています。井戸の口には大きな石が置かれていました。これは強い太陽光線や汚染から井戸の水を守るためであり、家畜や旅人が誤って井戸に落ちないためでもあり、またほかのグループに水を奪われないための役割もありました。大きな石のふたであったので、数人がかりでないと動かせません。その井戸の権利を持つグループがみな集合してから、石のふたを動かす決まりになっていました。

 ヤコブは羊飼いたちがハランから来たと聞いて、早速ラバンの消息を尋ねます。幸運にもすぐにラバンの情報が手に入っただけでなく、彼の娘ラケルが羊の群れを連れてこれからやってくるとのこと、それは何という幸運でしょうか。ヤコブはラケルが羊の群を連れてやってくるのを見るとすぐに、重い大きな石を一人で持ち上げて井戸から取り除き、彼女の羊たちに水を飲ませます。

 11節に、【11節】と書かれています。ヤコブの感動の大きさが表現されています。長い孤独な逃亡の旅を続けてきたヤコブ、そしてようやく親族に会うことができた安心感と喜び。また、もしかしたらこの娘が自分の結婚相手かもしれない人と出会った感動、芽生え始めた娘への愛、そのようなヤコブの興奮がこの感動的な場面を創り出しているように思われます。

 やがて、ヤコブはラバンの家に着きます。ラバンは身内としてヤコブをあたたかく迎えます。一カ月が過ぎてから、計算高いラバンがヤコブに話しかけます。【15~20節】。ヤコブは愛するラケルと結婚するために7年という長い年月の労働をラバンに提供することを申し出ました。古代社会では、いわゆる花嫁料が支払われる習慣があったとはいえ、これはずいぶん高い値のように思われます。ラケルの父ラバンからの欲深い提案であったとはいえ、これはまたヤコブのラケルに対する愛の大きさをも表していると言えるでしょう。しかも、その愛の大きさのゆえに、ヤコブにとってはその7年間の労働提供はほんの数日のように思われたと書かれています。愛とはこのようなものなのでしょう。神への愛もまたそのようなものでしょう。神への愛の大きさのゆえに、生涯神に仕え、多くの労苦を重ね、数々の試練をも経験しながら、振り返ってその長い信仰の生涯がわずか数日のように思えるほどに、神を愛し、神に仕えることに熱中する、それが真実の愛いというものでしょう。

 ところが、その期間が満ちた時、新しい事態が生じます。ラバンはヤコブが愛したラケルではなく、姉の娘レアを彼の妻として与えました。結婚の祝宴が終わった翌日の朝になって、ヤコブはラバンにだまされたことを知りました。でも、ラバンはそれが約束違反ではなく、この地方の習慣では妹を姉より先に嫁がせることはしないと言い訳をします。その説明を聞いたヤコブは、きっと自分自身のことを思い出したに違いありません。と言うのも、彼自身一般的は慣習を意図的に破って、父と兄とを欺いて、長男の権利を兄から奪った経験があったからです。かつて父と兄とを欺いたヤコブが、今同じように、身内のラバンによって欺かれているのです。

 この世の人間的な知恵によって勝利しようとする人は、やがてはさらに大きなこの世の知恵によって打ち負かされるほかにないのだということを、神はラケルの悪知恵をお用いになってヤコブに知らしめ、彼をムチ打ち、懲らしめ、教育されるのです。ヤコブがこの世の知恵によって生きるのではなく、神の恵みと導きによって生きるべきであることを悟らしめるのです。

 ヤコブはラケルと正式に結婚するために、さらに7年間働かなければならなくされます。ヤコブはラバンの言うとおりに、服従します。それによって、ヤコブは彼の魂の父であられる主なる神に従順に服従し、仕えるべきであることを学んでいくのです。

 最後に、31節以下に目を注ぎたいと思います。ここにはヤコブ(のちにイスラエルと改名しますが)とレアとの間に生まれた4人の子どもたちのことが書かれています。のちにイスラエル12部族を形成することになる4つの部族の子孫です。ヤコブはここにおいても、事が自分の思いどおりには運ばないことを、いやただ神のみ心だけが行われるということを学ばなければなりません。ラケルに対する彼の大きな愛によっても、彼の願いどおりに、ラケルには子どもが与えられません。彼の願いに逆らうようにして、神は疎んじられているレアの方を顧みられ、彼女に多くの子どもをお授けになりました。

 いや、それのみか、レアから生まれたユダの子孫から、のちにダビデ王が生まれ、ダビデの子孫から、死にかけた木の切り株から芽が出るように、ガリラヤに住むヨセフが生まれ、彼の子として主イエス・キリストがお生まれになったのだということを、わたしたちは知っています。アブラハムから受け継がれた神との契約は、その子イサク、その子ヤコブへと受け継がれ、ヤコブとレアの子として生まれたユダからダビデ王へと、そして主イエス・キリストへと至って、神と全人類との救いの契約が成就したのです。ラバンの策略と欺きも、またラケルに対するヤコブの大きな愛も、神の救いのご計画を変えることはできません。それらのすべてを貫いて、それらのすべてをはるかに超えて、神の救いのご計画は前進していきます。人間たちのすべての罪を貫いて、それらのすべてをはるかに超えて、終わりの日のみ国の完成に至るまで、神の救いのご計画は前進していきます。

(執り成しの祈り)

○天に父なる神よ、あなたの恵みと慈しみは天地創造の初めから世の終わりに至るまで、変わることなく、すべての人に豊かに注がれています。どうか、わたしたちがそのことを覚え、感謝し、あなたの恵みと慈しみとに応えて、あなたと隣人とに心から喜んで仕える者としてください。

○天の神よ、重荷を負っている人を顧みてくださり、その重荷をあなたが取り除いてくださいますように。病んでいる人の傍らにあなたが共にいてくださり、励ましといやしとをお与えください。悲しんでいる人、孤独な人、道に迷っている人、すべてあなたの助けを必要としている人たちに、あなたがみ手を差し伸べてくださり、希望と光をお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月4日説教「ステファノの説教(五)荒れ野の幕屋」

2022年9月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:列王記上8章27~34節

    使徒言行録7章44~53節

説教題:「ステファノの説教(五)荒れ野の幕屋」

 キリスト教会最初の殉教者となったステファノがユダヤ最高議会の法廷の被告席で語った弁明、説教が、使徒言行録7章に書かれています。きょうはその最後の個所44節以下のみ言葉を学びます。

 ステファノがユダヤの長老たちや律法学者たちによって逮捕されることになった理由は主イエス・キリストを宣べ伝えたことにありますが、具体的には6章13節以下にあるように、エルサレムの聖なる場所である神殿を打ち壊すと語って神殿と神を冒涜した罪、また旧約聖書の律法を軽視した発言をしたという罪であったが、きょうの個所でステファノは彼が裁かれている告発と罪状に触れながら語っています。

彼の説教の結論を先取りして言うならば、ステファノは神殿と律法を汚したという罪で告発され、裁判を受けているのですが、ステファノが旧約聖書のみ言葉に導かれながら語った説教によれば、その罪を告発され、神の裁きを受けなければならないのは、むしろ彼らユダヤ人指導者たちの方であり、彼らこそが神殿の本来の役割を理解しておらず、神の律法を語った預言者たちを迫害した先祖と同じように、神が預言の成就としてお遣わしになったメシア・キリストを十字架につけて殺したではないかという、彼らユダヤ人の罪がここでは明らかにされているのです。ここでは、裁判官の席に座っているユダヤ人指導者たちが裁かれており、被告の席に立たされているステファノが神のみ言葉によって彼らを裁いているという逆転が起こっているということをわたしたちは気づかされるのです。

 同じような立場の逆転は、4章5節以下のペトロとヨハネが裁かれた法廷でも、また5章27節以下の使徒たちが裁かれた法廷でも起こっていたことをわたしたちはすでに確認してきました。神のみ言葉の証人として立つ信仰者が迫害を受け、この世の法廷に引き出されることがあっても、信仰者は少しも恐れる必要はありません。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によってもつながれることがないからです。それゆえに、神のみ言葉の証人として立つ信仰者は、この世のいかなる裁きをも恐れる必要はなく、この世のいかなる権力によっても決して倒れることがないのです。

 さて、ステファノはこれまで族長アブラハムから始まるイスラエルの救いの歴史について、旧約聖書のみ言葉を解き明かしながら語ってきたのですが、44節からは荒れ野での証しの幕屋について語ります。出エジプト記によれば、モーセはエジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民が荒れ野の40年間の旅を始めるにあたって、神のご命令によって幕屋を造りました。神はモーセにこのように言われました。「わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。またその所でわたしはイスラエル人々と会うであろう」と。幕屋の中には、神のご臨在のしるしとして契約の箱と十戒を刻んだ証しの板2枚が収められていました。これは臨在の幕屋とか証しの幕屋、また会見の幕屋とも呼ばれました。

 証しの幕屋は木材を組み合わせ、それを布で覆って造られる移動式の礼拝所でした。イスラエルの民は荒れ野を40年間移動しながら旅を続けましたが、幕屋も彼らと共に移動しました。主なる神がイスラエルの民がいる場所に常に伴ってくださり、荒れ野の旅を導かれ、彼らに必要なものすべてを備えてくださることを信じながら神を礼拝する場所、それが幕屋であったのです。

 神がイスラエルの民を奴隷の家エジプトから救い出し、すぐに約束のカナンへと導かれなかった理由は、彼らが荒れ野の何もない場所でただ主なる神だけに頼り、主なる神からすべてを期待して、ただひたすらに神を礼拝する民として生きる訓練のためだったのです。申命記8章3節で神が言われたように、「人はパンだけで生きる者ではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」のです。

 モーセは荒れ野の旅の終わりに約束の地を踏まずして死にましたが、ヨシュアが証しの幕屋を引き継ぎ、約束の地カナンに入ってからもイスラエルの民は証しの幕屋を礼拝の場とし、そこで生ける神と出会い、神のみ言葉を聞き、祈りの場として、士師の時代からイスラエルの最初の王サウルと次のダビデ王の時代に至るまで、幕屋はイスラエルの民の礼拝の場でした。

 ダビデ王の終わりの時代になって、神のためにもっと立派な宮、神殿を建てようとする機運が出てきました。そのことについて、ステファノは46節以下で次のように語っています。【46~50節】ここには、神の家である神殿を建設することの是非について、つまり、神殿建設は神の本来のみ心なのか、それとも神殿は永遠で普遍な存在である神をその中に閉じ込めておこうとして人間が勝手に造ったものなのかという、旧約聖書の中にある難しい神学的な問題があるように思われます。

サムエル記や列王記には、神殿を建設することが神のみ心であるのかどうかという議論が当初からあったことをうかがわせる記述がいくつかあり、49~50節でステファノが引用しているイザヤ書66章でも、神は人間の手で造った神殿の中に住まうことはないと言われているように読めます。神は確かに、神殿という建物の中に縛り付けられることはありませんし、エルサレムという一か所だけにとどまっておられる神でもありません。そのことは、エジプトを脱出したモーセ時代から荒れ野の40年間、そしてカナンに入ってからダビデ王の時代に至るまでの300年あまりの間、イスラエルは移動式の幕屋で礼拝をしていたという過去の事実に照らしても明らかであると、ステファノは語っているのです。

 そのことを、旧約聖書の中から確認してみたいと思います。サムエル記上7章を読んでみましょう。【7章1~7節】(490ページ)。神はここで明らかに、荒れ野の時代からの移動式の礼拝所であった幕屋に言及しつつ、「人間が造った

家は、それがどんなに立派な家であれ、わたしはその中には住まない。だから、神殿を建てるには及ばない」、とダビデ王に言っておられると理解されます。

 もう一カ所は、列王記上8章27節以下です。この個所は、神殿が完成して、それを神にささげる奉献式の時のソロモンの祈りです。【27~30節】(542ページ)。ソロモンは自分が造った神殿の中に、永遠で普遍の存在である神がお住まいになることはないと告白しつつも、この神殿でささげるイスラエルの民の祈りを神がお聞きくださるようにと、そしてイスラエルの罪をおゆるしくださるようにと必死に祈り求めています。ここにも、エルサレム神殿建設に対する否定的な考えが反映されているように思われます。

 これらの聖書の記述から、神殿建築が果たして神のみ心にかなっていたのか、それがイスラエルの信仰にとって有益なのかどうかという議論、葛藤が当初からあったということは確かだと言えます。しかし、神は最終的にはソロモンの神殿建築を容認され、その神殿で動物を犠牲としてささげる礼拝をイスラエルの民のために備えられたのでした。イスラエルの民はエルサレム神殿で動物を犠牲としてささげる礼拝をとおして、信仰の民として生き続けたのでした。そのようにして、イスラエルは来るべきメシア・救い主の到来を待ち望んだのです。

 では、エルサレム神殿とそこで行われていた礼拝は何を目指していたのでしょうか。わたしたちはそれを主イエスご自身がなされたみわざによって知ることができます。主イエスが受難週の最初の日、棕櫚の日曜日にエルサレムに入場された時、神殿の境内に入って、そこで神にささげる動物の売り買いをしていた商売人をみな追い出され、神殿でささげる貨幣に両替する両替人の台を倒されたことが福音書に書かれています。また、主イエスは「人間の手で造った神殿を打ち倒し、三日目には人間の手によらない新しい神殿を建てる」と言われました(マタイ福音書26章61節参照)。

 これは何を意味しているでしょうか。主イエスは当時の神殿での礼拝が商売人のお金もうけのために利用されたり、礼拝そのものが偽善的になり、神に対する真実の服従と献身を伴わない形式的な礼拝になっているという現実を批判されただけではありませんでした。主イエスはエルサレム神殿での礼拝そのものを、またエルサレム神殿そのものの役割を終わらせたのです。神の救いの恵みをエルサレム神殿だけに集中させ、その中に閉じ込めてしまっていた彼らの信仰を終わらせ、また動物を犠牲としてささげ、動物の血による贖いによって罪のゆるしを与えられるという神殿での礼拝を終わらせたのです。

 主イエスはご自身の罪も汚れもない尊い血を十字架でおささげくださることによって、その血の贖いによって、すべての人の罪を永遠におゆるしくださったのです。もはや、繰り返して動物の血を犠牲としてささげる必要はありません。また、主イエスは世界の至る所に、ご自身の体である教会をお建てくださり、すべての人を教会へとお招きくださいます。主イエスは教会の礼拝をとおして、み言葉と聖霊とによってすべての人に、すべてのところで出会ってくださり、救いの恵みをお与えくださいます。

 ステファノの説教はエルサレム神殿とその神殿での神礼拝が主イエス・キリストによってその最終目的に達した、神が計画しておられた救いが成就したということを語っています。そうであるのに、すでにその役目を終えたエルサレム神殿にしがみつき、古い律法に縛られているユダヤ人指導者たちの罪とかたくなさを明らかにしているのです。

 律法について、ステファノは51節以下でこう語ります。【51~53節】。イスラエルは神から律法を与えられ、その律法に心から喜んで聞き従うことによって神との契約関係に生きる民とされたのでしたが、彼らはかたくなで不従順であり、神が遣わした預言者たちを迫害したと、ステファノは彼らの罪を告発します。それだけでなく、神がすべての預言の成就としてこの時にイスラエルに派遣されたメシア・救い主であられる主イエスを殺すという大きな罪を犯しているではないかと、厳しく彼らを告発します。

 52節の「正しい方」とは、神の律法を完全に成就された義なる方、主イエス・キリストのことです。主イエスこそが旧約聖書のすべての預言者たちが証しし、待ち望んだ神の律法の成就者、完成者であられます。その主イエスを十字架につけて殺したあなたがたユダヤ人指導者たちこそが律法の違反者なのではないかと、ステファノは言うのです。

 主イエス・キリストの十字架の福音の証人としてユダヤ最高議会の法廷に立つステファノが語った説教は、その後の2千年間のキリスト教会が語るべき福音の原型であり、基本であると言えます。教会での真実の神礼拝をとおして、わたしたちは生ける神と出会い、神の命のみ言葉を聞き、終わりの日の完成を目指しながら、この世での荒れ野の旅を続けるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち一人一人の人生の歩みに常に伴ってくださり、すべての必要な物を備えて、わたしたちの道をお導きくださいます。どのような試練や苦難の時にも、ただあなたにより頼みながら、心安んじてあなたの服従する道を進ませてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。