4月17日説教「主イエスは復活であり、命である」

2022年4月17日(日) 秋田教会復活日・教会建設記念日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    ヨハネによる福音書11章17~27節

説教題:「主イエスは復活であり、命である」

 教会の暦ではきょうは主イエスの復活を記念するイースター礼拝です。また、きょうの礼拝は秋田教会建設記念日を覚える礼拝でもあります。(旧)日本基督教会秋田教会が自給独立の教会として秋田伝道教会から秋田教会として教会建設式を執行したのが1934年(昭和9年)4月15日(日)、紺野瀧一郎牧師が就職して2年目でした。当時の東北中会が「自給独立十年計画」を立て、外国ミッションからの経済的独立を目指す運動を始めて4年目でした。それまでの外国ミッションの支援に感謝しつつ、精神的にも経済的にもそれから独立して、教会員一人一人が自覚的に教会を支える自給独立の歩みを始めたのでした。今年は88年目になります。弱さや欠けを持つ教会ですが、主の憐みとお導きとを信じて、真実の教会を建てていくために、これからも共に仕えていきたいと願います。

 きょうのイースター礼拝では、ヨハネによる福音書11章17節以下のみ言葉をご一緒に聞きます。この個所は、ベタニア村のマリアとマルタの兄弟ラザロが死んで墓に葬られて4日目に主イエスによって生き返らされたという奇跡が記されていますが、その中でまず25節の主イエスのお言葉に注目しましょう。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である』」。「わたしは○〇である」という言い方はヨハネ福音書に何度も書かれている特徴的な表現であり、主イエスの自己宣言、自己提示と言われます。たとえば、6章5節では「わたしは命のパンである」、8章12節では「わたしは世の光である」、10章11節では「わたしは良い羊飼いである」、14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である」、15章1節「わたしはまことのぶどうの木である」などです。主イエスはこれらの表現によって、ご自身がほかのだれかとは全く違った特別な存在であり、特別な人間であり、天の父なる神が人間のお姿となってこの世に来られた、神のみ子であるということを語っておられます。

 「わたしは〇〇である」はギリシャ語では「エゴー エイミイ」と言います。エゴーは「わたし」という意味の名詞、「エイミイ」は「わたしは〇〇である」という意味の動詞です。つまり、「エイミイ」だけでその意味になるのに、さらにそれに「エゴー」「わたしは」という言葉を付け加え、強調している言い方なのです。その意味を汲んで日本語に翻訳するとすれば、「わたしこそは〇〇である。わたしだけが〇〇である。わたし以外には〇〇はいない」ということになります。

 つまり、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の命のパンである。天から下って来て、あなたがたに朽ちることがないまことの命を与え、罪の中で死んでいたあなた方をまことの命によって生かす命のパンである」と主イエスは言われます。「わたしこそは、主イエスこそが、すべての人を照らす世の光である。暗闇に閉ざされているこの世界を天からの光によって照らし、暗黒の地に住んでいるあなたがたをそこから導き出し、神のみ言葉の光に照らされて歩むようにする世の光である」。「わたしこそは、主イエスこそが、良い羊飼いである。迷える羊を探し出し、清い飲み水を与え、野のすべての獣(けもの)の攻撃から守り、羊のために命をも惜しまない唯一の良い羊飼いである」。「わたしこそは、主イエスこそが、道であり、真理であり、命である。父なる神に至る唯一の真理への道、唯一の命に至る道、だれも主イエスを通らなければ神のみもとに行くことができない」。「わたしこそは、主イエスこそが、唯一のまことのぶどうの木である。主イエスにつながっていれば、だれでも豊かな実りをつけることができる」。そのように、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の、まことの、そして永遠の、すべての人にとっての、復活であり、命である」と主イエスが言われるのです。

 では、この主イエスのみ言葉はどのような状況の中で言われたのか、またそれにはどのような意味が込められているのかを見ていきましょう。

 11章1節に、ラザロはべタニア村に住むマルタとマリアの兄弟であると紹介されています。ベタニアはエルサレムの東3キロメートルにあります。ラザロという名前には「神が助けた」という意味があります。ここでは象徴的な意味があるように思われます。彼が重い病気になりました。マルタとマリアは主イエスが急いできてくださってラザロの病気をいやしてくださることを願いました。その時、主イエスは4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われましたが、しかし主イエスはすぐにはベタニアには向かわれずに、なおも二日間もそこに滞在し、その間にラザロは息を引き取りました。主イエスは14、15節でこう言われます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」。そう言われてから、主イエスがマルタとマリアの家に着いた時には、ラザロが死んで墓に葬られてすでに4日もたってからであったと17節に書かれています。これはどういうことでしょうか。ここに主イエスのどのような意図があったのでしょうか。

 一つ明らかなことは、主イエスは意図的にラザロの所に行くのを遅らせておられるということです。もし、主イエスがすぐにラザロのもとへ向かっていたら、彼が息を引き取る前に到着していたでしょう。21節でマルタが言っているとおりです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。32節ではマリアも同じことを言っています。彼女たちは主イエスが奇跡によってラザロの病気をいやすことがおできになると期待し、また信じていました。9章に書かれていたように、主イエスは生まれながらにして目が見えなかった人の目を開かれ、見えるようにされました。その他、多くの病をいやす奇跡を行っておられました。ラザロに対しても同じことが出来たはずです。でも、彼が死んでしまってからは、どうすることもできないだろうという思いが彼女たちにはあったのでしょう。彼女たちも、弔問に来たユダヤ人たちもラザロの死の前でただ泣き崩れるほかなかったことが33節に書かれています。

 しかしながら、実はそこにこそ、主イエスの最終的な意図が、目的があったのだということにわたしたちは気づかされます。マルタにとっても、またこの時にラザロの死を悼みながら彼女たちを慰めるためにこの家を訪れていた弔問客も、そしてすべての人にとっても、人間にとって死が最後に行きつくところであり、死が最後に勝利し、人間はそれに対して何の抵抗もできず、全く無力で、死の前に屈服するほかないと、だれもが考えるのですが、しかし、主イエスはここでそれを根本から覆し、死が最後なのではない、死が最後に勝利するのではない、死から新しい命が生み出され、死ではなく命こそが最後に勝利するのだということを、お示しになるのです。病気をいやす奇跡よりもはるかに偉大なる死から命を生み出す復活の奇跡をマルタたちとユダヤ人たちと、そしてわたしたちに見せることが主イエスの最終目的だったのです。

 主イエスが4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われたのはこのことだったのです。また、14節で「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたがそれによって信じるようになるためである」と言われたのはこのためだったのです。そして、主イエスは事実ラザロを死から生き返らせたことが38節以下に書かれています。43節から読んでみましょう。【43~44節】。

 主イエスは死の力を打ち破られました。死に勝利されました。死から新しい命を生み出されました。これは神のみ子であられる主イエスにだけ与えられた神の力であり、主イエスだけがなされる神の奇跡です。主イエスはこれによって神の栄光を現わされました。しかしそれは、ラザロに身に起こった奇跡であり、「わたしこそが復活であり、命である」と言われた主イエスのみ言葉の意味がまだ十分に解明されているとは言えません。わたしたちはさらに深くこのみ言葉の意味をさぐっていかなければなりません。

 23節で主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われた時、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と答えています。これが、この時代のユダヤ人が一般的に持っていた復活信仰でした。生涯神を信じ、神に従った信仰者は終わりの日に神の国が完成される時に復活させられるという信仰は、イスラエルの長い苦難の歴史をとおして、特に紀元前2世紀の大規模なユダヤ教迫害を経て、次第に強くなっていったと推測されています。というのは、苦難と試練の中でも神を信じ続け、神に全き服従をささげてその信仰を貫きとおした信仰者を神は決してお見捨てになることはない。地上の生涯では報われなかったとしても、神は最後には必ずや報いてくださる。そして、復活の命をお与えくださるに違いない。そこから、復活信仰が芽生えるようになったと推測されています。

 しかし、主イエスはここで、そのようなマルタや当時のユダヤ人の復活信仰に対して、終末の時の復活ではなく、今ここで主イエスのみ言葉を聞く信仰者に対して、「わたしこそが復活そのものであり、命そのものである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われたのです。主イエスを救い主と信じる信仰者は、今すでに復活そのものであられる主イエスの復活に与ることがゆるされている、命そのものであられる主イエスの命によって生きることがゆるされている。それゆえに、主イエスが死に勝利されたように、信仰者ももはや死の力に支配されることはない。死に勝利し、復活の命に生かされている。主イエスはそう言われるのです。

 主イエスのこのみ言葉は、主イエスご自身の十字架の死と3日目の復活というイースターの出来事を土台にして理解されなければなりません。主イエスは全人類の罪を贖うために十字架で死んでくださいました。そして、罪と死と滅びからわたしたちを救い出すために、死の墓から復活され、死に勝利されたのです。この主イエスを救い主と信じる信仰によって、わたしたちは死から命へと移されています(5章24節参照)。死のとげはすでに主イエスによって抜き取られているのです。復活の主イエスを信じる信仰者にとっては、その歩みは死に向かっているのではなく、すでに死から命へと移されています。主イエスの復活の命に向かっています。わたしたちはこの信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちを、あなたがみ子イエス・キリストの十字架と復活によって、まことの命に生きる者としてくださいましたことを、感謝いたします。どうか、わたしたちが朽ち果てるしかない地上の命のために生きるのではなく、天から与えられる永遠の命に生かされている者にふさわしく、復活であり命であられる主イエス・キリストにお仕えする信仰の歩みを続けさせてください。主イエスの復活の恵みと命が、全世界のすべての人にありますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月10日説教「完全な犠牲をささげ、贖いをなしとげられた主イエス」

2022年4月10日(日) 秋田教会主日礼拝(受難週)説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~12節

    ペトロの手紙一1章13~21節

説教題:「完全な犠牲をささげ、贖いを成し遂げられた主イエス」

 教会の暦では、きょうは「棕櫚の主日」、今週は受難週です。主イエスの地上のご生涯の最後の一週間です。主イエスは日曜日にロバの子に乗ってエルサレムに入場されました。人々は棕櫚(しゅろ)の枝を手に主イエスを迎えたとヨハネ福音書12章13節に書かれています。主イエスはその日から毎日エルサレム神殿で神の国の福音を説教されました。木曜日の夕方には弟子たちとの最後の晩餐、それはユダヤ人の最大の祭りである過ぎ越し祭を祝う食事であったと共観福音書は伝えています。そして、金曜日にはユダヤ最高法院での裁判、十字架の死、日没前の墓への葬りと続きます。安息日の土曜日をはさんで三日目の日曜日の朝早く、主イエスは墓から復活されました。次週17日に、わたしたちはイースター礼拝をささげます。

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいますが、きょうはちょうど十字架の贖いの個所を学ぶことなっておりますので、主イエスのご受難に思いを馳せながら、聖書のみ言葉から聞いていくことにします。

 『日本キリスト教会信仰の告白』をわたしたちが学ぶことの意義についてここで改めて確認しておきましょう。一つには、すでに洗礼を受けて教会員になった人はこの信仰告白を受け入れて洗礼を受け、秋田教会員になったのですから、自分の信仰をより確かにし、深めるためにこれを繰り返して学んでいく必要があります。二つには、求道中の人はこの信仰告白を自分の信仰として受け入れ、告白して、洗礼へと導かれるために、これを学ぶことが何よりも基本的で重要なことになります。

では、『信仰告白』の個所を読んでみましょう。「主は、神の永遠の計画に従い、人となって、人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ、復活して永遠のいのちの保証を与え」と続いています。ここではキリスト教信仰の最も重要で中心的な内容が告白されています。きょうは、その「贖いをなしとげ」という告白について学びます。

「贖い」という言葉は一般にも用いられますが、聖書では特別な内容を含んでいます。旧約聖書からそれをさぐっていきましょう。贖いの一つの意味は、神から買い戻すということです。本来は神にささげられるべきものを、その代わりに別のものをささげる場合に贖うという言葉が用いられます。たとえば、家畜の中で最初に生まれた雄はすべて神にささげられねばならないと旧約聖書の律法に定められています。これを初子(ういご)の奉献と言います。ここには、命はすべて神から与えられたものであり、神に属するものであるので、神にお返しするという信仰があります。しかし、ロバの場合は宗教的に汚れた動物と考えられ、神にささげることができないので、ロバの初子の代わりに小羊をささげて贖わなければならないと定められています。

 人間の初子、最初に生まれた男子も、神のものであり、神にささげられねばなりませんが、人間の命そのもの神にささげることはできないので、動物の命や金銀で贖うように定められています。ルカによる福音書2章に書かれているように、主イエスの両親も生まれて40日を過ぎた幼子主イエスを神にささげるために、エルサレムの神殿で神を礼拝しました。贖うとは、本来神に属すべきもの、神の所有であるものを、贖いの動物や贖い金を神に支払うことによって、神から買い戻すという意味をもっています。しかし、その命が人間の自由になったというのではなく、あくまでもすべての命は神のものであることには変わりません。主イエスは、ご自身の命をその本来の所有者であられる父なる神におささげになりました。

 第二には、奴隷などを買い戻す際にもこの言葉が用いられます。貧しさのために、家族のだれかがを奴隷として売った場合や土地を売り渡した場合に、後になって近親者がその奴隷や土地を買い戻すことを贖うと言いました。その際に、だれでも奴隷や土地を自由に売買できるというのではなく、もとの所有者に最も近い肉親、近親者にだけ贖う権利がありました。したがって、奴隷や土地をだれでもが自由に売買することは、イスラエルでは固く禁じられていました。奴隷も土地も、すべては本来神のものであり、人間に貸し与えられたものであるという信仰がここにもあります。

 第三に、イスラエルの民が外国に支配され、奴隷状態であった時に、主なる神が彼らを外国の支配から解放されることを贖うと言いました。イスラエルのエジプト脱出は、神の贖いのみわざでした。出エジプト記6章6節には次のように書かれています。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」。また、イザヤ書では、バビロンに捕囚になっているイスラエルの民を神が再び約束の地、聖なる神の都エルサレムに連れ戻されることを、神の贖いのみわざとして繰り返し預言されています。イザヤ書43章1節にはこうあります。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのものだ」。神の贖いのみわざは、イスラエルの民にとっては外国の支配からの解放であり、救いでした。イスラエルはもはや異教の王の支配下にあるのではありません。奴隷の民ではありません。主なる神によって解放された自由の民であり、贖い主であられる神の所有とされたのです。

 ここには、神の贖いのみわざの重要な特徴が含まれています。それは、神が奴隷の民、捕囚の民イスラエルを買い戻すために、彼らの近親者となってくださったということです。イスラエルの民は自らの罪のゆえに、主なる神を捨て、主なる神に背いて、自らを奴隷として異教の王に売り渡したのですが、それゆえに彼らを贖う近親者はイスラエルの側から要求されるのですが、しかし、彼らの中にはだれも彼らを奴隷から解放できる贖う者、その資格を持つ者もその能力を持つ者も、だれ一人いませんでした。その時に、主なる神が、そうする義務も責任も全くなかったにもかかわらず、むしろご自身に背き、敵対したイスラエルのために、彼ら奴隷の民の近親者、贖い主となってくださったのです。イスラエルが自らを贖うための贖い金を全く支払っていないにもかかわらず、神は全く無償で、神の側からの一方的なあわれみと恵みによって、彼らを奴隷の支配から救い出され、ご自身の民として買い戻してくださったのです。

 贖うの第四の意味は、これが最も重要な意味ですが、人間の罪の贖いのために雄牛や雄山羊などの家畜を贖罪の犠牲として神にささげるという儀式です。これについては、旧約聖書のレビ記や申命記などに細かく規定されています。イスラエルの民が神の律法に背いて罪を犯した場合、その罪を神からゆるしていただくために、動物の命を自分たちの身代わりとして神にささげ、神の裁きを逃れ、神の怒りを和らげるという意味がありました。エルサレムの神殿では、毎日毎日人間の罪の贖いのために家畜が贖罪の犠牲としてささげられていました。それが、彼らの礼拝だったのです。イスラエルの民はこの罪からの贖いなしには、神の民として生きていくことができなかったのです。

 さて、主イエス・キリストの十字架の死が、わたしたちのための贖いの成就であったという『日本キリスト教会信仰の告白』は、以上のような旧約聖書の贖いの信仰を背景にしています。では次に、主イエス・キリストの贖いのみわざについて、更に深く学んでいきましょう。

 「贖いをなしとげ」は、1953年に制定されたら文語体の告白では、「贖いを成就し」となっていました。主イエスの十字架の死によって、旧約聖書に預言されていた神の贖いのみわざが成就したという意味が含まれています。先ほど挙げたイスラエルのエジプトの奴隷の家からの贖いと救い、バビロン捕囚からの帰還とエルサレムの再建、人間の罪からの贖いを願っての礼拝、それらのすべてが主イエス・キリストの十字架による贖いと救いを預言しているのであり、また主イエス・キリストの十字架の死によって旧約聖書で語られているそれらすべての神の贖いのみわざが、完全に成就したのだということです。神がイスラエルの民のためになされた贖いのみわざが、主イエス・キリストの十字架によって、全人類の贖いのみわざとして成就したのです。イスラエルの民が苦難の歴史の中で待ち望んでいた永遠の贖い主、奴隷からの解放者、罪と死と滅びからの救い主が、主イエス・キリストの到来によって成就したのだということです。主イエス・キリストこそがイスラエルと全人類のための真実の、永遠の贖い主であられ、わたしたちを罪の奴隷から贖い出し、すべての悪しき支配から解放してくださる救い主なのです。

 第二の重要な点は、主イエスはわたしたちの真実の贖い主となるために、わたしたち罪びとたちに最も近い近親者となってくださったということです。わたしたちは神を知らず、神から離れ、神に敵対していた罪びとでした。そのような罪びとたちの世に、神のみ子が人間のお姿となって天から降(くだ)って来られ、わたしたち罪びとたちと共に歩まれました。主イエスは、マタイによる福音書20章28節でこのように言われました。「人の子が(主イエスご自身のことですが)、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(これは贖い金という意味ですが)として自分の命をささげるために来た」。主イエスは、罪なき神のみ子であられましたが、徹底して罪びとたちの僕(しもべ)として仕えてくださり、最後にはご自身が罪びとの一人に数えられ、罪びとが受けるべき十字架の死の裁きを、わたしたちに代わって受けてくださるほどに、わたしたち罪びとたちの近親者となってくださり、そのようにしてわたしたちを罪の奴隷から贖ってくださったのです。

 わたしたち人間はだれも自分自身を贖うことも他の人を贖うこともできません。詩編49編の詩人はこのように告白しています。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。しかし、神はわたしの魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる」(8~9節、16節)。神のみ子であられ、罪も汚れもない主イエス・キリストの尊い血だけが、すべての人を罪と死の支配から贖い、救い出すことができるのです。

 そのことについて、ヘブライ人への手紙9章11節以下では次のように教えられています。【9章11~14節】(411ページ)。また、【ペトロの手紙一1章18~19節】(429ページ)。

 主イエス・キリストが十字架でおささげくださった血は、動物などの代用品ではなく、神のみ子の血であり、地上のどれほどに価値あるものよりもはるかに尊く高価であり、完全であり、永遠であるゆえに、すべての人の罪を完全に、永遠に贖い、救うことができると、強調されています。主イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされない人は、だれもいません。主イエス・キリストの十字架によってゆるされない罪は何もありません。すべての人のすべての罪が永遠に贖われ、ゆるされています。それが、『日本キリスト教会信仰の告白』で「贖いをなしとげ」と告白されている内容です。

 わたしたちはこの信仰告白を共に告白することによって、主イエス・キリストによって罪の奴隷から贖われ、主キリストのものとされている一人一人として、また罪のゆるしの恵みによって生かされてれている者たちの群れとして、ここに主イエス・キリストの体なる教会を建てていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべき者であったわたしたちをあなたがみ子の尊い血によって贖い、救ってくださいましたことを心から感謝いたします。どうか、わたしたちを永遠にあなたのものとしてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和をこの世界にお与えください。国々の為政者、指導者たちが、何よりもあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏す者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月3日説教「ステファノの説教(一)アブラハムの選び」

2022年4月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記12章1~9節

    使徒言行録7章1~8節

説教題:「ステファノの説教(一)アブラハムの選び」

 使徒言行録7章2節からステファノの長い説教が始まります。これは53節まで続きます。使徒言行録に記されている説教の中で最も長いものです。わたしたちがこれまで聞いてきた使徒ペトロの説教は2章29~39節、3章12~26節、4章9~12節、5章30~32節がありました。このあとには、10章36~43節、それから使徒パウロの説教が13章16~41節、14章15~17節、Ⅰ7章22~31節にあります。これらのどれよりもはるかに長い説教です。使徒言行録の著者であるルカがある意図をもってこれだけの長い説教を記録していることは明らかです。あらかじめその意図の一つを指摘しておきましょう。

 それは、ステファノがキリスト教会最初の殉教者となったということと関連しているように思われます。しかも、彼のこの一回の説教が直接的な理由となって、53節で彼の説教が終わるや否や、あるいは途中で中断させられたのかもしれませんが、すぐに58節で石打の刑によってステファノは殺されてしまいます。初代教会がこれから幾度も経験しなければならないユダヤ人とローマ人からの迫害とそれによって流すであろう殉教の血がここで初めて流されたのです。キリスト教会はステファノが語った説教によって、また同時にステファノが流した殉教の血によって、これからのちも生き続けていくのです。ここに、ステファノの説教の大きな意味があるのです。

 では1節から読んでいきましょう。【1節】。ユダヤ最高議会・最高裁判所の議長を務めている大祭司は裁判の正式な手続きを踏んで、最初に、訴えられている被告の罪状認否と弁明の機会を与えます。被告はここで、自分が無罪であることや情状酌量の余地があることなどを語るのが一般的です。けれども、これまでのペトロたちの裁判でもわたしたちが見てきたように、彼らはその席で主イエス・キリストの福音を語りました。彼らは主イエス・キリストの福音の証し人としてその裁判の席に立ち、そこに集まっているユダヤ人の指導者たちに主イエス・キリストの十字架の福音を語るのです。自分たちの減刑や命乞いの機会とするのではなく、福音宣教の機会として彼らは被告席に立っています。

 ステファノも同様です。もっとも、彼がはっきりと主イエスご自身について語るのは長い説教の終わりの個所、52、53節になってからですが、しかも直接主イエスのお名前を口に出してはいませんが、そこをまず読んでみましょう。【52~53節】。聞いていたユダヤ人指導者たちは、これが主イエスと自分たちのことであることを直ちに理解し、激しく怒ったと54節に書かれています。したがって、ステファノの長い説教はこの終わりの個所に向かっていたということがわたしたちにも分かってきます。彼がアブラハムから始まって、イサク、ヤコブの族長たちについて語っていること、9節からはヨセフとエジプト移住、23節以下ではモーセによるエジプト脱出とダビデ、ソロモンの時代のことを彼は旧約聖書に基づいて説教しているのですが、それらの旧約聖書に描かれているイスラエルの歴史はすべてが主イエス・キリストの福音に向かっていたということ、主イエスによって最後の目標に達したのだということ、それがステファノの説教の結論なのです。それと同時に、しかしユダヤ人はそれを受け入れず、信じなかったということ、この二つがステファノの説教の大きな柱なのです。そのことをあらかじめ確認して、2節からのステファノの説教を読んでいくことにしましょう。

2節から8節では、アブラハム、イサク、ヤコブの3人の族長の信仰について語っています。創世記12章以下に書かれている内容と大筋では一致していますが、細かな点では違いも見られます。きょうは細かな点の違いについては触れません。

 まず、ステファノの説教が族長アブラハムから始まっていることに注目したいと思います。イスラエルの歴史を語る場合、特に主イエス・キリストによってその頂点、最終目的に達するという意味でのイスラエルの信仰の歩みについて語るにあたって、出エジプト時代のモーセと彼に授かった律法から語るのではなく、アブラハムの召命と選びから語るということは、この文脈においては意義深いと言えます。おそらく、ユダヤ最高議会の主たるメンバーである律法学者やサドカイ派の人たちならば、モーセの律法やダビデ・ソロモン時代の礼拝や祭司の務めなどについて触れるに違いないのですが、ステファノはそれらについては一切触れていません。

 彼は説教の冒頭で、神の招きのみ言葉に聞き従った信仰の父アブラハムについて語ります。3節にあるように、「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」。アブラハムはこの神のみ言葉に聞き従いました。ここには、神の召命があります。神の招きと選びがあります。そしてまた、神の招きのみ言葉に従順に聞き従うアブラハムの信仰があります。これこそが神の民であるイスラエルの出発点なのだとステファノは語るのです。ヘブライ人への手紙11章8節に書かれているとおりです。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことをになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです」。

 ステファノはこのアブラハムの信仰と今のイスラエルとの関連性を強調するために、「兄弟であり父である皆さん」と呼びかけ、「わたしたちの父アブラハムが」と語りだしています。およそ千年も前の族長時代とステファノの時代とを結びつけています。イスラエルはこのようなアブラハムの信仰によって神の民としての歩みを始めたのです。神がアブラハムを選び、彼を召し、彼にみ言葉を語り、恵みと救いへの道へと彼をお招きになられた。アブラハムはその神のみ言葉を信じて服従した。この信仰こそが神の民イスラエルの原点なのです。そして、今この時も、同じようにしてすべてのユダヤ人も神の招きを受けているのです。神がメシア・救い主をイスラエルと全世界のためにお遣わしになったからです。そうであるのに、あなたがたはその神の招きに逆らったのではないか、とステファノは51節で言うのです。

 2節の終わりに「栄光の神が現れ」とあります。「栄光の神」とは、この世に存在するものとは思えないような、天からの圧倒的に大きな力と権威と威厳とをもって人間の進むべき道を照らされる神のことです。その栄光の神のみ前では、アブラハムはただ黙々と従うほかにありません。また、そうすることが彼が生きるべき幸いな道なのです。なぜならば、アブラハムには今はまだ何も分からなくても、神ご自身が彼のために最もよい道を備えてくださるからです。彼の行く先にどのような困難が待っていようとも、そこがどのような土地であり、いつそれが自分の所有になるのかも全く知らされていないにもかかわらず、アブラハムは神の招きに従って、故郷を捨て、親族を捨て、それまでのすべての生活を捨てて、行く先を知らずして旅立ちました。これが信仰の父アブラハムの信仰です。

 主イエス・キリストの福音を信じる信仰もこれと同様です。主イエスはわたしたちが罪と死と滅びから救われ、新しい命に生きるために必要なすべてのみわざを成し遂げてくださいました。その主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる信仰によってすべての人が救われます。わたしには何一つ誇りえるものがなく、良きわざもなく、神の律法にことごとく背いているとしても、わたしの今あるがままで、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、神はわたしを義と認めてくださり、罪なき者と見なしてくださるのです。ユダヤ人もまたこの信仰へと招かれています。けれども、彼らはその招きに応えなかったと、ステファノは言うのです。

 まだ見ていないことを信じるアブラハムの信仰はさらに続きます。5節では次のように言われています。【5節】。わたしたちは今並行して創世記を読んでいますから、ここで言われていることについては何度も聞いてきました。アブラハムが最初に神の約束のみ言葉を聞いたのは彼が75歳の時でした。それから彼が100歳になって長男イサクが与えられるまで、彼には子どもがなく、また約束の地の一角をも所有していませんでした。けれども、彼は神のみ言葉を信じ続けました。神の約束の成就を待ち続けました。

 神の約束のみ言葉は、さらには、アブラハムの生涯をも超えて、それのみか、その子イサク、その子ヤコブをも超えて、いやさらに、エジプトでの400年の奴隷と苦難の歴史をも超えて、その先に進みます。

【6~7節】。ここまでくると、アブラハムの信仰とか、イサク、ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたちの信仰とかがここで問題にされているというよりは、彼らの信仰を超えて、神の約束のみ言葉の永遠性、神の救いのご計画の永遠性こそが重要なのだと言うべきでしょう。神はイスラエルのエジプトでの400年間の苦難の歴史を経て、そののちにようやくにして、アブラハムに対する約束を成就されたのです。神はイスラエルの苦難の歴史をとおして、彼らを真実の礼拝の民とされるのです。エジプト脱出は彼らが真実の礼拝の民となるためであったのです。

 わたしたちはここにも主イエスによって成就された真実の礼拝の原型を見るように思います。イスラエルの民は400年間のエジプトでの奴隷と苦難の歴史から解放されて、真実の礼拝の民とされるとここで預言されています。それと同じように、主イエス・キリストのご受難と十字架の死をとおして、「霊と真理とをもって礼拝する」(ヨハネ福音書4章24節)まことの礼拝がわたしたち教会の民のために成就されたのです。ユダヤ人もこのまことの礼拝へと招かれています。しかし、彼らは依然としてエルサレム神殿での古い礼拝にとどまり続けているとステファノは語ります。

 最後に8節を読みましょう。【8節】。割礼は神とイスラエルとの永遠の契約の目に見えるしるしです。神が最初にアブラハムと結ばれた契約は、彼の子孫によって永遠に受け継がれていきます。イスラエルの民は、エジプトで奴隷であった時も、約束のカナンに移り住んでからも、また約束の地を失い、異教の地バビロンで捕囚の民であった時にも、割礼のしるしによって、神との契約の民であることを忘れませんでした。そして今、主イエス・キリストを救い主と信じる教会の民は、洗礼という目に見えるしるしをもって、神との新しい契約に生きる民であることを覚え続けるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとは永遠に変わらず、あなたを信じる民に豊かに注がれます。あなたがお選びになった信仰の民と結ばれた契約も、永遠に変わることなく、み国の完成の時まで続きます。どうか、わたしたちがそのことを信じてあなたのみ前に従順に歩む者としてください。

〇主なる神よ、多くの困難な課題を抱えながら苦悩しているこの世界を顧みてください。その中で、傷つき傷んでいるひとり一人を顧みてください。どうか、あなたの真実と正義と平和をわたしたちにお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月27日説教「主イエスにお仕えした婦人たち」

2022年3月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:サムエル記上1章21~28節

    ルカによる福音書8章1~3節

説教題:「主イエスにお仕えした婦人たち」

 ルカによる福音書8章1節にこのように書かれています。【1節】。「すぐその後」とあり、前の個所との連続性が強調されています。その連続性を考えながら、きょうのみ言葉を学んでいきましょう。

 7章36節以下では、主イエスがユダヤ教ファリサイ派の人の家に招待されて食卓に着いている時に、一人の罪深い婦人が主イエスの足元にひれ伏し、その足に香油を塗った。それを見ていたファリサイ派のこの人は、罪深い婦人の奉仕を受け入れた主イエスを非難した。けれども、主イエスはこの婦人は多くの罪をゆるされたから、このような愛の奉仕をしたのだと言われ、彼女に「あなたの罪はゆるされた」と言われた。その場にいた人たちは罪をゆるす権威を持っておられる主イエスに驚いた。これが、36節以下に書かれている内容でした。

 そこで語られていた内容と8章1節との関連を見ていくと、いくつかのことが分かります。第一には、主イエスが人間の罪をゆるす権威を持っておられることと、主イエスが宣べ伝えられた神の国の福音との関連です。すなわち、神の国の福音とは罪のゆるしと関連しているということです。主イエスの宣教活動は、マルコ福音書1章15節では、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という内容でした。ルカ福音書4章16節以下では、イザヤ書61章の預言の成就として、貧しい人々が福音を聞かされていること、捕らわれている人々に解放が告げられること、主の恵みの年が告げられること、それが主イエスの到来によって今成就しているという内容でした。これらのことすべてが「神の国の福音」の内容です。イスラエルの民が信じてきた神、そして全世界の唯一の神が、ご自身のみ子主イエス・キリストによって、今このような恵みと愛のご支配を始められたのです。そこに、罪のゆるしがあり、罪ゆるされた信仰者の新しい命の歩みがあるのです。7章50節で「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた主イエスのみ言葉に導かれた、わたしたちの新しい歩みがここから始まるのです。

 ここでもう一つ重要な点は、主イエスが宣べ伝えられた神の国の福音をわたしたちが聞くということです。聞くとは、単に耳で情報を得るというのではなく、聞いて、信じ、その信じたことにわたしのすべてを委ね、従うということです。8章ではこのあと、神のみ言葉を聞くということがテーマになっています。主イエスは「種まきのたとえ」をお語りになり、8節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われ、11節では「種は神の言葉である」と説明され、さらに11節で「良い土地に落ちたのは、立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と、また21節では「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と教えられました。

主イエスは「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせた」最初の人でした。神の国のみ言葉の種を蒔いた最初の人でした。そのみ言葉を聞き、信じ、従って生きることによってわたしたちは豊かな実を結ぶことができると約束されています。「あなたの罪はゆるされた。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。この主イエスのみ言葉に聞き、信じ、このみ言葉に生きることによって、わたしたちは神の国の民とされ、永遠の命を受け継ぐ者とされるのです。

 主イエスは神の国の福音を宣べ伝えた最初の人であると言いましたが、主イエスは神の国の福音そのものでもあられます。神の独り子であられる主イエスがこの世においでになったその時から、神の国は始まりました。主イエスとともに神の愛と恵みのご支配が始まりました。主イエスがいますところ、主イエスを救い主と信じる人たちが集まっているところに、神の国が実現します。12人の弟子たちはその神の国の福音に生きる最初の人たちとして選ばれ、主イエスと行動を共にしました。

 弟子たちが選ばれたのはそのためにだけではありません。彼らは間もなく、主イエスによって神の国の福音を宣べ伝える宣教者として派遣されます。9章1節からは12人の弟子たちの派遣について、また10章1節からは72人の弟子たちの派遣について書かれています。神の国の福音を聞くために選ばれた弟子たちは、神の国の福音を宣教する人にされます。ここに、教会が誕生します。教会は、神の国の福音の種を最初に蒔かれた主イエスのみ言葉を聞き、それを信じ、そのみ言葉によって生き、そして、教会が建てられているその地にあって、世の人々に神の国の福音を宣教する務めを果たしていく、そのために選ばれた信仰者の群れが教会なのです。

12人の弟子たちから受け継がれてきた教会のこの務めは、今も変わりません。秋田教会が、この地で宣教を開始した130年前から今に至るまで、またこれからのちも、教会はこの務めを果たしていくことによって生きるのです。

 2節からは、数人の婦人たちが主イエスと行動を共にし、主イエスのために奉仕していたことが語られています。【2~3節】。これは、ルカ福音書にだけ書かれているルカ特有の記事です。ルカ福音書が「婦人の書」と言われる理由の一つです。ルカ福音書では、共観福音書であるマタイ、マルコよりも、あるいは第四福音書と言われるヨハネ福音書と比較しても、婦人たちの活動が数多く記録されています。主イエスは神の国の福音を宣べ伝えるために、12弟子と共に多くの婦人たちをもお用いになりました。

 けれども、主イエスが婦人たちと一緒に宣教活動をされたということは、当時の人々にとっては異常に映ったに違いありません。というのは、当時の社会では婦人は政治や宗教活動から遠ざけられていたからです。宗教的指導者が婦人たちと一緒に行動するということは恥ずべきことだと考えられていました。けれども、主イエスの場合には違っていました。主イエスにとっては、また主イエスが宣べ伝えた神の国の福音にあっては、男と女の違いや区別はなく、民族の違い、貧富や社会的地位、その他どんな人間の違いであっても、それらは全く問題ではありませんでした。すべての人は、主イエス・キリストにあって一つとされ、すべての人は神の国の福音によって罪ゆるされ、救われ、神の国の民をされるからです。使徒パウロがガラテヤの信徒への手紙3章26節以下で教えているとおりです。【26~28節】(346ページ)。

 主イエス・キリストの福音はわたしたちを罪の奴隷から解放し、この世のあらゆる束縛からも自由にします。この世の富や社会的地位や名誉などに縛りつけられている生活からわたしたちを解放し、政治形態や民族、宗教などの違いから生じる対立や争いから社会を解放し、すべての人、すべての国を、神の国の福音の中で、自由と喜びとをもって共に生きる歩みへと導くのです。いわゆる婦人解放運動とか、民族解放運動とか、その他の自由と解放を目指した社会運動のすべても、主イエス・キリストの神の国の福音に基礎づけられている時に、本当の意味での解放となるのです。

 2節と3節に挙げられている婦人たちについて見ていきましょう。マグダラの女と呼ばれるマリアは主イエスによって七つの悪霊を追い出していただいたとありますが、彼女がいやされた記録そのものは福音書には書かれていません。マグダラはガリラヤ湖の西側にあった町で、彼女が「マグダラの女」と呼ばれていたことから、その町でよく名が知られていた婦人であったと思われます。彼女が有名になったのは、第一には彼女がたくさんの悪霊に取りつかれており、その姿がほとんど人間とは思えないような、悲惨で、残酷で、本人にとっても周囲の人たちにとっても、見るに堪えないほどの苦しみと痛みとによって苦しめられていた人であったからです。しかし、彼女を有名にしたのは、それほどの悲惨さと苦悩から、主イエスによっていやされ、救われ、しかも今は主イエスのために喜びをもって、生き生きとしてお仕えしているという、その驚くべき大きな変化を、多くの人が見ていることにもその理由があったと思われます。主イエスが7章47節で言われたように、彼女は主イエスによって多くの罪をゆるされたから、多くの愛をもって主イエスにお仕えするようになったのです。

 マグダラのマリアだけではなく、他の婦人たちも「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」という、大きな感謝をもって、主イエスにお仕えしていました。彼女たちは悪霊の支配のもとで生きる生活から解放され、主イエスの救いの恵みのご支配の中で、その救いの恵みに対する感謝の思いをもって、新しい歩みを始めたのです。

 二人目に名前を挙げられているのは、「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」です。ヘロデとは、主イエスが誕生した時のユダヤの王ヘロデ大王の4人の息子の一人で、洗礼者ヨハネの首をはね、主イエスの裁判に立ち会った、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスのことです。夫であるクザが領主ヘロデに仕えていたことから察すると、社会的地位があり裕福であったと思われますが、その妻であるヨハナが主イエスによって病をいやされ、主イエスにお仕えすることになったのでしょうが、その後夫との関係はどうなったのか、夫は彼女に賛成したのかなどは分かりません。いずれにしても、彼女は今や主イエスが宣べ伝えておられた神の国の福音に生きる信仰者であり、その福音のために自分自身と持っているものすべてを主イエスにおささげする新しい歩みを始めたのです。

三人目の婦人スサンナはここ以外には聖書の中にはその名はありませんが、おそらく初代教会ではよく知られていた婦人だったと思われます。この3人のほかにも多くの婦人たちが主イエスと行動と共にしていたと書かれています。主イエスの一行は少なくとも10数人、婦人たちも含めると20人ほどのグループで、町々村々を移動しながらの共同生活ですから、それを支えるのは経済的にも人的にもそれなりのものが必要だったはずです。幸いにも、これらの婦人たちが「自分の持ち物を出し合って」主イエスと弟子たちを支えていたのでした。彼女たちもまた、このようなかたちで神の国の福音宣教の働きのために仕えていました。彼女たちもまた、「あなたの罪はゆるされた。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」との主イエスのみ言葉によって、新しい歩みを始めたのです。神の国の福音に生きたのです。

ルカ福音書では、この婦人たちはこのあと何度も登場します。主イエスの十字架の場面で、【23章49節】、主イエスの葬りの場面で、【23章55~56節】、主イエスの復活の場面で、【24章8~11節】、彼女たちはそれらの目撃者となりました。彼女たちは主イエスの十字架の証人となり、主イエスの葬りの証人となり、そして主イエスの復活の証人となり、そのようにして神の国の福音のために仕えたのです。わたしたち一人一人も、主イエスの復活の証人として、神の国の福音のためにお仕えするように召されています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは取るに足りない、いと小さき者であるわたしたちを選んでくださり、神の国の福音の奉仕者として立てていてくださいますことを覚え、心から感謝いたします。願わくは、わたしたちをあなたのみ言葉によって強め、聖霊によって武装させ、神の国の証し人としてみ心のままにお用いください。

〇主なる神よ、この地にまことの平和を来たらせてください。人間の罪と傲慢、欲望や邪悪な思いをあなたが取り除いてくださり、あなたにあるゆるしと和解をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月13日説教「イサクとリベカの出会い」

2022年3月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記24章1~32節

    ヨハネによる福音書4章7~15節

説教題:「イサクとリベカの出会い」

 創世記24章は1節から終わりの67節まで、一続きの出来事が描かれています。題をつけるとすれば、「イサクの花嫁探しの旅」となるでしょうか。創世記の中で最も長い1章であり、また最も美しい物語の一つでもあります。紀元前千数百年代の古代近東地方の生活習慣などが生き生きと描かれています。牧歌的であり、また人間味豊かな物語でもあります。

 物語のあらすじをたどってみましょう。年老いたアブラハムが、息子イサクの花嫁のことを心配しています。自分の故郷である北方メソポタミア地方ハランの地に信頼できる僕を送って、息子にふさわしい花嫁を探してくるように命じます。その僕はハランの郊外の井戸で、美しく心優しい娘リベカを選び、彼女の家に行きます。それが、きょう朗読された箇所までです。33節からは、その僕はリベカの兄ラバンと彼らの父ベトエルに、「リベカを自分の主人の息子イサクの花嫁にしたいので許可をください」と頼みます。彼女の家の者たちは「リベカ自身がそう望むのなら、それが神のみ心ですから、そのようにしてよい」と答えます。リベカ自身もそのことを望んだので、僕はリベカを連れて主人アブラハムの家に帰ります。ただし、このあとにはアブラハムは登場しませんから、花嫁探しの数カ月の間にアブラハムは死んだのではないかと多くの研究者たちは考えています。僕とリベカがカナンに着いた時、イサクは野を散策していましたが、僕とリベカが近づいてくるのを見ます。ここで、初めて二人が顔を合わせ、イサクとリベカは結婚することになります。これが24章のあらすじです。今日のわたしたちが考える花嫁探しとはだいぶ異なりますが、あたかも古い時代の小説の1章を読んでいるように感じられます。

 ここには、花嫁探しという日常的な、また人間的な物語が展開されていますが、しかしその中に、静かに、しかし力強く、主なる神がすべての出来事を導いておられ、主なる神が一人一人をみ心のままに動かしておられ、そのようにして主なる神のみ心が成就されていくということを、わたしたちは見逃すことはできません。この章には、神を表す「主」という言葉が、実に20回以上も用いられているのです。

 冒頭のアブラハムと僕の打ち合わせの場面に主なる神がおられます。1節、3節、7節です。ハランの郊外の夕暮れの井戸のかたわらにも主なる神がおられます。12節、26節、27節。主なる神はリベカの家の中にもおられます。31節、35節、50節など。そして、カナンに帰ってから、野原でイサクとリベカが出会う場面、二人の結婚、ここでは「主」という言葉は用いられてはいませんが、そのすべてに主なる神のお導きとみ心があったということを、わたしたちは容易に信じることができます。

 それらの中で、特に印象的なみ言葉を、あらかじめ2か所読んでみましょう。まず、【27節】。そして、【50~51節】。このようにして、主なる神は彼ら一人一人の人生の歩みのすべてを共にいて導いてくださり、人と人との出会いと結婚をみ心によって導いてくださるということを、わたしたちはこの章から繰り返して教えられるのです。

 神は、主の日の礼拝でわたしたちをみ言葉と聖霊とによって新しい命を注ぎ、信仰の道へと導いてくださるとともに、日々の日常のすべての歩みの中でも、家庭にあっても、職場や学び舎にあっても、旅行や病室にあっても、常にわたしたち一人一人と共にいてくださいます。そして、わたしたちのすべての歩みをとおして、ご自身の救いのみわざを進めてくださいます。

 では、24章の長い物語を、いくつかのポイントになる場面を取り挙げて読んでいきましょう。【1節】。この1節が、24章全体とアブラハムの全生涯に鳴り響き、こだましています。「主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになった」。人の一生の終わりにこの1節が書き加えられるならば、その人は何と幸いなことでしょうか。その人の全生涯が「神の祝福」という一字によって包まれていたとしたら、その生涯は何と幸いなことでしょうか。たとえ、試練や迷いの連続であったとしても、多くの痛みや重荷を背負いながらの日々であったとしても、主なる神が共にいてくださり、祝福で満たしてくださったと信じることができるならば、その人の生涯は何と幸いであることでしょう。わたしたちはアブラハム物語りの最初の神の約束のみ言葉を思い起こします。【12章1~3節】(15ページ)。神はこの約束のみ言葉を確かに守られました。アブラハムの信仰による子孫であるわたしたちのためにも、神はこの約束を果たしてくださいます。

 アブラハムは生涯の終わりに近づき、神の約束が彼の子イサクによって子孫に受け継がれていくために、イサクの花嫁探しを僕に命じます。【2~4節】。「年寄りの僕」とは長くアブラハムの家の僕であった15章2節に出てくるエリエゼルであろうと推測されています。アブラハムが一人息子イサクの花嫁の心配をしているのは、年老いた父親としての責任感からだけではありません。アブラハムがここでイサクの花嫁探しを命じるのは、彼と彼の子イサクが、そしてまたイサクの妻となるべき花嫁が、神の約束の担い手となるからであり、神の約束のみ言葉が彼らをとおして成就していくからなのです。

 6節以下で、アブラハムはこう言います。【6~7節】。イサクとその妻とがアブラハムに与えられた神の約束を担っていくことになるのです。そのために、アブラハムは彼に残されている最後の務めを果たそうとしているのです。

ここでわたしたちは、1節に書かれていたみ言葉の真の意味を知らされます。アブラハムの生涯が神に祝福されているのは、彼が神の約束を担っている信仰者であるからです。神の約束のみ言葉が彼と彼の子孫とによって成就されていくからです。神の救いのみわざが彼と彼の子孫とによって前進していくからです。そこにこそ、アブラハムと彼の子孫が神に祝福されている最も大きな理由が、根拠が、土台があるのです。

 アブラハムが彼の僕に命じたイサクの花嫁探しの条件は3つのポイントにまとめることができます。一つは、イサクの花嫁はカナン人であってはならない、アブラハムの故郷であるメソポタミアの北方ハランに住む人でなければならないこと。二つには、イサクが結婚してもハランに移り住んではならない、必ずこのカナンの地に住まなければならないこと。三つには、もし花嫁として選ばれた人がカナンに来ることを望まなければ、僕はこの命令から自由になり、花嫁探しを中止してもよいということ。

 第一と第二の点について少し触れておきましょう。カナンの地で旅人、寄留者として過ごしている遊牧民族であるアブラハム一家にとっては、カナンの地の娘と結婚する方が、今後の生活の安定のためには有利であると思われます。しかし、アブラハムはそうしません。カナンの地の異教の神々を信じている妻を迎えることは、息子イサクの信仰を危険にさらすことになりかねません。妻への人間的な愛によって、神の約束のみ言葉を捨てることにもなりかねません。それを考えて、アブラハムは自分の故郷のハランの地までの長く遠い花嫁探しの旅を僕に命じるのです。イサクは結婚してから必ずカナンの地に住まなければならないというのも、同じ理由からです。「この地をアブラハムとその子孫とに永久の所有として与える」との神の約束のみ言葉が、イサクの花嫁探しの最大の基準なのであり、またその目的なのです。

 僕はらくだ10頭と主人から預かった高価な贈り物を携えて旅に出発します。カナンからハランまでは北におよそ千キロメートルの長い距離で、どんなに急いでも1カ月以上の旅ですが、聖書はすぐに11節から次の場面に移ります。その場面は僕の祈りによって始まります。【11~14節】。僕のこの祈りは、7節のアブラハムの言葉に対応しています。「神がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子の嫁を連れて来ることができるようにしてくださる」。アブラハムとその僕はこの信仰によって行動しています。この信仰と祈りによって、僕の花嫁探しは始められます。すべては神のみ手に導かれて進行していきます。このあと、イサクとリベカの出会いによって結婚が成立するまで、すべては祈りと神礼拝の中で進められていきます。それを追っていきましょう。【20~21節】。

【26~27節】。【31節】。【48節】。【50節】。【52節】。【56節】。【60節】。

 息子の花嫁探し、あるいは一組の男女の結婚という、日常的で人間的な出来事の中に、何と深く主なる神がかかわっておられることでしょうか。わたしたちの日々の歩みの中でも、いつどこにいても神が共におられ、神がわたしの歩みにかかわっておられるということを覚えたいと思います。わたしが家にいても、家を出てからも、喜びの時も、悲しみの時も、生まれて死ぬ時まで、いな、死んだのちにも、神はわたしをとおしてみ心を行ってくださるのです。

 最後に、イサクの妻となるリベカについてみていきたいと思います。16節に、リベカは「際立って美しい」と書かれています。ここでは姿かたちの美しさのことを意味していますが、この先を読み進んでいくと、それが彼女の内面的な美しさでもあるということが分かります。リベカは見知らぬ旅人と家畜にもたっぷりと水を飲ませるために、何度も水を汲みに井戸を往復する労苦をいとわない親切と愛に満ちています。20節と28節には「走って行った」とあり、非常に活動的で、行動的です。25節では、旅人のために喜んで宿と家畜のえさを提供すると申し出ます。そして58節では、両親や兄との別れの悲しみに打ち勝って、「はい、わたしは夫となるべき人が待つカナンに行きます」と、信仰の決断をします。そのすべては、神のみ心に従順に従おうとする信仰から生まれ出る美しさです。イサクの花嫁となるリベカは神によって選ばれました。イサクとリベカは神によって出会い、神によって結婚しました。そのようにして、二人は神の約束のみ言葉を共に担っていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは恵みと慈しみをもって、わたしたちのすべての歩みに共にいてくださいます。あなたと共にある日々こそが、わたしたちの最も大きな幸いです。願はくは、わたしたちが暗い谷間を行くときも、嵐吹く海を渡る時も、あなたのみ心を信じて、平安のうちに歩ませてください。

〇主なる神よ、この世界にあなたによる平和をお与えください。わたしたちの中にある憎しみや怒り、傲慢や貪欲を取り除き、愛とゆるし、分かち合いと共に生きる道をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月20日説教

3月20日説教「完全な犠牲をささげ、贖いをなしとげられた主イエス」

2022年3月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:レビ記16章11~15節

    ヘブライ人への手紙9章11~15節

説教題:「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげられた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ」という箇所について、聖書のみ言葉に導かれながら学んでいきます。

 文章の続き具合から判断されるように、「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ」は、前の「人類の罪のために十字架にかかり」で告白されている主イエスの十字架の意味をより具体的に説明しています。主イエスの十字架の死が、わたしたちの救いにとってどのような意味を持つのかが告白されています。主イエスの十字架の死が、わたしたちの救いのための完全な犠牲であったこと、そしてそれによって贖いが完了したことが告白されています。

 きょうの箇所では、「完全な犠牲」や「贖い」という、聖書の中で用いられる用語がありますので、まずその意味を正しく理解することが重要です。「完全な犠牲」という言葉は、1953年に制定された「文語文」では「全き犠牲(いけにへ)」となっていました。聖書では、「犠牲」と「いけにえ」の両方の言葉が用いられていますが、同じ意味と考えてよいでしょう。

 「犠牲」または「いけにえ」と「贖い」は旧約聖書時代のイスラエルの礼拝形式に関連しています。主イエスの十字架を理解するには、そのイスラエルの礼拝形式を理解する必要があります。そこで、イスラエルの礼拝形式について2、3の点を確認しておきましょう。一つは、イスラエルの民は神を礼拝する民となるためにエジプトの奴隷の家から導き出されたのであり、神を礼拝することは神の民あるイスラエルにとっての原点であり、出発点であり、また目標であったということです。神礼拝は、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から救い出された神の救いの恵みに対する感謝の応答なのです。神への感謝の応答、これがイスラエルの礼拝の第一の意味です。

 この礼拝の第一の意味は、わたしたち教会の民にも受け継がれています。使徒パウロはローマの信徒への手紙12章1節でこのように教えています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。わたしたちが主の日ごとに礼拝堂に集まり、共に神を礼拝するのは、わたしたちが主イエス・キリストの十字架による福音によって罪ゆるされ、救われているという大きな神の恵みに応え、それを感謝するためなのです。

旧約聖書時代のイスラエルの神礼拝においては、祭司や預言者たちによって神の救いのみ言葉が語られ、会衆の感謝の応答として、感謝のささげものがささげられました。神が約束の地カナンへと彼らを導き入れ、それぞれの部族ごとに嗣業の地を与え、その地での豊かな収穫を与えてくださったことへの感謝として、地の初物と家畜の初子(ういご)がささげられます。それに続いて、地の収穫物の十分の一がささげられます。

 羊や牛、やぎなどの家畜の初子をささげる儀式を初子の奉献と言います。最初に生まれた家畜の雄(おす)は、神のものとして聖別され、ささげられなければならないと律法に定められています。それは、初子に続くすべての家畜の命が神のものであり、神から与えられた命であることを言い表しています。家畜の初子を犠牲として、あるいはいけにえとして神にささげる場合には、家畜の首を切り、その血を礼拝堂の祭壇に振りかけました。血は命であり、すべての命が神のものであるから、その命を本来の所有者である神にお返しするためです。

 地の初物や家畜の初子だけでなく、人間の初子(長男)も神のものであり、聖別して神にささげられねばならないと律法に定められています。人間の初子の奉献の場合には、人間の命の代わりに子羊をささげました。これを「贖う」と言います。つまり、本来神に属する長男の命を子羊の命によって神から買い取る、買い戻すという意味です。

 動物を犠牲としてささげるイスラエルの礼拝形式は、血を命として神にささげるほかに、肉は火で焼いてその香りを神にささげました。動物の全部を火で焼いてささげることを焼き尽くすささげ物、あるいは燔祭と言います。これは、神にすべてをささげ尽すという、礼拝者の全き服従を意味していたと考えられます。また、焼いた肉の一部を一緒にささげたパンなどとともに、礼拝者が食べることを酬恩祭、『新共同訳』では和解のささげものと言います。これは、礼拝者が神のみ前で共同の食卓を囲むことによって、ささげ物を受け入れてくださる神との交わりをより豊かにし、具体的にするとともに、礼拝者同士が交わりを深めることを意味していました。今日の聖餐式と同じような意味を持っていました。

 イスラエルの礼拝のもう一つの中心的な意味は、神による罪のゆるしです。感謝の応答という礼拝の意味よりも、こちらの方が本来の、中心的な礼拝の意味だと言ってもよいでしょう。イスラエルの民は、人間が神のみ前では罪びとであり、神の裁きによって死ぬべき存在であるということを強く意識していました。人間は神のゆるしなしでは生きることができない者であると自覚していました。創世記3章に書かれている最初の人間ダムとエヴァが神の戒めに背いて罪を犯し、死ぬ者となったという、いわゆる原罪が、彼らの人間理解の原点です。そこで、彼らの神礼拝は、人間の罪を神がゆるしてくださるように願うことが、第一の最も中心的な要素となりました。

 そのことは、今日のわたしたちの礼拝においても同様です。わたしたちの教会の礼拝も、主イエス・キリストの十字架による救いのみわざに基礎づけられており、この礼拝では主イエス・キリストの十字架による救いを信じ、その救いの恵みを受け取り、またそれに感謝するために、わたしたちはきょうの礼拝に集められているのです。礼拝にはほかにもたくさんの要素がありますが、罪のゆるしこそがその中心です。主イエス・キリストによる罪のゆるしと救いの恵みがないならば、それは真実の礼拝ではありません。

 では、イスラエルの礼拝では罪のゆるしはどのようになされたのでしょうか。それは家畜などの動物を犠牲として、あるいはいけにえとして神にささげるという形式でした。その礼拝の仕方については、レビ記などに詳しく定められています。【レビ記4章1~7節】(165ページ)。これは祭司が罪を犯した場合の定めですが、13節以下ではイスラエル共同体の罪の場合、22節以下ではイスラエルの代表者が罪を犯した場合、27節以下では一般の人が罪を犯した場合も、同じようにして家畜を犠牲としてささげることが定められています。人間が犯した罪のために動物の命を代わりにささげることを贖罪のささげものと言いました。それによって人間の罪が贖われ、罪がゆるされました。

 ここには、罪の結果は死であるという神の厳しい裁きの原則があります。罪とは神との関係を破壊することです。人間は神によって創造され、神の律法、神のみ言葉に聞き従って生きるべきであるのに、それに背いて罪を犯した場合には、神のみ前では生きることができないからです。使徒パウロがローマの信徒への手紙6章23節で言うように、罪の支払う報酬は死なのです。

 けれども神は、人間の罪に対する裁きとして、人間の死を直ちに要求されませんでした。神は憐れみ深い方であられ、罪をゆるされる方であることをお示しになるために、人間の命の代わりに動物の命をささげることをお命じになりました。それを贖罪のささげ物と言います。

 エルサレムの神殿では、毎日祭司によってイスラエルの罪を贖うための動物が祭壇にささげられ、更には年に1回、7月10日の大贖罪日には、大祭司によって至聖所で罪を贖うための動物が犠牲としてささげられました。このようにして、毎日毎日、毎年毎年人間の罪のための贖罪の犠牲がささげられることによって、イスラエルの民は神によって罪ゆるされ、神の民として生きることがゆるされたのです。これが、イスラエルの礼拝の形式でした。

 そのような旧約聖書のイスラエルの礼拝を背景にして、主イエス・キリストの十字架が、「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ」と告白されているのです。その意味を探っていきましょう。

 ヘブライ人への手紙9章と10章では、主イエス・キリストがまことの大祭司となられ、神のみ子としてのご自身の罪のない血を十字架におささげくださることによって、永遠の贖いを全うされ、わたしたちすべての人間の罪を贖い、救ってくださったということを語っています。【9章11~15節】(411ページ)。

 12節に、「ただ一度」という言葉があります。この言葉は、一度だけで完全であるという意味を含んでいます。もはや繰り返される必要がない、一度だけで永遠の働きをする、永久的な効力を持つという意味です。このあとでも、26、27、28節でたびたび用いられています。7章27節にも同じ言葉があります。【7章27節】(409ページ)。

 旧約聖書の時代には、エルサレムの神殿で毎日祭司によって人間の罪のための贖いとして動物の犠牲がささげられていました。動物の犠牲は、人間の命の代わりであり、それはいわば代用品であって、人間の罪を贖うには不完全であり、永続性もなかったゆえに、それは毎日、毎年くり返されなければなりませんでした。それによって、イスラエルは来るべきメシア・救い主の到来によって完成される完全な礼拝を待ち望むようにされたのです。主イエスがヨハネ福音書4章23節で語っておられる、「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」、その時をイスラエルは待ち望んでいたのです。

 しかし今や、まことの大祭司であられる主イエスが来られました。このまことの大祭司は、身代わりとなる動物の命を携えて至聖所に入られたのではありません。父なる神に全き服従をささげられ、ご自身の命を携えて、ただ一度だけ至聖所に入られたのです。そして、動物の命をささげるのではなく、ご自身の命をおささげになりました。もはや、動物の代用品ではありません。罪に汚れた人間の血でもありません。まことの人となられた主イエスが、わたしたち人間のすべての罪の贖いとして、十字架でご自身の神のみ子としての、罪も汚れもない尊い血をささげてくださったのです。その1回の十字架による贖いのみわざによって、すべての時代の、すべての人の、すべての罪が、完全に、永遠に、贖われたのです。主イエス・キリストの十字架を信じる人は、すべてその罪がゆるされ、救われるのです。神による死の裁きから自由にされ、永遠に神との豊かな交わりの中に生かされ、神の国の民の一人とされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪に支配され、死に定められているわたしたちを、み子の贖いによって、罪から解放し、新しい命へと招き入れてくださいました恵みを、心から感謝いたします。わたしたちがあなたの救いの恵みによって生かされていることをいつも覚え、感謝し、信仰の道を従順に歩むことができますように。

〇神よ、この地に主キリストにある和解と平和をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月6日説教「恵みと力に満ちた人ステファノ」

2022年3月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記5章1~10節

    使徒言行録6章8~15節

説教題:「恵みと力に満ちた人ステファノ」

 ステファノは初代エルサレム教会の7人の食卓の奉仕者として選ばれました。使徒言行録6章1節以下によると、エルサレム教会の規模が大きくなり、またさまざまに違った立場の人たちが集まってくるにつれて、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間に日々の食糧の分配で不平等が生じているので、それを解消するために、食卓の世話をする務めを担う人を教会の会議で選ぶことになり、その7人の中に彼が選ばれました。これは一般には今日の執事の職に当たると考えられていますが、きょうの礼拝で朗読された8節以下では、ステファノは12人の使徒たちと同じみ言葉の奉仕者、伝道者の務めを担っているように思われます。7人が選ばれた本来の食卓の奉仕の務めについては、使徒言行録の中ではこれ以後も全く触れられてはいません。もっとも、食卓の奉仕という執事の務めを託されているからと言って、み言葉の奉仕者である必要はないということはありませんので、本来の執事の務めをしながら、伝道者、宣教者の務めをも果たしていたと考えるべきかもしれません。主イエス・キリストの福音を信じて救われ、教会のメンバーとなった信者はだれであれみな神のみ言葉のために仕えるみ言葉の奉仕者であるのは言うまでもありません。

 8節でステファノは「恵みと力に満ち」と紹介されていますが、5節では「信仰と聖霊に満ちている人」と言われていました。ここで挙げられている4つ、「信仰、聖霊、恵み、力」、これらはいずれも父なる神と救い主・主イエス・キリストからステファノに与えられた賜物です。彼が何を持っていたかとか、どんな能力や知識があったかといった、彼自身に備わっていたものについては、ここでは全く問題にされていません。彼の社会的地位や学歴、教養、あるいは彼の性格なども全く語られていません。それらは、彼が執事の務めを果たすにあたって、またみ言葉の奉仕の務めを果たすにあたって、何の条件にもなりません。

 しかしながら、彼が「信仰、聖霊、恵み、力」に満ちているならば、ほかに何が必要となるでしょうか。彼が「信仰、聖霊、恵み、力」に満ちているならば、彼はすべてに満たされているのです。他に何が不足していようとも、彼に何か破れや欠けがあったとしても、彼はすべてにおいて満たされているのです。彼に、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰が与えられ、聖霊なる神によってその信仰の保証として慰めと平安が与えられ、日々新たに神の恵みいただき、その恵みによって生かされ、さらには、何ものをも恐れずに主キリストの福音を語り伝える力と勇気を与えられているステファノ、その彼には何一つ不足はありません。彼はすべてにおいて満たされています。

 8節では、「すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」と紹介されています。「不思議な業としるし」は神の国が近づいていることの確かなしるしであり、また神のみ言葉の説教の力強さを現実化する目に見えるしるしのことです。これは使徒たちに特別に与えられていた賜物でした。12節に、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われていた」と書かれています。さらにさかのぼれば、2章22節には、主イエスによって行われていた「奇跡と、不思議な業と、しるし」のことが書かれていました。主イエスが神の国、神の恵みのご支配による救いの時が近づいていることのしるしとして行っておられた数々の奇跡、不思議なみわざ、しるしが、12人の弟子たち、使徒たちによっても行われ、そしてまたステファノによっても行われたのです。ステファノにも使徒たちと同じ賜物が与えられていました。使徒たちやステファノは、主イエスによって始められた神の恵みの時、神の救いの時の開始を、民衆の間で言い広めたのです。

 ところが、そのステファノの目覚ましい活動を快く思わない人々がいました。【9~10節】。「解放された奴隷」とは、ローマ帝国によって戦争捕虜とされ、後に解放されて自由人となり、エルサレムに移り住んでいるギリシャ語を話すユダヤ人を言います。リベルタンと呼ばれます。キレネとアレクサンドリアはエルサレムの南方、アフリカ大陸の都市です。キリキアとアジア州はエルサレムの北方の州であり、使徒パウロはキリキア州タルソという町の出身でした。アジア州は小アジアのことで、今のトルコであり、使徒パウロの宣教によってエフェソやコロサイに教会が建てられました。これらの都市には、デアスポラと呼ばれる離散のユダヤ人が多く住んでおり、この時代にはエルサレムに移住してくる人たちもかなりいたようです。彼らはほとんどがギリシャ語を話すユダヤ人、いわゆるヘレニストと呼ばれる人たちです。ステファノ自身も恐らくそうでしたから、彼のもとにはヘレニストたちが多く集まってきたことが予想されます。

 ステファノは「知恵と霊」によって語りました。「知恵と霊」、これも神から賜ったものです。主イエスの福音を語る信仰者は自分が持っている人間的な知恵や体験的な知識で語るのではありません。その人には神の知恵と霊が与えられます。また、神の知恵と霊の導きと助けを求めて語らなければなりません。

 ステファノと議論をしたヘレニストユダヤ人たちもまた当時のユダヤ教の指導者たちと同じように、古いユダヤ教の律法や神殿での古い礼拝の枠から抜け出すことができずに、主イエスの福音を信じ、受け入れることができませんでした。同じユダヤ教の中での意見の違いであれば、激しい議論になることがあったとしても、相手を告発して、裁判にかけることまではしないに違いありません。しかし、ステファノとヘレニストユダヤ人たちの対立は単なる理解の違いではありませんでした。そこには、あれかこれかという、決定的な対立があったのです。ステファノが語った主イエスの福音は、古いユダヤ教の教えを廃棄し、律法を福音に変え、エルサレム神殿での礼拝を終わらせ、全世界での教会の礼拝を始めさせる、新しい教え、新しい救いなのです。

 そのことを知ったヘレニストユダヤ人たちはステファノを捕え、ユダヤ最高法院に訴えました。初代エルサレム教会が経験する3回目の迫害です。【11~14節】。

 ヘレニストユダヤ人たちは、神の知恵と霊によって語るステファノに議論では太刀打ちできないと知るや、暴力的な行動や権力に訴えて、ステファノと主イエスの福音を抑え込もうとします。彼らはまず民衆を扇動し、次にエルサレムの権力者たちを扇動し、ステファノに不利な偽りの証言を語らせます。ついにはユダヤ最高法院の裁判の席にステファノを引き出すことに成功しました。ペトロや12使徒たちが経験した2度の迫害と状況は同じです。と同時に、ステファノが訴えられた内容は主イエスご自身の裁判の際の告発と一致します。マタイ福音書26章に書かれている主イエスの裁判では、主イエスを訴える口実に、「あの男は神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができると言った」という証言(61節参照)や、神を冒涜する言葉を聞いた(65節参照)という訴えがなされましたが、ステファノに対しても同じような非難の声があげられています。

 彼らがここでステファノを告発した内容は、悪意に満ちた誹謗中傷ではありますが、全くの架空の作り話では必ずしもないと言ってもよいのではないでしょうか。彼らには正しく理解されてはいませんが、そこには主イエスによって成就された神の真理が含まれているということにわたしたちは気づきます。

第一点として言えることは、ステファノが語った主イエスの福音は、確かにモーセの律法を超えており、律法によって救われる道を否定し、閉ざしているということです。主イエスの十字架の福音は、律法を守ることによって救いに至るというユダヤ教の道の終わりを宣言するとともに、律法によらず、主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという新しい救いの道をすべての人に開いたのです。主イエスの十字架の福音によって明らかにされたことは、だれも律法を守り行うことによっては救われない、律法によっては人間の罪と死とが宣告されるだけである。けれども、神のみ子主イエスがわたしたち罪びとのために律法を完全に成就され、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神に全き服従をおささげになられ、それによってわたしたちを罪から贖い出し、救ってくださった。この福音を信じる人はみな、その信仰によって神に義と認められ、罪ゆるされ、救われる。これが、ステファノが語った主イエスの福音です。ユダヤ人たちがこれを聞いて、モーセの律法を否定した、神を冒涜したと理解したのであろうと思われます。

 もう一点は、主イエスがエルサレム神殿を破壊すると言われたこともまた神の真理だと言えます。主イエスはエルサレム神殿を爆破するとか、暴動を起こして神殿の中を荒らすことを計画しておられたのではありません。神殿での動物をささげる礼拝そのものを無効にされ、終わらせたのです。旧約聖書時代のイスラエルの民は日々の自分たちの罪を神に贖っていただくために、エルサレム神殿で毎日動物の犠牲をささげる礼拝をしていました。主イエスはそのイスラエルの民が目指していた真実の神礼拝をご自身の十字架の死によって完成されたのです。すなわち、ご自身の罪も汚れもない尊い血を十字架で流され、わたしたち人類の罪を完全にあがなってくださったのです。主イエスの一回で完全な贖いのみわざによって、すべての人の罪が永遠にあがなわれ、ゆるされているのですから、もはやエルサレム神殿で動物の血を繰り返してささげる必要はなくなりました。神殿の役割は終わったのです。主イエスはご自身の体である教会をお建てになり、その教会でささげられる霊とまことによる礼拝へと、すべての人をお招きになっておられます。これが、ステファノが語った主イエスの福音です。

 けれども、ユダヤ人たちは主イエスの福音を受け入れず、古い律法の教えと神殿礼拝から離れようとしませんでした。主イエスの福音を信じるためには深い罪の自覚と悔い改めが必要です。古い罪に支配された生き方からの方向転換が必要です。ユダヤ最高法院の構成メンバーである律法学者・ファリサイ派はモーセの律法にしがみついていました。もう一つの構成メンバーであるサドカイ派の祭司たちはエルサレム神殿にしがみついていました。彼らは自分たちの生活基盤が失われることを恐れ、悔い改めることをせず、かえってステファノに対する憎しみと怒りをつのらせました。

 【15節】。ユダヤ最高法院全メンバーの憎しみと怒りの目がステファノに注がれた時、しかし、ステファノの顔は天使のように輝いていました。主イエス・キリストの証人として立つ信仰者のかたわらには、神ご自身が共に立っていてくださいます。たとえ、すべての人がステファノに逆らい、彼を攻撃するとしても、彼は少しも恐れません。たじろぐことはありません。主なる神が彼と共におられ、彼を堅く立たせてくださり、主なる神の栄光が彼を包み、彼を支えているからです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちをあなたのみ言葉の上に堅く立たせてください。世界がどのように揺れ動くとも、世がどのように変化していくとも、永遠に変わることがなく、永遠に恵みと真理とに満ちているあなたのみ言葉を、信じ続ける者としてください。

〇主なる神よ、世界のすべての国、民族にまことの平和をお与えください。和解の道と共に生きる道をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月27日説教「罪をゆるす権威を持っておられる主イエス」

2020年2月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編32篇1~11節

    ルカによる福音書7章36~50節

説教題:「罪をゆるす権威を持っておられる主イエス」

 きょう朗読されたルカ福音書7章36節以下には、一人の婦人が主イエスのお体に香油を注いだという、いわゆる油注ぎのことが書かれています。これとよく似通った油注ぎの出来事は、マタイ福音書26章、マルコ福音書14章、ヨハネ福音書12章にもあります。これら三つは、主イエスのご受難の直前にベタニア村であったという点で一致していますが、細かな点では違いもあり、またルカ福音書とは時期や場所、登場する人物などで大きな違いがみられます。一つの油注ぎの出来事が違ったかたちで伝えられたのか、あるいは二つの出来事だったのかについては分かっておりません。しかし、中心的なメッセージは共通しています。すなわち、主イエスはこの婦人の油注ぎを非常に喜ばれ、その奉仕を受け入れられたという点、それに対して周囲の人たちはこの婦人の行為を無駄遣いだ、不謹慎な行為だと非難したという点、そこで主イエスはこの婦人の油注ぎの真の意味を明らかにされ、主イエスの十字架の福音がそこで語られたという点、これらのことは四つの油注ぎの出来事に共通しています。

 きょうのテキストに入る前にもう一つ確認しておきたいことは、この罪ある婦人の油注ぎの出来事は、すぐ前の34節のみ言葉と関連しているということです。【34節】。これは当時のユダヤ人指導者たちが主イエスを非難する言葉としてここでは紹介されているのですが、この言葉はそのままで主イエスの福音そのものを言い表しているということが、36節以下で明らかにされるのです。すなわち、主イエスは食卓に招かれたら、だれとでも喜んで共に食事をされ、また「罪の女」と言われている婦人の油注ぎの奉仕を喜んでお受けになり、そのことによって、ご自身が旧約聖書で長く待ち望まれていたメシア・キリスト・救い主であられることをここで証しされるのです。主イエスはすべての人を喜びの食卓にお招きになっておられます。主イエスはすべての罪びとたちの仲間となってくださいます。それによって、すべての信じる人を到来する神の国での救いへと招いておられるのです。

 では、【36節】。このファリサイ派の人の名前はシモンであるということが40節で分かります。福音書ではほとんどの場合、ファリサイ派や律法学者は主イエスに反対するユダヤ教の一派として登場しますが、今回は必ずしもそうではありません。シモンは主イエスをユダヤ教の巡回説教者・教師として、ある種の尊敬をもって食事に招待しました。この章の16節に書かれてあったように、主イエスが旧約聖書に預言されていた大預言者ではないかと期待する気持ちもあったということが39節の彼の言葉から推測できます。当時のユダヤ教の教えでは預言者や巡回説教者を食卓に招くことは、特別に称賛される愛の行為、信仰深い奉仕だと言われていましたので、シモンにはそのような自分の行為を誇ろうとする思いもあったのでしょう。彼は最初から主イエスに敵対心を抱いていたのではありませんでしたが、かといって、主イエスから何か教えを乞うとか、主イエスを救い主と信じたいという願いがあったというのでもなかったようです。

 しかし、そうであったとしても、主イエスはシモンを拒否されませんでした。ファリサイ派のシモンと一緒に食事をされました。主イエスは罪びとたちや貧しい人たちと食事を共にされことが多くありましたが、たとえファリサイ派であっても一緒に食事をされることを嫌ったわけではありませんでした。主イエスはすべての人のための救い主であられ、すべての人を終わりの日の神の国での祝宴にお招きになります。貧しい人であれ、富む人であれ、学識のある人であれ、宗教家であれ、すべての人が主イエスの救いを必要としているからです。ファリサイ派シモンもその例外ではありません。

 ところがその食事の席に一人の婦人が入ってきました。【37~38節】。37節の冒頭には、日本語では訳されてはいませんが、「そして、見よ」という言葉があります。何か重要なことが起こる時とか、注意を促す時に、聖書ではしばしば用いられます。ここでは、全く驚くべきことが起こっているのです。当時の慣習によれば、ユダヤ教の教師たちが集まっている場所に婦人が出入りすることは、慎むべきことでした。ましてや、この婦人はこの町でも名の知れた罪深い婦人と言われていた娼婦でした。みんなに軽蔑され、人前に出るのも恥ずべき婦人でした。その婦人が、当時の常識を破って、ファリサイ派シモンの家に入ってきたのです。何のためでしょうか。なぜ、そのような驚くべき大胆な行動に出たのでしょうか。

 37節に、「イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席についておられるのを知り」と書かれています。彼女はシモンに会うために彼の家に行ったのではありません。主イエスがその家におられるのを知ったからです。そして、その主イエスこそが、身も心も汚れている罪深い自分を受け入れてくださる方であり、わたしを罪と悲惨の中から救い出してくださる方であり、それゆえにわたしのすべてをささげてお仕えすべき、まことの救い主であることを信じたからです。その信仰が、彼女を常識外れの、驚くべき大胆な行動をとらせているのです。彼女のすべての恥や恐れを取り除いて、人々の冷たい目や非難の声にも妨げられることなく、主イエスに近づき、あのような行動をする勇気を与えたのです。

 いや、それ以上にここで重要なことは、主イエスがこの罪深い婦人を受け入れられ、その奉仕のわざを喜ばれ、彼女の行動が神の大いなる愛と救いのみわざを証しするものであるとお語りになられたことです。この婦人の油注ぎの奉仕が、主イエスの十字架の福音を指し示していることが、ここで語られているのです。

 ファリサイ派の人はもちろん、ユダヤ教の教師や指導的立場にある人であれば、このようないかがわしい罪の婦人を寄せつけることはしないでしょうし、その婦人に自分の足を洗わせたりするはずはないでしょう。シモンはそう考えました。【39節】。位の高い宗教家であれば、このような罪や汚れから注意深く身を遠ざけるべきであると、彼が考えたのは当然でした。

 けれども、主イエスはそうではありませんでした。主イエスは罪ある婦人を受け入れ、その奉仕を喜ばれました。「彼は罪びとの仲間になった」(34節参照)と非難されるほどに、主イエスは罪びとと共に歩まれました。ここにすでに、主イエスの罪のゆるしがあります。罪びとを招き、受け入れるという主イエスのゆるしがあるゆえに、罪ある婦人の主イエスに対する信仰と奉仕があるのです。これが、きょうのみ言葉の最も中心的なメッセージであり、福音なのです。

 そこで、主イエスは一つのたとえを語られます。【41~43節】。このたとえ話には三つのポイントがあります。一つは、二人とも借金をしている負債者だということ、しかも、それを返済する能力がないということ。二つには、ところがその負債の全額を二人とも帳消しにされたということ、あるいは、二人の負債をすべて免除する人がいるということ。三つには、多くの借金を免除された人が多く愛するようになるということ、多くのゆるしが多くの愛を生み出すということ。この三つのポイントについてさらに深く考えていきましょう。

 主イエスが負債者とそれをゆるす人のたとえを語られる場合、マタイ福音書18章の一万タラントの負債をゆるされた人のたとえでもそうであるように、そこでは常に神と人間との関係が考えられています。つまり、人間はみな神に対して大きな負債を負っている罪びとである。神に背き、神との契約を破って、日々に神に対して罪を重ねている負債者である。しかも、だれもその負債を神に返済することができないということが、これらのたとえではまず最初に語られているのです。

 第二には、その人間の負債を神はすべて無条件で免除し、ゆるしてくださった。そのために、神はみ子主イエスをこの世にお遣わしになられた。主イエスの十字架の死によって、すべての負債を、罪を、無条件で、完全にゆるしてくださった。

 第三には、自分の罪を告白し、悔い改めて神に立ち返り、主イエスの十字架の福音を信じて罪ゆるされた信仰者は、自分がゆるされた罪の大きさを知らされ、罪ゆるされた感謝と喜びをもって神を愛し、神に仕える新しい歩みを始める。これが、主イエスが語られたたとえ話の意味なのです。

 44節にこう書かれています。「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。この人を見ないか」。主イエスはシモンにこの罪深い婦人を見るように命じます。罪多く、だれからも顧みられず、見捨てられていたこの婦人、しかし今、主イエスと出会って、主イエスに迎え入れられ、すでに罪ゆるされた信仰者として主イエスに愛の奉仕をしているこの婦人を見るようにと促しておられます。ここにおいて、罪ある婦人の前に立たされているファリサイ派シモンの不信仰が浮き彫りにされます。主イエスを教師・預言者として尊敬し、食事に招待していながら、自らの罪を悔い改めることをせず、主イエスを救い主として受け入れることをしない彼の不信仰が明らかにされます。

 【48~50節】。44節でシモンに「この人を見ないか」と言われた主イエスは、48節ではこの婦人に対して「あなたの罪はゆるされた」と言われました。いずれも主イエスが主語であり、主イエスが語っておられます。主イエスはここではっきりと罪のゆるしの宣言をされました。この家の主人であるシモンではなく、この家に招かれた主イエスこそが、ここではシモンと罪ある婦人の主であられ、すべての人の罪をゆるす権威を持っておられる唯一の、まことの主なのです。

 いつの時点でこの婦人の罪がゆるされたのかという疑問は重要な意味を持ちません。主イエスがシモンの家におられることを彼女が知って、この家に入ってきた時か、主イエスのみ前に涙を流しながらひれ伏した時か、主イエスの足に香油を注いだ時か、あるいは「あなたの罪はゆるされた」と主イエスが宣言された時か、それらのいずれかを特定することは無意味ですし、するべきではありません。主イエスはいつの時点であっても、この婦人の救い主であられ、すべての人の罪をゆるす権威を持っておられる神のみ子だからです。主イエスがいます所にはいつでも罪のゆるしと救いがあるのです。

わたしたちがそのことを信じて、主イエスにすべてをお委ねする時、どのような状況にあっても、罪ゆるされ、救われた信仰者として、平安な道を進むことができるのです。「安心して行きなさい。あなたの道には主イエスが伴っておられます」。このみ言葉を聞きつつ、わたしたちも信仰の道を進むことがゆるされています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、迷いや罪の誘惑の中にあるわたしたちを憐れんでください。救ってください。主イエス・キリストと共に歩む平安へとお導きください。

〇深く病み、痛み、混乱しているこの世界を、主よ、どうか憐れんでください。あなたからの平和と義をお与えください。いやしと平安をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月20日説教「人類の罪のために十字架にかかられた主イエス」

2022年2月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教・『日本キリスト教会信仰の告白』講解⑩ (駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    コリントの信徒への手紙一1章18~25節

説教題:「人類の罪のため十字架にかかられた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは、「人類の罪のため十字架にかかり」の後半、「十字架にかかり」の箇所について学びます。「十字架」という言葉は、ここと後半の『使徒信条』の中で、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」の2箇所で用いられています。言うまでもなく、両方とも意味上の主語は主イエス・キリストです。

 十字架はキリスト教やキリスト教会を指し示す代表的なシンボル・象徴、目印になっています。建物の屋根に十字架がついていれば、そこが教会堂だとだれにも分かるほどに、十字架=キリスト教ということが一般にも知れ渡っています。形としての十字架がキリスト教のシンボルであるという以上に、十字架はキリスト教の内容、教え、信仰、神学にとって重要な意味を持っています。十字架なしにはキリスト教について語りえません。

 使徒パウロはコリントの信徒への手紙一1章18節で次のように語っています。【18節】(300ページ)。また、22節以下では、【22~24節】。それゆえに、2章2節では、【2節】。パウロがコリントの教会で語った福音、コリントだけでなく、全世界の町々の教会で語った福音は、主イエス・キリストの十字架の言葉、十字架につけられた主イエス・キリストでした。それ以外のことは、何も語らなかったとさえパウロは言います。今日の教会が語るべき言葉も、そしてわたしたちが聞くべき言葉も、それ以外ではありません。十字架の福音はわたしたちの信仰の中心です。

 十字架という言葉は、主イエスの実際のご受難の場面、主イエスが十字架につけられる場面で用いられているだけでなく、ほかにもさまざまな文脈の中で、さまざまな意味が付加されて、深く広い意味で数多く用いられており、新約聖書全体では80回ほどになります。

 十字架は古代社会では、死刑を執行する道具として、アッシリア、ペルシャ、エジプトなどで広く用いられていましたが、それがローマ帝国でも採用されました。主イエスはローマ帝国のユダヤ地方を治める総督ポンティオ・ピラトのもとで、ローマの法律によって裁かれ、十字架刑に処せられました。ユダヤ人は旧約聖書の時代から死刑判決は石打の刑でした。使徒言行録7章に書かれているように、キリスト教会最初の殉教者ステファノも石打の刑を受けました。

十字架刑は犯罪者を木の上にくくりつけ、民衆の前でさらし者にしながら、何日間も放置するので、イスラエルの律法では申命記21章22節以下などに書かれているように、それは主なる神から賜った嗣業である聖なる地を汚すことであり、また木にかけられた者は神から呪われた者となるために、イスラエルにおいては十字架刑は行われませんでした。では、なぜ主イエスは神に呪われたものである十字架刑で処刑されたのでしょうか。

 そのことを考える前に、「主イエス・キリストは人類の罪のため十字架にかかり」という信仰告白の文章そのものを読んで気づくことは、主イエスが十字架につけられたのは、ご自身の罪とか犯罪のためではなかった、人類の罪のためであったということです。人類が、すなわちすべての時代のすべての人間が神に対して罪を犯しているために、本来は罪を犯した人間が自ら神の裁きを受けて死刑を宣告されなければならなかったのに、いわばその身代わりとなってくださって、主イエスが人間たちのすべての罪を背負われて、神の裁きをご自身に受けられ、死刑の宣告を受けられ、十字架につけられたのだと告白されていることが分かります。

 ここには、罪の支払う報酬は死であるという聖書の根本的な考えが背後にあります。最初に神によって創造された人間アダムは、神の戒めに背いて罪を犯したために、死すべき者となりました。人間の死は、人間の罪に対する神の裁きであると聖書は言います。人間は生まれながらにして罪に傾いており、日々に神に背き、神から離れているゆえに、人間は日々に神の裁きによって死を宣告されなければならず、事実、神のみ前では日々に死んでおり、死ぬべき存在であると聖書は言います。そこで、旧約聖書時代のイスラエルにおいては、毎日エルサレム神殿で、罪のあがないのための動物の血がささげられていました。それによって、神の民イスラエルは神から与えられる罪のゆるしによって生きることができたのです。

 主イエスは、イスラエルの民だけでなく、全人類が罪のゆえに受けるべき神の裁きを代わってお受けになり、わたしたちすべての罪のゆるしのために十字架でご自身の罪も汚れもない尊い血を流され、その血によって全人類の罪をあがなってくださったのです。主イエスの死がなぜ十字架の死でなければならなかったのかについて、ガラテヤの信徒への手紙3章13節にはこのように書かれています。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われる』と書いてあるからです」。主イエスの十字架の死は、わたしたち人間の罪がいかに大きいかということ、それゆえに神の怒りと呪いとを受けなければならないということを明らかにしているのです。それはまた、神のみ子がわたしたちに代わってお受けくださった父なる神の厳しい裁きと呪いの大きさ、深刻さをも明らかにしています。

 主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、また父なる神に最も愛されている独り子であられたにもかかわらず、わたしたち人間のすべての罪をご自身が代わって背負ってくださり、わたしたちが受けるべき死の裁きをわたしたちに代わって受けてくださいました。しかも、神に呪われた者としての最も厳しい裁きを受けて十字架で死んでくださったのです。それは、イスラエルの民を律法の呪いからあがない出すためであり、すべての人間を罪の支配から解放するためであり、すべての人が主イエスを信じる信仰によって救われる道を切り開くためであったのです。これが、主イエス・キリストの十字架の死の第一の、中心的な意味です。

 ここでわたしたちは、きょうの説教の冒頭で少し触れたこと、『日本キリスト教会信仰の告白』の中で「十字架」という言葉が2回用いられているという点について改めて注意を向けて見たいと思います。そうすると、前文で告白されている「十字架にかかり」と後半の『使徒信条』の中の「十字架につけられ」には微妙な違いがあることに気づきます。「十字架にかかり」の主語は、「主は」と言われている主イエス・キリストであることはすぐに分かります。「十字架につけられ」の方は受動態ですから、十字架につけられたのは主イエス・キリストですが、だれがそれを行ったのかは、はっきりとは語られていません。「ポンティオ・ピラトのもとで」とその前にありますので、ピラトがローマ総督として、ローマの法律に従って裁き、判決を下したということなのか、けれども福音書の記述によれば、ピラト自身は主イエスに何の罪をも認めなかったので釈放しようとしたが、ユダヤ人民衆の「彼を十字架につけよ」との声に負けて、しぶしぶそれを許したということからすれば、主イエスを十字架につけたのは実質的にはユダヤ人、その指導者であった長老、祭司長、律法学者たちであったと言えるのかもしれません。

 しかし、聖書が意味上の主語を省略して受動態で表現するとき、その多くは神が隠された主語であるということを前にもお話ししましたが、この場合にも本来の主語は神であると考えるべきです。そうすると、『使徒信条』の方では、主イエス・キリストの十字架の死は本来神のみわざであり、神の救いのご計画の中にある神の行為であると告白されていることになります。それに対して、前文の方では、明らかに主イエスご自身が主語ですから、主イエスご自身が主導的に十字架への道を選ばれ、その道を進まれたということが告白されていることになります。

 実際に、聖書ではその両方が語られています。福音書によれば、主イエスは3度にわたって受難予告をされました。マルコによる福音書8章31節にはこのように書かれています。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。主イエスの十字架の死はユダヤ人やローマ人、あるいはだれかの陰謀とか、誤った判断とかによって、人間の側の悪しき力が働いて起こったことなのではなく、もちろん人間のすべての罪と悪とがそこに集約されているのですが、それ以上に、そこには主イエスご自身の固い決意があるのです。主イエスは十字架の死への道をご自身で選び取られ、その道を進み行かれたのです。

 それはまた同時に、主イエスの父なる神への徹底的な服従の道でもありました。神は人間の罪を救うために、ご自身の最愛の独り子を十字架にささげられたのです。ヨハネによる福音書3章16節にあるように、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この神の大いなる愛が、全人類を罪から救うのです。父なる神の救いのご計画とみ子主イエス・キリストの十字架への道は完全に一致して、わたしたちの救いを完成するのです。

 ペトロの手紙一2章22節以下にはこのように書かれています。「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりませた。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなた方はいやされました。あなた方は羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。ここにも、義なる神の救いのみ心と、それに徹底して服従された主イエスのご受難と十字架の死ヘの道が、わたしたちの救いのためであったことが教えられています。

 ここにはまた、主イエスの十字架の死だけでなく、わたしたちの死についても語られています。わたしたちもまた主イエス・キリストと共に、十字架につけられ、罪に対して死ぬのだと言われています。主イエス・キリストの十字架の死は全人類の罪のため、全人類を罪から救うためであったとともに、否それ以上に、わたし自身のための十字架であり、わたし自身が十字架につけられて罪の自分に死ぬためのものであったと、ここでは教えられています。わたしもまた、信仰によって、主イエスと共に十字架につけられ、古い罪に支配されていたわたしが死ぬのです。それによって、罪の力はもはやわたしを支配することはなく、主イエスが十字架の死によって勝ち取ってくださった義が、信仰によってわたしの義となり、神は罪あるわたしを罪あるままで義と認めてくださり、わたしに無罪を宣告してくださるのです。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙6章で、主イエス・キリストの十字架の死と復活を、わたしたちが受ける洗礼との類比で語っています。最後に、ローマの信徒への手紙6章6節以下を読みましょう。【6~11節】(281ページ)。主イエス・キリストの十字架の福音を聞くことはわたしが死ぬことであり、またわたしが生きることでもあるのです。生きるにしても死ぬにしても、わたしは十字架の主イエス・キリストのものです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださり、またわたしたちが罪ゆるされた新しい命に生きるために三日目に復活された主イエス・キリストを常に仰ぎ見つつ、信仰の道を歩み続けることができますようにお導きください。あなたが終わりの日に授けてくださる勝利の冠を待ち望みつつ、喜びと希望をもって、信仰の道を前進させてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月13日説教「サラの死と埋葬」

2022年2月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記23章1~20節

    ヨハネによる福音書19章38~42節

説教題:「サラの死と埋葬」

 創世記23章には、アブラハムの妻サラの死と、彼が妻を葬るためにヘブロンの地にあるマクペラの畑と洞穴を購入したことが描かれています。

 まず、1~2節を読みましょう。【1~2節】。創世記12章から始まる族長アブラハムの物語の中で、サラの127年の生涯を簡単に振り返ってみましょう。アブラハムが75歳、サラが65歳の時、二人は神の約束のみ言葉に導かれ、故郷を出て、カナンの地へとやって来ました。神の約束のみ言葉は直接にはアブラハムに語られていましたが、その約束を担うのはサラも一緒でした。彼らが一緒に旅立ったのは、夫婦であったからという理由によるだけではなく、共に神の約束を担っていくためでした。神の約束はこうです。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたから生まれる子孫を星の数、砂の数ほどに増やす。あなたはこれらの国民の祝福の基となる。そしてまた、わたしはこのカナンの地をあなたとあなたの子孫に永遠の嗣業として受け継がせる」。この神の約束は二人が一緒でなければ成就されません。この時から、アブラハムとサラは共に神の約束の成就を待ち望む夫婦として、一緒に信仰の道を歩んできました。

 そして、アブラハムが100歳、サラが90歳の時、人間的には子どもが授かる可能性は全くなくなってから、神の奇跡によって長男イサクが与えられました。イサクが3歳ころになって乳離れしたあと、21章9節でサラについての言及があってからは、彼女はしばらくの間舞台から消えていました。きょう朗読された23章1節で、彼女が127歳で地上の歩みを終えるまでの30年以上の間、聖書は彼女について語りません。アブラハムの子イサクを産んで、神の約束のみ言葉が成就したことで、彼女の務めが終わったからでしょうか。彼女のその後の30数年間は、いわば御用済みの年月だったのでしょうか。

 いや、そうではありません。神は彼女に対する約束を成就された後にも、なおもその約束の成就を超えて、それに増し加えるようにして、祝福された30数年間を彼女にお与えになられたのだと、わたしたとは理解すべきです。なぜならば、その空白の30数年間ののちの彼女の死にもまた、神の尊いみ心があり、神の約束のみ言葉の成就があるということを、わたしたちはこの23章から読み取ることができるからです。神は彼女の死に至るまでの全生涯を導かれ、祝福されました。いや、彼女の死をも超えて、救いのご計画をお進めくださったのだということを、わたしたちはここから教えられるのです。

 そのことを学ぶ前に、わたしたちはサラの死そのものに目を向けたいと思います。死はその人にとって地上の歩みの終わりです。それだけでなく、サラの死はアブラハムにとって夫婦の関係の終わりでもあります。一緒に困難な地上の旅路を、文字どおりの旅人、寄留者として歩み続けてきた二人の共同生活の終わりでもあります。それはまた、二人で神の約束を担ってきた信仰共同体であるアブラハムとサラとの別離の時でもあります。アブラハムはサラの死の意味の大きさを思い、胸を打ち、嘆き悲しみました。

すべての信仰者にとっても、愛する者の死は大きな悲しみであり、痛みです。それは、創世記3章に書かれているように、罪を犯して神に背いたアダムとその子孫であるすべての人が神から受けなければならない厳しい裁きだからです。創世記3章19節にこのように書かれています。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返る時まで。お前がそこから取れれた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」。すべての人はこの死という神の裁きから逃れることはできません。信仰の父アブラハムもまたこの厳粛な事実の前で、泣き崩れるほかにありません。

 けれども、彼はいつまでも泣き崩れているのではありません。3節に、「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり」と書かれています。ここには、何か象徴的なというか、深い意味が含まれているように思われます。アブラハムは死とその悲しみの中から立ち上がります。死がどんなに冷酷であり、神の厳しい裁きであるとしても、アブラハムはその前で希望を失って、いつまでの嘆き悲しんでいるのではありません。死を恐れ、死の前で敗北してしまうのではありません。そこから立ち上がります。

死から新しい命を生み出される神が、ここで働いておられるのではないでしょうか。神がアブラハムに死の中から立ち上がる力と希望とをお与えになったのだと、わたしたちは大胆にそのように言ってもよいのではないでしょうか。アブラハムは、神がサラの死を超えてさらに救いのみわざを前進させてくださることを信じたのだと、大胆に推測してもよいのでないでしょうか。

神の約束を共に担ってきたアブラハムとサラにとって、サラの死がどのような意味を持つのかを考えてみると、そのように推測することが間違ってはいないことがより確かになると思われます。サラはすべての信仰の民の母であると17章16節で言われていました。アブラハムがすべての信仰者の信仰の父と言われるように、サラはのちの世のすべての信仰者の母です。なぜならば、サラはアブラハムと共に神の約束のみ言葉を担い、サラとアブラハムによって神の約束が成就されたからです。そのサラとアブラハムから生まれた子孫に神の祝福が受け継がれているからです。そのサラが死にました。では、サラの死によって、神の約束は無効になるのでしょうか。いやそうではありません。サラの死を超えて、神の約束は彼女の子孫に永遠に受け継がれていきます。神の祝福は信じる信仰の民に永遠に受け継がれていくのです。神は確かに死から新しい命を生み出される神であられます。

神の祝福がサラの死を超えて、サラの子孫に永遠に受け継がれていくだけではなく、神の約束の地もまた、サラの死を超えて、サラの子孫に永遠に受け継がれていくということを、わたしたちは続けて聞くことになるでしょう。アブラハムがサラの死の中から立ち上がって、ヘブロンの地に住むヘトの人々から、サラを葬るための墓として、その地の一角を購入したことによって、「わたしはこの地をあなたとあなたの子孫とに永遠の嗣業として受け継がせる」との神のもう一つ約束がここで成就されるということを、わたしたちはこのあとで聞くことになるのです。まだ、カナンの全地ではありませんが、ほんの一角ですが、アブラハムは神の約束の地を所有するようになるのです。妻サラの死によって、そのことが実現していくのです。

アブラハムが妻サラの墓を購入するためのヘトの人々との交渉は4~15節まで続いています。ここには、当時の土地売買の慣習があると言われています。土地を持たない、外国からの放浪の民である族長アブラハムが土地を手に入れることは、そんなに容易ではありません。土地の所有者とその地方の部族全体の承認を得なければなりません。またここには、土地を売る側と買う側の商売上の駆け引きがあり、両者のやり取りが生き生きとした会話として描かれています。

土地の所有者であるヘトの人々とその土地を実際に所有していたエフロンは、できるだけ高値で売ろうとしています。土地を買う側のアブラハムは、寄留者である自分には土地を所有する権利は全くありませんので、できるだけ頭を低くして、相手の機嫌を損なわないように、礼儀を尽くしつつ、エフロンが土地を売ってもよいと申し出るように、またエフロンの側からなるべく安い値をつけてくるのを待っています。

11節で、エフロンが自分の土地はただで差し上げますと言っているのは、本気でそう言っているのではなく、気前の良さを見せることによって、かえって相手に恩義を押し付けようとする当時の商売上の手法だと考えられています。エフロンはそう言いながら、最終的には銀400シェケルというかなりの高値でアブラハムに買わせることに成功しました。この交渉では、エフロンの方がアブラハムよりも上手だったと言えます。

次に、【16~20節】。ここには、アブラハムが妻サラを葬るために購入した墓の場所が「マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑とその洞穴」であったことと、その場所が正式な商取引によって、確かな法的手続きによって「アブラハムの所有」となったこととが、繰り返して語られています。また、19節では、その土地が「カナン地方」の地であり、神の約束の地であることが暗示されています。わたしたちはここで、確かに神の約束のみ言葉が成就していることを確認するのです。「わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える」(17章8節)との神の約束のみ言葉が、今ここで、アブラハムがサラの墓としてカナンの地の一角を所有したことによって成就したのです。まだ、ほんの成就の初めにすぎないけれども、確かな成就であるのをわたしたちは見るのです。

そして、その墓には、後になって25章9節に書かれているように、アブラハムもまた葬られ、35章29節ではアブラハムの子イサクが葬られ、49章31節ではイサクの妻リベカとヤコブの妻レアが葬られ、50章13節ではヤコブが葬られることになったのでした。

宗教改革者カルヴァンはこう言っています。「族長たち自身は無言になってしまったが、彼らが葬られた墓は声高く叫んでいる。約束の地を手に入れるのに、死は少しも妨げにならない」。わたしたちはさらにこう言ってよいでしょう。サラの死によってこそ、族長たちの死によってこそ、あるいは彼らの死を超えて、神の約束のみ言葉は成就するのだと。

ここでわたしたちは一人の人の死によって神の救いの約束が成就したということを強調して語るべきでしょう。神の約束は死によっても無効になることはありません。否むしろ、死を通してこそ神の約束は成就されていくのです。アブラハムはサラの死によって神の約束の地を受け継ぐ者となりました。神の約束は死を超えていきます。「わたしはあなたとあなたの子孫を永遠に祝福する。わたしたあなたとあなたの子孫とに約束の地を永遠に受け継がせる」。この神の約束のみ言葉は、サラの死を超えて、またアブラハムや他の族長たちの死を超えて、実現されていくのです。

そして、わたしたちは一人の人、主イエス・キリストの死と復活によって、すべての人のための救いが実現されたということを、最後に言わざるを得ません。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、信じるすべての人たちに神の祝福が与えられ、罪のゆるしと、来るべき神の国の世継ぎとされるとの約束が与えられていのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはみ子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、全世界のすべての人たちのための救いを成就してくださいました。あなたの救いの恵みは、時を超え、場所を超え、この世のすべての山や谷を超えて、前進していきます。どうか、全世界のすべての人々があなたの救いの恵みに目が開かれ、その恵みにあずかることができますように。

〇憐れみに満ちておられる天の父よ、この世界を顧みてください。深く病んでいるこの世界、傷つき、痛みと困窮の中にある多くの人々を、どうかあなたが憐れんでくださり、救いといやしを、慰めと平安をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。